2025/05/18

実話風小説 (40) 【ドヒヒヒヒ!】

  「実話風小説」の40作目です。 3月中旬の終わり頃に書いたもの。 闘病中のせいで、創作意欲全般に低調、というか、ほとんど、なくなってしまい、小説どころではなかったのですが、前から考えていたネタだったので、何とか、書き上げました。 しばらく経ってから、読み返してみたら、一応、話としての体裁は保っていたので、出す事にします。




【ドヒヒヒヒ!】

  M社は、メーカーで、専ら、冬に使う季節商品を作っている関係で、9月から、11月までは、繁忙期となる。 冬の初めに購入する客が多いので、12月に入ると、また、閑になる。 繁忙期には、販売を担っているS社から、期間限定の応援者がやって来る。 M社とS社は、互いに、最も大きな取引相手になっているが、資本関係にはない。

  M社の工場は、中小企業としては、大きな方であり、通常でも、200人規模の従業員が働いている。 繁忙期に、S社から来る応援者の数は、30人程度で、工場のあちこちの部署に散らして配属される。 そのほとんどが、自分の会社では、販売店で営業の仕事をしているので、工場の作業は素人であるが、毎年、応援に来ていて、作業に慣れきっている人もいる。

  A氏も、そんなベテラン応援者の一人だった。 仕事ぶりは安定しており、M社の従業員より熟達しているくらいだった。 こと仕事に関してだけは、使う側に不満は、全くなかった。 任せておけば、間違いのない仕事をしてくれるのだ。

  ただし、M社社員の間で、A氏の評判は、すこぶる悪かった。 毎年、9月に入り、A氏が応援にやって来ると、近くで働く事になる、M社の社員は、みな、げんなりしてしまうのだった。 その原因は、A氏の笑い方である。 休憩時間や昼休みに、休憩所で雑談をしていると、A氏は、よく笑った。 笑いのハードルが低くて、他人同士の会話や、自分に関係ない話題でも、笑い所があると、すぐに笑い声を上げた。

  A氏の笑い声は、カタカナでも、ひらがなでも、正確には書き表せない。 強いて、近い音を探せば、

「ドヒヒヒヒ!」

  に、なるだろうか。 実際には、もっと、遥かに、比較にならないほど、下品な響きなのだ。 人間の笑い声というより、何か得体の知れない動物の、鳴き声・・・、発情音・・・、そんな感じだろうか。 初めて聞くと、ギョッとする。 そして、何度 聞かされても、決して慣れる事はない。 聞くたびに、心臓を束子でこすられているような、おぞましい感覚を味わうのである。

  休憩時間は仕方がないとして、昼休みには、休憩所から避難する者が多かった。 中には、短時間とはいえ、昼寝したいと思っている者もいるわけだが、A氏の笑い声を聞かされたのでは、とても、眠っていられるものではない、 それどころか、跳ね起きる。 飛び起きる。 しかし、避難するといっても、よその部署の休憩所で、場所を占領して、昼寝するわけには行かない。 行き場がなくて、結局、A氏のいる休憩所に戻らざるを得なくなるのがオチだった。

「9月から11月の間だけ、職場を替えて欲しい」

  と言う社員が多かったが、上司である係長には、真面目にとってもらえなかった。 係長は、職制用の別の詰所で、休憩時間を過ごしており、A氏の笑い声を聞いた事がなかったのだ。 職場替えを言い出す社員が、妙に多いので、理由を訊いてみたが、はっきりした事を言わない。 それはそうだろう。 「応援者の笑い声が気持ち悪いから」では、大の大人が職場から逃げ出す理由にならないと、誰もが思っていたのだ。 A氏のせいで、上司から、「やる気のない奴」、「問題を起こす奴」のレッテルを貼られるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。

  しかし、無理はするものではない。 あまりの気持ち悪さに、体調を崩したり、精神に異常を来たす者が現れた。

「会社を辞めます・・・」

「おいおい!」

  そこまで追い詰められた者は、遠慮なく、A氏の笑い声の事を指摘した。 係長は、笑い飛ばした。

「正気か? その、Aさんの笑い声だけが原因で、会社を辞めるって言うのか? お前、仕事をナメてるんじゃないのか? 世の中、そんなに甘いもんじゃないぞ」

「そう言われるかもしれないと思って、今まで言わなかったんです。 でも、もう、限界です。 職場を替えてくれと言っても、駄目なんでしょう? それじゃあ、もう、辞めるしかないじゃないですか」

「もしかしたら、Aさんが、お前を笑い物にしているというのか?」

「そういう、話の内容の事ではありません。 笑い声そのものの問題なんです」

「下らん! 笑い声くらい、なんだ! そんなのは、人によって違うんだ。 個性の内じゃないか。 俺の立場で、Aさんに、笑い方を変えろなんて、言えるわけがないだろう!」

「分かっています。 だから、私が辞めると言っているんです」

  本当に、辞めてしまった。 会社に来なくなってしまったのだ。 少し先の事まで書くと、その社員、11月が過ぎたら、戻って来るかと思っていたが、他の就職先を見つけたから、退職手続きを進めてくれと言って来た。

