カー連読①
カーというのは、ジョン・ディクスン・カー、別名義、カーター・ディクスン氏の事で、アメリカ人だけど、イギリスに移住して、イギリスが舞台の推理小説を書いて、その筋では知らない人がいないというくらい、有名な人。 だけど、映像化作品が、極端に少ないせいで、一般人には、まったくと言っていいほど、知られていません。
映像化という点では、活躍時期が重なる、アガサ・クリスティー氏と、対照的な扱われ方ですが、原作のレベルとしては、全く負けていないと思います。 横溝正史さんが、戦時中に読んで、大いに嵌まり、「こんなのを、書きたい!」と思い立って、戦後、金田一耕助シリーズを書き始めたという曰く付き。
私が知ったきっかけは、そもそも、去年の夏に、ちょっと閑を持て余して、手持ちの横溝作品を読み返していたら、≪本陣殺人事件≫の中に、カーの名が出て来て、「ほとんどの作品が、密室物か、その変形」と紹介されていたのに興味を持ったのですが、調べたら、沼津の図書館に、そこそこの数かあると分かったので、秋になってから、借りて来て、ボツボツ読み始めたという次第。
だけど、最初の頃は、作風に慣れていないせいか、違和感が強くて、なかなか、カーの世界に入って行けませんでした。 というわけで、感想文は、辛辣な批判の嵐になっています。 カーのファンの方々は、読むと、怒髪天を衝きかねないので、厳に読まないで下さい。 ここから先は、一行も目をやっては行けません。
こらこら! 読むなと言っているではないか! なぜ、年寄りの忠告を聞かんかなあ。 これだから、最近の若い者は・・・。
≪三つの棺≫ 〔新訳版〕
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2014年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳
≪三つの棺≫は、カーの代表作の一つで、1935年の発表。 文庫で、386ページ。 1930年代頃になると、長編推理小説には、標準的な長さというのが決まって来るようで、クリスティーの長編も、大体、このくらいの長さです。 冒頭からしばらく、創作形容が多く、読み難いですが、先に進むと、ストーリーを語るのに忙しくなったのか、普通の形容ばかりになり、ぐっと読み易くなります。
ちなみに、カーは、元はアメリカ人で、その後、イギリスに住んで、イギリスを舞台にした作品を多く書いた作家。 アメリカの文学界では、創作形容を、作家の文学的才能の証明だと思い込んでいる人が多いのですが、イギリスとアメリカの読者、双方に配慮して、こういう書き方をしていたのかも知れません。 私に言わせれば、小説家の創作形容など、論客の屁理屈と、大差ないと思うのですが。
ロンドンに住むフランス人の、グリモー教授が、酒場で、奇術師を名乗る男から、襲撃の予告を受けた後、自宅の自室で、瀕死の状態で発見され、探偵一味(フェル博士、ハドリー警視、フェル博士の友人・ランポール)が駆けつけた時、今際の言葉を切れ切れに漏らし、その後、息絶えたが、襲撃の直後、教授宅から離れた通りで、教授を撃ったのと同じ拳銃で、奇術師が殺されているのが発見され、教授の自室は完全な密室、奇術師は、至近距離で撃たれているのに、周囲の雪の上には足跡がなく、実質的密室状態と、謎が渦巻く中、フェル博士達が捜査を進め、グリモー教授が、フランス人ではなく、ハンガリー人で、過去に、政治犯として弟二人と共に逮捕され、疫病を擬装して一旦埋葬されて、脱獄した過去があると分かり・・・、という話。
うーむ、最低の梗概だな。 これだけ、読んだのでは、何が何やら、さっぱり分からん。 だけど、それは、私だけのせいではないです。 トリックの部分と、因縁話の部分が、必然的関係になくて、二つの内容を並行して書いているような、噛み合いの悪いストーリーになっているのです。 どういう事かと言いますと、同じトリックに、別の因縁話をつけても、成立するという事ですな。 「二人の人間に恨みを買っている、一人の人物で、家人が何人かいる」という、およそ、どこにでもありそうな条件さえ満たしていれば、何でも、オッケーです。
トリックそのものは、作者が、読者に対して仕掛けているもので、一種の叙述トリックです。 ルルーの≪黄色い部屋≫も、そうでしたが、もしかしたら、密室物で、機械式トリックに頼らない話というのは、みんな、叙述トリックなんですかね? これから、しばらく、カーの作品を読みたいと思っている私としては、そうでない事を祈るばかりですが。
本格推理物として、大変、評価が高いそうですが、その事自体が、推理小説界が、一般の文学とは、遠くに離れてしまった事を、証明していると思います。 一つの話になっていないなんて、小説として、評価外でしょう。 叙述トリックとして、確かに、よく出来ていて、気づいた時に、大抵の読者は、「あっ! そういう事なのか!」と驚くと思いますが、それはそれとして、小説としては、ギスギスに痩せ細っていて、叙述トリック以外の部分に、何の魅力も感じられません。
これを、「最高傑作!」と褒め称え、これを手本にして、推理小説を書いていたら、そりゃ、おかしな方向へ進みますよ。 「トリック、トリック」で、頭の中が満杯になってしまって、もはや、「人間を描く」なんて事は、どこかへすっ飛んでしまっているんじゃないかと思います。
≪火刑法廷≫ 〔新訳版〕
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2011年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳
密室物の代表的推理作家、ディクスン・カーが、1937年に発表した長編小説です。 文庫で、370ページ。 ≪三つの棺≫より、僅かに短いですが、ほとんど、同じと言っていい長さです。 第二次世界大戦前ですから、まだ、作者はまだ、イギリスに住んでいたはずですが、この作品の舞台は、アメリカのペンシルバニア州にある、資産家の邸宅です。 ペンシルバニア州は、ニューヨーク州の南に隣接している州で、植民地としては、歴史がある方。
アメリカが舞台でありながら、創作形容は、最小限に抑えられていて、積極的に探さなければ、見つからないくらい少ないです。 つまり、その分、≪三つの棺≫より、読み易いわけで、借りて来た時は、「大体、400ページと考えて、日当たり、100ページ読めば、4日で読み終わるな」と計算していたのが、2日目に、興が乗って、どんどん、ページが進み、3日目の朝には、読み終わってしまいました。 赤川次郎作品並みの、読み易さでした。
