カー連読⑦
父の四十九日が近づき、また、落ち着かない雰囲気が盛り上がりつつあります。 昨今の私は、車の補修と読書で、日々の時間を埋めており、もはや、「バタバタしている」とか、「閑がない」といった言い訳は通用しないのですが、まだ、ストックがあるので、カー作品の感想文を、引き続き、出す事にします。
≪毒のたわむれ≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1958年初版 1993年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
村崎敏郎 訳
発表は、1932年。 ノン・シリーズですが、アンリ・バンコラン物のワトソン役である、ジェフ・マールの一人称で書かれていて、物語世界は、バンコラン物と共通しています。 バンコランの名前も出て来ますが、本人が登場する事はなく、手紙や電話で助言をするという事もなく、探偵役は、別に用意されています。
発表年が、バンコラン物と、フェル博士物の間に挟まっていて、バンコランの使い勝手の悪さに行き詰っていた作者が、新たな探偵像を模索している時期に書かれた作品。 おそらく、推理小説のアイデアの方は、どんどん思いつくのに、探偵をどう絡めていいか分からずに、四苦八苦していたんでしょう。 ちなみに、探偵が、何となく、物語から浮いてしまっている感じは、フェル博士やH.Mが登場してからも、カー作品に、ずっと付き纏います。
ペンシルバニアの田舎町に住む、判事の屋敷が舞台。 三人の娘と長男は、大人になっているのに まだ家から出られず、次男は家出して、家計は、次女の婿が支えているという、不安定な状況下で、判事と、その妻が、違う種類の毒で殺されかける事件が起こる。 大理石像の右手がうろつきまわるのを、判事が何度も目撃したり、誰の物とも知れぬ笑い声が響いて来たり、不気味な雰囲気が漂う屋敷で、ジェフ・マールと地元の刑事達が、翻弄される中、三女の恋人である青年が、探偵として登場し、謎を解く話。
描写が細かいですが、しつこい程ではなく、理屈っぽいところもありますが、それは、謎解き部分に集中しているから、気になる程ではなく、サスペンスが盛り上がる場面もありますが、活劇という程でもなく、初期のカー作品の中では、バランスがいい方だと思います。だけど、傑作というには、とてもとても・・・。 単に、読み易いだけです。
事件関係者が、一人を除いて、判事の家族の者だけというのが、話をせせこましくしています。 また、判事の屋敷も、部屋が無数にある豪邸というわけではなくて、三階建てではあるものの、せいぜい、小金持ち程度の家でして、連続殺人が起こるには、ちと、舞台が狭過ぎます。 こういう事件が絶対に起こらないとは言いませんが、家族内の諍いなんて、他人が興味を引かれるような事ではないと思うのですがね。
最大の欠点は、探偵役の青年のキャラです。 パット・ロシターという名前のイギリス人で、ロンドン警視庁のお偉方の息子という、表に出さない肩書き付き。 大柄だけど、子供みたいな性格で、ちょっと話をした限りでは、頭がおかしいとしか思えない。 典型的な、変人探偵ですな。 ところが、このキャラを、作者が、全然、使いこなせていないのです。 「とにかく、特徴を出す為に、変人にしてみました」というだけで、その変人ぶりが、物語の中身に、まるで噛み合って来ません。
こんな中途半端な探偵を創るくらいなら、バンコラン物にしてしまい、パリにいるバンコランに、電話でヒントを貰って、ジェフ・マールが犯人を逮捕する、という形にした方が、むしろ、収まりが良かったと思います。 パット・ロシターが、あまりにもパッとしないから、フェル博士が創られるわけですが、フェル博士も、探偵としてそんなに魅力があるわけではなく、カーという人が、特徴的なキャラを作り出すのが苦手であった事が、よく分かります。
≪死者のノック≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行 1993年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
高橋豊 訳
発表は、1958年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、19作目。 最終作の9年前ですから、もう、後期の作品ですな。 カーがイギリスからアメリカに戻った後に書かれたもので、事件の舞台もアメリカです。 フェル博士は、イギリス人なのですが、アメリカが舞台の話に登場する為に、わざわざ、大西洋を渡って来させられるわけで、歩くのもゼイゼイ言うほどの巨体なのに、ご苦労な事です。
アメリカの大学町が舞台。 体育館での悪戯事件が続いていたところへ、教授達が多く住む住宅地で、身持ちが悪いと噂されていた女が、自殺としか思えない密室状態で死んでいるのが発見され、彼女に関わっていた人物達が、疑心を残しつつも互いに庇い合う中、町に招待されていたフェル博士が、事件捜査に加わり、真相を明らかにする話。
推理小説草創期の作家、ウィルキー・コリンズが遺した書簡に記された、密室殺人のアイデアが絡んで来るのですが、ほんとに、そんな書簡があるのか、作者の創作なのか、本文を読んでいる限りでは分かりません。 トリックそのものは、物質的なもので、あっと驚くような意外性はないです。
本格推理物ですが、フーダニットの系列で、トリックの重要性は、そんなに高くないです。 カーは、フーダニットが、あまり得意ではないようで、登場人物が少ないせいか、消去法でも、犯人の大体の見当がついてしまいます。 そもそも、フーダニットは、読者を撹乱する為に、登場人物をうじゃうじゃ出しているのであって、推理しながら読んでも、まず当たりません。 その点、カーは、フェアに拘っているので、登場人物を増やす事に、抵抗があるのだと思います。
私は、カーの後期の推理物というと、≪月明かりの闇≫と≪仮面劇場の殺人≫しか読んでおらず、その二作は、もう、最終作とその一つ前ですから、終わりも終わりの方。 それらに比べると、この作品は、ずっと纏まりが良くて、物語として、面白いです。 つまり、この作品の後、どこかから、おかしくなって行くわけだ・・・。
ちょっと気にかかるのは、ラストで、犯人に対して、フェル博士や警察が取る態度でして、これは、法治社会では許される事ではありますまい。 被害者達が、どんなに悪党だろうと、人殺しはしていないのであって、犯人と、どちらの罪が重いかは、歴然としています。 大体、そこで、そういう処置をして、ごまかせたとしても、その後、殺人犯と分かっている人間と、普通に交際して暮らして行けるものですかね?
