2016/10/23

信念の連中

  自転車ブログ用に書いた文章ですが、そこそこの分量になってしまったので、こちらへも移植します。 基本的に、自転車に乗る人間の視点で書いているので、そのつもりで、読んで下さい。 中身は、あまり、ないですけど。 どうも、何かを書きたいという気持ちが湧き起こりません。 それは、前から、そうなんですが、減退する一方です。 




  沼津市内の交差点には、数年前から、「歩車分離式」の信号が出来始めました。 はっきり言って、最初の頃は、普通の信号と間違えて、車と一緒に発進してしまう事があり、極力、法規を守るつもりで、自転車を使っている私としては、心ならずも、赤信号で渡ってしまい、非常に、大変に、途轍もなく、残念な思いを、何回かさせられました。

  その後、歩車分離式の信号交差点が増えて来てからは、常に用心して、渡る前に確認するようになり、随分と慣れました。 しかし、相変わらず、歩車分離式が、普通の方式に比べて、特に優れているような気がしません。 「待ち時間が長くなるだけなんじゃないの?」という気がするのです。

  歩行者・自転車だけが渡れるパートがあるわけで、安全といえば安全ですが、「全ての信号交差点が、歩車分離式というわけではない」というのが、どこまで行っても、問題なのでして、普通の交差点だと思い込んでいるドライバーが、交差道路の信号が赤になったのだけ確認して、見切り発車でアクセルを踏んだら、歩行者・自転車を、いとも容易に撥ねてしまうのです。

  安全性が、特別に向上するわけではないのなら、正に、「待ち時間が長くなるだけ」でして、得がありません。 いや、別に、歩車分離式に、目くじら立てて反対しようという気はないですけど、換えるなら、すべての信号交差点を、一遍に、歩車分離式にした方がいいと思いますよ。 実際のところ、勘違いして走り出そうとする車がいない事を確認してから渡らなければならないから、緊張を強いられるんですわ。 「交通には、緊張があった方がいい」という意見を承知の上で言っているわけですが。


  いやいや、法規について、あれこれ批判するのが、目的ではないんですわ。 私ゃ、もう、人生の最終ステージに立っている人間でして、交通法規なんて、どーだっていーんです。 子孫もいないこったし、自分が死んだ後なら、宇宙が消滅しても、いっかな構わないと思っているくらいですから、人間が作った法規くらいが、なんぼのものかいな。 厳しかろうが、緩かろうが、好きにしとくんなまし。 といっても、あまり、厳しくなるようなら、自転車、やめますけど。

  そういや、自転車ブログで、法規について、あーだこーだと、独自の主義主張を開陳している野郎どもがいますが、ありゃあ、鬱陶しいですなあ。 一見、正論を述べているように見えて、その実、どいつもこいつも、自分に都合のいい事しか言っていないから、驚いてしまいます。 自転車ブログをやっているような奴らは、大抵、スポ自乗りで、体育会系だから、論理とか、全然分からんのでしょうなあ。

  何でもかんでも、好きなこと言いまくればいいってもんじゃないんだよ。 それで、大迷惑、被る人もいるんだから。 たとえば、子供乗せ自転車の賛否とか、てめーが乗ってもいねーくせして、ああすりゃいい、こうしなきゃいかんなんて、偉そうに提案するなってーのよ。 自分は乗ってないんだろう? 使用者の実感なんて、分からんではないか。 そんなに意見が言いたけりゃ、まず、自分で使ってみな。

  おっ、脱線してるな。 今回、本体部分が短いから、あまり、脱線すると、バランスが著しく悪くなってしまうぞ。 ハンドルを、戻さねば。


  で、その、歩車分離式の交差点なんですがね。 つい先日、信号待ちで、待ってたんですよ。 結構、交通量が多いところでした。 私以外にも、交差点の四隅に、全部で、5・6台の自転車と、歩行者も、一人二人いました。 そこへ、高校生らしい風体の男子が乗ったシティー・サイクルが、かなりのスピードで、歩道を走って来まして、車と同じ信号で、何のためらいもなく、渡ってしまったのです。 まー、どーしましょ。 待っている人達は、目が点ですわ。

  それだけなら、勘違いしたという可能性もあったのですが、次に、交差側の車の信号が青になったら、その学生、またもや、車と一緒に渡って行ったのです。 待っている面々といったら、目が点を通り越して、目がブラック・ホールですわ。 その学生の態度に、全く、悪びれたところとか、後ろめたそうなところがなく、堂々と渡って行ったのが、印象的でした。 思うに、そのガキ、自分のやっている事が、問題だとは、思っていなかったと思うんですわ。

