読書感想文・蔵出し (115)
読書感想文です。 今回も、4冊です。 読書意欲は、低調なままですが、ぎりぎりのところで、貸し出し期限の2週間に、2冊借りるパターンを続けています。 なかなか、読む気にならないのではなく、精神的な負担になるので、借りて来ると、バタバタと読んでしまって
その後、期限が来るまで、何も読まないという調子。
≪トーノ・バンゲイ 上・下≫
岩波文庫
岩波書店
上巻 1953年9月 5日 第1刷発行 1983年4月1日 第2刷発行
下巻 1960年2月25日 第1刷発行 1983年4月1日 第2刷発行
ウェルズ 作
中西信太郎 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 「ウェルズ」というのは、SFで有名な、「H.G.ウェルズ」さんの事。 岩波だけあって、妙なところに、拘りがある。 「ウェルズ」と言えば、「H.G.ウェルズ」に決まっているという事なんでしょうか。 そうとは限らないと思いますが。
第1刷発行年が、上巻と下巻で、7年も離れているのは、驚き。 上巻を買って読み、下巻が出るのを待っていた人は、さぞかし、痺れを切らしたでしょうねえ。 ページ数は、上下巻合わせて、660ページくらい。 かなり、長いです。 1909年の発表。 有名なSF作品群よりも、後になって書かれたもの。
大きな屋敷の住み込み家政婦だった母に育てられた少年が、素行に些か問題があった事から、屋敷を出され、薬屋をやっていた父方の叔父夫婦に引き取られる。 やがて、叔父は、投資に失敗して破産し、夫婦でロンドンへ行ってしまう。 人手に渡った薬屋に残り、勉強を続けていた少年は、やがて、ロンドンへ出るが、ある時、叔父から、仕事を手伝ってくれるように頼まれる。 叔父は、「トーノ・バンゲイ」と名付けた薬を大々的に売り出して、事業家として、大成功を収めようとしていた。 叔父の右腕となって働きながら、恋愛したり、結婚したり、飛行機械の発明に凝ったりと、若い時代の事を、懐かしくも、ほろ苦く思い出す、自伝的小説。
これがねえ、自伝的小説であって、自伝そのものではないんですわ。 一人称主人公の名前も、H.G.ウェルズではないです。 普通、自伝だったら、本名を使いますわなあ。 「トーノ・バンゲイ」という薬で大成功した件についても、どこでまで本当なのか、分かりません。 どこまで事実で、どこから創作なのか、解説を読んでも、さっぱり分からないのです。 どうも、そういう微妙なところを故意に狙って書いているようなフシがある。 真実性を暈して、小説らしくしているような・・・。
印象を一口で言うと、「変な話」。 自伝にしては、起こる事が、極端過ぎるのです。 こんなに極端な内容であれば、もっと、世間に広まっていてもいいはず。 ところが、ウェルズさんの伝記など、知る人ぞ知る世界の代表例で、一般的には、まったく知られていません。 つまり、この作品は、自伝ではなく、やはり、自伝的小説に過ぎないのです。
事業家を主人公にした、ビジネス小説というジャンルがありますが、主人公の叔父に関する記述部分は、それに近いです。 しかし、商売の奥深さを知り尽くした者が書いたという体裁ではなく、資本主義経済の上っ面だけ観察して、事の経緯を外部から見て書いたというような、薄っぺらい感じがします。 この本を読んでも、事業家になる参考にならないのはもちろんの事、詐欺師になる参考にもならないでしょう。 SF作家にありがちな欠点ですが、話を語るのに最低限の知識だけ勉強して、深い所まで首を突っ込まない癖が出ている観があり。
飛行機械の発明ですが、主人公は、叔父の事業を手伝う事で得た収入を、そちらに注ぎ込みます。 出て来る機械が、グライダーと、飛行船で、ライト兄弟の初飛行が、1903年ですから、何だか、時代錯誤のような気がしますが、この作品は、主人公が、若い頃を振り返って書いているという形式だから、飛行機械の発明に凝っていたのも、1903年より昔の事なのであって、別に、おかしくはないわけだ。 それにしても、飛行機なら飛行機、飛行船なら飛行船に絞って開発すればいいのに、何にでも手を出すのではねえ。 ムラッ気のせいで失敗しているように見えます。
主人公の恋愛にも、多くのページ数が割かれています。 よくもまあ、これだけ、つまらん女にばかり、引っかかるものです。 外見しか見てないのでしょう。 中身が、スカスカ。 また、主人公の方も、職業が怪しくて、一時的に、高収入になる事があっても、それが、生涯 続く保障がありません。 これでよく、所帯を持とうなどと、望めるものです。 求婚するたびに、断られる場面がありますが、無理もない。 登場する女性の中で、叔父の妻、つまり、主人公から見て、義理の叔母ですが、この人だけは、人間的魅力が感じられます。 たぶん、実在の人物がモデルなのでしょう。
ドン引きしてしまうのは、この主人公が、殺人犯である事です。 西アフリカの島へ、放射性物質を盗みに行く件りがあるのですが、そこで、現地人を、ただ、後ろめたい目的で、そこに来ている自分の姿を見られたと言うだけで、射殺してしまうのです。 いやあ、こりゃ、まずいでしょう! 殺人ですよ、殺人! 知らぬ顔をして、帰ってきてしまうのですが、ますます、まずい。 もしかしたら、この件りがあるから、自伝ではなく、自伝的小説にしたのかも知れません。
