2010年・初夏の読書
風邪を引きました。 先週の土曜日、あまりの暑さに耐えかねて、壁掛け扇風機を出したはいいんですが、調子に乗って、夜通し当たっていたら、日曜日には、呆気無く、風邪を引いていました。 最初は症状が軽くて、平日の間は、ほとんど普段と変わらない生活をしていたんですが、週末になったら、一気に悪化し、鼻水は止まらないわ、喉は痛いわ、「ワールド・カップどころじゃねーよ、勝手にやってんさい」てなもんで、ほぼ、ブラック・アウト状態です。
というわけで、困った時の読書感想文の出番となりました。 いやあ、本を読むたびに、ちょこちょこ、感想文を書いておくと、こういう時に助かりますな。 とはいえ、写真を用意したり、こんな前置きを書くだけでも、かなり辛い状態でして、決して、手抜きではないので、その辺のところを、くれぐれもご承知おき下され。
≪ベトナム戦争≫
題名だけ見ると、いかにも戦史という感じですが、期待に反し、戦争自体よりも、背景となった国際政治の経緯に焦点が当てられています。 特に書き込みが濃いのは、南ベトナム政府・歴代政権の内幕でして、それがこの本の最大の特徴といってもいいです。 南ベトナムがどんな国だったのか、消滅した後、誰も興味を持たなくなってしまったので、今となっては貴重な記述ですな。
呆れるのは、ゴ・ディン・ジェム政権にファースト・レディーとして君臨していた、ゴ・ディン・ニュー夫人でして、こんな恐ろしい女が本当にいたかと思うと、冷や汗たらたら、戦慄を禁じえません。 政府に抗議して焼身自殺した僧侶を罵り、「バーベキュー」呼ばわりしたというから凄い。 死んだ坊さんも、あの世で顎が外れたでしょう。 しかも、この人道のかけらも感じられないセリフを、外遊中のアメリカで口にしたというのだから驚きます。 完全に女王気取りで、自分が周囲からどう見られるか、全く念頭に無かったのでしょう。
南ベトナム政府のやっていた事を見ていると、「これでは、勝てなくて当然」という気がしますが、それほどひどくても、経済的には、北ベトナムよりも遥かに豊かだったというのですから、ちょっと理解しにくい所があります。 逆に言えば、経済的には豊かでも、政府は腐っていて、軍隊も使い物にならぬくらい弱かったわけだ。
ちなみに、南ベトナム軍が戦っていた主な相手は、南ベトナム内の反政府ゲリラ組織、≪南ベトナム解放民族戦線≫、通称、≪ベトコン≫でして、北ベトナム軍ではありません。 つまり、相手は国内ゲリラだったわけですが、ずっと装備が優れているはずの政府軍なのに、全然敵わないんですな。 そもそも、戦う気が無く、「作戦」と言いながら、田園地帯をうろついていただけなのだとか。 そりゃ、負けもしようってもんだわさ。
アメリカ政府のベトナム政策についても、多くのページが割かれていますが、これらは、割合知られている事なので、新味はありません。 一方、北ベトナム側の記述は、比較にならないほど少ないです。 中国・ソ連についても、非常に希薄。 この点、この本は、一方に偏っており、一戦争の記録として失格なのですが、題名が、≪ベトナム戦争≫だからおかしいのであって、≪南ベトナムの戦争≫という題にでもすれば、ちょうど良くなると思います。 他の本には書いてないような事が書いてあるので、読む価値はあります。
ただ、編年体になっていないので、時間軸が何度も前後し、ベトナム戦争全体の流れを知ろうと思うと、障碍が大きいです。 予備知識が無い人が読んだ場合、混乱する恐れもあります。 お世辞にも、初心者向けではありませんな。
≪考えないヒト≫
携帯電話が普及してから、日本人の思考能力が衰えたという趣旨の研究。 携帯電話といっても、この本で問題にされているのは、会話ではなく、メールの方で、特に、ギャル文字や絵文字を使う事が、文字による情報から、図形による情報への移行を示していて、携帯に頼って暮らしている人間をどんどん考えなくさせているという分析が展開されています。
著者は、霊長類の研究をしている学者で、専門は比較行動学。 しかし、この本は、生物学、生理学、社会学、言語学、記号学と、多くの分野に跨る学際的な研究の成果です。 人間社会が、現在どう変化しつつあり、今後どうなって行くかを解明しようと試みていて、新書とはいえ、さらっと読み流せない、重要な
テーマを扱っています。
とはいうものの、少々、眉に唾をつけなければならない所も無いではなし。 ギャル文字の件りなど、100人中100人が、「こんな字では、意味が通じないだろう」と思うような例を挙げて分析していますが、こういうのは、例というより、例外と言うべきでしょう。 一国の社会全体の傾向を分析するのに、一体何人の人間が使っているのか疑問が湧くような極端な例をデータに使っていたのでは、信用できる研究にはなり得えません。
