2009/08/02

ネット交友の衰退

  ネット活動というのは、なぜ、やっている内に、つまらなくなるのでしょうか? 現実世界での趣味などと違い、カテゴリーは、ほぼ無限ですし、自動的に仲間も、ほぼ無限に見つけられるわけで、飽きる事などありえないはずなのに、実際には、すぐに行き詰ってしまいます。 なぜ、行き詰るのか、そのメカニズムが解明できれば、もっと有効な利用方法が見つかるかもしれません。

  個人サイトやブログを持ち、よそへの訪問も日常的に行なっているという風に、普通にネット活動をしている人達には、あまり意識されていませんが、私の勤め先の同僚の話などを聞くと、実は、誰も彼もがネット活動をしているわけではないようなのです。 「パソコンは持っているが、ネットはやらない」という人はさすがに減りましたが、「閲覧はするが、サイトやブログは持っていないし、よそへの書きこみも一切しない」という人が、少なからぬ割合で存在するようのです。

  「なぜ、書かないのか?」と訊くと、「文章を書くのが面倒臭いから」との答え。 それには、二つの意味があり、一つは、読書歴がほとんど無く、文章修行をした事も無いために、文が書けない、もしくは、書くのに苦痛を感じるというもの。 もう一つは、キーボードでの打ち込みが出来ないというもの。 この二つは段階的な関係にあり、文が書けないから、キーボードに向かっても何を書いていいか分からず、キーを打とうとしないので、いつまでたってもキーの位置を覚えられないのです。

  こういう人達に、「とにかく、雑誌や本の文章を写すだけでもいいから打ってみろ。 その内、慣れるから」などとアドバイスしても、全く無駄であるばかりか、ちょっとした拷問になってしまいます。 出来合いの文章を写すなど、自分で文が書ける人間ですら、大変な苦痛なのであって、まして、キーの位置も覚えていない者が、そんな単調退屈、疲れるだけの作業に耐えられるわけがありません。 ものの3分で飽きてしまうでしょう。 パソコンは遊ぶ為に買ったのですから、苦しんでまでやる必要はないというわけだ。

  アドバイスするなら、「まず、本を読め」から始めなければなりませんが、これも、ハードルを超えるのは大変です。 というか、大人になってから始めるのでは、ほぼ不可能でしょう。 私が本らしい本を読み始めたのは、小学6年生の時ですが、それですら読書人としては明らかに遅過ぎでした。 一年生くらいから、簡単なものを少しずつ読むようにして、習慣をつけておけばよかったと、悔やまれてなりません。

  成績の悪い人間ほど、頭の良し悪しを、天性の能力の差と思い込みがちですが、よく思い出してみれば分かる事で、小学校で良い成績を取っていた連中の共通点は、読書を習慣にしていた事なのです。 親や教師が教えられる事など、高が知れているのであって、本から得る知識量は桁違いなんですな。 読書量はダイレクトに知性の差になり、知性の差は成績の差になって、はっきり表れます。 小学校低学年・中学年の子供を持つ方々に一言申し上げますが、子供に成績の事で惨めな思いをさせたくなかったら、早めに本を読む習慣をつけさせる事ですな。 「読め」と言っても読みませんから、一緒に図書館に通って、親子で本を読むようにすれば宜しい。

  実際、図書館に行くと、そういう親子連れがうじゃうじゃいます。 私も、小学生の頃、母親に連れて行かれた経験があります。 父は新聞以外何も読まない人ですが、母の方は、目を悪くする前は、小説読みだったのです。 親が読書人なら、子供も自動的に読書人になるとは限りませんが、親が二人とも一切本を読まない場合、子供が読書人になる可能性は、非常に低くなります。 ちなみに、私の兄は、本を全く読みません。 中学の頃には、「読書感想文が書けない」といって、私に代筆させたほどです。 一応、大学まで行きましたが、学問好きには程遠く、単に学歴を得るためだけの進学でした。 まったく、うちの親も、兄に注ぎ込む金があったら、私を私立大学に送り込んでおけば、もそっと有用な使い道になったものを、馬鹿な選択をしたものです。