主人公は、この殺人に対して、大して悩んでもおらず、現地人を、動物扱いしているのは、明らか。 いかにも、帝国主義時代のイギリス人らしいと言えば言えます。 外国人を、同じ人間だと思っていないわけだ。 当時のイギリスには、軍人・兵隊を始め、「外国へ行って、人を殺して来た」人間が、うじゃうじゃいて、主人公も、その一人に過ぎないと開き直っているのでしょう。 だけど、これは、まずいですぜ。 殺人犯が書いた小説を読んで、プラス評価なんか、できるもんですか。 こちらまで、「殺人行為を肯定する奴」にされてしまいますよ。
≪発狂した宇宙≫
ハヤカワ文庫 SF222
早川書房 1977年1月15日 発行 1980年7月31日 14刷
F・ブラウン 著
稲葉明雄 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 著者は、アメリカ人で、フル・ネームは、「フレデリック・ブラウン」。 コピー・ライトは、1949年になっています。 約290ページ。 筒井康隆さんの解説が付いています。
失敗した月ロケットが、地球に落ちて来て、搭載されていた特殊な装置が爆発する。 墜落地点にいて、爆発に巻き込まれた雑誌編集者が目覚めると、そこは、元いた世界とそっくりだが、地球が、他恒星系の宇宙人を相手に星間戦争をやっている、別の世界だった。 顔は違うが、自分と同じ名前で、ほぼ同じ社会的地位の人物が存在しているので、すり代わる事もできない。 小銭しか持っていない身で、何とか生きて行く方法を探る傍ら、この異常な状態に対して、解答を知っていると思われる人工知能に相談する為に、最前線の土星へ向かおうとするが・・・、という話。
邦題の問題ですが、「発狂した宇宙」とするより、「狂った宇宙」とした方が、内容に合っています。 主人公からすれば、突然、異世界に放り込まれたわけだから、その世界が、「狂っている」と感じるのは、当然の事。 どうしてまた、「発狂した」なんて形容を持って来たのやら、とんと、分からぬ。
それはさておき、面白いです。 休日の朝食後から読み始めれば、読み入ってしまい、速い人なら、昼食までに、遅い人でも、夕食までには、読み終えてしまいます。 スラスラ簡単に読めるという意味ではなく、面白過ぎて、没入してしまうのです。 勤めがある人は、夜、眠る前に読み始めない方がいいです。 徹夜になってしまったら、翌日の仕事に支障を来たしますから。 そういう類いの本。
ただねえ、長編小説としては、そんなに出来がいいわけではありません。 主人公が、未知の世界で生きて行く為に、小説を書いて、出版社に持ち込もうとする辺りが、妙にリアルなのに対し、前後のSF部分が、取って付けたようで、とりわけ、盗んだ宇宙艇で土星へ向かう、後ろの展開が、軽薄に感じられてしまうのです。 全く同じアイデアで、長編慣れしたSF作家が書けば、もっと面白くなったかも知れません。 もっとも、中には、そういう、ちょっと書き慣れていない感じが、初々しくて、好ましいと感じる読者もいるとは思いますが。
むしろ、もっと短くして、中編くらいの作品にすれば、アイデアの秀逸さが際立ったかも。 つまり、中ほどの、リアルな部分を取り去ってしまえば、前後だけ残って、SFとしての純粋度が上がるのではないかと思うのです。 もっとも、SF度が下がっても、リアル部分があった方が、小説としては、味わい深くなるのも事実ですけど。
放り込まれた異世界に、主人公に馴染みがある要素が、妙に多い理由が、最後に明かされますが、その件りが、面白いですねえ。 御都合主義を、プラス方向に最大限 活かしたら、こうなったわけだ。 このアイデアだけでも、図抜けています。 作者は、SFのハード面は苦手なのかも知れませんな。 文系の、科学技術に対する岡目八目的な発想だけで勝負して、このレベルの作品を書き上げた、そこが、賞賛に値すると思います。
筒井さんが、解説を書いている点が、また、面白い。 やはり、ハード知識より、アイデアを重視する人好みなんだわ。 ハード好きな読者の場合、ミシンが消える辺りで、「なんじゃ、こりゃ?」で、放り出してしまうかも知れません。 そういう人は、SF読者よりも、理工系技術者の方に向いていると思いますけど。
あと、本筋とは関係ありませんが、気になる点があります。 主人公が放り込まれた異世界では、太陽系内の天体の幾つかにも、知的生命体がいて、月人は、地球人の奴隷、金星と火星は、地球に征服されて、植民地にされているというのです。 異世界だから、何でもありと言えば、それまでですが、「だから、問題がある」という書き方はされておらず、「そんなの、当然」と、スルーされています。
これは、現代的な感覚では、相当、やばいです。 「1949年発表だから、仕方ない」とも言えぬ。 むしろ、「イギリス人ならまだしも、アメリカ人が、1949年にもなっているのに、まだ、こういう認識なのか?」と呆れるのが、適切な反応でしょう。 地球人が、こういう野蛮な考え方で、宇宙進出しているのなら、いっそ、アルクトゥールス人が勝った方が、いいのでは?