≪悪魔のひじの家≫
新樹社 1998年初版 1998年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
白須清美 訳
三島市立図書館の書庫に入っていた単行本。 購入された当初は、当然、開架にあったのだと思いますが、何年くらいで、書庫に移されるんですかね? 購入年が古くても、開架に残されている本もあるわけですが、貸し出し実績で、開架残留か、書庫行きが決まるんでしょうか? もっとも、借りる時には、出してもらえばいいのですから、不便というほどではなく、むしろ、書庫にあった方が、本の傷みは少ないと思います。
発表は、1965年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、21作目。 もう、晩年と言っていい時期に入っていますな。 H.Mシリーズの方は、とっくに終了していて、フェル博士シリーズだけが、本格推理作品として続いていたわけですが、この作品の後には、≪仮面劇場の殺人≫と、≪月明かりの闇≫の二作しか書かれていません。
イギリス南部、ハンプシャー州の海に突き出た、「悪魔のひじ」と呼ばれる土地に、「緑樹館」という屋敷があり、そこの当主と、勘当同然でアメリカへ行き、雑誌業で成功した長男が、ほぼ、同時期に病死する。 遺言により、緑樹館の財産は、長男の息子に遺されるが、彼は金には困っておらず、屋敷に住んでいる叔父に相続権を譲ろうとする。 その手続きの為に、長男の息子が、数十年ぶりに緑樹館を訪れると、幽霊の目撃談が出たり、叔父が密室内で空砲で撃たれたりと、奇妙な事件が続発する話。
晩期の作品にしては珍しく、最盛期の作品の雰囲気が感じられます。 逆に言うと、過去の作品の、キメラ的な焼き直しなのですが、≪仮面劇場の殺人≫や、≪月明かりの闇≫に比べれば、ずっと、カーらしく、読み易いです。 面白い・・・、とまでは言いませんけど。 肝心の密室の謎が、偶然に頼りすぎている点が、最も物足りないのですが、それはまあ、この作品に限った事ではありません。
土地の名前や、屋敷に纏わる伝説がおどろおどろしい割には、その事が、話の内容に深く関わっていません。 しかし、それも、この作品で始まった事ではなく、カー作品では、よくある事です。 とは言うものの、こういう庇い方は、客観的な評価をする上では、よくないでしょうなあ。 私も、半分、ファンになりかけていて、批評する資格を失いつつあるのかも知れません。
ちなみに、同じような問題点は、カーに多大な影響を受けた、横溝正史作品でも、よく見られます。 推理小説を、物語の流れや、練りに練った構想からではなく、人物相関、トリック、過去の因縁、舞台背景といった、個別のパーツを寄せ集める形で作ろうとすると、こうなりがちなのだと思います。
長男の息子というのが、軽口を叩く性格で、フェル博士を、哲学者達の名前で呼んだり、エリオット副警視長を、ホームズ物に出て来る刑事達の名前で呼んだり、無用な冗談ばかり言っているのが、鼻につきます。 こういうキャラは、≪月明かりの闇≫にも出て来ました。 読んでいて、不愉快以外の何物でもないです。 それなりの意図があって出しているキャラだという事は分かっていますが、作者の知識のひけらかしが混じっているのが、腹が立つ。
ちなみに、カー作品では、読者の癇に障るキャラが出て来ると、それは、大抵、犯人ではないです。 あくまで、大抵ですが。 しかし、必要以上に生意気な口を利く若い女性が出て来たら、それはもう、絶対、犯人ではありません。 「こいつが犯人であってくれればいいのに」と、読者に思わせる、罠なのです。 私は、毎回、引っかかっています。
≪弓弦城殺人事件≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1976年発行 1995年4刷
カーター・ディクスン 著
加島祥造 訳
三島市立図書館の書庫に入っていた文庫本。 発行19年目にして、4刷というのは、少しずつだけど、確実に売れていたという事でしょうかね。 カーの作品の中では、有名な方であるせいか、本が、そこそこ、くたびれていました。 だけど、三島図書館の本は、沼津図書館の本に比べて、全体的に、程度が良いです。 「これは、捨てた方がいいだろう」と、指先で抓みたくなるようなものがないですから。
発表は、1934年。 ノン・シリーズで、探偵役は、ジョン・ゴーントという、この作品だけに出てくる人物です。 カーター・ディクスン名義の作品では、探偵は、H.Mなのですが、ジョン・ゴーントは、その前身に当たります。 ただし、キャラは、全く似ておらず、むしろ、アンリ・バンコランに近いです。
「弓弦城」は、「きゅうげんじょう」と読みます。 原題は、「The Bowstring Murders」で、直訳すると、「弓弦殺人事件」。 舞台が、弓弦城だから、邦題をこうしたのでしょうが、殺害に弓弦が関与して来る事を考えると、直訳した方が、内容を正確に表現できたと思います。 ちなみに、ネット情報では、この作品、元は、「カー・ディクスン」という名義で発表されたとの事。 カーの名義の使い分けには、ややこしい事情があるので、ここでは書ききれません。 同一人物だという事だけ分かっていれば、充分。
甲冑や武具のコレクションで知られる貴族が住居にしている弓弦城で、当主と、若いメイドが相次いで殺される事件が起こり、当主が死んだ場所が密室状態だった事から、地元警察では手に負えないと見て、城に招かれていた、英国博物館の館長の知り合いである、犯罪学の権威、ジョン・ゴーントが呼ばれ、密室の謎を解く話。