1929年、ニューヨークの出版社に勤める編集者の男が、犯罪裁判物で有名な作家の未発表原稿を預かり、資料として添えられていた19世紀半ばの毒殺魔の女の写真が、自分の妻にそっくりである事に、愕然とさせられる。 その後、彼の別荘がある、ペンシルバニア州クリスペンに赴くと、近所の豪邸に住む友人から、先日病死した、その友人の伯父が、毒殺された疑いがあると聞かされ、証拠を探す為に、墓を暴く手伝いをする事になるが、完全に密封された墓所の棺の中に、遺体はなかった。 更に、その伯父が亡くなる直前に、19世紀半ばの身なりをした女が、毒入りのカップを持って、密室状態の伯父の部屋に入り、また、出て行ったという目撃証言があり、三つの謎が絡み合う話。
密室トリックを二つ用意し、それに、70年前に処刑された女が、生き続けているという怪奇趣味で味付けした作品。 作品内で進行する時間が短い事もあり、どんどん話が進んで、否が応でも引き込まれ、最後まで、面白く、読まされてしまいます。 カーという人は、密室のアイデアだけでなく、語り方が巧みだから、高い評価を受けているんでしょう。
密室のアイデア、二つの内、墓所で遺体が消えた方は、登場人物の一人が嘘をついているというもので、さほど、驚かされません。 もう一つの、伯父の部屋に出現した女の方も、基本部分は、登場人物の一人の嘘が種になっていて、それに、鏡のトリックを重ねていますが、いずれも、驚くほどのアイデアではありません。 鏡は、≪三つの棺≫でも出て来たのですが、作者が好きだったんですかねえ。
実質的主人公である、編集者の妻が、70年前の毒殺魔にそっくり、という方は、明らかに、無理やり、くっつけたもので、本体部分の犯罪とは、直接、関係していません。 この点は、推理小説ファンでも、気づいていない人が多いのではないかと思いますが、主人公の妻が出て来なくても、この話は成立するのです。 そもそも、後ろの方で、探偵役の作家が出て来なければ、主人公の妻の素性など、誰も知らなかったのですから、利用されたのは、偶然だったんですな。
探偵役の作家は、非常に変わった人物で、「こんなキャラ設定では、シリーズ化には、耐えられないのでは?」と思うのですが、作者も、その辺は承知の上で出したようで、シリーズ化がありえないようなラストになっています。 だけど、探偵の能力の裏づけとしては、大変、説得力がある経歴を持つキャラでして、一回限りで使い切ってしまうのは、惜しいような気もします。
総括しますと、「読み物としては、素晴らしく面白いが、細部を見ると、大したアイデアは使われていない」と言ったところでしょうか。 怪奇な雰囲気を味わうのが、目的であれば、一級作品と言えますが、眠る前に読むと、面白過ぎて、朝まで読み続けてしまいかねないので、注意が必要です。
≪死が二人をわかつまで≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2005年
ジョン・ディクスン・カー 著
仁賀克雄 訳
1944年に発表された、ディクスン・カーの長編推理小説。 文庫で、320ページ。 少し短いですな。 これは、イギリスが舞台で、探偵役は、ギデオン・フェル博士と、ハドリー警視のコンビが務めています。 それにしても、44年て、戦争の真っ最中じゃありませんか。 カーはブリストルに住んでいたらしいですが、戦災で家を焼かれたとの事。 アメリカに避難しなかったのは、大西洋を渡るのが、却って危険だったからなのか、イギリスに愛着があったのかは、分かりません。
第二次世界大戦前、イギリスの田舎町で、町の人達が勧める女友達をふって、よそから移り住んで来た女と婚約した劇作家が、占い師と称して町に滞在している、内務省所属の犯罪学の権威から、婚約相手が札付きの毒殺魔であると教えられるが、その女の手口そのままに、その犯罪学の権威が、青酸を腕に注射して死ぬ事件が起こり、劇作家の婚約者と女友達の双方に疑いがかかる中、町の医師によって、フェル博士が呼ばれ、ハドリー警視の協力の下、犯人を誘き出す為の罠が仕掛けられる話。
一応、密室物ですが、窓に弾孔があり、それを使った、機械的トリックが用いられるので、密室物としては、ありふれています。 それよりも、話の入り組み方の方が、読ませどころになっています。 後半で、ドンデン返しというのは、よくありますが、この話では、始まって間もないところに仕掛けられいて、呆気に取られてしまいます。 更に、フェル博士が登場した直後、もう一回、引っ繰り返されます。 つくづく、読者を煙に巻くのがうまい作家ですなあ。
感心しないのは、フェル博士達が仕掛けた罠のせいで、犯人以外に犠牲者が出てしまう事でして、これは、推理小説の探偵としては、重大な過失でしょう。 金田一耕助は、事件に最初から関っているのに、連続殺人を止められない事で、無能探偵呼ばわりされていますが、こちらは、それ以上に問題です。 力が及ばなかったのではなく、明らかに、しくじったのですから。
そこと、トリックがしょぼいところに目を瞑れば、充分、面白いです。 変な感想ですが、実際に、読んでみれば、分かります。 隠しようがない欠点があるのに、それと、面白さが共存しているのだから、不思議な小説ですなあ。
作品とは関係ありませんが、巻末に付いている、某作家の文章が、最悪・・・。 解説ではなく、感想で、しかも、この作品の感想ではなく、カーの作品全般に対する感想です。 さんざん貶した後で、「そういうところがいい」という、無茶な誉め方をしているのですが、いいと思うなら、いいところだけ、書けばいいと思うのですがね。
単なる個人的感想に過ぎず、わざわざ、巻末に載せるような文章とは思えません。 すでに、古典になっている作品の場合、無理に巻末文を付けなくても、本文だけでも、充分でしょうに。 著者について、知識・情報を与えてくれる解説なら歓迎ですが、個人の感想、しかも、貶している感想なんて、胸糞悪いだけです。
≪喉切り隊長≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年 (初版 1982年)
ジョン・ディクスン・カー 著
島田三蔵 訳
1955年に発表された、ディクスン・カーの、長編歴史ミステリー。 カーは、第二次大戦後、アメリカに戻るのですが、1950年以降は、主に、歴史ミステリーを書くようになって行ったらしいです。 「歴史ミステリー」というジャンルそのものが、ピンと来ませんが、歴史上の事件に絡めて、推理物の謎やトリックを盛り込んだ小説の事のようですな。 SFの一ジャンルに、「歴史こじつけ」というのがありますが、それの推理小説版だと考えればいいのでしょう。
