2010年・春の読書
またぞろ、読んだ本が溜まって来たので、そろそろ感想文を。 自分で言うと、大変いやらしいですが、よくもまあ、会社の休み時間だけで、これだけ読めるものだと思います。 こんな事なら、就職してから、ずっと読んでおけば、今頃、桁違いの博学になっていたものを…。 もっとも、速読という技能がありますが、あれを身につけた人で、学識で高名になった例を一つも聞いた事が無いですから、本を読むだけで到達できるレベルには限界があるわけですが。 ちなみに、私は、家ではほとんど読書をしません。 テレビとネットだけで時間が満杯だからです。
≪戦う荒鷲たち 上≫
これは、ハヤカワ文庫の一冊。 かなり前に、本屋で平積みになっているのを見て、パラパラと捲ってみた事があったのですが、先日、図書館にあるのを見つけ、衝動借りして来ました。 で、読んでみたんですが、大変な期待外れ。 戦記物といっても、所詮、小説はフィクションですな。 ここのところ、本格的な戦史ドキュメンタリーを続けて読んでいたので、こんな軽薄な内容では、全く食い足りません。
話の中身は、第二次世界大戦中の、アメリカとドイツの戦闘機開発競争を描いたもの。 一種の群像劇で、主人公は決まっていません。 アメリカ人達の出番が一番多く、次がドイツ人、ソ連人、スエーデン人と続き、日本人も山本五十六がちょこっと出て来ます。 開発者がパイロットを兼ねていて、開発の合間に、戦場へ出撃していくという、相当には御都合主義の設定。 しかも、アメリカとドイツ両方の登場人物が、揃ってそんな活動をしているのです。 現実には、およそありえませんな。
作者がアメリカ人なので致し方ないところですが、文学としてのレベルは非常に低いです。 人間を描く事が、まるっきり出来ていません。 特に、女性絡みの場面は陳腐で、戦記物に恋愛物が混じっているような、珍妙な描写になっています。
ただ、空中戦の戦闘場面だけは、面白いです。 たぶん、作者が最も描きたかったのはそこなんでしょう。 敵も味方も、偏り無くバタバタ死んで行き、血も涙も無いリアリズムが活きています。
≪戦う荒鷲たち 下≫
これは、下巻。 上巻を読んで、がっかりしたので、下巻はパスしようかと思ったんですが、途中まで読んでやめると、気に掛かって、却って記憶に残ってしまうので、一応全部読んでから、綺麗さっぱり忘れる事にしました。
内容は、上巻と同じようなパターンですが、戦争も後半になるので、主要登場人物が、ちらほら戦死します。 ラストは、アメリカとドイツの戦闘機開発者同士が、輸送機で空中戦をやるという、ますますありえねー展開。 発想的には、アニメ・レベルですが、考えてみれば、アメリカ映画、≪パールハーバー≫なども、この種のアホ臭いラストがくっ付いてましたな。
女性の主要登場人物が、ナチスに捕まるのですが、収容所へ送られる列車内で、見張りを殺し、乗せられていたユダヤ人達を解放して、自分も逃げます。 空中戦の描写以外では、その部分だけ手に汗握ります。 でも、この場面も、第二次大戦物のアメリカ映画で、何度も見たような気がせんでもなし。
≪心病める人たち≫
統合失調症(旧精神分裂病)について知りたくなり、この本を借りて来たんですが、些かお門違いで、これは、精神病について書かれた本ではなく、精神医療をテーマにしたものでした。 しかも、随分前に一度借りていた事が、冒頭を読んでから判明しました。 何とも迂闊な話。 でも、覚えていたのは、その冒頭部だけで、それ以外は、まるで記憶無し。 どうなっとるんじゃ、私の記憶は?
