Justice L1
もう終わってしまいましたが、つい先週まで、教育テレビの日曜午後6時から、≪ハーバード 白熱教室≫という番組をやっていました。 ハーバード大学の、マイケル・サンデル教授が、大きな講堂に千人以上の学生達を集め、彼らと議論しながら進めた政治哲学の講義、≪Justice(正義)≫の様子を録画したものです。
ハーバード大学では、講義は非公開が原則らしいのですが、この講義はあまりにも面白く、人気があったために、特例として、テレビ・カメラが入るのを許したのだとか。 NHK教育は、それを買って、放送しただけなわけですが、おそらく、過去に日本のテレビで放送された番組の中で、最も知的レベルが高いシリーズになったと思われます。
取り上げている対象自体は、政治哲学の講義として、さほど珍しくない内容だと思いますが、過去の著名な哲学者達の説をただ紹介するだけでなく、問題を身近な例に置き換えて、学生達に考えさせ、彼らの意見を聞きながら講義を進める形式が、実にユニークです。 単に風変わりなだけでなく、この形式の方が、学生達に与える印象は確実に強くなりますから、教育方法としても、優れているわけですな。 サンデル教授の、教育者としての高い能力の賜物でしょう。
私の場合、たまたま、放送時間にチャンネルを回し見していて、「おや! 面白そうなものをやっているぞ!」と飛びついて、知る事ができたのですが、教育テレビですし、時間も夕方と中途半端で、見逃した人も多かった事でしょう。 新聞でも、関係書籍の書評が一度出た程度で、そんなに話題にはなりませんでしたし。 しかし、これを見なかったのは、知的な事柄に興味がある人にとっては、相当痛い損失だと思います。 もし、DVDが出たら、買って見ても、損は無いような内容です。
放送は、全12回でしたが、一回が前半と後半に分かれていて、それぞれ30分ずつ、講義のレクチャー数にして、全部で24回分ありました。 私は録画して、毎回、3度くらい見直しましたが、それでも、全部理解できたかどうか分からない程度のレベルでした。 学生達に向けて出された、身近な例の質問が面白いので、ここで紹介して、私も考えてみようと思います。
≪レクチャー 1≫のテーマは、【犠牲になる命を選べるか】です。
≪時速100kmのスピードで走っている路面電車を運転している時、ブレーキが壊れている事に気付いた。 前方には5人の労働者がいて、そのまま直進すれば間違いなく5人とも轢き殺してしまう。 しかし、その手前に待避線があり、そちらへ行けば、1人の労働者を轢き殺すだけで済む。 あなたならどうするか?≫
この質問に対し、ほとんどの学生は、1人を殺す方を選びます。 まあ、単純な算数ですな。 どうせ犠牲が避けられないなら、その人数は少ない方がいいという判断です。 ところが、サンデル教授は、もう一つ、質問を付け加えます。
≪ブレーキが壊れて、時速100kmで暴走している路面電車の情況は同じだが、今度は、あなたは運転手ではなく、線路の上に架かる橋から電車を見下ろしている傍観者である。 ふと気づくと、自分の隣に物凄く太った人物がいて、欄干から身を乗り出さんばかりにして、突進して来る路面電車を見ている。 その人物を橋から突き落として、路面電車にぶつければ、1人を犠牲にするだけで、5人の労働者を助ける事ができる。 さて、あなたはそうするだろうか?≫
「1人を犠牲にして、5人を助ける」という設定は同じなのに、面白い事に、この質問には、大半の学生が、「突き落としたりしない」と答えます。 「この違いはなぜか?」と教授が問うと、学生の一人の答えは、「隣にいた太った人物は、ただそこにいただけで、事件とは無関係である。 無関係な人間を犠牲にはできない」と答えます。 それに対して、教授は、「待避線にいた労働者も、ただそこにいただけで、無関係である事に変わりは無いのでは?」と、指摘します。 その学生は、返答に窮してしまいました。
もう1人の学生の答えは、「第一のケースでは、自分が運転手という当事者だったが、第二のケースでは傍観者であり、隣の人物を突き落とさなければ、事件に関与しない。 二つのケースの情況は異っている」と答えます。 教授は、この件については、それ以上、話を進めず、また別の質問を繰り出します。
≪あなたは、病院に勤務する医者だ。 そこへ、事故にあった6人の患者が搬送されて来る。 1人は重傷、5人は中程度の怪我である。 重傷の1人をつきっきりで治療すれば、その人は助かるが、残りの5人は死ぬ。 対して、5人を治療すれば、5人助かるが、重傷の1人は死ぬ。 さて、どちらを助けるか?≫
学生達の答えは、大半が5人を助けるというものでした。 これも、算数の問題ですな。 犠牲者は少ない方が良いわけです。 そこで、教授はもう一つのケースを質問します。
