2008/01/20

バブルの記憶

  2007年の映画、≪バブルへGO!! タイムマシンはドラム式≫を見ました。 なんだか不思議な感覚にさせられる映画ですな。

  ストーリーは、ほぼ完全に、≪バック・トゥ・ザ・フューチャー≫のなぞり。 なぞりと言えば聞こえはいいですが、あからさまに言えば、パクリです。 もし、アメリカ国内で、こういう映画を無断で作ったら、≪盗作≫として訴えられても文句が言えないほど、よく似せてあります。 「タイムマシン物で、面白くしようと思うと、結局同じような話になってしまうのだ」という見方もありますが、「だったら、最初から作らなければいいだろう」と言い返されれば、一言もありますまい。

  非常に奇妙なのは、映画にせよ、ドラマにせよ、アニメにせよ、日本の映像製作者というのは、なぜか、「アメリカ映画の人気作品なら、パクっても許される」と自分勝手に思い込んでいる節がある点です。 ディズニー・アニメの≪ライオン・キング≫がヒットした時、日本の漫画・アニメ関係者が連名で、「手塚治虫の≪ジャングル大帝≫を下敷きにしている事を、ディズニーは認めるべきだ」という声明を出した事がありましたが、盗人猛々しいとはこの事で、日本の漫画・アニメが、アメリカ映画の作品や作中ネタをどれだけ、パクりまくっているか、自分のやっている悪事には、とんと気付かないか、気付かないふりをしているのです。 ≪マトリックス≫の銃弾を避ける場面など、どれだけパクったか、とても数え切れないほどです。 よもや、「許可を取ってやりました」いう奴はおるまいて。

  ただ、この≪バブルへGO!!≫という映画、「パクリ」の一言で切り捨ててしまうには、惜し過ぎる魅力を確実に含んでいます。 バブル絶頂期という、鑑賞者の多くにとって、それほど昔でもない時代をタイムトリップの対象にしているために、猛烈な懐かしさを感じさせてくれるのです。 17年前という間隔が絶妙。 これが、30年以上前だと、≪ちびまるこちゃん≫くらいの時代になりますが、その時代を知っている人間の数がガクンと減りますし、知っていたとしても、記憶の彼方にかすれてしまっていて、ピンと来ません。 人間の脳というのは、意外につまらない事を覚えているものですが、逆に言うと、大半の事は忘れているわけで、完全に忘れてしまった事には、懐かしさを感じようがありません。

  この映画の見所は、前半のバブル時代の再現部分に集中していて、そこだけは滅法面白いです。 主人公とバブル時代人のファッション・センスのズレも面白いし、単語の意味が変わってしまっている所も興味深い。 使えないと分かっているのにケータイを持って行って、撮影機能でちょっと活躍しそうになるけど、結局使えずじまいで終るという皮肉もグッド。 人気が出る前の飯島直子さんや飯島愛さんが出て来ますが、同じパターンを10人くらいやっても、よかったんじゃないでしょうか。 基本的に喜劇なのですから、くどいくらいの方がちょうど良い。 阿部寛さんが、知らずに自分の娘をくどいてしまう所や、広末涼子さんが、知らずに自分の父親にキスを許してしまいそうになる所は、≪バック・トゥ・ザ・フューチャー≫のパクリと分かっていても、やはり面白いです。

  後半に入り、主人公が未来から来た事を信じて貰える辺りから、クライマックスにかけて、あまりに教科書通りの展開になるため、少なからず白けます。 特に最大の見せ場が、料亭での乱闘というのは、≪水戸黄門≫でも見ているようで、捻りが無さ過ぎでしょう。 大体、料亭接待はバブル時代に限った事ではなく、江戸時代から現在までずっと行なわれていますから、なんで、バブルの象徴になると考えたのか首を傾げてしまいます。

  タイムトリップ物で、それでなくても複雑な人間関係になる話なのに、主人公とその母親、父親の人間ドラマはよく出来ていて、不自然なところが感じられないのは、脚本の巧さでしょうな。 この映画、SF設定は、≪バック・トゥ・ザ・フューチャー≫をそっくりパクり、人間ドラマだけオリジナルで勝負しているわけです。 脚本家の君塚良一さんといえば、≪踊る大捜査線≫で有名ですが、≪バブルへGO!!≫では、お涙頂戴場面が無い分すっきりしていて、気持ちよく見る事が出来ます。

  いささか違和感があるのは、主人公である広末涼子さんの年齢です。 役の上では22歳ですが、実年齢では26歳の時に撮った映画で、僅か四年とはいえ、このズレが気に掛かります。 広末さん当人が、バブル時代と現在の中間頃、すなわち、≪失われた10年≫の最中に登場して来た人なので、「2007年現代の若い娘」という印象が無いのです。 まあ、ぶっちゃけて言いますと、少々薹が立ってしまっているというわけです。 個人差を勘定に入れても、やはり、女性の22歳と26歳は、明らかに異なる年齢域だと思いますよ。 無理やり若ぶっているように見えてしまうんですな。 ただ、それはあくまで、広末さんの実年齢という裏事情を知っているから感じる事に過ぎず、演技そのものは100点です。

