2006/09/24

蒐集と罪

  尾辻克彦さん、本名、赤瀬川源平さんの短編小説集、≪ライカ同盟≫を今しがた読み終わりました。 90年代前半の作品群ですが、専ら中古カメラ趣味について書かれているので、古いという感じはしませんでした。 一応、小説という事になっているんですが、ほとんど随筆ですな。 私小説と呼ぶのが最も近いか。 いや、私小説自体が随筆と大差ないという気もするし・・・・。 つまり、大体そんな本だったわけです。

  いや、今回は文学論じゃないんですよ。 カメラ趣味の話。 赤瀬川さんも前書きで告白していますが、カメラをやたらに欲しくなるという衝動は、ありゃ、明らかに病気ですな。 「上品な趣味だ」なんてのは、錯覚もいい所で、精神状態に異常を来たしているのです。 カメラ欲しい病に罹っている患者は、「余計なお世話だ!」と怒るでしょうが、余計なお世話ではすみません。 意味のない事に大金を使うのは、省エネルギー社会に於いては、倫理的犯罪に等しいです。

  ご存知の通り、カメラを集めている人というのは、あまり写真を撮りたがりません。 そもそも、プロの写真家でもないのに、年柄年中バシャバシャ写真を撮っているというのも、資源の浪費という点で些か問題ですが、まあ、話が複雑になるので、そちらには触れないとして、写真を撮るという本来の使い方をしないのに、カメラだけ集めるというのは、明らかに異常な行動です。 本人は、「自分の金で買っているんだから、他人に迷惑は掛けていない」と言うでしょうが、使わない物を大量に購入するという行為は、本来、他の方面に回されて、有益に使われるべき資金を、殺してしまっている事になります。

  中古カメラの価格は、機能や性能ではなく、「どれだけの人間が欲しがっているか」で決まっているのが実情ですが、これはバブル期に於ける地上げや株投機と何ら変わりがありません。 実体が無いのに金だけがやりとりされているのです。 たくさんの中古カメラを数百万はたいて買い集めても、部屋の棚に並んで当人を慰めるだけで一円も生み出しませんが、その金を環境保全に振り向けたら、相当な活動が出来る事は容易に想像がつくと思います。

 「中古カメラ趣味は文化だ」と言うかもしれませんが、そんなの、「煙草は文化だ」と嘯く肺癌予備軍の開き直りと選ぶ所がありませんな。 個人の趣味はどこまで行っても個人の趣味で、文化にはなりえません。 それなら、自宅の庭先で自分の排泄した糞尿を鍋で煮るのも文化なんでしょうか? 何でもかんでも、文化だといえば許されると思っているようですが、地球がエネルギー欠乏で未来暗澹たる窮地に追い込まれているという時に、文化で全て通ると思ったら大間違いです。

  カメラ・マニアばかり吊るし上げるのも不公平ですな。 当然これは、書画骨董趣味など、実体価値以上の価格で取引されている物すべてについて同じ事が言えます。 作家でもないのに書斎を構えて、読みもしない本を壁一面の本棚に飾っている人や、家中をキャラクター・グッズで埋めている人なども同じ穴の貉です。 その金を他の事に使おうとは、一度も考えた事がないんでしょうか?

  なんで、こんな嫌味にしか聞こえないような事をわざわざ言うかというと、これら、趣味に大金を投じた人達が死んだ後、蒐集された高価なガラクタのほとんどが、家族の手によって二束三文で売られてしまうからです。 売り物になるのはまだいい方で、ゴミ捨て場に直行するケースも少なくありません。 家族にしてみれば、お宝どころか、全く価値が無い障碍物であり、さっさと処分して家の中をすっきりさせたくて仕方ないのです。 ああ、無残! いや、処分された蒐集物がではありません。 その蒐集物を購入するのに費やされた資金が惜しいと言っているのです。 当人が下らない欲に気を惑わされなければ、社会に還元されたり、お金のままで子孫に残されたり、いくらでも有用な使い道があったものを。