密室物ですが、フーダニットでもあります。 カーのフーダニットは、登場人物が少ないから、消去法で、犯人の大体の目星がついてしまうという欠陥があるのは、他の作品と同じ。 それ以外にも、「よく喋る人物は、犯人ではない」、「利口ぶった、鼻に付く女は、犯人ではない」など、カー作品では、犯人の特定に、ヒントが結構あります。
密室トリックもそうですが、全体的に、キレが悪いです。 アリバイの突き合わせに、異様にページ数を割いたり、探偵役以外の者が、間違っているに決まっている推理を延々と語ったり、読者に、「時間を割いてまで、読む意味がないのでは?」と思わせる部分が、大変、多い。 思うに、辻褄合わせに、ああだこうだと、弄っている内に、作者自身、どんな話か分からなくなってしまったパターンではないでしょうか。
一口で言うと、つまらないのですよ。 この材料では、面白くなりようがないとでも言いましょうか。 ジョン・ゴーントのキャラが、パッとしないのも、大きなマイナスですねえ。 ディクスン・カー名義の方では、バンコランが使い難いから、フェル博士に変えたのに、こちらでは、まだ未練があったようで、「バンコランを、イギリス人にしただけ」みたいなのが、ゴーントなのです。
それにしても、カーは、古城が大好きだったようですな。 一体、何作品に出て来る事やら。 ところが、古城を舞台にした作品は、割合、面白くないものが多いのです。 読者の側に、城という建物に馴染みがないせいか、密室物に必須の、密室的雰囲気が、伝わって来ないからではないかと思います。 たぶん、カー本人に訊けば、「一度、古城を見に行けば分かる」と答えたと思いますが、推理小説を楽しむ為に、わざわざ、ヨーロッパまで行けませんぜ。
巻末に、ドナルド.E.イェイツという人が、解説がついているのですが、「誰、この人?」という感じでして、批評家なのかも知れませんが、外国の批評家なんて、普通、知りません。 しかも、この作品の解説ではなく、カーの解説でもなく、探偵小説全般の解説だから、「何、これ?」と思うなという方が無理です。 何でも、オマケに付ければいいってもんじゃないと思うのですがねえ。
≪九人と死で十人だ≫
世界探偵小説全集 26
国書刊行会 1999年
カーター・ディクスン 著
駒月雅子 訳
三島市立図書館の、開架にありました。 全集に入っているとは露知らず、見逃していた次第。 自分で気づいて良かった。 開架にあるのに、書庫から出してくれなんて頼んだら、顰蹙を買うところでした。 全集とは言っても、外見は、普通の単行本で、表紙絵も、一冊ずつ異なっています。
発表は、1940年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、11作目。 ≪かくして殺人へ≫の次で、どちらも、同じ年に発表されていますが、例によって、発表時期の近さと、内容の類似の相関は、認められません。 戦時中の発表で、この作品の場合、戦争を背景にした設定になっています。
1940年1月、軍需物資を積んで、アメリカからイギリスへ、大西洋を横断していた客船の中で、トルコ外交官夫人が、喉を切られて殺され、続いて、奇妙な行動ばかり取っていたフランス人大尉が、真夜中に銃で撃たれて、海へ転落する。 大尉が夫人を殺して、自殺したように見えたが、大尉は他の人間に撃たれたという証言が出る。 夫人の殺害現場に残されていた指紋は、乗船者の誰とも一致せず、幽霊による殺人ではないかと囁かれ始める中、たまたま乗船していたH.Mが、謎を解いて行く話。
作品名の、「九人と死で十人だ」ですが、内容を、まるで映していません。 特に、「十人」の部分が、何の関係もなくて、これは、「八人」とすべきなのではないでしょうか? もっとも、そうすると、読む前に、過剰なヒントを与えてしまう事になりますが。 一応、乗客は、九人という事になっていますが、人数そのものには、あまり、意味がないです。
密室物ではなく、指紋絡みの不可能犯罪物で、そちらは、それほど、面白いわけではありません。 「へえ、そうなの・・・」という感じで、一つ利口になったような気はするものの、驚くような事は、全くないです。 むしろ、フーダニットに分類すべきなのかも知れませんが、実は、犯人が嘘をついており、それを、読者が見抜くのは不可能です。 三人称だから、尚の事。 犯人に嘘をつかせる話では、別の人物の一人称で書いた方が、話がフェアになると思います。
客船上で起こる事件としては、1934年に、フェル博士シリーズで書かれた、≪盲目の理髪師≫がありますが、そちらは、ドタバタ喜劇。 こちらは、戦時中に、ナチス・ドイツの潜水艦が遊弋して海域を航海するわけで、緊張感が全然違います。 また、潜水艦警報というのがあって、それが、事件の推移にうまく取り入れられています。
ストーリー展開のテンポが良い分、細部の書き込みがあっさりし過ぎていて、ちょっと、軽さを感じるのですが、まあ、読み易いのはありがたいと、素直に認めます。 ただ、傑作とはとても言えませんし、佳作というのも、ちと、ためらわれます。 「つまらなくはない」という程度の評価しかできないのです。
巻末に、解説がついているのですが、この作品の解説ではなく、カーの怪奇趣味についての解説でして、この作品だけを楽しみたいのなら、蛇足です。 この作品にも、「幽霊」という言葉が出て来るものの、怪奇風味を感じるには程遠い、薄っぺらな味付けで、なぜまた、よりによって、そういう作品の巻末で、怪奇趣味論を語ろうとするのか、書き手の気が知れません。 まして、ネタバレを含むとなれば、邪魔でしかないです。
≪貴婦人として死す≫
創元推理文庫
東京創元社 2016年初版
カーター・ディクスン 著
高沢治 訳
