2010/05/09

捨てられない

  部屋に物が増える一方です。 いや、今に始まった事ではなく、かれこれ15年くらい、買った物を捨てられない生活が続いているので、累積に累積を重ね、ガラクタとゴミの巣と化しつつあるわけですな。

  私は、自他共に認める、≪筋金入りのケチ≫なので、一般平均と比べれば、買っている物は少ない方だと思います。 特に、後々、形になって残る物となると、年に1・2万円分くらいしか買いません。 であるにも拘わらず、じわじわと増えて行き、部屋はどんどん狭くなって行きます。

  普段、使う物ならば、いくら増えても、別に気になりませんが、現実には、そうではないから困ります。 買う時には当然、「使う」と思って買うわけですが、しばらく使うと、飽きるのです。 飽きると見向きもしなくなるので、ただの物体になり、使われない物体が長く部屋の空間を占拠していると、やがて始末に困る邪魔物となっていくわけです。

  とりわけ、コレクョンのつもりで買い集めた物というのは、ある段階を過ぎると、団扇の表と裏を引っ繰り返すように、鮮やかに飽きます。 しかも、割と下らない理由で壁に突き当たる。 たとえば、一定の値段以下で買える物を買い尽くしてしまって、それ以上コレクションを増やす為には、当初予定していた予算をオーバーしてしまう事態に至った場合、巻ききったゼンマイが、ぷつんと切れるように、「ああ、もういいや」と、諦めてしまいます。 そして、それ以上は増やせないのだと自覚した瞬間、それまでに揃えたコレクションにも、価値を感じられなくなってしまうのです。

  置き場所が無くなる、というケースも多いです。 何か物を集める場合、それを陳列、もしくは、収納する場所が必要になるわけですが、部屋の容積には限りがあるので、ある程度以上は、場所を確保できなくなります。 そして、「これ以上は、置き場所が無い」と悟った途端、これまた、「ああ、もういいや」になり、それまでに揃えたコレクションも、ゴミにしか見えなくなるのです。

  考えてみれば、凄い話です。 それまで、この世で最も価値がある物、それさえ手に入れば、幸福になること疑いなしと信じて来た物が、限界点を超えた途端、一気にゴミにまで価値が落ちてしまうのです。 人間が物に与えている価値というものが、いかに不確かな基準で計られているかが、よく分かります。

  買い物依存症の人が、買う行為だけに喜びを感じ、買った物は、袋のまま押入れに放り込んであるという話をよく聞きますが、彼らの場合、支払いを済ませた時点で、価値の分水嶺を越えてしまうのでしょうな。 ほんの数分早く、切り替わりが起これば、何百万、何千万というお金を失わなくて済むのに、何とも残酷な精神疾患があったものです。


  私の場合、大概の物は、買ってもすぐに飽きるのですから、「いっそ、最初から買わなければいいのではないか」と、時折、真剣に思う事があります。 しかし、これは、考え方の順序が逆で、買いたいと思う衝動が起こるからこそ買うのであって、最初から買わないで済むのなら、そもそも、問題など起こらないわけです。 これは、「鶏と卵、どっちが先か」などという微笑ましい問題ではなく、「人生はつらい事ばかりだから」と言いながら、生まれたばかりの赤ん坊を絞め殺す行為に通じる、危険性を孕んだ考え方です。「何かしたい」と思う気持ちがあるから生きていられるのであって、それを最初から潰してしまったのでは、もはや、人生とは言えますまい。

  しかし、現実問題として、私の部屋のゴミ・ガラクタは増え続けているのですから、その増殖速度を抑える努力は必要でしょうな。 唯一の解決方法は、新しく増えた分、古い物を捨てて行く事でしょう。 ところが、それが、私にはできないんですわ。