出版されたのは1990年なので、最も新しくても、もう20年前の状況ですが、日本の精神医療というのは、非常に遅れているのだそうです。 戦前までは、精神病院が非常に少なくて、患者は、よほど悪くならない限り病院には掛からず、一般社会に溶け込んで暮らしていたのだとか。 それが戦後になると、補助金目当てに精神病院が乱立し、ちょっとでもおかしい所がある人間を片っ端からブチ込んで、退院されちゃ困るもんだから、治療もせんと閉じ込めていたのだそうです。 しかも、寿司詰めで。
この本の著者は、そんな状況の頃に、精神科医として病院に勤め始め、やがて、「これではいかんな」と独立して、開放病棟を基本にした新しい精神病院を立ち上げます。 この病院の運営方針が面白くて、近隣住民を呼び入れて盛大にお祭りをやったり、地下にディスコを作ったり、よくもこれだけ思いつくと思うくらい、様々なアイデアを実践します。 病院に長く居ついてしまう患者を減らす為に、普通の住宅地に家を借りて、患者の共同住居にし、自立を促す取り組みも興味深いです。
精神病の患者というのは、辺り構わず騒ぎまくるようなイメージがあったんですが、そういう症状は、出たとしてもごく短期間で、治療を始めるとすぐに覚め、大部分の時間は、むしろ陰陰滅滅とした気分で暮らしているのだそうです。 他人に危害を加える事より、当人が自殺しないか、そちらの方が問題なのだとか。 「精神病患者の心には、必ずまともな部分が残っていて、医師と会話が成立するからこそ、治療が成り立つのだ」という説明には、目から鱗が落ちた思いぞします。 なるほど、確かにその通りだ。
少々古くなったとはいえ、文句無しに面白い本です。 どうして、私が昔読んだ時、冒頭部分しか記憶に残らなかったのか、それが不思議です。
≪精神病≫
これは、そのものズバリの書名ですな。 今度こそ、統合失調症について詳しい事が分かるかと思ったんですが、またまた期待外れ。 症例は片手で数える程度しか載っておらず、やはり、精神医療制度に関する記述にウエイトが置かれていました。 思うに、日本の精神科医というのは、出版社から、「本を書きませんか」と持ちかけられると、自分が世間に知らせたい事を最優先でテーマに選びたがり、世間が知りたい事が何なのかは、念頭に浮かばないのではありますまいか。
ただ、≪心病める人たち≫よりは、内容が総合的なので、病気に関して大体の事なら分かります。 「こういう症状は、統合失調症である」という例がいくつか載っていますが、自分自身が当て嵌まる項目を見つけてしまい、大いにうろたえました。 いや、たぶん、誰でも、一つや二つ当て嵌まるとは思うんですがね。
一旦、「自分は統合失調症なのでは?」と疑い始めると、やる事なす事、「何か、変な事をしてるんじゃなかろうか」と、不安に襲われて困ります。 「統合失調症患者は、自分がおかしいとは思っていない」というのは、必ずしも正しくはないそうで、確かに、自分の異常を認めない患者もいるらしいのですが、認めていて、自分から病院にやってくる人もたくさんいるのだとか。 そりゃ、そうですわな。 自分はおかしくないと思っている人間が、たとえ家族からであっても、「お前、おかしいぞ」と言われて、「はい、そうですか」と、ほいほい病院に行くわけがありません。 自分でもおかしいと思っているからこそ、行くのです。
いくつか出ている症例の部分は、大変興味深いです。 精神病の特徴的症状に、≪妄想≫があるらしいのですが、「自分は見張られている」と医師に訴える患者が多いのだとか。 ≪妄想≫と≪空想≫の違いですが、≪空想≫は、いくら膨らませても、自分でそれが空想である事を承知しているのに対し、≪妄想≫では、自分で、その空想を真実だと思い込んでしまう点にあるんですな。 これは怖いわ。 だけどねえ、ネット上を見ると、結構そういう人多いですよね。 公共掲示板とか、オンライン百科事典とか、特に。 やばいっすねー。 そりゃー、要通院ですぜ。 今は、いい薬があるそうですよ。
統合失調症ですが、世界的に、時代の流れとして、症状が軽くなる傾向があるのだそうです。 つまり、文明が発達し、社会が複雑化してくると、それに対応できずに、精神に異常を来たすと見られるわけですな。 それが証拠に、未開社会では、統合失調症は見られないのだとか。 で、現代社会のどういう変化が影響したのか分かりませんが、19世紀から20世紀にかけて多かった悪化例が、最近は減って来ているのだそうです。
統合失調症の病理学的原因はつきとめられておらず、他者との関係がうまく築けないために、異常な行動パターンが醸成されてしまうという見方が主流になっているのだとか。 遺伝も若干関係しているようですが、今は、主要な原因とは考えられていないのだそうです。
まあ、いろいろと勉強になる本ですよ。 「自分も患者では?」という落とし穴に注意さえすればね。
≪ジャーナリズムの可能性≫
通信社に勤めて、戦後日本の報道業界を観察して来た著者が、ジャーナリズムの現状に対して述べた、苦言の書。 かなり濃い内容で、具体的事例を挙げつつ、ど真ん中全力投球の書き方をしています。 恐らく、新聞・雑誌の記者や、テレビの報道部の人間は、全員この本を読んでいるんじゃないでしょうか。 上司から読めといわれなくても、気になって仕方ありますまい。