また、「携帯メールの普及による人間の退化は、日本で最も進んでいて、携帯使用が日本以上に盛んな北欧では、さほど問題になっていないが、日本と共通した社会構造を持つ、韓国・中国、東南アジアなどでは、日本同様に、今後、急速に退化が進んでいくだろう」という結びも、かなりいい加減です。
韓国の携帯文化が日本より進んでいるのは常識的な事ですが、この著者にはその認識が無いらしく、未だに、東アジアの≪雁行型発展モデル≫が生きていると思っている模様。 現状把握の段階で間違えているとなると、それらを基にした分析も間違っている可能性が高いです。 イメージだけで、十把一絡げはいかんで。 大家族が崩壊しているのは、東アジアだけではなく、発展度がある程度進んだ国では、世界中で見られる現象でしょうに。
日本で携帯メールがよく使われるのは、パソコンのキーボードを打てない人が多いからだと思うのですが、その点にも全く触れていません。 日本語と外国語では、入力方式に大きな違いがあるのですから、なぜ日本でだけ、携帯メールへの依存度が高いかを論じるならば、当然、そちらの事情も考慮しなければなりますまい。
ただ、それらの問題点を差し引いても、この本の提示しているテーマには、無視できない重要性があると思います。 「確かに、社会は変わりつつある」と気づかせてくれる、刺激的な指摘を含んでいるのです。
≪未来の思想≫
昭和42年、つまり、1967年に書かれた本。 著者は小松左京さん。 初期の長編、≪果てしなき流れの果てに≫が1966年ですから、その翌年に書かれた事になります。 この頃、≪未来学≫というのが流行っていたらしいですが、それと濃い関係がある本じゃないかと思います。 ちなみに、≪日本沈没≫がメガヒットして、小松さんの名前が日本全国に知れ渡るのは、1973年。
中公新書である事を見ても分かるように、小説ではなく、論文です。 前半と後半でテーマが異なっていて、前半では、人類が過去に、どんな形の未来観を抱いていたかを述べています。 未来観というと、SFチックに聞こえるので、過去と結びつきにくいですが、そんなに難しい事ではなく、死んだらどうなるかとか、各宗教で遠い未来にどんな世界が到来すると予想していたか、というような事です。
後半になると、いわゆる普通にイメージされる、未来予測の類になります。 現在までに到達した科学技術の成果を述べ、それが発達して行ったら、どうなって行くかを予測しています。 後半だけ見ると、対象はもはや思想ではなくなってしまうので、≪未来の思想≫という題名からは外れてしまうのですが、その点は著者も承知していたらしく、後書きで、そういう本になってしまった理由を書いています。
すでに、40年も前の本なのですが、そうと知っていなければ、今世紀になってから出版されたと思い込んでしまうほど、内容が古びていません。 特に後半の、科学技術の現状について書かれた件りを読むと、「40年前でも、ここまで分かっていたのか!」と、新鮮な驚きを覚えます。 逆に言うと、それ以降、ビッグ・サイエンスの分野では、発展に足踏みが続いているという事なのかもしれません。
「人類はもはや、機械に頼らなければ、社会を維持できなくなってしまっている」という指摘は面白いです。 なるほど、確かにその通り。 これだけ人口が増えた状態で昔の生活に戻ったのでは、生産力が低くなりすぎて、餓死者が続出するでしょう。 人口を減らす事をためらわないなら、戻せん事もないと思いますが、そんな計画に全人類的な合意を得るのは困難です。
この種の本、40年前だから出せたのであって、もし今だったら、作家はもちろん、学者でさえ、名を惜しむ人であれば、怖くて手を付けられないと思います。 予測がことごとく外れる危険性が高いからです。 人類社会全体が、科学技術の急激な発達に拒絶反応を示す一方、科学技術に頼らなければ生きていけないという板挟みの状態が、未来予測をひどく難しいものにしてしまったんですな。
≪朝鮮戦争≫
書かれたのは、昭和41年、つまり、1966年でして、朝鮮戦争に関する分析としては、かなり古い時期の著作です。 まずそれを念頭において、読み始めなければなりません。 歴史というのは、人々の記憶に新しい頃より、時間が経ってからの方が、研究が進んで、正確な経緯が判明するという特徴があります。 戦史のように隠蔽される事が多い分野では、尚更その傾向が強まります。 すなわち、戦後間も無く書かれたからといって、その分、正確だとは限らないという事です。
