2016/09/11

カー連読⑥

  父の死後の、さまざまな処理は、だいぶ、済ましましたが、まだ、四十九日や、相続の手続きが残っているので、普通の生活に戻った感じがしません。 母の心臓カテーテル手術も日延べしており、いつになるのかも、決まっていない有様。

  本来なら、父の死や、葬儀の事を、記事にすべきなのでしょうが、思い出すのがつらい事や、胸糞悪い事が、多く起こったので、そんな気になれません。 もっと時間が経ったら、書く気になるのかもしれませんが、今の時点では、確約はできませんな。

  というわけで、カー作品の感想文を、引き続き、出す事にします。




≪ヴードゥーの悪魔≫

原書房 2006年
ジョン・ディクスン・カー 著
村上和久 訳

  三島市立図書館の開架にあった、カーの最後の一冊。 一段組みで、365ページの単行本です。 ≪ヴードゥーの悪魔≫は、最後に日本語訳されたカー作品だとの事。 本国で発表されたのは、1968年で、カーの最終作品は、1972年の≪血に飢えた悪鬼≫のようですから、もう、晩年の作ですな。


  南北戦争の気配が迫りつつあるニューオリンズで、ブードゥー教関係者と交友があった地元名士の娘が、走っている馬車の中から姿を消す事件と、その娘の家で、判事が階段から落ちて死ぬ事件が立て続けに起こり、四半世紀前に、奴隷虐待を非難されて、国外に逃げた女の伝説や、街に信者網を張り巡らせているブードゥー教の指導者の存在がちらつく中、イギリス領事や、アメリカ上院議員が、謎を解いて行く話。

  カー作品の中では、「歴史ミステリー」に分類されていますが、現代物でさえ、すでに、80年以上、昔の物があるわけで、80年前も、150年前も、そんなに変わらないような気がせんでもなし。 舞台がアメリカとなれば、尚の事で、南北戦争の可能性が取り沙汰されている点を除けば、「歴史」を感じさせるところは、特にありません。

  365ページとはいえ、単行本の一段組みですから、そんなに長いというわけでもないのに、まるで、興が乗らず、読み終えるのに、五日間もかかりました。 ニューオリンズは、アメリカ人にしてみれば、歴史を感じさせる街なわけですが、外国人から見ると、新開地としか思えず、社会背景に、厚みが感じられないのです。 平たくいうと、興味が湧かないのですよ。

  カーが好きな怪奇風味が盛り上がらないから、わざわざ、ブードゥー教を絡めて、色付けしているわけですが、そのブードゥー教についても、そんなに深く語られているわけではなく、この本を読んでも、ブードゥー教の何たるかを知るには、てんで、ボリュームが足りません。 カーは、キリスト教についても、さほど深くは入り込まない作家でして、そもそも、幽霊だの、呪いだの、奇跡だのは、怪奇風味を盛り立てる小道具にしていただけで、まるで、信じていなかったのでしょう。

  トリックと謎解きもあり、後半は、そちらの興味で、少し、ページを捲るペースが早くなります。 だけど、あっと驚くようなトリックではなくて、何となく、子供騙しっぽいのは、カーの晩期作品すべてに共通するところ。 前にも書いたように、カーの作品を読みたがるのは、100パーセント、推理小説のファンでして、興味が湧かない歴史物に、既視感が強い、子供騙しのトリックが組み合わされているだけでは、楽しめるところがありません。

  探偵役は、ベンジャミン上院議員という実在の人物ですが、この人も、フェル博士や、H.H同様、太っています。 カーは、よほど、太った探偵が好きだったんでしょうなあ。 ただし、実在の人物だけに、あまり、勝手な事はさせられないわけで、謎解きをするだけの、とってつけたような探偵役になっています。 実質的主人公である、イギリス領事を探偵役にすれば、もっと、すっきりしたと思うのですがね。



