2009/11/08

2009読書の秋

  今週は6日出勤だったので、このコラムを書く暇がありませんでした。 しかし、毎週日曜に、ここを読むのを日課にしている方もいると思うので、最近読んだ本の、感想というか、紹介というか、批評を並べておきます。 依然として動物関連が多いですが、他の物も幾分混じっています。






≪ネコの行動学≫
  これは、本格的な学術書です。 イエネコを始めとする、ネコ科の動物が見せる様々な行動を観察し、詳細に記録したもの。 本というより論文に近い書き方で、読み物としては取り付き難いですが、科学的な信用度は極めて高いです。 本来、科学書とはこうあるべきものなのでしょう。 この本を読むと、ネコ科の動物が、正統派の肉食獣であり、イエネコといえども、その血が脈々と流れているのだという事を再認識させられます。 ネコが獲ったネズミを飼い主に見せに来るのは、誉めて欲しいからではなく、飼い主を仔猫だと見做していて、獲物の獲り方を教える為なのだそうです。





≪記憶とは何か≫
  これは、動物関係ではなく、脳科学の本です。 ほぼ定説として世に受け入れられている、≪大脳機能局在化論≫を否定する為に書かれた本。 「大脳は、≪言語野≫とか、≪運動野≫のように、特定の部位が、特定の機能を司っている」というのが、≪大脳機能局在化論≫ですが、それに対し、この著者は、「一つの機能には、脳全体が関わっている」という説を、脳科学の歴史を辿りながら、読者を説得するように展開して行きます。 この本だけ読むと、こちらが真理のように思えてしまいますが、あくまで、この著者の自説であり、学界全体に認められているわけではないようです。





≪非対称の起源≫
  「なぜ、右利きの人間の方が多いのか?」とか、「心臓が左にあるのはなぜか?」、「左側通行の国が、多数派ではないにも拘らず、いつまでも無くならないのはなぜか?」といったような、右と左に関する問題が、たくさん詰め込まれています。 一見、如何物的なテーマですが、純然たる科学書で、知的好奇心をいやが上にも掻き立ててくれます。 左右の起源を、小はアミノ酸から、大は宇宙まで遡って行く展開は、極めてダイナミック。





≪脳研究の最前線・上≫
  ≪理化学研究所・脳科学総合研究センター≫に所属する学者数人が、一人一章担当という形で共同執筆した本。 題名の通り、脳研究の様々なジャンルに於ける最新の成果を紹介してあります。 だけどねー・・・、この本を読んだのは、もう一ヶ月以上前になるんですが、どんな内容だったのか、ほとんど忘れてしまったのですよ。 すでにどこかで読んだような事ばかりだったので、印象に残らなかったのでしょう。 ただ、内容が薄いというわけではありません。 執筆者一人分の文章量はかなりあって、脳に関する本を初めて読む人ならば、読み応えは充分あると思います。





≪脳研究の最前線・下≫
  こちらは下巻。 上巻とは別の学者数人が共同執筆しています。 上巻があまり面白くなかったので、下巻はパスしようかと思ったのですが、副題に≪脳の疾患と数理≫とあったため、精神病について何か知見を得られるかと思って借りてみたのです。 しかし、一応読んだものの、今思い返すと、やはり何が書いてあったのか、全然覚えていません。 章ごとにテーマがバラバラだと、記憶に残り難いみたいですな。 似たような表紙イラストですが、よく見ると微妙に違います。 間違い探しか?





≪海の友だちアザラシ≫
  旧西ドイツで取り組まれた、迷子になったアザラシの仔を保護し海に返す活動を記した本。 アザラシの母乳は、牛乳よりずっと脂肪分が多くて、人工ミルクを完成させるまでに、相当な試行錯誤があったそうです。 この本の原書は、30年くらい前の出版で、毛皮目当てのアザラシ猟の生々しい記述なども出てきて、気分のいい話ばかりではありません。





≪オコジョ≫
  題名の通り、オコジョについて書かれた本です。 オコジョというのは、イタチの仲間ですが、サイズが小さくて、尻尾を入れても、20センチくらいしかないらしいです。 北半球全域に分布していて、日本にも北国の高山に棲んでいるとの事。 棲息地が特殊なために、日本ではオコジョの研究者はほとんどいないとかで、外国の文献を参考にして書いたそうですが、ページ数が少なく、一冊の本にするにはボリュームが足りない感じがします。





≪イタチとテン≫
  こちらも、同じ著者の本ですが、≪オコジョ≫とは違って、著者自身の研究成果が、かなり含まれています。 イタチは誰でも知っていますが、テンというのもイタチの仲間です。 この種の動物の毛皮というのは、寒い所に棲んでいるものほど、上質になるのだとか。 そういった雑学に近い知識が掻き集められていますが、≪オコジョ≫同様に、この本もページ数が少なく、読み応えはあまりありません。





≪野外鳥類学への招待≫
  アメリカの鳥類学者が書いた、アマチュア研究家向けの指導書。 個々の鳥について、薀蓄が書かれているわけではないので注意。 「アマチュアは、野鳥の観察だけから生態を推察して終わる事が多いけれど、今の鳥類研究は、実験を通じて仮説を証明する科学的方法を取らないと、学界に影響を与えるような成果は出せませんよ」と説き、様々な実験方法を具体的に紹介しています。 日本には、こういう本は無く、だから、翻訳したらしいのですが、アマチュアにもこのレベルを求めるアメリカ鳥類学界の質の高さには驚かされます。





≪鳥の雑学がよ~くわかる本≫
  こちらは、鳥関係の雑学書。 学者ではなく、野生動物の映像作品を作っている鳥好きの人が書いた本。 言わば、≪準・専門家≫といったところでしょうか。 特徴的な生態を持つ鳥を、数十種類取り上げて、紹介しています。 著者独自の研究も含まれていますが、いい意味でも悪い意味でも、学術的というほど、硬い内容ではないです。 この種の概説書はたくさん出版されているので、評価が難しいですが、鳥類学の面白そうな所だけ集めてあるので、読み易い点は宜しいですな。



  以上、今回は10冊まで。 簡単な解説ばかりですが、何せ暇が無いので、ご容赦。 これらすべて、会社で休み時間にコツコツ読んだものです。 家では、気が散ってしまって、全然読めませんから。 読書を捗らせるには、「他にやる事が無い」という環境が必要なんでしょうなあ。 刑務所に入る刑罰には、≪禁固刑≫と、≪懲役刑≫がありますが、無知・無教養が原因で罪を犯してしまった受刑者の為に、≪読書刑≫というのを設けたら、精神が涵養されて、更生に効果があるのではないかと思います。

2009/11/01

穀潰し管理職


  10月に入ってから、俄かに仕事が忙しくなり、毎日残業が2時間半だの3時間だのと、非常識極まりない長時間労働となったため、はっきり言わせて貰って、こんなコラムなど書く暇は無くなってしまいました。 まったく! どうせ国の減税政策が終われば、ドッカーンと爆発的に生産が落ちるのは分かっているのであって、なんで今、集中的に、こんなに苦しい思いをさせられにゃならんのか、さっぱり分かりません。

  しかも、いつもの手で、わざとラインを停止させて、残業時間を延ばしている疑いあり。 4月から9月まで、毎日定時前に仕事が終わっていた為に、ざっくり減った収入を、ここへ来て生産数が増えたのを利用し、怒濤の残業で一気に取り戻し、年収の目減りを防ごうという魂胆なのでしょう。 頭に来るのは、そういう事を企んでいる奴らが、現場でヒーヒー働いている人間ではなく、会社へ来るなり詰所にしけこんで、椅子にのけぞって、何の仕事もせず、時間が過ぎるのを待っている穀潰し野郎どもだという事です。

  よく、「日本の製造業は、極限まで無駄を省いた生産を行なっている」とか何とか言って、「乾いた雑巾を更に絞る」などと、いかにも企業神話めいた持ち上げ方をするエコノミストがいますが、冗談も休み休み言うべきですな。 偉そうに講釈並べる前に、自分が期間工にでもなって、どこの工場でもいいから半年くらい勤めてみなよ。 自分の目で現場を見てみりゃ、そんな寝言、小声で呟く気もなくなるから。

  日本の工場では、働いている人間と、働いていない人間がパックリ二つに分かれます。 働いているのは、まだ出世していない若手か、出世できない終身ヒラ工員か、最初から出世する気が無い人間性が強い人間かのいずれかです。 一方、働いていないのは、出世して現場から離れた連中です。

  終身雇用や年功序列といった制度こそ、すでに崩れていますが、残業終了後も会社に残って、私生活を犠牲にする事を厭いさえしなければ、自動的に出世するシステムになっているので、年を経るごとに、働く人間は減り続け、働かない人間は増え続けます。 会社の組織は、ピラミッド状になっているので、上に行くに従いポストが少なくなり、毎年増える出世組は、やがて飽和してしまいます。 すると、今度は同じ肩書きの人間が増え始めます。 組織の末端を細分化し、無理やり≪○長≫のポストを作って、分け与えるしかなくなるんですな。

  私の勤め先なんて、凄いですよ。 私が入社した20年前には、1人でやっていた役職を、今では、5人で分け合っています。 全体の仕事量が増えているわけではないので、1人当たりの仕事量が5分の1になっているのです。 それでも、○長は○長で、≪偉さ≫は変わりません。 現場工員とその一段上を除き、全ての段階のあらゆるポストに、この多重化現象が起きており、所在無い中間管理職ばかり、うぞろうぞろと社内をうろつき回っています。 仕事が少ないので、時間を持て余し、詰所に隠れているか、ポケットに手を突っ込んで目的地も無く歩く回っているかのどちらかしかできないんですな。

