2010/08/01

2010年・夏の読書

別に、土曜出勤があったわけじゃないんですが、読書感想文です。 ここのところ、勤め先で、操業ペースが不安定なのです。 新製品の試験流しのせいで、ライン停止が頻発したり、化成部品棟の火災で消防署の立ち入り検査を喰らい、丸一日稼動しなかったりで、マイナスが溜まりに溜まってしまいました。 作りきれない部品の箱が山のように積み上がって、「これで地震でも来た日には、崩れ落ちて、押しつぶされるんじゃなかろうか・・・」と、杞人も真っ青な有様。

  で、月末までに予定生産数が出ないというので、連続二直体制だったのが、前直を一時間残業延長し、後直は、一時間遅れて始まった上に、残業も二時間以上やって、帰って来るのは、朝の5時。 こうなると、連続二直なんだか、完全二直なんだか分かりません。 自動的に、昼間は眠る事になり、金曜明けの土曜の昼間も寝て終わるので、ここの記事を書く暇が捻出できないというわけです。 いやあ、長い言い訳でしたな。





≪ケータイを持ったサル≫
  ≪考えないヒト≫と、同一著者の、少し前の本。 ≪考えないヒト≫は2005年ですが、こちらは、2003年です。 どちらも、ほぼ同じテーマを扱っています。 この本が話題になったので、二匹目のドジョウとして、≪考えないヒト≫を出したのだと思われますが、内容は異なっていて、重複する部分はほとんど見受けられません。 その点、どちらから読んでも、それぞれに楽しめると思います。

  携帯電話が普及してから後、若い世代を中心に起こっている、社会の変化を観察し、原因を分析したもの。 ≪考えないヒト≫と同じように、「なるほど!」と頷かされる指摘が満載されています。 「ルーズ・ソックスや、靴の踵の穿き潰しは、外の世界を家の中の延長として捉えたい欲求の表われ」という分析など、目から鱗が落ちる思いがします。

  携帯メールを頻繁に使うグループと、携帯電話そのものを使わないグループを被験者にして、それぞれのグループ内で、実際のお金を使った投資ゲームをやらせると、携帯を使わないグループの方が、互いの信用度が高いのだそうです。 携帯を使うグループは、300人近い相手とメールを打ち合って、他人との交友に長けているように見えるにも拘わらず、信頼関係が希薄なのは興味深いですな。 「広く浅く」の典型例になっている様子。 まあ、300人もいたのでは、深く付き合うのは、現実的に不可能ですけど。

  後半、「40歳を越えると、社会的な賢さが衰える」というテーマが出て来て、該当する私としては、ギクリとするわけですが、その例を示すテストをやってみると、確かにできないのです。 表と裏に、数字とローマ字が書かれた4枚のカードを使ったもので、心理学方面では、有名なテストらしいです。 このテストを試すだけでも面白いので、立ち読みでいいから、カードの絵が出ているページを見てみると宜しい。 よくよく、問題を読まないと、まず、正解しないと思います。 これを40歳以下の若い世代が、より容易に解けるというのが解せぬ。 悔しいったら、ありゃしない。

  ただ、この著者、面白い発想をする人にありがちな事ですが、データを充分に集めずに、重要な事を判断してしまう傾向があり、些か眉に唾をつけておかなければなりません。

  他人も一緒に乗っているエレベーター内で、仲間内で平気で話をする割合を、昔と今で比較したデータを引用し、「昔より今の方が、他人の存在を無視する人が多くなった」という結論を引き出しているのですが、この観察場所は一箇所に過ぎず、明らかにサンプルが少な過ぎでしょう。 また、そのビルだけでなく、周辺の建物も変わっているのですから、エレベーターに乗り込んでくる人間の種類も、昔と今で同じとは限りません。 実験にせよ、観察にせよ、条件を合わせなければ、正確な比較データが得られないのは、科学の常識だと思うのですが。

  「人間は、大人になったら、親から離れて自立するのが当たり前」という考え方も、偏った見方だと思います。 それじゃあ、家を継ぐ為に、親と一緒に暮らしている人間はどうなるのよ? 何世代も重ねている家の当主は、みんな、親から自立できない半人前だったという事になってしまいます。 そういうケースを除外した場合を想定しているのかもしれませんが、それなら、一言、断りを入れてしかるべきでしょう。 不本意ながら、義務感から家を継いでいる人が読んだら、マジで激怒しかねません。