≪魔女の隠れ家≫

創元推理文庫
東京創元社 1979年初版 1992年10版
ディクスン・カー 著
高見浩 訳

  三島市立図書館の、書庫に所蔵されていたもの。 ネットで調べて、書名と著者名のメモを書いて行き、係の人に出して来てもらいました。 口で言うより、書いた物を渡した方が、話が早いです。 会話好きの人は、そういう考え方をしないと思いますが、私は、本を借りる以外、図書館に用はないので、手続きは早いに越した事はないです。

  図書館に買われてから、24年も経っているにしては、割と綺麗な本でしたが、初版1979年は、やはり古くて、文字が小さいのには、参りました。 ただ、ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックスのように、翻訳が古過ぎて、読むに耐えないという事はないです。 70年代後半ともなると、昭和元禄を経て、出版文化が最盛期に入っており、完成度の低い翻訳では、相手にされなくなってしまったのでしょう。

  1933年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、1作目。 なんと、記念すべき、第一作ですよ。 これが、開架に置かれず、書庫に入っているというのは、カーの読者は、釈然としないところでしょう。 だけど、沼津市立図書館みたいに、そもそも、≪魔女の隠れ家≫が蔵書にないところに比べたら、遥かにマシ。 300ページ弱で、長編推理小説としては、普通の長さです。


  イギリス東部の、リンカシャー州チャターハムが舞台。 かつて、監獄を運営していた一族で、先代が監獄の中にある、≪魔女の隠れ家≫という、元絞首台跡で殺された2年後、外国から帰国した長男が、監獄の長官室で一晩を過ごす相続の儀式の最中に、窓から転落して死亡する事件が起こり、監獄が見える所に住んでいたフェル博士と、その家に滞在していた青年、地元の警察署長らが、捜査に当たる話。

  記念すべき第一作ではありますが、期待したほど面白くはありませんでした。 すでに閉鎖された刑務所が舞台なので、怪奇風味がある事はありますが、虐待を受けた末に殺されて行った死刑囚達の呪いについての書き込みが足りず、単に、情景の道具立てだけで、不気味な雰囲気を演出しようとしているのは、詰めが甘いです。

  翻訳のせいなのか、原文からしてそうなのか分からないのですが、≪魔女の隠れ家≫と呼ばれる絞首台跡が、どんな建築物なのか、詳しく書いていないのも、大きな手落ちですな。 長官室や井戸との位置関係も、はっきり分かりません。 カー作品の本には、現場の見取り図が付属しているものが多いのですが、この本には、ブリテン島の中での、リンカシャー州の位置を示す地図しかなくて、全く、参考になりません。

  メインのトリックに関係して来るのは、長官室と井戸の位置関係だけで、≪魔女の隠れ家≫は、あまり重要な場所ではないと思うのですが、それにしては、作品名として取り上げられているのが、奇妙です。 このタイトルが、何か、犯人の正体を暗示でもしているなら、まだ、納得し易いんですがね。 ミス・ディレクションになっていると言えば言えますが、あからさま過ぎて、これでは、ズルになってしまいます。

  フェル博士は、他の作品でも、決して、活動的ではなく、さりとて、人から話を聞いて、推理だけするというわけでもなく、中途半端な探偵なのですが、この第一作から、すでに、それでして、異様に太っているという外見以外に、特徴がありません。 はっきりと、コミカルな性格づけがなされている、H.Mの方が、推理小説の読者には、親しみ易いと思います。

  この作品では、フェル博士の妻が登場します。 ところが、そちらは、夫とは逆に、性格を極端化し過ぎて、空振りしています。 変な人なのですが、その変なところが、ストーリーと無関係で、浮いてしまっているのです。 たぶん、作者が、コミカル・パートを受け持たせようとして、極端なキャラクターを作ってはみたものの、途中で持て余してしまったんじゃないかと思います。 以降の作品で、博士の妻が出て来ないのが、その証拠でしょう。

  事件そのものは、密室でも、不可能犯罪でもなくて、トリックの謎解きをされても、「そうだったのか!」と、驚くような事はありません。 今まで、カー作品の感想で、何度か、「バラバラ」という言葉を使ってきましたが、この作品も、その指摘が相応しいと思います。 実質的な主人公である青年と、被害者の妹とのロマンスが入っていますが、その部分だけ、青春物になっているのは、ちと、呆れるレベルの、ちぐはぐぶりです。



