カー連読④
ディクスン・カー作品の感想文、性懲りもなく、四回目です。 とりあえず、感想文のストックを、あるだけ、全部出してしまいます。 現状で、あと、4回分くらいはあるのかな? 三島図書館にある分を読み終えてしまったら、しばらく、中断する予定。
実を言いますと、父の健康状態の衰えが進み、糞尿の始末をしたり、病院をハシゴしたり、その為に車を買ったりと、引退者とは思えないほどの、多忙な日々を送るようになってしまい、ブログの記事どころではないというのが実情なのです。 そちらの詳しい事情については、このカー連読シリーズが終わってから、また、取り上げます。 たぶん、日記の移植になると思いますけど。
≪皇帝のかぎ煙草入れ≫
創元推理文庫
東京創元社 2012年
ジョン・ディクスン・カー 著
駒月雅子 訳
≪帽子収集狂事件≫と、≪ユダの窓≫を、5日間で読み終えてしまったので、6日目に、また、バイクを出して、三島市立図書館へ行き、今度は三冊、借りて来ました。 三島の図書館は、開架の冊数が、さほど多くなくて、カーの作品も、書庫に入っている物が多いようなのですが、今のところ、開架分で間に合っています。 書庫の方にあっても、言えば、すぐに出してくれますし。
開架にあった本で、有名な作品で、私がまだ読んでいなかったのは、この、≪皇帝のかぎ煙草入れ≫だけでした。 1942年の発表。 探偵役は、フェル博士でも、H.Mでもなくて、ある精神科医なのですが、この作品にしか出て来ないそうです。 コンビニなる警察署長の方は、他の短編にも出てくるらしいですが、この作品では、精神科医の引き立て役になっているだけ。
身持ちの悪い男と結婚し、3年で離婚した女が、その直後、向かいの家に住んでいた青年と恋仲になり、婚約する。 ところが、別れた前夫が、復縁を迫って、彼女の家に押し入って来た晩に、向かいの家で、婚約者の父親が殺される事件が起こり、彼女に殺人の容疑がかかる。 前夫と一緒にいた事を知られたくなくて、彼女はアリバイを証明できず・・・、という話。
ちなみに、主要登場人物はイギリス人ですが、舞台は、フランスの別荘地でして、警察署長と予審判事は、地元のフランス人です。 よりによって、イギリス人が向かい合わせに住んでいる二軒の家で事件が起こるというのは、何とも、御都合主義っぽいです。 別に、イギリスが舞台でも、何の問題もない話なんですが、「皇帝のかぎ煙草入れ」の、皇帝というのが、ナポレオンの事なので、それだけの理由で、フランスにしたのかも知れません。
カーと言えば、密室物か、不可能犯罪物ですが、この作品は、そのどちらとも言えません。 密室では、全然ないですし、不可能でもなく、怪奇風味も、全く感じられません。 カーらしいところと言うと、主人公の女性のキャラが、なんとなく、ムカつく事くらいでしょうか。 悪女の設定でもないのに、ムカつくのは、なぜなんだろう?
これねえ、一種の叙述トリック物でして、トリックを仕掛けられている対象が、警察や探偵といった作中人物ではなく、読者になっているタイプの話なんですよ。 しかも、推理小説の歴史では、「フェア・アンフェア論争」というのがあるんですが、それを皮肉って、構想された作品だと思うのです、たぶん。
叙述トリックと言うと、ほとんどが、語り手が犯人になっているパターンですが、この作品は、三人称で書かれていて、誰が犯人かは、最後まで分かりません。 それぞれの場面で、中心になっている人物の心理描写がなされるわけですが、その描写に、読者を騙す罠が仕掛けられているのです。 フェア・アンフェア論争的には、ギリギリでフェアなんですが、そもそも、そのギリギリを狙うのが、この作品の目的でして、その発想自体が、ズルい感じがせんでもなし。
逆に言うと、フェア・アンフェア論争を皮肉る為だけに作られているので、話に、深みや奥行きが足りないように感じられます。 これを絶賛するのは、自身、推理作家とか、推理小説専門の評論家とか、編集者とか、そういう職種の人達だけではないでしょうか。 一般の読者、とりわけ、フェア・アンフェア論争を知らない人は、罠に引っかかる事もなく、スイスイっと読み過ごしてしまって、何が面白いのか、分からずじまいになるのでは?
私は、一日かからずに読んでしまいましたが、ページがどんどん進んだ理由は、面白かったからというより、長編にしては、ボリュームが少なくて、元は、短編か中編のアイデアだったものを、肉付けして、長編の尺にしたような感じだったからです。 やはり、叙述トリックのアイデアだけで、長編の枚数を埋めるのは、厳しいのでしょう。
≪赤後家の殺人≫
創元推理文庫
東京創元社 1980年初版
カーター・ディクスン 著
宇野利泰 訳
1980年の初版ですが、私が借りて来たのは、2000年の、第26版です。 カバーのデザインが新しいのですが、新版扱いになっていないのは、訳者も、活字の大きさも、1980年の初版から変わっていないからでしょう。 2000年以降に初版された作品では、活字のサイズが大きくなって、一ページの行数が減っています。 いや、そんな事は、日本での事情だから、どうでもいいんですがね。
発表は、1935年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、3作目。 ≪黒死荘の殺人≫、≪白い僧院の殺人≫の次が、≪赤後家の殺人≫で、三色揃えたわけですが、それは日本語訳の話でして、「黒死荘」は、元は、「Plague Court」なので、直接的に、「黒」を表してはいません。
「Plague」は、ペストの事で、ペストを、「黒死病」と言いますから、何か、関係があるのかも知れませんが、調べるのが面倒なので、スルーします。 ちなみに、「赤後家」は、原題では、「Red Widow」ですが、更に元は、フランス語でして、ギロチンの事を表しています。 別に、赤い服を着た後家さんが出て来るわけではありません。
ロンドンにある、貴族の古い屋敷に、一人で、2時間以上入っていると、必ず死ぬという部屋があり、何十年も封印されていたのが、当代当主の酔狂から、本当に死ぬか試してみる事になる。 屋敷に滞在していた者や、招かれた者が、トランプのカードを引いて、最も強い札を引いた者が、問題の部屋に籠ったところ、本当に死んでしまい、その面子に加わっていた、H.Mが、警視庁のマスターズ警部らと共に、密室の謎を解いて行く話。
冒頭の雰囲気や、呪われた部屋の設定は、ゾクゾクして、大変宜しいんですが、いざ、人が死に、取り調べや捜査が始まると、急に、つまらなくなります。 フランス革命の時、ギロチンの操作に当たった一族が絡んで来るのですが、フランス革命の経緯を解説する部分は、なんだか、歴史小説と間違えているような、鬱陶しさを感じさせます。 登場人物の一人が話をする形を取っているのですが、こんなに長々とした語りに、つきあってくれる聞き手なんか、いるんですかね?