奇妙だと思うのは、別に、奴隷主義や、帝国主義、植民地主義を入れなくても、本筋を語るのに、何の問題もないという点です。 月人は、数人出て来ますが、金星人や火星人は、一人も出て来ませんし、それらの星へ行く場面もありません。 リアルな世界観を演出したくて、こうしたというのなら、あまりにも、軽率。
≪宇宙の眼≫
ハヤカワ文庫 SF1975
早川書房 2014年9月25日 発行
フィリップ・K・ディック 著
中田耕治 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 著者は、アメリカのSF作家で、映画、≪ブレード・ランナー≫の原作を書いた人。 これが、アメリカのSF映画が全盛だった、80年代・90年代頃だったら、「フィリップ・K・ディック」という名前だけで、説明不要だったのですが、今では、何かしら、有名な作品を挙げなくては、ピンと来なくなってしまいました。 コピー・ライトは、1957年になっています。 約366ページ。
ある企業の研究所で、ベバトロン陽子ビーム加速器が事故を起こし、見学者7人と、ガイド一人が、設備の中に落ちてしまう。 全員、命に別状はなかったが、一人を除いて、目覚めた世界に、妙な違和感を覚えていた。 その世界は、ある新興宗教が広まり、神の恩寵で、全てが決まる所だった。 どうやら、8人の内の一人の幻想が具現化しているようで・・・、という話。
「多元宇宙物」、「並行世界物」の代表作とされているようですが、これは、「主観世界物」と言った方がいいと思います。 もっとも、そんなカテゴリーはありませんが・・・。 8人は、最初から存在する、並行世界に行ったわけではなく、8人の内の一人の主観で創作された世界に行ったに過ぎないからです。
主観で、現実世界と異なるというと、夢の世界が、それですが、この作品の主観世界が、夢と違うのは、一人だけではなく、他に7人が、同じ体験をする点です。 割と簡単に、並行世界物と違う事が分かると思うのに、なぜ、その点を指摘する評者がいないのか、不思議。 作者本人にしてからが、並行世界物を書いている認識はなくて、他人が他人の夢に入り込む話のつもりで、発想したという事も考えられます。
8人全員の主観世界が紹介されるわけではなく、四人分だけです。 新興宗教の世界、道徳教条の世界、偏執狂の世界、共産主義者の世界の四つ。 後ろに行くに従い、描写が、短く、しょぼくなるのは、作者が、アイデア切れを起こしたのではないでしょうか。 ディックさんは、アメリカで最も映画化された作品が多いSF作家ですが、そのせいか、買い被られ過ぎているところもあります。 眉に唾をつけて読まなければなりません。
道徳教条の世界では、その世界を創り出した婦人を唆して、どんどん、物を消させて行くのですが、この件りに、悪ノリを感じない読者はいないでしょう。 安直と言っても良い。 作者が、この時点で、一回、作品を放り出している観すらあります。 一つ目の世界は、細かく描き込んだが、二つ目で、もう、考えるのが億劫になってしまい、当初、八つの世界を描くつもりだったのが、四つに減らした上に、その四つですら、進むに連れて、どんどん萎んで行ったという様子が覗えます。
このアイデア、もっと細部まで考えて、8人分の世界を、ぎっちり描き込み、2倍くらいの長さにするか、逆に、さらっとやっつけて、短編にしてしまった方が、いい小説になったと思います。 ディックさん本人が、ヤク中の挙句に、とっくに死んでしまっているので、今更話もここに極まりますが。
8人の内、一人だけ、中南部アフリカ系で、差別を受ける場面が出て来ます。 この人の主観世界が出て来ないのが、残念。 中南部アフリカ系と、ヨーロッパ系の立場が逆転した世界は、さぞや、面白かっただろうと思うではありませんか。 作者も、当然、それは考えたと思うのですが、敢えて入れなかったのは、ヨーロッパ系である自分が差別される立場になる事に、おぞましさを感じたからでしょうか。 アメリカ合衆国の社会に於ける人種差別は、外国人が想像するより、遥かに、根深いものがありますから。
とにかく、ディックさんの小説を読む時には、「鬼才」とか、「異端児」といった宣伝文句に惑わされず、買い被りを、常に警戒する必要があります。 先に、ヤク中患者が書いた、与太小説、【スキャナー・ダークリー】を読んだ方が、むしろ、バランスがとれた批評ができるようになるかも知れません。 【スキャナー・ダークリー】ですら、「後期の傑作」などといって、誉める者がいるのだから、買い被りにも、病的なクラスがあるものですな。
≪虎よ、虎よ!≫
ハヤカワ文庫 SF277
早川書房 1978年1月31日 発行 1992年7月31日 16刷
A・ベスター 著