私が三島図書館に通い始めた頃には、この本はなかったのですが、その後、購入されて、開架に置かれていたもの。 三島図書館には、同じ創元推理文庫の、1977年発行の旧版、≪貴婦人として死す≫もあるらしいのですが、「どうせ、読むなら、文字が大きい新版を」と思って、こちらにしました。 訳者も違う人ですが、二冊借りて、読み比べるほど、閑ではないです。
発表は、1943年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、14作目。 ≪メッキの神像≫の次の作品で、H.Mが、とことん、コミカルな存在として描かれている点では、明らかに、共通点があります。 ただし、話の中身は、文字通り、話が別。 戦時中発表の作品で、戦争の影響が、ラスト近くになって、話に関わって来ます。
海に面した断崖の近くに建つ家で、当主の妻と、車のセールスマンが、崖から身を投げて心中する事件が起こる。 浜へ流れ着いた遺体には、二人とも銃で心臓を撃ち抜かれた痕があり、全く別の所で銃が発見された事で、他殺の可能性が出て来るが、崖の上に残されていたのは、二人の足跡だけで、他殺とすれば、不可能犯罪になってしまう。 肖像画を描かせる為に、その町に滞在していたH.Mが、当初から事件に関っていた老医師と共に、謎を解いて行く話。
作品名の「貴婦人として死す」というのは、遺書に書かれていた文句なのですが、作品の中身を、まるで言い表していません。 このタイトルから、内容を想像していると、とんだ肩透かしを食らうので、要注意です。 そういうのは、カーの作品では、割とよくある事です。 タイトルのつけ方が下手なわけではないのですが、凝り過ぎて、奇妙なタイトルになってしまう事がある様子。
「Lady」を「貴婦人」とせずに、「淑女」にしておけば、「貴族絡みの話なのだろう」という誤解を避けられたと思うので、翻訳にも問題があると思います。 しかし、古典作品の場合、一度決まってしまったタイトルは、新訳でも、変更されない事が多いです。 ちなみに、原題は、「She Died a Lady」です。
タイトルはさておき、中身ですが、大変、面白いです。 これは、私個人的には、≪ユダの窓≫に次いで、二番目に面白かったカー作品ですな。 ただ、トップと、二番目の間は、かなり開いています。 不可能犯罪のトリックは、分かってしまえば、そんなに驚くようなものではないですが、明快な謎解きのお陰で、無理を感じさせません。
トリックも然る事ながら、ストーリーの流れが良くて、推理小説としてという以前に、物語として、非常によく出来ています。 このノリの良さは、コメディー小説では、よく見られるものですが、推理小説に取り入れる事ができるとは、ついぞ、知りませんでした。 コミカルな場面はありますが、≪盲目の理髪師≫のような、コメディーにはしておらず、根幹部分は、真面目な推理小説になっています。
全体の9割くらいが、老医師の手記という形で、一人称で語られるのですが、これが、いい効果を出していまして、「カー作品には、叙述トリックによるアンフェアは、存在しない」という前提が分かっていれば、語り手は嘘をついていないわけですから、その点は気にせずに、じっくりと、他の登場人物を疑いながら読む事ができます。
≪メッキの神像≫の感想で、H.Mの描き方が笑える点を誉めましたが、この作品では、もっと、極端になっていて、登場場面も、ローマ皇帝ネロに間違われる場面も、ギャグのナンセンス度が、半端ではありません。 カーは、よっぽど、コメディー映画が好きだったんでしょうねえ。 書かれてから、70年以上経っているのに、まだ、爆笑を誘うというのは、並大抵のレベルではありません。
惜しむらく、この文庫も、解説に、余計なものが付いています。 「結カー問答」という、ダジャレなんだか、他に意味があるんだか、考える気も起こらないタイトルがついた、会話体の文なのですが、高校の読書クラブの冊子じゃないんだから、こういう、レベルの低い文章を、公の出版物に載せないでもらいたいです。 この人、誰よ? 誰であっても、カー作品に対しては、単なる一読者でしょうが。
誰が、どこで、何を書こうが、かまやしませんが、海外作家の、古典作品の、しかも、傑作級の小説の巻末に書くのだけは、やめてください。 肝心の、本体部分まで、ケチがついたように、感じられてしまうからです。 そもそも、解説なんて、要らないというのよ。 どうしても、解説を付けなければいけないというなら、書き手を批評家に限定し、その作家の、その作品についての解説に限定して、書いてもらえば、まだ、読む価値があります。
今回は、以上、6冊までです。 6月下旬から、7月上旬にかけて読んだ本。 それにしても、カー作品の翻訳者というのは、ものの見事に、バラバラですな。 たぶん、翻訳が悪くて、原作の良さを損なってしまっているケースもあると思われ、できる事なら、一人の翻訳者に、全て訳してもらいもの。 しかし、長編ばかり、何十作もあると、そうもいかないんでしょうねえ。
≪毒のたわむれ≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1958年初版 1993年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
村崎敏郎 訳
発表は、1932年。 ノン・シリーズですが、アンリ・バンコラン物のワトソン役である、ジェフ・マールの一人称で書かれていて、物語世界は、バンコラン物と共通しています。 バンコランの名前も出て来ますが、本人が登場する事はなく、手紙や電話で助言をするという事もなく、探偵役は、別に用意されています。