  「それは、中間管理職のワーク・シェアリングなのでは?」と思うかもしれませんが、全然違います。 とんでもない! この連中、仕事はしてないけれど、給料は○長相当分をしっかり貰っているのです。 もちろん、現場工員よりずっと多い金額を取っています。 シェアリングであれば、仕事が少なくなるのに合わせて給料も減って然るべきですが、そうではないのです。 だーから、穀潰しだって言うのよ。 そして、バブル崩壊後15年くらい新入社員が入って来なかった事情もあり、今や、正社員の内、半数近くが、この穀潰し管理職になっています。

  会社も馬鹿だねえ。 出世したい奴をどんどん出世させて行ったら、一体、誰が働くんだよ。 大体、工場なんてのは、現場が第一なのであって、管理職なんていらないんだよ。 物を作らなきゃ一円にもならないんだからさ。 物を作るのは誰だ? 管理職か? 違うだろ? 工場で出世を目指すというのが、そもそも奇異なのではありますまいか。 肉体労働のきつさから解放されたくて出世を望む者が多いですが、工場に於いては、肉体労働が利益を生むわけですから、それから解放されたいという事は、工場にとって必要ない存在になりたいと願っているようなものではありませんか。

  この連中、「いてもいなくてもいい奴ら」なら、まだ可愛気があるですが、仕事はせずに高給だけふんだくっているわけで、明らかに、「いない方がいい奴ら」になっています。 いても、会社には何の利益も齎さず、給料を持って行く分、損害だけを与えているのですからね。 それが、社員の半分を占めているというのが、どれだけの無駄か想像つきますか? 実際問題、この穀潰し管理職どもを全員クビにしたとしても、翌日も工場は何の問題も無く稼動するでしょう。

  無駄、無駄、無駄っ! 無駄が服を着て歩いているのが、日本の製造業の現場なのです。 そして、会社は、契約規定上、その穀潰しどもをクビにする事ができないのです。 定年になるのを待つか、病気や事故で死ぬのを待つか、何か天啓でも受けて、自分から辞めてくれるのを待つか、いずれにせよ待つ事しかできず、どんなに会社の業績が悪化しようが、赤字の山が築かれようが、倒産が目前に迫ろうが、この無駄な連中を切り捨てる事ができません。 やれやれ、えらい奴らを育てたものよのう。

  当人達も、自分が何の仕事もしていない事は認識していますが、悪びれた様子は小指の先ほども感じさせません。 それどころか、その待遇を、自分の有能さに対する評価だとか、今までの貢献に対する会社からのご褒美だとか、手前勝手に解釈して、現場工員に対して優越感に浸っている始末。 笑ってしまうではありませんか、会社に必要無い人間が、必要な人間に対して優越感を抱いておるのですよ。 アホか? ボケとんのか? 文字通り、何様のつもりじゃ、おどれりゃ?

  ただ、僅かですが、自分の宙ぶらりんな立場にいたたまれなくなって、役職を返上し、現場工員に戻る人もいます。 いや、戻る気になれば、それは当人の一存で出来るのですよ。 誰も止めやしません。 こういう人達は、出世組からは軽蔑され、非出世組からは異端扱いされ、その後、寂しい会社生活を余儀なくされますが、心ある者からは、「よく、無意味なポストへの執着を断ち切った」と評価されます。


  まあ、こんなのが実情なわけですよ。 工場でなくても、事務や営業の現場にも、似たような状況が発生しているんじゃないですかねえ? どこにでもいるでしょう、何の仕事もしていないのに、なぜか上で威張っている、穀潰しのクズ野郎が。 会社には、生物と同様に老化や寿命があって、発足から年月が経つに連れ、組織が劣化してきます。 ワンマンだった創業者が死んでしまって、会社の方針が定まらなくなったとか、他社と合併したら、気風が合わずに、組織がぐじゃぐじゃになってしまったとか、生き物的な弱点が多々見受けられるのは、実に興味深いですな。 そして、どの組織でも起こるのが、この穀潰し管理職の増殖なのです。

  こいつらをクビにできる方法がみつかれば、企業の利益は、即座に、倍になりますよ。 間違いないっす。 リストラを断行している所でも、クビを切られるのは、ヒラじゃなくて、高給を取っている管理職でしょう? 会社も個人と同じで、追い詰められると、真実に目を開き、誰が会社に利益を齎し、誰が損害を及ぼしているか、見分けられるようになるわけですな。

2009/10/25

漢字の枠


  常用漢字の追加案や、その修正案などが、時折、新聞に出ますが、感想はいつも同じで、「え! こんな字が今まで入っていなかったの?」というものです。 私だけでなく、ほとんどの人が、そう感じていると思います。 そして、「あれ? それじゃあ、自分が普段使っている字は、常用漢字じゃなかったんだ」と、何やら、警察署の前でスピード違反したような、ほとんど収入が無い青年が確定申告をパスして脱税の罪悪感に苛まれるような、微妙に不安に襲われるのです。

  しかし、不安がる必要など全然ありません。 なぜなら、常用漢字という枠自体が、とうの昔から、一般社会では無視されているからです。 一応、従っているのは、教科書や参考書といった教育関連の出版物と、新聞くらいのものではありますまいか。 これらの業界の人達にとっては、どの字が増えて、どの字が抜けたかは大問題なのですが、その余の大部分の人間には、何の影響もありません。

  ちなみに、私は、若い頃に漢字に燃えた人間の一人ですが、今では何の興味もありません。 常用漢字が改められようが、そのままだろうが、廃止されようが、知ったこっちゃないのです。 言語学の視点から言えば、常用漢字枠など廃止した方が良いと思いますが、それすら単なる見解に過ぎず、自分の意見として主張する気はさらさら無いです。 まして、ああだこうだと、細かい事を言って、他人と言い争う気など、毛頭ありません。

  と断った上で、単なる知識遊びとして、ほんのちょっと細部に触れてみましょうか。 「常用漢字の枠を廃止したら、それぞれがてんでに使いたい字を使うようになって混乱するだろう」と思うかもしれませんが、いや、それは大丈夫なんです。 だって、戦前までは、常用漢字も当用漢字もありゃしなかったんですから。 一切、取り決めが無かったけれど、これといった問題も無く、使用されていたのです。

  戦時中、アホな軍人どもが、自分達のアホを隠す為に、漢字ばかりムキになって使っていたのが祟り、戦後になって、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の論理で、「軍部悪けりゃ、漢字も悪い」と見做され、半ば偏見によって字数制限されてしまったんですな。 まったく、馬鹿な連中に好かれると、好かれた方は大迷惑です。 この点、純粋に、識字率の向上の為に漢字の簡略化や字数制限を行なった中国とは、かなり事情が異なります。

  日本では、江戸時代までは、漢字を覚えるのは、それを必要としている支配階級や、文化を担っていた町人階級だけで、人口全体の二割くらいでした。 多くの漢字を知っていれば、それだけ多くの書物を読む事が出来るが、知らないければそれまでで、ただ読めないだけ。 完全な自己責任の領域だったので、お上が口出しなぞしなかったのです。 むしろ、字を読めない人間が多い方が、よからぬ思想にかぶれたりしないので、好都合だったのです。

  この事情は、本家の中国でも、高麗・朝鮮でも、ベトナムでも、漢字を使っていた所では、みな同じでした。 漢字をたくさん知っていて、正確に使いこなせる事は、教養が高い事の証明で、ステイタス・シンボルになっていたのであって、そんな価値があるものを、わざわざ手間と金をかけて、民衆に教えてやるような無意味な事はしなかったのです。

  明治になっても、漢字には制限が無く、各人がそれぞれの教養に合わせて、勝手放題にドカドカ使いまくっていました。 実は、明治以降、日本語表記の全面仮名文字化だのローマ字化だの、民間から、いろんな案が出されるのですが、政府は無視していました。 政治家や官僚は、漢字を知っている側なので、せっかく持っているステイタス・シンボルを手放す気はさらさら無かったのです。

  漢字は、全部で5万くらいありますが、その内、一人の人間が使いこなせるのは、多い人でも、せいぜい3000くらいです。 人によって使用範囲が異なるのですが、それらが重なる部分が、一般的に使用される漢字の範囲で、それは、政府が決めなくても、自然に成立します。 漢字研究者しか読めないような難しい漢字を使う事も自由ですが、そんな事をすれば、せっかく書いた文章を、多くの人に読んで貰えないわけで、自然にブレーキがかかるのです。 各人それぞれの頭の中で、「この字を使えば、尊敬されるだろう」という目論見と、「この字では読めない人が多くて、言いたい事が伝わらないな」という心配が葛藤し、自然と、常識的な範囲が決まってくるというわけ。

  「漢字制限をしなければ、却って、漢字は早く滅ぶだろう」とかなんとか脅す学者もいますが、そんな事はありません。 はっきり言わせて貰って、あなたのせいぜい数十年程度の思い込みよりも、漢字が経て来た遥かに長い歴史の方が説得力があります。 断言しますが、制限なんかしなくても、何の問題も無く、存続し続けます。 漢字に意思があるわけではなく、滅ぼすにせよ、使い続けるにせよ、その主体は人間ですが、社会全体で使っているものですから、個人が、「多過ぎて嫌だ」と思ったところで、滅ぼせるものではありますまい。 だって、他に何を使えってーのさ? 政府が他の文字体系を正式化し、漢字の教育をやめでもしない限り、自然に漢字が滅びる事などありえません。

  「漢字が5万もあったのでは、教育現場で困るだろう」と思うでしょうが、それも大丈夫です。 そもそも、すべての漢字を学校で教える必要は無いのであって、象形文字、指示文字、会意文字など、基本的な字だけ教えれば、それで充分です。 それだけ分かれば、後は組み合わせに過ぎませんから、児童生徒が各人自分で覚えるでしょう。

  「それでは、テストの範囲が決められない」というのなら、漢字そのものをテストの対象から外してしまえば宜しい。 実際に必要な能力は、文章を読める事であって、漢字一つ一つを暗記する事ではないのですから。 漢字を個々に覚えても文章が読めるとは限りませんが、文章が読めれば、漢字も読めるわけです。

  そういえば、漢字検定が流行って、テレビのクイズ番組にも、難読漢字がバンバン出て来ますが、あんなアホ臭いものは覚えなくても何の支障もありません。 動物名や植物名の漢字表記など、金輪際学習不要。 笑ってしまいますな。 タンポポを、≪蒲公英≫と書けたからといって、現代社会で、何の利用価値があるのよ? ムカデを、≪百足≫と書いて、誰に読んで貰えると言うのかね? はっきり言わせて貰って、漢字検定の上級に出て来るような問題は、もはや、死んだ知識です。 永久に復活する事はありません。 何ヶ月もかけて暗記するなど、時間の無駄にも程がある!

