ノーベル・ショー
2016年のノーベル文学賞を、アメリカのシンガー・ソング・ライターである、ボブ・ディランさんが受賞したそうです。 作家の方から、「歌手が、どうして、文学賞だ!」と、恨み憎しみの籠った批判が出ているらしいですが、「詩人がアリなら、作詞家もアリだろう」と言えば、大抵の人が納得するのでは? こういう文句を言う人というのは、てっきり、自分が貰えるものだと、妄想的に期待を膨らませていたんでしょうな。 それも、随分とおこがましいと思うのですがね。
私自身は、ボブ・ディランさんの曲は、詞以前に、曲調が、全く琴線に触れず、残念ながら、お経にしか聞こえません。 私観ですが、短いメロディーを繰り返しているだけの場合、楽曲と認めない方がいいのでは? つまり、言葉の内容を伝えたい気持ちが勝ち過ぎてしまって、メロディーなんて、添え物に過ぎないんですな。
反戦・平和のメッセージ性というのも、その後のアメリカという国の振る舞いを見ていると、大して社会に影響を与えていないのではないでしょうか。 ノーベル文学賞は、パステルナーク氏を作家廃業に追いやってしまってから、政治とは距離を置いていたはずですが、ここへ来て、反戦・平和などと言い出したのが、不気味です。 今後、同じ轍を踏むんじゃありますまいね。
そもそも、ノーベル賞というのが、評価が高過ぎ、世間が騒ぎ過ぎでして、物理・化学・生理学は、順番待ちが長過ぎ、文学は、主観が強過ぎ、平和は、政治主張が偏り過ぎ、経済学は、正反対の学説でも受賞するのは、奇怪至極と、いい加減の限りを尽くしています。 比較的、評価が客観的と思われている、物理・化学・生理学に限っても、二流の学者が、一流の学者を選ぶという、根本的矛盾から逃れられません。
もっと、そもそも、ノーベル自身にしてからが、ダイナマイトの発明で財を成した人でして、彼の発明で、どれだけ人が死んだか、数え切れぬくらい。 血を吸って肥え太った基金から、賞金をもらって、嬉しいんですかね? 間接的に、殺人に加担している事にはならんのですかね? いや、なりますよ。 ならないわけがない。 「平和賞」なんてのがあるのが、聞いて呆れる。 平和賞に選ばれて、「殺人に加担する気はないから、受賞は辞退する」と言ってのける人物・団体は出て来ないものか。 喝采を送りたいと思って、随分、長い事、待っているのですが。
ちょっと、次元の違う話ですが、村上春樹さんは、この時期になると、毎年毎年、災難ですなあ。 今年も、日本のマスコミや、配慮の足りないファン達が、盛り上げるだけ盛り上げておいて、この結果です。 ファンの一人が、「村上春樹さんは、ボブ・ディランのファンだから、一番喜んでいるだろう」などと言っていましたが、それはまた別問題でして、はっきり言って、自分の名前を出して騒がれるのは、大迷惑だと思いますよ。 自分で、「とる」と宣言しているわけでもないのに。
そもそも、日本で、なぜ、村上春樹さんが、ノーベル文学賞候補と見做されているかというと、単に、「世界的に名が売れている日本人の作家」というだけの根拠でして、騒いでいる連中は、ノーベル文学賞が、どういう作家・作品に与えられるかについてなんぞ、まるで知らないのではないかと思います。 基本的に、「前衛的作品」が選ばれるのですが、村上さんの作品は、だいぶん、方向性が違うと思うのですがね。 だいぶん。
そういや、切腹して死んだ事で名を残した、ある作家は、「ノーベル文学賞をとる事が、自分が日本国にできる最大の貢献だ」と思っていたらしく、あれこれ、ロビー活動に精を出しただけでなく、わざわざ、自分の作風とはまるで違う、前衛的な作品を書いて、受賞を目指していたらしいですが、そういう、下心のある作家には、まず、くれないでしょうなあ。
