2006/06/18

惻隠の心

  最近、≪国家の品格≫という本で話題になっている藤原正彦さんですが・・・・・。

  そういえば、養老孟司さんの≪バカの壁≫も同じ新潮新書でしたが、似たような読者層を狙ってくるものですな。 ただし、≪バカの壁≫が一応学術的な理論であるのに対し、≪国家の品格≫は、個人の意見に過ぎず、この違いはだいぶ大きいです。

  先に評価してしまうと、こういう本はかなり危険です。 定説でもなく、その反対でもなく、人々が普段思っていないような切り口から分析を始めているので、読んだ者は、目から鱗が落ちたような気分になり、「この著者は鋭い!」と感心してしまうわけです。 しかし、現実には、コロンブスの卵的発想というのはそうそう存在しないものです。

  この著者の意見の最大の問題は、≪武士道≫がどんなものなのか理解していない所にあります。 理解していないというより、誤解しているのです。 大方、武士道について勉強しようと思った時に、新渡戸稲造の≪BUSHIDO≫を最初に読んでしまったのでしょう。 しかし、新渡戸の≪BUSHIDO≫は、山鹿素行の≪士道≫の考え方を基点にしたもので、本来の武士道からは外れています。 ≪葉隠≫を先に読めば、武士道の本質がよく分かるんですが、本の題名が直接的なせいで、先に新渡戸を読んでしまう事が多く、勘違いする者が後を断ちません。

  武士道と士道の違いは何かというと、士道には、儒教の要素が加えられているという事です。 武士道は、「とにかく斬って斬って斬りまくれ。 逃げるくらいなら死ね。 若い内に人の一人や二人殺せなくては、一人前の武士にはなれぬ」といった内容で、思想とはいっても、理論も糞もありません。 それではあまりにも野蛮なので、儒教と融合させて、文明的な人生指標に持ち上げようとしたのが山鹿素行の士道なのです。 実際には、水と油を混ぜるようなものですから、この試みは失敗したわけですが、新渡戸は外国人に日本人が野蛮でない事を説明するために、死んでいた士道理論を引きずり出して来たわけですな。 しかし、書名を≪BUSHIDO≫にしてしまったために、現在のように誤解が蔓延する事になったのです。

  藤原正彦さんが「日本人がかつて持っていた美徳」として最も重視している≪惻隠の心≫ですが、これは武士道とは何の関係もなく、完璧100%、儒教の理念です。 ≪孟子≫の中で最も有名な言葉といっても良く、儒教をちょっとでも習った人なら知らない人はいません。 それを「日本の武士道の基本的思想」としてしまっているわけで、こりゃもう、鼻で笑うなという方が無理でしょう。 自説が成り立つ根本的な部分で、初歩的勘違いをやらかしているのです。 武士道は戦場の血で血を洗う修羅場の中から生れた考え方ですから、「弱者をいたわる心」なんぞとは全く無縁、むしろ正反対です。 敵ならば女子供でも容赦なく殺す。 赤ん坊を槍で串刺しくらい当たり前。 それが武士道です。 戦場で≪惻隠の心≫なんざ、魚市場で相対性理論の講義をするようなものですな。

  ≪国家の品格≫という本の題目は、「惻隠の心を始め、日本人がかつて持っていた美徳を取り戻そう」という主張なのですが、その美徳とやらが、日本独自の物ではなく、外国産なのですから、主張自体が成り立たない事になります。 ≪惻隠の情≫そのものは、確かに美徳だと思いますが、それなら儒教の推薦本でも書けばいいのであって、「かつての日本人」を美化する必要は無いはずです。

  藤原正彦さんによると、「卑怯な事をしない」というのも日本人の美徳だそうですが、それは世界中に普遍的に見られる考え方で、日本独自の物ではありません。 むしろ、日本人はどちらかというと卑怯な方だと思います。 それが出来る立場に立つと、自己中心的な価値観を他人に押し付ける行為が当然のように行なわれているではありませんか。 自分の出世の為だけに部下を家畜扱いする上司とか、勝手に掟を決める町内会長とか、セクハラも許されると思っている自治体首長とか、枚挙に暇がありません。 日本人を卑怯でないと信じようとするから、歴史上、社会上、様々な場面で現実とのギャップが生れるのであって、最初から卑怯者が多いと思えば、どんな事件が起きても、「なるほど、これは日本的だ」と納得できるようになります。 たとえば、≪耐震強度擬装事件≫の関係者ですが、至って日本的な人達だと思いませんか? ああいう言い逃れや責任転嫁を得意とする人物は身の周りに無数にいます。

  藤原正彦さんの意見の中で、もう一つ気になるのは、「論理には価値がない」と、いとも軽々しく断じてしまっている事です。 「理屈を並べるよりも、昔からの道徳・倫理の方が大事だ」と言っているのですが、論理の意義を否定する論拠として、「論理は最初の前提を間違えれば、後の展開がすべて間違いになってしまう。 だから価値がない」と述べているのは、あまりにも幼稚な理屈です。 そんな事を言い出せば、道徳・倫理だって、最初の取り決めが間違っていれば、全部間違いではありませんか。 どちらでも、最初の間違いというのは起こりうるのであって、条件は同じです。 それならば、ただ愚直に道徳・倫理に従うより、論理に則って考える方が遥かに優れていると思います。

  そもそも日本人は頭が単純過ぎて論理を理解できないので、「論理に価値はない」と言われると、「宿題なんかやらなくてもいい」と親に言われた子供のように喜ぶ人が多いわけですが、それで済むはずがないのが、グローバル時代というものです。 明治以来、自分の国の分も弁えず、国際情勢の分析も出来ず、ただただ外国を攻めていれば良いと信じ込んでいたから、ボロクソに負けて滅亡したのであって、論理的な判断力があれば、そもそも仕掛けられてもいないのに、自分の方から戦争を仕掛けるような国にはならなかったでしょう。 論理の否定など、とんでもない話です。 日本人の美徳どころか、重大欠陥を育成しているようなものです。 どうも、この人の言う事には、考え足らずな所が多いです。 なんだか、ちょっとだけ教養を聞きかじった中学生の意見を聞かされているような感じがします。

  しかし、本当に頭痛がするのは、この種の本を買う人が大量にいるという事実ですな。 世界の思想史に関して一通り知識を持っていれば、こういう本が変だという事は、立ち読みしただけでも分かると思うんですがねえ。 教養レベルがどうしようもなく低いんですなあ。 また、これを読んで、自分の意見のように吹聴して回る大たわけがうようよいるんでしょう。 何度も言うようですが、他人の意見をそのまま頭に入れるのは、低知能・無教養の証明ですぜ。 ネット上でも、この種の本をほぼ丸写しにしたような文によく出食わしますが、ベストセラーなら尚の事、ネタ元がどこかすぐにバレます。 パクリ行為は、教養ある人間から「最低のアホウ」と蔑まれてしまうのだという事を自覚すべきでしょう。

  ここ15年ほど、日本人の書いた本で、知的好奇心を刺激するようなものが全く見当たりません。 「とんがった事を書けば、世間にセンセーションを巻き起こせるだろう」という下心丸出しの本ばかり。 買う方の教養レベルが落ちているから、売る方もそういう読者に受けがいいような本ばかり出すんでしょうが、ずーっとそんな状態が続くと思うと、不安がどんどん増大します。 なんだか、世界から取り残されていくような焦燥感に襲われませんか?