発表年が、バンコラン物と、フェル博士物の間に挟まっていて、バンコランの使い勝手の悪さに行き詰っていた作者が、新たな探偵像を模索している時期に書かれた作品。 おそらく、推理小説のアイデアの方は、どんどん思いつくのに、探偵をどう絡めていいか分からずに、四苦八苦していたんでしょう。 ちなみに、探偵が、何となく、物語から浮いてしまっている感じは、フェル博士やH.Mが登場してからも、カー作品に、ずっと付き纏います。
ペンシルバニアの田舎町に住む、判事の屋敷が舞台。 三人の娘と長男は、大人になっているのに まだ家から出られず、次男は家出して、家計は、次女の婿が支えているという、不安定な状況下で、判事と、その妻が、違う種類の毒で殺されかける事件が起こる。 大理石像の右手がうろつきまわるのを、判事が何度も目撃したり、誰の物とも知れぬ笑い声が響いて来たり、不気味な雰囲気が漂う屋敷で、ジェフ・マールと地元の刑事達が、翻弄される中、三女の恋人である青年が、探偵として登場し、謎を解く話。
描写が細かいですが、しつこい程ではなく、理屈っぽいところもありますが、それは、謎解き部分に集中しているから、気になる程ではなく、サスペンスが盛り上がる場面もありますが、活劇という程でもなく、初期のカー作品の中では、バランスがいい方だと思います。だけど、傑作というには、とてもとても・・・。 単に、読み易いだけです。
事件関係者が、一人を除いて、判事の家族の者だけというのが、話をせせこましくしています。 また、判事の屋敷も、部屋が無数にある豪邸というわけではなくて、三階建てではあるものの、せいぜい、小金持ち程度の家でして、連続殺人が起こるには、ちと、舞台が狭過ぎます。 こういう事件が絶対に起こらないとは言いませんが、家族内の諍いなんて、他人が興味を引かれるような事ではないと思うのですがね。
最大の欠点は、探偵役の青年のキャラです。 パット・ロシターという名前のイギリス人で、ロンドン警視庁のお偉方の息子という、表に出さない肩書き付き。 大柄だけど、子供みたいな性格で、ちょっと話をした限りでは、頭がおかしいとしか思えない。 典型的な、変人探偵ですな。 ところが、このキャラを、作者が、全然、使いこなせていないのです。 「とにかく、特徴を出す為に、変人にしてみました」というだけで、その変人ぶりが、物語の中身に、まるで噛み合って来ません。
こんな中途半端な探偵を創るくらいなら、バンコラン物にしてしまい、パリにいるバンコランに、電話でヒントを貰って、ジェフ・マールが犯人を逮捕する、という形にした方が、むしろ、収まりが良かったと思います。 パット・ロシターが、あまりにもパッとしないから、フェル博士が創られるわけですが、フェル博士も、探偵としてそんなに魅力があるわけではなく、カーという人が、特徴的なキャラを作り出すのが苦手であった事が、よく分かります。
≪死者のノック≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行 1993年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
高橋豊 訳
発表は、1958年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、19作目。 最終作の9年前ですから、もう、後期の作品ですな。 カーがイギリスからアメリカに戻った後に書かれたもので、事件の舞台もアメリカです。 フェル博士は、イギリス人なのですが、アメリカが舞台の話に登場する為に、わざわざ、大西洋を渡って来させられるわけで、歩くのもゼイゼイ言うほどの巨体なのに、ご苦労な事です。
アメリカの大学町が舞台。 体育館での悪戯事件が続いていたところへ、教授達が多く住む住宅地で、身持ちが悪いと噂されていた女が、自殺としか思えない密室状態で死んでいるのが発見され、彼女に関わっていた人物達が、疑心を残しつつも互いに庇い合う中、町に招待されていたフェル博士が、事件捜査に加わり、真相を明らかにする話。
推理小説草創期の作家、ウィルキー・コリンズが遺した書簡に記された、密室殺人のアイデアが絡んで来るのですが、ほんとに、そんな書簡があるのか、作者の創作なのか、本文を読んでいる限りでは分かりません。 トリックそのものは、物質的なもので、あっと驚くような意外性はないです。
本格推理物ですが、フーダニットの系列で、トリックの重要性は、そんなに高くないです。 カーは、フーダニットが、あまり得意ではないようで、登場人物が少ないせいか、消去法でも、犯人の大体の見当がついてしまいます。 そもそも、フーダニットは、読者を撹乱する為に、登場人物をうじゃうじゃ出しているのであって、推理しながら読んでも、まず当たりません。 その点、カーは、フェアに拘っているので、登場人物を増やす事に、抵抗があるのだと思います。
私は、カーの後期の推理物というと、≪月明かりの闇≫と≪仮面劇場の殺人≫しか読んでおらず、その二作は、もう、最終作とその一つ前ですから、終わりも終わりの方。 それらに比べると、この作品は、ずっと纏まりが良くて、物語として、面白いです。 つまり、この作品の後、どこかから、おかしくなって行くわけだ・・・。
ちょっと気にかかるのは、ラストで、犯人に対して、フェル博士や警察が取る態度でして、これは、法治社会では許される事ではありますまい。 被害者達が、どんなに悪党だろうと、人殺しはしていないのであって、犯人と、どちらの罪が重いかは、歴然としています。 大体、そこで、そういう処置をして、ごまかせたとしても、その後、殺人犯と分かっている人間と、普通に交際して暮らして行けるものですかね?