≪盲目の理髪師≫

創元推理文庫
東京創元社 1962年初版 1993年31版
ディクスン・カー 著
井上一夫 訳

  これも、三島市立図書館の書庫から出してもらって、借りて来たもの。 ≪魔女の隠れ家≫と、ほぼ同じ頃に購入された本で、90年代に入っていますから、カバーの絵は洗練されています。 ただし、本文は初版のままで、1962年というのは、大昔ですから、現代の習慣では、使用不可の単語が、かなり出て来ます。 60年代初頭の翻訳を、同じ版で、30年間も刷り続けた東京創元社も、早川書房に負けてませんなあ。 いや、誉めてませんがね。

  1934年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、4作目。 ≪魔女の隠れ家≫の後に、≪帽子収集狂事件≫、≪剣の八≫と続き、その次が、この作品になります。 同じ探偵のシリーズとは思えないほど、作風に一貫性がないです。 読者を飽きさせない為に、変化をつけようとしていたのではないかと思いますが、それにしても、落ち着きませんな。 


  アメリカからイギリスへ向かう客船の中で、青年外交官が所持していた、国際関係に重大な影響を及ぼす映画フィルムが盗まれ、謎の女が重傷を負い、船長が襲われ、高価なエメラルドの象が行方不明になり、重傷の女が姿を消すという事件が、立て続けに起こる。 外交官の友人である推理作家と、人形芝居一座の娘達が協力して、船長の疑いをかわしつつ、窃盗・殺人犯を探る話。

  船の上では、フェル博士は登場せず、イギリスの自宅にいて、船から下りて来たばかりの推理作家から、事の顛末を聞いて、犯人の指名と謎解きを行うという形になっています。 では、推理作家が語り手なのかというと、そうではなくて、船上で起きた出来事は、三人称で書かれています。 そういうのは、カーの小説では、珍しくないのですが、考えてみると、ちょっと変ですな。

  たとえ、推理作家が一人称で語ったとしても、370ページもある作品の9割近くを占める船上での場面を、全て語るのに、一体、何時間かかる事やら。 これは、「小説の嘘」の一つでして、現実には、そんなに長時間、話を聞いてくれる相手は存在し得ません。 こんな細かい語り方では、どんな聞き手でも、3分もすれば、「要点だけ話してくれ」と文句をつけるでしょう。

  ところが、フェル博士は、「話の途中でどこか一か所でもはしょっていたら、わしは大事な証拠をつかみそこねていた」などと言っており、我慢強いのにも、限度があろうというもの。 嘘臭いなあ。 そもそも、話だけ聞いて、推理するというのが、無理があります。 語り手は、探偵ではないのですから、謎解きに必要な見るべきものを見ていない可能性が高く、一つでも見落としがあれば、正確な推理などできるはずがありません。

  形式の問題はさておき。 この作品、船上での場面は、ドタバタ喜劇になっています。 雰囲気がそれっぽいというのではなく、ドタバタ喜劇そのものでして、明らかに、作者が企図して、そう書いているのが分かります。 下司の勘ぐりを逞しくするなら、コメディー映画の原作のつもりで書いたのではないかと思うほど。

  何度も書いている通り、カー作品の読者は、推理小説のファンに限定されていると思うので、サスペンスを楽しもうとして読み始めた人は、4分の1くらい進んだところで、「あれ? こりゃ、真面目に読むような話ではなさそうだぞ」と気づき、そこから後を読むのが、大変つらくなります。 推理小説のつもりで読み始めたのに、大笑いはできませんわなあ。

  本格的なコメディーと推理物を組み合わせようとしたところに、無理がある。 コミカルくらいなら、問題ないどころか、むしろ、面白いと感じますが、ドタバタではねえ。 最後の、フェル博士の謎解きで、一気に、推理物に引き戻されるわけですが、木に竹を接いだとは、正にこの事でしょう。