また、トリックや、人物相関、動機、因縁などが、複雑過ぎて、理解するだけで、えらい負担です。 それでいて、何度も確認して、全ての関係式を頭に入れたところで、別段、面白いわけでもないんですわ。 最初の犠牲者は、毒物で殺されるのですが、何に毒が仕込まれていたかで、延々と議論が続けられ、毒、毒、毒ばかりで、げんなりして来ます。
これは、明らかに、失敗作でしょう。 話に奥行きを与える為に、複雑にしようとして、あれこれ捻っている内に、どんどん尾鰭が付いて、畸形的に膨らんでしまったパターンだと思います。 辻褄は合わせてあると思うのですが、それ以前の問題として、面白くないのでは、文字通り、話になりません。
トリックの謎解きも、能書きが多過ぎて、およそ、パッとしません。 鮮やかさを感じないのです。 こんなに、ガッタンゴットン滞りながら、謎解きを進めるのなら、別に、名探偵でなくても、役が務まるでしょうに。 作者が苦労したのは分かるのですが、残念ながら、苦労が報いられていない出来なのです。
≪一角獣の殺人≫
創元推理文庫
東京創元社 2009年
カーター・ディクスン 著
田中潤司 訳
元は、国書刊行会、1995年発行の、≪一角獣殺人事件≫で、改題して、創元推理文庫に収録したとの事。 いずれにせよ、そんなに古い翻訳ではないわけだ。 カー作品の翻訳は、戦後間もない頃のものからあるようで、訳者もバラバラ、レベルもバラバラ、原作が論理的な推理小説であるだけに、中には、筋が通らなくなってしまったような滅茶苦茶な訳もあるらしく、発行年があまり古いのは、要注意なのだとか。
それはともかく、原作の発表は、1935年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、4作目。 ≪赤後家の殺人≫の次です。 1作目の、≪黒死荘の殺人≫で語り手を務めた、ケンウッド・ブレイクが再登場し、情報局の同僚、イブリン・チェインと共に、主要登場人物となって動き、彼の一人称で話が語られます。 この作品の次が、≪パンチとジュディ≫で、ブレイクとチェインのコンビは、そちらにも出て来ます。
「私服の外交官」と呼ばれている、ラムズデン卿が、インドからイギリスへ、「一角獣」を運ぶ途中、フランスの旅客機に乗る事になる。 その件に関して、英国情報局から派遣されたイブリン・チェインとパリで出会ったケン・ブレイクは、車でロアール河畔のホテルへ向かうが、大雨で立ち往生したところへ、H.Mの車が合流し、更に、ラムズデン卿が乗った飛行機が、故障で不時着する。 近くにある、「島の城」に迎え入れられた一行の中に、フランスの怪盗フラマンドと、それを追うパリ警視庁のガスケ警部がいるはずだが、誰がそうなのかは分からないという状況下で、ガスケと名乗っていた男が、一角獣の角で眉間を貫かれたような傷を残して殺され・・・、という話。
冒頭から、島の城に着くまでは、明らかに、スパイ活劇物の作法で話が展開します。 ただし、全体の4分1にもならないので、話の導入部と考えて、気にせず読み過ごせる分量でして、≪パンチとジュディ≫のような、活劇物と推理物で、話が二つに分かれてしまっている不自然さはないです。 とはいえ、車で追撃だの、川の中にあって、橋で繋がっているだけの城だの、飛行機が不時着だの、道具立てが、派手ですなあ。 こうなると、もう、≪名探偵コナン≫や≪金田一少年の事件簿≫でやった方が、しっくり来そう。
情報局員、ブレイクとチェインのコンビですが、これは、もしかしたら、クリスティーの≪トミーとタペンス≫あたりに対抗しているんじゃないでしょうか。 第一次世界大戦と、第二次世界大戦の間に、スパイ物が流行った時期があったのは、確実なようです。 そういや、マレーネ・ディートリッヒさんが主演した、≪間諜X27≫という、1931年の映画もありますし。
だけど、この二人、スパイとしても、探偵としても、全然、駄目でして、あくまで、主役は、H.Mなので、その指示を受けて、活劇部分を受け持っているだけです。 特に、チェインの方は、この作品では、ほとんど、活躍らしい活躍をしません。 どういうキャラにしていいのか決める前に、書き始めてしまって、結局、それらしい役割を与えられないまま、終わってしまったという感じ。 カー作品の女性キャラには、限界というか、ある傾向があり、女性スパイをバンバン活躍させるには、作者が、女性に対して、覚め過ぎてしまっていたのではないかと思います。
島の城で繰り広げられる事件、誰が怪盗で、誰が警部なのか、殺された男は何者で、凶器は何か、どうやって殺されたかなど、そちらの方は、あまり、いい出来とは言えません。 複雑過ぎるのです。 最後まで読めば、一応、辻褄は合っているのですが、あまりにも、不確定な情報が多過ぎて、「ああ、そうだったのか!」という驚きが味わえないんですな。
もちろん、読者が推理しながら読むという事は、大変、難しいです。 凶器に至っては、「こんなの、分かるか!」と、呆れてしまうほど、一般的に知られていない代物。 もし、凶器が何かが、謎の中心だったら、アンフェア扱いされてしまうでしょう。 それにしても、眉間に深い孔を穿たれて、大量の血が出ないもんですかねえ。 血溜まりで、犯行現場が分かりそうなものですが。
こんな風に、ブチブチ貶しているという事は、あまり、面白くないんですよ。 箸にも棒にもかからないほど、つまらないわけではありませんが、平均的な出来と言えるほど、面白くもない。 H.Mの魅力が、うまく引き出されていないのが、一番の不満です。 ガスケ警部の存在も、鬱陶しいだけ。 一つの話に、名探偵役を二人出すと、結局、どちらかにミスを犯させなければならなくなるので、大抵、つまらなくなりますな。
≪夜歩く≫
創元推理文庫