ナポレオンが皇帝になった直後、イギリス侵攻に備えて、20万人のフランス軍が終結するブーローニュ地方で、夜な夜な、兵士を刺殺する、「喉切り隊長」が出没し、フランス軍を恐慌に陥れる中、一週間以内に犯人を逮捕するよう、皇帝の命を受けた、警務大臣フーシェが、捕えていたイギリスのスパイ、アラン・ヘッバーンを、命の担保と引き換えに、事件の解決を命じて、現地に送り込むが、事件の背後には、大物の影がちらついていて・・・、という話。
ナポレオンは当然ですが、フーシェも、実在の人物。 他に、外務大臣タレーランも出て来ますが、ちょっと顔を出すだけです。 主な登場人物である、アラン・ヘッバーン、その妻のマドレーヌ、フーシェの手先のイダ・ド・サンテルム、メルシェ大尉、シュナイダー中尉などは、架空の人物。 もちろん、「喉切り隊長」の事件そのものは、フィクションです。
元々、子供向けの作品ではないですが、カーの文章は読み易いので、小学校高学年くらいなら、充分読めると思われ、フィクションだと知らずに、歴史上の事件だと思ってしまう恐れはあります。 後で赤っ恥を掻くのは、その子供であり、そこまで考えると、こういうジャンルは、かなり、罪がありますなあ。
それはさておき、作品の中身ですが、お世辞にも、出来がいいとは言えません。 いわゆる歴史小説とは、全く違っていて、それに似せようという気もないらしく、強いて言えば、大デュマの小説に雰囲気が近いです。 政治あり、陰謀あり、恋あり、アクションありというわけ。 しかし、作品の出来は、とても、大デュマには及ばず、頭に来るくらい、バランスが悪いです。
なんで、パリから、ブーローニュまでの、馬車の中での会話がこんなに長いのか・・・。 調査する前から、謎解きをしている有様で、この時点で、もう、ミステリーとしては、終わってしまいます。 後は、月並みな恋愛場面の後、これまた、異様に長い、アクション場面が続き、最後は、政治陰謀で締め括られます。 こう書くと、綺麗に並んでいるように見えるかも知れませんが、本来、これらの要素は、適度なバランスを取って、絡み合わせなければいけないものです。 長短不揃いに、ただ並べて、どうする?
ナポレオン時代が舞台というと、私は、フランスかロシアの小説しか読んだ事がなかったので、イギリス側の立場で書かれている、この作品には、悪く言えば、違和感、良く言えば、新鮮さを感じました。 アメリカ人も出て来ますが、中立というよりは、やはり、イギリス寄りの役割を果たします。 この辺、作者の国籍・経歴が、素直に出ていますなあ。 イギリスは、ナポレオンとの戦いでは、直接、侵攻されていませんし、最終的に勝者になるわけで、それだけで、充分だろうと思うのですが、イギリス好きのアメリカ人であるカーにしてみれば、もっと、勝ち誇らなければ、気が済まないわけだ。
一番、腹が立つのは、主人公と、シュナイダー中尉の対決を、テキトーにやっつけてある点です。 これだけ、期待させておいて、よく、こういう放り出し方ができるものです。 カーにしてみれば、「ちゃんと、冒頭に、伏線を張っておいただろう?」と言うでしょうが、読者というのは、伏線などより、本筋の方を追って読んでいるわけで、こういう書き方をされると、「してやられた」と、笑ったりせず、「人を馬鹿にしている」と、怒ってしまうのです。
≪読者よ欺かるるなかれ≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年
カーター・ディクスン 著
宇野利泰 訳
「カーター・ディクスン」というのは、ジョン・ディクスン・カーの別名でして、書いている人は同一人物です。 なんで、別名を使ったかというと、当時、一作家が一年間に発表できる作品数に制限があって、それを免れる為だったのだとか。 この作品は、1939年の発表。 文庫で、392ページ。 舞台は、イギリスで、探偵役は、ギデオン・フェル博士ではなく、H.M(ヘンリー・メリヴェール卿)です。 作者が違うのだから、探偵も違っていなければ、都合が悪いわけだ。
探偵小説も書いている、ある女性作家が、海外旅行先から、読心術師を連れ帰り、地方にある屋敷に知人達を招いて、その能力を披露させたところ、読心術師は、作家の夫が殺される事を予言し、実際に殺人が起こると、「自分が思念力を使って殺した」と告白する。 ありえない犯行に、警察が翻弄される中、屋敷に招かれていた医師の友人である、陸軍情報局総裁で、名探偵としても有名な、H.Mが、捜査に乗り出す話。
推理小説なので、これ以上は、書けませんな。 超能力が絡んでいるわけですが、SFではなく、推理小説なのだという事が分かっていれば、自ずと、真偽の程は判断できるわけで、「一見、超能力を使ったとしか思えない犯行が、実際には、どんなからくりで、実行されたか」が、読みどころとなります。
面白いんですが、どうも、作者に、煙に巻かれてしまったような感じがしますねえ。 推理小説は、そもそも、そういうものなのですが、カーの作品の場合、何か、記述に足りないところがあって、「してやられた」と、感服するより、「これは、ズルなのでは?」という、不快感の方が強いのです。
辻褄が合っていないところもあります。 最初の犠牲者が出た理由は、読心術師の予言とは無関係の、単なる偶然なのですが、もし、その犠牲者が出なければ、その時点で、読心術師はインチキという事になり、彼の超能力を軸にして構成されている、この小説の設定は成立しなくなってしまいます。 自分の能力を否定されかねないような事を、この読心術師がやるとは、到底思えません。
犯行の舞台になる家が、二軒出て来て、どちらも、同じ作家夫婦が住んでいます。 一方は、地方にある独立した屋敷。 もう一方は、ロンドンにある家で、作家夫婦は二階だけ使っていて、一階と三階には別の家族が住んでいます。 ところが、その二軒の関係について、説明がないので、後者の家が出てくると、「えっ? この家は、最初の屋敷とは違うの?」と、読んでいる方は、混乱してしまいます。
読み返して、よくよく調べると、新聞記事の引用の部分に、最初に出て来る屋敷が、夫妻の「別邸」であると書いてあるのですが・・・、これ、普通に読んでいて、気づく人、いるのかなあ? 冒頭に出て来る、手紙の説明では、単に、夫妻の「邸」と書いてあって、最初に、そう書いてあったら、普通、そこだけが、夫妻の家だと思う方が、自然なのでは?
