2010/04/18

親捨て

  社会の仕組みというのは、自然に変化して行くものですが、それが分かっているのかいないのか、最近、頓に増えて来たのが、「親離れのできない子供」とか、「子離れのできない親」といった批判です。 ただし、この子供というのは、10代以下の、いわゆる子供ではなく、20代ですらなく、30代・40代の独身者を指します。 つまり、「いい年こいて、結婚もせんと、実家にしがみついて、親と一緒に暮らしている、情けない人間」という意味で、そういう関係にある親子を、蔑み、侮り、軽んじて、いい気になっているわけですな。

「人間は、大人になったら、親から独立するのが当たり前」

  この言葉、一見、至極もっともなように聞こえて、古来からの不変律、人類社会の基本的習慣、宇宙の真理のような印象すら与えます。 ところがぎっちょん、宇宙の真理など戯言もいいところ、人類社会の基本的習慣などでも毛頭無く、古来から続いてきたわけでも、まるっきりありません。 たかだか、この5・6年の間に、日本という狭~い社会で、俄かに流行し始めた考え方なのです。

  国によって、民族によって、地域によって、この種の社会習慣は、すべて違っています。 「大人になったら、親から独立するのが当たり前」である所もありますが、そうではない所もたくさんあります。 日本はどうかというと、ほんの5・6年前までは、こんな言葉は全く聞かれず、その前に、親子関係について何の評価もなされない期間が10年ほどあり、更にそれ以前は、「子供は親の面倒を見るのが当たり前」の社会でした。 すっかり打ち忘れていた方々、辛うじて思い出しました? そうなんですよ、今とは正反対の事が常識だったんですよ。

  その頃、テレビの報道番組を見ていたら、日本人男性と結婚したフィリピン人女性がインタビューを受けていました。 夫の実家での両親との同居に耐え切れずに逃げ出し、夫婦の間にできた子供をどうするかが問題になっていたのですが、その女性が、正にこのセリフを口にしていました。

「大人になったら、独立するのが当たり前でしょう? なんで、親と一緒に暮らさなければならないの?」

  つまり、フィリピンの、この女性の暮らしていた社会では、それが当然で、日本の習慣は、異常としか思えなかったわけですな。 しかし、それを聞いていた私は、「いや、日本では、それは通用しないだろう。 この夫にしてみれば、長男が実家を継ぐのは当然で、たとえ独立したいと思っても、周りが許さないのではないか?」と思っていました。 「もし、他に跡継ぎがいないのに、独立を強行すれば、親戚筋から、≪親捨て≫呼ばわりされるのは、避けられないだろう」とも、思いました。

  そうです、他に跡継ぎがいないのに、親元から離れてしまう事は、かつては、≪親捨て≫であり、≪家捨て≫だったのです。 ≪親捨て≫は、人間の情として許されず、≪家捨て≫は、社会の義として許されない行為でした。 「年老いた親を放置して、自分だけ女房・子供と気楽に暮らしている」という目で見られ、軽蔑されていたのです。 長男がさっさと家を出てしまい、弟や妹が親の面倒を押し付けられた場合、勝手な兄の事を、陰で、「人間のクズ」呼ばわりする事も、珍しく無かったと思います。 許されなかったんですよ、そんな事は。

  大昔の話じゃないですよ。 これを読んでいる人達の中で最年少世代の方々、あなた方が生まれた頃は、まだ、そんな時代だったのです。 嘘だと思ったら、お父さんお母さんに訊いてみなさい。 家を継いだ人と、家を出た人、家から出された人では、それぞれ、言い方や言い分に違いがあるかもしれませんが、基本的に、そういう習慣だった事は、誰でも認めると思います。

  この15年ほどで、日本社会の何が変わったかというと、「家を守る」という執着が薄くなった点が最大の変化だと思います。 昔は、どんな家であれ、親から子へ受け継いで、代を重ねて行く事が、使命だと思われていました。 親は子供を生殖本能だけで作っていたわけではなく、家を継がせる為の要員として、必要としたのです。 なぜ、そんなに家に拘ったかというと、「家を守らなければならない」という至上命題さえあれば、子供の内、一人は必ず家に残るので、親としては、年老いても面倒を見て貰える保証になったわけです。 子供を一人家に残せるか否かは、親にしてみれば、死活問題だったと言っても宜しい。

