2014/06/22

退職

  6月2日、夜勤の仕事中に、心臓の痛みで身動き取れなくなり、救急車で病院に運ばれて、入院する事、八日半。 ようやく、6月11日に退院した私は、すっかり、こちらで働き続ける意思を失い、翌12日に、会社に出ると、上司に、「退職したい」と告げました。 私が復帰意欲満々で、退院翌日から働きに来たと思っていたらしい上司は、不意を突かれたようで、「とにかく、金土日と休んで、もう一度考えるように」と言って、私を半日で帰宅させました。

  一応、「よく考えて見ます」と言って、引き上げて来たものの、医師の口から、「突然死」という言葉を聞いてからというもの、もう、私の心の中に、こちらで働き続けるという選択肢は無くなっていたので、考え直すまでもありません。 こちらにいても、何の得も無いのですよ。 「仕事を続けるか否かを、損得で判断できるのか?」と思う人もいるでしょうが、損得の問題なのです。 私の年齢で、私の健康状態で、私の家庭事情だとね。


  そもそも、今回の異動にしてからが、私の意思ではなく、会社の上の方が、勝手に決めて、勝手に人選して、勝手に送り出したのであり、出された人間の、99パーセント以上は、不満たらたら・・・、いや、憤懣やる方ないという心境で、いやいや、やって来たのです。 誰が、50歳近くになってから、600キロ以上離れた土地へ、自ら進んで移り住みたいなんて思うものかね。 これから人生の本番が始まる、20代の青年なら、いざ知らず。

  これが、静岡の工場が完全に閉鎖されて、全員が東北へ異動せざるを得ないというのなら、恨みっこ無しだったわけですが、今回は、単に工場を縮小するだけで、300人だけ出して、あとの3000人は、今まで通りの仕事を続けられるというのですから、不公平極まりない篩い分けだったのです。 異動を告げられた時、「なんで、俺が?」とは、誰もが思った事。 他人なら良いというわけではありませんが、自分でも良くないわけで、確乎たる理由もなしに選び出されて、その後の人生を狂わされたのでは、たまったものではありません。 こんなの、特攻隊と、どこが違う?

  最初は、「受け入れる工場側のニーズに合わせる」と言っていたのが、いざ、異動する人間が決まってみたら、50歳前後の年寄りが、異様に多い。 体力勝負の仕事なのに、年寄りを欲しがる工場など、古今東西、聞いた事がないのであって、この人選が、受け入れ側の都合でないのは明らかでした。 何が、ニーズだ。 笑わせるな。

  次に出て来たのが、「人事課が決めた」という噂ですが、これも、まるで信用できませんでした。 なぜなら、人事課というのは、現場で誰がどんな仕事をしているかなど、全然知らないからです。 ラインを動かすには、適材適所が肝要ですが、そういう事は、リストだけを見て、判断できるものではありません。 たとえば、交替制で同じ仕事をやっている人間を、両方、出してしまったら、そこの工程をやる者がいなくなってしまいます。 誰が、どの工程と、どの工程をできるかという情報は、現場だけが把握しているのであって、工場に足を踏み入れた事さえない、人事課ごときに分かる事ではありません。 数千人規模の工場では、尚の事。

  次に出て来た説が、「部長が決めた」というもの。 これは、たまたま、私がいた部署の部長が、鼻摘み者だったため、誹謗中傷の勢いを借りて流布した、純然たる揣摩憶測でした。 違う!違う! あんな、半分ボケたような部長が、そんな細かい人選なんて、できるものかね。 あんなのに決めさせた日にはし、残った工場が、ぐっちゃぐちゃになってしまうよ。

  で、最もありそうな人選の仕方というのが、上の方から、枝別れさせて行って、残す部下に、残す部下を選ばせたというパターン。 つまり、部長の下に、課長が二人いるとしたら、「こいつを残す」と決めた方に、「お前の判断で、残す係長を選べ」と命じます。 あとは、同じパターンを下へ下ろしていくだけ。 課長は、残すと決めた係長に、「お前の判断で、残す組長を選べ」と命じ、係長は、残すと決めた組長に、「お前の判断で、残す班長を選べ」と命じていくのです。 もちろん、各段階で、残す人間には、緘口令が敷かれ、出す人間には、何も知らされません。 私の会社の場合、組長まで話が下りて来れば、現場の事情が判断できるので、最終的に、どの工程員を残すか選んだのは、組長ではないかと思われます。

  で、組長が、何を基準に選んだかといえば、まず、自分の直の人間が優先されるのは、自然な欲求というもの。 あとで、この方式で人選した事が露見した場合、「同じ直なのに、俺を出しやがった」などと、恨みを買ったらまずいですから。 しかし、反対直であっても、出される人間は、恨む事は恨みますよ。 そういう事まで、考えていないんですかね?