  仮に、推理小説をある事を忘れ、船上場面だけ取り出して、コメディーとしての出来具合を測ってみますと、ドタバタぶりこそ凄まじいですが、全くと言っていいほど、笑えません。 登場人物が、みんな異常でして、「狂人のパーティー」になってしまっているからです。 特に、青年外交官は、船長が言っている通り、「キ○ガイ」としか思えないキャラでして、それを助けようと骨を折っている推理作家も、異常に見えて来ます。

  「変なキャラを、出せば出すほど、面白くなる」という考えは、コメディーへの理解が浅い人が陥りがちな失敗です。 まともな人間がいるからこそ、変な人が際立つのであって、みんな狂ってしまっているのでは、落差が生まれないから、面白くなりようがないのです。



≪死者はよみがえる≫

創元推理文庫
東京創元社 1972年初版 1994年15版
ディクスン・カー 著
橋本福夫 訳

  父が吐血して、救急車で運ばれ、入院した日に、時間の合間を縫って、三島図書館へ行き、借り替えて来た本の一冊。 家族が入院しているのに、読書もなかろうと思ったのですが、借りていた本を返しに行ったついでと思い、つい借りて来てしまった次第。 ところが、やはり、面会やら何やらで忙しく、読むのに、えらい手間取りました。

  1938年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、8作目。 フェル博士物としては、≪アラビアンナイトの殺人≫と、≪曲がった蝶番≫の間の作品ですが、H.M物の方では、同じ38年に、傑作、≪ユダの窓≫が発表されていまして、これにも期待していたんですが・・・。


  半月前に、知人の屋敷で夫を殺された妻が、ホテルの一室で殺される事件が起こり、その階の半分の部屋を借り切って、滞在していた、被害者の親戚や友人達が容疑者となる。 どちらの事件でも、ホテルの従業員の制服を着た人物が目撃されているのに、該当する人物はおらず、出入りした形跡もない。 フェル博士とハドリー警視が、役割分担しながらも、互いの推理を戦わせつつ、謎を解いて行く話。

  「ワトソン役」と呼ばれる役回りで、推理作家の青年が出て来ますが、カーの場合、ワトソン役と言っても、一人称とは限らず、この作品も三人称で書かれています。 この青年は、冒頭、容疑者にされかけたり、推理を披露したりしますが、実は、本筋の事件とは何の関係もない人物で、単に、狂言回しに使われているだけです。 カー作品のワトソン役には、こういう不完全なキャラが多いですな。

  とにかく、ダラダラだらだら、長い長い。 350ページくらいで、絶対的な長さは、大した事がないのに、話が盛り上がらないものだから、なかなか、ページをめくる手が進みません。 確かに、トリックはある。 謎もある。 意外な犯人もいる。 怪しいと思わせておいて、実は、犯人ではない人もいる。 と、推理小説のパーツは揃っているのに、面白さに繋がっていないのです。 バラバラなんですな。

  まず、殺人事件の起こった場所を、二ヵ所にしてしまったのが、失敗の始まりだと思います。 ホテルを主な舞台にするなら、二件とも、ホテル内で起こさせれば、話があっちこっち飛ばなくて済んだのに。 普通の屋敷で、ホテル従業員の制服を着た人物が出て来たりするのが、宜しくない。 あまりに、突飛過ぎて、読者から見ると、謎と言うより、こねくり回して作った、出来の悪い推理小説なのではないかと思えてしまうのです。

  トリックに、仕掛けを施した屋敷が関係して来るのも、如何なものかと思うのですよ。 そりゃあ、そういう設定にすれば、どんなに奇妙に見える犯行でも可能になりますが、それは、あまりにも、御都合主義ではありませんか。 もはや、伏線にも何も、なっちゃいない。 本格推理物なのに、容疑者が超能力者である事を仄めかす伏線が張られていたら、「アホか?」と思うのが普通ですが、仕掛け屋敷の伏線も、それと大差ないと思いますよ。 カーといえば、密室物の大家なのですが、そんな人が、仕掛け屋敷を使ってはいけませんわ。 抜け穴とか、隠し部屋とか、そんなの、子供騙しではありませんか。