東京創元社 2013年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳
三島市立図書館には、カー初期の、アンリ・バンコラン物が、創元推理文庫で三冊あり、いずれも、新しい本でした。 フェル博士物や、H.M物の方を先に読みたかったんですが、とりあえず、開架に出ている本から片付けようと思い、纏めて借りて来ました。 この三冊、表紙イラストが、同じ人が担当していて、独特の味がありますが、バンコランというより、ルパンに見えてしまうのは、如何なものか。
≪夜歩く≫は、1930年の発表。 元になったのは、その前年に、同人誌に発表した中編、≪グラン・ギニョール≫で、それを、長編に書き直したわけですな。 「Grand Guignol」というのは、パリにあった芝居小屋の事ですが、なぜ、≪夜歩く≫に変えたかというと、≪夜歩く≫の方には、芝居が出て来ないからだと思います。 さりとて、夜歩く場面に、大きな意味があるわけではなく、あまり、内容に相応しいタイトルとは言えません。
パリにあるナイトクラブの一室で、スポーツマンで有名なサリニー公爵が惨殺される事件が起こるが、公爵の新妻の前夫が、犯罪歴のある精神異常者で、その男に対する警察の護衛下での犯行だった事から、不可能犯罪と見做される。 当夜、ナイトクラブにいた、予審判事のアンリ・バンコランが、事件関係者への聞き込みから、公爵の最近の様子に異常があった事を知り、アメリカ人の友人や、ドイツ人の精神医学者と共に、事件の真相に迫る話。
元になった、≪グラン・ギニョール≫は、前に読んでいるのですが、その本が、中短編集だったせいで、面倒臭くて、感想を書いておかなかったのが、命取り。 内容をうろ覚えで、細部の比較ができません。 だけど、大まかに比べると、≪グラン・ギニョール≫で、クライマックスになっている芝居の部分がなくなり、犯人がダラダラと自白して行く、締まりのない終わり方になっています。
それ以外の部分は、基本的に、描写の水増しで、枚数を増やしているのですが、アメリカ人作家の悪い癖が出て、情報価値がない装飾過剰な文章が、延々と続き、全ての行に目を走らせる気がなくなります。 実際、会話部分と、その前後だけ読んでも、ストーリーが分かってしまうから、いかに無駄が多いかが知れようというもの。
ナイトクラブでの不可能犯罪のトリックは、話の中心ではなく、外枠に、もっと大きなトリックがあって、先にそちらが謎解きされるので、後から説明されると、「なーんだ、そんな事か」と思ってしまいます。 作者が、まだ、推理小説の書き方に慣れていない頃の作品だからかもしれませんが、カーの場合、売れっ子になってからの作品にも、結構、テキトーに作ったと思しき話があるので、別段、理由はないのかも。
一口で言うと、物語として、あまり、面白くないのです。 探偵役のバンコランに、人格的な特徴がないのも、痛いところ。 カーは、ポー好きなので、デュパン物の続編を書くようなつもりで、バンコランを創作したのかも知れません。 しかし、他人が作ったキャラを活き活きと動かすのが、大変難しいのですよ。 それは、パスティーシュ作品が、みんな失敗しているのを見れば、よく分かります。
≪蝋人形館の殺人≫
創元推理文庫
東京創元社 2012年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳
三島市立図書館で借りて来た、アンリ・バンコラン物三冊の内の、一冊。 表紙イラストは、森夏美さんで、顔の描き方など、明らかに、漫画・劇画のタッチでして、どうしても、アルセーヌ・ルパンに見えてしまうものの、魅力はあります。 もしかしたら、若い読者の目にとまるように、描き手を選んだのかも知れませんな。
発表は、1932年で、アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、4作目。 翌1933年には、フェル博士物が始まるので、作者が、バンコランに見切りをつけた作品という事になります。 ちなみに、バンコラン物最終の第5作は、1937年の≪四つの兇器≫で、だいぶ、間が開きます。
元閣僚令嬢の死体がセーヌ川に浮かび、彼女が最後に目撃された蝋人形館に向かった、予審判事バンコラン一行は、蝋人形に抱かれた形で、令嬢の友人である若い女の死体を発見する。 蝋人形館の隣には、会員制の秘密クラブがあり、恐喝を副業としている、その経営者が事件に絡んでいると目星をつけたバンコランは、友人のアメリカ人、マールに、クラブへの潜入を依頼するが・・・、という話。
蝋人形館というのは、今でもありますが、この頃のヨーロッパでも、各地にあったようですな。 この話に出てくる蝋人形館は、有名人に似せた人形を並べているわけではなく、伝説や歴史上の恐ろしい場面を再現した人形を展示していて、弥が上にも、怪奇風味が盛り上がろうと言うもの。
だけど、カーの小説に、超自然現象は出て来ないと分かっているので、怪奇は、雰囲気だけ味わって、さっさと先に進む事になります。 良家の子女のゴシップをネタにした恐喝者が出て来るのは、ホームズ物以来、ミリテリーの伝統のようなもので、カーも、割と安直に利用した感があります。 同じ恐喝でも、後年の、≪殺人者と恐喝者≫のような、捻りはありません。 実際には、恐喝は、リスクが高過ぎて、そうそうは成功しません。 もっとも、そんな事を言い出せば、密室殺人も不可能犯罪も、それ以前に、知能的犯行すらも、実際の発生率は、甚だ低いのですがね。