  この事の証明として、私がいた組では、残る組長の直の人間ばかり残って、私がいた方の直は、数えるほどしか残れませんでした。 こんな有様でも、まだ、「人事が決めた」とか、「部長が決めた」とか、戯言を抜かすかね? 組長が決めた以外に、起こりえない結果ではありませんか。 火を見るよりも明らか。 大火災だよ。

  そもそも、自分が残りたいがために、他人を追い出すなんて、人間として、大大大問題でしょうが。 上司から、人選を命じられたら、「私には、他人の人生を左右するような判断はできませんから、他の人に命じてください。 それでも、どうしても選べと言うのなら、まず、私が出ます」と言えばいいじゃないですか。 カッコ良過ぎる? 馬鹿抜かせ。 そんなもの、良過ぎて、誰が損をするものか。 あんたの判断で、追い出されたら、そいつらは、確実に、大損をするんだぜ。 恨まれる方が、怖いと思わないのか?

  「人選の基準が分からない」という点には、出される事になった人間の、ほとんどすべてが、疑念を抱き、面談の場で訴えましたが、その質問の答えは、結局ありませんでした。 面談と言っても、ただ、意見を聞くふりをしただけで、何もする気がなかったのです。 とんでもない、やり方だ。 ここいらから、「事業再編のための異動とは、単なる建前であって、実質、リストラなのではないか?」「東北の工場を、追い出し部屋に使うつもりなのではないか?」と囁かれ始めました。

  ちなみに、私は、まだ、応援先の北海道にいる間に、その事に気づき、1月の半ばに静岡に帰ると、すぐに同僚に、その考えを伝えました。 しかし、最初の内は、「そんな事ないよ~。 うちの会社のグループは、リストラしないのが、自慢なんだから」と、本気にされませんでした。 ところが、2月、3月と経つ内に、異動組の、50歳前後の人間で、リストラ疑惑を信じない者は、ほぼいなくなりました。 実際に赴任する日が近づいて来るに連れ、移住を強制される事が、いかに大きな負担であるかが、分かって来たのでしょう。


  で、実際に、こちらに来たら、やらされた仕事は、20代の人間と同じもの。 私もそうでしたが、最初から病気がある者を除いて、ほとんど全ての年寄りが、ラインに入れられ、一工程やらされました。 しかも、扱いは、まったくの、ぺーぺーですよ。 工場の仕事というのは、実力の世界でして、工程を任された以上、一人でできなければ、一人前と見做されません。 「あのジジイ、使えねー」と見られてしまったが最後、自分の息子ほども若い人間に、小馬鹿にされる事になります。 年功なんぞ、何の役にも立ちません。

  静岡の工場でも、事情は同じですが、長年勤めた職場なら、人間関係が出来ているので、そんなにひどい扱いにはなりません。 また、慣れた仕事なら、体力が衰えても、どうにかなるものなのです。 一応、一工程できていれば、ヒラであっても、年齢相応の敬意を払ってもらえます。 それが、こちらでは、全く無いのです。 周りは知らない人間ばかり。 年代が違うので、会話も皆無。 仕事はきついわ、人には馴染まないわ、私生活も楽しい事が見つからないわでは、よほど、神経の図太い人間でも、参ってしまいます。 せいぜい半年程度で終わる応援とは、全然、気分が違います。 10年も帰れないと思うと、鬱病になってしまいます。