  ケチな性格なので、お金を出して買った物を、ゴミとして処分する事ができないという事情もありますが、それ以上に障碍になっているのは、過去の記憶と結びついた物を捨てる事への恐怖感です。 私は、15年ほど前、ある出来事で精神的に参ってしまった事があり、それまでの人生に価値を感じられなくなって、部屋にあったものを、3分の1くらい、一遍に捨ててしまいました。 その時は、「清々した」と思っていたのですが、数年経ってから、「あれ? あの時に買ったあれは、どこにしまったかな?」と探してみて、捨ててしまった事に気づき、愕然とする事が多くなりました。

  特に、今でも後悔頻りなのは、カメラの外付けストロボでして、中学の時にレンジ・ファインダーのカメラと一緒に買ってもらって、どこかへしまっておいたはずなのですが、13年くらい前に、写真趣味を再開した時、部屋中探し回ったにも拘らず、見つけられなかったのです。 ほぼ間違いなく、15年前の、≪大処分≫の時に、「こんな物、もう使わない」と思って、捨ててしまったんですな。 全く、悔しい。 今思い出しても地団駄踏みたくなります。

  リコーダーも、そうです。 小学校の時のソプラノと、中学の時のアルト、二本あったはずなんですが、これも、5年ほど前に、リコーダーを吹き始めた時、押入れから天井裏まで探して回ったんですが、見つかりませんでした。 ≪大処分≫の犠牲者だったに違いありません。 更に腹立たしいのは、捨てた時の事を覚えていない点です。 その時の気分で、ろくに考えもせず、過去を否定したいばっかりに、片っ端からホイホイ、ゴミ袋に放り込んでしまったに違いありません。 なんて、愚かな事を・・・。

  つまりねえ、同じ一人の人間であっても、考え方、感じ方、価値観は、ころころ変化するんですよ。 今日の自分と明日の自分は、別人だと言ってもいいです。 その一時だけの思い込みで、将来、利益になるか不利益になるか分からない事を判断してしまうのは、未来の自分に対する無責任な裏切り行為だと言っても宜しい。 過去の記憶と一体になった物というのは、一度捨ててしまえば、もう取り返しはつかないのです。 新しい物を買って来ても、それはまた別の物なのであって、捨てた物の記憶を補ってはくれません。

  巷で言われる、≪整理術≫とかで、「一年以上使わなかった物は、永久に使わない事が多いので、捨ててしまっても構わない」という法則をよく耳にしますが、私に関して言えば、そういう事は無いです。 確かに、一年使わなかった物は、二年目三年目にも使わない事が多いですが、更に進んで、十年くらい経つと、また使いたくなるのです。 一度、すっかり忘れられて、非日常的な存在になる事により、新鮮さが再付与されるのではないかと思います。 みんながみんなそうではないと思いますが、私と同じ感覚の人もいると思うので、やはり、物を捨てる際には、慎重の上にも慎重を期した方が良いと思います。 

  そういえば、≪ゴミ屋敷≫というのは、どこの町でも、一軒や二軒はあるものですが、家の敷地からはみ出しているとか、生ゴミが含まれていて、悪臭で近所が迷惑している、というのでもない限り、他人がどうこういうべきではないと思います。 よく、テレビ番組が、芸能人を送り込んで、なかば強引に片付けさせたりしていますが、たかが一番組の企画の為に、他人の持ち物を処分するなど、乱暴狼藉も甚だしい。 よく、あんな恐ろしい事ができるものです。

  その家の主が集めた物には、その人の過去の記憶が結びついているのであって、物を捨てるという事は、その人の過去を消してしまうに等しいのですが、そんな事には何の頓着も無く、見る物触れる物、一切合財、捨ててしまって、「綺麗になってよかったね」などと恩着せがましい事を言っている無神経さには、ぞーっと震えが来ます。