≪今度はあなたは移植医である。 生きるために臓器移植が必要な患者を5人抱えている。 それぞれの患者が必要としている臓器は異なっている。 その時、あなたは、隣の部屋に、健康診断を受けに来た健康な人物が一人いる事を思い出した。 彼は昼寝をしている。 彼を殺して、その臓器を移植すれば、5人を助ける事ができる。 さあ、あなたはそうするだろうか?≫
学生達の答えは、「そんな事はしない」というものでした。 ちょっと考えると、この問題も、「1人を犠牲にして、5人を助ける」という、路面電車の問題と同じ情況を設定している事が分かります。
「結果が良くなる事が、正しい判断である」という考え方を、≪帰結主義≫というらしいのですが、「5人が助かるなら、1人を殺してもいい」という判断が、常に人々に支持されるわけではなく、帰結主義とは違う考え方が、人々の道徳意識には存在するという事を、教授は伝えたかったようです。
これらの問題には、教授から正しい回答が示されるわけではなく、講義初回の導入部として、学生達の興味を哲学の問題にひきつけるために撒かれた餌のようなものだったようです。 この一連の講義では、この後も、学生達の意見に対し、「それは間違っている」とか、「それが正しい」といった、教授の判断が下される事はありません。 学生達に考えさせる事が目的であって、定説をそのまま教えようとは望んでいないからでしょう。
サンデル教授の講義方針はさておき、路面電車の問題ですが、一体、どの判断が正しいんでしょうかね? もし、私が運転手だったとしたら、待避線には入りません。 「犠牲者は、5人より、1人の方がいい」という計算自体をせずに、そのまま、電車の進むに任せます。 そして、事故の後で、「パニックに陥って、何の判断もできなかった」と、弁明します。 もし、「5人より、1人」という計算をして、1人を殺してしまった場合、その1人の遺族に合わせる顔が無いからです。
いかにやむを得なかったといっても、計算した上で、故意に、その1人を殺す方を選んだ事に変わりは無いですから、遺族としては、運転手を恨まないわけには行かないでしょう。 一方、5人殺してしまっても、「パニックで、何もできなかった」と言われれば、遺族は納得しやすいです。 もっとも、サンデル教授は、哲学的問題の例として、この設定を考えたのであって、こういう現実的な、生々しい回答を欲していたわけではないと思いますが。 これはこれで、別の問題の回答ですな。
太った人物を橋から突き落とす方ですが、これは、考えるまでも無く、そんな事はしません。 「いくら巨漢であっても、時速100kmの路面電車を止められるかどうか分からない」とか、「うまく、電車の前に落ちるか分からない」とか、「そもそも、そんな大きくて重い人物を、突き落とせるかどうか分からない」とか、不確定要素が多過ぎる事もありますが、たとえ、その人を落とせば、確実に電車を止められると分かっていても、それをやったら、殺人でしょう。 「労働者5人を助けるためだった」といって、納得してくれる人がいるとは思えません。
1人の重傷者と、5人の中傷者の問題ですが、もし、私が医者だったら、6人とも、均等に治療をします。 結果的に、6人全員が死んでしまったとしても、その事で、批判される事はないと思われるからです。 「うちの人だけ治療してくれれば、助かったのに!」とは、遺族の方で言えんでしょう。 たとえ、結果が悪くなっても、最善を尽くしさえすれば、それで、医者の義務は果たせるのです。
ちなみに、大災害の時に、怪我の程度によって、治療に優先順位をつける、≪トリアージ≫という手法がありますが、私は、あれにも反対です。 もし、自分の親が大怪我をして、それを背負って、救護所に駆けつけた時、「重傷過ぎるから、治療しても無駄」と判断され、放置されたら、キレてしまいますよ。 事によったら、そう判断した医者を、どさくさ紛れに殴り殺すかもしれません。
たとえ、結果として、一人も助けられなくなるとしても、治療は、全員に均等に施すべきだと思います。 生き残る権利は、誰にでも均等に存在するからです。 「怪我が重い者ほど、生き残る権利が少ない」なんて、よく考えてみれば、滅茶苦茶ではありませんか。 常識的に考えれば、全く、逆でしょうが。
トリアージは、野戦病院で始まった手法だそうです。 戦場では、戦闘可能な者が多い方が、全員が生き残る確率が高くなるので、重傷者後回しに理由が無いわけではありませんが、災害では、全く情況が違います。 時間が経過すれば、外部から救援が来るのですから、優先順位をつけるよりも、救援が来るまでの間、全員をいかに生き延びさせるかの方が重要な目標になります。 どこの誰だ、戦場の手法を、そのまま災害に当てはめようとした、考え足らずの馬鹿は?