中田耕治 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 著者は、アメリカのSFも書く作家で、フル・ネームは、「アルフレッド・ベスター」。 コピー・ライトは、1956年になっています。 約336ページ。
宇宙空間で破壊された宇宙船で、一人の男が、必死の努力で、半年間 生き延びていた。 他の宇宙船が通りかかり、接近して来たにも拘らず、救助せずに、素通りされてしまう。 辛うじて生き延びた男は、小惑星帯に巣食っていた一族に捕まり、顔に、虎のような斑の刺青をされる。 荒っぽい方法で、そこを脱出した男が、自分を見殺しにした宇宙船に復讐を誓い、太陽系狭しと、仇を求めて、暴れ回る話。
解説(解題)にも触れられていますが、大デュマの【モンテ・クリスト伯】がベースの、復讐物語です。 ストーリー展開にも、似たところがあり、「脱出 → 巨万の富を手に入れる → その金を元に復讐に乗り出す」という順序になります。 もっとも、【モンテ・クリスト伯】の復讐は、もっと知的な方法を取るので、それに比べると、こちらは、相当、残忍なもの。
テレポーテーションを始めとする、SFのモチーフをこれでもかというくらいに盛り込んでいますが、厳密に言うと、SFではなく、SF仕立ての冒険物です。 スペース・オペラというには、ちと、アクが強過ぎるか。 露悪趣味的な部分もあります。 何でもぶちこんで、闇鍋化させたせいで、最終的に、何が言いたかったのか、分からなくなってしまっているような感じもしますねえ。 特に、主人公の五感が混線するクライマックスは、取って付けたようですが、これは、解説に、説明があります。
「ジョウント」という、精神感応技術としてのテレポーテーションを、人類のほとんどが使えるという設定の未来世界なのですが、話の展開を速くする為に作った設定で、確かに、速くなっているものの、些か、安直な感がなきにしもあらず。 ジョウント技術が発見される経緯は、安直そのもので、フレデリック・ブラウン作、【発狂した宇宙】の、消えるミシンと、発想の類似性を感じます。 ハードな科学技術知識に欠ける作者が、「どうせ、与太話だから、この程度の設定で、充分だろう」と、やっつけた感じが。
とはいえ、この展開の速さは、読者をぐいぐい、先へ引っ張って行くのには、充分な効果を上げています。 読み始めると、安直と分かっていても、どんどん、ページをめくってしまうという類いの小説なのです。 こういうのが、大好きという人がいても、ちっともおかしくありません。 昔、「SFアドベンチャー」という雑誌がありましたが、この作品に影響されて、創刊したのではありますまいか? いや、一度も読んだ事がなかったから、憶測に過ぎませんが。
原題は、【TIGER! TIGER!】で、そのまま、【虎! 虎!】でいいと思うのですが、冒頭に掲げられている、ウィリアム・ブレイクさんの詩が元らしく、その詩の日本語訳に従ったのかも知れません。 この虎というのは、主人公の顔に刺青された模様から来ていますが、ストーリーと、それほど、密に関係しているわけではないです。
見捨てられたとはいえ、命が助かったのだから、こんなに執念深く、復讐に拘るのは、不自然な感じもします。 私だったら、どんなひどい目に遭おうが、巨万の富を手に入れた時点で、綺麗に忘れて、その後、安楽に暮らしますよ。 「難破船に生存者がいると分かったら、助けてくれるのが、当然」と思っているから、見捨てられて腹が立つのであって、「他人なんて、自分の事しか考えていないもの」という、社会の真理が分かっていれば、こんな危険な復讐はしないと思うのですがねえ。
以上、4冊です。 読んだ期間は、2024年の、
≪トーノ・バンゲイ 上・下≫が、5月1日から、7日。
≪発狂した宇宙≫が、5月11日から、13日。
≪宇宙の眼≫が、5月18日から、20日。
≪虎よ、虎よ!≫が、5月25日と、27日。
3冊は、古典SF。 自分でも奇妙だと思うのですが、ここ10年近く読み続けた、推理小説から興味が遠のいてしまい、SF回帰が本格的になりました。 といっても、古典SFは、無数にあるわけではないから、その内、また読みたい物がなくなってしまうと思うのですが。
≪トーノ・バンゲイ 上・下≫
岩波文庫
岩波書店
上巻 1953年9月 5日 第1刷発行 1983年4月1日 第2刷発行
下巻 1960年2月25日 第1刷発行 1983年4月1日 第2刷発行
ウェルズ 作
中西信太郎 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 「ウェルズ」というのは、SFで有名な、「H.G.ウェルズ」さんの事。 岩波だけあって、妙なところに、拘りがある。 「ウェルズ」と言えば、「H.G.ウェルズ」に決まっているという事なんでしょうか。 そうとは限らないと思いますが。