カーと言えば、密室物か、不可能犯罪物ですけど、この作品では、どちらからも、少し遠いです。 「どうやったか」よりも、「誰がやったか」の方が、主眼になっているからです。 フーダニット物は、みんなそうですが、作者が、わざと、目晦ましをかけて書いているので、犯人を推理しながら読むのは、非常に難しいです。 この作品でも、御多分に漏れず、意外な人物が犯人なのですが、「こんなの、分からんわ~」という、読者の呆れの声が聞こえて来そうです。
クライマックスが、マールによる秘密クラブへの潜入場面になっていて、そこは完全に、スパイ活劇の作法で書かれています。 蝋人形館の娘と、俄かコンビを組むのですが、カーは、異性二人によるスパイ活劇が、よほど、好きだったようですなあ。 だけど、全体的に見ると推理物なのに、活劇場面を最大の見せ場にしてしまうと、水と油になるのは、致し方ないところ。 サービス精神が裏目に出た格好です。
かくのごとく、「物凄く、面白い」と言うには、大いに憚られる内容なのですが、いい点もあって、ラストの、犯人との賭けの場面は、大変、宜しいです。 こういうのは、他のミステリー作品では、見た事がありません。 倫理的には、かなり問題ですし、青酸カリの事を、「苦痛もない」と書いているのは、明らかに間違いだと思いますが、それを割り引いても、尚、面白いから、大したラストを思いついたものです。
ちなみに、≪夜歩く≫と比べると、こちらの方が、ずっと、出来が良いです。 ≪夜歩く≫は、≪グラン・ギニョール≫を、過剰描写と薀蓄で水増しした長編だったのに対し、こちらは、最初から、長編として構想されているので、話の流れを阻害する要素がないからです。 ただ、絶賛するような小説ではないですねえ。
≪髑髏城≫
創元推理文庫
東京創元社 2015年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳
これも、三島市立図書館で借りて来た、アンリ・バンコラン物三冊の内の、一冊。 訳者と、表紙絵は、他の二冊と同じ人達です。 三冊の中では、最も短いにも拘らず、読むのに、一番時間がかかってしまいましたが、それは、私に別の用事が出来て、読書に割く時間が取れなかったからで、小説の内容とは、関係ないこと。
発表は、1931年で、アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、3作目。 先に読んだ、≪蝋人形館の殺人≫よりも、前だったんですな。 そうと知っていれば、どうせ、一緒に借りて来たのですから、こちらを先に読んだのですが、文庫の発行年では、≪蝋人形館の殺人≫の方が早かったので、勘違いしてしまったのです。 なぜ、順番通りに発行しないのか、理由が分からん。
とある富豪に依頼されて、ドイツのライン河の中にある、「髑髏城」で起こった、俳優の殺人事件を調べる事になったバンコランが、かつて、第一次大戦中に、丁々発止の諜報戦を繰り広げたライバルである、ドイツ警察のアルンハイム男爵と、互いに腹を探りあいながら、俳優が17年前に関わった、奇術師の変死事件を手がかりに、謎を解いて行く話。
「川の中にある城」や、「二つの国の探偵が競い合う」という設定は、後年の、≪一角獣殺人事件≫でも、セットで繰り返されています。 しかし、事件の方は、全く違っていて、人物相関にも、殺害方法にも、似たところは見られません。 他の作品と、ある程度重なっていても、謎やトリックの核心部分が違っていれば、許されるわけだ。 それにつけても、推理小説が、「組み合わせの文学」である事が、よく分かる次第。
フランスとドイツの、悪魔的な切れ者同士が競い合うわけですが、事件の内容の方も、結構には複雑でして、文庫で260ページ程度の枚数では、どちらも、丁寧に描き込むというわけには行かず、競い合いの方は、割とあっさり、処理されています。 あくまで、バンコランが主役ですから、アルンハイムは、自動的に、そのダシにされてしまうわけで、彼の最終的な謎解きが誤っている事は、その部分を読む前から察知できます。
では、バンコラン物として、面白いのかというと、そうでもなくて、バンコランは、ほとんど、前面に出て来ずに、最後の最後で、「実は私は、全てを見抜いていたんですよ」と、謎解きするだけなので、言わば、「トンビに油揚げ」のトンビ役を担っているわけで、むしろ、ムカつく存在になってしまっています。 驚きや、鮮やかさが感じられないんですな。 読者に、構成上の手の内を見透かされてしまうようでは、あまり、いいミステリーとは言えません。
今回は、以上、6冊までです。 4月上旬から、下旬にかけて読んだ本。 一回に借りて来るのが、3冊なので、6冊で、二回分ですが、大抵、返却期限の二週間より早めに読み終わって、すぐに借り換えに行きますから、きっちり、四週間にはなっていません。
いやはや、呑気に、後文なんて書いている場合じゃないんですよ。 父だけならともかく、母まで、狭心症の疑いが出て来て、明日から、一泊で検査入院と言われてしまって、もう、大変なんですわ。 今借りている本で、三島図書館にあるカー作品は最後なのですが、それすら、読み終われるかどうか。
実を言いますと、父の健康状態の衰えが進み、糞尿の始末をしたり、病院をハシゴしたり、その為に車を買ったりと、引退者とは思えないほどの、多忙な日々を送るようになってしまい、ブログの記事どころではないというのが実情なのです。 そちらの詳しい事情については、このカー連読シリーズが終わってから、また、取り上げます。 たぶん、日記の移植になると思いますけど。
≪皇帝のかぎ煙草入れ≫
創元推理文庫
東京創元社 2012年
ジョン・ディクスン・カー 著
駒月雅子 訳
≪帽子収集狂事件≫と、≪ユダの窓≫を、5日間で読み終えてしまったので、6日目に、また、バイクを出して、三島市立図書館へ行き、今度は三冊、借りて来ました。 三島の図書館は、開架の冊数が、さほど多くなくて、カーの作品も、書庫に入っている物が多いようなのですが、今のところ、開架分で間に合っています。 書庫の方にあっても、言えば、すぐに出してくれますし。