ただ、そんな、≪バイブル視≫は、あくまで、報道業界内部での話でして、こちとら、部外者なので、ズケズケ批判させてもらいますと、この著者は、根本的な所で思い違いをしています。 「国家権力を監視し、批判的な立場を取るのが、ジャーナリズムに課せられた使命だ」というような事を言っているのですが、そんな使命は、全然、まるっきり、課せられていないと思います。 というか、一政権が永遠に続くのでもなければ、そんな事は、実行不能でしょう。
たとえば、ある政権が増税政策を打ち出し、それをジャーナリズムが批判したとします。 ところが、政権交代して、別の政権が誕生し、増税政策を取り消したら、ジャーナリズムは、その取り消しにも反対するんでしょうか。 常に時の政権に対して批判的立場を取るとしたら、自分達の主張に矛盾が発生するのは避けられますまい。
報道にとって一番大切なのは、≪政権の監視・批判≫よりも、≪客観性≫だと思うのですが、それについてはほとんど触れられていません。 どうも、この著者は、軍部の御用新聞・御用放送と化してしまった戦前の報道に対する反省を何よりも重視し、ジャーナリズムのあるべき姿を規定したようなのですが、「ジャーナリズムによる権力の監視で、戦争を防ぐ事が出来る」という理念は分かるものの、報道機関が報道を道具として使ったのでは、やはり、まずいでしょう。 「こういう情報があるから、こう判断せよ」と、そこまで指示してしまったら、それはもう、報道機関ではなく、≪影の政権≫になってしまうではありませんか。
報道の役目は、情報を客観的に伝える事であり、その情報から何をどう判断するかは、情報の受け手に委ねるのが本筋でしょう。 報道関係者に影響力が強いと思われる本だけに、根本的な思い違いが広まってしまうとしたら、恐ろしい事です。
今回は、以上、5冊まで。 回を追うごとに冊数が減っていますが、回を追うごとに感想文が長くなる傾向があるので、このくらいで充分、というか、このくらいで、うんざりなんじゃないかと思いまして。
≪戦う荒鷲たち 上≫
これは、ハヤカワ文庫の一冊。 かなり前に、本屋で平積みになっているのを見て、パラパラと捲ってみた事があったのですが、先日、図書館にあるのを見つけ、衝動借りして来ました。 で、読んでみたんですが、大変な期待外れ。 戦記物といっても、所詮、小説はフィクションですな。 ここのところ、本格的な戦史ドキュメンタリーを続けて読んでいたので、こんな軽薄な内容では、全く食い足りません。
話の中身は、第二次世界大戦中の、アメリカとドイツの戦闘機開発競争を描いたもの。 一種の群像劇で、主人公は決まっていません。 アメリカ人達の出番が一番多く、次がドイツ人、ソ連人、スエーデン人と続き、日本人も山本五十六がちょこっと出て来ます。 開発者がパイロットを兼ねていて、開発の合間に、戦場へ出撃していくという、相当には御都合主義の設定。 しかも、アメリカとドイツ両方の登場人物が、揃ってそんな活動をしているのです。 現実には、およそありえませんな。
作者がアメリカ人なので致し方ないところですが、文学としてのレベルは非常に低いです。 人間を描く事が、まるっきり出来ていません。 特に、女性絡みの場面は陳腐で、戦記物に恋愛物が混じっているような、珍妙な描写になっています。
ただ、空中戦の戦闘場面だけは、面白いです。 たぶん、作者が最も描きたかったのはそこなんでしょう。 敵も味方も、偏り無くバタバタ死んで行き、血も涙も無いリアリズムが活きています。
≪戦う荒鷲たち 下≫
これは、下巻。 上巻を読んで、がっかりしたので、下巻はパスしようかと思ったんですが、途中まで読んでやめると、気に掛かって、却って記憶に残ってしまうので、一応全部読んでから、綺麗さっぱり忘れる事にしました。
内容は、上巻と同じようなパターンですが、戦争も後半になるので、主要登場人物が、ちらほら戦死します。 ラストは、アメリカとドイツの戦闘機開発者同士が、輸送機で空中戦をやるという、ますますありえねー展開。 発想的には、アニメ・レベルですが、考えてみれば、アメリカ映画、≪パールハーバー≫なども、この種のアホ臭いラストがくっ付いてましたな。
女性の主要登場人物が、ナチスに捕まるのですが、収容所へ送られる列車内で、見張りを殺し、乗せられていたユダヤ人達を解放して、自分も逃げます。 空中戦の描写以外では、その部分だけ手に汗握ります。 でも、この場面も、第二次大戦物のアメリカ映画で、何度も見たような気がせんでもなし。
≪心病める人たち≫
統合失調症(旧精神分裂病)について知りたくなり、この本を借りて来たんですが、些かお門違いで、これは、精神病について書かれた本ではなく、精神医療をテーマにしたものでした。 しかも、随分前に一度借りていた事が、冒頭を読んでから判明しました。 何とも迂闊な話。 でも、覚えていたのは、その冒頭部だけで、それ以外は、まるで記憶無し。 どうなっとるんじゃ、私の記憶は?
