カー連読②
米英推理作家、ディクスン・カー作品の感想文を続けます。 「ジョン・ディクスン・カー」、「カーター・ディクスン」と、二つの名前がありますが、同一人物です。 名義が別れている事も、カーの知名度が上がらなかった理由の一つになっているのだとか。 図書館でも、「ジョン・ディクスン・カー」と、「カーター・ディクスン」は、別の所に置かれています。
つくづく思うに、日本で、カーを知っている人は、少ない事でしょうねえ。 古典推理小説を読みたがる人にしてからが、少ないですし、その中で、更に二つ名を持っている作家となると、もう・・・。 だけど、カーの作品は、ほとんどが、日本語訳されているのだそうです。 少ないけれど、熱心なファンがいるのでしょう。
≪パンチとジュディ≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2004年
カーター・ディクスン 著
白須清美 訳
1938年の発表。 カーですが、カーター・ディクスン名義の作品で、探偵役は、H.M(ヘンリー・メリヴェール卿)です。 H.M物としては、22作中、5作目で、早い方。 ≪THE PUNCH AND JUDY MURDERS≫というのは、アメリカ向けのタイトルで、これは、男女の名前を並べたものですが、主人公とヒロインの事ではなく、イギリスに、そう呼ばれるドタバタ喜劇の人形芝居があるのだそうです。 どつき漫才の人形劇版みたいなものらしいです。
イギリス向けのタイトルは、≪THE MAGIC LANTERN MURDERS≫で、≪魔法のランタン連続殺人≫とでも訳すべきでしょうか。 魔法のランタンというのは、確かに、作中に、それっぽい物が出て来るのですが、本筋とは関係がなくて、あまり、いいタイトルとは言えません。 長さは、文庫で、354ページ。
元イギリス情報部員の青年が、元同僚の女性と結婚式を挙げる前日に、陸軍情報部長官であるH.Mに呼び出されて、かつて、ドイツのスパイだった男が、ある国際的情報ブローカーの秘密を売ると申し出て来た事について、元スパイの家を探るように命令される。 身に覚えのない容疑で警察に追われながら、苦労して、その家に忍び込むと、意外な光景に出くわし、その後、ようやく、警察の追跡を振り切って、H.Mの次の指令で、もう一人の元スパイが宿泊しているホテルに忍び込むと、またまた、意外な光景に出くわし、途中で合流した婚約者ともども、丸一晩、キリキリ舞いさせられる話。
解説によると、タイトルが示しているように、ドタバタ喜劇的な話らしいのですが、笑えるところは、列車の中で、本物の牧師を陥れる場面と、それに関連しているラストだけで、他は、普通に真面目な話です。 この程度では、コミカルと言うのも憚られる。 前半は、スパイ活劇物で、不自然なほどに、次々と危難がふりかかるので、最初から、喜劇のつもりで読めば、そこら辺が、面白いのかも知れませんが、大抵の人は、推理小説のつもりで読むわけで、ピンと来ないんじゃないでしょうか。
発表が、第二次世界大戦前なので、戦後のスパイ・ブームとは無関係なのですが、あまりにも、スパイ活劇部分が堂に入っているのは、不思議です。 もしかしたら、戦前にも、そういう作品ジャンルがあったのかも知れませんな。 でなければ、こんなに、緊迫感がある描写が、ポンといきなり、書けないでしょう。 ただ、活劇的なハラハラ・ドキドキ感が盛り上がれば盛り上がるほど、推理物としては、本道から外れてしまうのであって、誉められる特徴とは言い難いです。
ホテルの場面の後、急に、推理物らしくなり、後ろの3分の1が、謎解きに当てられています。 つまり、前3分の2が活劇で、後ろ3分の1が、室内で会話が進む謎解きになっているわけでして、「水と油」という形容が不適当なら、「木に竹を接いだよう」としか言えません。 「小説とは、あらゆる形式から自由な文学だ」と言うなら、こういうのも、アリですが、普通は、単に、「変」だと思いますわな。
更に、怪奇風味を盛り上げる為に設定されたと思われる、元ドイツ・スパイ達の奇妙な実験と、殺人事件の謎が、ほとんど、無関係なのには、目を白黒させられてしまいます。 すっげーなー、これー。 作者本人が気づかなかったのか、気づいていたけど、「そんな事、どーでもえーわ」と思っていたのか・・・。 カーの作風として、後者の可能性が高いところが、恐ろしい。
H.Mの友人である警察署長の家の近所に、医師が住んでいるのですが、その夫人が、たまたま、問題の国際的情報ブローカーの娘だったというのは、偶然が過ぎるんじゃないでしょうか? 彼女がそこに住んでいる必然性が、読み取れません。 犯人が誰なのか、読者に目晦ましをかける為に、人物関係を絡め合わせようとして、絡めてはいけないところを絡めてしまった観があります。
うーむ、カーの作風を一言で言うと、「バラバラ」というのが、一番、適当なのでは? 今のところ、そんな感じです。
≪剣の八≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2006年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳
1934年の発表。 ディクスン・カー名義なので、探偵役は、フェル博士。 フェル博士の登場作品としては、23作中、3作目だそうで、かなり、早い方です。 文庫で、337ページ。 タイトルの読み方は、「つるぎのはち」です。 ≪剣の八≫というのは、タロット・カードの札の名前で、話の内容と、ほとんど、関係ありません。 このタイトルに騙されて、えらい深みのある傑作なのではないかと期待してしまったのですが、少なくとも、タイトルのイメージとは、まるで違う話でした。
グロースターシャーにある、スタンディッシュ大佐の屋敷で、離屋に住んでいたアメリカ人の男が殺され、ハドリー警部に依頼されたフェル博士が出向いて行くが、その屋敷には、他に、犯罪学の権威である主教と、その後を継ぐべく、犯罪学を学んだ息子、人気がある推理作家、地元の警部などが集まる事になり、寄ってたかって、事件を解決して行く話。
