2006/08/13

小松作品に非ず

≪日本沈没 第二部≫

  四半世紀前に≪日本沈没≫が大ブームになった頃から、「いずれ続編が出る」と言われていたのですが、一向に出る気配が無く、すっかり忘れた頃になって、別の作家との共同作品という形で出版されました。 単行本、1800円。

  もし小松左京さんが一人で書いたものなら、出来の良し悪しに関係なく、即買ったと思いますが、実際に執筆を担当した谷甲州という作家について、何の情報も持っていなかったので、一応警戒して、内容をざっと読んでみてから、買うか買わぬか決める事にしました。 1800円は結構な値段ですから。

  二軒の本屋で、合計二時間くらい拾い読みしたので、大体の中身は読み取れたと思うんですが、買う気にはとてもなれないような代物でした。 小松左京さんの名前は入っていますが、往年の小松作品とは似ても似つかぬ、全く別の作風によって書かれた小説でした。

  1973年に世に出た≪日本沈没≫の方は、読書嫌いの私でさえ何度も繰り返し読んだ長編SFの傑作ですが、この≪第二部≫は、そもそもSFと言っていいのかどうかすら躊躇われるような作品です。 一番近いジャンルは、15年位前に流行った≪仮想戦記物≫でしょう。 「太平洋戦争で日本の方が勝った」などといった仮想の歴史を設定して、その経過をリアルに書き込んでいくという、文学とはおよそ縁遠いあの馬鹿馬鹿しくも有害なジャンルです。

  最も違和感があるのは、元日本があった洋上での戦闘場面です。 相当なページ数が割かれていますが、小松左京さんは、そういう緊迫した状況をリアルタイム風に描写するといった書き方はしないんですよ。 いや、小松さんだけでなく、往年のSF作家で、戦闘場面を長々書き込む人というのは、まず一人もいなかったと思います。 なぜなら、そんな事をすれば、SFの範疇から食み出してしまって、戦記物になってしまうからです。 非常に単純な事ですが、この谷という作家は、平気でその禁を犯してしまっています。

  文体そのものは軽いという事はなく、谷氏に文章力がある事は直ぐに分かるのですが、往年の小松作品に特徴的だった知識・教養・情報の奔流は全く感じられません。 いかにも、「予め決められた設定を、メモで確認しながら書き込みました」といった平板な書き方になっています。 頼まれ仕事を淡々とこなした形跡がそこかしこに見えて、小説の命である生気が感じられないのです。

  問題点は、執筆者の書き方以前にも存在します。 物語の設定にしてからが、娯楽小説に仕立てるには無理があるのです。

  日本が沈没した後も日本政府が存続しているというのは、どうにも不自然ですし、艦艇などを25年間も保有し続けているというのはもっと変です。 沈む列島から人間を脱出させるだけでも、国家財政が何百回も破綻するほど金が掛かるのに、徴税権を失った政府が、メガフロートの建設などできるはずがありません。 日本人が世界中に散らばって、各地で共同体や自治区を作って暮らしているという事になっていますが、彼らは自分達が生きる事に精一杯なはずで、亡んだ国の亡霊政府に資金提供をする余裕など無いと考えるのが普通でしょう。

  ユダヤ民族が比較例として出て来ますが、日本人はユダヤ人ほど金儲けの才がありませんし、宗教による結束力も無いです。 実際に外国に存在する日系人社会を見ても分かるように、日本人だけで片寄せあっている間は、現地に全く溶け込めず、日本人社会から離れて、言葉も生活様式も現地化した者だけが成功を掴んでいます。 民族の同一性を残しながら現地とも一体化していく華人のような能力は日本人には無いのです。 この作品の中でも「四世代たてば、日本を覚えている人間はいなくなってしまう」と語る人物が出て来ますが、四世代なんぞ、とてももちますまい。 帰る所がないとなれば、常識的な判断力を持った人間なら、自分の子供達には、現地社会に溶け込む事を最優先させるはずで、ものの二世代で消えてしまいます。

  メガフロートというのが、またバブル時代の発想でして、今頃こんなものを出されると、ガックリしてしまいます。 まして、たった25年前に巨大な列島がそっくり沈んでしまったような地殻不安定な所で、浮島なんて危なっかしい物を作るかね? 常識的に考えても、絵空事だと分かりそうなものです。

  日本人が移住先の現地社会と起こす揉め事についても書かれていますが、それ以上に周辺国を悪辣に描いている部分が多くて、読んでいて気分が悪くなります。 特に中国の描き方は糞味噌で、この点、昨今本屋の平積み台を占領している中国嫌悪を煽る事を目的にした低劣本と大差ありません。 別に特定の国を扱き下ろさなくても、≪第二部≫は書けたはずですが、これはどういう趣旨なんでしょう? 最近の知能低劣な読者に受けようと思って、わざわざ盛り込んだんでしょうか? これまた、往年の小松作品であれば、こんな客観性の無い外国観など絶対に見られなかったんですがねえ。 そもそも、私がコスモポリタニズムを学んだのは、小松さんの小説からだったんですよ。 コスモポリタニズムという言葉は、この作品の中でも何回も出て来ますが、そのコスモポリタニズムが、作品に携わった人達に決定的に欠けている事は、皮肉を通り越して噴飯物です。

  正直な感想、この≪第二部≫に読む価値は無いです。 SFとは到底言えませんし、科学技術知識も上っ面を撫でる程度で、知的好奇心を刺激するようなレベルではありません。 とにかく、メガフロートや地球シミュレーターは勘弁してくれ。 15年以上前に取り沙汰された技術を、新刊書で使わないでくれ。 もう情けなくて、涙が出てきます。 往年の小松ファンの涙です。 少しは意味があるでしょう。

  小松左京さんがこの作品の執筆を他の人に任せたのは、年齢から来る体力上の理由からだったそうですが、執筆はしなくても、自身の名前をつけて出版するからには、一通り目を通したでしょう。 その上で、OKを出してしまったというのが、私は悲しいです。 この作品のつまらなさ、異常さ、奇妙さ、滑稽さ、時代感覚のズレ、それらを小松さん当人が見抜けなかったか、もしくは、見抜きはしたが、「それでもよかろう」と許してしまったかのどちらかなわけですが、どちらにしても、判断力が著しく衰えたとしか結論できないからです。

  この本は出版されない方が良かった本だと思います。 今の若者が読んでも、全く理解できないか、偏った外国観を刷り込まれるかのどちらかがオチですし、往年の小松ファンは、ただただ胸を痛め、涙するだけです。 ≪ゴルディアスの結び目≫を書いた作者の名が、こんな作品にも冠されるとは、悪夢としか思えません。 日本のSFは、やはり、とうに死んでいたんですね。