  「中国語の学習に役立つ」なんて事は、全っ然ありません。 確かに、中国語では、日本語でカタカナ表記している言葉を全て漢字で書きますが、動植物名は、日本語のそれと異同が大き過ぎて、知識の流用が利きません。 結局、一から習い直す事になるので、日本語では覚えない方が、混乱しなくて良いくらいです。 漢字検定に燃えている人達は、日本国内でしか通用しない上に、既に実用品として死んでいる知識を、必死になって覚えているわけで、傍から見ていると、滑稽としか思えません。 ≪死語の海≫で溺れているだけですな。

  そんな事に割く時間とエネルギーがあったら、中国語を直截覚えてしまった方が、今後、ずっと役に立つでしょう。 ちなみに、基本的に漢字を知っているというのは有利なもので、日本人の場合、一年くらいダラダラ勉強していれば、割と容易に中国語を読めるようになります。 せっかく、小中高と苦労して2000近い漢字を覚えたのですから、ほんのちょっと追加努力して、中国語も読めるようになった方が、確実にお得というものでしょう。


  こんな風に、広い視野で見ると、常用漢字の字数が何文字増えたか、何文字減ったかなど、いかに瑣末な事か分かるでしょう。 一文字一文字、追加の理由を述べている文章を読んだりすると、馬鹿馬鹿しいとすら感じます。 そんな事、どーでもえーですわ。

  私が漢字に興味を失ってしまった最大の理由は、言語に興味を失った理由と同じです。 詳しくは、過去ログの、≪言語は進化しない≫をどうぞ。 ここで理由を追加するなら、ヨーロッパ文明の成立に、漢字が何の関与もしていないのを、はっきり認識した事も大きいです。 漢字が無くても、あれだけ優れた文明が作れるのです。 せいぜい20字から40字程度の表音文字を並べるだけでも、漢字と同じ機能を果たせるのです。 そう思うと、何だか、白けてしまうではありませんか。

  ただ、中国の経済力が増大し、中国文化の影響が世界に波及するに連れ、中国語を学ぶ外国人が増え、その結果として、漢字を使う人口が増える事も、間違いなくやって来る未来の状況だと思います。 いずれにせよ、日本語でのマニアックな漢字知識は、何の役にも立たないまま終わるでしょう。

2009/10/18

眼鏡違い


  個人サイトの方で、掲示板を廃止し、≪準・書き込み専科≫になってから、二ヶ月ばかり経過しました。 この間、「初めまして」の第一声で書き込み始めた、よそのサイトの掲示板が9箇所。 前から書いていた所と合わせて、13箇所の掲示板へ、週に一度のペースで、書き込みを続けて来ました。 飽きっぽい私にしては、まずまず順調に交友相手を増やして来たわけです。 えらいえらい。

  しかし、世の中、そうそう何でも順調に行くとは限らないもの。 まして、書き込みのように、相手が存在する行為となれば、うまく行かない方が普通と考えるべきものなのかもしれません。 やはり、問題は多々発生して来るものなのです。 こちらは温厚に書き込みをしていただけなのに、相手が異常な反応をして、それ以上書き込めない状況に追い込まれた所が、13箇所中、何と3箇所も出てしまったのです。

  というわけで、今回は、その失敗談を披露しようという趣向ですが、失敗談であるからには、私にとっては嫌な記憶に決まっているのであり、そういう内容を思い出すのは、書く前から気が重いです。 でもまあ、傍から見れば、他人の失敗談というのは、結構面白いものですから、ここは一つ、ムカつきを極力抑えて、筆を進める事にしましょう。


  最初に紹介するのは、レスが来なくなったパターンです。 レスを書かないという事は、そこの作者の、「もう来るな」という意思表示ですから、自動的に行けなくなってしまうのです。 そこは、スキューバ・ダイビングを趣味にしている人が作った、魚介類の動画を主なコンテンツにしたサイトでした。 サイトの掲示板の方は、お客が減り過ぎて、「新規投稿お断り」になっていたものの、ブログの方で、まだ更新が続いており、コメントも受け付けていたので、軽~い気持ちで、軽~い感想を書き込んだのです。

  一度目は、二日くらいでレスが来ました。 内容は、歓迎の雰囲気こそ無いものの、ごく常識的なものだったので、私は、「よし、何とか行けるだろう」と判断して、一週間後に、第二の書き込みを行ないました。 これも、ごく軽く、短いものでした。 ところが、そのレスが、なかなか来ないのです。 そればかりか、それまで二三日おきに行なわれていた更新も止まってしまい、音信不通状態になりました。

  十日くらい経って、ようやく更新が再開し、私の書き込みにも、「ついで」みたいな感じなから、レスがつきました。 それでも、レスの内容自体はまともだったので、「まあ、様子を見るつもりで、もう一回書いてみるか」と思い、一週間後に、第三の書き込みを行ないました。

  その後が長かった。 まるまる半月くらい、ほったらかし。 レスはもちろん、更新も全く行なわれません。 もう、書き込んだ内容も忘れてしまい、「どーでもいいや」と思いかけた頃になって、ようやく、更新が再開しました。 ところが、私の書き込みには、レスがつきませんでした。 二日続けて更新されたにも拘らず、私の書き込みにレスをつけないという事は、≪無視≫されたと見做して良いでしょう。

  こう書くと、大袈裟な話に聞こえるかもしれませんが、私が書いたのは、大した内容じゃないんですよ。 その人が、≪刑事コロンボ≫のDVD・BOXを購入して、見ているというので、

【≪刑事コロンボ≫のある回を、中学の時に、図書室にあった小説本で読みましたが、覚えていたのは、ラストの部分だけでした】

  って、たったそれだけの書き込みです。 こんな事は言いたかないですが、もうその人と話す事も無いでしょうから、ぶち撒けて言ってしまいますと、たかが、それんばっかの書き込みにレスが書けないなんて、大の大人の反応とは、とても思えませんぜ。

【そうですか。 小説で読むと、映像で見た場合より、記憶に残り難い事があるかもしれませんね】

  くらいのレスなら、子供だって思いつくでしょう? なにも、十行二十行の長レスを返せっていうんじゃないですよ。 たった一行、適当な言葉を並べて埋める事もできんのかい?

  どうも、私が怒っているように取られるかもしれませんが、ええそうなんです、実は、腹綿煮え繰り返っておるとです。 ちなみに、「はらわた」を漢字で書くと、正確には、「腸」ですが、そう書くと、十人中十人に、「ちょう」と読まれてしまうので、わざわざ、「腹綿」と書いたとです。 まったく、訓読みは紛らわしくて好かん! ・・・と、そげんこつはどうでんよか。

  大体、こんな簡単なやりとりもできないくせに、ブログを運営しているというのが奇妙ですわな。  「自分が考えている事を書きたいだけで、別に人と話をしたいとは思わない」というのなら、コメント受付をオフにしとけばいいじゃないですか。 「コメントは受け付けます。 でも、レスは書きません」なんて、ゲストをおちょくっていると取られても、言い訳できますまい。

  だけどねえ、この人、私に対して特別な悪意があって、こういう事をしたんじゃないと思うんですよ。 だって、悪意を抱かれるほど、突っ込んだ話をしていませんからね。 廃墟化した掲示板の過去ログを読むと分かるんですが、書き込んでいたのは、現実世界に於けるスキューバの仲間ばかりなんですな。 恐らく、この人、「掲示板やブログ・コメントは、現実世界での友人・知人に書いてもらうもの」と思い込んでいるタイプの人なのでしょう。 現実世界とは別に、ネットという世界が存在していて、そちら側から訪ねて来る客がいる事を、全く念頭に置いていないのだと思います。

  だから、知らない人間が書き込んでくると、「なんだ、こいつは! 一体、誰だ?」と驚きうろたえ、「赤の他人と話すつもりはない」という風に、拒絶反応を起こしてしまうんじゃないでしょうか。 書き込みを無視する前に何日も沈黙があったのは、別に忙しかったからでも病気だったからでもなく、≪招かざる赤の他人≫を追い払うにはどうしたらいいか、延々と悩んでおったに相違ありません。 ううむ、想像するだに鬱病的ですが、そういう人は確かにいそうだわ。