  ところが、その状況が変わって来ます。 年金制度が、貰う方に都合が良い形で作動し始め、老後の資金に困る人が減って来ました。 定年後、子供の収入に頼らなくても、生きて行ける時代になったんですな。 そうなると、親が子供を家に引き止める理由は無くなります。 見合い制度が崩壊し始めるのも、この頃からです。 「是が非でも子供を結婚させ、跡継ぎを確保しなければ、自分の老後が立ち行かなくなる」という危機感が失われたため、ただ面倒なばかりでなく、何かと出費も多い見合いを嫌うようになったのです。 子供がじゃないですよ、親の方がです。 見合い制度というのは、親の世代が維持していたシステムですから、親にやる気が無くなれば、それまでです。

  かくして、親が子供を家に繋ぎ止めていた時代は終わり、家の断絶が当たり前という新時代の幕が開きました。 「親捨て、家捨て、何が悪い!」ってなもんです。 「今時、実家を継ぐなんていったら、結婚相手が見つからないじゃないか」とも言います。 うむ、ごもっとも。 確かにその通りです。 「結婚して、相手の実家に嫁入りする」なんて話を聞くと、「大変だろうけど、頑張ってね」と笑顔で励ましつつ、腹の底では、「こいつ、馬鹿でねーの?」と、顔をしげしげ眺めてしまいます。

  大体、亭主の親なんぞ、全くの赤の他人と変わらないのであって、赤の他人と一つ屋根の下で暮らして、うまく行くわけがありますまい。 だから、血で血を洗う嫁VS姑戦争が、全国規模で勃発していたのであって、「愛があるから大丈夫なの」などと言うのは、ただの歌の文句である以前に、身勝手且つ能天気な亭主族の男がデッチ上げた妄想以外の何物でもなく、同居する赤の他人との確執に、精神に異常を来たすほど苦しめられる嫁や姑が、うじゃらこうじゃらこおったわけですよ。

  そういう悲劇が急激に少なくなったのは、家の存続が至上命題で無くなった時代の福音ですな。 ああ、よかったよかった。 人生の最も幸せな時期である新婚時代を、亭主の親という鬼or悪魔どもに邪魔されず、心行くまで楽しめるようになった事は、何にも増して素晴らしい。 とりわけ何が嬉しいといって、隣の部屋で聞き耳を立てている亭主の親どもを気にせず、思う存分、新婚セックスに没頭できるようになったのが、泣くほど嬉しい。 どんな恥ずかしい事を口にしても、誰も聞いちゃあいやしないと来たもんだ。 むふふふ。

  逆に言うと、昔が、いかにひどい条件で新婚生活をしていたかが分かります。 亭主の親だけじゃない、亭主の兄弟姉妹まで家の中に住んでいて、下手すりゃ、十人近い人間が、壁や襖に耳を押し当てて、「お、やっとるやっとる」とニカついていたわけだ。 ふっざけんなよ、てめーら。

  もっとも、立場を変えて考えれば、否が応でも、その種の音声を聞かされる方も、迷惑っつやー迷惑でしょうなあ。 受験生なんて、どうしてたんでしょうねえ? 徹夜で勉強に励んでいると、家のどこかから、兄夫婦がせっせと別の事に励んでいる音やら声やらが聞こえてくるわけだ。 当の然、勉強なんか手についたもんじゃありません。 んで、不合格で、兄貴から、「来年は、もっと頑張れよ」と・・・。 ふっざんなよ、てめーら。


  なんか、脱線してる? いかんなあ、すぐにテーマを忘れてしまいます。 何とか、元の路線に戻さねば・・・。 作文のハンドルが利かないんですよ、最近。 いや、実は昔からですけど。