第1刷発行年が、上巻と下巻で、7年も離れているのは、驚き。 上巻を買って読み、下巻が出るのを待っていた人は、さぞかし、痺れを切らしたでしょうねえ。 ページ数は、上下巻合わせて、660ページくらい。 かなり、長いです。 1909年の発表。 有名なSF作品群よりも、後になって書かれたもの。
大きな屋敷の住み込み家政婦だった母に育てられた少年が、素行に些か問題があった事から、屋敷を出され、薬屋をやっていた父方の叔父夫婦に引き取られる。 やがて、叔父は、投資に失敗して破産し、夫婦でロンドンへ行ってしまう。 人手に渡った薬屋に残り、勉強を続けていた少年は、やがて、ロンドンへ出るが、ある時、叔父から、仕事を手伝ってくれるように頼まれる。 叔父は、「トーノ・バンゲイ」と名付けた薬を大々的に売り出して、事業家として、大成功を収めようとしていた。 叔父の右腕となって働きながら、恋愛したり、結婚したり、飛行機械の発明に凝ったりと、若い時代の事を、懐かしくも、ほろ苦く思い出す、自伝的小説。
これがねえ、自伝的小説であって、自伝そのものではないんですわ。 一人称主人公の名前も、H.G.ウェルズではないです。 普通、自伝だったら、本名を使いますわなあ。 「トーノ・バンゲイ」という薬で大成功した件についても、どこでまで本当なのか、分かりません。 どこまで事実で、どこから創作なのか、解説を読んでも、さっぱり分からないのです。 どうも、そういう微妙なところを故意に狙って書いているようなフシがある。 真実性を暈して、小説らしくしているような・・・。
印象を一口で言うと、「変な話」。 自伝にしては、起こる事が、極端過ぎるのです。 こんなに極端な内容であれば、もっと、世間に広まっていてもいいはず。 ところが、ウェルズさんの伝記など、知る人ぞ知る世界の代表例で、一般的には、まったく知られていません。 つまり、この作品は、自伝ではなく、やはり、自伝的小説に過ぎないのです。
事業家を主人公にした、ビジネス小説というジャンルがありますが、主人公の叔父に関する記述部分は、それに近いです。 しかし、商売の奥深さを知り尽くした者が書いたという体裁ではなく、資本主義経済の上っ面だけ観察して、事の経緯を外部から見て書いたというような、薄っぺらい感じがします。 この本を読んでも、事業家になる参考にならないのはもちろんの事、詐欺師になる参考にもならないでしょう。 SF作家にありがちな欠点ですが、話を語るのに最低限の知識だけ勉強して、深い所まで首を突っ込まない癖が出ている観があり。
飛行機械の発明ですが、主人公は、叔父の事業を手伝う事で得た収入を、そちらに注ぎ込みます。 出て来る機械が、グライダーと、飛行船で、ライト兄弟の初飛行が、1903年ですから、何だか、時代錯誤のような気がしますが、この作品は、主人公が、若い頃を振り返って書いているという形式だから、飛行機械の発明に凝っていたのも、1903年より昔の事なのであって、別に、おかしくはないわけだ。 それにしても、飛行機なら飛行機、飛行船なら飛行船に絞って開発すればいいのに、何にでも手を出すのではねえ。 ムラッ気のせいで失敗しているように見えます。
主人公の恋愛にも、多くのページ数が割かれています。 よくもまあ、これだけ、つまらん女にばかり、引っかかるものです。 外見しか見てないのでしょう。 中身が、スカスカ。 また、主人公の方も、職業が怪しくて、一時的に、高収入になる事があっても、それが、生涯 続く保障がありません。 これでよく、所帯を持とうなどと、望めるものです。 求婚するたびに、断られる場面がありますが、無理もない。 登場する女性の中で、叔父の妻、つまり、主人公から見て、義理の叔母ですが、この人だけは、人間的魅力が感じられます。 たぶん、実在の人物がモデルなのでしょう。
ドン引きしてしまうのは、この主人公が、殺人犯である事です。 西アフリカの島へ、放射性物質を盗みに行く件りがあるのですが、そこで、現地人を、ただ、後ろめたい目的で、そこに来ている自分の姿を見られたと言うだけで、射殺してしまうのです。 いやあ、こりゃ、まずいでしょう! 殺人ですよ、殺人! 知らぬ顔をして、帰ってきてしまうのですが、ますます、まずい。 もしかしたら、この件りがあるから、自伝ではなく、自伝的小説にしたのかも知れません。
主人公は、この殺人に対して、大して悩んでもおらず、現地人を、動物扱いしているのは、明らか。 いかにも、帝国主義時代のイギリス人らしいと言えば言えます。 外国人を、同じ人間だと思っていないわけだ。 当時のイギリスには、軍人・兵隊を始め、「外国へ行って、人を殺して来た」人間が、うじゃうじゃいて、主人公も、その一人に過ぎないと開き直っているのでしょう。 だけど、これは、まずいですぜ。 殺人犯が書いた小説を読んで、プラス評価なんか、できるもんですか。 こちらまで、「殺人行為を肯定する奴」にされてしまいますよ。
