2011/01/09

岩手応援

  どうにかこうにか、生きて帰って来ました。 当初、半年の予定でしたが、三ヶ月で終わりになり、心から喜んでいます。

  12月23日(木)に、岩手での仕事が終わり、その後すぐに電車に乗って、翌24日(金)の昼頃に、沼津に帰り着きました。 片付けに手間取った上、28日(火)には、元の職場の方へ出勤しなければならなかったので、ネットは後回しに…。 個人サイトの方は、昨年中に更新を再開したんですが、こちらの記事は、書くのが面倒で、年明けまでうっちゃらかしとなりました。

  というわけで、流れ上、岩手での生活について、書く事にしましょう。 三ヶ月なんて、地元にいれば、記憶に残らないくらい瞬く間に過ぎ去る期間ですが、よその土地で暮らしていると、なんと長い事か。 悪条件も重なり、筆舌に尽くしがたい、辛く苦しい秋となりました。 悪条件とは、


≪そもそも、行きたくて行ったわけではない≫
  これは大きいです。 意に沿わぬ事をやらされていると思うと、やる気が出ません。


≪すでに人生を折り返している年齢では、未知の物に対する好奇心が湧かない≫
  認めたくはないのですが、確かに私は歳を取った。 15年前の愛知応援の時には、「住めば都」 的なノリがあって、観光地めぐりに精を出しましたが、今回は、一度もそれを感じず、どこへ出掛けても、「ただ、予定をこなしているだけ」という感じの鬱屈した気分がついて回りました。


≪仕事の内容が過重で、休み時間も働き続けなければならない職場だった≫
  配属先の仕事がきついか楽かは、応援に於ける最も重要な問題なのですが、最悪の目が出てしまいました。 基本作業だけでもギリギリなのに、内職仕事まで押し付けられて、休み時間を潰さざるを得ませんでした。 地獄…。


≪上司が恐怖で部下を支配するタイプで、衝突しないよう、神経を使わされた≫
  一言で言うと、「使えない野郎」 だったのです。 私より一回りも年下でしたが、早くも管理職病に感染して、「職制の仕事は部下を使う事であって、自分が働く事ではない」 という、思い違いも甚だしい低劣な信条にとりつかれており、自分ができもしない仕事を人にやらせて平気でいる、恥知らずな男でした。 しかも、ニコチン中毒で、休み時間になると喫煙所に走って行って、プルプル震えながら一服し、仕事中、ニコチンが切れてくると、禁断症状丸出しになり、些細な事で怒鳴りだすという、もはや精神異常者。 こんな奴を、よく管理職にしていると、驚くくらいです。


≪同行した応援者の中に、たかりタイプの男がいて、距離を置くのに苦労した≫
  私より少し若い男なんですが、仕事ができずに、あちこちの職場を転々としている奴で、他人に対する依存心が強く、年上でも年下でも構わず、近づいて行って、甘えようとします。 私の場合、以前、短期間、そいつと同じ職場にいた事があるのですが、職場が変わった後、しばらく経ってから偶然会った時に、「タバコを買いたいから、250円貸してくれないか」 と言われました。 ほとんど話をした事がない間柄であるのもさる事ながら、すでに滅多に顔を合わせない状態になっており、「こいつ、金を借りて、一体いつ返すつもりなんだろう?」 と不審に思って、やんわりと断りましたが、それ以来、要注意人物として、警戒していました。

  今回、応援の説明会に行った時に、そいつがいて、「うわ、こいつも一緒かよ…」 と、大いにたじろぎました。 応援先では、自分一人生きるのも大変なのに、他人にたかられたのでは、たまったものではありません。 案の定、そいつ、顔見知りを見つけては近づきまくっていましたが、警戒していたのは私だけではなかったようで、しまいには、総スカンを喰っていました。 人並みより愚かなのに、他人を利用できると思っているのだから、馬鹿につける薬はありません。


≪一人暮らしで食事が貧弱になり、空腹に苦しめられて、げっそり痩せた≫
  今回の応援では、結構、食事の量に気をつけていたんですが、高い肉類を避けたためか、どんどん痩せて、ベルトの穴が、二つも縮まりました。 ケチの独り暮らしは、つくづく危険ですな。


≪最初の寮の部屋が、エレベーター無しの五階で、上り下りに苦労した≫
  三ヶ月の内、最初の三週間だけ、別の会社から借り受けた寮に入っていたんですが、そこが、五階建てなのにエレベーターが無いという、脳足りんというか、サド趣味というか、「冗談じゃねーよ」 な建物だったのです。 しかも、運悪く、私が割り振られた部屋が、五階と来たもんだ。 更に、ポットと電子レンジが一階にしか無くて、カップ・ラーメンに湯を入れるのにも、スーパーの弁当を温めるのにも、わざわざ一階まで往復しなければなりませんでした。