出版されたのは1990年なので、最も新しくても、もう20年前の状況ですが、日本の精神医療というのは、非常に遅れているのだそうです。 戦前までは、精神病院が非常に少なくて、患者は、よほど悪くならない限り病院には掛からず、一般社会に溶け込んで暮らしていたのだとか。 それが戦後になると、補助金目当てに精神病院が乱立し、ちょっとでもおかしい所がある人間を片っ端からブチ込んで、退院されちゃ困るもんだから、治療もせんと閉じ込めていたのだそうです。 しかも、寿司詰めで。
この本の著者は、そんな状況の頃に、精神科医として病院に勤め始め、やがて、「これではいかんな」と独立して、開放病棟を基本にした新しい精神病院を立ち上げます。 この病院の運営方針が面白くて、近隣住民を呼び入れて盛大にお祭りをやったり、地下にディスコを作ったり、よくもこれだけ思いつくと思うくらい、様々なアイデアを実践します。 病院に長く居ついてしまう患者を減らす為に、普通の住宅地に家を借りて、患者の共同住居にし、自立を促す取り組みも興味深いです。
精神病の患者というのは、辺り構わず騒ぎまくるようなイメージがあったんですが、そういう症状は、出たとしてもごく短期間で、治療を始めるとすぐに覚め、大部分の時間は、むしろ陰陰滅滅とした気分で暮らしているのだそうです。 他人に危害を加える事より、当人が自殺しないか、そちらの方が問題なのだとか。 「精神病患者の心には、必ずまともな部分が残っていて、医師と会話が成立するからこそ、治療が成り立つのだ」という説明には、目から鱗が落ちた思いぞします。 なるほど、確かにその通りだ。
少々古くなったとはいえ、文句無しに面白い本です。 どうして、私が昔読んだ時、冒頭部分しか記憶に残らなかったのか、それが不思議です。
≪精神病≫
これは、そのものズバリの書名ですな。 今度こそ、統合失調症について詳しい事が分かるかと思ったんですが、またまた期待外れ。 症例は片手で数える程度しか載っておらず、やはり、精神医療制度に関する記述にウエイトが置かれていました。 思うに、日本の精神科医というのは、出版社から、「本を書きませんか」と持ちかけられると、自分が世間に知らせたい事を最優先でテーマに選びたがり、世間が知りたい事が何なのかは、念頭に浮かばないのではありますまいか。
ただ、≪心病める人たち≫よりは、内容が総合的なので、病気に関して大体の事なら分かります。 「こういう症状は、統合失調症である」という例がいくつか載っていますが、自分自身が当て嵌まる項目を見つけてしまい、大いにうろたえました。 いや、たぶん、誰でも、一つや二つ当て嵌まるとは思うんですがね。
一旦、「自分は統合失調症なのでは?」と疑い始めると、やる事なす事、「何か、変な事をしてるんじゃなかろうか」と、不安に襲われて困ります。 「統合失調症患者は、自分がおかしいとは思っていない」というのは、必ずしも正しくはないそうで、確かに、自分の異常を認めない患者もいるらしいのですが、認めていて、自分から病院にやってくる人もたくさんいるのだとか。 そりゃ、そうですわな。 自分はおかしくないと思っている人間が、たとえ家族からであっても、「お前、おかしいぞ」と言われて、「はい、そうですか」と、ほいほい病院に行くわけがありません。 自分でもおかしいと思っているからこそ、行くのです。
いくつか出ている症例の部分は、大変興味深いです。 精神病の特徴的症状に、≪妄想≫があるらしいのですが、「自分は見張られている」と医師に訴える患者が多いのだとか。 ≪妄想≫と≪空想≫の違いですが、≪空想≫は、いくら膨らませても、自分でそれが空想である事を承知しているのに対し、≪妄想≫では、自分で、その空想を真実だと思い込んでしまう点にあるんですな。 これは怖いわ。 だけどねえ、ネット上を見ると、結構そういう人多いですよね。 公共掲示板とか、オンライン百科事典とか、特に。 やばいっすねー。 そりゃー、要通院ですぜ。 今は、いい薬があるそうですよ。