≪発狂した宇宙≫
ハヤカワ文庫 SF222
早川書房 1977年1月15日 発行 1980年7月31日 14刷
F・ブラウン 著
稲葉明雄 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 著者は、アメリカ人で、フル・ネームは、「フレデリック・ブラウン」。 コピー・ライトは、1949年になっています。 約290ページ。 筒井康隆さんの解説が付いています。
失敗した月ロケットが、地球に落ちて来て、搭載されていた特殊な装置が爆発する。 墜落地点にいて、爆発に巻き込まれた雑誌編集者が目覚めると、そこは、元いた世界とそっくりだが、地球が、他恒星系の宇宙人を相手に星間戦争をやっている、別の世界だった。 顔は違うが、自分と同じ名前で、ほぼ同じ社会的地位の人物が存在しているので、すり代わる事もできない。 小銭しか持っていない身で、何とか生きて行く方法を探る傍ら、この異常な状態に対して、解答を知っていると思われる人工知能に相談する為に、最前線の土星へ向かおうとするが・・・、という話。
邦題の問題ですが、「発狂した宇宙」とするより、「狂った宇宙」とした方が、内容に合っています。 主人公からすれば、突然、異世界に放り込まれたわけだから、その世界が、「狂っている」と感じるのは、当然の事。 どうしてまた、「発狂した」なんて形容を持って来たのやら、とんと、分からぬ。
それはさておき、面白いです。 休日の朝食後から読み始めれば、読み入ってしまい、速い人なら、昼食までに、遅い人でも、夕食までには、読み終えてしまいます。 スラスラ簡単に読めるという意味ではなく、面白過ぎて、没入してしまうのです。 勤めがある人は、夜、眠る前に読み始めない方がいいです。 徹夜になってしまったら、翌日の仕事に支障を来たしますから。 そういう類いの本。
ただねえ、長編小説としては、そんなに出来がいいわけではありません。 主人公が、未知の世界で生きて行く為に、小説を書いて、出版社に持ち込もうとする辺りが、妙にリアルなのに対し、前後のSF部分が、取って付けたようで、とりわけ、盗んだ宇宙艇で土星へ向かう、後ろの展開が、軽薄に感じられてしまうのです。 全く同じアイデアで、長編慣れしたSF作家が書けば、もっと面白くなったかも知れません。 もっとも、中には、そういう、ちょっと書き慣れていない感じが、初々しくて、好ましいと感じる読者もいるとは思いますが。
むしろ、もっと短くして、中編くらいの作品にすれば、アイデアの秀逸さが際立ったかも。 つまり、中ほどの、リアルな部分を取り去ってしまえば、前後だけ残って、SFとしての純粋度が上がるのではないかと思うのです。 もっとも、SF度が下がっても、リアル部分があった方が、小説としては、味わい深くなるのも事実ですけど。
放り込まれた異世界に、主人公に馴染みがある要素が、妙に多い理由が、最後に明かされますが、その件りが、面白いですねえ。 御都合主義を、プラス方向に最大限 活かしたら、こうなったわけだ。 このアイデアだけでも、図抜けています。 作者は、SFのハード面は苦手なのかも知れませんな。 文系の、科学技術に対する岡目八目的な発想だけで勝負して、このレベルの作品を書き上げた、そこが、賞賛に値すると思います。
筒井さんが、解説を書いている点が、また、面白い。 やはり、ハード知識より、アイデアを重視する人好みなんだわ。 ハード好きな読者の場合、ミシンが消える辺りで、「なんじゃ、こりゃ?」で、放り出してしまうかも知れません。 そういう人は、SF読者よりも、理工系技術者の方に向いていると思いますけど。
あと、本筋とは関係ありませんが、気になる点があります。 主人公が放り込まれた異世界では、太陽系内の天体の幾つかにも、知的生命体がいて、月人は、地球人の奴隷、金星と火星は、地球に征服されて、植民地にされているというのです。 異世界だから、何でもありと言えば、それまでですが、「だから、問題がある」という書き方はされておらず、「そんなの、当然」と、スルーされています。
これは、現代的な感覚では、相当、やばいです。 「1949年発表だから、仕方ない」とも言えぬ。 むしろ、「イギリス人ならまだしも、アメリカ人が、1949年にもなっているのに、まだ、こういう認識なのか?」と呆れるのが、適切な反応でしょう。 地球人が、こういう野蛮な考え方で、宇宙進出しているのなら、いっそ、アルクトゥールス人が勝った方が、いいのでは?