何だか、事件の内容自体には何も触れない梗概になってしまいましたが、なんつーかそのー、事件の方は、全然、大した事はないのです。 謎と言えば、人物の入れ替わりが使われている程度。 他に、鍵の謎があるものの、「犯行に出かけている間に、なくした」などという、御都合主義としか言いようがない扱い方をしてあって、やっつけもいいところです。
中心になって謎を解くのはフェル博士ですが、他の探偵もどきの連中が、妙に鬱陶しく、そいつらの推理が全て外れると言うのなら、まだしも、部分的に正しかったりするから、何だか、もやもやします。 彼らは、フェル博士の引き立て役として出て来ているのではないわけです。 解説を読んだところ、「探偵がいっぱい」というカテゴリーがある事を初めて知り、単に、それに属するだけだと分かりました。 馬鹿馬鹿しい。 映画の≪名探偵登場≫のように、コメディーなら、まだ分かりますが、シリアスな推理物で、そんな事をやるとは。 一体、何のメリットがあるのか、皆目、分かりません。
フェル博士は、早々に、犯人が誰か、目星をつけてしまうのですが、それを証明する為に、罠を仕掛けて、犯人に、もう一度、殺人を試みさせるというのは、無茶もいいところ。 後で、やり方がまずかった事を、フェル博士自身に認めさせていますが、こんな危険な事をするのは、名探偵として、失格なのではないでしょうか? そういや、10年後の作品、≪死が二人をわかつまで≫でも、同じような事をやっていますが、反省がないですな、博士も、作者も。
他に、気になったところというと、主教の息子が、フェル博士の指示を受けて、夜中に、問題人物を尾行する場面だけ、スパイ物風の描写になっていて、何だか、浮いてしまっています。 描写のばらつきは、他にも見られ、主教の息子が、大佐の娘に初めて会う場面など、観察が細か過ぎて、他から浮いており、「この娘は、犯人じゃないな」と、逆に見透かせてしまいます。
相変わらず、カーの作品は、「バラバラ」という感じがしますねえ。 面白いと思ったのは、ロシア文学を貶す会話が出て来るところで、登場人物達に語らせているものの、これは、カーの本音でしょう。 たぶん、カーには、ロシア文学が、全く理解できなかったと思うのですよ。 それなのに、ロシア文学の方が、英米文学より、遥かに評価が高いから、憤慨してたんじゃないですかね? だけど、ヘミングウェイや、ブロンテ三姉妹が言うならともかく、推理作家のカーが、ロシア文学を扱き下ろしても、あまりにも、掛け離れ過ぎていて、「資格外批判」としか思えません。
≪嘲るものの座≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1955年初版 1995年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
早川節夫 訳
原作は、1942年の発表。 もろ、第二次世界大戦の最中ですが、別に、戦時下の話ではなく、戦争の事についても、全く触れられていません。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、14作目。 ≪THE SEAT OF THE SCONEFUL≫は、イギリス向けタイトルで、アメリカ向けは、≪DEATH TURNS THE TABLE≫。 イギリス向けの方が、内容に相応しく、アメリカ向けの方は、殺人事件が起こる話なら、何にでもあってしまいそうです。
「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス」というのは、ハヤカワ文庫が出る前に出版されていた、新書サイズのペーパー・バック・シリーズで、この本は、90年代になってから、それを、復刻したもの。 訳も古いままで、「・・してしまった」が、「・・してしまつた」と書いてあったりします。 読み始めて、しばらくすれば、慣れるものの、いくら、復刻版だからと言って、そこまで忠実に再現する必要があるのかどうか・・・。 2段組みで、184ページ。 解説、あとがき、感想、なし。 その点は、良いと思います。
死刑にするつもりがないのに、被告人に、それを匂わして、死の恐怖を与え、罪への反省を求めるという、絶対的な権威を弄ぶ傾向がある判事が、その娘の婚約者といざこざを起こしていたが、判事の家で、その婚約者が射殺死体となって発見される事件が起こり、判事、娘、婚約者の弁護士などが、容疑者となる中、判事の友人であるフェル博士が、解決に乗り出す話。
手に汗握るような場面が少ないお陰で、カーの作品としては、全体のテンションのバランスが取れている方だと思います。 カーの作品で、そういう場面が出て来たら、それは、読者サービスのつもりで書き込んでいるのであって、事件の謎の核心とは、まず、関係ないと見做してもいいんじゃないでしょうか。 そういう見方は、皮肉が過ぎるかな。
謎解きと犯人指名が、二段構えになっていて、最初の謎解きと犯人指名を読むと、あまりにも、唐突、且つ、不自然なので、「えー、そんなの、アリか? いくら、カーでも!」と思うのですが、単なる、ラストの余韻のような形で、第二の謎解きと犯人指名が行なわれると、「そうだろねー」と納得します。
それにしても、まだ、甘いですなあ。 フェル博士は、警察官ではないので、こういう終わらせ方もできるわけですが、一緒に捜査に当たっていたグレアム警部は、いかに、証拠が足りなくても、このままでは済まさないでしょう。 それなら、犯人が自首するなり、自殺するなり、もっと、すっきりする結末をつけても良かったんじゃないでしょうか。
気の毒なのは、娘の婚約者でして、明らかに、英米人の、イタリア人に対する偏見が入っていると思うのですが、派手な身なりだけで、ゴロツキと決めつけられて、虫ケラのように殺されてしまうのは、あまりにも、ひどい。 シャーロック・ホームズの頃から、そうですが、イタリア人の評判は、英米では、お世辞にも良くなかったようですな。
≪死の時計≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1955年初版 1995年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
喜多孝良 訳