  だけどねえ、「俺は、現実世界の友人・知人だけを相手にしてるんだ」とツッパってみても、もう何年も書き込みが無いって事は、その人達に無視されちゃってるって事ですぜ。 つまり、その人が、友人・知人だと思っている人達は、その人の事を、友人とも知人とも思ってないわけだ。 どうして、そんな風になってしまったかといえば、恐らく、その人が私に対してしたのと同じような事を、過去に友人・知人達に対してもやっていて、そのせいで、「ああいう奴とは、つきあえない」と、愛想をつかされてしまったのでしょう。 哀れ極まりないですが、その人の性格のなせる業だから、もうどうしようもないです。


  さて、二番目は、レスに熱意が感じられないパターンです。 一応、レスは返って来るんですが、こちらが8行書くと、レスは3行くらいで、しかも、内容がありません。 たとえば、私が、

【こんにちは。 子供部屋の天井の模様というのは、思いの外、人格の形成に大きな影響を与えるのかもしれませんね。 以前、≪病院へ行こう 2≫という映画で、「不治の病の入院患者が、シミのついた天井を見て死んで行くのは可哀想だと思って、ホスピスを作った」というようなセリフがありましたが、天井は、毎日見て暮らす所ですから、恐怖や不快といった感情を引き起こさないように、模様を工夫した方がいいと思います】

  といった、書き込みをしたとします。 すると、帰って来るレスが、

【そうですね。 天井の模様は大切ですね。 恐怖や不快の感情を引き起こさない模様の方がいいですね】

  と、これだけ。 面白いでしょう? いや、全然面白くないんですが、これだけ面白くないレスを、平然と書けるという、その神経が面白いと言いたいのです。 別に、書き込みの意見に対して、否定をしているわけでもないし、皮肉も嫌味も言っていません。 しかし、このレスでは、何も応えていないのと同じです。 決して、ゲストの意見に同意しているのではないのです。 「ああ、わかったわかった、お前の言う通りだ。 そういう事にしといてやるよ。 こちとら、お前の意見なんか、全然興味ねえんだ。 勝手に言ってな」という反応を、慇懃にレスに書くと、こういう、≪全肯定受け流し文≫になるのです。

  この人ねえ、掲示板に入る前に、≪利用上の注意≫というページを設けている人でして、30行くらい、びっしりと、「誹謗中傷はいけない。 個人攻撃はダメ。 メール・アドレスは書いても書かなくてもいい」といった、小言幸兵衛的能書きをダラダラダラダラ垂れているのですよ。 もちろん上から目線ギンギンで、しかも鼻息がフンフン聞こえて来そうなほど偉そうにね。 だけど、ゲストの書き込みにイチャモンをつける前に、自分のレスがどんなにひどいものか、考えた事が無いんですかねえ?

  ただねえ、もしそれだけだったら、熱意が微塵も感じられないとはいえ、一応レスはついているわけですから、書き込みが出来なくなるという事は無かったのですよ。 もっと重大な問題がある事に、後になってから気付いたのです。 その人、いくつもの趣味を持っている人で、それぞれの趣味ごとに、サイト内にページを作っていたので、最初に読んだ時には、「ああ、これだけ、いろんな方面に興味がある人なら、話題に困る事は無いだろうな」と思って、門を叩いたのです。

  ところが、その人の趣味に合わせた内容の文を書き込んでも、上のような全肯定受け流しのレスしか返って来ません。 全く興味が無い様子。 「変だなあ・・・」と思って、私が分かる範囲内で、その人の趣味の幾つかについて、片っ端から触れて行ったんですが、やはり、受け流されるだけで、ちっとも乗って来ません。 こっちはもう、冷汗脂汗ですよ。 でねー、しばらくして、はっと気付いたのです。 その人、私以上に飽きっぽい性格だったのです。 たくさんの趣味を同時に楽しんでいるのではなく、一つやってはすぐに飽き、また一つやってはすぐに飽きるというパターンを繰り返して、異なる趣味のページばかり次々に増えていたんですな。

  普通なら、飽きたと言っても、以前熱中した趣味なら、人並以上に話のネタが出て来そうなものですが、この人の場合、一度飽きた趣味には、まるっきり興味が無くなってしまうタイプのようなのです。 ちょっと極端過ぎて、私も感覚的には理解し難い所があるのですが、飽きっぽさの度が高まれば、そういう反応を示す人がいても、そんなに不思議ではありませんわな。

  もしかしたら、私に対してだけ、そういうレスをよこすのかと思っていたんですが、途中で入って来た、新規のゲストに対しても、全肯定で受け流しやがったので、「ああ、こーりゃ、駄目だわ!」と、見切りをつけて、引導渡す事にしました。 こんな機械的なレスしか貰えないのでは、オウムと喋っていた方が、まだ有意義ですから。


  さあ、最後の一箇所だ。 実は時間的には、ここが一番最初にコケたのですが、内容的に最も大きな失望を味わわされたので、トリに持って来たという次第。

  ここも、魚介類のペット・サイトでして、コンテンツを見ると質・量ともに申し分なく、「面白そうな人だな」と思って、書き込んだのです。 一回目は、不熱心ながらも、社交辞令は弁えたレス。 二回目は、こちらが質問をしたのに対して、少し見下すような態度のレスが来て、「おや、ちょっと、まずいかな?」と、思うには思いました。

  そして、三回目に返って来たのが、意味不明の一行レス。 いや、行数はどうでもいいのですが、こちらの書き込み内容は完全に無視して、全く筋道が通らない、戯言のようなレスだったのです。 具体的に書きますと、その人が日記の中で、

【現在の政治状況とは全く無関係ですが、私はハトが嫌いで・・・】

  と、ハトのどういう所が気に食わないかを延々と書き綴っていたのです。 ちなみに、これは、8月の衆議院選挙の前で、≪政権交代≫が話題になっていた頃の事です。 現在の政治状況云々とは、つまり、「鳩山さんの事を言っているわけではないよ」という意味でしょう。 文の最後にも、「くれぐれも、政治とは関係なく、鳥のハトの事です」と断ってありました。 私は、「ああ、確実に鳥のハトの話だな」と判断し、ちょうど、野鳥に興味を持ち始めた時期だったので、

【ハトは人が近づいても逃げないから、写真撮影の対象としてはありがたいのですが、ハトの写真を撮っても、誰も誉めてくれないのが哀しいところです】

  といった内容の書き込みをしました。 ところが、そのレスが、こう来たもんだ。

【私は自由業なので、労組を応援しても得が無いもので・・・】

  はあ? なんじゃ、そりゃ? 「政治の話じゃない」というから、ハトの書き込みをしているのに、どういうレスやねん? ちなみに、私は工場労働者なので、一応、労組にも入っています。 私のサイトを見れば、私の職業は分かるはずで、私をからかったつもりなのかもしれませんが、実際には、日本の製造業の労組は押し並べて社内組織でして、会社と労組で支持政党が異なるという事はありません。 自由業だから、その辺の事情について知識が欠けているのでしょう。

  そうは思ったものの、こちらは別に喧嘩したくて書き込んでいるわけではないので、言い返したりはしませんでした。 低次元な口論をするくらいなら、最初から書き込んだりしませんや。 まだ知り合って二週間くらいしか経っておらず、冗談を言うような親密な仲ではないですし、からかわれる謂われは、ましてありません。 さて、冗談として聞き流すべきか、それとも、交流を打ち切るべきか、大いに悩まされる事になりました。

  で、それから、一週間経ったので、恐る恐る様子を見に行ったのですが、掲示板で、他のゲストの質問に対し、かなりやばい事を平気で回答しているのを発見し、「あー、この人とは、交友できんわ」と、とうとう諦めてしまいました。 ペットの命の問題について、ペット・サイトで、異常な人達が好んで使う過激な屁理屈を、この人も口にしていたんですな。

【ペットを飼えなくなった時、保健所に持って行ったり、捨てたりするくらいなら、自分で殺せ】

  というアレ。 まったく、何なんだろねえ。 そういう事を言えば、カッコいいとでも思ってるのかねえ。 可愛がっていたペットを自分で殺すようになったら、それはもう人間ではないよ。 そう思わんか? 子供が殺人を犯したからって、親がその子を殺したりしないだろう。 まして、何の罪も無い動物を、どうして殺せるのだね? ちゃんと考えてから物を言っているのか?