更に、そもそも、もはや、文学そのものが、芸術の前衛から脱落してしまっており、だーれも、本なんか、読んじゃいねーっつーのよ。 いやいや、芸術そのものが、もはや、文化の前衛から脱落していると言っても、大きく外れてはいますまい。 大衆受けが最も良い映画ですら、心躍らせる作品が、まるで出て来ない有様。 音楽だって、見放されたのは、とおの昔でんがな。
ノーベル・村上騒動で、毎年、ぐるんぐるん振り回されていると想像されるのは、本屋さんでしょう。 毎年、この時期になると、村上春樹作品をごそっと仕入れ、関連作品として、大江健三郎作品や川端康成作品も、そこそこ仕入れ、ド派手なポップを何枚も書いて、「よーし、いつでも来い!」と待ち構えているわけですが、毎年、無駄な準備に終わるわけです。
今回は、受賞者が、作家ですらなかったわけで、受賞者の作品を急遽仕入れて、並べる事もできず、呆然としてしまったのではないでしょうか? 同じように呆然としながらも、一瞬遅れて、「こうしちゃいられない!」と、飛び上がり、舞い上がったのが、CD・メディア・ショップで、大方、ボブ・ディラン作品を、どかっと仕入れる事でしょう。 だけど、たぶん、そんなにゃ、売れんと思いますよ。
現在、50代前半の私ですら、ピンと来ないのですから、CDを買うほど音楽に興味がある若い世代が、食いつくはずがないです。 お経ですわ。 だーからよー、別に、商売を応援する為に、ノーベル賞出してるわけじゃないんだわ。 世界遺産もそうですが、金を儲ける事しか考えていない人間が、それを当然の事のように、大きな顔をして、しゃしゃり出て来るのは、傍から見ると、人の心の醜さを見せつけられたようで、何とも不愉快な事です。
村上春樹さんの受賞を見越して、日本の書店やマスコミが、どれだけ、無駄なエネルギーを投じまくったかについて、研究し、発表すれば、そのあまりの滑稽さに、イグ・ノーベル賞がとれるんじゃないでしょうか。 いや、至って、マジな話。 ちなみに、私は、ノーベル賞よりも、イグ・ノーベル賞の方が、文化レベルとしては高い賞だと、真面目に思っています。
私自身は、ボブ・ディランさんの曲は、詞以前に、曲調が、全く琴線に触れず、残念ながら、お経にしか聞こえません。 私観ですが、短いメロディーを繰り返しているだけの場合、楽曲と認めない方がいいのでは? つまり、言葉の内容を伝えたい気持ちが勝ち過ぎてしまって、メロディーなんて、添え物に過ぎないんですな。
反戦・平和のメッセージ性というのも、その後のアメリカという国の振る舞いを見ていると、大して社会に影響を与えていないのではないでしょうか。 ノーベル文学賞は、パステルナーク氏を作家廃業に追いやってしまってから、政治とは距離を置いていたはずですが、ここへ来て、反戦・平和などと言い出したのが、不気味です。 今後、同じ轍を踏むんじゃありますまいね。
そもそも、ノーベル賞というのが、評価が高過ぎ、世間が騒ぎ過ぎでして、物理・化学・生理学は、順番待ちが長過ぎ、文学は、主観が強過ぎ、平和は、政治主張が偏り過ぎ、経済学は、正反対の学説でも受賞するのは、奇怪至極と、いい加減の限りを尽くしています。 比較的、評価が客観的と思われている、物理・化学・生理学に限っても、二流の学者が、一流の学者を選ぶという、根本的矛盾から逃れられません。
もっと、そもそも、ノーベル自身にしてからが、ダイナマイトの発明で財を成した人でして、彼の発明で、どれだけ人が死んだか、数え切れぬくらい。 血を吸って肥え太った基金から、賞金をもらって、嬉しいんですかね? 間接的に、殺人に加担している事にはならんのですかね? いや、なりますよ。 ならないわけがない。 「平和賞」なんてのがあるのが、聞いて呆れる。 平和賞に選ばれて、「殺人に加担する気はないから、受賞は辞退する」と言ってのける人物・団体は出て来ないものか。 喝采を送りたいと思って、随分、長い事、待っているのですが。