犯人の、本当のターゲットが、終わりの方で、突然、出て来るのも、ズルいですなあ。「このターゲットは、いつから、ここに住んでいたのだ?」と、驚愕してしまいます。 もしかしたら、前の方のどこかに、その説明があるのかもしれませんが、あったとしても、見逃すほど、さらっと書いてあるに違いなく、もう、読み返して探す気力がありませんわ。
解説に、「動機が全く書いていない」とあるのですが、「全く」というほどではなく、一応、両者の相関関係についての説明は入っています。 しかし、弱いのも事実で、「そういう相関なら、必ず憎んでいるはず」という、読者の常識に丸投げしているようなところがあります。 犯人と、真のターゲットが誰であるかを、読者に気取られない為に、そうしているのでしょうが、あまりにも、淡白過ぎて、書き漏らしのように感じられてしまいます。 もっとも、30分もかけて因縁話を語る、日本の2時間サスペンスに比べたら、こちらの方が、ずっと、マシですが。
この作品ねえ。 やっぱり、あちこちが、不完全なんですよ。 だから、モヤモヤした読後感になるのです。 読心術師を出して、神秘的な雰囲気を盛り上げた、アイデアはいいと思うんですがねえ。 実際の殺人では、機械的トリックも使われるのですが、そちらは、驚くようなものではありません。
H.Mは、フェル博士と、外見的にも、性格的にも、ほとんど、変わりがないように見受けられます。 というか、探偵役のキャラについて、詳しく書き込んでいないから、「肥満した巨体の、中高年イギリス人」という、共通した特徴が、ダブってしまうんですな。 カーにとって、大事なのは、トリックや謎の出来だけで、探偵役のキャラなんて、どうでもよかったのかも知れません。
≪月明かりの闇≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2004年
ジョン・ディクスン・カー 著
田口俊樹 訳
1967年の発表。 カーは、77年には、他界してしまいますから、晩年の作と言ってもいいです。 推理小説としては、これが、最後の一作になった模様。 この後のカーは、歴史ミステリーしか書かなくなります。 文庫で、491ページ。 日本語訳の副題に、「フェル博士 最後の事件」とあるだけあって、他の長編より、かなり、長いです。
1965年、アメリカ大西洋岸、サウスカロライナ州チャールストン近くの、ジェイムズ島にある、地元の名士の邸宅に、主の友人や、娘の友人、娘の求婚者ら、10名ほどが招かれ、滞在している間に、主が殺される事件が起こり、彼の先祖が二人、同じように、頭部を一撃されて殺された事から、怪奇の香りが漂う中、たまたま、招待客の中にいた、フェル博士が、地元の警部と協力して、事件の背後にある、意外な人物相関を解き明かして行く話。
正直な感想、無駄に長い小説で、うんざりしました。 つまらない言葉遊びを省けば、あと、50ページは短くできたはず。 特に、アシュクロフト警部の名前に関する、下賎なジョークは、聖書の知識のひけらかし以外の何ものでもなく、しつこくて、しつこくて、大いにムカつかされました。 これを、教養の証明だと思っているのなら、とてつもない勘違いです。
アメリカ映画を見ても、他のアメリカの小説を読んでも、こんなにしつこい言葉遊びをしている場面に出会った事がないですから、この小説を書いた時期のカーだけが、嵌まっていたんでしょうなあ。 警部が激怒して、からかっている連中を殺さなかったのが、意外なくらいです。 せめて、一発、ヤンシー・ビールあたりの横っ面を、ぶっとばさせた方が良かったんじゃないでしょうか。
トリックは、機械仕掛け的なもので、ありきたり。 というか、ちょっと、恥ずかしくなってしまうような仕掛けでして、名探偵に御出馬願うまでもなく、警察が捜査すれば、バレバレだと思います。 読ませどころは、人物相関が明らかになって行くところですが、それも、最後の謎解きで、集中して語られており、ダマになってしまっている感があります。
なんで、こんなに、ダラダラと引き伸ばしたのかが、理解できません。 もしかしたら、出版社に、長さを決められて、ちょうどいいボリュームの話が思いつかなかったから、もっと短かった話を、水増ししたのかも。 しかし、この作品を書いた時のカーは、とうの昔に、世界的大家になっていまして、そんな、出版社の事情ごときで、振り回されたとも思えませんなあ。
この作品は、カーの本格推理小説の最後の作品になるわけですが、なるほど、こうなってしまったら、もう、推理小説は書きたくなくなるかも知れません。
今回は、以上、6冊までです。 2015年の10月下旬から、11月中旬くらいまでの間に、読んだ分です。 その後も、読み続けて、もう、40冊くらい読んでいるので、すっかり、カーの世界に慣れてしまい、今書いたら、感想の内容が、かなり変わると思うのですが、むしろ、慣れていない頃の感性で書いた感想の方が貴重かも知れぬと思って、そのまま出しました。
前文でも、御注意申し上げたように、カーのファンの方々に読まれる事を前提に書いていませんから、「このやろ、殺すぞ! 何にも知らんくせに!」とか、目を剥いて怒るのは、やめてください。 というか、「読むな」と断ってあったのだから、もちろん、カーのファンの面々は、ここまで読んでいないわけだ。 読んでいないのなら、怒る事もないか。 要らぬ心配でしたな、わはははは!