  ラストの謎解きが長過ぎるのも、読んでいて、げんなりして来ます。 フェル博士が、一つ一つ、謎を解いて行くのですが、崖の上なら、日が暮れてしまいそうに長い。 こんなに長々と話さなければならないのは、ストーリー不在で、話の進行に伴って、謎が少しずつ解けて行く形になっていないせいで、最後にどかっと溜まってしまったからです。 もー、どーにも誉めようがない、出来の悪さですなあ。




≪緑のカプセルの謎≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1995年22版
ディクスン・カー 著
宇野利泰 訳

  父が入院した日に、三島図書館から借りて来た本、三冊の内の二冊目。 父の入院中に、毎日、見舞いに通いながら、家で時間を作って読んだわけですが、≪死者はよみがえる≫よりは、進みが速くて、助かりました。 カー作品の作風は、驚くほど多様で、ページの進み方が、一作一作、違います。

  1939年の発表。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、10作目。 フェル博士物としては、≪曲がった蝶番≫と、≪テニスコートの殺人≫の間に入ります。 H.M物の方では、同じ39年に、≪読者よ欺かるるなかれ≫があり、≪曲がった蝶番≫、≪読者よ欺かるるなかれ≫の二作と、この≪緑のカプセルの謎≫は、風変わりな設定という点で、僅かながら、似通ったところがあります。


  菓子屋のチョコに毒物が混入され、子供が死傷する事件が起こった村で、四ヵ月後に、犯罪学を趣味とする村の名士が、人間の観察力が信用できない事を証明しようと、姪や、その婚約者、知人の学者の前で、実験の為の寸劇を見せた直後、やはり、毒殺される。 闇の中で寸劇を見ていた人々には、相互にアリバイがあり、外出していた名士の弟にもアリバイがあるという状況下、捜査担当に任命された警部が、フェル博士に助力を願い、共に捜査に当たる話。

  実際には、死者が、もう一人いて、話はもっとややこしいのですが、長ったらしくなるので、割愛します。 この作品の肝は、寸劇の内容と、それを見ていた人達の置かれていた状況でして、その部分だけは、慎重に読む必要がありますが、それ以外の部分は、尾鰭に過ぎず、とりわけ、冒頭のポンペイの場面などは、最初から、読み飛ばしても、差し支えないくらいです。

  この実験寸劇の設定が、洒落ていまして、地位も名誉もある、いい歳こいた大人が、こんな事を計画するというのが、すでに面白いですし、また、それにつきあって、実験台になろうという、姪や、その婚約者、知人の学者も、普通ではありません。 ホーム・パーティーの余興みたいなノリなのかもしれませんな。

  この寸劇は、見ている者に錯覚を起こさせるのが狙いでして、様々なトリックが盛り込まれており、それがそのまま、殺人のトリックに流用されているわけで、推理小説として、巧みな設定と言えば言えますが、寸劇自体が作り物なのですから、作者の好きなようにトリックのお膳立てを用意できるというのは、御都合主義的な感じがしないでもなし。

  もし、この作品が、実験寸劇のアイデアだけで作られたものなら、評価は今一つに終わったと思うのですが、探偵役であるフェル博士の露出が多くて、博士には珍しく、探偵らしい活躍を見せますし、寸劇を撮影したフィルムを、捜査陣が鑑賞する場面など、サスペンスの盛り上げ方も巧くて、語り口の良さが際立っているおかげで、読者に面白いと思わせる作品になっています。

  フェル博士による、「毒殺講義」が、謎解きの過程で披露されていますが、そんなにインパクトのあるものではなく、過去に実際に起こった毒殺事件を例に挙げて、毒殺を好む犯人の特徴を、大まかに述べているだけ。 その点は、あまり、期待し過ぎない方がいいです。




≪連続殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1995年42版
ディクスン・カー 著
井上一夫 訳

  父が入院した日に、三島図書館で借りて来た本の三冊目。 貸し出し期間二週間の間に、三冊読むというのは、普通なら、なんでもないんですが、父の見舞いに、毎日、3時間ほど取られていると、結構、厳しいものがあります。 妙に理屈っぽいとか、奇を衒った書き方をしてあるとか、描写で水増ししてあるとか、読むのに抵抗がある作品が混じっていると、ほんとに厳しい。 今回の三冊の内、厄介だったのは、≪死者はよみがえる≫だけで、≪緑のカプセルの謎≫と、この≪連続殺人事件≫は、読み易かったので、助かりました。