  だけどねえ、うちの兄に限らず、そういうタイプの人間はたくさんいるはずなんですよ。 本を読む習慣が無いのですから、知識の量は知れていますし、いつまでたっても、文章慣れしないから、自分でも文が書けません。 歳を取れば取るほど、頭は固くなりますから、大人になってから努力してどうにかなるというものではないのです。 中高年のピアノと同じですな。 真似事は出来ても、ものにはならないのです。 まとまった量の、論旨が整った文章を書けるという事は、一種の特技と言っていいと思います。 たぶん、ピアノで百曲弾けるのより、人生の役に立ちます。

  でねー、ネット上で、サイトやブログを運営し、書き込みも出来るというのは、誰にでも出来る事ではなく、そういう特技を持った人達の専売だと言うのですよ。 思いついた事や感じた事を、何の抵抗も無く、スイスイ文章に変換できるからこそ、お気楽に書き込みが出来るのであって、「いかん、何も思いつかん。 一体何を書けばいいんだ・・・」なんて、脂汗垂らして、頭を抱えながら取り組むような一大事業じゃないですわなあ。

  彼らと同じ気分を味わいたかったら、外国語で、外国のブログにコメントを打ってみれば宜しい。 最初の一回二回は面白いですが、その内、あまりの負担の大きさに、ギュウとこら押し潰されて、青菜に塩になるから。 いや~、外国語で書き込んだはいいが、返って来たレスが隠語だらけで、意味が全く分からないのには、参ったね。 ネットじゃ、日本人らしく笑ってごまかすわけにも行かないし、もう、退散する以外、選べる道が無かったものね。

  話を戻します。 「ケータイは生活の必需品」という人は多いですが、「パソコンは生活の必需品」という人は、それほどでもありません。 一度、ケータイを持った人は、99%以上が手放せなくなると思いますが、パソコンの場合は、事情がガラリと異なります。 使いこなせずに埃を被っているのはまだいい方で、目障りになって押入れ行き、客用布団より邪魔になって納戸行き、「壊れたら壊れたでいいや」と物置行き、「電源が入る内に売ってしまえ」と中古店行き、「古くなり過ぎて、値段がつかなくなった」とゴミ捨て場行き、といった按配で、ほとんど使わないまま、お払い箱にする人が、少なからずいるのです。

  インターネットが普及する前にも、パソコンは売られていて、ワープロ、表計算、CG作成、パソコン通信などに使われていたわけですが、その頃には、売れたパソコンの内、使われている物よりも、埃を被っている物の方が、確実に多かったくらいです。 当時、パソコンを買っていたのは、仕事の延長として使う人か、パソコン・オタクか、はたまた、金が余って使い道が無い連中に限られていました。 信じられない話ですが、今から見ると、オモチャ程度の能力しか無いパソコンに、30万円、50万円という、目を疑う値段がついていたものです。 そして、用途も無いのに、時代の雰囲気を感じたい一心で購入した連中が、たちまち飽きて、みんな粗大ゴミにしてしまったんですな。

  インターネット時代になって決定的に変わったのは、≪閲覧≫という利用方法が生まれた事です。 サイトやブログという形で、利用者がネット上に一種の家を構えるようになった為、訪問しあう事が出来るようになったわけです。 相手と話をしなくても、見ているだけで情報が得られるので、負担がぐっと軽くなり、前インターネット時代と比べて、パソコンの活用率はドーンと高くなりました。

  ちなみに、≪公共掲示板≫というのが、今でも盛んに使われていますが、あれは、ネットの利用形態としては、パソコン通信のそれに最も近い原初的なもので、お世辞にも洗練された利用方法とは言えません。 気の毒なのは、ネットを始めてイの一番に、公共掲示板へ行ってしまう人達です。 言葉の暴力が飛び交っている状況を、ネットの標準だと思い込んでしまう為、後々、個人サイトの掲示板やブログという世界がある事を知っても、公共掲示板での癖が抜けず、コミュニケーションに重大な支障を来たすようになります。 口論・冷やかし・罵倒・宣伝をルールだと思い込んでいるのですから、誰がそんな輩を歓迎したりするものですか。