映像化という点では、活躍時期が重なる、アガサ・クリスティー氏と、対照的な扱われ方ですが、原作のレベルとしては、全く負けていないと思います。 横溝正史さんが、戦時中に読んで、大いに嵌まり、「こんなのを、書きたい!」と思い立って、戦後、金田一耕助シリーズを書き始めたという曰く付き。
私が知ったきっかけは、そもそも、去年の夏に、ちょっと閑を持て余して、手持ちの横溝作品を読み返していたら、≪本陣殺人事件≫の中に、カーの名が出て来て、「ほとんどの作品が、密室物か、その変形」と紹介されていたのに興味を持ったのですが、調べたら、沼津の図書館に、そこそこの数かあると分かったので、秋になってから、借りて来て、ボツボツ読み始めたという次第。
だけど、最初の頃は、作風に慣れていないせいか、違和感が強くて、なかなか、カーの世界に入って行けませんでした。 というわけで、感想文は、辛辣な批判の嵐になっています。 カーのファンの方々は、読むと、怒髪天を衝きかねないので、厳に読まないで下さい。 ここから先は、一行も目をやっては行けません。
こらこら! 読むなと言っているではないか! なぜ、年寄りの忠告を聞かんかなあ。 これだから、最近の若い者は・・・。
≪三つの棺≫ 〔新訳版〕
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2014年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳
≪三つの棺≫は、カーの代表作の一つで、1935年の発表。 文庫で、386ページ。 1930年代頃になると、長編推理小説には、標準的な長さというのが決まって来るようで、クリスティーの長編も、大体、このくらいの長さです。 冒頭からしばらく、創作形容が多く、読み難いですが、先に進むと、ストーリーを語るのに忙しくなったのか、普通の形容ばかりになり、ぐっと読み易くなります。
ちなみに、カーは、元はアメリカ人で、その後、イギリスに住んで、イギリスを舞台にした作品を多く書いた作家。 アメリカの文学界では、創作形容を、作家の文学的才能の証明だと思い込んでいる人が多いのですが、イギリスとアメリカの読者、双方に配慮して、こういう書き方をしていたのかも知れません。 私に言わせれば、小説家の創作形容など、論客の屁理屈と、大差ないと思うのですが。
ロンドンに住むフランス人の、グリモー教授が、酒場で、奇術師を名乗る男から、襲撃の予告を受けた後、自宅の自室で、瀕死の状態で発見され、探偵一味(フェル博士、ハドリー警視、フェル博士の友人・ランポール)が駆けつけた時、今際の言葉を切れ切れに漏らし、その後、息絶えたが、襲撃の直後、教授宅から離れた通りで、教授を撃ったのと同じ拳銃で、奇術師が殺されているのが発見され、教授の自室は完全な密室、奇術師は、至近距離で撃たれているのに、周囲の雪の上には足跡がなく、実質的密室状態と、謎が渦巻く中、フェル博士達が捜査を進め、グリモー教授が、フランス人ではなく、ハンガリー人で、過去に、政治犯として弟二人と共に逮捕され、疫病を擬装して一旦埋葬されて、脱獄した過去があると分かり・・・、という話。
うーむ、最低の梗概だな。 これだけ、読んだのでは、何が何やら、さっぱり分からん。 だけど、それは、私だけのせいではないです。 トリックの部分と、因縁話の部分が、必然的関係になくて、二つの内容を並行して書いているような、噛み合いの悪いストーリーになっているのです。 どういう事かと言いますと、同じトリックに、別の因縁話をつけても、成立するという事ですな。 「二人の人間に恨みを買っている、一人の人物で、家人が何人かいる」という、およそ、どこにでもありそうな条件さえ満たしていれば、何でも、オッケーです。
トリックそのものは、作者が、読者に対して仕掛けているもので、一種の叙述トリックです。 ルルーの≪黄色い部屋≫も、そうでしたが、もしかしたら、密室物で、機械式トリックに頼らない話というのは、みんな、叙述トリックなんですかね? これから、しばらく、カーの作品を読みたいと思っている私としては、そうでない事を祈るばかりですが。
本格推理物として、大変、評価が高いそうですが、その事自体が、推理小説界が、一般の文学とは、遠くに離れてしまった事を、証明していると思います。 一つの話になっていないなんて、小説として、評価外でしょう。 叙述トリックとして、確かに、よく出来ていて、気づいた時に、大抵の読者は、「あっ! そういう事なのか!」と驚くと思いますが、それはそれとして、小説としては、ギスギスに痩せ細っていて、叙述トリック以外の部分に、何の魅力も感じられません。
これを、「最高傑作!」と褒め称え、これを手本にして、推理小説を書いていたら、そりゃ、おかしな方向へ進みますよ。 「トリック、トリック」で、頭の中が満杯になってしまって、もはや、「人間を描く」なんて事は、どこかへすっ飛んでしまっているんじゃないかと思います。
≪火刑法廷≫ 〔新訳版〕
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2011年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳
密室物の代表的推理作家、ディクスン・カーが、1937年に発表した長編小説です。 文庫で、370ページ。 ≪三つの棺≫より、僅かに短いですが、ほとんど、同じと言っていい長さです。 第二次世界大戦前ですから、まだ、作者はまだ、イギリスに住んでいたはずですが、この作品の舞台は、アメリカのペンシルバニア州にある、資産家の邸宅です。 ペンシルバニア州は、ニューヨーク州の南に隣接している州で、植民地としては、歴史がある方。
アメリカが舞台でありながら、創作形容は、最小限に抑えられていて、積極的に探さなければ、見つからないくらい少ないです。 つまり、その分、≪三つの棺≫より、読み易いわけで、借りて来た時は、「大体、400ページと考えて、日当たり、100ページ読めば、4日で読み終わるな」と計算していたのが、2日目に、興が乗って、どんどん、ページが進み、3日目の朝には、読み終わってしまいました。 赤川次郎作品並みの、読み易さでした。