話を戻します。 5人を助けるために、無関係の1人を殺して、臓器を移植するという問題は、これまた、考えるまでも無く、殺人ですな。 サンデル教授得意の、身近な雰囲気がある設定ではあるものの、実際には起こりえない情況でして、例として適当かどうか、大いに疑わしいところ。
こうして見ると、≪帰結主義≫というのは、あまり現実的ではないようですな。 実際の社会では、「結果良ければ、すべて良し」というのは通用しないのであって、「経過がどうだったかが大事」というケースが多いわけです。 そして、私達はみな、哲学の問題の中にではなく、実際の社会に住んでいるのです。
ハーバード大学では、講義は非公開が原則らしいのですが、この講義はあまりにも面白く、人気があったために、特例として、テレビ・カメラが入るのを許したのだとか。 NHK教育は、それを買って、放送しただけなわけですが、おそらく、過去に日本のテレビで放送された番組の中で、最も知的レベルが高いシリーズになったと思われます。
取り上げている対象自体は、政治哲学の講義として、さほど珍しくない内容だと思いますが、過去の著名な哲学者達の説をただ紹介するだけでなく、問題を身近な例に置き換えて、学生達に考えさせ、彼らの意見を聞きながら講義を進める形式が、実にユニークです。 単に風変わりなだけでなく、この形式の方が、学生達に与える印象は確実に強くなりますから、教育方法としても、優れているわけですな。 サンデル教授の、教育者としての高い能力の賜物でしょう。
私の場合、たまたま、放送時間にチャンネルを回し見していて、「おや! 面白そうなものをやっているぞ!」と飛びついて、知る事ができたのですが、教育テレビですし、時間も夕方と中途半端で、見逃した人も多かった事でしょう。 新聞でも、関係書籍の書評が一度出た程度で、そんなに話題にはなりませんでしたし。 しかし、これを見なかったのは、知的な事柄に興味がある人にとっては、相当痛い損失だと思います。 もし、DVDが出たら、買って見ても、損は無いような内容です。
放送は、全12回でしたが、一回が前半と後半に分かれていて、それぞれ30分ずつ、講義のレクチャー数にして、全部で24回分ありました。 私は録画して、毎回、3度くらい見直しましたが、それでも、全部理解できたかどうか分からない程度のレベルでした。 学生達に向けて出された、身近な例の質問が面白いので、ここで紹介して、私も考えてみようと思います。
≪レクチャー 1≫のテーマは、【犠牲になる命を選べるか】です。
≪時速100kmのスピードで走っている路面電車を運転している時、ブレーキが壊れている事に気付いた。 前方には5人の労働者がいて、そのまま直進すれば間違いなく5人とも轢き殺してしまう。 しかし、その手前に待避線があり、そちらへ行けば、1人の労働者を轢き殺すだけで済む。 あなたならどうするか?≫
この質問に対し、ほとんどの学生は、1人を殺す方を選びます。 まあ、単純な算数ですな。 どうせ犠牲が避けられないなら、その人数は少ない方がいいという判断です。 ところが、サンデル教授は、もう一つ、質問を付け加えます。
≪ブレーキが壊れて、時速100kmで暴走している路面電車の情況は同じだが、今度は、あなたは運転手ではなく、線路の上に架かる橋から電車を見下ろしている傍観者である。 ふと気づくと、自分の隣に物凄く太った人物がいて、欄干から身を乗り出さんばかりにして、突進して来る路面電車を見ている。 その人物を橋から突き落として、路面電車にぶつければ、1人を犠牲にするだけで、5人の労働者を助ける事ができる。 さて、あなたはそうするだろうか?≫
「1人を犠牲にして、5人を助ける」という設定は同じなのに、面白い事に、この質問には、大半の学生が、「突き落としたりしない」と答えます。 「この違いはなぜか?」と教授が問うと、学生の一人の答えは、「隣にいた太った人物は、ただそこにいただけで、事件とは無関係である。 無関係な人間を犠牲にはできない」と答えます。 それに対して、教授は、「待避線にいた労働者も、ただそこにいただけで、無関係である事に変わりは無いのでは?」と、指摘します。 その学生は、返答に窮してしまいました。
もう1人の学生の答えは、「第一のケースでは、自分が運転手という当事者だったが、第二のケースでは傍観者であり、隣の人物を突き落とさなければ、事件に関与しない。 二つのケースの情況は異っている」と答えます。 教授は、この件については、それ以上、話を進めず、また別の質問を繰り出します。