  しかし、私より半回りくらい年上の人なので、「それは、間違った考え方ですよ」などと説得を試みても、考えを改める事は期待できないでしょう。 それに、私は、議論はしない主義なのです。

  そういえば、最初にコンテンツを読んだ時に、ほんのちょっとそれらしい危ない事が書いてあって、気に掛かったんですよ。 でも、「あまり深く考えずに、言葉の綾で書いたのかもしれない」と思って、スルーしてしまったのです。 甘かったなあ。 やっぱり、問題がある事をちょっとでも書く人というのは、根底にそういう考えを持っているものなんでしょう。 見抜けていれば、最初から書き込まなかったのに。

  も一つそういえば、この人、ハンドル・ネームに、≪マイナス・シンボル≫を使っているんですよ。 マイナス・シンボルというのは、「悪」とか、「魔」とか、「影」とか、「黒」とか、「闘」とか、「撃」といった、否定的、もしくは、攻撃的な意味合いを持った言葉の事で、この種の言葉を含むハンドル・ネームを使っている人物は、荒らしや誹謗中傷など、問題行動を起こし易い傾向があります。

  「夜露死苦」など、暴走族が好む漢字が、正にそれで、マイナス・シンボルの典型例ですな。 誰でも、本名は自分でつける事が出来ないのですが、ハンドル・ネームは自分でつけられるので、自分の人格に最も相応しいイメージの言葉を探して来ます。 マイナス・シンボルにせよ、プラス・シンボルにせよ、ニュートラルにせよ、単なる記号ではなく、当人が自分自身をどんな人間だと思っているかが、ダイレクトに表出されるのです。

  その事にも、気付いていたのに、「これだけ面白いコンテンツを作る人だから、例外なんだろう」と思って、やはり、スルーしてしまったのです。 甘かった。 お話になりません。 反省しきりです。


  というわけで、この3箇所には、もう書き込むのをやめました。 交友を長く続ける事も、私の目的の一つなので、断絶は痛恨の極みなのですが、向こうが交友を望んでいないのだから、致し方ありません。 向こうは、私に何の興味も持っていないようなので、私が書き込みをやめても、痛くも痒くも無く、むしろ、「やっと来なくなったか」と、ホッとしている事でしょう。 その点が気楽なのが、せめてもの救い。

  やはり、最初に行った時に、サイトの隅々まで目を通し、作者がどんな人物か、今までどういうサイト運営をやって来たかをしっかり観察し、分析しなければ駄目なようですな。 面白そうな文章を書く人や、見応えのあるコンテンツを作る人の中にも、交友に値しない人物というのは、確実にいるのです。

2009/10/11

人間の価値


  これを読んでいるのは、もちろん人間の方達であるわけで、こういう事を書いていいのかどうか、今ひとつ自信がありませんが、他にネタもないので、書いてしまいましょう。 実は、ここ最近、人間に価値を感じられなくて困っているのです。 特定個人ではなく、特定団体でもなく、特定カテゴリーに属する人達でもなく、人類全てに対して、価値があると思えなくなってしまいました。 「大した価値はない」ではなく、価値そのものがない。 更に言えば、マイナス価値がある。 つまり、「存在しない方がいいのでは?」とさえ思うのです。

  こういう事を考える時に、少々ややこしいのは、人間の価値を決めているのも、人間だという点です。 「人間に価値はある」と考えている人は、一定の価値の基準を持っていて、それに照らし合わせて、人間をプラス評価しているわけですが、その基準は、≪人類の主観≫に過ぎません。 三段論法で言いますと、「○○には価値がある」、「人間は○○をしている」、「故に、人間には価値がある」というわけですが、そもそも、○○の価値を決めているのが人間なわけですから、もし○○に価値が無かったら、人間そのものにも価値が無い事になります。

  この半年ばかり、動物関連の本ばかり読んでいるのですが、動物の生きる目的というのは、非常にシンプルで、常日頃、念頭にあるのは、二つの事だけらしいです。

一、食べる事。
二、子供を作る事。

  三を強いて挙げれば、捕食者から身を守る事を付け加えられない事もないですが、それはあくまで、捕食者の方が襲って来るから、已むを得ず、逃げたり隠れたり戦ったりするのであって、彼らが好んでしているわけではありません。

  どうです、この、すっきり簡潔な生き様。 他の事を一切考えてないんですよ。 それでも、自分の存在に疑問を抱いたりせずに、ちゃんと一生を生き抜く事ができるのです。 彼らにとって生きている一瞬一瞬が、価値そのものなのであって、言わば、存在価値が毛皮着て歩いているようなものなのです。

  犬を飼っている人なら、家人が帰宅した時などに犬が尻尾を勢いよく振る様子を思い浮かべてみれば、彼らの歓喜の情が全く思考を介していない事がよく分かると思います。 犬は、「今、僕は幸せだ!」なんて、考えちゃいません。 そう考える事によって、歓びを感じ取ろうなんて、迂遠な事はしません。 尻尾を振って飼い主に飛びついている時、彼らの存在は歓喜と一体化しているのです。

  それに引き換え、人間の感性の、救いようもなく鈍い事よ。 何なんじゃ、お前らは。 というか、当然、その中には私自身も含まれますから、こう言うべきでしょうか。 何なんじゃ、俺らは? 感性が優れているから、様々な事に興味を抱くのではなく、感性が鈍いから、生きているだけでは満足できずに、闇雲に貪欲になっているのではありますまいか。

  一体、何が不満で、日々、悶々と暮らしているんですかねえ。 本来なら、生きているだけで、充分満足できるはずなんですよ。 なんてったって、生物は、生きる為に生きているわけですから。 現に生きていれば、もうそれ以上求める事などありますまい。 ところが、「生きているだけで幸せ」なんて人間は、まーず見当たりません。 悶々悶々、「なんで、もっと幸せになれないんだろう?」と嘆きながら暮らしています。

  たとえば、物欲ですが、私は生来ドケチで、遊びに金を使う時には、渋りに渋る方ですが、それでも、部屋の中は、今までの人生で買い集めたガラクタでいっぱいです。 もちろん、買った時にはガラクタではなく、「人生に潤いを与えてくれる必須アイテム」だったわけですが、自分がそれを十二分に活用できない事が分かった瞬間から、ガラクタに変身したわけですな。 しかも、物を捨てられない性分なので、溜まる溜まる。 押入れや天袋に入りきらず、天井裏まで占拠しています。

  時間が経てば、何の価値もなくなってしまう、いや、場所を取るだけで、マイナス価値になってしまうのは分かっているのですから、最初から、そんな物買わなきゃよかったのです。 馬鹿だねー。 でも、買う前には、「それさえ手に入れれば、薔薇色の日々が待っている」と思い込んでいたのですから、しょうがなかったのです。 それでも、私なんぞは浪費が少ない方でしょう。 収集癖のある人達なんざ、金をドブに捨てる為に生きているようなものです。 どんなに素晴らしいコレクションでも、当人が死ねば、ほとんどがゴミとして処分されるのですから。

  物欲以外の他の事も、みんな同じではないかと思うのです。 本来、価値が無い事に、執着しているだけなんじゃないでしょうか。 仕事に全精力を傾けている人はたくさんいると思いますが、定年退職したり、失業したりすると、まるで長い夢から覚めたかのように、価値観が180度変わってしまうそうです。 出世や高給など、それまで、何よりも大切にして来た事に価値を感じなくなってしまい、自分自身の存在意義もリセットし直さなければならなくなります。 そして、そのリセットがうまく行かず、見る間に老け込んで、数年もしない内に世を去る元企業戦士がいかに多い事か。

  「仕事が生き甲斐」という人は、仕事から離れれば、つまり生き甲斐がなくなるわけで、死んだも同然になるのは理の当然ですな。 何事も、あんまり、エネルギーを傾注し過ぎない事です。 「ふん! お前が仕事ができない負け組だから、そんな事を言うんだろう。 勤め人になったら、死に物狂いで仕事をして、出世を目指すのは当たり前じゃないか!」と熱く語っているあなた。 あなたのような人が、定年後、すぐ死ぬんですわ。 だって、他にする事無いんでしょう? 自他共に認める、価値ゼロ人間になるわけだ。 もう、あの世へ行くしかねーじゃん。

  定年過ぎてから、慌てて趣味に走ったって駄目よ。 趣味というのは、付け焼刃でできるもんじゃないのよ。 大人になってからの趣味なんて、どれもこれも、3ヶ月で飽きます。 子供の頃からやっている人達に敵うわけがないのであって、平均レベルにすら到達しない事が分かると、大人の理性が働いてしまって、スパスパ諦めてしまうのです。 無駄無駄! 道具を揃えるのに金を吸い込まれるばっかで、何一つ、物にならないのは、やる前から分かっています。

「いや、俺は企業戦士だったが、趣味も楽しんでいた。 それはゴルフだ! 定年後は、毎日ゴルフを・・・・」

  馬鹿か、お前。 年金暮らしで、ゴルフができると思ってんのか? 大体、誰と回る気だ? 元同僚なんか、連絡も取れなくなるんだぞ。 元部下に至っては、「忙しいから、もう電話して来ないで下さい」と引導渡されるのが関の山。 「こんなはずじゃなかったのに・・・」? いや、そんなはずだったんだよ。 お前が、考え足らずで、気がつかなかっただけで。

「女房と山歩きを・・・・」

  ああ、滑落して死ぬまではな。 若い者でも、登山は危険なのに、どうして、歳をとってからできると思うのか、そこが不思議です。 平地を散歩するだけだって、膝の関節がガクガク言っている人が、百名山巡り? 身の程を知りなさい。 山奥で倒れたあんたを背負って下りるのは、赤の他人なんだぜ。

「世界旅行に・・・・」

  だーからよー、金に限りがあるのに、どーして、そんな計画が立てられるのよ? 大体、どんなにゆっくり回ったって、一年もすれば戻って来ちゃうじゃないの。 その後は、どうやって過ごすねん?