  ゴミ屋敷の主の方々は、こういう企画を思いついたプロデューサーやディレクターの家へ押しかけて行って、同じ事を仕返してやればいいのです。 「随分、物がありますね。 こんなの使ってないんでしょう。 思い切って捨てましょう。 これも要らないでしょう。 埃が溜まってるじゃありませんか。 もしかしたら、ほとんど家に帰ってないんじゃありませんか? どうせ使わないものばかりなんだから、この際、みんな捨てちゃって、一からやり直しましょう」と。 普通の家であっても、家の中にある物の八割は使われていませんから、捨てられても文句は言えないわけで、ダメージは大きいでしょう。 自分の過去の記憶を奪われれば、少しは人の痛みが分かるんじゃないでしょうか。


  人の事はさておき、私の部屋をどうするかですな。 一方で、新しく何かを買うのはやめられない。 他方で、買った物は捨てられない。 うーむ、進退窮まったのう。 破れた衣類など、もはや二度と使えず、取っておいても仕方がないものに関しては、写真を撮って捨てるという、≪遺影処理≫を実践していますが、電気製品や、ただ飽きただけで機能的には問題が無い道具類の場合、遺影さえとっておけばOKというわけにはいかないのです。 「使わないとはいえ、使えば使える物を捨てるのか?」と自問すると、ケチな私は、必ず負けます。

  売ってしまうという手もあり、それなら、無駄にはならないわけですが、リサイクル・ショップというのが、ちょっと怖くてねえ。 店と客とのやりとりを見た事がありますが、当然の事ながら、中古品なので、定価があるわけではなく、値段交渉と、それに伴う諍いが避けられません。 たとえば、一万円で買った物を、3年くらいしてから、リサイクル店へ持っていって、「500円ですね」とか言われたら、大概の人は血の気が引くでしょう。 でも、そんな情景は、ごく普通に見られます。

  それでも、値段がつくのはまだましで、「こういうのは、引き取りません」と言われる事も珍しくないです。 「タダでいいなら、引き取ります」と言われたら、それは、店側が客を騙そうとしている可能性があるので、他の店をあたってみる余地がありますが、にべもなく、きっぱりはっきり、「引き取りません!」と言われてしまうと、もう後がありません。 捨てるか、今まで通り、部屋に置いておくか、それ以外に選択肢は無いわけだ。 一大決心をして売りに行ったのに、すごすご持って帰ってくる情けなさといったら・・・。

  オークションで処分している人も多いでしょうが、私はどうも、あの個人同士のやり取りが嫌でしてねえ。 たとえば、電気製品なんて、必ず、故障や不具合あると思うのですが、最初からジャンク扱いでない限り、どうやって補償するんでしょう? 返品? ますます面倒臭い! 「送る前は正常だったのに、向こうへ着いたら壊れていた」というケースもあると思うのですが、そういう場合、互いに相手をどう信用するんでしょう? 「壊れた物を送ったな」、「いや、そっちで壊したんだろう」と言い出したら、水掛け論になるのは必至。 双方に悪意が無くても、この種の問題は起こるのであって、まして、どちらかが悪意を持っていた日には、良くて裁判沙汰、悪くすれば殺し合いにもなりかねません。

  それに、オークションって、一度やり始めると、味を占めて、何度も何度もやるでしょう。 会社でネットの話になると、オークションの話題しか口にしない輩が、必ず一人はいますが、実際、そういう人達にとっては、「インター・ネット=オークション」なのであって、病的にそればかりやっているんですな。 欲しい物を手に入れる為というより、物をやりとりする為だけに、オークションを続けているわけだ。 そうなってしまうのも、怖いと思うんですよ。 売るのに成功すれば、買うのにも手を出したくなるのは、火を見るよりも明らかです。 物を減らすつもりで、逆に増やしてしまったのでは、目も当てられません。

  というわけで、未だに、どうしたらいいのか、決めかねています。 使わない物が多すぎると、鬱陶しいですが、さりとて、物が減ったからといって、生活がより良くなるというわけでもないから、また厄介なのです。