≪悪魔のひじの家≫
新樹社 1998年初版 1998年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
白須清美 訳
三島市立図書館の書庫に入っていた単行本。 購入された当初は、当然、開架にあったのだと思いますが、何年くらいで、書庫に移されるんですかね? 購入年が古くても、開架に残されている本もあるわけですが、貸し出し実績で、開架残留か、書庫行きが決まるんでしょうか? もっとも、借りる時には、出してもらえばいいのですから、不便というほどではなく、むしろ、書庫にあった方が、本の傷みは少ないと思います。
発表は、1965年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、21作目。 もう、晩年と言っていい時期に入っていますな。 H.Mシリーズの方は、とっくに終了していて、フェル博士シリーズだけが、本格推理作品として続いていたわけですが、この作品の後には、≪仮面劇場の殺人≫と、≪月明かりの闇≫の二作しか書かれていません。
イギリス南部、ハンプシャー州の海に突き出た、「悪魔のひじ」と呼ばれる土地に、「緑樹館」という屋敷があり、そこの当主と、勘当同然でアメリカへ行き、雑誌業で成功した長男が、ほぼ、同時期に病死する。 遺言により、緑樹館の財産は、長男の息子に遺されるが、彼は金には困っておらず、屋敷に住んでいる叔父に相続権を譲ろうとする。 その手続きの為に、長男の息子が、数十年ぶりに緑樹館を訪れると、幽霊の目撃談が出たり、叔父が密室内で空砲で撃たれたりと、奇妙な事件が続発する話。
晩期の作品にしては珍しく、最盛期の作品の雰囲気が感じられます。 逆に言うと、過去の作品の、キメラ的な焼き直しなのですが、≪仮面劇場の殺人≫や、≪月明かりの闇≫に比べれば、ずっと、カーらしく、読み易いです。 面白い・・・、とまでは言いませんけど。 肝心の密室の謎が、偶然に頼りすぎている点が、最も物足りないのですが、それはまあ、この作品に限った事ではありません。
土地の名前や、屋敷に纏わる伝説がおどろおどろしい割には、その事が、話の内容に深く関わっていません。 しかし、それも、この作品で始まった事ではなく、カー作品では、よくある事です。 とは言うものの、こういう庇い方は、客観的な評価をする上では、よくないでしょうなあ。 私も、半分、ファンになりかけていて、批評する資格を失いつつあるのかも知れません。
ちなみに、同じような問題点は、カーに多大な影響を受けた、横溝正史作品でも、よく見られます。 推理小説を、物語の流れや、練りに練った構想からではなく、人物相関、トリック、過去の因縁、舞台背景といった、個別のパーツを寄せ集める形で作ろうとすると、こうなりがちなのだと思います。
長男の息子というのが、軽口を叩く性格で、フェル博士を、哲学者達の名前で呼んだり、エリオット副警視長を、ホームズ物に出て来る刑事達の名前で呼んだり、無用な冗談ばかり言っているのが、鼻につきます。 こういうキャラは、≪月明かりの闇≫にも出て来ました。 読んでいて、不愉快以外の何物でもないです。 それなりの意図があって出しているキャラだという事は分かっていますが、作者の知識のひけらかしが混じっているのが、腹が立つ。
ちなみに、カー作品では、読者の癇に障るキャラが出て来ると、それは、大抵、犯人ではないです。 あくまで、大抵ですが。 しかし、必要以上に生意気な口を利く若い女性が出て来たら、それはもう、絶対、犯人ではありません。 「こいつが犯人であってくれればいいのに」と、読者に思わせる、罠なのです。 私は、毎回、引っかかっています。
≪弓弦城殺人事件≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1976年発行 1995年4刷
カーター・ディクスン 著
加島祥造 訳
三島市立図書館の書庫に入っていた文庫本。 発行19年目にして、4刷というのは、少しずつだけど、確実に売れていたという事でしょうかね。 カーの作品の中では、有名な方であるせいか、本が、そこそこ、くたびれていました。 だけど、三島図書館の本は、沼津図書館の本に比べて、全体的に、程度が良いです。 「これは、捨てた方がいいだろう」と、指先で抓みたくなるようなものがないですから。
発表は、1934年。 ノン・シリーズで、探偵役は、ジョン・ゴーントという、この作品だけに出てくる人物です。 カーター・ディクスン名義の作品では、探偵は、H.Mなのですが、ジョン・ゴーントは、その前身に当たります。 ただし、キャラは、全く似ておらず、むしろ、アンリ・バンコランに近いです。
「弓弦城」は、「きゅうげんじょう」と読みます。 原題は、「The Bowstring Murders」で、直訳すると、「弓弦殺人事件」。 舞台が、弓弦城だから、邦題をこうしたのでしょうが、殺害に弓弦が関与して来る事を考えると、直訳した方が、内容を正確に表現できたと思います。 ちなみに、ネット情報では、この作品、元は、「カー・ディクスン」という名義で発表されたとの事。 カーの名義の使い分けには、ややこしい事情があるので、ここでは書ききれません。 同一人物だという事だけ分かっていれば、充分。
甲冑や武具のコレクションで知られる貴族が住居にしている弓弦城で、当主と、若いメイドが相次いで殺される事件が起こり、当主が死んだ場所が密室状態だった事から、地元警察では手に負えないと見て、城に招かれていた、英国博物館の館長の知り合いである、犯罪学の権威、ジョン・ゴーントが呼ばれ、密室の謎を解く話。