原作は、1935年の発表。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、5作目。 2段組で、324ページ。 私が読んだ、カー作品の中では、最も長いのではないかと思います。 大抵は、4日間くらいで、読み終わるのですが、これには、丸まる一週間、かかりました。 カーの作品は、中身はさておき、先へ先へと興味を引っ張って行く技だけは、秀でているのですが、これは、例外。 そういや、≪月明かりの闇≫も長かったですが、あれも、例外ですな。 長くなり過ぎると、ストーリーの語り方を見失ってしまうのかも知れません。
ロンドンの街なかにある、有名な時計職人の家で、置時計の針で人が刺し殺される事件が起こり、たまたま、別の事情で、殺人計画を立てていた下宿人の男が疑われるが、たまたま、天窓から、その下宿人の部屋を覗いていた人物によって、彼が犯人でない事が証言される。 容疑は、時計職人の養女に向かい、彼女に不利な証拠が次々と発見されるものの、たまたま、事件発生直後に、現場にやって来ていたフェル博士は、頑なに、彼女が犯人である事を否定し、ハドリー警部の見解と、真っ向から対立する話。
「たまたま」が、3回も出て来ますが、梗概だから、この程度に抑えたのであって、実際には、もっと多いです。 ありえないような偶然が重なっていて、フェル博士自身が、「ありえる偶然」と、「ありえない偶然」を見分ける事によって、真犯人の目星をつけるわけですが、作中で、「ありえる偶然」とされているものの中にも、常識的に考えれば、ありえないものが含まれれており、その最たるものが、フェル博士が、たまたま、殺人の直後に、現場にやって来る件りです。 ありえねーだろ、そんな都合のいい偶然。
別に、事件が起こってから、フェル博士が呼ばれても、全然おかしくないと思うんですがねえ。 そういや、この作品の次に、フェル博士物として書かれる、≪三つの棺≫も、そんな出だしでした。 不自然である事に、作者が気づかないはずはないんですが、もしかしたら、マンネリ化していた探偵の登場の仕方に、変化を付ける為に、わざと、こんな風にしたんでしょうか?
読むのに一週間もかかったのは、長いのも然る事ながら、ほとんどの場面が、部屋の中に座って、推理を戦わせているだけで、あまりにも動きが少な過ぎて、なかなか、興が乗らなかったのです。 まず、ハドリー警部が、時計職人の養女を犯人と睨んで、謎解きをするのですが、フェル博士が出ているのに、ハドリー警部の推理が正しいわけがなく、読者は、間違っていると分かりきっている推理に、長々と付き合わされる羽目になります。 何とも、馬鹿馬鹿しい事よ・・・。
密室の変型トリックも出て来ますが、偶然が多く絡む為に、事件の謎が複雑になり過ぎて、トリックが霞んでしまっています。 カーは、トリックそのものよりも、謎の方を重視していたわけですが、枝葉が伸び過ぎて、あまりにもゴチャゴチャして来ると、フェル博士が、全ての謎を解いても、読者は、スッキリ感が、今一つ味わえません。 「たぶん、辻褄は合わせてあるんだろうけど、いちいち、読み直して確認するのも面倒臭いな」で、終わりにしてしまうのです。
翻訳も悪く、フェル博士やハドリー警部が、老け過ぎ。 元は英語ですから、こんな、ヨボヨボに老いぼれた喋り方はさせていないはずなんですがねえ。 登場人物の自称ですが、フェル博士は、「わし」でもいいですが、ハドリー警部まで、「わし」にされてしまうと、どっちが喋っているのか、混乱してしまって、困ります。 ハドリー警部が、定年間近という設定なので、「定年→老人→わし」と、型に嵌めてしまったのでしょうが、別に、定年間近だって、「私」でいいと思うんですがねえ。 どうせ、原文では、みんな、「I」なんでしょう?
まだ、問題があります。 「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス」の復刻版で読んだんですが、誤植があまりにも多くて、驚きました。 昔、誤植だらけで出版したのを、そのまま、復刻したんでしょうか? 植字工も植字工なら、編集者も編集者で、どちらも、こんな、いい加減な仕事をしていて、平気でいたのであれば、さっさと転職した方が良かったと思います。
≪修道院殺人事件≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1956年初版 1995年再版
カーター・ディクスン 著
長谷川修二 訳
原作は、1934年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、2作目です。 2段組で、250ページと、大した長さではないにも拘らず、読むのに、13日間もかかってしまいました。 その間に、庭木の手入れを一週間やっていて、疲労が激しく、夜更かしできなかったという事情もありますが、それにしても、ペーパー・バッグ一冊に、こんなにかかったのは、初めてです。
サリー州にある、≪白い修道院≫という邸宅の離屋で、映画女優の死体が発見されるが、離屋の周囲に積もった雪には、第一発見者が入って行った足跡しか残っていなかった。 邸宅の主人であり、女優が出演する舞台劇の作者である歴史学者、その弟で、女優に惚れている男、女優をアメリカで売り出した映画監督、女優の宣伝担当者など、周囲の人物に疑いがかかるが、警察は足跡の謎を解く事ができず、たまたま事件に関っていた甥の為に、H.Mが乗り出して来る話。
事件の中身の方は、密室物の変形でして、トリックと言うよりは、不可能犯罪に見える謎を解くのが眼目です。 もし、ルルーの≪黄色い部屋≫よりも前に発表されていたら、さぞや、世間をあっと驚かせただろうと思うような、面白いアイデアが使われています。 ところが、この本、とにかく、読み難い。 読みにく過ぎて、アイデアの良さが、まるで、活かされていません。 つまらん、つまらん、すぐに眠くなってしまって、一時に、10ページも進まない始末。
同じ作者なのに、この作品だけ、特別つまらないというのも、おかしな話で、たぶん、訳の悪さが原因だと思います。 カーの作品は、大抵、ストーリーの流れはいいのですが、この訳では、それを阻害するくらい、文章がぶつ切れになっていて、作者が何を語りたいのかを、すぐに見失ってしまいます。 訳者の素性が分からないのですが、推理小説を読んでいないというか、小説そのものをあまり、読んでいない人なのではないでしょうか?