  話をカメラに戻しますが、デジカメ時代になって、フィルム代や現プリ代から解放されたから、心置きなく撮り捲っているという人もいるでしょう。 しかし、そんなにうまくは行かないのがこの世の中なんですな。 デジカメの画素数は増える一方ですが、画像が緻密になればなるほど、データ量も増えるので、今度は保存が難しくなります。 写真を撮る人は誰でも、原画像を残しておきたいと思うものですが、1000万画素なんて画像を全部保存しようと思ったら、ハード・ディスクをいくら買い足しても追い付きません。 デジカメでも、結局金が掛かるのです。

  昨今、頭打ちになったコンパクト・デジカメに代わり、一眼レフ・デジカメに人気が集まっているようですが、あれこそ省エネに逆行する買物というものです。 まったく、無駄。 重くて嵩張るだけで、いい事なんて何もありません。 どうやら、一眼レフ・デジカメが売れているのは日本だけのようですが、知能低下の影響がこんな所にも現れているんですな。 あのねえ、一眼レフというのは、フィルム・カメラ時代に、レンズを通して実際に撮影される構図を見る為に作られた機構であって、ただ≪高級だ≫って意味じゃないんですよ。 そもそも、デジカメはレンズを通した構図を液晶画面で確認できるから、コンパクト型でも、一眼レフと同じ機能が備わってます。

  一眼レフなら、レンズ交換が出来ますが、今やそれも無意味です。 昔はズーム・レンズが無かったので、標準、広角、望遠、マクロといった具合に複数のレンズを使い分けていたわけですが、今はズーム一本で、ほとんど間に合ってしまいます。 それとも、ズッシリ重いレンズ・バッグ担いで、撮影に行きますか? 地獄ですぜ。 そもそも一体、何を撮るんです? 風景を撮るなら、毎週休みの度に三時起きする必要があります。 人物写真はモデルが見つかりません。 勝手に他人を撮れば、警察に突き出されるのがオチ。 花でも撮りますか? それなら、マクロ一本で済むけど、それ以前に、コンパクト・デジカメでも充分用が足ります。 なぜ、わざわざ一眼レフなど買うんです?

  年配のカメラ・マニアが一眼レフ・デジカメを買いたがるのは、昔買い集めたレンズ群をデジカメで使ってみたいからですが、あれもどうかと思います。 曰く、「レンズの味が違う」のだそうですが、それらの≪名品レンズ≫で撮影された写真を、私がネット上で見比べた限りでは、区別がほとんどつきません。 よく言われるのが、「硬い/柔らかい」という表現の使い分けですが、ピントが甘ければ柔らかく感じ、ピントがキリキリに合っていれば硬く感じるのであって、本当にレンズの味とやらが関わっているかどうかは大いに怪しい所です。 大抵の場合、「このレンズはいい!」という感想は、「この写真はいい!」という感想と混同されています。 試しに名品レンズで、つまらん対象を撮ってみれば宜しい。 やっぱり、つまらない写真になるだけだから。 ちなみに、もっと分からない表現が、「このレンズは奥行きの描写に優れてる」という物。 あのねえ、奥行きがある対象を撮っているから、奥行きがあるんですよ。 そうは思いませんか?


  まったく、下らない事に金を使う人が多すぎる。 だから、日本は一人当たりのエネルギー使用量が減らないんです。 先進国の国民というのは、人類を自滅に追いやる癌細胞みたいなもんですな。 自分が稼いだ金なら、どんな無意味な事に使ってもいいと思っている。 地球全体のエネルギーは有限なんですよ。 どうせ、どんなに道楽全開で暮らしても、いつかは死んでしまうんだから、少しは世の中の役に立つ生き方をしたらどうです? 生きているだけでも幸福と思うべきです。 カメラの蒐集など言語道断だとは思いませんか?