2009/06/21

書きゃいいってもんじゃ

  ここの所、このブログの文章が長過ぎるような気がしてなりません。 最初、個人サイトのコラムとして書き始めた時は、一回せいぜい50行くらいの短いものだったのに、いつの間にか、「行数を書かなければ、内容が薄くなってしまう」という強迫観念に取り付かれ、どんどん長くなってしまいました。 短い物なら、ネタはいくらでもあるのですが、ある程度の長さを確保する事が前提になると、テーマ選択の幅が限られ、回を追うごとに苦しくなる一方です。 所詮、一人の人間の頭の中から出ている物なので、やはり、限界はあります。

  世には、≪ブロガー≫と呼ばれている閑人達がいるそうで、時事ニュース・ネタを中心に、毎日のように長い文章を更新しているらしいですが、まあ、そういう連中をあんまり買い被らない方がいいですな。 それこそ、他人の書いた文章をパクりでもしない限り、ネタが続くわけがないのです。 一人の人間がいちどきに興味を持てる対象は限られていますし、そのテーマについて一文を物せるほど考えを深めるとなれば、時間的な制約も出て来ます。 テレビのニュース番組で、ポッと思いつきの戯言を並べている、キチガイ・コメンテーターのレベルまで落ちなければ、連日の更新なんて出来るわけがないではありませんか。

  新聞に載っている、記者が書いたと思われるコラムや論説記事を読むと、個人の能力の限界がよく顕われていて面白いです。 署名記事の名前をチェックしつつ読んでいると、同じ人が類似したテーマについて書いた物は、みんな同じような内容になっています。 具体的に言うと、エコ関係の記事なんか、毎回毎回、おんなし事ばっかり! 手帳に、≪正≫の字を書いて、何回同じ事を書いたか、記録しておいた方がいいんじゃないの? ≪水戸黄門≫の再放送より尚くどい。

  「馬鹿抜かせ! 同じテーマで書くとなれば、似たような内容になるのは、当たり前じゃないか! 同じ人間なんだから、そのつど意見が違っていたら、その方がおかしいだろう!」 うむ、確かにその通り! でもねえ、新聞は何の為にあるかっつったら、読者に読ませる為にあるんでしょう? 言わば、読者が主人なわけだ。 その読者側から見れば、同じような内容の文章を何回も読まされたら、「なんだ、この人、また同じこと書いてるよ」と、うんざりするなっつーほーが無理ですぜ。

  「じゃ、どーしろっつーねん?」 だからー、新聞は複数の人間で作っているのが最大の武器なんだから、手分けすりゃえーでしょう。 大丈夫! 同じ新聞社内で、同じテーマで書いても、書き手が違えば、かなり違った内容になります。 どうせ、今日日の一般向け新聞は、同じ紙面に正反対の意見が掲載されても、全く頓着しない傾向がありますから、読者の方も訝ったりしないでしょう。 少なくとも、同じ人の書いた同じ内容の文章を何度も読まされるよりは宜しい。

  しかし、つくづく思うんですが、新聞社として統一した主張が無いのであれば、記者がコラムや論説を書く意味は、かなり薄いですな。 記事以外の文章は、全て外部の専門家に任せてしまった方が、客観的な新聞になるのではありますまいか。 今の新聞に載っている文章で、真面目に全部読んでみようと思うのは、そういう本物の識者の書いたものだけですからのう。 記者という、≪オールラウンド素人≫の意見より、専門家の意見の方に含蓄があるのは、記者達自身も認めるのに吝かではないでしょう。

  ≪ニューヨーク・タイムス≫の≪Op-Ed欄≫みたいに、外部の人間にどんどん書かせりゃいいのよ。 自分の文章を新聞に載せて欲しい人はうじゃうじゃいますから、原稿料もかかりません。 記者の役割は、どの文章を載せるかを選ぶ事に特化すればいいではありませんか。 その方がずっと、読者の新聞社に対する尊敬度は上がると思います。 自分自身が前面に出て、あまり読者と親しみ過ぎるより、帳の向こうで高尚な議論をして、掲載する文書を選んでいるイメージの方が、どう考えてもかっこいい。

  いっそ、あの、≪社説≫という枠も廃止した方が、サバサバすると喪います。 ありゃ、コラム・論説どころの話ではなく、本当に、枠の中に文字を埋めているだけの、中身スッカラカン文章だものねえ。 中学・高校では、今でも教師達が、「世の中の流れを知る為に、新聞の社説をよく読むように」などと教えているんでしょうが、それでなくても活字離れが甚だしい昨今の学生に、新聞の一番中身が薄い所を薦めてどうすんねん? 大方、馬鹿教師ども、自分自身がコラム式の文章を書いた経験が無いものだから、社説程度の内容でも、大した文章だと思い込んで、ありがたがって拝んでおるのでしょう。 馬鹿か? よく、読み比べてみろっつーのよ。 社説にゃ、当たり障りの無いこと以外、一文字だって書いてないから。

