素人百科事典
先日、新聞を読んでいたら、ネット百科事典≪ウィキペディア≫に関する記事が出ていました。 アメリカのある大学の教授が学生に対して、ウィキペディアから得た内容をレポートに使う事を禁止したというのです。 学生達が提出したレポートの中に同じ間違いがあり、原因を辿ったら、学生達が参考にしたウィキペディアの記事に行き当たったからだそうです。
ウィキペディアを利用している人は、日本にもうじゃうじゃいると思いますが、私は前々からあの、≪利用者が記事を書く百科事典≫というのは極めて危ないと思っていました。 百科事典の基本を理解していないからです。 世界史で習ったと思いますが、百科事典というのは、その時代最高の科学知識を集めた事典で、記事の書き手が当代随一の専門家であるからこそ価値が出る物です。 ウィキペディアでは、それを素人が書いているわけで、記事の内容に信用が置けないからです。
今私はちょっと抑えて書いていますが、腹を割ってぶっちゃけますと、「どこの馬鹿が書いたか分からない記事から得た知識など、糞の役にも立たないばかりか、100%有害でしかない」と思っておるのです。
ウィキペディアには、学者の執筆者もいるらしいですが、その人達がどういうつもりなのか、さっぱり分かりません。 最も良心的に考えれば、「素人だけに任せておいては誤まった知識が広まってしまうから、それを少しでも防ぐ為に専門家も加わった方がいい」と判断したのかもしれません。 しかし、この理屈は、「強盗団を悪党だけに任せておいたら犯罪を次から次に引き起こすから、自分も強盗団に入って犯罪を防ぐ」と言っているようなもので、解決の方法を根本的に間違えています。 強盗団は捕まえて罰を受けさせるしかないですし、ネット百科事典に対する専門家の態度は、その問題点を批判して、利用者に警告を与える事しかありません。
たとえ、執筆者の99%が専門家になったとしても、残りの1パーセントが素人であれば、それだけで、その百科事典の信用度はゼロになってしまいます。 なぜなら、どの記事が正しく、どの記事が誤まっているか、利用者には見分けがつかないからです。 毒薬が一粒混じっているキャンデーの缶を安心して食べ続ける人はいますまい。 たとえ 残りの全部が普通のキャンデーであっても、缶ごと捨てるしかないではありませんか。
≪利用者が記事を書く百科事典≫という発想は、いかにもネット時代的です。 「一部の専門家ではなく、様々な人間が加わって、大きな物を作り上げる、外に開かれたシステム」 こういう題目に共感する人は大変多い。 「普段誰にも認められない自分にも、世の中に何かを発信する事が出来る」と、ささやかな野望に酔いしれるわけですな。 しかし、それがこと百科事典の執筆となると、素人にししゃり出て来られては、非常に困るのです。
実際の所、ウィキペディアには、仰天するようないい加減な記事がうじゃうじゃ出ています。 特に、歴史や思想・哲学・文学など、文系の分野で、素人が勝手放題な自説を書き連ねているケースが非常に多い。 反論したり、異説を書き加える事も出来ますが、それを最終的に裁定する専門知識を持った監修者は存在しません。 監修者を置いてしまったら、≪利用者が記事を書く百科事典≫という特質を捨てる事になってしまうからです。 一つの項目に対して異なる説が二つ以上ある場合、どれを信用するかは利用者の判断に委ねられますが、そもそも、それが分からないから百科事典を紐解くのであって、複数の説の判定など出来るわけがありません。 そんな判定が出来るのは、専門家だけです。 ≪利用者が記事を書く百科事典≫という考え方そのものが矛盾を包含しているのです。
学問の世界というのは、民主主義とは全く相容れません。 「より多くの人間が支持した説が正しい説だ」という事にはならないのです。 天動説・地動説の問題などは典型例ですな。 コペルニクスやガリレオが地動説を主張していた頃には、ほとんどの人間が天動説の方を信じていたわけですが、だからといって、天動説が正しくはなかったわけです。 科学知識は徐々に解明されて行くという性質上、どの時代の百科事典にも、誤謬が含まれる危険性はあります。 しかし、専門家が書いた記事と、素人が書いた記事ではやはり信用度がまるで違うのです。 民主主義を百科事典の執筆に持ち込むのは、お門違いというものでしょう。
ヒトラーのセリフに、「嘘も百回言えば本当になる」というのがありました。 ≪利用者が記事を書く百科事典≫には、それに似た落し穴があります。 百人が嘘を書けばその場では本当になります。 それを利用して、わざと嘘を書いて、嘘を本当にしてしまおうと企んでいる者が相当いると思われます。 しかし、それは学問的な真実とは何の関係もありません。 嘘はどこまで行っても嘘だからです。