  で、今は、そういうケースは、非常に稀になり、同居する場合でも、二世代住宅にして、各世代間の距離を保てるよう配慮するようになりました。 そうしないと、本当に結婚できなくなってしまったんですよ。 現在、40歳以下の女性に訊くとして、結婚したら、夫の親と一緒に夫の実家に住む、つまり、狭い意味での、≪嫁入り≫をしてもいいという人が、どれくらいいますかねえ。 一割以下は当然、5パーセントすら、いるかどうか。 1パーセント以下でも、ちっとも驚きません。

  妻にしてみれば、夫の親に気に入られようとはしても、同居となると話は別でして、結婚した後で夫から持ちかけられても、頑強に抵抗すると思います。 それは当然の事でして、結婚条件違反ですから、夫が、「どうしても同居する」と言い張った場合、離婚に至っても、全然おかしくないと思います。 そういう時代なんですな。 離婚しても、今は女性が就く仕事がいくらもありますから、食いはぐれる事は無いですし、最悪の場合、自分の実家に帰るという道もあります。 亭主の親なんぞという得体の知れぬ化け物と同居するよりは、自分の実家に帰った方が、数億倍マシ。

  かくして、結婚するなら、家を出るのが当たり前という時代になったわけです。 ああ、漸く、元のテーマに戻って来ました。 良かった良かった。 一時はどうなる事かと思った。 で、そうなったはいいんですが、この、結婚して家を出た連中が、変な事を言い出したのですよ。

「人間は、大人になったら、親から独立するのが当たり前だ」

  とね。 まるで、古来からの不変律、人類社会の基本的習慣、宇宙の真理のように、それが人としての本道であって、「大人になっても親元で暮らしている人間は、出来損ないなのだ」と、そこまで言い出したのです。 おいおいおいおい!

  あのなあ、今みたいな世の中になったのは、ほんの最近の話なんだよ。 何言ってんだよ! 馬鹿も休み休み言え! お前の親を見ろ! 長男で実家を継いだ人を親に持っていれば、目の前に実例がいるだろうが! そんじゃ、何か? 家を継いで、親の面倒を見て、お前を育てた、その人は、出来損ないだったのか? お前は、出来損ないに育てられたのか? そりや、自己否定だぞ。 狂っているのか、お前は?

  これねえ、社会学者クラスの人まで、「大人になったら、独立するのが当然」などと言い出していまして、かなり根が深い問題になっています。 何年か前に、≪パラサイト・シングル≫という言葉が流行りまして、それは、学者が指摘した現象なんですが、それとこれとは、また違う問題です。 パラサイト・シングルというのは、単に親元に住んでいるだけでなく、経済的に自立できずに、部分的もしくは全面的に、親の収入で養われている者を指します。 それが問題だというなら、まあ、分からないでもないですよ。 ところが、今、言われているのは、実家を継ぐつもりで親元に残っている人間まで出来損ない扱いする、糞味噌ごっちゃの批判なのです。

  なんで、私が激怒しているかというと、私自身が、そういうつもりで、親と一緒に暮らしているからです。 他人事じゃ無いんですな。 いつか、親は死ぬわけですが、葬式を出すのは誰だ、法事をやるのは誰だ、墓を守るのは誰だ、という事になったら、実家に残っている人間がやるしかないでしょう。 何が悪いのか、全く理解に苦しみます。 それ以前に、親が死ぬ前に、闘病生活にでもなったら、入院費や治療費を誰が出すんですか? 退院して自宅療養する事になったら、誰が面倒見るんですか? 独立して、別の家庭を築いている、ご立派な大人の皆さんが、それをやりますかね? まあ、やらんでしょうな。

  ちなみに、うちの近所では、老夫婦だけで住んでいた家で、どちらか一方が死ぬと、必ず家が取り壊され、決まって月極め駐車場に変わります。 そんな家が、何十軒あることか。 駐車場ばかりで、停める車が足りないほどです。 老夫婦にしてみれば、「自分達が死んだら、子供が帰って来て、家に住んでくれる」と期待していたと思うのですが、そんな事が起こるはずがないのです。 だって、自分の家をもう持ってしまった子供が、実家を継げるわけがないじゃありませんか。 家が二軒あっても、体は一つしか無いですからね。 そこで、一人になった親を自分の家に引き取るか、老人施設に入れるかし、無人になった実家は、維持するにも手間暇&金がかかるので、潰すしかなく、潰した後、有効に使える方法といったら、月極め駐車場にするしかないというわけ。 しかし、それが、誉められるような処置かね?