奇妙だと思うのは、別に、奴隷主義や、帝国主義、植民地主義を入れなくても、本筋を語るのに、何の問題もないという点です。 月人は、数人出て来ますが、金星人や火星人は、一人も出て来ませんし、それらの星へ行く場面もありません。 リアルな世界観を演出したくて、こうしたというのなら、あまりにも、軽率。
≪宇宙の眼≫
ハヤカワ文庫 SF1975
早川書房 2014年9月25日 発行
フィリップ・K・ディック 著
中田耕治 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 著者は、アメリカのSF作家で、映画、≪ブレード・ランナー≫の原作を書いた人。 これが、アメリカのSF映画が全盛だった、80年代・90年代頃だったら、「フィリップ・K・ディック」という名前だけで、説明不要だったのですが、今では、何かしら、有名な作品を挙げなくては、ピンと来なくなってしまいました。 コピー・ライトは、1957年になっています。 約366ページ。
ある企業の研究所で、ベバトロン陽子ビーム加速器が事故を起こし、見学者7人と、ガイド一人が、設備の中に落ちてしまう。 全員、命に別状はなかったが、一人を除いて、目覚めた世界に、妙な違和感を覚えていた。 その世界は、ある新興宗教が広まり、神の恩寵で、全てが決まる所だった。 どうやら、8人の内の一人の幻想が具現化しているようで・・・、という話。
「多元宇宙物」、「並行世界物」の代表作とされているようですが、これは、「主観世界物」と言った方がいいと思います。 もっとも、そんなカテゴリーはありませんが・・・。 8人は、最初から存在する、並行世界に行ったわけではなく、8人の内の一人の主観で創作された世界に行ったに過ぎないからです。
主観で、現実世界と異なるというと、夢の世界が、それですが、この作品の主観世界が、夢と違うのは、一人だけではなく、他に7人が、同じ体験をする点です。 割と簡単に、並行世界物と違う事が分かると思うのに、なぜ、その点を指摘する評者がいないのか、不思議。 作者本人にしてからが、並行世界物を書いている認識はなくて、他人が他人の夢に入り込む話のつもりで、発想したという事も考えられます。
8人全員の主観世界が紹介されるわけではなく、四人分だけです。 新興宗教の世界、道徳教条の世界、偏執狂の世界、共産主義者の世界の四つ。 後ろに行くに従い、描写が、短く、しょぼくなるのは、作者が、アイデア切れを起こしたのではないでしょうか。 ディックさんは、アメリカで最も映画化された作品が多いSF作家ですが、そのせいか、買い被られ過ぎているところもあります。 眉に唾をつけて読まなければなりません。
道徳教条の世界では、その世界を創り出した婦人を唆して、どんどん、物を消させて行くのですが、この件りに、悪ノリを感じない読者はいないでしょう。 安直と言っても良い。 作者が、この時点で、一回、作品を放り出している観すらあります。 一つ目の世界は、細かく描き込んだが、二つ目で、もう、考えるのが億劫になってしまい、当初、八つの世界を描くつもりだったのが、四つに減らした上に、その四つですら、進むに連れて、どんどん萎んで行ったという様子が覗えます。
このアイデア、もっと細部まで考えて、8人分の世界を、ぎっちり描き込み、2倍くらいの長さにするか、逆に、さらっとやっつけて、短編にしてしまった方が、いい小説になったと思います。 ディックさん本人が、ヤク中の挙句に、とっくに死んでしまっているので、今更話もここに極まりますが。
8人の内、一人だけ、中南部アフリカ系で、差別を受ける場面が出て来ます。 この人の主観世界が出て来ないのが、残念。 中南部アフリカ系と、ヨーロッパ系の立場が逆転した世界は、さぞや、面白かっただろうと思うではありませんか。 作者も、当然、それは考えたと思うのですが、敢えて入れなかったのは、ヨーロッパ系である自分が差別される立場になる事に、おぞましさを感じたからでしょうか。 アメリカ合衆国の社会に於ける人種差別は、外国人が想像するより、遥かに、根深いものがありますから。
とにかく、ディックさんの小説を読む時には、「鬼才」とか、「異端児」といった宣伝文句に惑わされず、買い被りを、常に警戒する必要があります。 先に、ヤク中患者が書いた、与太小説、【スキャナー・ダークリー】を読んだ方が、むしろ、バランスがとれた批評ができるようになるかも知れません。 【スキャナー・ダークリー】ですら、「後期の傑作」などといって、誉める者がいるのだから、買い被りにも、病的なクラスがあるものですな。