「孫と遊んで・・・・」

  孫は、いつまでも幼児じゃないよ。 何年、あんたの相手をしてくれるかねえ。

  面白いけど、キリが無いから、定年オヤジの吊るし上げはこのくらいにしておきますか。 そもそも、没頭できる趣味を見つけられれば、それに価値が出るというわけではなく、趣味自体が個人の心の慰みや暇潰しに過ぎないのですから、他人から見れば、やはり無価値です。

  では、現役で仕事をしている人間には価値があるのかというと、以前なら、ありました。 あると見做されていました。 ところが、エコ時代に入ってから、それが怪しくなって来ました。 価値感が変化して、昔のプラス価値が、マイナス価値に転換してしまったのです。 ちょっと考えれば分かる事ですが、バリバリ仕事をすれば、それだけ、エネルギーを使うわけで、当然、エコには逆行します。

  具体的事例を挙げてみましょう。 毎日、定時間で帰る者と、残業3時間やる者がいたとします。 昔なら、後者の方が、「社員の鏡。 模範的社会人」と賞賛されたわけですが、エコ的に見れば、前者の方が遥かに貢献度が高く、後者は、電気代は使う、紙は使う、余分に飲み食いはする、で、地球環境の敵以外の何者でもありません。 ちなみに、私は、これを皮肉でも何でもなく、糞真面目に言っています。

  かつて、生産効率の高い工場は、世界的に高い評価を受けていたわけですが、今や、工業全体がCO2排出の元凶と見做され、バカスカ物を作る工場など、マイナス価値しか与えられません。 その工場の従業員が頑張れば頑張るほど、地球は汚染され、エネルギーは浪費されていくのです。 何の価値かあらむ。

「効率が悪い工場よりは、効率が良い工場の方が、無駄が少ないではないか」

  と、思うでしょう? この論理、効率性に自信過剰な日本企業がよく口にしますが、よく考えると間違っています。 物を作る事自体が、エネルギーの浪費と環境汚染を引き起こすのであって、むしろ、効率が悪く、同じ時間でより少しの物しか作れない工場の方が、エコ的には加害度が少ないのです。

  大体、作っている物が、本当に必要な物なのかどうか、その企業のトップですら答えられますまい。 車が必需品? いやあ、無くたって、生活できますよ。 私、現在、車を所有してませんが、何の不便も感じていません。 ケータイが必需品? わはは! 笑わせてはいけません。 あんな物無くたって、痛くも痒くもありません。 タバコや薬物と同じで、一旦始めてしまうから、手放せなくなるのであって、最初から使わなければ、何という事はないです。 パソコンやデジカメに至っては、はっきり、「オモチャだ!」と断言しても宜しい。 実際、オモチャでしょうが。 無くたって、命に関わったりしないものね。

  人間が生きて行く上で本当に必要な品は、食物だけだと言ってもいいでしょう。 そして、それは、工場や企業を介さなくても手に入るわけだ。 実際に、江戸時代までは、製造業なんか、ほんの一握りの分野にしか無かったけれど、人はちゃんと生きていたわけですからね。 ほーら、企業なんか、無くてもいいような、価値の薄いものである事が分かるでしょう。 当然、そこで働いている人達の仕事にも、本質的な価値は無いという事になります。 ただ給料を貰うために、至って個人的な目的で働いているだけなのです。 地球環境を犠牲にしてね。


  あっちこっちへ脱線しまくりましたが、「人間の価値基準は、人類の主観に過ぎないので、人間の存在には絶対的な価値は無い」と感じている私の気持ちが何となく伝わりましたか? とりわけ、エコの問題は、今まで人類が文明発展の基準にして来た価値感を、真逆に引っ繰り返してしまうだけに、重大な転換点と言えます。 頑張って生きると、その分、状況を悪くしてしまうわけで、こりゃ、困った事になりましたな。

  離島でネズミが大発生した場合、作物を荒らす害獣として駆除されるわけですが、ネズミにしてみれば、個々の個体の責任ではないわけで、一匹一匹は、一生懸命、自分の命の火を燃やしているだけです。 頑張って生きているだけです。 現在、地球上に溢れつつある人間と同じですな。 一人一人は、自分の人生を充実させようと、頑張っているだけ。 しかし、その結果、地球環境はどんどん荒らされて行きます。 人間は、他の動物と違い、食べて行ける最低限の消費では満足できないのですから、ネズミとは同列に扱えないほど、始末が悪いです。 つまり、人間は地球全体の害獣になってしまっているわけです。

  いやですねえ。 害獣ですよ、自分が。 もし、絶対的な力を持った宇宙人がやって来て、地球の生態環境を管理する事を思い立ったら、人類が駆除されるのは避けられないでしょうな。 特に、先進国を自称して、一人当たりエネルギーを大量に消費している国の人間は、真っ先に処分されるでしょう。 最も有害な品種なわけですから、当然ですな。 これまた、私は、皮肉ではなく、糞真面目に言っています。

「人間一人の命は、地球よりも重い」

  この言葉、最近はめっきり聞かれなくなりましたが、私が子供の頃には、人権活動家達がもっともらしく口にしていました。 よく考えれば、人間は地球の一部なわけですから、一部分が全体より価値があるなどという事はありえず、論理的に矛盾しているのですが、論理を別にしても、こんな身勝手な考え方はそうそうありません。 地球は多くの生物が共存している場所なのであって、人間だけの物などでは断じてありません。 正確に言うなら、

「人間一人の命は、人類とほぼ同数の個体数を持つ生物一個体の命と同等である」

  とすべきでしょう。 もちろん、人類より個体数が少ない生物の命は、人間よりも重くなります。 人間の価値とは、その程度のものに過ぎないと思うのです。

2009/10/04

誘致騒動


  「リオで、じゃねーだろ!」ではなく、リオ・デ・ジャネイロに決まったようですな、2016年の五輪開催地。 ちなみに、≪Rio de Janeiro≫とは、≪一月の川≫という意味のポルトガル語だそうです。 1502年の1月1日に、ポルトガル人航海者がここに到着し、細長い入り江を川と間違えて、こういう名前をつけたのだとか。 うーむ、十数年前に古本屋で衝動買いした≪世界地名ルーツ辞典≫が、今頃役に立つとは思わなかった。 もっとも、ネットで調べても、そのくらいの事はすぐ分かるんでしょうけど。

  それさておき、ブラジルの都市になって良かったですな。 ブラジル初であると同時に、南米大陸発であるというのは、大変意義のある事です。 というより、今まで一度もやっていなかったというのが不思議。 よくもまあ、こんな地域差別、不均衡を放置して来たものです。 ライバル都市が落ちたのは当然という気もします。

  マドリードなんて、スペインでしょう? こないだ、バルセロナでやったばっかじゃん。 なに、カタルーニャとカスティーリャは違う? そりゃ、違うでしょうけど、スペインとブラジルほどには違いますまい。 ヨーロッパと南米ほどには異なりますまい。 よく、立候補したと、そっちにびっくりします。 バルセロナ五輪は、ソウル五輪よりも最近なんですよ。 もし、韓国が、釜山で立候補していたら、スペイン人だって、「こないだ、ソウルでやったばっかりじゃないか!」と思うでしょうが。 「京畿道と、慶尚南道は違う」って言われても、「そりゃ、違うでしょうけど、韓国とブラジルほどには違いますまい。 東アジアと南米ほどには異なりますまい」と言うでしょうが。

  シカゴお? アメリカ人よ、えー加減にしなさい。 一体、何回やれば気が済むんだよ。 「アトランタ以来、20年ぶりの開催を目指して」と聞くと、「ほーお、20年も経つのか・・・・」と、一瞬感慨に耽ってしまいますが、オリンピックの開催頻度から考えれば、20年前なんて、たかだか5回前に過ぎず、 ちっとも時間なんて経っちゃいません。 危ない危ない、すんでに騙されるところだった。 やりすぎだよ、アメリカは。 何でも金でカタが着くと思ったら大間違いですぜ。 そもそも、今のアメリカには、その金が無いじゃありませんか。 借金だらけの国が、金で五輪を誘致しようなんざ、分際を弁えないにも程があります。

  そういえば、夫人を派遣するだけでは役者不足と思ってか、オバマ大統領当人まで最終プレゼンに乗り込んで来たそうですが、いつもの名調子で、ハッタリぶっこいて、「どうだ、それでなくても最有力候補と見做されているシカゴだ。 私の歴史に残るスピーチで、否が応でも駄目押しだろう!」と御満悦の笑みを浮かべていたのも束の間、いの一番に落選して、アメリカ国民一同、目が点の唖然呆然、言葉を失うとは、あの状態の事を言うんでしょうな。 いやはや、まさか、あのIOCがオバマ氏に水をぶっかけてくれるとは思いもしませんでした。 「調子に乗んなよ。 こちとら、スターは、スポーツ選手で間に合ってるぜ」ってなところですかね?

  さて、東京だ。 落選した今でも不思議でならないのは、「そもそも、どうして立候補したのか?」という、これ以上無いくらいに根源的な、その点です。 「東京で? 前にやったじゃん。 何回、同じ所でやるのよ?」と思うだけでなく、良識的日本人の感覚として、「夏は一回、冬は二回もやってるんだから、もう、日本でやる必要は無いんじゃないの?」という、遠慮を感じていたと思うのです。 一度も開催していない国々が無数にあり、しかも、実行するだけの経済力を備える所が出て来ているのですから、そちらが優先だと思うのは、至って自然な感覚でしょう。 なぜ、今、日本なのか? しかも、前に一度やっている東京なのか? 飛び交う疑問符で、背景が埋まりそうでした。

  現都知事が、自分の功績として、誘致を置き土産にしたいと考えていたのは明白で、まあ、政治家ですから、それはそれで批難されるような事ではないですが、盛んに笛を吹いたにも拘らず、東京都民をすら踊らせるに至らなかったのは、オリンピックの必要性に対する、民衆との感覚のズレを埋めきれなかったからでしょう。 現都知事を選挙で選んだのは、現東京都民ですが、他の候補者がパッとしなかったために、消去法で選んだという傾きが強く、現都知事に、何か目立った業績を挙げて欲しいと願っていたわけではないんですな。 故に、彼の花道や置き土産には、何の興味も無かったのではありますまいか。

  どうも、バブル崩壊以降の東京には輝きが見られず、地方から見ると、もはや現代日本の文化の中心ではなくなってしまっているわけですが、東京都民自身も輝くのにうんざりしているような嫌いがあり、「お祭り騒ぎはもういいよ。 静かに暮らさせてくれんか」と、冷め切った目で五輪誘致運動を見ていたように思えます。 「是非、もう一度、東京で!」と願う人達が、ある線を越えて増えて行かなかったのです。 一部の人が騒げば騒ぐほど、残りの大多数は冷めるという、シラケた雰囲気が隠せませんでした。