  とまあ、首を傾げたくなる所もあるにはありますが、それでも、面白い本である事は確かです。 ≪考えないヒト≫と合わせて、一度読んでおいて、損は無いと思います。




≪物語 バルト三国の歴史≫
  バルト三国、つまり、エストニア、ラトビア、リトアニアの歴史を概説したもの。 ≪物語≫と付いていますが、全く物語風ではないので、ご注意。 物語というからには、理解し易くなければいけませんが、そんな配慮は微塵も感じられません。 それでなくても、日本では馴染みの薄い地域なのに、しかも、三国を一纏めにして、歴史を語ろうというのですから、理解し易くなるわけがないです。

  この感想も同様の理由で何が何だか分からなくなる恐れがあるので、ちょっと先に断っておきますと、バルト三国は、バルト海に面して、南北に縦に並んでいる国々で、北から並べると、

・エストニア
・ラトビア
・リトアニア

  の順になります。 エストニアの北は、フィンランド、リトアニアの南は、ポーランドです。 バルト三国の東は、北半分がロシア、南半分がベラルーシです。 バルト三国の西は、当然、バルト海。

  言語は、エストニアはすぐ北のフィンランドに近く、ウラル・アルタイ語族のフィン・ウゴール語派。 ラトビアとリトアニアは、インド・ヨーロッパ語族のバルト語派で、言語的には、エストニアとラトビアの間に境界があるのですが、歴史的には、エストニアとラトビアは共に北欧やドイツの影響を受けたのに対し、リトアニアは、ポーランドと一体化していた時期が長く、別の文化圏とされてきたのだそうです。 もう、この時点で、頭が混線状態ですな。

  やはり、三国を一纏めにせず、一国ごとに分けて書いてくれた方が分かり易かったと思います。 必ずしも、編年体になっておらず、時代を進んだり戻ったりする所があるのも、更に理解を困難にしています。 読み終わった感想は、「なんだか、よく分からん」というもの。 確実に頭に入ったのは、第一次大戦後、三国がそれぞれ独立していた時期から現在まで、だけですな。

  この地の発展に、ドイツ人が非常に大きな影響を及ぼしたという点だけは、よく分かります。 ドイツ人は、中世以降、東方に植民を進め、プロイセン時代には、現在のポーランド北部も領土にしていました。 その続きで、バルト三国地域まで勢力圏を伸ばして、≪ドイツ騎士団領≫を作り、それが滅びた後も、商業を牛耳って、この地の実質的な支配者になっていたんですな。 数百年に及んだドイツ人による支配は、第二次大戦で、ドイツが東方の飛び地を全て失うまで続いたというから、凄い執念です。

  第二次大戦中、ナチス・ドイツに占領されていたバルト三国は、ドイツの敗北に伴って、ソ連に編入されるわけですが、この著者、どうも、ドイツに比べてソ連に辛いようで、ソ連の共和国だった期間を、暗黒時代のように書いています。 確かに、バルト三国の固有民族の人々は、ソ連から独立する事を願っていたわけですが、それは、ドイツに対しても同じだったのであって、ソ連ばかりを悪者にするのは、客観性を欠くというものでしょう。

  この妙な偏りを不思議に思っていたんですが、あとがきを読んで、納得しました。この著者、日本ではバルト三国に関する資料が集まらないというので、ドイツの大学で研究をしていたというのです。 なるほど、それなら、ドイツに甘くなりますわなあ。 バルト三国の歴史を調べるのなら、直接、現地で研究するのが一番だと思いますが、そういう事は考えなかったようで、初めて現地に行ったのが、ソ連末期頃だったというから、よほど、ソ連が嫌いだったんでしょうか。

  しかし、かつての植民地支配国であるドイツに行って、客観的な研究ができるとは思えません。 当然の事ながら、自分達に都合の悪い事は隠しているでしょう。 実際、この本では、ドイツ人による植民を悪い事として書いておらず、むしろ、「ヨーロッパ的な文化や、最先端の技術を齎した」という肯定的評価をしているのですが、所詮、侵略者は侵略者なのであって、そういう見方は、やっぱり、変でしょう。




≪アイ・アム・レジェンド≫
  テレビ放送された、ウィル・ミスミさん主演の映画を見て、原作を知りたくなり、借りて来ました。 ハヤカワ文庫です。 表紙を見れば分かるように、映画の公開に合わせて、改版されたもの。 ついでに、≪地球最後の男≫から改題したのだそうですが、別に映画に合わせたというわけではなく、原題が、≪アイ・アム・レジェンド≫だったようです。 つまり、元に戻したんですな。