  私の場合、それらの心労が溜まっていた所へ、いきなり仕事がきつくなったものだから、ドーンと心臓に来てしまったんですな。 私の前に、辞めたのが一人。 私が二人目ですが、私の後にも、二人くらい、辞めると言っているそうです。 無理も無い。 全然、不思議だと思いません。 皮肉を言えば、今回の異動の真の目的はリストラだったわけですから、私達、辞める事になった人間は、模範社員という事になりますな。 「そんなの、会社の思う壺じゃないか。 もうちょっと頑張れよ」と思うかもしれませんが、思う壺も魔神の壺もないのであって、死ぬよりマシでしょう。 心臓がやられなくたって、鬱病で、首を括る事になってしまいかねません。

  辞めた辞めた! 辞めると決めてしまえば、あとは、知ったこっちゃありません。 リストラでも、追い出し部屋でも、何でも、御随意に展開しとくんなまし。 所詮、同僚と友人は、似て非なるもの。 会社を辞めてしまえば、音信不通になるのが普通であって、心配される事も、心配してやる事も、もう無いでしょう。 なーに、もつ人はもつし、辞める人は辞めるものですよ。 自殺よりは、ずっと良い選択だ。


  仕事ができなかったというのが、直截の理由ですが、私の場合、老親が二人だけで住んでいるという、実家の方の事情もあり、こちらに残りたいという気持ちが、全く湧いて来ないんですな。 私がこちらで頑張っても、私はもちろんの事、両親も、兄貴も、兄貴の嫁さんも、誰一人、得をする人間がいません。 みんな、損をするのです。 歯を食いしばって頑張っても、誰からも誉められない、誰からも感謝されない、むしろ逆に、恨まれるだけ、というのでは、検討の余地が無いではありませんか。


  というわけで、揺ぎ無い退職の意思を抱いていた私は、金土日と、三日間、悩む事も無く、土曜には、折り畳み自転車を荷造りして、実家に送ってしまいました。 日曜には、引っ越して来る時に使ったダンボールに、生活雑貨を詰めて、二箱、発送。 もう、後戻りはできません。 翌週、つまり、今週ですが、月曜日に出勤して、退職の決意を伝えたところ、上司も、それ以上、くどい慰留はせず、退職届の用紙を用意してくれました。

  この上司、リストラの話を聞いているのかどうか分かりませんが、私の退職が決定すると、親身になって、いろいろと世話をしてくれました。 元は、小田原の人だそうで、単身赴任で、こちらに来て、5年ほど経つとの事。 小田原と沼津は、間に箱根を挟んでいるだけで、土地柄や考え方が近いせいか、話が通じ易かったです。 結局、私は、最後の最後まで、岩手の地元の人には、馴染めませんでした。 元々、別の土地の人間で、長く、こちらに住んでいる人に言わせると、「気さくで、いい人が多い」との事でしたが、私個人の感想としては、その真逆の人ばかり、印象に残っています。 時間が経たないと、受け入れてくれないのかもしれませんな。


  水曜に、こちらでの退職手続きが終わり、会社へ行く必要は無くなったのですが、入院費用が一定の額を超えてしまったせいで、≪高額療養費限度額適用認定証≫が必要になり、それが届いたのが、金曜日。 他に、退院後、バイクで出かけた先で、不様にも立ちゴケし、クラッチ・レバーがいかれてしまって、アマゾンに注文した交換部品が届いたのが、これも、金曜日。 更に、持って帰っても使い道も置き場所もない、冷蔵庫やパソコン・デスクを、オフハウスの出張買取で、持って行って貰ったのが、土曜日。 日曜は、寮務員が、無能ジジイなので、退寮手続きをしたくない、といった事情で、未だに、岩手から出られずにいます。 たぶん、月曜日の6月23日には、帰途に着けると思います。 帰りもバイクなので、心臓に爆弾を抱えている身としては、無謀な気もせんではないですが、まあ、今度は、急ぐ旅ではないので、20時間くらいかけて、ゆっくり帰る事にします。


  実家に帰ったら、有休消化期間があるので、8月の末までは、ぶらぶらし、9月になったら、バイトでも探して、その後は、気楽に暮らそうと思います。 バイトにゃ、残業も、土曜出勤も、QCも、職場委員も、面倒な事は、なーにも無いですけんのう。 あー、辞めて、清々した。 失業の不安なんかより、こちらにい続ける事の不安の方が、桁違いに大きいので、解放感しか感じません。