2010/01/10

放狼忌

突然ですが、学者でも研究者でも、保護活動家でも、動物関係者には、変な人が多いです。 思い込んだら命懸けというか、手段の目的化を起こし易いというか、自分が人間である事を忘れているというか、傍から見ていて異常としか思えない行動や言動をとります。

  変といえば、ペットショップの店長や獣医などにも、何か違和感を覚える人格の持ち主が多いです。 動物を物体としてしか見ていない、異様なドライさを感じます。 しかし、こちらは、金が絡んでいるという点で、ほぼ説明がつきます。 彼らにとって動物は、物体というより、商品なんですな。

  畜産農家や養殖漁業者の動物観もこれに近いですが、殺して出荷する事を前提に動物を飼育しているので、商品視の程度は、更に高いと思われます。 彼らは、動物を育てている間は、確かに愛情を注ぎますが、最終的には殺すのをためらわない、ドライな割り切りも持ち合わせています。

  これが、収奪漁業者や猟師の類になると、その動物観は、「獲物」以外のなにものでもありません。 彼らが口にする、「動物の命に感謝を忘れない」などという尤もらしいセリフを真に受けるのは愚かの極みでして、感謝するくらい相手に配慮しているなら、そもそも殺そうとは思わないはずです。 自分の生業の後ろめたさを言葉で粉飾しようとせず、素直に、「金になるから殺すんだ」と言えばいいのですよ。 その上で、「買う奴らがいるから獲るんだ。 批判するなら肉を食うな。 皮製品も買うな」と消費者に全責任を押し付けてやれば宜しい。 その方が、無理強引な正当化より、ずっと正直に生きられます。

  更に、ハンターと呼ばれる人種に至ると、もはや、金すら絡んでこない、ただの鉄砲遊びになります。 遊びで殺される動物はたまったものではありませんが、ハンター達にしてみれば、動物の意思なんぞ想像した事もないのであって、シカもクマも、イノシシもウサギも、ダーツの的と何ら区別がつきません。 ただ、皮肉な事に、このハンター達が、猟を遊びでやっているからこそ、山の動物達は辛うじて生き延びているのであって、もし商売で殺していたら、ウサギより大型の鳥獣は、一種残らず、とっくに絶滅しているでしょう。

  いきなり脱線しかけているので、話を戻しますが、なんで、「動物関係者には、変な人が多い」などと言い出したかというと、最近、二冊の本を読んで、つくづく、それを思い知らされたからです。 まず、先に読んだのが、↓こちら。



≪オオカミを放つ≫
  新聞やテレビでも時折紹介されますが、外国のオオカミを日本の山に放って、生物環境の食物連鎖を、在来オオカミ絶滅前の状態に戻そうという計画があります。 この本は、それを提案している≪日本オオカミ協会≫のメンバーによる共著です。 主張している内容は、

・ 日本全国でシカが増え過ぎて、植物が食い荒らされている。 シカを人為的に減らすには、射殺や捕殺が有効だが、猟師やハンターの数が減っているため、シカの増加に歯止めがかけられない。

・ シカが増えた原因は、シカを食べる肉食獣がいなくなったためである。 シカを捕食するのは、主にオオカミだが、在来のオオカミは絶滅してしまった。 そこで、外国のオオカミを導入して、日本の山に放ち、生態系を復元すべきである。

・ ニホンオオカミと外国のオオカミは、同一種内の亜種関係にあり、本来同じものであるから、マングースやアライグマのような外来生物の問題は起きない。

・ オオカミが危険な猛獣だというのは童話などで広められたイメージによる誤解であり、人間を襲う事はない。 家畜を襲う事はあるが、日本では畜産農家が少ないので、欧米やモンゴルのような大きな被害にはならない。

  というもの。 この本だけ読んでいると、「なるほど、オオカミ導入は、やってみる価値のある計画だな」と思わされます。 しかし、反対意見があるという事も聞いていたので、公平を期すために、そちらも読んでみる事にしました。 それが、↓この本。



≪ニホンオオカミは生きている≫
  これは、今から十年ほど前に、九州の祖母山で、ニホンオオカミらしき動物を目撃し、鮮明な写真を撮る事に成功した人物が書いたもの。 その動物がニホンオオカミである事を学界に認めて貰うために、様々な資料や専門家の意見を集め、証明を試みた奮闘記です。 この本の最大の魅力は、その動物を撮った10枚ほどの写真でして、そのページを開くと、正に、「食い入るように見る」状態になります。