開架にあった本で、有名な作品で、私がまだ読んでいなかったのは、この、≪皇帝のかぎ煙草入れ≫だけでした。 1942年の発表。 探偵役は、フェル博士でも、H.Mでもなくて、ある精神科医なのですが、この作品にしか出て来ないそうです。 コンビニなる警察署長の方は、他の短編にも出てくるらしいですが、この作品では、精神科医の引き立て役になっているだけ。
身持ちの悪い男と結婚し、3年で離婚した女が、その直後、向かいの家に住んでいた青年と恋仲になり、婚約する。 ところが、別れた前夫が、復縁を迫って、彼女の家に押し入って来た晩に、向かいの家で、婚約者の父親が殺される事件が起こり、彼女に殺人の容疑がかかる。 前夫と一緒にいた事を知られたくなくて、彼女はアリバイを証明できず・・・、という話。
ちなみに、主要登場人物はイギリス人ですが、舞台は、フランスの別荘地でして、警察署長と予審判事は、地元のフランス人です。 よりによって、イギリス人が向かい合わせに住んでいる二軒の家で事件が起こるというのは、何とも、御都合主義っぽいです。 別に、イギリスが舞台でも、何の問題もない話なんですが、「皇帝のかぎ煙草入れ」の、皇帝というのが、ナポレオンの事なので、それだけの理由で、フランスにしたのかも知れません。
カーと言えば、密室物か、不可能犯罪物ですが、この作品は、そのどちらとも言えません。 密室では、全然ないですし、不可能でもなく、怪奇風味も、全く感じられません。 カーらしいところと言うと、主人公の女性のキャラが、なんとなく、ムカつく事くらいでしょうか。 悪女の設定でもないのに、ムカつくのは、なぜなんだろう?
これねえ、一種の叙述トリック物でして、トリックを仕掛けられている対象が、警察や探偵といった作中人物ではなく、読者になっているタイプの話なんですよ。 しかも、推理小説の歴史では、「フェア・アンフェア論争」というのがあるんですが、それを皮肉って、構想された作品だと思うのです、たぶん。
叙述トリックと言うと、ほとんどが、語り手が犯人になっているパターンですが、この作品は、三人称で書かれていて、誰が犯人かは、最後まで分かりません。 それぞれの場面で、中心になっている人物の心理描写がなされるわけですが、その描写に、読者を騙す罠が仕掛けられているのです。 フェア・アンフェア論争的には、ギリギリでフェアなんですが、そもそも、そのギリギリを狙うのが、この作品の目的でして、その発想自体が、ズルい感じがせんでもなし。
逆に言うと、フェア・アンフェア論争を皮肉る為だけに作られているので、話に、深みや奥行きが足りないように感じられます。 これを絶賛するのは、自身、推理作家とか、推理小説専門の評論家とか、編集者とか、そういう職種の人達だけではないでしょうか。 一般の読者、とりわけ、フェア・アンフェア論争を知らない人は、罠に引っかかる事もなく、スイスイっと読み過ごしてしまって、何が面白いのか、分からずじまいになるのでは?
私は、一日かからずに読んでしまいましたが、ページがどんどん進んだ理由は、面白かったからというより、長編にしては、ボリュームが少なくて、元は、短編か中編のアイデアだったものを、肉付けして、長編の尺にしたような感じだったからです。 やはり、叙述トリックのアイデアだけで、長編の枚数を埋めるのは、厳しいのでしょう。
≪赤後家の殺人≫
創元推理文庫
東京創元社 1980年初版
カーター・ディクスン 著
宇野利泰 訳
1980年の初版ですが、私が借りて来たのは、2000年の、第26版です。 カバーのデザインが新しいのですが、新版扱いになっていないのは、訳者も、活字の大きさも、1980年の初版から変わっていないからでしょう。 2000年以降に初版された作品では、活字のサイズが大きくなって、一ページの行数が減っています。 いや、そんな事は、日本での事情だから、どうでもいいんですがね。
発表は、1935年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、3作目。 ≪黒死荘の殺人≫、≪白い僧院の殺人≫の次が、≪赤後家の殺人≫で、三色揃えたわけですが、それは日本語訳の話でして、「黒死荘」は、元は、「Plague Court」なので、直接的に、「黒」を表してはいません。
「Plague」は、ペストの事で、ペストを、「黒死病」と言いますから、何か、関係があるのかも知れませんが、調べるのが面倒なので、スルーします。 ちなみに、「赤後家」は、原題では、「Red Widow」ですが、更に元は、フランス語でして、ギロチンの事を表しています。 別に、赤い服を着た後家さんが出て来るわけではありません。
ロンドンにある、貴族の古い屋敷に、一人で、2時間以上入っていると、必ず死ぬという部屋があり、何十年も封印されていたのが、当代当主の酔狂から、本当に死ぬか試してみる事になる。 屋敷に滞在していた者や、招かれた者が、トランプのカードを引いて、最も強い札を引いた者が、問題の部屋に籠ったところ、本当に死んでしまい、その面子に加わっていた、H.Mが、警視庁のマスターズ警部らと共に、密室の謎を解いて行く話。
冒頭の雰囲気や、呪われた部屋の設定は、ゾクゾクして、大変宜しいんですが、いざ、人が死に、取り調べや捜査が始まると、急に、つまらなくなります。 フランス革命の時、ギロチンの操作に当たった一族が絡んで来るのですが、フランス革命の経緯を解説する部分は、なんだか、歴史小説と間違えているような、鬱陶しさを感じさせます。 登場人物の一人が話をする形を取っているのですが、こんなに長々とした語りに、つきあってくれる聞き手なんか、いるんですかね?