  ネットを、「金を稼ぐ場所」だと見做している連中も救いようがない。 それでなくても、現実よりも胡散臭い世界で、みんな警戒しながらやっているというのに、詐欺の匂いがプンプンする宣伝なんかに引っ掛かると思うのかね? いいから、下らん思いつきは捨てて、現実世界で真面目に働けよ。 楽して儲かる方法があれば、みんな飛びつくから、あっという間にパイがなくなるんだよ。 そのくらいの仕組みは、社会に出て来る前に見抜けてなきゃ、長い人生、乗り越えて行けんぜ。

  まあ、そういう不逞の輩は対象外にするとして、善良なネット市民として、健全に活動している人達に話を絞りましょう。 冒頭に述べたように、健全な人達の中にも、文章を書く習慣が身についていない為に、閲覧以上の利用が出来ないケースが多くあるのです。 そして、ここが肝腎ですが、現実世界に於いては、そういう人達の方が、むしろ社会の主流だというんですな。 読書人なんて、マイナーなんですよ。 ネット上で会話に参加している人達は、ほぼ全員、読書人ですから、自分達が少数派である事に気付きません。

  でねー、では、その読書人達が、コミュニケーション能力に秀でているのかというと、それが、あなた、全っ然、違うんですな。 秀でているどころの話ではなく、まるっきり逆でして、現実世界では人と話なんか、ほっとんどしないっつー人達ばかりなんですよ。 社交が苦手で、本の世界に逃避している連中ですから、無理も無いといえば、無理も無い。 他人との接触といえば、挨拶くらいが関の山で、ちょっとした世間話でも、「早く終わらないかなあ・・・・」と泣きそうな顔をしている始末。 ほとんど、病気。 現実世界で、平均的な市民として、コミュニケーションの主役を担っているのは、読書人ではない人達なんですな。

  さて、ここで、一つのジレンマに突き当たります。 ネット上に於いては、文が書ける人間はコミュニケーションが下手で、コミュニケーションがうまい人達は文が書けないのです。 なぜ、ネット交友が長続きしないか、その理由が何となく掴めそうですな。 書ける人達の中でも、まともな方々と、異常な糞野郎どもとに分けられるわけですが、まともな方々であっても、決して、コミュニケーションが得意なわけではないのです。

  ネットでは同じ趣味の人同士が集まるので、最初の内は、「あ、この世界なら友達ができるかもしれない」と興奮して、いささか躁病的にネット活動に熱中しますが、ちょっと衝突などがあって、嫌な思いをさせられると、元が他人嫌いですから、一気に夢から覚めてしまいます。 繊細な心の持ち主ほど、全面撤退が早い。 結果、性格が良い人は減り、悪い人だけが残る事になりますが、性格が悪い同士で話をすれば、険々するなという方が無理な相談で、長続きする道理がありません。

  ネットという世界では、コミュニケーションは、原理的に衰退する運命にあるんですな。 個人サイトの掲示板が衰えて、ブログのコメントに、コミュニケーションの中心地が移って行った理由は、短い文を書くだけでも会話が成立するようにして、掲示板では書き込みが出来なかった階層を一部取り込んだからだと思われますが、見ての通り、ちょっとレベルを落としただけで、読むに耐えないような稚拙なコメント文ばかりになってしまいました。 挨拶言葉だけとか、自分のブログを宣伝する為だけのコメント文が溢れていますが、ああいうのは、何も書いていないのと同じでしょう。

  とまあ、今回の探求はここまでにします。 コミュニケーションの衰退がネットの原理的宿命だとしても、何かしら突破口があるのではないかと、ただ今、模索中です。