2009/10/11

人間の価値

  これを読んでいるのは、もちろん人間の方達であるわけで、こういう事を書いていいのかどうか、今ひとつ自信がありませんが、他にネタもないので、書いてしまいましょう。 実は、ここ最近、人間に価値を感じられなくて困っているのです。 特定個人ではなく、特定団体でもなく、特定カテゴリーに属する人達でもなく、人類全てに対して、価値があると思えなくなってしまいました。 「大した価値はない」ではなく、価値そのものがない。 更に言えば、マイナス価値がある。 つまり、「存在しない方がいいのでは?」とさえ思うのです。

  こういう事を考える時に、少々ややこしいのは、人間の価値を決めているのも、人間だという点です。 「人間に価値はある」と考えている人は、一定の価値の基準を持っていて、それに照らし合わせて、人間をプラス評価しているわけですが、その基準は、≪人類の主観≫に過ぎません。 三段論法で言いますと、「○○には価値がある」、「人間は○○をしている」、「故に、人間には価値がある」というわけですが、そもそも、○○の価値を決めているのが人間なわけですから、もし○○に価値が無かったら、人間そのものにも価値が無い事になります。

  この半年ばかり、動物関連の本ばかり読んでいるのですが、動物の生きる目的というのは、非常にシンプルで、常日頃、念頭にあるのは、二つの事だけらしいです。

一、食べる事。
二、子供を作る事。

  三を強いて挙げれば、捕食者から身を守る事を付け加えられない事もないですが、それはあくまで、捕食者の方が襲って来るから、已むを得ず、逃げたり隠れたり戦ったりするのであって、彼らが好んでしているわけではありません。

  どうです、この、すっきり簡潔な生き様。 他の事を一切考えてないんですよ。 それでも、自分の存在に疑問を抱いたりせずに、ちゃんと一生を生き抜く事ができるのです。 彼らにとって生きている一瞬一瞬が、価値そのものなのであって、言わば、存在価値が毛皮着て歩いているようなものなのです。

  犬を飼っている人なら、家人が帰宅した時などに犬が尻尾を勢いよく振る様子を思い浮かべてみれば、彼らの歓喜の情が全く思考を介していない事がよく分かると思います。 犬は、「今、僕は幸せだ!」なんて、考えちゃいません。 そう考える事によって、歓びを感じ取ろうなんて、迂遠な事はしません。 尻尾を振って飼い主に飛びついている時、彼らの存在は歓喜と一体化しているのです。

  それに引き換え、人間の感性の、救いようもなく鈍い事よ。 何なんじゃ、お前らは。 というか、当然、その中には私自身も含まれますから、こう言うべきでしょうか。 何なんじゃ、俺らは? 感性が優れているから、様々な事に興味を抱くのではなく、感性が鈍いから、生きているだけでは満足できずに、闇雲に貪欲になっているのではありますまいか。

  一体、何が不満で、日々、悶々と暮らしているんですかねえ。 本来なら、生きているだけで、充分満足できるはずなんですよ。 なんてったって、生物は、生きる為に生きているわけですから。 現に生きていれば、もうそれ以上求める事などありますまい。 ところが、「生きているだけで幸せ」なんて人間は、まーず見当たりません。 悶々悶々、「なんで、もっと幸せになれないんだろう?」と嘆きながら暮らしています。

  たとえば、物欲ですが、私は生来ドケチで、遊びに金を使う時には、渋りに渋る方ですが、それでも、部屋の中は、今までの人生で買い集めたガラクタでいっぱいです。 もちろん、買った時にはガラクタではなく、「人生に潤いを与えてくれる必須アイテム」だったわけですが、自分がそれを十二分に活用できない事が分かった瞬間から、ガラクタに変身したわけですな。 しかも、物を捨てられない性分なので、溜まる溜まる。 押入れや天袋に入りきらず、天井裏まで占拠しています。

  時間が経てば、何の価値もなくなってしまう、いや、場所を取るだけで、マイナス価値になってしまうのは分かっているのですから、最初から、そんな物買わなきゃよかったのです。 馬鹿だねー。 でも、買う前には、「それさえ手に入れれば、薔薇色の日々が待っている」と思い込んでいたのですから、しょうがなかったのです。 それでも、私なんぞは浪費が少ない方でしょう。 収集癖のある人達なんざ、金をドブに捨てる為に生きているようなものです。 どんなに素晴らしいコレクションでも、当人が死ねば、ほとんどがゴミとして処分されるのですから。