  そういや、≪特派員コラム≫の低劣化には、困ったものですなあ。 特派員コラムというのは、国際面の隅っこに、枠で括って出ている短文で、その新聞社から外国へ派遣された記者が送ってくるものです。 私は、高校の頃は、特派員コラムが大好きで、毎日、首っ引きで読んでました。 今と違って、インターネットが無い頃でしたし、テレビの外国紹介番組では歴史・文化など、総括的な情報しか得られなかったので、時事的な情報や、現地で生活している者にしか分からない裏話が載る新聞の特派員報告は、宝の山だったのです。

  それが、どーだい、今の特派員は? 特派員という仕事を、「その国の欠点を探し出して、本社に報告する事」と履き違えているとしか思えません。 そりゃ、悪いところだけ探せば、どんな国にも悪い点はありますよ。 気に入らないとなれば、人々の顔つきも気に喰わない、言葉は雑音にしか聞こえない、街の匂いが臭くて息をするのも嫌になる、一歩歩くごとに体が腐るようだ、ってな具合に、悪い事だらけになってしまいます。 だけどねえ、外国から日本に来た人も、みんな、そう思ってるんだよ。

  温泉旅館に連れて行かれ、入りたくもないのに、小汚い風呂にぶち込まれて、全身に鳥肌立ててるんだ。 土足厳禁で強制的にスリッパに履き替えさせられるのも恐ろしい。 なんで、わざわざ高い金出して外国に来て、水虫うつされにゃならんのだ? 「日本料理の代表だから」と言って、必ず寿司を食わせようとするが、中国人は火が通っていない物を食べないという事を知ってるか? 欧米人が餡子が食えないのを知らずに、「おいしいですよ」と鯛焼きやドラ焼きを押し付けてないか? 中仏伊など、美食文化圏から来た人間を捕まえて、無理やり生ものを食わせるのはよせ。 拷問以外の何ものでもない。 刺身は、≪食べ物≫ではあるが、≪料理≫ではない。 そのくらいは分かるよな?

  とまあ、そんな具合に、日本に来た外国人も、習慣の違いを我慢しているわけだ。 いいか、文化というのは、民族によって、地域によって、みんな違うんだ。 違うからこそ価値がある。 ≪多文化主義≫という言葉を、聞いた事さえ無いのか? いやしくも、日本の全国紙の特派員たるもの、国で言えば、大使と同じだ。 大使が、派遣先の国の欠点ばかり口にしていて、仕事になるか? そんな馬鹿がいたら、すぐ召還だ。 大方、社会派を気取って、「この国の問題点を観察するのが、自分の仕事だ」と勘違いしこまし、せっせと送っている記事が、差別表現そのものになっているとは、思いもしないのだろう。 知性が欠けているにもほどがある。 お前らみたいに、外国に嫌悪感しか抱いていない人間ばかりになったら、世界はおしまいだわ。

  中には、「イスラム圏で、酒を飲む所が無い」だの、「テレビの映りが悪い」だのと、現地生活に於ける単なる個人的不満を並べただけの、最低の文章もあり、書いて送る奴も送る奴なら、そんな駄文を新聞に載せる奴も載せる奴だと、心底ほとほと呆れ果てます。 今は、もうネット時代で、外国の情報は、個人が直接手に入れられるようになり、特派員コラムの存在意義は薄くなりました。 もう廃止してしまってもいいんじゃないかと思います。 どうせ、読んだって、悪口でなければ、知ってるような事ばかりで、全然面白くないし。


  おや、ブロガーを扱き下ろすつもりで書き始めたのに、いつの間にか、新聞記者への攻撃になってしまいましたな。 しかし、文章の書き手として、新聞記者とブロガーの、どっちがマシかと言ったら、新聞記者の方が、ずっとマシです。 決定的な違いは、文章を公開する前に、他人が目を通す事。 ほとんど意見が違わないような相手であっても、他人の視点によるチェックは、やはり有効なのです。 「そんな事より、素人と記者では、知っている情報の量が違うだろう」と思うかもしれませんが、そんな事はありません。 記者といっても、自分で取材した事以外は、すべて、人から聞いた事、もしくは、他人が書いた物を読んで得た情報なのであって、その点で、素人と根本的には違いはありません。

  記者とブロガーの比較よりも、もっと、はっきり区別すべきなのは、書き手が専門知識を持っているか、持っていないか、その点でしょうな。 専門家が書いた文章と、新聞記者やブロガーが書いた文章では、信用度に桁違いの差があります。 これは、自分が詳しい分野の事について、自分よりもよく知らないと思われる他人が書いた文章を読むと、非常によく分かります。 「うわ、こいつ、いい加減な事を書いてるなあ。 いいのかよ、こんな大嘘を公開しちゃって・・・」と、背筋が寒くなる事が、ネット上ではしばしばあります。