  一人が辞めると、続く者が現れ、バタバタと、3人も辞めて行った。 係長は、うろたえた。 たかが笑い声で、こんな事態になるとは、どうしても思えなかった。 A氏の笑い声を聞いてみようと思ったが、A氏がいる休憩所に行ってみると、そういう時に限って、A氏は、笑わないのだった。 上司が来ていると、冗談も出難くなる。 理の当然か。

  係長は、残っている部下に命じて、A氏の笑い声を、こっそり、録音させた。 そこまで、やるか? やるのである。 4人も退職者を出しているのだから、当然である。 どうして、やらいでか。

  録音音声の中で、他の者が喋っている。

「5班のBさんって、毎日 食堂の売店でバナナ買って来て、昼休みに食ってるよな。 あの人、チンパンジーに似てるけど、そういう人が、バナナが大好きっていうのは、何となく、不思議だよなあ」

  それに対して、A氏の笑う声が続いた。

「ドヒ! ドヒヒヒヒ!」

  録音音声を聞いた係長の、全身の毛が逆立った。 なんだ、この、気味の悪い音は? これが、人間の笑い声だと? 何か、エアを使っている機械の間から、空気が勢いよく漏れて、音を立てているようではないか。 録音音声は続き、A氏の笑い声が、5回繰り返された。 そのたびに、係長の全身には、鳥肌が立ち、気持ちが悪くなって来た。 なるほど、これを毎日、何度となく聞かされたのでは、逃げ出したくもなるだろう。

  係長は、A氏をどうすればいいか分からず、課長に相談したが、最初は、やはり、笑い飛ばされた。 4人退職したと言っても、他の原因があるのだろうと言われてしまった。 録音音声を聞かせようとしても、真面目に取り合ってもらえなかった。 一週間後、5人目が辞めて、課長は、ようやく、録音音声を聞いてくれた。

「ドヒッ! ドヒッ! ドヒヒヒヒ!」

  普通、脂汗というのは、こめかみに、じっとりと浮かんで来るものだが、課長のこめかみからは、一気に、どっと噴き出した。 なんだ、この奇怪な音は? 妖怪でも出たのか? 思わず、係長に訊いてしまった。

「どこか、妖怪のテーマ・パークで、録音したのか?」

「まさか。 Aさんの笑い声です」

  これには、課長も、異常事態が発生している事を、認めないわけには行かなかった。 どうしていいか、判断し兼ねた。 A氏を、他の部署に異動させる事はできるが、その理由が思いつかない。 「笑い声が奇怪だから、よそへ回す」では、子供の言いわけである。 大体、どの部署へ行かせるというのだ? 押し付けられた方は、何が異動の理由か、A氏の何が問題か、すぐに気づくに違いない。 よーく、恨みを買ってしまうではないか。

  まだ、10月半ばだった。 A氏の応援期間が切れるまで、1ヵ月半もある。 その間に、M社の社員が、何人辞めて行くか分からない。 辞めた社員の穴を埋める形で、頑張ってもらっているのが、その原因になっているA氏、というのが、皮肉である。 しかし、A氏は、仕事の方は、実に有能で、二人分とまでは言わないが、1.5人分くらいの仕事は、こなしてしまうのだった。

  課長は、自分の詰所で、係長と、対策を真剣に検討した。

「Aさんを他の部署に回すのは、問題があるから、諦めるとして、あの笑い声をやめさせる方法はないものだろうか」

「いやあ。 ああいうのは、習慣と言うか、もっと、本能に近いものだから、直させるなんて、無理でしょう」

「習慣か・・・。 もし、君が何かの習慣を変えるとしたら、どんな事がきっかけになるね?」

「・・・・・。 そうですねえ。 その習慣のせいで、大きな失敗をした時とか・・・」

「笑い声で、大きな失敗というのは、想定し難いな」

「嫌っている人間から、その習慣の事をからかわれた時とか・・・」

「おっ! それは、効きそうだな。 誰か、Aさんと仲が悪い人間がいないか?」

「Aさんは、応援者ですからねえ。 うちの社員とは、そんなに深いつきあいをしていないから・・・、あっ!」

「どうした? いるのか?」

「今は、生産準備の方に行っているCですが、あいつ、以前、Aさんと同じ職場にいた時に、年上のAさんに向かって、生意気な口を利いて、Aさんから、『あんな奴、駄目だ!』なんて、言われてましたよ。 実際、Aさんに比べると、Cは、仕事の能力では、足元にも及ばなくて、Aさんを取るか、Cを取るかで、私が、Aさんを取ったわけですが」

「そのCに、因果を含めてみたらどうだろう。 都合のいい事に、退職者続出で、人手が足りないから、他の部署から、経験者を助っ人に呼んでも、不自然だと思われないだろう」

  早速、Cが呼ばれた。 仕事はテキトー。 性格も良くない。 酒好き、ギャンブル好き、女好きと、私生活も荒れていて、給料前借りの常習者。 そんな奴だが、そんなだからこそ、計略に後ろめたいニオイを嗅ぎ取ると、面白がって、ホイホイ乗って来るものである。