所詮、ページ数の少ない新書本ですから、3年も続いた戦争の、詳細な記録というわけには行かず、この本では、朝鮮戦争の政治的な流れだけを追っています。 しかも、朝鮮・中国・ソ連側の資料が、この頃の日本では手に入らなかったとの事で、専ら、アメリカ側の対応だけが記されています。 現代史の研究の難しさが、もろに出ていますな。
已むを得ない事情とはいえ、基本資料に偏りがあるのは否定できないので、記述を全て鵜呑みにしないように心がけるべきでしょう。 著者は、極力、客観的な位置からこの戦争を眺めようとしていますが、もし、歴史という学問に誠実であるならば、資料が偏っている段階では、こういう本を出版しない方が、より良識的な判断だったと思います。
著者が最も力を入れて記しているのは、戦争前半のアメリカ側指揮官であったマッカーサーが、いかに好戦的で、傲慢であったかという点です。 これは、知らない者にとっては意外な事実ですな。 朝鮮戦争に於けるマッカーサーというと、≪仁川上陸作戦≫などで、歴史的な名采配を振るったイメージがありますが、実際には、この人物のせいで、戦争が拡大し、長引いたのだそうで、功よりも罪の方が大きかったのだとか。
最大の問題点は、本国アメリカ政府の意向を無視して、個人的な反共主義への執着から戦争の方針を決めようとした事です。 これだけ勝手放題な事をやったのでは、トルーマン大統領を怒らせ、戦争途中で解任されたのも当然という気がします。 朝鮮戦争当時、マッカーサーのおかげで国が復興したと考えていた日本人の大半は、こういった事情を知らず、帰国するマッカーサーを見送るために、沿道に20万人も繰り出したのだとか。 知らぬが仏ですな。
戦争そのものに関する記述は皆無に等しいので、そちらを期待していると肩透かしを喰らいますが、大雑把な政治的流れを知るだけなら、分量的には、ちょうど良いと思います。 ただ、この本で使われている各国の呼び名には、現在、蔑称とされている物が多いので、影響されて、つい使ってしまうような事がないように注意すべきでしょう。
今回は、以上、4冊。 前回も書きましたが、一冊当たりの感想が、どんどん長くなります。 極端な性格の持ち主というのは、一旦、ある方向に傾くと、そちらへズルズル引っ張られていく流れを止められないのです。
というわけで、困った時の読書感想文の出番となりました。 いやあ、本を読むたびに、ちょこちょこ、感想文を書いておくと、こういう時に助かりますな。 とはいえ、写真を用意したり、こんな前置きを書くだけでも、かなり辛い状態でして、決して、手抜きではないので、その辺のところを、くれぐれもご承知おき下され。
≪ベトナム戦争≫
題名だけ見ると、いかにも戦史という感じですが、期待に反し、戦争自体よりも、背景となった国際政治の経緯に焦点が当てられています。 特に書き込みが濃いのは、南ベトナム政府・歴代政権の内幕でして、それがこの本の最大の特徴といってもいいです。 南ベトナムがどんな国だったのか、消滅した後、誰も興味を持たなくなってしまったので、今となっては貴重な記述ですな。
呆れるのは、ゴ・ディン・ジェム政権にファースト・レディーとして君臨していた、ゴ・ディン・ニュー夫人でして、こんな恐ろしい女が本当にいたかと思うと、冷や汗たらたら、戦慄を禁じえません。 政府に抗議して焼身自殺した僧侶を罵り、「バーベキュー」呼ばわりしたというから凄い。 死んだ坊さんも、あの世で顎が外れたでしょう。 しかも、この人道のかけらも感じられないセリフを、外遊中のアメリカで口にしたというのだから驚きます。 完全に女王気取りで、自分が周囲からどう見られるか、全く念頭に無かったのでしょう。
南ベトナム政府のやっていた事を見ていると、「これでは、勝てなくて当然」という気がしますが、それほどひどくても、経済的には、北ベトナムよりも遥かに豊かだったというのですから、ちょっと理解しにくい所があります。 逆に言えば、経済的には豊かでも、政府は腐っていて、軍隊も使い物にならぬくらい弱かったわけだ。
ちなみに、南ベトナム軍が戦っていた主な相手は、南ベトナム内の反政府ゲリラ組織、≪南ベトナム解放民族戦線≫、通称、≪ベトコン≫でして、北ベトナム軍ではありません。 つまり、相手は国内ゲリラだったわけですが、ずっと装備が優れているはずの政府軍なのに、全然敵わないんですな。 そもそも、戦う気が無く、「作戦」と言いながら、田園地帯をうろついていただけなのだとか。 そりゃ、負けもしようってもんだわさ。