これも、訳者の問題ですが、1956年の初版なのに、戦前かと思うような漢字の使い方がされています。 「稍や」って、読めますか? 「やや」なんですがね。 「真逆」が、変な所に出て来るので、何かと思ったら、「まぎゃく」ではなく、「まさか」でした。 これは、当て字ではないの? また、「別棟」と書いて、「はなれ」と読ませていますが、それなら、最初だけでなく、全てに、ふり仮名をふってくれないと、「べつむね」と読んでしまいます。
H.Mが使う、「乃公」も分からん。 最初だけ、「おれ」と、ふり仮名がふってありますが、これは、訳者が、そう読ませようとしていただけで、正しくは、「だいこう」と読むらしいです。 目下の者に対して、自分を呼ぶ時の言葉なのだとか。 知らんわ、そんなの。 「おれ」と読ませたくて、「俺」という字を使いたくないのなら、ひらがなで、「おれ」と書けばいいと思いますがね。 H.Mは、甥に対しては、「乃公」を使い、他の人間に対しては、「僕」を使っていて、ますます、混乱します。 どうせ、原文は全部、「I」なのですが。
訳者も訳者ですが、これに、OKを出してしまった、編集者に呆れます。 初版された1956年なら、別に、何も言われなかったかもしれませんが、1995年に再販した時には、あまりの読み難さに、読者から、「なんだ、これは?」と苦情が来たんじゃないでしょうか。 ここまで、ひどいと、初版通りに復刻する意味より、カーの作品の価値を損なっているマイナスの方が大きいと思います。 別に、この訳者の訳が読みたくて、この本を選んだわけじゃないんだから。
話の内容に戻りますが、捜査の過程で、H.Mが、犯人を確定する為に、罠を仕掛け、それが原因で、また、犠牲者が出ます。 これまでに、フェル博士物で、二作品、同じパターンのものを読みましたが、H.M物でも、やっていたんですな。 カーは、探偵役に、完璧を求めず、敢えて、ミスを犯させる事で、人間臭さを盛り込もうとしていたのかも知れません。 だけど、そのせいで、新たな死者が出るようでは、無能探偵の謗りを免れないのではないでしょうか?
≪メッキの神像≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界ミステリシリーズ
早川書房 1959年初版 1995年再版
カーター・ディクスン 著
村崎敏郎 訳
原作は、1942年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、13作目です。 もろ、戦争中ですが、内容に、戦争に触れている箇所は、全くありません。 話が起きたのは、戦間期という設定なのかもしれませんが、それも断ってありません。 推理小説作家にとって、現実の戦争は、死を読者の日常に引き寄せてしまう点、鬱陶しいもので、敢えて、無視していたのかも。 終われば、因縁話のネタが大量に発生するから、役に立つんですがね。
2段組で、224ページ。 文庫にしたら、どのくらいの長さになるのか分かりませんが、読んだ印象としては、短かく感じられました。 もっとも、これの前に、≪修道院殺人事件≫を読んでいて、読み難い文章に、さんざん、手こずらされたから、普通の文体に戻って、気楽に読み進められただけなのかも知れません。 会話が多かったのも、幸いしたか。
有名な女優が建てた、中に小劇場もある屋敷を、女優の死後、買い取って住んでいた富豪が、ある晩、自分が所有しているエル・グレコの絵画を、自分で盗み出そうとして、何者かに襲われる事件が起こる。 前以て、その富豪から、盗難の恐れがあると通報されて、屋敷に泊まり込んでいた若い警部が、早速、捜査を始める一方、富豪の知人である、H.Mが乗り出して来て、その屋敷で行なわれる予定だった子供向けのショーで、来られなくなった奇術師の代役を務めつつ、富豪の意図を明らかにし、犯人をあぶり出し、事件全体の謎を解いて行く話。
面白いです。 単に、読み易いだけでなく、話自体が面白いのです。 この頃になると、H.Mのキャラがしっかり固まって来て、かなり羽目を外させても、問題なく操れるようになっていたんじゃないでしょうか。 雪玉をぶつけられる登場の仕方も凝ってますし、奇術師と間違えられたまま、召し使いの部屋に案内されて行くのも笑えます。
極めつけは、奇術師の代役を買って出るところで、富豪の娘達を俄かアシスタントに仕立てて、ショーをぶちかますなど、ノリにノリまくっています。 これ、戦時中に、よく、発表できましたねえ。 日本だったら、発禁間違いなしですな。 たぶん、当時の読者は、死と背中合わせの暗い時代に、この作品で、良い息抜きができた事でしょう。
事件の中身は、一種のすり替わり物ですが、かなり、捻ってあって、読者側で犯人を推理するには、厳しいものがあります。 しかし、推理小説だからと言って、必ず、推理しながら読まなければいけないわけではなく、ただ、ゾクゾクする雰囲気を楽しむという読み方もあるわけで、この作品は、気楽に読み進めるだけで、十二分に堪能できます。
原題の直訳は、「メッキの男」で、これは、「エル・ドラド伝説」の中に出て来る、太陽神の像の事を指しているのですが、ちょっと、驚くくらい、事件の内容と関係ないです。 どうも、カーは、作品のタイトルを、読者を惑わす道具の一つとして、利用していた感がありますな。 いや、別に、それが、ズルというわけではないですけど。
今回は、以上、6冊までです。 2015年の11月下旬から、年末までの間に、読んだ分です。 この後、≪グラン・ギニョール≫と、≪エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件≫を借りて来て、年越しするのですが、年明け後、自転車のレストアに取りかかったら、読書をするゆとりがなくなってしまい、≪グラン・ギニョール≫は、読み飛ばし、≪エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件≫は、読まないまま返却してしまいます。 その二冊は、いつかまた、借りて、読み直すつもりでいます。
この時点で、すでに、沼津の図書館にあるカー作品の、9割くらいを読んでしまっていて、隣の自治体である、三島の図書館には、もっとあるらしいという情報を仕入れます。 だけど、三島図書館には、もう何年も行っていなくて、貸し出しカードの期限も切れており、なかなか、行く気になりませんでした。
つくづく思うに、日本で、カーを知っている人は、少ない事でしょうねえ。 古典推理小説を読みたがる人にしてからが、少ないですし、その中で、更に二つ名を持っている作家となると、もう・・・。 だけど、カーの作品は、ほとんどが、日本語訳されているのだそうです。 少ないけれど、熱心なファンがいるのでしょう。
≪パンチとジュディ≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2004年
