できる
たまには、言語関連の事でも書きますか。 前に、≪はず≫という言葉について、「≪筈≫という漢字を使うのは、当て字だからやめた方がいい」というような事を書きました。 それと同じようなパターンが、他にもあります。
≪できる ⇔ 出来る≫
≪できる≫は、単独の動詞としても使いますし、≪~できる≫という風に、動作を含んだ名詞の後につけて、補助動詞のような形で使う事も出来ます。 ただし、動詞の活用には関らないので、助動詞の類には入りません。 それはさておき、この≪できる≫という言葉を、漢字で表そうとする時、普通、≪出来る≫を使います。 これが問題なんですわ。
もう完全に習慣になっているので、大抵の人は考えもしないと思いますが、≪出来≫の二文字には、≪できる≫という言葉が表している、可能や許可の意味は全くありません。 字そのままの、≪出て来る≫という意味と、漢字熟語の≪出来(しゅったい)する≫から来る、≪発生する≫という意味しかないのです。 ≪出て来る≫にせよ、≪発生する≫にせよ、≪できる≫の意味とは、どうにも重なりません。 元は、そちらから出て来た言葉だと思うのですが、いつのまにか意味が変化してしまったんでしょうな。 可能や許可の意味なのに、≪出来る≫と書くのは、もはや、明らかに、当て字になってしまっているのです。
実は、私も、この事に気づいたのは、ごく最近でして、それが証拠に、このブログの昔の方の記事を読むと、律儀に、全ての≪できる≫を、≪出来る≫と書いています。 それが、一度、当て字である事に気づいてしまうと、途端に使えなくなってしまうんですな。 文字なんていうものは、突き詰めれば、記号に過ぎないわけで、書く方と読む方が、どういう意味か承知していれば、当て字だろうが誤用だろうが問題無いと言えば問題無いんですが、そこはそれ、漢字の持つ魔力という奴で、なるべくなら、意味も正しい使い方をしたいと思うわけです。
≪できる≫の本来の意味で当てられるべき漢字というと、日本語では該当する字がありません。 中国語だと、助動詞で、≪能~≫や、≪可以~≫、≪会~≫、可能補語で、≪~得~≫などがありますが、それぞれ意味が違っていて、日本語の≪できる≫と、完全に重なる物はありません。 そもそも、≪能る≫とか、≪可以る≫と書いて、≪できる≫と読んで貰おうというのが、ちと無理な相談です。 旧仮名時代の、まだ日本語の漢字表記が一定していなかった頃なら、何とか読んで貰えたかもしれませんが、今では全く話にならんでしょう。
で、しょうがないから、≪できる≫と、平仮名で書くしかなくなってしまったんですな。 ≪はず≫もそうでしたが、平仮名ばかり増えると、文章が馬鹿っぽくなって困ります。 特に、≪できる≫は、使用頻度が高いので、影響大。 でも、当て字と分かっていながら、≪出来る≫を使い続けるよりは、マシでしょうか。 これを読んでいるあなたも、気になって来たでしょう。 ≪出来る≫は、当て字なんですよ。 意味が間違っているのですよ。 そうと分かっていて、使う気になれますか? ほーら、もう使えない。 今日を境に、≪出来る≫とは、おさらばしなければなりません。 いひひひひ!