≪最初の寮の共同浴場が、不衛生で利用しづらかった≫
  別に、見た目が汚いというわけではないんですが、80人近い入居者の共同なので、もう、どんな病気を持った奴が入りに来るか、分かったもんじゃありません。  今では、銭湯に通っている人間など、ほとんどいないのですから、共同浴場なんて生理的に無理ですって。 ちなみに、やたらと温泉に行きたがる奴ほど、湯治が必要な病気を持っているので、要注意です。 幸い、シャワー室がついていたので、そちらばかり使っていましたが、それでさえ、浴場よりはマシという比較の問題なのであって、他人が使ったシャワー室に入るのには、毎回思い切りが必要でした。


≪足が無くて、遠出ができなかった≫
  岩手県だけでなく、寒い地方はみんな同じだと思いますが、車が無いと、どこへも行けないように、街が作られているんですな。 逆に言うと、車が無かった頃は、人口が少なく、人の移動範囲も非常に限られていたんでしょう。 車が普及し始めてから、歩きでは行けないような所にも家が建ち始めたのだと思います。

  最初の週末は、歩いて観光地へ行っていましたが、歩き過ぎで、すぐにマメが出来てしまいました。 骨や筋肉も、腰から下が、ガタガタ。 一番近いスーパーへ買い物に行くのも、往復で30分掛かる有様で、仕事と同じくらい疲れました。


≪帰りに荷物になるので、食品以外の物を自由に買う事ができなかった≫
  これも、結構 重大事でして、何かと足りない物が多くて、不便な生活を強いられているのに、近くに店があって、買うお金があっても、買えないんですよ。 帰りに捨てていかなければならないから。 新品でも躊躇無く捨てられる人はいいんですが、ケチな性分の私は、それができません。 結局、不便な事は、最後まで不便なまま、我慢するしかありませんでした。 人間、飯さえ喰ってりゃ死にはしないわけですが、死ななければ、それで充分というわけでもないんですな。


≪後半、想定を超えるほど寒くなって、休日に出歩けなくなった≫
  さーむい、寒い! 行く前から、「岩手は寒いぞ~」 と聞かされてはいたんですが、本当に寒かった。 特に、11月の後半からは、散歩に出ても、一時間くらいで耐えられなくなり、目的地を断念して、元来た道を帰るしか無いという思いを、土日ごとに繰り返していました。 12月の後半は、片道30分の所にある図書館しか行かなくなり、雨が降ったりした日には、近くのスーパーへ往復するだけで、風邪の症状が出る甚だしさ。 道理で、地元の人が外を歩いていないわけだよ。

  そういや、歩く人がほとんどいないのと関係があると思うんですが、歩道が片側にしかついていないのには面喰いました。 かなり幅が広い幹線道路でも、右か左、どちらかにしか歩道が無く、しかも、途中でブツリと切れています。 「えっ! どこを歩けばいいの?」と思って、きょろきょろすると、反対側に歩道が移っているのです。 街灯が極端に少なく、夜、真っ暗になってしまうのも、歩いて出かける人がいないからなんでしょう。


  他にも、細かい事はうじゃうじゃありますが、あまり細々書くのも鬱陶しいので、この辺にしておきます。 とにかく、いい思い出になるような三ヶ月でなかった事だけは確か。 ≪強制移住≫とか、≪強制労働≫とか、そんな言葉で表現すれば、雰囲気が伝わると思います。

  一方、不幸中の幸い的な事としては、


≪以前、同じ職場にいた先輩がいて、折り畳み自転車を貸してくれた≫
  この先輩と隣の職場になったのが、唯一の救いでした。 休日に歩いて観光地めぐりをしていると言うと、「折り畳み自転車が余っているから、貸してやるよ」 と、涙が出るくらいありがたい事を言ってくれたのです。 私は、岩手に行く直前の趣味が自転車に乗る事でしたから、向こうについても、乗りたくて乗りたくて仕方がありません。 近くのホームセンターで新品を見ると、無段の軽快車が8000円くらい。 しかし、帰りに処分に困るので、買うわけには行きません。 リサイクル店を探し回りましたが、店があっても、自転車を扱ってなかったり、店先に自転車が並んでいても、営業していなかったりで、手に入れる事ができません。

  そこへ、「貸してやるよ」 という言葉。 いやあ、天使の囁きかと思いましたね。 で、その日の帰りに、早速、先輩の車に同乗して、先輩の家へ折自を借り受けに行きました。 折り畳みとはいえ、20インチで、グリップ・シフトの6段変速、リア・サス付きという優れもの。 平地の最適ギアが、5速だったので、6速にすれば、学生がちんたら乗っているシティー・サイクルを抜けるくらいの性能がありました。