カーター・ディクスン 著
白須清美 訳
1938年の発表。 カーですが、カーター・ディクスン名義の作品で、探偵役は、H.M(ヘンリー・メリヴェール卿)です。 H.M物としては、22作中、5作目で、早い方。 ≪THE PUNCH AND JUDY MURDERS≫というのは、アメリカ向けのタイトルで、これは、男女の名前を並べたものですが、主人公とヒロインの事ではなく、イギリスに、そう呼ばれるドタバタ喜劇の人形芝居があるのだそうです。 どつき漫才の人形劇版みたいなものらしいです。
イギリス向けのタイトルは、≪THE MAGIC LANTERN MURDERS≫で、≪魔法のランタン連続殺人≫とでも訳すべきでしょうか。 魔法のランタンというのは、確かに、作中に、それっぽい物が出て来るのですが、本筋とは関係がなくて、あまり、いいタイトルとは言えません。 長さは、文庫で、354ページ。
元イギリス情報部員の青年が、元同僚の女性と結婚式を挙げる前日に、陸軍情報部長官であるH.Mに呼び出されて、かつて、ドイツのスパイだった男が、ある国際的情報ブローカーの秘密を売ると申し出て来た事について、元スパイの家を探るように命令される。 身に覚えのない容疑で警察に追われながら、苦労して、その家に忍び込むと、意外な光景に出くわし、その後、ようやく、警察の追跡を振り切って、H.Mの次の指令で、もう一人の元スパイが宿泊しているホテルに忍び込むと、またまた、意外な光景に出くわし、途中で合流した婚約者ともども、丸一晩、キリキリ舞いさせられる話。
解説によると、タイトルが示しているように、ドタバタ喜劇的な話らしいのですが、笑えるところは、列車の中で、本物の牧師を陥れる場面と、それに関連しているラストだけで、他は、普通に真面目な話です。 この程度では、コミカルと言うのも憚られる。 前半は、スパイ活劇物で、不自然なほどに、次々と危難がふりかかるので、最初から、喜劇のつもりで読めば、そこら辺が、面白いのかも知れませんが、大抵の人は、推理小説のつもりで読むわけで、ピンと来ないんじゃないでしょうか。
発表が、第二次世界大戦前なので、戦後のスパイ・ブームとは無関係なのですが、あまりにも、スパイ活劇部分が堂に入っているのは、不思議です。 もしかしたら、戦前にも、そういう作品ジャンルがあったのかも知れませんな。 でなければ、こんなに、緊迫感がある描写が、ポンといきなり、書けないでしょう。 ただ、活劇的なハラハラ・ドキドキ感が盛り上がれば盛り上がるほど、推理物としては、本道から外れてしまうのであって、誉められる特徴とは言い難いです。
ホテルの場面の後、急に、推理物らしくなり、後ろの3分の1が、謎解きに当てられています。 つまり、前3分の2が活劇で、後ろ3分の1が、室内で会話が進む謎解きになっているわけでして、「水と油」という形容が不適当なら、「木に竹を接いだよう」としか言えません。 「小説とは、あらゆる形式から自由な文学だ」と言うなら、こういうのも、アリですが、普通は、単に、「変」だと思いますわな。
更に、怪奇風味を盛り上げる為に設定されたと思われる、元ドイツ・スパイ達の奇妙な実験と、殺人事件の謎が、ほとんど、無関係なのには、目を白黒させられてしまいます。 すっげーなー、これー。 作者本人が気づかなかったのか、気づいていたけど、「そんな事、どーでもえーわ」と思っていたのか・・・。 カーの作風として、後者の可能性が高いところが、恐ろしい。
H.Mの友人である警察署長の家の近所に、医師が住んでいるのですが、その夫人が、たまたま、問題の国際的情報ブローカーの娘だったというのは、偶然が過ぎるんじゃないでしょうか? 彼女がそこに住んでいる必然性が、読み取れません。 犯人が誰なのか、読者に目晦ましをかける為に、人物関係を絡め合わせようとして、絡めてはいけないところを絡めてしまった観があります。
うーむ、カーの作風を一言で言うと、「バラバラ」というのが、一番、適当なのでは? 今のところ、そんな感じです。
≪剣の八≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2006年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳
1934年の発表。 ディクスン・カー名義なので、探偵役は、フェル博士。 フェル博士の登場作品としては、23作中、3作目だそうで、かなり、早い方です。 文庫で、337ページ。 タイトルの読み方は、「つるぎのはち」です。 ≪剣の八≫というのは、タロット・カードの札の名前で、話の内容と、ほとんど、関係ありません。 このタイトルに騙されて、えらい深みのある傑作なのではないかと期待してしまったのですが、少なくとも、タイトルのイメージとは、まるで違う話でした。
グロースターシャーにある、スタンディッシュ大佐の屋敷で、離屋に住んでいたアメリカ人の男が殺され、ハドリー警部に依頼されたフェル博士が出向いて行くが、その屋敷には、他に、犯罪学の権威である主教と、その後を継ぐべく、犯罪学を学んだ息子、人気がある推理作家、地元の警部などが集まる事になり、寄ってたかって、事件を解決して行く話。
何だか、事件の内容自体には何も触れない梗概になってしまいましたが、なんつーかそのー、事件の方は、全然、大した事はないのです。 謎と言えば、人物の入れ替わりが使われている程度。 他に、鍵の謎があるものの、「犯行に出かけている間に、なくした」などという、御都合主義としか言いようがない扱い方をしてあって、やっつけもいいところです。
中心になって謎を解くのはフェル博士ですが、他の探偵もどきの連中が、妙に鬱陶しく、そいつらの推理が全て外れると言うのなら、まだしも、部分的に正しかったりするから、何だか、もやもやします。 彼らは、フェル博士の引き立て役として出て来ているのではないわけです。 解説を読んだところ、「探偵がいっぱい」というカテゴリーがある事を初めて知り、単に、それに属するだけだと分かりました。 馬鹿馬鹿しい。 映画の≪名探偵登場≫のように、コメディーなら、まだ分かりますが、シリアスな推理物で、そんな事をやるとは。 一体、何のメリットがあるのか、皆目、分かりません。
フェル博士は、早々に、犯人が誰か、目星をつけてしまうのですが、それを証明する為に、罠を仕掛けて、犯人に、もう一度、殺人を試みさせるというのは、無茶もいいところ。 後で、やり方がまずかった事を、フェル博士自身に認めさせていますが、こんな危険な事をするのは、名探偵として、失格なのではないでしょうか? そういや、10年後の作品、≪死が二人をわかつまで≫でも、同じような事をやっていますが、反省がないですな、博士も、作者も。