  物欲以外の他の事も、みんな同じではないかと思うのです。 本来、価値が無い事に、執着しているだけなんじゃないでしょうか。 仕事に全精力を傾けている人はたくさんいると思いますが、定年退職したり、失業したりすると、まるで長い夢から覚めたかのように、価値観が180度変わってしまうそうです。 出世や高給など、それまで、何よりも大切にして来た事に価値を感じなくなってしまい、自分自身の存在意義もリセットし直さなければならなくなります。 そして、そのリセットがうまく行かず、見る間に老け込んで、数年もしない内に世を去る元企業戦士がいかに多い事か。

  「仕事が生き甲斐」という人は、仕事から離れれば、つまり生き甲斐がなくなるわけで、死んだも同然になるのは理の当然ですな。 何事も、あんまり、エネルギーを傾注し過ぎない事です。 「ふん! お前が仕事ができない負け組だから、そんな事を言うんだろう。 勤め人になったら、死に物狂いで仕事をして、出世を目指すのは当たり前じゃないか!」と熱く語っているあなた。 あなたのような人が、定年後、すぐ死ぬんですわ。 だって、他にする事無いんでしょう? 自他共に認める、価値ゼロ人間になるわけだ。 もう、あの世へ行くしかねーじゃん。

  定年過ぎてから、慌てて趣味に走ったって駄目よ。 趣味というのは、付け焼刃でできるもんじゃないのよ。 大人になってからの趣味なんて、どれもこれも、3ヶ月で飽きます。 子供の頃からやっている人達に敵うわけがないのであって、平均レベルにすら到達しない事が分かると、大人の理性が働いてしまって、スパスパ諦めてしまうのです。 無駄無駄! 道具を揃えるのに金を吸い込まれるばっかで、何一つ、物にならないのは、やる前から分かっています。

「いや、俺は企業戦士だったが、趣味も楽しんでいた。 それはゴルフだ! 定年後は、毎日ゴルフを・・・・」

  馬鹿か、お前。 年金暮らしで、ゴルフができると思ってんのか? 大体、誰と回る気だ? 元同僚なんか、連絡も取れなくなるんだぞ。 元部下に至っては、「忙しいから、もう電話して来ないで下さい」と引導渡されるのが関の山。 「こんなはずじゃなかったのに・・・」? いや、そんなはずだったんだよ。 お前が、考え足らずで、気がつかなかっただけで。

「女房と山歩きを・・・・」

  ああ、滑落して死ぬまではな。 若い者でも、登山は危険なのに、どうして、歳をとってからできると思うのか、そこが不思議です。 平地を散歩するだけだって、膝の関節がガクガク言っている人が、百名山巡り? 身の程を知りなさい。 山奥で倒れたあんたを背負って下りるのは、赤の他人なんだぜ。

「世界旅行に・・・・」

  だーからよー、金に限りがあるのに、どーして、そんな計画が立てられるのよ? 大体、どんなにゆっくり回ったって、一年もすれば戻って来ちゃうじゃないの。 その後は、どうやって過ごすねん?

「孫と遊んで・・・・」

  孫は、いつまでも幼児じゃないよ。 何年、あんたの相手をしてくれるかねえ。

  面白いけど、キリが無いから、定年オヤジの吊るし上げはこのくらいにしておきますか。 そもそも、没頭できる趣味を見つけられれば、それに価値が出るというわけではなく、趣味自体が個人の心の慰みや暇潰しに過ぎないのですから、他人から見れば、やはり無価値です。

  では、現役で仕事をしている人間には価値があるのかというと、以前なら、ありました。 あると見做されていました。 ところが、エコ時代に入ってから、それが怪しくなって来ました。 価値感が変化して、昔のプラス価値が、マイナス価値に転換してしまったのです。 ちょっと考えれば分かる事ですが、バリバリ仕事をすれば、それだけ、エネルギーを使うわけで、当然、エコには逆行します。

  具体的事例を挙げてみましょう。 毎日、定時間で帰る者と、残業3時間やる者がいたとします。 昔なら、後者の方が、「社員の鏡。 模範的社会人」と賞賛されたわけですが、エコ的に見れば、前者の方が遥かに貢献度が高く、後者は、電気代は使う、紙は使う、余分に飲み食いはする、で、地球環境の敵以外の何者でもありません。 ちなみに、私は、これを皮肉でも何でもなく、糞真面目に言っています。