  もっとも、いい事ばかりではなく、人から借りた物なので、扱いには神経を使いました。 盗まれないように、カバーとチェーン・ロックは、借りて来たその日に買いました。 何年も乗らずにしまいこまれていたため、異音やガタつきも多く、機械油、グリスなどを買って、整備しなければなりませんでした。 一度、駐輪所に置いていた時に、雨と風で倒れてしまい、塗装が剥げたディレイラー・ガードを塗りなおすために、ラッカー・スプレーまで買いました。

  11月初旬には、自転車で走れないくらい寒くなって、返してしまったので、正味一ヶ月くらいしか使えませんでしたが、それでも、大いに重宝しました。 持つべきものは、いい先輩ですな。


≪北上市と金ヶ崎町の観光地をほとんど回る事ができた≫
  行く前は、観光はせずに、時間が過ぎるのを、ひたすら耐え忍ぼうと思っていたんですが、行ってみると、出かける以外に休日の過ごし方が無く、あちこち行き捲りました。 大抵の街では、観光マップのようなものが出回っているので、それを入手して、出ている観光地・史跡を片っ端から見て回って行くのです。

  最初の三週間 住んでいた北上市は、史跡が多い所で、休日に行く所が無いという事は無かったです。 二週目からは、自転車が手に入ったため、活動範囲がどーんと広がりました。 山の上のダムまで見に行ったから、我ながら、よく漕いだものだと思います。 印象に残っている所というと、≪みちのく民俗村≫、≪樺山遺跡≫、≪ゆだダム≫、≪鬼の館≫など。

  10月の終わりから12月の終わりまで、二ヶ月間住んでいたのは金ヶ崎町ですが、こちらは、見所がぐっと少なくなりました。 小さいながらも城下町だった所なので、城跡と≪侍屋敷群≫がありましたけど。 そうそう、自転車がある内に、隣の奥州市にある、≪えさし藤原の郷≫へ行って来ました。 大河ドラマ、≪炎立つ≫の時に作られた恒久セットで、それ以降の大河ドラマでも、撮影地として、よく使われている所でした。


≪百円ショップで土鍋を手に入れ、米を炊いて食べられるようになった≫
  最初の寮では、スーパーの弁当とカップ・ラーメンばかりだったんですが、二番目の寮には、電気ヒーターと流しがついていたので、自炊ができました。 腹いっぱい飯が食いたくて、米を5キロ袋で買って来て、100円ショップのアルミ鍋で、お粥を煮ていましたが、その内、普通の御飯が食べたくなり、図書館で、米の炊き方を調べてきました。 炊く場合、蓋は必須との事。 アルミ鍋には蓋が無かったので、たまたま100円ショップで売っていた、一人用の土鍋を買って来て、本の指示通りにやってみたら、あら、嬉しい、炊けたじゃありませんか。 いやあ、あの時は感動しました。 それ以降、毎日炊いてましたねえ。 結局、痩せるのは、止められなかったけれど。


≪三ヶ月の間、一度も帰ってこなかったので、帰宅旅費が丸々浮いた≫
  帰宅旅費というのは、帰っても帰らなくても、一ヶ月あたり新幹線一往復分出るので、帰らなければ、全て自分の懐に入るのです。 これで、10万円以上浮きました。 ちなみに、最後に帰って来る時には、帰任旅費が新幹線で片道分出ますが、それも、私は在来線で帰って来たので、半額で済みました。 時間はかかりましたが。


≪二番目の寮はユニット・バスで、気楽に風呂に入れるようになった≫
  やっぱ、風呂は一人で入るのが一番ですわ。 清潔に保てるし、いつでも入られるし、他人の目を気にしなくていいし、混み合うのを恐れて、急いで着替える必要もないし。 トイレは、ペーパーを自分で買わなければならず、あと4分の1ロールあれば充分なのに、最少でも4ロールのセットしか売っていなくて、困りましたけど。 結局、足りない分は、会社やスーパーのトイレから、ガラガラっと数十巻き貰って来て、間に合わせました。 だって、買ってしまったら、余った分を、捨てられんでしょう。


  とまあ、こんなところですか。 三ヶ月は、短いようで長い。 ノートに日記をつけていましたが、毎日、起こった事を細大漏らさず書き込んでいたので、三冊になってしまいました。 とても、写しきれないので、電子データにするつもりはありませんし、ここで紹介する事も無いと思います。

  三ヶ月の応援生活を総括すると、「少し生ぬるい地獄」 というところでしょうか。 どんな事でも経験にはなりますが、岩手での生活そのものは、確かにそう言えるものの、仕事の方がきつ過ぎたので、総合すれば、いい経験とは言えない三ヶ月でした。 行かなくて済んだのなら、行きたくなかったです。