ちょっと、次元の違う話ですが、村上春樹さんは、この時期になると、毎年毎年、災難ですなあ。 今年も、日本のマスコミや、配慮の足りないファン達が、盛り上げるだけ盛り上げておいて、この結果です。 ファンの一人が、「村上春樹さんは、ボブ・ディランのファンだから、一番喜んでいるだろう」などと言っていましたが、それはまた別問題でして、はっきり言って、自分の名前を出して騒がれるのは、大迷惑だと思いますよ。 自分で、「とる」と宣言しているわけでもないのに。
そもそも、日本で、なぜ、村上春樹さんが、ノーベル文学賞候補と見做されているかというと、単に、「世界的に名が売れている日本人の作家」というだけの根拠でして、騒いでいる連中は、ノーベル文学賞が、どういう作家・作品に与えられるかについてなんぞ、まるで知らないのではないかと思います。 基本的に、「前衛的作品」が選ばれるのですが、村上さんの作品は、だいぶん、方向性が違うと思うのですがね。 だいぶん。
そういや、切腹して死んだ事で名を残した、ある作家は、「ノーベル文学賞をとる事が、自分が日本国にできる最大の貢献だ」と思っていたらしく、あれこれ、ロビー活動に精を出しただけでなく、わざわざ、自分の作風とはまるで違う、前衛的な作品を書いて、受賞を目指していたらしいですが、そういう、下心のある作家には、まず、くれないでしょうなあ。
更に、そもそも、もはや、文学そのものが、芸術の前衛から脱落してしまっており、だーれも、本なんか、読んじゃいねーっつーのよ。 いやいや、芸術そのものが、もはや、文化の前衛から脱落していると言っても、大きく外れてはいますまい。 大衆受けが最も良い映画ですら、心躍らせる作品が、まるで出て来ない有様。 音楽だって、見放されたのは、とおの昔でんがな。
ノーベル・村上騒動で、毎年、ぐるんぐるん振り回されていると想像されるのは、本屋さんでしょう。 毎年、この時期になると、村上春樹作品をごそっと仕入れ、関連作品として、大江健三郎作品や川端康成作品も、そこそこ仕入れ、ド派手なポップを何枚も書いて、「よーし、いつでも来い!」と待ち構えているわけですが、毎年、無駄な準備に終わるわけです。
今回は、受賞者が、作家ですらなかったわけで、受賞者の作品を急遽仕入れて、並べる事もできず、呆然としてしまったのではないでしょうか? 同じように呆然としながらも、一瞬遅れて、「こうしちゃいられない!」と、飛び上がり、舞い上がったのが、CD・メディア・ショップで、大方、ボブ・ディラン作品を、どかっと仕入れる事でしょう。 だけど、たぶん、そんなにゃ、売れんと思いますよ。
現在、50代前半の私ですら、ピンと来ないのですから、CDを買うほど音楽に興味がある若い世代が、食いつくはずがないです。 お経ですわ。 だーからよー、別に、商売を応援する為に、ノーベル賞出してるわけじゃないんだわ。 世界遺産もそうですが、金を儲ける事しか考えていない人間が、それを当然の事のように、大きな顔をして、しゃしゃり出て来るのは、傍から見ると、人の心の醜さを見せつけられたようで、何とも不愉快な事です。
村上春樹さんの受賞を見越して、日本の書店やマスコミが、どれだけ、無駄なエネルギーを投じまくったかについて、研究し、発表すれば、そのあまりの滑稽さに、イグ・ノーベル賞がとれるんじゃないでしょうか。 いや、至って、マジな話。 ちなみに、私は、ノーベル賞よりも、イグ・ノーベル賞の方が、文化レベルとしては高い賞だと、真面目に思っています。
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