1929年、ニューヨークの出版社に勤める編集者の男が、犯罪裁判物で有名な作家の未発表原稿を預かり、資料として添えられていた19世紀半ばの毒殺魔の女の写真が、自分の妻にそっくりである事に、愕然とさせられる。 その後、彼の別荘がある、ペンシルバニア州クリスペンに赴くと、近所の豪邸に住む友人から、先日病死した、その友人の伯父が、毒殺された疑いがあると聞かされ、証拠を探す為に、墓を暴く手伝いをする事になるが、完全に密封された墓所の棺の中に、遺体はなかった。 更に、その伯父が亡くなる直前に、19世紀半ばの身なりをした女が、毒入りのカップを持って、密室状態の伯父の部屋に入り、また、出て行ったという目撃証言があり、三つの謎が絡み合う話。
密室トリックを二つ用意し、それに、70年前に処刑された女が、生き続けているという怪奇趣味で味付けした作品。 作品内で進行する時間が短い事もあり、どんどん話が進んで、否が応でも引き込まれ、最後まで、面白く、読まされてしまいます。 カーという人は、密室のアイデアだけでなく、語り方が巧みだから、高い評価を受けているんでしょう。
密室のアイデア、二つの内、墓所で遺体が消えた方は、登場人物の一人が嘘をついているというもので、さほど、驚かされません。 もう一つの、伯父の部屋に出現した女の方も、基本部分は、登場人物の一人の嘘が種になっていて、それに、鏡のトリックを重ねていますが、いずれも、驚くほどのアイデアではありません。 鏡は、≪三つの棺≫でも出て来たのですが、作者が好きだったんですかねえ。
実質的主人公である、編集者の妻が、70年前の毒殺魔にそっくり、という方は、明らかに、無理やり、くっつけたもので、本体部分の犯罪とは、直接、関係していません。 この点は、推理小説ファンでも、気づいていない人が多いのではないかと思いますが、主人公の妻が出て来なくても、この話は成立するのです。 そもそも、後ろの方で、探偵役の作家が出て来なければ、主人公の妻の素性など、誰も知らなかったのですから、利用されたのは、偶然だったんですな。
探偵役の作家は、非常に変わった人物で、「こんなキャラ設定では、シリーズ化には、耐えられないのでは?」と思うのですが、作者も、その辺は承知の上で出したようで、シリーズ化がありえないようなラストになっています。 だけど、探偵の能力の裏づけとしては、大変、説得力がある経歴を持つキャラでして、一回限りで使い切ってしまうのは、惜しいような気もします。
総括しますと、「読み物としては、素晴らしく面白いが、細部を見ると、大したアイデアは使われていない」と言ったところでしょうか。 怪奇な雰囲気を味わうのが、目的であれば、一級作品と言えますが、眠る前に読むと、面白過ぎて、朝まで読み続けてしまいかねないので、注意が必要です。
≪死が二人をわかつまで≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2005年
ジョン・ディクスン・カー 著
仁賀克雄 訳
1944年に発表された、ディクスン・カーの長編推理小説。 文庫で、320ページ。 少し短いですな。 これは、イギリスが舞台で、探偵役は、ギデオン・フェル博士と、ハドリー警視のコンビが務めています。 それにしても、44年て、戦争の真っ最中じゃありませんか。 カーはブリストルに住んでいたらしいですが、戦災で家を焼かれたとの事。 アメリカに避難しなかったのは、大西洋を渡るのが、却って危険だったからなのか、イギリスに愛着があったのかは、分かりません。
第二次世界大戦前、イギリスの田舎町で、町の人達が勧める女友達をふって、よそから移り住んで来た女と婚約した劇作家が、占い師と称して町に滞在している、内務省所属の犯罪学の権威から、婚約相手が札付きの毒殺魔であると教えられるが、その女の手口そのままに、その犯罪学の権威が、青酸を腕に注射して死ぬ事件が起こり、劇作家の婚約者と女友達の双方に疑いがかかる中、町の医師によって、フェル博士が呼ばれ、ハドリー警視の協力の下、犯人を誘き出す為の罠が仕掛けられる話。
一応、密室物ですが、窓に弾孔があり、それを使った、機械的トリックが用いられるので、密室物としては、ありふれています。 それよりも、話の入り組み方の方が、読ませどころになっています。 後半で、ドンデン返しというのは、よくありますが、この話では、始まって間もないところに仕掛けられいて、呆気に取られてしまいます。 更に、フェル博士が登場した直後、もう一回、引っ繰り返されます。 つくづく、読者を煙に巻くのがうまい作家ですなあ。
感心しないのは、フェル博士達が仕掛けた罠のせいで、犯人以外に犠牲者が出てしまう事でして、これは、推理小説の探偵としては、重大な過失でしょう。 金田一耕助は、事件に最初から関っているのに、連続殺人を止められない事で、無能探偵呼ばわりされていますが、こちらは、それ以上に問題です。 力が及ばなかったのではなく、明らかに、しくじったのですから。
そこと、トリックがしょぼいところに目を瞑れば、充分、面白いです。 変な感想ですが、実際に、読んでみれば、分かります。 隠しようがない欠点があるのに、それと、面白さが共存しているのだから、不思議な小説ですなあ。
作品とは関係ありませんが、巻末に付いている、某作家の文章が、最悪・・・。 解説ではなく、感想で、しかも、この作品の感想ではなく、カーの作品全般に対する感想です。 さんざん貶した後で、「そういうところがいい」という、無茶な誉め方をしているのですが、いいと思うなら、いいところだけ、書けばいいと思うのですがね。
単なる個人的感想に過ぎず、わざわざ、巻末に載せるような文章とは思えません。 すでに、古典になっている作品の場合、無理に巻末文を付けなくても、本文だけでも、充分でしょうに。 著者について、知識・情報を与えてくれる解説なら歓迎ですが、個人の感想、しかも、貶している感想なんて、胸糞悪いだけです。
≪喉切り隊長≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年 (初版 1982年)
ジョン・ディクスン・カー 著
島田三蔵 訳
1955年に発表された、ディクスン・カーの、長編歴史ミステリー。 カーは、第二次大戦後、アメリカに戻るのですが、1950年以降は、主に、歴史ミステリーを書くようになって行ったらしいです。 「歴史ミステリー」というジャンルそのものが、ピンと来ませんが、歴史上の事件に絡めて、推理物の謎やトリックを盛り込んだ小説の事のようですな。 SFの一ジャンルに、「歴史こじつけ」というのがありますが、それの推理小説版だと考えればいいのでしょう。