  むしろ、リオが最終候補に残った時点で、「南米から出るのなら、東京の立候補は取り止めて、譲ります」と言えば、滅茶苦茶カッコよかったと思いますが、「誘致誘致!」で血道を上げて来た人達に、そういう発想を期待するのが無理というもので、結局、落とされるまで、食い下がってしまったわけですな。 「シカゴには勝った」などと言っている人もいましたが、恥かしいから、そういう事を言うなって、全くもー。 選挙と同じで、落選すりゃ皆同じよ。 次点も三点も四点あるものかね。

  「誘致活動の仕方が悪かった」という意見もあるようですが、的外れな分析だと思いますねえ。 むしろ、東京のように全くセールス・ポイントが無い都市で、よくぞ、あれだけ、それらしい誘致理由をこじつけたと、感心するほどです。 現代の東京と、スポーツの祭典が、どうしても結びつかないものだから、環境問題にすりかえを図ったのは、実に日本人らしい屁理屈全開の発想でした。 屁理屈も論理の内だと思ってますからのう。 ただ、論理を理解できる外国人から見ると、スポーツと環境問題には何の関係も無いのは明白で、「何を言っとんじゃ、日本人は?」と、首を傾げていたのは疑いないところです。

  「前の東京オリンピックの時の施設を再利用する」といった計画も、「セコい」、または、「しょぼい」と見做されて、疎まれた可能性が高いです。 スポーツ関係者にとって、オリンピックは、四年に一度の盛大なお祭りなわけでして、「環境に遠慮して、華やかさを削られては、何の為にやるのか分からなくなってしまう」と思われたのではありますまいか。 上杉鷹山に三社祭や祇園祭の企画を任せるわけにはいかないわけだ。 東京の誘致計画は、根本的な所で、ピントずれを起こしていたものと思われます。

  本当に環境を最優先するのなら、オリンピックなど、やらないのが一番宜しい。 人が国境を越えて、うじゃうじゃ移動すれば、それだけで膨大な量のエネルギーを費やしてしまうのであり、その点、オリンピックは最悪の行事でしょう。 それでも、やるわけですから、「お祭りの時くらい、環境だなんだと、野暮な事は言うな」と思うのが人情というものです。

  「オバマ大統領や、鳩山首相が、最終プレゼンになって、取って付けたように参加したから、却って顰蹙を買った」という見方は、当たっている面もあると思います。 何事も一夜漬けは、メッキが剥がれ易いもの。 しかし、たとえ、彼らが、それをやらなかったとしても、結果は同じだったと思います。 やはり、未開催国がライバルに残った時点で、潔く諦めて身を引き、進んで譲るべきだったのです。

  とにかくねえ、もう、一度開催した国は、手を挙げない方がいいですよ。 まだ、アフリカ、中東、南アジア、東南アジア、東欧、中央アジア、太平洋諸国、カリブ海諸国と、開催していない地域は、いくらもあります。 そういう所でやった方が、絶対面白いですって。 そんなに金を出したきゃ、未開催国に資金提供してやれって言うのよ。 「俺が俺が!」と目を血走らせているより、その方が、ずっとカッコいいから。 もっとも、そういう、金に物を言わせて来た国々が、今や軒並み借金地獄に嵌まっており、外国への援助資金も借金で賄うという、奇妙奇天烈な事をやっているわけで、「一番いいのは、何もしない事だ」という気もしますが。

  最後に、日本の最終プレゼンの秘密兵器だった、15歳の少女。 オバマ大統領対策として用意されたらしいですが、結果的には、とんだ茶番になってしまいましたな。 未だに素性も正体もよく分からんのですが、一体、誰だったのよ? 未来の新体操選手? そんなの、いくらでもいるんじゃないの? IOC委員も、反応に困ったろうねえ。 「誰? 知ってる? え? 誰よ、あの子?」 日本人も知らないんだから、IOC委員が知ってるわけないわなあ。 あのプレゼン企画、一体、誰が立てたんですかね? あんまり、奇を衒って、世界に恥を晒すような真似をするなよ。 その子の将来の為にも気の毒だろうが。 必ず、オリンピック選手になれるって、保証できるか? そんな予測がつくほど、甘い世界じゃあるまいに。

2009/09/27

無念の断念


  執念深く検討を続けて来た、≪一眼デジカメ購入計画≫ですが、思わぬ方面から障碍が立ち現れ、頓挫しかけています。 それは、浪費を避けようという理性でもなく、要求に合致する性能のカメラが無いという事情でもなく、私の健康状態でした。 具体的に言うと、腰痛です。

  私はフィルム一眼時代に買った、ウエスト・バッグを持っています。 標準のズーム・レンズを着けた一眼レフ一台と、小物がちょっと入れられる程度の大きさです。 それを押入れから引っ張り出して、デジビノのセットを入れ、ここ一ヶ月ばかり、休みの日になると出かけていたのですが、大した重さでないにも拘らず、腰へ来てしまったのです。 コンパクト・デジカメの≪オリンパス C-2≫と、双眼鏡の≪ビクセン FOKUS 9×21≫と、木で作ったアタッチメントだけですから、合計450グラムくらいしかないのに、ほんの二時間程度、徒歩や自転車で動き回っただけで、参ってしまいました。

  肉体労働をしているので、休みに腰を痛めると、翌日から地獄が待っています。 私の腰痛は、20代前半からの年代物でして、一度起してしまうと、回復は遅々としたもので、ひどい場合は、三ヶ月くらい痛みが取れない事もあります。 たった450グラムで、この様ですから、一眼デジカメを持ち歩けるとは、到底思えません。 一眼デジカメの重さといったら、本体だけで500グラム、それにレンズが標準ズームでも200グラム以上しますから、最軽量の組み合わせでも、デジビノよりずっと重いのです。 その上に、三脚なんざ担いだ日には、もう10分も動けますまい。

  私が、一眼デジカメで撮りたいと思っている写真というと、フィルム一眼の頃にやっていたのと同じように、ISO感度を下げて画質を緻密にし、絞りを限界まで絞って全域にピントを合わせた、極力鮮明な写真ですが、それを撮るには、三脚は必須でして、手持ちでは話になりません。 私の趣味に関係なく、一眼レフというのは、三脚とセットにした時に、その特徴的機能が発揮される機械なので、手持ちでは宝の持ち腐れになってしまうのです。 一眼レフの手持ちで撮れる写真は、コンパクト・デジカメでも撮れるはず、どころの話ではなく、むしろ、コンパクト・デジカメの方が、ずっとうまく撮れます。

  一眼デジカメをすでに所有している方々にお薦めしたいのですが、ちょっとした散歩や、他の人と一緒に行動しなければならない旅行など、三脚を持って行けない状況である事が分かっていたら、一眼より、コンパクト・デジカメを持って行った方が、断然、有効に使えると思います。 三脚使用と手持ちとでは、「あ! これは撮れそうだ!」と思う光景に出会う確率が、5倍くらい違うんじゃないでしょうか。 特に、仰角撮影になると、三脚では最初から諦めてしまう事が多いです。 脚を全展長し、エレベーターもいっぱいに延ばして、高い木の枝に咲いた花を撮る自分の姿を想像すると、あまりの面倒臭さに、撮る前からうんざりしてしまうのです。

  「手ブレ補正があるから、三脚無しでも、大丈夫」と思うでしょうが、手ブレ補正は、コンパクト・デジカメにもついていますから、同一条件の勝負となれば、軽い方が勝ちます。 それに、一眼デジカメは、ミラーの動作がある分、より不利になります。 そういえば、キャノンやペンタックスの一眼デジカメでは、入門機種から、≪ミラー・アップ機構≫が搭載されているようですな。 無いよりはあった方が、ずっと有用ですが、ミラー・アップしている間はファインダーは真っ暗ですから、出番はセルフタイマー使用時などに限られるわけで、やはり、手持ち向けではありません。

  ああ、この種の、カメラに関する能書きは、今までさんざん書いて来ましたねえ。 こういう事は、写真趣味をやっている人なら、大抵頭に入っているのですが、写真に興味が無い人は全然知らないし、これから写真を始めようという人も、ほとんど知りません。 でもって、「せっかく新しい趣味を始めるのだから、道具はいい物を揃えよう。 途中で買い直す事になったりしたら、却って高くつくし」といった、その時点に於ける最も合理的な判断を下して、最初から一眼デジカメの、Wズーム・キットを買ってしまうのです。

  ところが、その、安くても5万円以上する、高級感たっぷりの一眼デジカメで、「とりあえず、庭の花でも撮ろうかな」と思い、サンダルをつっかけて、庭に出て、花に近づいて、いざ撮ろうとすると、あら、どうしましょ! ピントが合わせられない事に気付くんですな。 18-55ミリの標準ズームじゃ、最短撮影距離は、せいぜい寄っても、ワイド端で25センチでしょう。 花撮影で25センチも離れたら、花の写真というより、植物の写真になってしまいます。 ここに於いて、5万円も出して買った高級カメラなのに、マクロ撮影ができない事を知って、驚愕するわけですな。 こと、マクロに関しては、一万円以下の特売・投売りコンパクト・デジカメにも劣るわけです。