ただ、一つだけ、≪出来る≫と書いてもいい場合があります。 それは、「家ができた」とか、「友達ができた」という意味で使う場合でして、これは、可能でも許可でもなく、どちらかというと、発生に近いですから、元の意味が生きているわけで、≪出来る≫と書いて差し支えないと思うのです。 しかし、こう言っても、すぐには、意味の違いがピンと来ない人も多いでしょうな。 ≪できる≫という言葉に、全く違う意味が二つあるなんて、考えた事が無いのが普通ですから。
ちなみに、≪できる≫の仮名漢字変換の候補を見ると、≪出切る≫という字も出て来ますが、これは、それこそ、まるっとするっと根本的に意味が違うわけでして、「すべて、出てしまう」という意味ですな。 ≪出し切る≫の自動詞形なわけです。 う・・・・、今気づきましたが、この、≪~切る≫というのも、当て字の疑いが濃厚ですな。 別に、何かを切っているわけではないのですから。 これも、平仮名で書くべきなのか。 うぬぬ、馬鹿っぽさのベクトルが見る見る増大していくようだ。
上でちょっと触れましたが、中国語の可能・許可を表す助動詞は、意味の違いによって、細かい使い分けがなされます。 ≪現代中国語辞典(光生館)≫の例文を引用しますと、
≪能~≫
主観的な能力を表す。
「我能完遂任務」 (私は、任務を完遂できる)
≪可以~≫
客観的な能力を表す。
「我可以明天走」 (私は、明日出発できる)
≪会~≫
練習・修練によって、能力を得た場合に用いる。
「我会遊泳」 (私は泳げる)
実は、可能補語を使うものが他にもあるんですが、ややこしくなる一方なので、省きます。 日本語人の感覚では、この種の使い分けは、ピンと来ないでしょう? みんな、「できる」で、一緒くたにしていますから。 しかし、中国語に於ける、可能・許可の概念区分が、他の言語より細かいというわけではなく、日本語や英語でも、これらを言い分けようと思えば、できない事はありません。 ただ、助動詞や補語といった、文法規則のレベルではできないので、表現が長くなってしまうだけです。 逆に、中国語人から見ると、これらの言い分けが簡単にできない言語というのは、かなり不便に感じると思われます。
意味の使い分けではありませんが、日本語でも、可能・許可の意味を出したい時、動詞を活用させる方法と、動作を含んだ名詞に、≪~できる≫をつける方法の、二つがありますね。
「写真を撮れる」
「写真を撮影できる」
全く同じ意味を表すのに、二つの表現方法があるのは、無駄だと思われるかもしれませんが、実は、どんな言語でも、重要な表現には、この種のパイパスが用意されています。 英語にもあります。
「I can take a photograph.」
「I am able to take a photograph.」
こういうのは、一つの文章に同じ動詞を二回、接近して使わなければならないような時、文が単調にならないよう、表現を変えるのに有効です。
≪できる ⇔ 出来る≫
≪できる≫は、単独の動詞としても使いますし、≪~できる≫という風に、動作を含んだ名詞の後につけて、補助動詞のような形で使う事も出来ます。 ただし、動詞の活用には関らないので、助動詞の類には入りません。 それはさておき、この≪できる≫という言葉を、漢字で表そうとする時、普通、≪出来る≫を使います。 これが問題なんですわ。
もう完全に習慣になっているので、大抵の人は考えもしないと思いますが、≪出来≫の二文字には、≪できる≫という言葉が表している、可能や許可の意味は全くありません。 字そのままの、≪出て来る≫という意味と、漢字熟語の≪出来(しゅったい)する≫から来る、≪発生する≫という意味しかないのです。 ≪出て来る≫にせよ、≪発生する≫にせよ、≪できる≫の意味とは、どうにも重なりません。 元は、そちらから出て来た言葉だと思うのですが、いつのまにか意味が変化してしまったんでしょうな。 可能や許可の意味なのに、≪出来る≫と書くのは、もはや、明らかに、当て字になってしまっているのです。
実は、私も、この事に気づいたのは、ごく最近でして、それが証拠に、このブログの昔の方の記事を読むと、律儀に、全ての≪できる≫を、≪出来る≫と書いています。 それが、一度、当て字である事に気づいてしまうと、途端に使えなくなってしまうんですな。 文字なんていうものは、突き詰めれば、記号に過ぎないわけで、書く方と読む方が、どういう意味か承知していれば、当て字だろうが誤用だろうが問題無いと言えば問題無いんですが、そこはそれ、漢字の持つ魔力という奴で、なるべくなら、意味も正しい使い方をしたいと思うわけです。
≪できる≫の本来の意味で当てられるべき漢字というと、日本語では該当する字がありません。 中国語だと、助動詞で、≪能~≫や、≪可以~≫、≪会~≫、可能補語で、≪~得~≫などがありますが、それぞれ意味が違っていて、日本語の≪できる≫と、完全に重なる物はありません。 そもそも、≪能る≫とか、≪可以る≫と書いて、≪できる≫と読んで貰おうというのが、ちと無理な相談です。 旧仮名時代の、まだ日本語の漢字表記が一定していなかった頃なら、何とか読んで貰えたかもしれませんが、今では全く話にならんでしょう。
で、しょうがないから、≪できる≫と、平仮名で書くしかなくなってしまったんですな。 ≪はず≫もそうでしたが、平仮名ばかり増えると、文章が馬鹿っぽくなって困ります。 特に、≪できる≫は、使用頻度が高いので、影響大。 でも、当て字と分かっていながら、≪出来る≫を使い続けるよりは、マシでしょうか。 これを読んでいるあなたも、気になって来たでしょう。 ≪出来る≫は、当て字なんですよ。 意味が間違っているのですよ。 そうと分かっていて、使う気になれますか? ほーら、もう使えない。 今日を境に、≪出来る≫とは、おさらばしなければなりません。 いひひひひ!