  こちらが主張している意見は、

・ この写真の動物がニホンオオカミである可能性は極めて高い。 確実に証明するには、捕獲して頭骨を取り出すしかなく、それは不可能だが、さりとて、否定するだけの証拠も無い。

・ 「絶滅した」とされた後に目撃された事例が、この写真の他にも何件かあり、ニホンオオカミは生きている可能性が高い。

・ ニホンオオカミは、外国のオオカミとは明らかに異なる形態上の特徴を持っている。

・ 外国オオカミの日本への導入は、細々と生き残っているニホンオオカミを本当に絶滅させてしまう恐れがある。

・ 外国オオカミ導入を議論する前に、ニホンオオカミの生息状況について、行政の力で徹底した調査を実施し、生存が確認されたら、保護を行なうべきである。

  といったもの。 この本の文面には、≪日本オオカミ協会≫への燃え盛る対抗心がありありと見て取れて、鬼気迫るものさえ感じますが、「外国オオカミを放たれたら、ニホンオオカミはおしまいだ」という危機感が強烈なためでしょう。

  ああ、ちょっと紛らわしいので、断っておきますが、≪日本オオカミ協会≫というのは、「日本の、オオカミ協会」という意味で、「ニホンオオカミの、協会」ではありません。 ≪日本オオカミ協会≫は、最初から、「ニホンオオカミは、すでに絶滅している」という見方をしており、だからこそ、外国オオカミを連れて来ようという発想が出て来たわけです。 ちなみに、≪ニホンオオカミは生きている≫の方の著者は、≪オオカミ党≫というグループを作っているそうです。 


  でねー、この二冊、続けて読んだわけですよ。 両方に目を通しておいて応じ合せでして、もし一方だけ読んでいたら、そちらの主張に手も無く釣り込まれて、入会もしくは入党しているところでした。 危ない危ない。 双方の意見を直接聴かなければ、公平な裁定はできないのだという事がよーく分かりましたよ。 居住まいをただし、客観的視点に立って、双方の言い分を比べて、改めて抱いたのは、「こんな争いには、首を突っ込まないのが一番だな」という感想です。

  論点が直接には噛みあっておらず、分かり難いので、まずちょっと整理してみましょう。 ≪放つ≫の方の計画は、「ニホンオオカミは絶滅した」という事を前提にしています。 それに対し、≪生きている≫の方は、「絶滅していない」と言っているのですから、≪放つ≫の計画の前提を崩している事になります。

  単純に考えれば、前提を崩されてしまった≪放つ≫側の負けのようですが、そうは問屋が卸さないのであって、≪生きている≫側は、写真と目撃証言以外に、生きている事を証明する根拠が無く、学界や行政を動かすほどの説得力を持っていないのです。 ≪放つ≫側は、そもそも、その写真をニホンオオカミだと認めていないのであって、≪オオカミを放つ≫の本の中でも、≪ニホンオオカミ生存説≫に対しては、反対意見を述べる事さえせず、無視を決め込んでいます。

  じゃあ、≪放つ≫側が優勢なのかというと、そうでもないのであって、著者達自身も認めているように、「いつまでたっても、外国オオカミを放す事に対する、世間の理解が深まらない」と嘆いています。 それねえ、無理も無いですよ。 かなり極端で軽薄な性格である私ですら、その計画について最初に新聞で読んだ時には、「なんだか、子供の思いつきみたいな話だな」と思ったくらいですから。

  ≪放つ≫側の人達が、この計画を実行してみたいと思う気持ちは、私にも分かるのです。 シカの食害問題の解決という表向きの目的は別にして、「日本の山にオオカミが戻って来る」と思うと、何となくワクワクしますよね。 一度思いついたら、取り止める事が出来ないような、大きなロマンを感じます。 アメリカの≪イエローストーン国立公園≫で、カナダからオオカミを移住させた例があり、そこそこ順調に成果を上げているらしいので、必ずしも突飛な発想ではないわけで、おそらく日本でも、実行すれば、シカ害を減らすのには効果を表わす事でしょう。

  ≪放つ≫側の人達は、世間の無理解の最大の原因は、「オオカミは危険な動物だ」と見做す誤解にあると分析しているようで、それを解こうと、非常に多くのページ数を割いています。 確かに、オオカミ猛獣視はあると思います。 ちょうど、ツキノワグマに対する見方と同じですな。 ただ、もしそれだけなら、オオカミが人を襲わない事を地道に説得していけば、いずれ理解はされると思います。 実際に、襲わないわけですから。 ペットとして、イヌを飼う家庭がどんどん増えていますから、イヌ科の最近縁種、というか、≪野生のイヌ≫と言ってもいいオオカミに興味を持つ人も確実に増えているはずで、正しい知識が広まる素地は着々と固まりつつあります。