  で、その後、どういう行動を取るかというと、気が動転してしまうんでしょうねえ、何と、やしやし、マクロ・レンズを買いに行くのですよ。 マクロ・レンズもピンキリですが、平均的な品で3万円くらいするでしょう。 ほーら、もう8万円消えてしまった。 これと全く同じパターンで、望遠ズームが、テレ端300ミリくらいでは、撮れる物が無い事に気付き、レンズと同じくらいのお金を出して、テレ・コンバーターを買ったりしてしまいます。 更に、ネットで知り合った写真趣味の先輩から、「やっぱ、レンズは、単焦点の方がボケ味がいいですよ」などと唆され、よせばいいのに、広角・標準・中望遠・望遠と、単焦点レンズを揃えてしまったりします。 中には、魚眼レンズまで買って、一度しか撮らずにしまいこんでいる馬鹿もいる。 あんなもんで、何を撮るんじゃい? 買う前に、ちっと考えてみりゃ、分かりそうなもんだ。

  こういう状態を、カメラ病用語で、「≪レンズ沼≫に嵌まった」というらしいですが、一度嵌まると、破産するまで抜け出せないらしいです。 これねえ、カメラ・メーカーが仕掛けている、一眼レフの罠でして、レンズ・キットや、Wズーム・キットというのは、わざと、そういう不満が出るような組み合わせにしてあるんですな。 もし、良心的な技術者なら、コンパクト・デジカメの高倍率ズーム機につけているような、マクロから広角・望遠までカバーできるレンズをセットするでしょう。 ところが、それではレンズ沼に嵌められないので、そもそもそういうレンズを作っていないのです。 恐ろしい話じゃありませんか。 どれだけの人間が、この罠のせいで、身上潰したことか。

  だけどねー、趣味というのは、そういう方向に行きがちなものなのですよ。 だから、レンズ沼に嵌まってしまった人達を、あまり責めるのも、気の毒な気はするのです。 趣味は、徐々にうまくなって、自分の成長が実感できる間は面白いのですが、当初の目標を達成してしまうと、そこから飽き始めます。 特に、大人の趣味は、その傾向が強い。 飽きてしまっているものを、更に続けようとしたら、道具を変えたり、場所を変えたりする以外に無いのです。 釣り、ゴルフ、走り屋、パソコン、みんな同じですな。 本当は飽きているくせに、それを認めるとやめなければならないので、道具を変えて延命を図っておるのです。

  カメラの機構について知識がある人達は、一眼レフもコンパクト・カメラも、撮れる写真の95パーセントくらいは、同じである事を知っています。 デジカメの場合、むしろ、コンパクトの方が、カバー範囲が広い事も承知の上。 それでも、一眼レフを使いたくなるのは、写真趣味に飽きるのが嫌だからです。 新しいレンズやボディーを買い続けていれば、常に新鮮な気持ちで撮影に出かけられるからです。 まあ、一回撮ってしまえば、それで飽きてしまうという、非常にコスト・パフォーマンスの低いリフレッシュ方法なわけですけど。


  おっと、何だか、途方もなく脱線しておりますな。 一眼レフ批判は、もうええっちゅうに。 なんてったって、つい先週まで、私自身、一眼デジカメのボディーが欲しくて、閑さえありゃあ、中古品市場を調べてたんだから。 くっそー、腰さえ丈夫なら、買えたのになー。 これも、運命か。 ああ、断っておきますが、私は別に、自分が腰が悪くて重い器材を持ち運べないから、腹癒せに一眼レフを貶しているわけではありません。 私が繰り返し書いている一眼レフの欠点は、すべて、実際に存在するものです。

  でねー、諦めるしかないんですよ。 だって、買ったとなれば、外へ持ち出さなければ、意味がありませんし、持ち出せば、確実に腰を潰してしまうのだから、もう買わない以外に選択肢がないじゃないですか。 せっかく高い金出して買ったカメラなのに、家の中だけでしか撮れないなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があります。 家の中で、何を撮るっちゅーねん? 出掛けてナンボなんですよ、写真趣味は。 で、泣く泣く諦めたってわけですよ。 厳しいねえ、現実は。


  というわけで、ここから先は、私がここ2週間ほどの間にネット上で集めた、一眼デジカメに関する情報を元にした、純粋な余談です。

  ペンタックスの一眼デジカメですが、610万画素の、≪ist≫系列機や、≪K100D≫系列機は、ISO感度が、最低で200なんですね。 やはり、私としては、100は欲しいところです。 ちなみに、私はフィルム時代には、100を使ってました。 暗くなっちゃって、スローシャッターしか切れないんですが、動かない物しか撮らなかったので、そちらは問題なし。 ただ、三脚必須で、セットするまでの時間がかかってしまって、それが面倒でした。 半日歩いて、7・8構図しか撮れないのが普通。 1構図辺り、露出をずらして、3枚ずつ撮るので、それだけでも、24枚撮りフィルムが、ほぼ消えてしまいましたけど。

  「結構、高級なデジカメを持っているけど、ISO感度なんていじった事が無い」という方は、一度、マニュアル設定で、100以下にして撮ってみると、面白いですよ。 画質がポンと上がるから。 手ブレ補正があれば、手持ちでも何とかいけるでしょう。 キャノンの一眼デジカメは、入門機の≪EOS Kiss≫でも、100まで下げられます。 ペンタックスの入門機も、≪K-m≫以降の機種なら、OK。 厳しいのがニコンで、中級機以上でないと100が選べません。 ニコンの一眼デジカメは、デザインが私好みなんですが、スペックを仔細に見ると、思わぬ所に落とし穴があります。 だけど、≪D二桁≫系列機を買っている人達は、そんな所、気にもしないんでしょう、きっと。

  そういや、≪カメラのキタムラ≫の、アウトレット・コーナーに、≪EOS Kiss F≫の、レンズ・キットやWズーム・キットが大量に出ているの、知ってます? 安い店舗だと、Wズーム・キットで56000円などというのがありましたが、相当お買い得ではありますまいか。 ≪EOS Kiss F≫は、すでにカタログ落ちしていますが、現行機の≪X2≫より、画素数が少し落ちるだけで、他のスペックは大して変わりません。 レンズは全く同じですから、どう考えても、お買い得でしょう。 しかし、どうして、あんなにたくさん、アウトレットに出て来たのか、それが不思議です。 捌き切らない内に、≪X2≫を発売しなければならない事情でも出来したんでしょうか。

  キャノンといえば、最近出た、≪EOS 5D MarkⅡ≫という機種は、撮像センサーの大きさが、フィルムの35ミリ判と同じ面積だそうですな。 「おっ! とうとう、そんなのが出たか!」と目を見開きました。 普通、一眼デジカメの撮像センサーは、≪APS-C≫サイズといって、35ミリ判の半分くらいの面積しかなく、そのせいで、同じレンズをつけても、焦点距離が約1.5倍になってしまいます。 それが、≪EOS 5D MarkⅡ≫では、35ミリ判と全く同じ焦点距離で撮れるというわけです。

  望遠系レンズの場合、撮像センサーが≪APS-C≫サイズなら、200ミリのレンズが、実質300ミリ相当の画角になっていたため、お得だったわけですが、≪EOS 5D MarkⅡ≫では、そのメリットが無くなります。 また、≪APS-C≫サイズ用に作られた、≪18-55ミリ≫といった標準ズームを、≪EOS 5D MarkⅡ≫につけた場合、広角に寄り過ぎていて、18ミリで撮ったりしたら、見るに耐えないくらい画像が歪む事と思われます。 うーむ、良い事なんだか、悪い事なんだか。

  とはいえ、一旦フルサイズが登場したからには、今後、各社雪崩を打って、右倣えするものと思われます。 最初は、プロ向けやハイアマ向け機種に導入され、いずれは、ローアマ向けにも普通に搭載されるようになるでしょう。 というか、フルサイズが定着すれば、≪APS-C≫サイズの撮像センサーは、生産中止になってしまう可能性が高いです。

  そういや、キャノンの交換レンズ群を見ると、従来の一眼デジカメ専用のレンズだけ、≪EF-S≫レンズとして別扱いにしていますが、あれは、35ミリ判サイズの撮像センサーが主流になったら、お払い箱にする準備なのかもしれませんな。 現在、キャノンが売っている一眼デジカメ用レンズの大半が、≪EF-S≫レンズなのに、そのドル箱商品ですら、際物視しかしていないところが、トップ・メーカーの冷徹さを物語っています。

  デザインだけ見ると、オリンパスの≪E-三桁≫系列機もカッコいいと思うんですが、オリンパスは、独自規格の落とし穴があるので、ホイホイ飛びつくわけにいかんのですよ。 あの、≪XDピクチャー・カード≫が、果たして、いつまで店頭に置かれている事やら。 もしオリンパス製品を買うなら、先々不足すると思われる物や、消耗品の類は、多めに買い溜めておいた方が無難だと思います。 デザインは、いいんだけどねえ。 ≪E-P1≫は、薦めません。 前にも書きましたが、あれは、機構的に、一眼レフではないですから、一眼レフの利点を備えていませんし、コンパクト・デジカメとしては重すぎで、ノスタルジックな外観以外、いい所がありません。

  ペンタックスの新製品、≪K-X≫ですが、ボディーとグリップの色を組み合わせて、100タイプ選べるそうです。 ペンタックスの一眼デジカメは、ラインナップがシンプルで、お客を迷わせない所が良かったんですが、今回は、全然別の方向性で、大いに迷わせる事になりそうですな。 だけど、色なんかはどうでもいいとして、≪K-X≫は、性能的には申し分無いと思います。 買って損という事はないでしょう。 ちょっと、高いけどね。 乾電池モデルは、バッテリーの劣化を気にしないで済む点が優れています。