  映画は、そんなに面白くなくて、≪ゾンビ≫の焼き直しみたいな話でしたが、解説によると、≪ゾンビ≫よりも、この小説の方がずっと早く世に出ていて、過去に三回も映画化されていて、≪ゾンビ≫も、その影響を受けて作られた作品の一つなのだそうです。 道理で、似ているわけだ。 ただ、この原作小説に出てくるのは、ゾンビそのものではなく、細菌戦争後、世界中に広まったウイルスによって人間が変異した、≪吸血鬼≫です。 伝説的な吸血鬼の生態を、科学的に説明しようとした、SF的試みと言っても宜しい。

  ≪地球最後の男≫という題がまぎらわしいのであって、映画でも原作でも、最後の一人ではありません。 ウイルスに冒されて、吸血鬼に変異してしまった人間がたくさん出て来ますし、小説の方では、単に凶暴なだけでなく、会話ができる者も登場します。

  映画同様、主人公は、まともな人間のたった一人の生き残りで、昼間は無人になった街で、食料や生活必需品を漁り、夜は自宅に籠もって、吸血鬼達の襲撃を避けて暮らしています。 犬も出て来ますが、映画と違い、最初からいるわけではなく、途中で出て来て、主人公の関心の的になるという設定。 女性も出て来ますが、それはちょっとし映画とは違っていて・・・・、いや、これ以上書くと、これから読む人に悪いから、やめておきましょう。

  この小説を単独で評価するのであれば、第一級のSFです。 映画との間に異同が大きいから、両者の評価がこんがらがって、ややこしくなってしまうのであって、小説は小説、映画は映画と、きっぱり分けて考えればいいんですな。 小説は、ちゃんと科学的辻褄も合っていますし、心理描写や情景描写など、文学的な面も優れていると思います。

  ≪アイ・アム・レジェンド≫、つまり、≪私は伝説だ≫ですが、この言葉は、ラストに出て来ます。  皮肉なんですが、「ああ、そういう意味だったのか・・・」と、呆然としてしまうような、深みがある皮肉なのです。 それは、小説でなければ理解できません。 映画でも、ラストに、別の人間の言葉として語られますが、それならば、≪彼は伝説だ≫と言うべきで、意味している内容が違ってしまっています。 映画の方は、単なるこじつけですな。




≪日本その日その日≫
  エドワード・シルベスター・モース博士の、日本滞在記。 モース博士はアメリカの動物学者で、1877年に、シャミセン貝の採取と研究を目的に、個人的に来日したのですが、滞在中に文部省に請われて、東京大学生物学科の創設に尽力したり、大森貝塚で日本最初の考古学的発掘をしたり、日本の家屋の構造についてアメリカで本を出版したり、日本の陶磁器のコレクションをアメリカの博物館に作ったりと、多芸ぶり多才ぶりを遺憾無く発揮し、八面六臂の活躍をした人物です。

  博士が来日したのは、西南戦争が終わった直後ですが、明治初頭とはいうものの、世の中の風俗・習慣は、まだ江戸時代からほとんど変わっておらず、伝統的な日本社会の様子が、正確且つ克明に描かれています。 博士はスケッチが得意で、この本には、博士が描いた絵が何百枚も入っています。 この頃は、まだ写真が一般化しておらず、スケッチの方が遥かに記録効率が良かったんですな。 よくぞ描き遺してくれたと感謝したくなるような、貴重な絵の宝庫です。

  モース博士、日本に来る前に、知人から、「日本に行ったら、いろいろと珍しい物を見るだろうが、とにかく、最初に見た時に、すぐに感想を記しておけ。 時間が経つと感動が薄くなって、同じ物を見ても、何も感じなくなってしまうから」と忠告されたのを忠実に守り、見たまま感じたままを、描いて書いて記しまくります。 もともと、興味の対象が広い人だったために、目に入るものを片っ端から書き留めて、当時の日本の記録としては、他に類の無い濃密な内容となりました。

  博士が行った所は、横浜、東京、日光、男体山、江ノ島、北海道、東北、九州、瀬戸内、神戸、大阪、和歌山、東海道、名古屋、京都と、ほぼ日本全土に亘ります。 当時は、まだ鉄道網は存在せず、人力車、徒歩、帆船、汽船といった交通手段だけで、これだけの場所を、ほんの数年内に踏破したのですから、大変な行動力です。 しかも、単なる物見遊山ではなく、魚介類の採集をしたり、古墳を発掘したり、陶磁器を買い付けたり、様々な仕事をこなしながらやったのですから、もう、超人的なエネルギーですな。