密室物ですが、フーダニットでもあります。 カーのフーダニットは、登場人物が少ないから、消去法で、犯人の大体の目星がついてしまうという欠陥があるのは、他の作品と同じ。 それ以外にも、「よく喋る人物は、犯人ではない」、「利口ぶった、鼻に付く女は、犯人ではない」など、カー作品では、犯人の特定に、ヒントが結構あります。
密室トリックもそうですが、全体的に、キレが悪いです。 アリバイの突き合わせに、異様にページ数を割いたり、探偵役以外の者が、間違っているに決まっている推理を延々と語ったり、読者に、「時間を割いてまで、読む意味がないのでは?」と思わせる部分が、大変、多い。 思うに、辻褄合わせに、ああだこうだと、弄っている内に、作者自身、どんな話か分からなくなってしまったパターンではないでしょうか。
一口で言うと、つまらないのですよ。 この材料では、面白くなりようがないとでも言いましょうか。 ジョン・ゴーントのキャラが、パッとしないのも、大きなマイナスですねえ。 ディクスン・カー名義の方では、バンコランが使い難いから、フェル博士に変えたのに、こちらでは、まだ未練があったようで、「バンコランを、イギリス人にしただけ」みたいなのが、ゴーントなのです。
それにしても、カーは、古城が大好きだったようですな。 一体、何作品に出て来る事やら。 ところが、古城を舞台にした作品は、割合、面白くないものが多いのです。 読者の側に、城という建物に馴染みがないせいか、密室物に必須の、密室的雰囲気が、伝わって来ないからではないかと思います。 たぶん、カー本人に訊けば、「一度、古城を見に行けば分かる」と答えたと思いますが、推理小説を楽しむ為に、わざわざ、ヨーロッパまで行けませんぜ。
巻末に、ドナルド.E.イェイツという人が、解説がついているのですが、「誰、この人?」という感じでして、批評家なのかも知れませんが、外国の批評家なんて、普通、知りません。 しかも、この作品の解説ではなく、カーの解説でもなく、探偵小説全般の解説だから、「何、これ?」と思うなという方が無理です。 何でも、オマケに付ければいいってもんじゃないと思うのですがねえ。
≪九人と死で十人だ≫
世界探偵小説全集 26
国書刊行会 1999年
カーター・ディクスン 著
駒月雅子 訳
三島市立図書館の、開架にありました。 全集に入っているとは露知らず、見逃していた次第。 自分で気づいて良かった。 開架にあるのに、書庫から出してくれなんて頼んだら、顰蹙を買うところでした。 全集とは言っても、外見は、普通の単行本で、表紙絵も、一冊ずつ異なっています。
発表は、1940年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、11作目。 ≪かくして殺人へ≫の次で、どちらも、同じ年に発表されていますが、例によって、発表時期の近さと、内容の類似の相関は、認められません。 戦時中の発表で、この作品の場合、戦争を背景にした設定になっています。
1940年1月、軍需物資を積んで、アメリカからイギリスへ、大西洋を横断していた客船の中で、トルコ外交官夫人が、喉を切られて殺され、続いて、奇妙な行動ばかり取っていたフランス人大尉が、真夜中に銃で撃たれて、海へ転落する。 大尉が夫人を殺して、自殺したように見えたが、大尉は他の人間に撃たれたという証言が出る。 夫人の殺害現場に残されていた指紋は、乗船者の誰とも一致せず、幽霊による殺人ではないかと囁かれ始める中、たまたま乗船していたH.Mが、謎を解いて行く話。
作品名の、「九人と死で十人だ」ですが、内容を、まるで映していません。 特に、「十人」の部分が、何の関係もなくて、これは、「八人」とすべきなのではないでしょうか? もっとも、そうすると、読む前に、過剰なヒントを与えてしまう事になりますが。 一応、乗客は、九人という事になっていますが、人数そのものには、あまり、意味がないです。
密室物ではなく、指紋絡みの不可能犯罪物で、そちらは、それほど、面白いわけではありません。 「へえ、そうなの・・・」という感じで、一つ利口になったような気はするものの、驚くような事は、全くないです。 むしろ、フーダニットに分類すべきなのかも知れませんが、実は、犯人が嘘をついており、それを、読者が見抜くのは不可能です。 三人称だから、尚の事。 犯人に嘘をつかせる話では、別の人物の一人称で書いた方が、話がフェアになると思います。
客船上で起こる事件としては、1934年に、フェル博士シリーズで書かれた、≪盲目の理髪師≫がありますが、そちらは、ドタバタ喜劇。 こちらは、戦時中に、ナチス・ドイツの潜水艦が遊弋して海域を航海するわけで、緊張感が全然違います。 また、潜水艦警報というのがあって、それが、事件の推移にうまく取り入れられています。
ストーリー展開のテンポが良い分、細部の書き込みがあっさりし過ぎていて、ちょっと、軽さを感じるのですが、まあ、読み易いのはありがたいと、素直に認めます。 ただ、傑作とはとても言えませんし、佳作というのも、ちと、ためらわれます。 「つまらなくはない」という程度の評価しかできないのです。
巻末に、解説がついているのですが、この作品の解説ではなく、カーの怪奇趣味についての解説でして、この作品だけを楽しみたいのなら、蛇足です。 この作品にも、「幽霊」という言葉が出て来るものの、怪奇風味を感じるには程遠い、薄っぺらな味付けで、なぜまた、よりによって、そういう作品の巻末で、怪奇趣味論を語ろうとするのか、書き手の気が知れません。 まして、ネタバレを含むとなれば、邪魔でしかないです。