他に、気になったところというと、主教の息子が、フェル博士の指示を受けて、夜中に、問題人物を尾行する場面だけ、スパイ物風の描写になっていて、何だか、浮いてしまっています。 描写のばらつきは、他にも見られ、主教の息子が、大佐の娘に初めて会う場面など、観察が細か過ぎて、他から浮いており、「この娘は、犯人じゃないな」と、逆に見透かせてしまいます。
相変わらず、カーの作品は、「バラバラ」という感じがしますねえ。 面白いと思ったのは、ロシア文学を貶す会話が出て来るところで、登場人物達に語らせているものの、これは、カーの本音でしょう。 たぶん、カーには、ロシア文学が、全く理解できなかったと思うのですよ。 それなのに、ロシア文学の方が、英米文学より、遥かに評価が高いから、憤慨してたんじゃないですかね? だけど、ヘミングウェイや、ブロンテ三姉妹が言うならともかく、推理作家のカーが、ロシア文学を扱き下ろしても、あまりにも、掛け離れ過ぎていて、「資格外批判」としか思えません。
≪嘲るものの座≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1955年初版 1995年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
早川節夫 訳
原作は、1942年の発表。 もろ、第二次世界大戦の最中ですが、別に、戦時下の話ではなく、戦争の事についても、全く触れられていません。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、14作目。 ≪THE SEAT OF THE SCONEFUL≫は、イギリス向けタイトルで、アメリカ向けは、≪DEATH TURNS THE TABLE≫。 イギリス向けの方が、内容に相応しく、アメリカ向けの方は、殺人事件が起こる話なら、何にでもあってしまいそうです。
「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス」というのは、ハヤカワ文庫が出る前に出版されていた、新書サイズのペーパー・バック・シリーズで、この本は、90年代になってから、それを、復刻したもの。 訳も古いままで、「・・してしまった」が、「・・してしまつた」と書いてあったりします。 読み始めて、しばらくすれば、慣れるものの、いくら、復刻版だからと言って、そこまで忠実に再現する必要があるのかどうか・・・。 2段組みで、184ページ。 解説、あとがき、感想、なし。 その点は、良いと思います。
死刑にするつもりがないのに、被告人に、それを匂わして、死の恐怖を与え、罪への反省を求めるという、絶対的な権威を弄ぶ傾向がある判事が、その娘の婚約者といざこざを起こしていたが、判事の家で、その婚約者が射殺死体となって発見される事件が起こり、判事、娘、婚約者の弁護士などが、容疑者となる中、判事の友人であるフェル博士が、解決に乗り出す話。
手に汗握るような場面が少ないお陰で、カーの作品としては、全体のテンションのバランスが取れている方だと思います。 カーの作品で、そういう場面が出て来たら、それは、読者サービスのつもりで書き込んでいるのであって、事件の謎の核心とは、まず、関係ないと見做してもいいんじゃないでしょうか。 そういう見方は、皮肉が過ぎるかな。
謎解きと犯人指名が、二段構えになっていて、最初の謎解きと犯人指名を読むと、あまりにも、唐突、且つ、不自然なので、「えー、そんなの、アリか? いくら、カーでも!」と思うのですが、単なる、ラストの余韻のような形で、第二の謎解きと犯人指名が行なわれると、「そうだろねー」と納得します。
それにしても、まだ、甘いですなあ。 フェル博士は、警察官ではないので、こういう終わらせ方もできるわけですが、一緒に捜査に当たっていたグレアム警部は、いかに、証拠が足りなくても、このままでは済まさないでしょう。 それなら、犯人が自首するなり、自殺するなり、もっと、すっきりする結末をつけても良かったんじゃないでしょうか。
気の毒なのは、娘の婚約者でして、明らかに、英米人の、イタリア人に対する偏見が入っていると思うのですが、派手な身なりだけで、ゴロツキと決めつけられて、虫ケラのように殺されてしまうのは、あまりにも、ひどい。 シャーロック・ホームズの頃から、そうですが、イタリア人の評判は、英米では、お世辞にも良くなかったようですな。
≪死の時計≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1955年初版 1995年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
喜多孝良 訳
原作は、1935年の発表。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、5作目。 2段組で、324ページ。 私が読んだ、カー作品の中では、最も長いのではないかと思います。 大抵は、4日間くらいで、読み終わるのですが、これには、丸まる一週間、かかりました。 カーの作品は、中身はさておき、先へ先へと興味を引っ張って行く技だけは、秀でているのですが、これは、例外。 そういや、≪月明かりの闇≫も長かったですが、あれも、例外ですな。 長くなり過ぎると、ストーリーの語り方を見失ってしまうのかも知れません。
ロンドンの街なかにある、有名な時計職人の家で、置時計の針で人が刺し殺される事件が起こり、たまたま、別の事情で、殺人計画を立てていた下宿人の男が疑われるが、たまたま、天窓から、その下宿人の部屋を覗いていた人物によって、彼が犯人でない事が証言される。 容疑は、時計職人の養女に向かい、彼女に不利な証拠が次々と発見されるものの、たまたま、事件発生直後に、現場にやって来ていたフェル博士は、頑なに、彼女が犯人である事を否定し、ハドリー警部の見解と、真っ向から対立する話。
「たまたま」が、3回も出て来ますが、梗概だから、この程度に抑えたのであって、実際には、もっと多いです。 ありえないような偶然が重なっていて、フェル博士自身が、「ありえる偶然」と、「ありえない偶然」を見分ける事によって、真犯人の目星をつけるわけですが、作中で、「ありえる偶然」とされているものの中にも、常識的に考えれば、ありえないものが含まれれており、その最たるものが、フェル博士が、たまたま、殺人の直後に、現場にやって来る件りです。 ありえねーだろ、そんな都合のいい偶然。
別に、事件が起こってから、フェル博士が呼ばれても、全然おかしくないと思うんですがねえ。 そういや、この作品の次に、フェル博士物として書かれる、≪三つの棺≫も、そんな出だしでした。 不自然である事に、作者が気づかないはずはないんですが、もしかしたら、マンネリ化していた探偵の登場の仕方に、変化を付ける為に、わざと、こんな風にしたんでしょうか?