ナポレオンが皇帝になった直後、イギリス侵攻に備えて、20万人のフランス軍が終結するブーローニュ地方で、夜な夜な、兵士を刺殺する、「喉切り隊長」が出没し、フランス軍を恐慌に陥れる中、一週間以内に犯人を逮捕するよう、皇帝の命を受けた、警務大臣フーシェが、捕えていたイギリスのスパイ、アラン・ヘッバーンを、命の担保と引き換えに、事件の解決を命じて、現地に送り込むが、事件の背後には、大物の影がちらついていて・・・、という話。
ナポレオンは当然ですが、フーシェも、実在の人物。 他に、外務大臣タレーランも出て来ますが、ちょっと顔を出すだけです。 主な登場人物である、アラン・ヘッバーン、その妻のマドレーヌ、フーシェの手先のイダ・ド・サンテルム、メルシェ大尉、シュナイダー中尉などは、架空の人物。 もちろん、「喉切り隊長」の事件そのものは、フィクションです。
元々、子供向けの作品ではないですが、カーの文章は読み易いので、小学校高学年くらいなら、充分読めると思われ、フィクションだと知らずに、歴史上の事件だと思ってしまう恐れはあります。 後で赤っ恥を掻くのは、その子供であり、そこまで考えると、こういうジャンルは、かなり、罪がありますなあ。
それはさておき、作品の中身ですが、お世辞にも、出来がいいとは言えません。 いわゆる歴史小説とは、全く違っていて、それに似せようという気もないらしく、強いて言えば、大デュマの小説に雰囲気が近いです。 政治あり、陰謀あり、恋あり、アクションありというわけ。 しかし、作品の出来は、とても、大デュマには及ばず、頭に来るくらい、バランスが悪いです。
なんで、パリから、ブーローニュまでの、馬車の中での会話がこんなに長いのか・・・。 調査する前から、謎解きをしている有様で、この時点で、もう、ミステリーとしては、終わってしまいます。 後は、月並みな恋愛場面の後、これまた、異様に長い、アクション場面が続き、最後は、政治陰謀で締め括られます。 こう書くと、綺麗に並んでいるように見えるかも知れませんが、本来、これらの要素は、適度なバランスを取って、絡み合わせなければいけないものです。 長短不揃いに、ただ並べて、どうする?
ナポレオン時代が舞台というと、私は、フランスかロシアの小説しか読んだ事がなかったので、イギリス側の立場で書かれている、この作品には、悪く言えば、違和感、良く言えば、新鮮さを感じました。 アメリカ人も出て来ますが、中立というよりは、やはり、イギリス寄りの役割を果たします。 この辺、作者の国籍・経歴が、素直に出ていますなあ。 イギリスは、ナポレオンとの戦いでは、直接、侵攻されていませんし、最終的に勝者になるわけで、それだけで、充分だろうと思うのですが、イギリス好きのアメリカ人であるカーにしてみれば、もっと、勝ち誇らなければ、気が済まないわけだ。
一番、腹が立つのは、主人公と、シュナイダー中尉の対決を、テキトーにやっつけてある点です。 これだけ、期待させておいて、よく、こういう放り出し方ができるものです。 カーにしてみれば、「ちゃんと、冒頭に、伏線を張っておいただろう?」と言うでしょうが、読者というのは、伏線などより、本筋の方を追って読んでいるわけで、こういう書き方をされると、「してやられた」と、笑ったりせず、「人を馬鹿にしている」と、怒ってしまうのです。
≪読者よ欺かるるなかれ≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年
カーター・ディクスン 著
宇野利泰 訳
「カーター・ディクスン」というのは、ジョン・ディクスン・カーの別名でして、書いている人は同一人物です。 なんで、別名を使ったかというと、当時、一作家が一年間に発表できる作品数に制限があって、それを免れる為だったのだとか。 この作品は、1939年の発表。 文庫で、392ページ。 舞台は、イギリスで、探偵役は、ギデオン・フェル博士ではなく、H.M(ヘンリー・メリヴェール卿)です。 作者が違うのだから、探偵も違っていなければ、都合が悪いわけだ。
探偵小説も書いている、ある女性作家が、海外旅行先から、読心術師を連れ帰り、地方にある屋敷に知人達を招いて、その能力を披露させたところ、読心術師は、作家の夫が殺される事を予言し、実際に殺人が起こると、「自分が思念力を使って殺した」と告白する。 ありえない犯行に、警察が翻弄される中、屋敷に招かれていた医師の友人である、陸軍情報局総裁で、名探偵としても有名な、H.Mが、捜査に乗り出す話。
推理小説なので、これ以上は、書けませんな。 超能力が絡んでいるわけですが、SFではなく、推理小説なのだという事が分かっていれば、自ずと、真偽の程は判断できるわけで、「一見、超能力を使ったとしか思えない犯行が、実際には、どんなからくりで、実行されたか」が、読みどころとなります。
面白いんですが、どうも、作者に、煙に巻かれてしまったような感じがしますねえ。 推理小説は、そもそも、そういうものなのですが、カーの作品の場合、何か、記述に足りないところがあって、「してやられた」と、感服するより、「これは、ズルなのでは?」という、不快感の方が強いのです。
辻褄が合っていないところもあります。 最初の犠牲者が出た理由は、読心術師の予言とは無関係の、単なる偶然なのですが、もし、その犠牲者が出なければ、その時点で、読心術師はインチキという事になり、彼の超能力を軸にして構成されている、この小説の設定は成立しなくなってしまいます。 自分の能力を否定されかねないような事を、この読心術師がやるとは、到底思えません。
犯行の舞台になる家が、二軒出て来て、どちらも、同じ作家夫婦が住んでいます。 一方は、地方にある独立した屋敷。 もう一方は、ロンドンにある家で、作家夫婦は二階だけ使っていて、一階と三階には別の家族が住んでいます。 ところが、その二軒の関係について、説明がないので、後者の家が出てくると、「えっ? この家は、最初の屋敷とは違うの?」と、読んでいる方は、混乱してしまいます。
読み返して、よくよく調べると、新聞記事の引用の部分に、最初に出て来る屋敷が、夫妻の「別邸」であると書いてあるのですが・・・、これ、普通に読んでいて、気づく人、いるのかなあ? 冒頭に出て来る、手紙の説明では、単に、夫妻の「邸」と書いてあって、最初に、そう書いてあったら、普通、そこだけが、夫妻の家だと思う方が、自然なのでは?