  かつて、生産効率の高い工場は、世界的に高い評価を受けていたわけですが、今や、工業全体がCO2排出の元凶と見做され、バカスカ物を作る工場など、マイナス価値しか与えられません。 その工場の従業員が頑張れば頑張るほど、地球は汚染され、エネルギーは浪費されていくのです。 何の価値かあらむ。

「効率が悪い工場よりは、効率が良い工場の方が、無駄が少ないではないか」

  と、思うでしょう? この論理、効率性に自信過剰な日本企業がよく口にしますが、よく考えると間違っています。 物を作る事自体が、エネルギーの浪費と環境汚染を引き起こすのであって、むしろ、効率が悪く、同じ時間でより少しの物しか作れない工場の方が、エコ的には加害度が少ないのです。

  大体、作っている物が、本当に必要な物なのかどうか、その企業のトップですら答えられますまい。 車が必需品? いやあ、無くたって、生活できますよ。 私、現在、車を所有してませんが、何の不便も感じていません。 ケータイが必需品? わはは! 笑わせてはいけません。 あんな物無くたって、痛くも痒くもありません。 タバコや薬物と同じで、一旦始めてしまうから、手放せなくなるのであって、最初から使わなければ、何という事はないです。 パソコンやデジカメに至っては、はっきり、「オモチャだ!」と断言しても宜しい。 実際、オモチャでしょうが。 無くたって、命に関わったりしないものね。

  人間が生きて行く上で本当に必要な品は、食物だけだと言ってもいいでしょう。 そして、それは、工場や企業を介さなくても手に入るわけだ。 実際に、江戸時代までは、製造業なんか、ほんの一握りの分野にしか無かったけれど、人はちゃんと生きていたわけですからね。 ほーら、企業なんか、無くてもいいような、価値の薄いものである事が分かるでしょう。 当然、そこで働いている人達の仕事にも、本質的な価値は無いという事になります。 ただ給料を貰うために、至って個人的な目的で働いているだけなのです。 地球環境を犠牲にしてね。


  あっちこっちへ脱線しまくりましたが、「人間の価値基準は、人類の主観に過ぎないので、人間の存在には絶対的な価値は無い」と感じている私の気持ちが何となく伝わりましたか? とりわけ、エコの問題は、今まで人類が文明発展の基準にして来た価値感を、真逆に引っ繰り返してしまうだけに、重大な転換点と言えます。 頑張って生きると、その分、状況を悪くしてしまうわけで、こりゃ、困った事になりましたな。

  離島でネズミが大発生した場合、作物を荒らす害獣として駆除されるわけですが、ネズミにしてみれば、個々の個体の責任ではないわけで、一匹一匹は、一生懸命、自分の命の火を燃やしているだけです。 頑張って生きているだけです。 現在、地球上に溢れつつある人間と同じですな。 一人一人は、自分の人生を充実させようと、頑張っているだけ。 しかし、その結果、地球環境はどんどん荒らされて行きます。 人間は、他の動物と違い、食べて行ける最低限の消費では満足できないのですから、ネズミとは同列に扱えないほど、始末が悪いです。 つまり、人間は地球全体の害獣になってしまっているわけです。

  いやですねえ。 害獣ですよ、自分が。 もし、絶対的な力を持った宇宙人がやって来て、地球の生態環境を管理する事を思い立ったら、人類が駆除されるのは避けられないでしょうな。 特に、先進国を自称して、一人当たりエネルギーを大量に消費している国の人間は、真っ先に処分されるでしょう。 最も有害な品種なわけですから、当然ですな。 これまた、私は、皮肉ではなく、糞真面目に言っています。

「人間一人の命は、地球よりも重い」

  この言葉、最近はめっきり聞かれなくなりましたが、私が子供の頃には、人権活動家達がもっともらしく口にしていました。 よく考えれば、人間は地球の一部なわけですから、一部分が全体より価値があるなどという事はありえず、論理的に矛盾しているのですが、論理を別にしても、こんな身勝手な考え方はそうそうありません。 地球は多くの生物が共存している場所なのであって、人間だけの物などでは断じてありません。 正確に言うなら、

「人間一人の命は、人類とほぼ同数の個体数を持つ生物一個体の命と同等である」

  とすべきでしょう。 もちろん、人類より個体数が少ない生物の命は、人間よりも重くなります。 人間の価値とは、その程度のものに過ぎないと思うのです。