  1941年の発表。 もろ、戦争中ですな。 戦争中でも、それに一切触れない事が多いカーですが、この作品では、ドイツ軍による空襲が、ちょぼちょぼ始まった頃らしく、防空暗幕が、事件のなぞに関わって来ます。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、13作目。 ここのところ、フェル博士物ばかり続けて読んでいるのですが、それには理由がありまして、図書館の書庫に入っている本ばかりなので、係員が探し易いように、作者名がディクスン・カー名義のものだけに絞っているからです。


  スコットランドの一地方にある、キャンベル家で、当主が寝室にしていた塔の窓から落ちて死ぬ。 その直前に、生命保険に入っていた事から、事故か殺人なら遺族に高額の保険金が入り、自殺なら一文も入らないという状況になる。 塔の寝室は、密室状態で、生き物を運ぶ為に空気孔がついたケースが、ベッドの下で発見され、それを持って、恨みを抱いている男が訪ねて来たという、当主の日記が残されている。 当主の弟の友人であるフェル博士が呼ばれ、捜査を始めた矢先、弟までが、塔の寝室で一晩を過ごすと言い出すが・・・、という話。

  この作品の場合、一つの事件がきっかけで、次の事件が起こり、更に次と続いていくので、調子に乗って、梗概を書いていると、ネタバレの嵐になってしまいますな。 連鎖するから、「連続」なわけですが、原題は、≪The Case of the Constant Suicides≫で、直訳すると、≪連続自殺事件≫です。 なぜ、≪連続殺人事件≫という邦題にしたのかが解せません。 自殺か殺人が分からないのが、話の肝なので、どちらであっても、内容と齟齬を来す事はないのですが、≪連続殺人事件≫では、あまりにも、一般的過ぎて、小説のタイトルらしくないです。

  生き物を運ぶケースが残されていたという事で、ホームズ物の≪まだらの紐≫のような、危険な動物が使われたのではないかと思わせておいて、実は・・・、というのが、第一の事件の謎の核心になっています。 だけど、発表当時はともかく、今では、あまりにもありふれたトリックになっていて、謎解きを読む前に、「ああ、あれだろう」と、分かってしまいます。

  第二の事件は、第一の事件を繰り返したもので、取り立てて言うほどの謎はないです。 第三の事件は、屋敷とは別の所にある小屋で起こり、そちらも密室なのですが、このトリックも、全く大した事はなくて、おそらく、発表当時でも、読者には、ありふれたアイデアと見做されたと思います。 合わせ技で、一本を狙ったんでしょう。

  合わせ技と言えば、冒頭の部分は、恋愛物として書かれているのですが、カーの作品で、恋愛がテーマというのは、まず、ないのであって、「どうせ、本筋とは、関係ないんだろう」と思っていたら、案の定でした。 だけど、本筋と関わりが薄い事が、却って、プラスに働いて、この作品の恋愛パートは、鬱陶しい感じがしません。

  ストーリー進行のテンポがいいですし、コミカルな場面もあり、理屈っぽいところは、全て、フェル博士のセリフが受け持ってくれるので、大変、読み易くて、ページがどんどん進みます。 せっかく用意した、「亡霊」に関する書き込みが足りないなど、物足りないところもありますが、話が面白いので、ケチをつける気がなくなります。 「盛りだくさんで、バラバラだけど、そこそこ面白い」というのが、総合的な感想になるでしょうか。




  今回は、以上、6冊までです。 5月下旬から、6月半ばにかけて読んだ本。 父の最初の入院を間に挟んでいます。 入院中も、毎日、見舞いに行きながら、時間を見つけて、バイクで三島図書館へ行き、本を借り続けていました。 この時点では、父が他界する事など、想像すらしておらず、退院した後、元の生活に戻れるのか、本格的な介護生活が始まるのか、そんな事ばかり、気にかけていました。