  だけどねえ、ニホンオオカミが生き残っている可能性があるとなれば、全然話は別ですわ。 こりゃもう、確実な証拠なんぞ不要にくらいでして、ただその可能性があるというだけでも、「外国オオカミの導入なんて以ての外だ!」という事になってしまうでしょう。 ニホンオオカミと外国オオカミを、「単なる亜種関係であり、種としては同じものだ」などと、軽く片付けてしまっている点も、≪放つ≫側の失策でして、この種の問題に興味を持つ人ほど、亜種の違いがそんな簡単に無視できる要素でない事に、すぐ気付きますから、「重大な事を、大した問題ではないかのように見せ掛けている」と取られると、「この連中、世間を騙そうとしているのではないか?」という疑念が生まれやすいです。

  ここで、奇妙に感じるのは、≪放つ≫側がなぜ、ニホンオオカミが生きている事を歓迎しようとしないのかという点です。 オオカミを放すのは、確かにロマンですが、ニホンオオカミが生きているというのも、それに勝るとも劣らないロマンなのであって、そちらには、なぜ興味を示さないのか? 「たとえ、ニホンオオカミが生き残っていても、全国に満遍なく増えて、シカを捕食してくれなければ意味が無い」と考えているのか? しかし、シカの駆除と、ニホンオオカミの生存のどちらが重要かと言えば、そりゃもう、ニホンオオカミの方が遥かに重要でしょうに。 農林業関係者が、「シカを駆除する方が大事だ」と言うのなら分かりますが、≪放つ≫側の面々は、みな生物関係の学者・研究者なのであって、希少種保護の重要性が分からないわけではありますまい。


  さて、では、私が、≪生きている≫側に全面的に共感しているのかというと、そうでもないのです。 この著者は、当人自ら、「在野の研究者」と言っていますが、それは別に問題ないとしても、元教員で、校長まで勤め、教えていた専門は英語、趣味で鳥類の研究をしていて、オオカミ研究を本格的に始めたのは、ニホンオオカミを目撃・撮影する少し前だったという、その経歴がちょっと中途半端なのです。 「若い頃からオオカミ一筋!」とまでは言いませんが、せめて哺乳類の専門家だったら、だいぶ説得力が違って来たでしょう。

  専門家でないために、写真の動物の鑑定を、日本の哺乳類研究の第一人者という学者に依頼しているのですが、この学者さんが、当人も認める高齢者でして、「間違いなくニホンオオカミだ」と断言する一方で、「尻尾の先が丸くなっているのがニホンオオカミの特徴だったとは、今まで気付かなかった」などとも漏らしており、「おいおい、大丈夫か、この第一人者?」と、読んでいる方は、否が応でも不安の霧に包まれてしまいます。 この学者だけでなく、ニホンオオカミという種の特定自体が、非常にあやふやな基盤の上に乗っているらしく、シーボルトが送った標本を持っているライデン博物館の研究者などは、「シーボルトの標本も、写真の動物も、オオカミではなく、野化犬だと思う」と言い出す始末。

  シーボルトの標本は、ニホンオオカミの標準になっている物で、それがオオカミでないという事になったら、ニホンオオカミという種がいたかどうかすら怪しくなって来ます。 ニホンオオカミの問題について調べた事がある人なら、必ず見聞きした事があると思いますが、日本の古い文献では、≪狼≫と≪山犬≫の呼称が混乱しています。 単なる別名だという人もいれば、両者は別の種であるという人もいて、定説が成立していません。

  さらに、「オオカミとイヌは、DNA鑑定で区別する事ができないほど近い」などと言われると、もはや、「オオカミというのは、一体、何なんだ?」と、疑念の対象が根源的な所まで後退してしまいます。 ちなみに、オオカミとイヌは交雑が可能なので、≪種≫の定義によっては、同一種内の亜種関係にあると言う事も不可能ではありません。 実際、ヨーロッパの学者の間では、「イヌはオオカミが家畜化したものに過ぎない」と見做されているのだとか。 オオカミ全般についてすら、このあやふやさですから、絶望的なまでに残存資料が少ないニホンオオカミに至っては、科学的な検証に耐える基盤ができていないのです。

  ただ、だからといって、「ニホンオオカミなどという種はいなかった」と断言する事はできません。 ましてや、「ニホンオオカミという種はいなかったのだから、現在も生き残っているはずはなく、外国オオカミを導入しても問題はない」という事には、ますますなりません。 もし、日本にオオカミがいなかったのだとしたら、≪放つ≫側が言う、「オオカミの復活」という主張は、成立しなくなります。 また、ニホンオオカミが単なる野化犬であれば、わざわざ外国オオカミを導入しなくても、イヌはいくらでもいるのですから、日本犬を山に放って野化すれば、それで良いという事になります。 あああ、何から何まで、あやふやだ!