読むのに一週間もかかったのは、長いのも然る事ながら、ほとんどの場面が、部屋の中に座って、推理を戦わせているだけで、あまりにも動きが少な過ぎて、なかなか、興が乗らなかったのです。 まず、ハドリー警部が、時計職人の養女を犯人と睨んで、謎解きをするのですが、フェル博士が出ているのに、ハドリー警部の推理が正しいわけがなく、読者は、間違っていると分かりきっている推理に、長々と付き合わされる羽目になります。 何とも、馬鹿馬鹿しい事よ・・・。
密室の変型トリックも出て来ますが、偶然が多く絡む為に、事件の謎が複雑になり過ぎて、トリックが霞んでしまっています。 カーは、トリックそのものよりも、謎の方を重視していたわけですが、枝葉が伸び過ぎて、あまりにもゴチャゴチャして来ると、フェル博士が、全ての謎を解いても、読者は、スッキリ感が、今一つ味わえません。 「たぶん、辻褄は合わせてあるんだろうけど、いちいち、読み直して確認するのも面倒臭いな」で、終わりにしてしまうのです。
翻訳も悪く、フェル博士やハドリー警部が、老け過ぎ。 元は英語ですから、こんな、ヨボヨボに老いぼれた喋り方はさせていないはずなんですがねえ。 登場人物の自称ですが、フェル博士は、「わし」でもいいですが、ハドリー警部まで、「わし」にされてしまうと、どっちが喋っているのか、混乱してしまって、困ります。 ハドリー警部が、定年間近という設定なので、「定年→老人→わし」と、型に嵌めてしまったのでしょうが、別に、定年間近だって、「私」でいいと思うんですがねえ。 どうせ、原文では、みんな、「I」なんでしょう?
まだ、問題があります。 「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス」の復刻版で読んだんですが、誤植があまりにも多くて、驚きました。 昔、誤植だらけで出版したのを、そのまま、復刻したんでしょうか? 植字工も植字工なら、編集者も編集者で、どちらも、こんな、いい加減な仕事をしていて、平気でいたのであれば、さっさと転職した方が良かったと思います。
≪修道院殺人事件≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1956年初版 1995年再版
カーター・ディクスン 著
長谷川修二 訳
原作は、1934年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、2作目です。 2段組で、250ページと、大した長さではないにも拘らず、読むのに、13日間もかかってしまいました。 その間に、庭木の手入れを一週間やっていて、疲労が激しく、夜更かしできなかったという事情もありますが、それにしても、ペーパー・バッグ一冊に、こんなにかかったのは、初めてです。
サリー州にある、≪白い修道院≫という邸宅の離屋で、映画女優の死体が発見されるが、離屋の周囲に積もった雪には、第一発見者が入って行った足跡しか残っていなかった。 邸宅の主人であり、女優が出演する舞台劇の作者である歴史学者、その弟で、女優に惚れている男、女優をアメリカで売り出した映画監督、女優の宣伝担当者など、周囲の人物に疑いがかかるが、警察は足跡の謎を解く事ができず、たまたま事件に関っていた甥の為に、H.Mが乗り出して来る話。
事件の中身の方は、密室物の変形でして、トリックと言うよりは、不可能犯罪に見える謎を解くのが眼目です。 もし、ルルーの≪黄色い部屋≫よりも前に発表されていたら、さぞや、世間をあっと驚かせただろうと思うような、面白いアイデアが使われています。 ところが、この本、とにかく、読み難い。 読みにく過ぎて、アイデアの良さが、まるで、活かされていません。 つまらん、つまらん、すぐに眠くなってしまって、一時に、10ページも進まない始末。
同じ作者なのに、この作品だけ、特別つまらないというのも、おかしな話で、たぶん、訳の悪さが原因だと思います。 カーの作品は、大抵、ストーリーの流れはいいのですが、この訳では、それを阻害するくらい、文章がぶつ切れになっていて、作者が何を語りたいのかを、すぐに見失ってしまいます。 訳者の素性が分からないのですが、推理小説を読んでいないというか、小説そのものをあまり、読んでいない人なのではないでしょうか?