  広末さんに限らず、この映画、俳優の演技は、軒並みいいですな。 配役に冒険をせず、実力のある人だけ使ったのが功を奏したのでしょう。 阿部寛さんや劇団ひとりさんが見せる、17年間の年齢間隔の演じ分けは、お見事の一語。 薬師丸さんの若い頃の方が、ちょっと戻りきれなかった感がありますが、顔が変わってしまっていますから、こりゃ、しょうがないですな。 ちなみに、1990年の薬師丸さんというと、≪病院へ行こう≫の頃で、人気のピークを過ぎたものの、まだ美女の称号を失ってはいませんでした。

  だけど、90年頃の若い女性のファッションというのは、こんなにケバケバしかったかなあ? なまじ、時間がそんなに経っていないだけに、記憶がごっちゃになってしまって、流行の境目がわかりません。 80年代というのは、大人の時代でして、ファッションもずっと渋かったんですが、90年代になると、70年代への回帰志向が出始め、服装は派手になって行きます。 1990年というのは、ちょうどその変わり目に当たる頃ですから、たぶん、こんな感じだったんでしょうなあ。

  なんで、こんなに自信の無い書き方をするかというと、この映画で描かれているような、バブル絶頂期の浮かれ騒ぎというのは、東京ローカル限定の風景だったからです。 地方では、そんなに金があり余っていたわけではなく、街の様子も、今とさして変わりませんでした。 地方人にすれば、バブル時代と今とで決定的に違うといえば、銀行の金利くらいのものです。 私も、定期預金の金利が、6.4%だった時を覚えています。 あの頃は、「10年働いて金を溜めれば、後は仕事を辞めてしまっても、利息だけで食っていけるな」と人生設計をしていたものです。 まあ、その後、定期預金金利は限り無くゼロに近くなり、私の皮算用は露と消えたわけですがね。

  この映画、物語設定にも少々問題があります。 「バブル崩壊の引き金になった、≪不動産融資の総量規制≫を阻止すれば、バブル景気がずっと続いたはず」という解釈をしているわけですが、もし本当にそう思っているなら、経済の原理について決定的に理解が足りないです。 たとえ、国が≪不動産融資の総量規制≫に踏み切らなくても、他にも躓く要素はいくらでもあったのですから、早晩どこかが決壊して、バブルは崩壊したはずです。 あれが、バブル景気ではなく、実態のある好景気であれは、持続可能だったわけですが、当時の日本経済は、もはや背伸びしきって、アキレス腱が切れそうな状態でしたから、それ以上大きくなる事など出来るはずがありませんでした。

  ちなみに、バブル景気というのは、製品、不動産、特定の権利などに、本来の価値以上の値段がついてしまう現象が社会全体で起こる事です。 価値の実態が存在せず、ただ人々の、「それを手にいいれば、必ず値上がりするから、もっと大きな利益を得られるはずだ」という期待が増幅する事により、値段だけが上がって行きます。 ところが、「もしかしたら、もう値上がりしないのではあるまいか?」という不安が一旦芽生え始めると、全員が早く売ろうとするので、上がっていた値段が一気に実態価値まで落ちてしまうのです。 その際、早く手放した者ほど得をし、遅くまで持っていた者ほど損をします。 社会全体の富の総量は変わらないのですが、得した者も損した者も、それ以上損をする事を恐れて、お金を使わなくなるので、社会全体の経済活動が不活発になるのです。

  ただねえ、80年代からバブル崩壊直前までの東京が、輝いていた事は事実なんですよ。 私のような地味な暮らしをしている人間でも、東京に行ってみたいと思ってましたからね。 その頃までの東京は、名実ともに文化発信地で、日本の≪都≫だったんですな。 それに比べると、バブル崩壊以後、現在までの東京は、火が消えたようです。 通夜か葬式でもロングランで営んでいるかのよう。 超高層ビルの数は増えているのですが、さながら死んだ東京文化の墓標ですな。 その事については、またいつか、別の文章で書く事にします。

  ああ、そうそう、≪バブルへGO!!≫の中に、タクシーが何回か出てきますが、見たところ、トヨタの≪クラウン・コンフォート≫です。 これは明らかに時代考証の間違いで、この車は1990年には、まだ出ていませんでした。 当時、東京を走っていたタクシーは、≪クラウン・セダン≫です。 この映画、ファッションの再現には拘ったものの、車に関してはテキトーにやっつけたみたいですな。 映画やドラマの中で、時代を特定するのに最も有効な材料になるのは、車の型なんですがねえ。