アメリカ政府のベトナム政策についても、多くのページが割かれていますが、これらは、割合知られている事なので、新味はありません。 一方、北ベトナム側の記述は、比較にならないほど少ないです。 中国・ソ連についても、非常に希薄。 この点、この本は、一方に偏っており、一戦争の記録として失格なのですが、題名が、≪ベトナム戦争≫だからおかしいのであって、≪南ベトナムの戦争≫という題にでもすれば、ちょうど良くなると思います。 他の本には書いてないような事が書いてあるので、読む価値はあります。
ただ、編年体になっていないので、時間軸が何度も前後し、ベトナム戦争全体の流れを知ろうと思うと、障碍が大きいです。 予備知識が無い人が読んだ場合、混乱する恐れもあります。 お世辞にも、初心者向けではありませんな。
≪考えないヒト≫
携帯電話が普及してから、日本人の思考能力が衰えたという趣旨の研究。 携帯電話といっても、この本で問題にされているのは、会話ではなく、メールの方で、特に、ギャル文字や絵文字を使う事が、文字による情報から、図形による情報への移行を示していて、携帯に頼って暮らしている人間をどんどん考えなくさせているという分析が展開されています。
著者は、霊長類の研究をしている学者で、専門は比較行動学。 しかし、この本は、生物学、生理学、社会学、言語学、記号学と、多くの分野に跨る学際的な研究の成果です。 人間社会が、現在どう変化しつつあり、今後どうなって行くかを解明しようと試みていて、新書とはいえ、さらっと読み流せない、重要な
テーマを扱っています。
とはいうものの、少々、眉に唾をつけなければならない所も無いではなし。 ギャル文字の件りなど、100人中100人が、「こんな字では、意味が通じないだろう」と思うような例を挙げて分析していますが、こういうのは、例というより、例外と言うべきでしょう。 一国の社会全体の傾向を分析するのに、一体何人の人間が使っているのか疑問が湧くような極端な例をデータに使っていたのでは、信用できる研究にはなり得えません。
また、「携帯メールの普及による人間の退化は、日本で最も進んでいて、携帯使用が日本以上に盛んな北欧では、さほど問題になっていないが、日本と共通した社会構造を持つ、韓国・中国、東南アジアなどでは、日本同様に、今後、急速に退化が進んでいくだろう」という結びも、かなりいい加減です。
韓国の携帯文化が日本より進んでいるのは常識的な事ですが、この著者にはその認識が無いらしく、未だに、東アジアの≪雁行型発展モデル≫が生きていると思っている模様。 現状把握の段階で間違えているとなると、それらを基にした分析も間違っている可能性が高いです。 イメージだけで、十把一絡げはいかんで。 大家族が崩壊しているのは、東アジアだけではなく、発展度がある程度進んだ国では、世界中で見られる現象でしょうに。
日本で携帯メールがよく使われるのは、パソコンのキーボードを打てない人が多いからだと思うのですが、その点にも全く触れていません。 日本語と外国語では、入力方式に大きな違いがあるのですから、なぜ日本でだけ、携帯メールへの依存度が高いかを論じるならば、当然、そちらの事情も考慮しなければなりますまい。
ただ、それらの問題点を差し引いても、この本の提示しているテーマには、無視できない重要性があると思います。 「確かに、社会は変わりつつある」と気づかせてくれる、刺激的な指摘を含んでいるのです。
≪未来の思想≫
昭和42年、つまり、1967年に書かれた本。 著者は小松左京さん。 初期の長編、≪果てしなき流れの果てに≫が1966年ですから、その翌年に書かれた事になります。 この頃、≪未来学≫というのが流行っていたらしいですが、それと濃い関係がある本じゃないかと思います。 ちなみに、≪日本沈没≫がメガヒットして、小松さんの名前が日本全国に知れ渡るのは、1973年。
中公新書である事を見ても分かるように、小説ではなく、論文です。 前半と後半でテーマが異なっていて、前半では、人類が過去に、どんな形の未来観を抱いていたかを述べています。 未来観というと、SFチックに聞こえるので、過去と結びつきにくいですが、そんなに難しい事ではなく、死んだらどうなるかとか、各宗教で遠い未来にどんな世界が到来すると予想していたか、というような事です。