犯人の、本当のターゲットが、終わりの方で、突然、出て来るのも、ズルいですなあ。「このターゲットは、いつから、ここに住んでいたのだ?」と、驚愕してしまいます。 もしかしたら、前の方のどこかに、その説明があるのかもしれませんが、あったとしても、見逃すほど、さらっと書いてあるに違いなく、もう、読み返して探す気力がありませんわ。
解説に、「動機が全く書いていない」とあるのですが、「全く」というほどではなく、一応、両者の相関関係についての説明は入っています。 しかし、弱いのも事実で、「そういう相関なら、必ず憎んでいるはず」という、読者の常識に丸投げしているようなところがあります。 犯人と、真のターゲットが誰であるかを、読者に気取られない為に、そうしているのでしょうが、あまりにも、淡白過ぎて、書き漏らしのように感じられてしまいます。 もっとも、30分もかけて因縁話を語る、日本の2時間サスペンスに比べたら、こちらの方が、ずっと、マシですが。
この作品ねえ。 やっぱり、あちこちが、不完全なんですよ。 だから、モヤモヤした読後感になるのです。 読心術師を出して、神秘的な雰囲気を盛り上げた、アイデアはいいと思うんですがねえ。 実際の殺人では、機械的トリックも使われるのですが、そちらは、驚くようなものではありません。
H.Mは、フェル博士と、外見的にも、性格的にも、ほとんど、変わりがないように見受けられます。 というか、探偵役のキャラについて、詳しく書き込んでいないから、「肥満した巨体の、中高年イギリス人」という、共通した特徴が、ダブってしまうんですな。 カーにとって、大事なのは、トリックや謎の出来だけで、探偵役のキャラなんて、どうでもよかったのかも知れません。
≪月明かりの闇≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2004年
ジョン・ディクスン・カー 著
田口俊樹 訳
1967年の発表。 カーは、77年には、他界してしまいますから、晩年の作と言ってもいいです。 推理小説としては、これが、最後の一作になった模様。 この後のカーは、歴史ミステリーしか書かなくなります。 文庫で、491ページ。 日本語訳の副題に、「フェル博士 最後の事件」とあるだけあって、他の長編より、かなり、長いです。
1965年、アメリカ大西洋岸、サウスカロライナ州チャールストン近くの、ジェイムズ島にある、地元の名士の邸宅に、主の友人や、娘の友人、娘の求婚者ら、10名ほどが招かれ、滞在している間に、主が殺される事件が起こり、彼の先祖が二人、同じように、頭部を一撃されて殺された事から、怪奇の香りが漂う中、たまたま、招待客の中にいた、フェル博士が、地元の警部と協力して、事件の背後にある、意外な人物相関を解き明かして行く話。
正直な感想、無駄に長い小説で、うんざりしました。 つまらない言葉遊びを省けば、あと、50ページは短くできたはず。 特に、アシュクロフト警部の名前に関する、下賎なジョークは、聖書の知識のひけらかし以外の何ものでもなく、しつこくて、しつこくて、大いにムカつかされました。 これを、教養の証明だと思っているのなら、とてつもない勘違いです。
アメリカ映画を見ても、他のアメリカの小説を読んでも、こんなにしつこい言葉遊びをしている場面に出会った事がないですから、この小説を書いた時期のカーだけが、嵌まっていたんでしょうなあ。 警部が激怒して、からかっている連中を殺さなかったのが、意外なくらいです。 せめて、一発、ヤンシー・ビールあたりの横っ面を、ぶっとばさせた方が良かったんじゃないでしょうか。
トリックは、機械仕掛け的なもので、ありきたり。 というか、ちょっと、恥ずかしくなってしまうような仕掛けでして、名探偵に御出馬願うまでもなく、警察が捜査すれば、バレバレだと思います。 読ませどころは、人物相関が明らかになって行くところですが、それも、最後の謎解きで、集中して語られており、ダマになってしまっている感があります。
なんで、こんなに、ダラダラと引き伸ばしたのかが、理解できません。 もしかしたら、出版社に、長さを決められて、ちょうどいいボリュームの話が思いつかなかったから、もっと短かった話を、水増ししたのかも。 しかし、この作品を書いた時のカーは、とうの昔に、世界的大家になっていまして、そんな、出版社の事情ごときで、振り回されたとも思えませんなあ。
この作品は、カーの本格推理小説の最後の作品になるわけですが、なるほど、こうなってしまったら、もう、推理小説は書きたくなくなるかも知れません。
今回は、以上、6冊までです。 2015年の10月下旬から、11月中旬くらいまでの間に、読んだ分です。 その後も、読み続けて、もう、40冊くらい読んでいるので、すっかり、カーの世界に慣れてしまい、今書いたら、感想の内容が、かなり変わると思うのですが、むしろ、慣れていない頃の感性で書いた感想の方が貴重かも知れぬと思って、そのまま出しました。
前文でも、御注意申し上げたように、カーのファンの方々に読まれる事を前提に書いていませんから、「このやろ、殺すぞ! 何にも知らんくせに!」とか、目を剥いて怒るのは、やめてください。 というか、「読むな」と断ってあったのだから、もちろん、カーのファンの面々は、ここまで読んでいないわけだ。 読んでいないのなら、怒る事もないか。 要らぬ心配でしたな、わはははは!
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