  考えられる可能性としては、

≪信号方式に、全く興味がなく、歩車分離式という、普通の信号とは違う方式が存在する事を知らなかった≫
  ありそうな事です。 「そんな馬鹿な奴はいないだろう」と思うかも知れませんが、いやいやいや、いるんですよ。 底なしの馬鹿が。 特に、中・高生の場合、年齢的には社会人になりかけなわけですが、頭の中が子供のまんまで、社会の仕組みに対する認識が、異様に遅れる奴というのが、いるのです。


≪歩車分離式は知っていたが、特に守る必要はないと思っていた≫
  ありそうな事です。 「そんなアホな奴はいないだろう」と思うかも知れませんが、いやいやいや、いるんですよ。 天井知らずのアホが。 その学生、もし、曲がる車がいたら、あっさり、轢かれていたと思いますが、なにせ、アホじゃから、その可能性に思い至らないんですな。 「おお、構やせん。 轢かれろ轢かれろ」と、以前の私なら思ったはずですが、今や私は、車にも乗るので、こういうドアホウは、大変、困る。 死ぬなら、私のいない所で死んでくれ。

  「法規は知っているが、ケース・バイ・ケースで、どうしても守らなければいけないわけではない」と思っている人間は、存外多いようで、よく例として挙げられるのは、大阪の歩行者が、車がいなければ、赤信号でも歩き出すという話。 ある時、新聞の読者投稿欄に、「私は、赤信号でも、車がいなければ渡る事にしている。 何がいけないのか?」という趣旨の一文が載った事がありますが、法律違反を堂々と宣言する奴もさる事ながら、それを、傾聴に値する一意見として掲載した新聞にも呆れましたっけ。

  んじゃ、何か? 

「私は、人の持ち物でも、公共の場に置いてあれば、持って行く。 何がいけないのか?」

  も、アリか? そこまで行ってしまうと、

「私は、誰からも憎まれている人間であれば、ためわらず、殺害する。 何がいけないのか?」

  まで、ほとんど、距離がありませんな。 「法律とは、なぜ、必要なのか」まで、遡って説明しないといけないようです。 いや、たぶん、何を言っても、信念を曲げないだろうなあ。 刑務所に行っても、「私は、悪くない」と言い続けるんだろうねえ。 何でも、交通刑務所に入っているやつらなんて、みんな、そう思っているらしいですよ。

  信号を、ケース・バイ・ケースで無視する人に、老爺心の忠告ですが、馬鹿馬鹿しいようでも、信号は守っておいた方がいいと思いますよ。 ああいうのは、身に染み付く習慣ですから。 普段、車を確認している人でも、酔っている時や、体調が悪い時、精神的に落ち着かない時には、確認が疎かになる事もあります。 「赤信号なら、絶対に渡らない」という習慣がついていれば、そんな時でも、渡りませんが、「車がいなければ、赤でも渡る」という人が、車の確認をしなければ、スポーンと撥ねられてしまうのは、無理もない事ではありませんか。

  だけどねえ。 こんなこと言ったって、信念を持って、赤信号を渡っている連中は、聞く耳持たんのよ。 車が来ないのに、赤信号で待っている連中を、「馬鹿」だと思ってるんだから。 ほんとにホント、「馬ー鹿!」だと思ってんのよ。 それで、てめーが撥ねられてりゃ、世話ないわ。 命が助かれば、ほんとの馬鹿が誰だったのか、反省のしようもありますが、死んでしまえば、それにすら気づかず、一生を終えるわけです。


  そういや、歩車分離式信号の男子学生について、もう一つ、可能性がありました。

≪歩車分離式は知っているが、自転車は、車の方だと思っている≫
  おお、それは、大いに、ありそうだ! だーからよー。 「自転車は車両ですから、車道を走るのは当然です」とか何とか、紛らわしい事を、テレビで、自称・自転車専門家どもが言ってたもんだから、こういう勘違いをするボケナスが出て来るのよ。 この学生から、「自転車は、車じゃないんですか?」って、訊き返されたら、何て答えるのよ? えーおい、旦那方?

  だけど、こんなこと言ったって、信念を持って、間違った事を、堂々と実行している連中には、馬の耳に真珠なんだわ。 豚に小判なんだわ。 猫に念仏なんだわ。


  ところで、歩車分離式の信号って、歩行者・自転車のパートでは、斜めに横断してもいいんですかね? 車は、交差点内に、一切入って来ないわけだから、安全上は、問題ないと思いますが、スクランブル交差点ではないのだから、斜めに横断歩道や自転車横断帯は設けられていないわけで、悩んでしまうんですわ。

  私は、痛くもない腹を探られるのが嫌なので、二段階で渡ってますけど、堂々と、斜めに突っ切って行く人も、少なくありません。 特に、自転車は多いです。 どっちなんすか? これも、自転車法規お得意の、グレー・ゾーンなの?