  だーからねー、「大人になったら、独立するのが当たり前」なんて偉そうな事、言わなきゃいいんですよ。 ろっくでもない。 人それぞれ、家それぞれに事情があるんですから、一緒くたに論じようとするのが、すでに無理があるのです。 逆に、実家で親と暮らしている者から、「人間は、大人になったら、親の面倒を見るのが当たり前」と言われたら、あんた方、立つ瀬が無いでしょうが。

「人間は、大人になったら、親から独立するのが当たり前だよ」
「ふーん。 だけど、お前のやっている事は、≪親捨て≫じゃないのかね?」

  そう言われたら、何て応えるのよ? 「親捨ての何が悪い?」と、開き直るかね? できないよなあ。 その論法で行くと、「人殺しの何が悪い?」、「戦争の何が悪い?」まで、OKになっちゃうものねえ。

  中には、今でも、家を継ぐ事を親や親戚から要求され、渋々嫌々、実家に残り、何かと窮屈な人生を送っている人もいるわけだ。 なぜ、そんな人生に耐えられるかといえば、それが自分に与えられた使命だと思っているからです。 そうする事によって、周囲の期待に応えられると思えばこそです。 それが、あーた、実家を出て行って、好き勝手に暮らしている連中から、「大人になったら、独立するのが当たり前」なんて、言われた日には、頭に来ないでいられましょうか、いいや、いられるわけが無い! どこの無神経だ、そんな暴言吐いている馬鹿は!

「じゃあ、何か? 実家を継いだ俺は、大人じゃないのか? 死ぬまで子供のままだというのか? 家のためだと思って残っているのに、そんな評価をされるのか? じゃあ、出て行ってもいいのか? 親を捨てても、批判される事は無いんだな。 親捨ての方が正しいんだな」

  ええ? この問いに、何と応える? それでもまだ、「独立して当然」と言えるかね?

  また、そんなこと書いている学者に限って、自分は、実家から出ているんですわ。 自分から出たのか、追い出されたのか知りませんが、とにかく、親とは一緒に暮らしていない。 そして、「独立して当然」と主張しているわけです。 誰でも、自分の人生は、真っ当な道を歩んでいるものだと思い込みたいわけで、「自分は独立している。 だから、独立するのが人間の真っ当な道だ」と、超単純に判断してしまったものと思われます。 本当に学者かよ。 主観もいいところだ。

  笑ってしまうのが、この「独立して当然」と考えている連中、自分は親を捨てたくせに、自分の子供は自分の面倒を見てくれるはずだと思っているんですよ。 馬鹿か? そんな事になるわけないだろ。 どういう論理を組み立てれば、そういう虫のいい結論が出るんじゃい? 当然、お前の子供も、お前に倣って、家を出て行くよ。

  お前が病気になったって、一回見舞いに来るのが関の山で、看病なんぞするものかは。 死ねば、葬式もやらん。 病院から電話を貰って、「引き取れませんから、献体にして下さい」で終わりだ。 わはははは! お前は、墓にも入れねーのさ! でも、しょうがないよなあ、それが、独立って事だものなあ。 たかだか墓の掃除であっても、子供の世話になってたんじゃ、独立しているとは言えないものなあ。 よかったなあ、独立派の諸兄諸姉よ。 生前の信条通り、立派な無縁仏になれて。 独立万歳! 親捨て、エクセレント!

  社会にはいろんなパターンがあるんですよ。 「独立が当然」になっている社会もあれば、「家を守るのが当然」になっている社会もあり、一方から他方に移行しつつある社会もあります。 日本社会は今、その移行期の一つの終盤にあると言えるでしょう。 だけど、どのパターンも、決して、≪唯一無二の正しい形≫などではありません。 長期的に見れば、所詮は皆、一時的なものです。