  博士は、来日する前から、日本贔屓だったようで、基本的に、日本の風俗習慣は、全てと言っていいくらい、誉めています。 「日本人は、礼儀正しい」、「日本人は、喧嘩をしない」、「日本の子供は、お行儀が良い」、「日本には犯罪者がほとんどいない」など、何だか、背中が痒くなるような言葉が並んでいます。 しかし、日本人としては、そのまま真に受けるのはどうかと思います。 「喧嘩をしない」などは、全くありえない話で、単に博士が見る機会が無かったというだけの事でしょう。

  唯一、「不合理で、馬鹿らしい」と言っているのは、火事の時の火消しの方法ですが、これも、後半になると、「それなりに合理性はあり、火消し達の勇気は大変なものだ」と、プラス評価に切り替えています。 ただ、これもかなり無理がある誉め方でして、日本にいる間に、どんどん日本贔屓の度が激しくなって、あばたもえくぼになってしまったものと思われます。 やっぱり、火事を消すには、纏を振り回す勇気より、性能のいいポンプでしょう。

  アメリカの習慣と比較して、日本の方を誉めるというパターンも多く、「アメリカ人は野蛮。 日本人の方が文明的だ」と論じるわけですが、さすがに、母国でこの本を出版する際には、反発を恐れたのか、「私は、そんなアメリカ人の特徴を愛している」と、末尾に付け加えています。 取ってつけたようなフォローをするくらいなら、最初から比較評価のダシにするような事をしなければよかったのに。 ちなみに、博士がこの本の中で、「アメリカでも取り入れるべきだ」と述べている日本の習慣の中で、現在のアメリカで取り入れられているものは、たぶん、一つもありません。 そればかりか、日本でさえ、すでに滅びてしまったものが大半です。

  この本に価値があるのは、この中に書かれている、ほぼ江戸時代の日本が、すでに滅びてしまったからだと思います。 「伝統文化とは、これほど完膚無きまでに失われてしまうものなのか」と驚愕するくらい、今の日本と、モース博士の見た日本は、違うのです。 もし、モース博士が現代の人で、現代日本に来たとしたら、恐らく、何の興味も抱かないのではありますまいか。

  アイヌ人の文化についても、細かい観察がなされています。 これは、日本の記述以上に貴重です。 アイヌ人の伝統家屋というのは、もうほとんど残っていませんから。 こういう記録を、日本人が残していないという、そちらの方が問題ですな。 当時のアイヌ人の髪型など、博士の描いたスケッチが無かったら、金輪際、知りようが無いのですから。

  全三冊で上下二段組みという結構な大著ですが、挿絵が多い上に文章が平易なので、読み難さを感じる事は、まず無いと思います。 日本人なら、一度読んでおいて、損は無いです。 知識・教養の足しになるという以前に、読んで面白い本なのです。 漱石や鴎外が書いた明治の日本よりも、モース博士が見た日本の方が、遥かにリアルに感じられるのは、不思議な事ですな。

  注意しなければならないのは、博士の観察は大変細かいですが、一方で、表面的でもあり、日本人の心理にまでは、踏み込んでいません。 厳しい言い方をすれば、「目につく物を、細大漏らさず記録しただけ」の本なのです。 日本贔屓のあまり、日清戦争や日露戦争が起こった後、清やロシアをこき下ろし、日本の対外戦争方針を誉めるといった、今から見ると、冷汗が出るような事も書いています。 表面的観察に終始して、日本人の内面を見抜く事を怠ったために、眼鏡違いを起こしたのでしょう。 ただ、その事でこの本を全て否定してしまうとしたら、生き生きとした当時の描写があまりにも惜しいです。


  今回は、以上の4冊まで。 どうも、私は極端な性格でして、一旦、読書を習慣にすると、とことん読み続けなければ気が済まない状態に陥りやすいです。 会社で休み時間に読むのも、もはや、強迫観念に背中を押されている感があり、一日たりとも、本無しではいられない体になってしまいました。 実際には、本なんて読まなくても、休み時間の10分くらいは、ぼーっとしているだけで、過ぎて行くものなんですが。 こういう生活も、そろそろ改めて、もっとスロー&ルースに暮らした方が、身体&精神に良いのではないかと思う、今日この頃です。