2009/11/15

はず

  以前は使っていたけど、今はやめてしまった文字使いというのがあります。 ああ、公的な話ではなく、あくまで、私個人の習慣としてです。 ある時、ふっと気がついて、「おやおや! この漢字の使い方はおかしいんじゃないか?」と思ってしまうと、それ以降、もう使えなくなってしまうのです。 今回は、その一つを紹介しましょう。 それは何かと言いますと、

 ≪筈≫

  「はず」ですな。 「そんなはずは無い!」とか言う時に、以前は当然のように、「そんな筈は無い!」と書いていました。 子供の頃に読んだ本か漫画のどれかに、そういう使い方がしてあったのでしょう。 それが、≪三つ子の魂百まで≫で、ずーーっと、それでいいもんだと思って、使い続けて来たわけです。 まず、極力、字数を減らしたいという気持ちがあり、加えて、「はず」の前後には、必ず平仮名が来るので、適度に漢字を挟んで読み易くしたいが為に、「筈」を重宝していたというわけ。

  ところが、あーた、ある時、気づいてしまったわけですよ。 「筈」といいう字に、竹冠が付いている事に! そんな一目瞭然な事に、何十年も気付かないというのも、相当なボンクラですが、たぶん、私だけでなく、「筈」が竹冠な事に何の疑問も抱いた事が無い人達は、無数にいる事でしょう。 竹冠が付いていると、どうなのかというと、つまり、この字は、「はず」のような概念的名詞を指しているのではなく、何か竹に関係がある、実体のある物を表わす名詞だという事なのです。 で、調べてみたら、やっぱりそうでした。

  ≪弓筈≫と≪矢筈≫の二つの意味があるのですが、≪弓筈≫というのが、弓の両端の、弦を掛ける所の事、≪矢筈≫というのは、矢の後端の、弦を挟み込む所の事を指すのだそうです。 そして、≪矢筈≫の方から派生して、「矢と弦がぴったり合う事から、≪道理≫の意」になり、それが、「はず」の語源になったらしいのです。 しかし、凄いこじつけもあったもんですな。 「筈はぴったり合う。 道理もぴったり合う。 だから、≪はず≫を≪道理≫の意味で使ってもいいだろう」という発想ができるのは、頭の病を患っている方々だけなんじゃないでしょうか。 ああ、頭の病ではなく、心の病か。 いや、まあ、似たようなもんだわな。

  で、つま・りだ、「筈」は、火を見るよりも明らかな、≪当て字≫だったわけですな。 私ねえ、当て字、嫌いなんですよ。 遊びとしては好きですが、真面目に自分の意見を述べたい文章で、当て字を使う事には抵抗があるのです。 ああ、そんな事、知らなければ良かったなあ。 なまじ知ってしまったばっかりに、「筈」という字が使えなくなってしまいました。 私だけじゃない、今ここで、「筈」が当て字である事を知ったあなた! あなたも、きっと、もう使えませんよ。 何てったって、当て字ですぜ。 笑っちゃうでしょうが。 「とにかく」を「兎に角」と書くのと同次元なんですぜ。 大の大人が、そんな小っ恥かしい事、できるもんですかい。

  ああ、そうそう、ついでだから触れておきますが、語源というやつ、あまり当てになりません。 というか、いい加減な知識を広める罪を犯したくなかったら、語源と名の付くものは、一切信じない方が無難です。 この世の中には、語源事典などという、とんでもない代物もあるわけですが、全項目、間違っている可能性すらあります。 問題は、編者が何を頼りに、語源を調べているかなんでよすよ。 調べなければ分かりっこないわけですが、調べている人は、過去の文献を頼りにしているわけで、その文献が間違っていたら、もうアウトです。 そして、語源に関する文献のいい加減さは、歴史の異聞どころの話ではありません。

  いい加減な資料を元に、編者の空想回路をフル回転させてこじつけ倒したのが、語源事典なのだと思っていれば、まず間違いないです。 話半分どころか、話一厘の信憑性もありますまい。 また、語源事典を見て、「○○の語源は、△△ですから」なんて、偉そうに薀蓄垂れてる奴らが多いんだわ。 語源事典そのものが信用できない事に、なぜ思い至らぬ?

  ちなみに、語源はそのいい加減さ故に、異説がうようよあります。 たとえ二つでも、異説が並立している時点で、どちらが正しいか判定不能だと思うのですが、なぜか、自信を持って片方を信じ込む人が多い。 傾向として、最初に聞いた説を信じ、後から耳にした説を受け付けない人が、大変多い。 物事を客観的に見れない、偏見を持った人だと、自分に都合のいい説の方を信じる人が、もう物凄く多い。 そして、そういう人達が、またいい加減な語源を伝え広めていくわけです。


  「はず」に話を戻しましょう。 「筈」という字は忘れるとして、そもそも、「はず」という言葉は、一体、どういう意味なんでしょうねえ? 意味が分かれば、もっと適当な漢字が見つかるかもしれません。 「道理」と互換性があるか見てみますと、「そんなはずは無い」を「そんな道理は無い」と言い換えても、全く同じ意味にはならないものの、何となく通じそうです。 一方、「彼は今日の午後、来るはずだ」の場合、「彼は今日の午後、来る道理だ」にすると、もう全然通じなくなります。

  どうやら、「はず」には、二通りの意味があって、一つは、「道理」とほぼ同じ意味、もう一つは、名詞では言い換えが利かない意味のようです。 それは何かと言うと、「~に違いない」という意味なんですな。 高校や大学くらいのレベルの英語で、「はず」が含まれた日本語を英訳しようとして、はたと手が止まり、「≪はず≫って、一体、何なんだ?」と、哲学的迷路に引き込まれてしまった方も、ちらほらいる事でしょう。 「はず」が名詞なので、同じ意味の英語の名詞を探すわけですが、たぶん、絶対見つからないと思います。 だって、無いんだもん。 名詞で探すから無いのよ。 「~に違いない」という意味なんですから、助動詞の「must」を使えば、いとも容易に訳せるじゃありませんか。

  「~に違いない」は、「きっと、~だ」とも、ほぼ同じ意味なので、副詞句の「be sure to」で訳してもいいと思います。 私は、≪自信のある推量相≫と呼んでますが、この相は、言語によって、表わし方が違うんですな。 ちなみに、中国語では、「~に違いない」は、助動詞「応該」、「きっと」は、副詞「一定」で、「はず」に当たる名詞はありません。

  も一つ、ちなみに、≪自信の無い推量相≫というのもありまして、「~かもしれない」が、それです。 英語では、助動詞「may」や、副詞「maybe」、中国語では、助動詞「可能」や、副詞「也許」などを使います。 日本語で、「~かもしれない」の副詞というと、「たぶん」になってしまいますかねえ。 「たぶん」は、自信があるのか無いのか、少々微妙ですけど。


  とまあ、そんなところですな。 中国人が日本語の文章を目にした時に、「筈」という字がちょこちょこ出て来て、さぞかし、違和感を覚えておる事でしょうなあ。 中国語では、「kuo\」と読んで、「矢筈」の意味しかありません。 というか、現代では、弓矢自体を使いませんから、この字を知らない人の方が多いかもしれません。