  またまた、少々脱線しますが、≪教えて、○○≫系統の、質問掲示板でも、凄まじい光景が繰り広げられていますなあ。 専門的な知識を元に、的確な回答を寄せている人もいれば、徒手空拳というか無手勝流というか、質問の内容さえ理解していないと思われる、まるっきり的外れな答えや、誰でも分かるような当然以前の事を書いて、それが回答になると思っているらしい馬鹿もいます。 ほんっとに馬鹿だな。 別に、ご指名で答えてくれって言っているわけじゃないんだから、知らなきゃ何も書かなきゃいいのに、何で自分から恥を掻きにしゃしゃり出て来るかね? 分かるか? 馬鹿だと思われてるんだよ、おまえは! 質問者は勿論、そこを覗いたすべての人間から、「この馬鹿が・・・」と、嘲られているんだ。 悪い事は言わんから、何にでも首を突っ込みたがるな。 パソコンを押入れにしまって、布団被って寝てろ。 そうすりゃ、誰もお前を馬鹿にしたりはしない。


  つくづく思いますが、インターネットというのは、文系の人間にとって、両刃の剣なのかも知れませんなあ。 昔は、日記でしか書けなかったような事が、今では個人サイトやブログで、世間に公開する事が出来る。 自分自身が、執筆者であると同時に、校正者でもあり、編集者でもある。 書きたいテーマがありさえすれば、思うが侭に、どんな文章でも発表できます。 しかし、一方で、その文章に他人様に読んで貰えるほどの価値があるかどうかというと、大いに疑問です。

  そもそも、情報源のほとんどを、テレビ・新聞・雑誌など、既存のメディアから得ていて、自分で経験した事でもなければ、個人的な友人・知人から聞いた事でさえないのです。 新聞に書いてあった事を、そのままブログに書き写しても、何の意味も無いのは、言うまでもありません。 既存メディアから得た情報に関して、自分の意見を述べるという形なら、オリジナリティーが成立しますが、実際には、他人の意見をパクっている者の方が、圧倒的に多いです。 つまり、「私は、この人と同意見です」と言っているだけなのであって、それなら何も自分で文章を書かなくても、他人のブログへコメントを打っていた方がいいでしょう。

  簡単に自分の文章を公開できると思うから、一応文を書く能力がある文系人間が飛びつく。 しかし、大切なのは、書く事そのものではなく、文章の内容でしょう。 特に、コメント投稿やメール・アドレスをオープンにしていて、他人につっ込まれる可能性がある場合、自分が専門知識を持っている分野以外は、一切書かないというくらい警戒した方がいいと思います。 生半可な知識で、いい加減な事を書いていると、豺狼の如き下司どもに、すぐに吊るし上げられてしまいます。

  最後に、中学・高校生から大学生までを含めた、学生諸君に一言。 世の中に対する考えが固まらない内に、ブロガーなんぞには、絶対手を出してはいけませんよ。 一度書いてしまった事は、取り消せないですから、最悪の場合、一生、自分の叩いた軽口に苦しめられる事になります。 犬が西向きゃ尾は東な事ですが、知らない事は知らないのであって、知らない事について文章が書けるはずがないのです。 知らないのに書けるとしたら、それは嘘だけであり、「こいつは、嘘でも平気で書く」と思われたら、もう誰も相手にしてくれません。

  嘘を書く気が無くても、間違った事を書いてしまう事はあります。 学生時代には分かりませんが、社会人になれば、世の中の仕組みが、それまでとは全く違って見えて来ます。 学生時代に自信満々でブログに書いていた事が、間違っていた事に気付くケースも少なくありません。 いくら、世の中で話題になっているといっても、学生が年金問題について書くのは、無理があるでしょう? そういうものです。 環境問題など、いかにも食いつく学生が多そうですが、自分が車に乗り始めたり、電気製品を買う側に回ると、考え方が120度くらい変わる事がありますから、あまり調子に乗って大人を攻撃し過ぎない方がいいです。

  誰も、あなた方のブログ・デビューなど急かしていないのですから、ゆっくりと構えて、知識を蓄える一方、世間の観察を深める事です。 どうしても、学生の内にブログを始めたいのなら、自分の意見を控え目にした、日記のような物の方が無難でしょう。 身の周りの出来事を書くだけなら、他人につっ込まれる隙が生まれないからです。 一度、手ひどく突っ込まれて、傷つくと、二度と文章を書く気にならなくなる事もあるので、用心の上に用心を重ねるべきです。 他人は怖ぇぞ~。