  さて、この本の著者、フィールド調査重視で、退職後、ありあまる時間を活用して、泊り込みで山中を渉猟しているそうですが、使命感を伴う趣味に全力を注ぎ込める生活には、大いに羨ましさを感じる反面、やり過ぎの感も否めません。 こうと頻繁にテリトリーに入ってこられては、ニホンオオカミがいたとしても、逃げて行ってしまうのではないでしょうか。 ≪生きている≫側としては、生きている証拠例を積み重ねなければならないわけで、その為には、山で調査せざるを得ないのですが、オオカミにしてみれば、執拗な調査者の存在は、生活の障碍以外の何ものでもありません。

  この人一人ならまだいいですが、≪生きている≫側の賛同者が増え、「俺も俺も」と全国の山へ分け入って行ったら、そのせいで、ニホンオオカミの棲める空間は失われてしまいます。 ほら、そう思うと、共感するにも限度があるでしょう? 実際、この本を読んで、「自分も近くの山を調査してみよう」と思い立った人が相当いると思うのですが、それがニホンオオカミの生存にとって、いい結果を齎すとはとても思えません。


  当人達は否定するでしょうが、≪放つ≫側と≪生きている≫側、どちらも、オオカミの事を考えているというより、自分の人生の価値を高めようとしているだけに見えるのです。 ≪放つ≫側は、「日本にオオカミを復活させた」という業績が欲しい。 ≪生きている≫側は、「ニホンオオカミの生存を証明した」という業績が欲しい。 活動の動機は、それだけはないと思いますが、あとは、どちらも同程度の、ロマンの追求といったところじゃないでしょうか。 良かれと思って悪くしている点は、どちらも変わりません。


  「では、どうすればいいのか?」というと、私個人の哲学で言わせて貰えば、何もしないのが最善の道だと思います。 ニホンオオカミの生存調査はしない。 そして、外国オオカミの導入もしない。 もちろん、山でニホンオオカミらしき動物を見かけても、追いかけたり、殺したりしない。 マスコミや学者に通報もしない。 ないない尽くしで押し通すのです。

  ≪生きている≫側は、「生存を確認した上で、行政による保護を」と言っていますが、私ねえ、日本の政治家や官僚が、保護区を設けるほど、ニホンオオカミの保護に力を入れてくれるとは、到底思えないのですよ。 日本では、山といっても、必ず誰かの所有物です。 国公有地ならともかく、私有地では、立ち入り禁止とか難しいでしょう。 登山道がある場合、それも閉鎖した方がいいですが、登山者が、「はい、そうですか」と納得するとは思えません。 また、立ち入り禁止にするには、フェンスや鉄条網などで境界を仕切らなければ徹底が難しいですが、その境界が動物の移動を制約して、却って絶滅種を増やしてしまう危険性もあります。

  「ないない尽くしでは、保護しているとは言えない」と言いますか? いや、それでいいんですよ。 自然というのは、人間に保護されて存在するものではないのですから。 自然はもはや、人間が戦う対象ではありませんが、だからといって、保護する対象かといえば、それも違うと思います。 人間が保護したら、それはもう自然ではなく、人工的な存在になってしまいます。 戦うのではなく、保護するのでもなく、接触しないという第三の選択が、今後、人間が自然に対して取れる、最も結果が悪くならない道だと思うのです。

  でも、こんな事言っても、どちらの側も、自分達の活動を、絶対やめないだろうねえ。 だって、ライフワークにしてるんだものねえ。 やれやれ、結局、人類が滅亡して、本来の意味で自然が回復して来るのを待つしかないのか。 大きなスパンで見れば、次の氷河期が来れば、日本列島は大陸と氷続きになりますから、否が応でも外国オオカミが渡って来て、山野を覆い尽くす事になります。 そして、また、氷河期が過ぎれば、住みついた外国オオカミが日本列島の固有種になって、新たなニホンオオカミが出現するわけです。 人間の時間感覚で見ているから、醜い争いが起こるのであって、地学的時間で見れば、「この世はなべて事もなし」なんですな。