≪貴婦人として死す≫
創元推理文庫
東京創元社 2016年初版
カーター・ディクスン 著
高沢治 訳
私が三島図書館に通い始めた頃には、この本はなかったのですが、その後、購入されて、開架に置かれていたもの。 三島図書館には、同じ創元推理文庫の、1977年発行の旧版、≪貴婦人として死す≫もあるらしいのですが、「どうせ、読むなら、文字が大きい新版を」と思って、こちらにしました。 訳者も違う人ですが、二冊借りて、読み比べるほど、閑ではないです。
発表は、1943年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、14作目。 ≪メッキの神像≫の次の作品で、H.Mが、とことん、コミカルな存在として描かれている点では、明らかに、共通点があります。 ただし、話の中身は、文字通り、話が別。 戦時中発表の作品で、戦争の影響が、ラスト近くになって、話に関わって来ます。
海に面した断崖の近くに建つ家で、当主の妻と、車のセールスマンが、崖から身を投げて心中する事件が起こる。 浜へ流れ着いた遺体には、二人とも銃で心臓を撃ち抜かれた痕があり、全く別の所で銃が発見された事で、他殺の可能性が出て来るが、崖の上に残されていたのは、二人の足跡だけで、他殺とすれば、不可能犯罪になってしまう。 肖像画を描かせる為に、その町に滞在していたH.Mが、当初から事件に関っていた老医師と共に、謎を解いて行く話。
作品名の「貴婦人として死す」というのは、遺書に書かれていた文句なのですが、作品の中身を、まるで言い表していません。 このタイトルから、内容を想像していると、とんだ肩透かしを食らうので、要注意です。 そういうのは、カーの作品では、割とよくある事です。 タイトルのつけ方が下手なわけではないのですが、凝り過ぎて、奇妙なタイトルになってしまう事がある様子。
「Lady」を「貴婦人」とせずに、「淑女」にしておけば、「貴族絡みの話なのだろう」という誤解を避けられたと思うので、翻訳にも問題があると思います。 しかし、古典作品の場合、一度決まってしまったタイトルは、新訳でも、変更されない事が多いです。 ちなみに、原題は、「She Died a Lady」です。
タイトルはさておき、中身ですが、大変、面白いです。 これは、私個人的には、≪ユダの窓≫に次いで、二番目に面白かったカー作品ですな。 ただ、トップと、二番目の間は、かなり開いています。 不可能犯罪のトリックは、分かってしまえば、そんなに驚くようなものではないですが、明快な謎解きのお陰で、無理を感じさせません。
トリックも然る事ながら、ストーリーの流れが良くて、推理小説としてという以前に、物語として、非常によく出来ています。 このノリの良さは、コメディー小説では、よく見られるものですが、推理小説に取り入れる事ができるとは、ついぞ、知りませんでした。 コミカルな場面はありますが、≪盲目の理髪師≫のような、コメディーにはしておらず、根幹部分は、真面目な推理小説になっています。
全体の9割くらいが、老医師の手記という形で、一人称で語られるのですが、これが、いい効果を出していまして、「カー作品には、叙述トリックによるアンフェアは、存在しない」という前提が分かっていれば、語り手は嘘をついていないわけですから、その点は気にせずに、じっくりと、他の登場人物を疑いながら読む事ができます。
≪メッキの神像≫の感想で、H.Mの描き方が笑える点を誉めましたが、この作品では、もっと、極端になっていて、登場場面も、ローマ皇帝ネロに間違われる場面も、ギャグのナンセンス度が、半端ではありません。 カーは、よっぽど、コメディー映画が好きだったんでしょうねえ。 書かれてから、70年以上経っているのに、まだ、爆笑を誘うというのは、並大抵のレベルではありません。
惜しむらく、この文庫も、解説に、余計なものが付いています。 「結カー問答」という、ダジャレなんだか、他に意味があるんだか、考える気も起こらないタイトルがついた、会話体の文なのですが、高校の読書クラブの冊子じゃないんだから、こういう、レベルの低い文章を、公の出版物に載せないでもらいたいです。 この人、誰よ? 誰であっても、カー作品に対しては、単なる一読者でしょうが。
誰が、どこで、何を書こうが、かまやしませんが、海外作家の、古典作品の、しかも、傑作級の小説の巻末に書くのだけは、やめてください。 肝心の、本体部分まで、ケチがついたように、感じられてしまうからです。 そもそも、解説なんて、要らないというのよ。 どうしても、解説を付けなければいけないというなら、書き手を批評家に限定し、その作家の、その作品についての解説に限定して、書いてもらえば、まだ、読む価値があります。
今回は、以上、6冊までです。 6月下旬から、7月上旬にかけて読んだ本。 それにしても、カー作品の翻訳者というのは、ものの見事に、バラバラですな。 たぶん、翻訳が悪くて、原作の良さを損なってしまっているケースもあると思われ、できる事なら、一人の翻訳者に、全て訳してもらいもの。 しかし、長編ばかり、何十作もあると、そうもいかないんでしょうねえ。
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