≪利用者が記事を書く百科事典≫は、ただただ嘘の知識を広め、世界を混乱させる事にしか寄与しないでしょう。
ウィキペディアを利用している人は、日本にもうじゃうじゃいると思いますが、私は前々からあの、≪利用者が記事を書く百科事典≫というのは極めて危ないと思っていました。 百科事典の基本を理解していないからです。 世界史で習ったと思いますが、百科事典というのは、その時代最高の科学知識を集めた事典で、記事の書き手が当代随一の専門家であるからこそ価値が出る物です。 ウィキペディアでは、それを素人が書いているわけで、記事の内容に信用が置けないからです。
今私はちょっと抑えて書いていますが、腹を割ってぶっちゃけますと、「どこの馬鹿が書いたか分からない記事から得た知識など、糞の役にも立たないばかりか、100%有害でしかない」と思っておるのです。
ウィキペディアには、学者の執筆者もいるらしいですが、その人達がどういうつもりなのか、さっぱり分かりません。 最も良心的に考えれば、「素人だけに任せておいては誤まった知識が広まってしまうから、それを少しでも防ぐ為に専門家も加わった方がいい」と判断したのかもしれません。 しかし、この理屈は、「強盗団を悪党だけに任せておいたら犯罪を次から次に引き起こすから、自分も強盗団に入って犯罪を防ぐ」と言っているようなもので、解決の方法を根本的に間違えています。 強盗団は捕まえて罰を受けさせるしかないですし、ネット百科事典に対する専門家の態度は、その問題点を批判して、利用者に警告を与える事しかありません。
たとえ、執筆者の99%が専門家になったとしても、残りの1パーセントが素人であれば、それだけで、その百科事典の信用度はゼロになってしまいます。 なぜなら、どの記事が正しく、どの記事が誤まっているか、利用者には見分けがつかないからです。 毒薬が一粒混じっているキャンデーの缶を安心して食べ続ける人はいますまい。 たとえ 残りの全部が普通のキャンデーであっても、缶ごと捨てるしかないではありませんか。
≪利用者が記事を書く百科事典≫という発想は、いかにもネット時代的です。 「一部の専門家ではなく、様々な人間が加わって、大きな物を作り上げる、外に開かれたシステム」 こういう題目に共感する人は大変多い。 「普段誰にも認められない自分にも、世の中に何かを発信する事が出来る」と、ささやかな野望に酔いしれるわけですな。 しかし、それがこと百科事典の執筆となると、素人にししゃり出て来られては、非常に困るのです。
実際の所、ウィキペディアには、仰天するようないい加減な記事がうじゃうじゃ出ています。 特に、歴史や思想・哲学・文学など、文系の分野で、素人が勝手放題な自説を書き連ねているケースが非常に多い。 反論したり、異説を書き加える事も出来ますが、それを最終的に裁定する専門知識を持った監修者は存在しません。 監修者を置いてしまったら、≪利用者が記事を書く百科事典≫という特質を捨てる事になってしまうからです。 一つの項目に対して異なる説が二つ以上ある場合、どれを信用するかは利用者の判断に委ねられますが、そもそも、それが分からないから百科事典を紐解くのであって、複数の説の判定など出来るわけがありません。 そんな判定が出来るのは、専門家だけです。 ≪利用者が記事を書く百科事典≫という考え方そのものが矛盾を包含しているのです。
学問の世界というのは、民主主義とは全く相容れません。 「より多くの人間が支持した説が正しい説だ」という事にはならないのです。 天動説・地動説の問題などは典型例ですな。 コペルニクスやガリレオが地動説を主張していた頃には、ほとんどの人間が天動説の方を信じていたわけですが、だからといって、天動説が正しくはなかったわけです。 科学知識は徐々に解明されて行くという性質上、どの時代の百科事典にも、誤謬が含まれる危険性はあります。 しかし、専門家が書いた記事と、素人が書いた記事ではやはり信用度がまるで違うのです。 民主主義を百科事典の執筆に持ち込むのは、お門違いというものでしょう。
ヒトラーのセリフに、「嘘も百回言えば本当になる」というのがありました。 ≪利用者が記事を書く百科事典≫には、それに似た落し穴があります。 百人が嘘を書けばその場では本当になります。 それを利用して、わざと嘘を書いて、嘘を本当にしてしまおうと企んでいる者が相当いると思われます。 しかし、それは学問的な真実とは何の関係もありません。 嘘はどこまで行っても嘘だからです。
≪利用者が記事を書く百科事典≫は、ただただ嘘の知識を広め、世界を混乱させる事にしか寄与しないでしょう。
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