また、トリックや、人物相関、動機、因縁などが、複雑過ぎて、理解するだけで、えらい負担です。 それでいて、何度も確認して、全ての関係式を頭に入れたところで、別段、面白いわけでもないんですわ。 最初の犠牲者は、毒物で殺されるのですが、何に毒が仕込まれていたかで、延々と議論が続けられ、毒、毒、毒ばかりで、げんなりして来ます。
これは、明らかに、失敗作でしょう。 話に奥行きを与える為に、複雑にしようとして、あれこれ捻っている内に、どんどん尾鰭が付いて、畸形的に膨らんでしまったパターンだと思います。 辻褄は合わせてあると思うのですが、それ以前の問題として、面白くないのでは、文字通り、話になりません。
トリックの謎解きも、能書きが多過ぎて、およそ、パッとしません。 鮮やかさを感じないのです。 こんなに、ガッタンゴットン滞りながら、謎解きを進めるのなら、別に、名探偵でなくても、役が務まるでしょうに。 作者が苦労したのは分かるのですが、残念ながら、苦労が報いられていない出来なのです。
≪一角獣の殺人≫
創元推理文庫
東京創元社 2009年
カーター・ディクスン 著
田中潤司 訳
元は、国書刊行会、1995年発行の、≪一角獣殺人事件≫で、改題して、創元推理文庫に収録したとの事。 いずれにせよ、そんなに古い翻訳ではないわけだ。 カー作品の翻訳は、戦後間もない頃のものからあるようで、訳者もバラバラ、レベルもバラバラ、原作が論理的な推理小説であるだけに、中には、筋が通らなくなってしまったような滅茶苦茶な訳もあるらしく、発行年があまり古いのは、要注意なのだとか。
それはともかく、原作の発表は、1935年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、4作目。 ≪赤後家の殺人≫の次です。 1作目の、≪黒死荘の殺人≫で語り手を務めた、ケンウッド・ブレイクが再登場し、情報局の同僚、イブリン・チェインと共に、主要登場人物となって動き、彼の一人称で話が語られます。 この作品の次が、≪パンチとジュディ≫で、ブレイクとチェインのコンビは、そちらにも出て来ます。
「私服の外交官」と呼ばれている、ラムズデン卿が、インドからイギリスへ、「一角獣」を運ぶ途中、フランスの旅客機に乗る事になる。 その件に関して、英国情報局から派遣されたイブリン・チェインとパリで出会ったケン・ブレイクは、車でロアール河畔のホテルへ向かうが、大雨で立ち往生したところへ、H.Mの車が合流し、更に、ラムズデン卿が乗った飛行機が、故障で不時着する。 近くにある、「島の城」に迎え入れられた一行の中に、フランスの怪盗フラマンドと、それを追うパリ警視庁のガスケ警部がいるはずだが、誰がそうなのかは分からないという状況下で、ガスケと名乗っていた男が、一角獣の角で眉間を貫かれたような傷を残して殺され・・・、という話。
冒頭から、島の城に着くまでは、明らかに、スパイ活劇物の作法で話が展開します。 ただし、全体の4分1にもならないので、話の導入部と考えて、気にせず読み過ごせる分量でして、≪パンチとジュディ≫のような、活劇物と推理物で、話が二つに分かれてしまっている不自然さはないです。 とはいえ、車で追撃だの、川の中にあって、橋で繋がっているだけの城だの、飛行機が不時着だの、道具立てが、派手ですなあ。 こうなると、もう、≪名探偵コナン≫や≪金田一少年の事件簿≫でやった方が、しっくり来そう。
情報局員、ブレイクとチェインのコンビですが、これは、もしかしたら、クリスティーの≪トミーとタペンス≫あたりに対抗しているんじゃないでしょうか。 第一次世界大戦と、第二次世界大戦の間に、スパイ物が流行った時期があったのは、確実なようです。 そういや、マレーネ・ディートリッヒさんが主演した、≪間諜X27≫という、1931年の映画もありますし。
だけど、この二人、スパイとしても、探偵としても、全然、駄目でして、あくまで、主役は、H.Mなので、その指示を受けて、活劇部分を受け持っているだけです。 特に、チェインの方は、この作品では、ほとんど、活躍らしい活躍をしません。 どういうキャラにしていいのか決める前に、書き始めてしまって、結局、それらしい役割を与えられないまま、終わってしまったという感じ。 カー作品の女性キャラには、限界というか、ある傾向があり、女性スパイをバンバン活躍させるには、作者が、女性に対して、覚め過ぎてしまっていたのではないかと思います。
島の城で繰り広げられる事件、誰が怪盗で、誰が警部なのか、殺された男は何者で、凶器は何か、どうやって殺されたかなど、そちらの方は、あまり、いい出来とは言えません。 複雑過ぎるのです。 最後まで読めば、一応、辻褄は合っているのですが、あまりにも、不確定な情報が多過ぎて、「ああ、そうだったのか!」という驚きが味わえないんですな。
もちろん、読者が推理しながら読むという事は、大変、難しいです。 凶器に至っては、「こんなの、分かるか!」と、呆れてしまうほど、一般的に知られていない代物。 もし、凶器が何かが、謎の中心だったら、アンフェア扱いされてしまうでしょう。 それにしても、眉間に深い孔を穿たれて、大量の血が出ないもんですかねえ。 血溜まりで、犯行現場が分かりそうなものですが。
こんな風に、ブチブチ貶しているという事は、あまり、面白くないんですよ。 箸にも棒にもかからないほど、つまらないわけではありませんが、平均的な出来と言えるほど、面白くもない。 H.Mの魅力が、うまく引き出されていないのが、一番の不満です。 ガスケ警部の存在も、鬱陶しいだけ。 一つの話に、名探偵役を二人出すと、結局、どちらかにミスを犯させなければならなくなるので、大抵、つまらなくなりますな。