  Cは、A氏と同じ職場に戻った。 A氏は、当然、いい顔はしなかったが、そこは、大人。 Cを邪険にする事は控えていた。 Cが、あまり喋らなかったので、次第に、A氏の緊張が解けて来て、三日目には、あの笑い声が出るようになった。

「ドヒヒヒヒ!」

  すると、課長から指示されていたCが、すかさず、用意されていた台詞を口にした。

「Aさんの笑い声は、楽しいよなあ。 こんな笑い方する人、他にいないもんなあ。 俺は、Aさんの笑い方が大好きだよ。 これを聞く為に、戻って来たようなもんだなあ」

「ドヒッ・・・・・」

  A氏の顔が、引き攣った。 さらに、Cが畳み掛ける。 A氏の真似をして、殊更、下品に笑って見せた。

「ドヒヒヒ! 俺も、今日から、この笑い方で行こうっと。 ドヒ、ドヒ、ドヒヒヒ!!」

  A氏は、それ以降、笑わなくなった。 笑っても、「ドヒヒヒヒ!」とは、言わなくなった。 努力して、「わははは!」と、普通の笑い方をするようになった。 計略は、図に当たったのだ。


  応援期間が終わり、12月になって、A氏は、ホームのS社に帰ったが、ドヒヒ笑いをしなくなった事に、同僚達は、驚きを隠せなかった。 実は、S社でも、A氏の笑い方は、気味悪がられていたのだ。 ただ、S社内に於ける、A氏の地位が特殊で、毎日のように職場が変わっていたから、問題になっていなかっただけだった。

  実は、A氏、S社の創立メンバーの一人で、共同出資者でもあった。 何をやらせても、有能ではあったが、笑い方が気持ち悪かったせいで、疎まれ、罠にかけられて、冷や飯を食わされていたのだ。 総務部所属の、「対応室」という、よく分からない部署の室長にされて、上司なし、部下なし、人手が足りない部署が出来ると、そこへ助っ人に行く、という仕事を、もう、30年もしていた。 そんなだから、M者への応援要員にも、毎年、組み入れられてしまっていたのだが・・・。

  M社から戻って以来、ドヒヒ笑いをしなくなった事が知れると、A氏の評判は、急に良くなった。 元が有能な人物なのである。 笑い方だけが問題で、嫌がられていたのだ。 その原因が取り除かれたのだから、評価が上がらないわけがない。 あちこちの職場を経験していたから、どんな問題にも、的確な判断を下す事ができた。

  たまたま、S社の重役達が、贈賄事件を起こして、ごっそり退任する事になった。 株主総会で、社長が解雇を求められるという、大事件だった。 空席になった社長の席に、誰をすげるか、株主や役員の間で、後ろ暗い駆け引きが活発化した。 老齢で引退同然、名ばかりになっていた会長が出て来て、A氏の名前を挙げた。

「Aの奴なら、何とかしてくれるだろう」

  株主や役員は、A氏の名前など、聞いた事もなかった。

「誰やねん、それ? まあ、誰でもいいわ。 どうせ、ボンクラやろ。 そいつにしてまえ」

  S社の経営を傾けさせて、他の会社に吸収してしまおうと目論んでいた大株主が賛成し、A氏は、社長に担ぎ上げられた。

  A氏の経営手腕は未知数だったが、様々な部署を渡り歩いた分厚い経験値が物を言い、要所要所で、的確な判断を積み重ねて行った結果、S社の業績は、急回復した。 役員の一人が、感嘆して、こう言ったという。

「こんなに優秀な人物が、社内にいたなんて、全く知らなかった。 どうして、埋もれていたんだろう?」

  そりゃ、ドヒヒ笑いのせいですよ。 でも、そんな事が原因だったなんて、普通は、誰も思わないわなあ。

  勢いに乗ったS社は、俄かに潤沢になった資金力に任せて、取引先の会社を、次々と吸収合併して行った。 その中には、M社も含まれていた。 親会社の社長として、M社に現れ、全社員の前で挨拶を始めたA氏に、元応援先の職場の面々は、仰天した。 A氏を知る全員のこめかみから、脂汗が勢い良く噴き出した。

「ドヒヒの、Aさん・・・」

  例のCは、テキトーな理由をつけて、解雇された。 元から、いい加減な奴だったから、クビにする理由は、いくらでもあった。 そのCが、腹癒せに密告したので、係長と課長も、降格された。


  溜飲を下げたA氏は、御満悦。 もう、A氏に、何か意見を言える者はいない。 何でも思い通りにできると思うと、つい、昔の癖が蘇って来た。

  ある重要な取引の場で、相手の社長が、冗談を言った。 その場にいた、みんなが笑った。 A氏も笑った。

「ドヒヒヒヒ!!」

  他の人間の笑い声が止まった。 A氏を除く全員が、顔を歪めている。 「何か、途轍もなく、気持ちの悪い音声を耳にしてしまった。 一体、今のは、何だったのだ?」という顔である。


  ほどなく、S社が倒産したのは、A氏が、天狗になってしまい、周囲の空気を読まず、ドヒヒ笑いを続けたからだった。