これも、訳者の問題ですが、1956年の初版なのに、戦前かと思うような漢字の使い方がされています。 「稍や」って、読めますか? 「やや」なんですがね。 「真逆」が、変な所に出て来るので、何かと思ったら、「まぎゃく」ではなく、「まさか」でした。 これは、当て字ではないの? また、「別棟」と書いて、「はなれ」と読ませていますが、それなら、最初だけでなく、全てに、ふり仮名をふってくれないと、「べつむね」と読んでしまいます。
H.Mが使う、「乃公」も分からん。 最初だけ、「おれ」と、ふり仮名がふってありますが、これは、訳者が、そう読ませようとしていただけで、正しくは、「だいこう」と読むらしいです。 目下の者に対して、自分を呼ぶ時の言葉なのだとか。 知らんわ、そんなの。 「おれ」と読ませたくて、「俺」という字を使いたくないのなら、ひらがなで、「おれ」と書けばいいと思いますがね。 H.Mは、甥に対しては、「乃公」を使い、他の人間に対しては、「僕」を使っていて、ますます、混乱します。 どうせ、原文は全部、「I」なのですが。
訳者も訳者ですが、これに、OKを出してしまった、編集者に呆れます。 初版された1956年なら、別に、何も言われなかったかもしれませんが、1995年に再販した時には、あまりの読み難さに、読者から、「なんだ、これは?」と苦情が来たんじゃないでしょうか。 ここまで、ひどいと、初版通りに復刻する意味より、カーの作品の価値を損なっているマイナスの方が大きいと思います。 別に、この訳者の訳が読みたくて、この本を選んだわけじゃないんだから。
話の内容に戻りますが、捜査の過程で、H.Mが、犯人を確定する為に、罠を仕掛け、それが原因で、また、犠牲者が出ます。 これまでに、フェル博士物で、二作品、同じパターンのものを読みましたが、H.M物でも、やっていたんですな。 カーは、探偵役に、完璧を求めず、敢えて、ミスを犯させる事で、人間臭さを盛り込もうとしていたのかも知れません。 だけど、そのせいで、新たな死者が出るようでは、無能探偵の謗りを免れないのではないでしょうか?
≪メッキの神像≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界ミステリシリーズ
早川書房 1959年初版 1995年再版
カーター・ディクスン 著
村崎敏郎 訳
原作は、1942年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、13作目です。 もろ、戦争中ですが、内容に、戦争に触れている箇所は、全くありません。 話が起きたのは、戦間期という設定なのかもしれませんが、それも断ってありません。 推理小説作家にとって、現実の戦争は、死を読者の日常に引き寄せてしまう点、鬱陶しいもので、敢えて、無視していたのかも。 終われば、因縁話のネタが大量に発生するから、役に立つんですがね。
2段組で、224ページ。 文庫にしたら、どのくらいの長さになるのか分かりませんが、読んだ印象としては、短かく感じられました。 もっとも、これの前に、≪修道院殺人事件≫を読んでいて、読み難い文章に、さんざん、手こずらされたから、普通の文体に戻って、気楽に読み進められただけなのかも知れません。 会話が多かったのも、幸いしたか。
有名な女優が建てた、中に小劇場もある屋敷を、女優の死後、買い取って住んでいた富豪が、ある晩、自分が所有しているエル・グレコの絵画を、自分で盗み出そうとして、何者かに襲われる事件が起こる。 前以て、その富豪から、盗難の恐れがあると通報されて、屋敷に泊まり込んでいた若い警部が、早速、捜査を始める一方、富豪の知人である、H.Mが乗り出して来て、その屋敷で行なわれる予定だった子供向けのショーで、来られなくなった奇術師の代役を務めつつ、富豪の意図を明らかにし、犯人をあぶり出し、事件全体の謎を解いて行く話。
面白いです。 単に、読み易いだけでなく、話自体が面白いのです。 この頃になると、H.Mのキャラがしっかり固まって来て、かなり羽目を外させても、問題なく操れるようになっていたんじゃないでしょうか。 雪玉をぶつけられる登場の仕方も凝ってますし、奇術師と間違えられたまま、召し使いの部屋に案内されて行くのも笑えます。
極めつけは、奇術師の代役を買って出るところで、富豪の娘達を俄かアシスタントに仕立てて、ショーをぶちかますなど、ノリにノリまくっています。 これ、戦時中に、よく、発表できましたねえ。 日本だったら、発禁間違いなしですな。 たぶん、当時の読者は、死と背中合わせの暗い時代に、この作品で、良い息抜きができた事でしょう。
事件の中身は、一種のすり替わり物ですが、かなり、捻ってあって、読者側で犯人を推理するには、厳しいものがあります。 しかし、推理小説だからと言って、必ず、推理しながら読まなければいけないわけではなく、ただ、ゾクゾクする雰囲気を楽しむという読み方もあるわけで、この作品は、気楽に読み進めるだけで、十二分に堪能できます。
原題の直訳は、「メッキの男」で、これは、「エル・ドラド伝説」の中に出て来る、太陽神の像の事を指しているのですが、ちょっと、驚くくらい、事件の内容と関係ないです。 どうも、カーは、作品のタイトルを、読者を惑わす道具の一つとして、利用していた感がありますな。 いや、別に、それが、ズルというわけではないですけど。
今回は、以上、6冊までです。 2015年の11月下旬から、年末までの間に、読んだ分です。 この後、≪グラン・ギニョール≫と、≪エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件≫を借りて来て、年越しするのですが、年明け後、自転車のレストアに取りかかったら、読書をするゆとりがなくなってしまい、≪グラン・ギニョール≫は、読み飛ばし、≪エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件≫は、読まないまま返却してしまいます。 その二冊は、いつかまた、借りて、読み直すつもりでいます。
この時点で、すでに、沼津の図書館にあるカー作品の、9割くらいを読んでしまっていて、隣の自治体である、三島の図書館には、もっとあるらしいという情報を仕入れます。 だけど、三島図書館には、もう何年も行っていなくて、貸し出しカードの期限も切れており、なかなか、行く気になりませんでした。
<< Home