≪夜歩く≫
創元推理文庫
東京創元社 2013年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳
三島市立図書館には、カー初期の、アンリ・バンコラン物が、創元推理文庫で三冊あり、いずれも、新しい本でした。 フェル博士物や、H.M物の方を先に読みたかったんですが、とりあえず、開架に出ている本から片付けようと思い、纏めて借りて来ました。 この三冊、表紙イラストが、同じ人が担当していて、独特の味がありますが、バンコランというより、ルパンに見えてしまうのは、如何なものか。
≪夜歩く≫は、1930年の発表。 元になったのは、その前年に、同人誌に発表した中編、≪グラン・ギニョール≫で、それを、長編に書き直したわけですな。 「Grand Guignol」というのは、パリにあった芝居小屋の事ですが、なぜ、≪夜歩く≫に変えたかというと、≪夜歩く≫の方には、芝居が出て来ないからだと思います。 さりとて、夜歩く場面に、大きな意味があるわけではなく、あまり、内容に相応しいタイトルとは言えません。
パリにあるナイトクラブの一室で、スポーツマンで有名なサリニー公爵が惨殺される事件が起こるが、公爵の新妻の前夫が、犯罪歴のある精神異常者で、その男に対する警察の護衛下での犯行だった事から、不可能犯罪と見做される。 当夜、ナイトクラブにいた、予審判事のアンリ・バンコランが、事件関係者への聞き込みから、公爵の最近の様子に異常があった事を知り、アメリカ人の友人や、ドイツ人の精神医学者と共に、事件の真相に迫る話。
元になった、≪グラン・ギニョール≫は、前に読んでいるのですが、その本が、中短編集だったせいで、面倒臭くて、感想を書いておかなかったのが、命取り。 内容をうろ覚えで、細部の比較ができません。 だけど、大まかに比べると、≪グラン・ギニョール≫で、クライマックスになっている芝居の部分がなくなり、犯人がダラダラと自白して行く、締まりのない終わり方になっています。
それ以外の部分は、基本的に、描写の水増しで、枚数を増やしているのですが、アメリカ人作家の悪い癖が出て、情報価値がない装飾過剰な文章が、延々と続き、全ての行に目を走らせる気がなくなります。 実際、会話部分と、その前後だけ読んでも、ストーリーが分かってしまうから、いかに無駄が多いかが知れようというもの。
ナイトクラブでの不可能犯罪のトリックは、話の中心ではなく、外枠に、もっと大きなトリックがあって、先にそちらが謎解きされるので、後から説明されると、「なーんだ、そんな事か」と思ってしまいます。 作者が、まだ、推理小説の書き方に慣れていない頃の作品だからかもしれませんが、カーの場合、売れっ子になってからの作品にも、結構、テキトーに作ったと思しき話があるので、別段、理由はないのかも。
一口で言うと、物語として、あまり、面白くないのです。 探偵役のバンコランに、人格的な特徴がないのも、痛いところ。 カーは、ポー好きなので、デュパン物の続編を書くようなつもりで、バンコランを創作したのかも知れません。 しかし、他人が作ったキャラを活き活きと動かすのが、大変難しいのですよ。 それは、パスティーシュ作品が、みんな失敗しているのを見れば、よく分かります。
≪蝋人形館の殺人≫
創元推理文庫
東京創元社 2012年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳
三島市立図書館で借りて来た、アンリ・バンコラン物三冊の内の、一冊。 表紙イラストは、森夏美さんで、顔の描き方など、明らかに、漫画・劇画のタッチでして、どうしても、アルセーヌ・ルパンに見えてしまうものの、魅力はあります。 もしかしたら、若い読者の目にとまるように、描き手を選んだのかも知れませんな。
発表は、1932年で、アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、4作目。 翌1933年には、フェル博士物が始まるので、作者が、バンコランに見切りをつけた作品という事になります。 ちなみに、バンコラン物最終の第5作は、1937年の≪四つの兇器≫で、だいぶ、間が開きます。
元閣僚令嬢の死体がセーヌ川に浮かび、彼女が最後に目撃された蝋人形館に向かった、予審判事バンコラン一行は、蝋人形に抱かれた形で、令嬢の友人である若い女の死体を発見する。 蝋人形館の隣には、会員制の秘密クラブがあり、恐喝を副業としている、その経営者が事件に絡んでいると目星をつけたバンコランは、友人のアメリカ人、マールに、クラブへの潜入を依頼するが・・・、という話。
蝋人形館というのは、今でもありますが、この頃のヨーロッパでも、各地にあったようですな。 この話に出てくる蝋人形館は、有名人に似せた人形を並べているわけではなく、伝説や歴史上の恐ろしい場面を再現した人形を展示していて、弥が上にも、怪奇風味が盛り上がろうと言うもの。
だけど、カーの小説に、超自然現象は出て来ないと分かっているので、怪奇は、雰囲気だけ味わって、さっさと先に進む事になります。 良家の子女のゴシップをネタにした恐喝者が出て来るのは、ホームズ物以来、ミリテリーの伝統のようなもので、カーも、割と安直に利用した感があります。 同じ恐喝でも、後年の、≪殺人者と恐喝者≫のような、捻りはありません。 実際には、恐喝は、リスクが高過ぎて、そうそうは成功しません。 もっとも、そんな事を言い出せば、密室殺人も不可能犯罪も、それ以前に、知能的犯行すらも、実際の発生率は、甚だ低いのですがね。