後半になると、いわゆる普通にイメージされる、未来予測の類になります。 現在までに到達した科学技術の成果を述べ、それが発達して行ったら、どうなって行くかを予測しています。 後半だけ見ると、対象はもはや思想ではなくなってしまうので、≪未来の思想≫という題名からは外れてしまうのですが、その点は著者も承知していたらしく、後書きで、そういう本になってしまった理由を書いています。
すでに、40年も前の本なのですが、そうと知っていなければ、今世紀になってから出版されたと思い込んでしまうほど、内容が古びていません。 特に後半の、科学技術の現状について書かれた件りを読むと、「40年前でも、ここまで分かっていたのか!」と、新鮮な驚きを覚えます。 逆に言うと、それ以降、ビッグ・サイエンスの分野では、発展に足踏みが続いているという事なのかもしれません。
「人類はもはや、機械に頼らなければ、社会を維持できなくなってしまっている」という指摘は面白いです。 なるほど、確かにその通り。 これだけ人口が増えた状態で昔の生活に戻ったのでは、生産力が低くなりすぎて、餓死者が続出するでしょう。 人口を減らす事をためらわないなら、戻せん事もないと思いますが、そんな計画に全人類的な合意を得るのは困難です。
この種の本、40年前だから出せたのであって、もし今だったら、作家はもちろん、学者でさえ、名を惜しむ人であれば、怖くて手を付けられないと思います。 予測がことごとく外れる危険性が高いからです。 人類社会全体が、科学技術の急激な発達に拒絶反応を示す一方、科学技術に頼らなければ生きていけないという板挟みの状態が、未来予測をひどく難しいものにしてしまったんですな。
≪朝鮮戦争≫
書かれたのは、昭和41年、つまり、1966年でして、朝鮮戦争に関する分析としては、かなり古い時期の著作です。 まずそれを念頭において、読み始めなければなりません。 歴史というのは、人々の記憶に新しい頃より、時間が経ってからの方が、研究が進んで、正確な経緯が判明するという特徴があります。 戦史のように隠蔽される事が多い分野では、尚更その傾向が強まります。 すなわち、戦後間も無く書かれたからといって、その分、正確だとは限らないという事です。
所詮、ページ数の少ない新書本ですから、3年も続いた戦争の、詳細な記録というわけには行かず、この本では、朝鮮戦争の政治的な流れだけを追っています。 しかも、朝鮮・中国・ソ連側の資料が、この頃の日本では手に入らなかったとの事で、専ら、アメリカ側の対応だけが記されています。 現代史の研究の難しさが、もろに出ていますな。
已むを得ない事情とはいえ、基本資料に偏りがあるのは否定できないので、記述を全て鵜呑みにしないように心がけるべきでしょう。 著者は、極力、客観的な位置からこの戦争を眺めようとしていますが、もし、歴史という学問に誠実であるならば、資料が偏っている段階では、こういう本を出版しない方が、より良識的な判断だったと思います。
著者が最も力を入れて記しているのは、戦争前半のアメリカ側指揮官であったマッカーサーが、いかに好戦的で、傲慢であったかという点です。 これは、知らない者にとっては意外な事実ですな。 朝鮮戦争に於けるマッカーサーというと、≪仁川上陸作戦≫などで、歴史的な名采配を振るったイメージがありますが、実際には、この人物のせいで、戦争が拡大し、長引いたのだそうで、功よりも罪の方が大きかったのだとか。
最大の問題点は、本国アメリカ政府の意向を無視して、個人的な反共主義への執着から戦争の方針を決めようとした事です。 これだけ勝手放題な事をやったのでは、トルーマン大統領を怒らせ、戦争途中で解任されたのも当然という気がします。 朝鮮戦争当時、マッカーサーのおかげで国が復興したと考えていた日本人の大半は、こういった事情を知らず、帰国するマッカーサーを見送るために、沿道に20万人も繰り出したのだとか。 知らぬが仏ですな。
戦争そのものに関する記述は皆無に等しいので、そちらを期待していると肩透かしを喰らいますが、大雑把な政治的流れを知るだけなら、分量的には、ちょうど良いと思います。 ただ、この本で使われている各国の呼び名には、現在、蔑称とされている物が多いので、影響されて、つい使ってしまうような事がないように注意すべきでしょう。
今回は、以上、4冊。 前回も書きましたが、一冊当たりの感想が、どんどん長くなります。 極端な性格の持ち主というのは、一旦、ある方向に傾くと、そちらへズルズル引っ張られていく流れを止められないのです。
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