ただ、一つだけ、≪出来る≫と書いてもいい場合があります。 それは、「家ができた」とか、「友達ができた」という意味で使う場合でして、これは、可能でも許可でもなく、どちらかというと、発生に近いですから、元の意味が生きているわけで、≪出来る≫と書いて差し支えないと思うのです。 しかし、こう言っても、すぐには、意味の違いがピンと来ない人も多いでしょうな。 ≪できる≫という言葉に、全く違う意味が二つあるなんて、考えた事が無いのが普通ですから。
ちなみに、≪できる≫の仮名漢字変換の候補を見ると、≪出切る≫という字も出て来ますが、これは、それこそ、まるっとするっと根本的に意味が違うわけでして、「すべて、出てしまう」という意味ですな。 ≪出し切る≫の自動詞形なわけです。 う・・・・、今気づきましたが、この、≪~切る≫というのも、当て字の疑いが濃厚ですな。 別に、何かを切っているわけではないのですから。 これも、平仮名で書くべきなのか。 うぬぬ、馬鹿っぽさのベクトルが見る見る増大していくようだ。
上でちょっと触れましたが、中国語の可能・許可を表す助動詞は、意味の違いによって、細かい使い分けがなされます。 ≪現代中国語辞典(光生館)≫の例文を引用しますと、
≪能~≫
主観的な能力を表す。
「我能完遂任務」 (私は、任務を完遂できる)
≪可以~≫
客観的な能力を表す。
「我可以明天走」 (私は、明日出発できる)
≪会~≫
練習・修練によって、能力を得た場合に用いる。
「我会遊泳」 (私は泳げる)
実は、可能補語を使うものが他にもあるんですが、ややこしくなる一方なので、省きます。 日本語人の感覚では、この種の使い分けは、ピンと来ないでしょう? みんな、「できる」で、一緒くたにしていますから。 しかし、中国語に於ける、可能・許可の概念区分が、他の言語より細かいというわけではなく、日本語や英語でも、これらを言い分けようと思えば、できない事はありません。 ただ、助動詞や補語といった、文法規則のレベルではできないので、表現が長くなってしまうだけです。 逆に、中国語人から見ると、これらの言い分けが簡単にできない言語というのは、かなり不便に感じると思われます。
意味の使い分けではありませんが、日本語でも、可能・許可の意味を出したい時、動詞を活用させる方法と、動作を含んだ名詞に、≪~できる≫をつける方法の、二つがありますね。
「写真を撮れる」
「写真を撮影できる」
全く同じ意味を表すのに、二つの表現方法があるのは、無駄だと思われるかもしれませんが、実は、どんな言語でも、重要な表現には、この種のパイパスが用意されています。 英語にもあります。
「I can take a photograph.」
「I am able to take a photograph.」
こういうのは、一つの文章に同じ動詞を二回、接近して使わなければならないような時、文が単調にならないよう、表現を変えるのに有効です。
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