≪虎よ、虎よ!≫
ハヤカワ文庫 SF277
早川書房 1978年1月31日 発行 1992年7月31日 16刷
A・ベスター 著
中田耕治 訳
沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 著者は、アメリカのSFも書く作家で、フル・ネームは、「アルフレッド・ベスター」。 コピー・ライトは、1956年になっています。 約336ページ。
宇宙空間で破壊された宇宙船で、一人の男が、必死の努力で、半年間 生き延びていた。 他の宇宙船が通りかかり、接近して来たにも拘らず、救助せずに、素通りされてしまう。 辛うじて生き延びた男は、小惑星帯に巣食っていた一族に捕まり、顔に、虎のような斑の刺青をされる。 荒っぽい方法で、そこを脱出した男が、自分を見殺しにした宇宙船に復讐を誓い、太陽系狭しと、仇を求めて、暴れ回る話。
解説(解題)にも触れられていますが、大デュマの【モンテ・クリスト伯】がベースの、復讐物語です。 ストーリー展開にも、似たところがあり、「脱出 → 巨万の富を手に入れる → その金を元に復讐に乗り出す」という順序になります。 もっとも、【モンテ・クリスト伯】の復讐は、もっと知的な方法を取るので、それに比べると、こちらは、相当、残忍なもの。
テレポーテーションを始めとする、SFのモチーフをこれでもかというくらいに盛り込んでいますが、厳密に言うと、SFではなく、SF仕立ての冒険物です。 スペース・オペラというには、ちと、アクが強過ぎるか。 露悪趣味的な部分もあります。 何でもぶちこんで、闇鍋化させたせいで、最終的に、何が言いたかったのか、分からなくなってしまっているような感じもしますねえ。 特に、主人公の五感が混線するクライマックスは、取って付けたようですが、これは、解説に、説明があります。
「ジョウント」という、精神感応技術としてのテレポーテーションを、人類のほとんどが使えるという設定の未来世界なのですが、話の展開を速くする為に作った設定で、確かに、速くなっているものの、些か、安直な感がなきにしもあらず。 ジョウント技術が発見される経緯は、安直そのもので、フレデリック・ブラウン作、【発狂した宇宙】の、消えるミシンと、発想の類似性を感じます。 ハードな科学技術知識に欠ける作者が、「どうせ、与太話だから、この程度の設定で、充分だろう」と、やっつけた感じが。
とはいえ、この展開の速さは、読者をぐいぐい、先へ引っ張って行くのには、充分な効果を上げています。 読み始めると、安直と分かっていても、どんどん、ページをめくってしまうという類いの小説なのです。 こういうのが、大好きという人がいても、ちっともおかしくありません。 昔、「SFアドベンチャー」という雑誌がありましたが、この作品に影響されて、創刊したのではありますまいか? いや、一度も読んだ事がなかったから、憶測に過ぎませんが。
原題は、【TIGER! TIGER!】で、そのまま、【虎! 虎!】でいいと思うのですが、冒頭に掲げられている、ウィリアム・ブレイクさんの詩が元らしく、その詩の日本語訳に従ったのかも知れません。 この虎というのは、主人公の顔に刺青された模様から来ていますが、ストーリーと、それほど、密に関係しているわけではないです。
見捨てられたとはいえ、命が助かったのだから、こんなに執念深く、復讐に拘るのは、不自然な感じもします。 私だったら、どんなひどい目に遭おうが、巨万の富を手に入れた時点で、綺麗に忘れて、その後、安楽に暮らしますよ。 「難破船に生存者がいると分かったら、助けてくれるのが、当然」と思っているから、見捨てられて腹が立つのであって、「他人なんて、自分の事しか考えていないもの」という、社会の真理が分かっていれば、こんな危険な復讐はしないと思うのですがねえ。
以上、4冊です。 読んだ期間は、2024年の、
≪トーノ・バンゲイ 上・下≫が、5月1日から、7日。
≪発狂した宇宙≫が、5月11日から、13日。
≪宇宙の眼≫が、5月18日から、20日。
≪虎よ、虎よ!≫が、5月25日と、27日。
3冊は、古典SF。 自分でも奇妙だと思うのですが、ここ10年近く読み続けた、推理小説から興味が遠のいてしまい、SF回帰が本格的になりました。 といっても、古典SFは、無数にあるわけではないから、その内、また読みたい物がなくなってしまうと思うのですが。
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