カーと言えば、密室物か、不可能犯罪物ですけど、この作品では、どちらからも、少し遠いです。 「どうやったか」よりも、「誰がやったか」の方が、主眼になっているからです。 フーダニット物は、みんなそうですが、作者が、わざと、目晦ましをかけて書いているので、犯人を推理しながら読むのは、非常に難しいです。 この作品でも、御多分に漏れず、意外な人物が犯人なのですが、「こんなの、分からんわ~」という、読者の呆れの声が聞こえて来そうです。
クライマックスが、マールによる秘密クラブへの潜入場面になっていて、そこは完全に、スパイ活劇の作法で書かれています。 蝋人形館の娘と、俄かコンビを組むのですが、カーは、異性二人によるスパイ活劇が、よほど、好きだったようですなあ。 だけど、全体的に見ると推理物なのに、活劇場面を最大の見せ場にしてしまうと、水と油になるのは、致し方ないところ。 サービス精神が裏目に出た格好です。
かくのごとく、「物凄く、面白い」と言うには、大いに憚られる内容なのですが、いい点もあって、ラストの、犯人との賭けの場面は、大変、宜しいです。 こういうのは、他のミステリー作品では、見た事がありません。 倫理的には、かなり問題ですし、青酸カリの事を、「苦痛もない」と書いているのは、明らかに間違いだと思いますが、それを割り引いても、尚、面白いから、大したラストを思いついたものです。
ちなみに、≪夜歩く≫と比べると、こちらの方が、ずっと、出来が良いです。 ≪夜歩く≫は、≪グラン・ギニョール≫を、過剰描写と薀蓄で水増しした長編だったのに対し、こちらは、最初から、長編として構想されているので、話の流れを阻害する要素がないからです。 ただ、絶賛するような小説ではないですねえ。
≪髑髏城≫
創元推理文庫
東京創元社 2015年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳
これも、三島市立図書館で借りて来た、アンリ・バンコラン物三冊の内の、一冊。 訳者と、表紙絵は、他の二冊と同じ人達です。 三冊の中では、最も短いにも拘らず、読むのに、一番時間がかかってしまいましたが、それは、私に別の用事が出来て、読書に割く時間が取れなかったからで、小説の内容とは、関係ないこと。
発表は、1931年で、アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、3作目。 先に読んだ、≪蝋人形館の殺人≫よりも、前だったんですな。 そうと知っていれば、どうせ、一緒に借りて来たのですから、こちらを先に読んだのですが、文庫の発行年では、≪蝋人形館の殺人≫の方が早かったので、勘違いしてしまったのです。 なぜ、順番通りに発行しないのか、理由が分からん。
とある富豪に依頼されて、ドイツのライン河の中にある、「髑髏城」で起こった、俳優の殺人事件を調べる事になったバンコランが、かつて、第一次大戦中に、丁々発止の諜報戦を繰り広げたライバルである、ドイツ警察のアルンハイム男爵と、互いに腹を探りあいながら、俳優が17年前に関わった、奇術師の変死事件を手がかりに、謎を解いて行く話。
「川の中にある城」や、「二つの国の探偵が競い合う」という設定は、後年の、≪一角獣殺人事件≫でも、セットで繰り返されています。 しかし、事件の方は、全く違っていて、人物相関にも、殺害方法にも、似たところは見られません。 他の作品と、ある程度重なっていても、謎やトリックの核心部分が違っていれば、許されるわけだ。 それにつけても、推理小説が、「組み合わせの文学」である事が、よく分かる次第。
フランスとドイツの、悪魔的な切れ者同士が競い合うわけですが、事件の内容の方も、結構には複雑でして、文庫で260ページ程度の枚数では、どちらも、丁寧に描き込むというわけには行かず、競い合いの方は、割とあっさり、処理されています。 あくまで、バンコランが主役ですから、アルンハイムは、自動的に、そのダシにされてしまうわけで、彼の最終的な謎解きが誤っている事は、その部分を読む前から察知できます。
では、バンコラン物として、面白いのかというと、そうでもなくて、バンコランは、ほとんど、前面に出て来ずに、最後の最後で、「実は私は、全てを見抜いていたんですよ」と、謎解きするだけなので、言わば、「トンビに油揚げ」のトンビ役を担っているわけで、むしろ、ムカつく存在になってしまっています。 驚きや、鮮やかさが感じられないんですな。 読者に、構成上の手の内を見透かされてしまうようでは、あまり、いいミステリーとは言えません。
今回は、以上、6冊までです。 4月上旬から、下旬にかけて読んだ本。 一回に借りて来るのが、3冊なので、6冊で、二回分ですが、大抵、返却期限の二週間より早めに読み終わって、すぐに借り換えに行きますから、きっちり、四週間にはなっていません。
いやはや、呑気に、後文なんて書いている場合じゃないんですよ。 父だけならともかく、母まで、狭心症の疑いが出て来て、明日から、一泊で検査入院と言われてしまって、もう、大変なんですわ。 今借りている本で、三島図書館にあるカー作品は最後なのですが、それすら、読み終われるかどうか。
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