統合失調症ですが、世界的に、時代の流れとして、症状が軽くなる傾向があるのだそうです。 つまり、文明が発達し、社会が複雑化してくると、それに対応できずに、精神に異常を来たすと見られるわけですな。 それが証拠に、未開社会では、統合失調症は見られないのだとか。 で、現代社会のどういう変化が影響したのか分かりませんが、19世紀から20世紀にかけて多かった悪化例が、最近は減って来ているのだそうです。
統合失調症の病理学的原因はつきとめられておらず、他者との関係がうまく築けないために、異常な行動パターンが醸成されてしまうという見方が主流になっているのだとか。 遺伝も若干関係しているようですが、今は、主要な原因とは考えられていないのだそうです。
まあ、いろいろと勉強になる本ですよ。 「自分も患者では?」という落とし穴に注意さえすればね。
≪ジャーナリズムの可能性≫
通信社に勤めて、戦後日本の報道業界を観察して来た著者が、ジャーナリズムの現状に対して述べた、苦言の書。 かなり濃い内容で、具体的事例を挙げつつ、ど真ん中全力投球の書き方をしています。 恐らく、新聞・雑誌の記者や、テレビの報道部の人間は、全員この本を読んでいるんじゃないでしょうか。 上司から読めといわれなくても、気になって仕方ありますまい。
ただ、そんな、≪バイブル視≫は、あくまで、報道業界内部での話でして、こちとら、部外者なので、ズケズケ批判させてもらいますと、この著者は、根本的な所で思い違いをしています。 「国家権力を監視し、批判的な立場を取るのが、ジャーナリズムに課せられた使命だ」というような事を言っているのですが、そんな使命は、全然、まるっきり、課せられていないと思います。 というか、一政権が永遠に続くのでもなければ、そんな事は、実行不能でしょう。
たとえば、ある政権が増税政策を打ち出し、それをジャーナリズムが批判したとします。 ところが、政権交代して、別の政権が誕生し、増税政策を取り消したら、ジャーナリズムは、その取り消しにも反対するんでしょうか。 常に時の政権に対して批判的立場を取るとしたら、自分達の主張に矛盾が発生するのは避けられますまい。
報道にとって一番大切なのは、≪政権の監視・批判≫よりも、≪客観性≫だと思うのですが、それについてはほとんど触れられていません。 どうも、この著者は、軍部の御用新聞・御用放送と化してしまった戦前の報道に対する反省を何よりも重視し、ジャーナリズムのあるべき姿を規定したようなのですが、「ジャーナリズムによる権力の監視で、戦争を防ぐ事が出来る」という理念は分かるものの、報道機関が報道を道具として使ったのでは、やはり、まずいでしょう。 「こういう情報があるから、こう判断せよ」と、そこまで指示してしまったら、それはもう、報道機関ではなく、≪影の政権≫になってしまうではありませんか。
報道の役目は、情報を客観的に伝える事であり、その情報から何をどう判断するかは、情報の受け手に委ねるのが本筋でしょう。 報道関係者に影響力が強いと思われる本だけに、根本的な思い違いが広まってしまうとしたら、恐ろしい事です。
今回は、以上、5冊まで。 回を追うごとに冊数が減っていますが、回を追うごとに感想文が長くなる傾向があるので、このくらいで充分、というか、このくらいで、うんざりなんじゃないかと思いまして。
<< Home