≪あなたは、病院に勤務する医者だ。 そこへ、事故にあった6人の患者が搬送されて来る。 1人は重傷、5人は中程度の怪我である。 重傷の1人をつきっきりで治療すれば、その人は助かるが、残りの5人は死ぬ。 対して、5人を治療すれば、5人助かるが、重傷の1人は死ぬ。 さて、どちらを助けるか?≫
学生達の答えは、大半が5人を助けるというものでした。 これも、算数の問題ですな。 犠牲者は少ない方が良いわけです。 そこで、教授はもう一つのケースを質問します。
≪今度はあなたは移植医である。 生きるために臓器移植が必要な患者を5人抱えている。 それぞれの患者が必要としている臓器は異なっている。 その時、あなたは、隣の部屋に、健康診断を受けに来た健康な人物が一人いる事を思い出した。 彼は昼寝をしている。 彼を殺して、その臓器を移植すれば、5人を助ける事ができる。 さあ、あなたはそうするだろうか?≫
学生達の答えは、「そんな事はしない」というものでした。 ちょっと考えると、この問題も、「1人を犠牲にして、5人を助ける」という、路面電車の問題と同じ情況を設定している事が分かります。
「結果が良くなる事が、正しい判断である」という考え方を、≪帰結主義≫というらしいのですが、「5人が助かるなら、1人を殺してもいい」という判断が、常に人々に支持されるわけではなく、帰結主義とは違う考え方が、人々の道徳意識には存在するという事を、教授は伝えたかったようです。
これらの問題には、教授から正しい回答が示されるわけではなく、講義初回の導入部として、学生達の興味を哲学の問題にひきつけるために撒かれた餌のようなものだったようです。 この一連の講義では、この後も、学生達の意見に対し、「それは間違っている」とか、「それが正しい」といった、教授の判断が下される事はありません。 学生達に考えさせる事が目的であって、定説をそのまま教えようとは望んでいないからでしょう。
サンデル教授の講義方針はさておき、路面電車の問題ですが、一体、どの判断が正しいんでしょうかね? もし、私が運転手だったとしたら、待避線には入りません。 「犠牲者は、5人より、1人の方がいい」という計算自体をせずに、そのまま、電車の進むに任せます。 そして、事故の後で、「パニックに陥って、何の判断もできなかった」と、弁明します。 もし、「5人より、1人」という計算をして、1人を殺してしまった場合、その1人の遺族に合わせる顔が無いからです。
いかにやむを得なかったといっても、計算した上で、故意に、その1人を殺す方を選んだ事に変わりは無いですから、遺族としては、運転手を恨まないわけには行かないでしょう。 一方、5人殺してしまっても、「パニックで、何もできなかった」と言われれば、遺族は納得しやすいです。 もっとも、サンデル教授は、哲学的問題の例として、この設定を考えたのであって、こういう現実的な、生々しい回答を欲していたわけではないと思いますが。 これはこれで、別の問題の回答ですな。
太った人物を橋から突き落とす方ですが、これは、考えるまでも無く、そんな事はしません。 「いくら巨漢であっても、時速100kmの路面電車を止められるかどうか分からない」とか、「うまく、電車の前に落ちるか分からない」とか、「そもそも、そんな大きくて重い人物を、突き落とせるかどうか分からない」とか、不確定要素が多過ぎる事もありますが、たとえ、その人を落とせば、確実に電車を止められると分かっていても、それをやったら、殺人でしょう。 「労働者5人を助けるためだった」といって、納得してくれる人がいるとは思えません。
1人の重傷者と、5人の中傷者の問題ですが、もし、私が医者だったら、6人とも、均等に治療をします。 結果的に、6人全員が死んでしまったとしても、その事で、批判される事はないと思われるからです。 「うちの人だけ治療してくれれば、助かったのに!」とは、遺族の方で言えんでしょう。 たとえ、結果が悪くなっても、最善を尽くしさえすれば、それで、医者の義務は果たせるのです。
ちなみに、大災害の時に、怪我の程度によって、治療に優先順位をつける、≪トリアージ≫という手法がありますが、私は、あれにも反対です。 もし、自分の親が大怪我をして、それを背負って、救護所に駆けつけた時、「重傷過ぎるから、治療しても無駄」と判断され、放置されたら、キレてしまいますよ。 事によったら、そう判断した医者を、どさくさ紛れに殴り殺すかもしれません。
たとえ、結果として、一人も助けられなくなるとしても、治療は、全員に均等に施すべきだと思います。 生き残る権利は、誰にでも均等に存在するからです。 「怪我が重い者ほど、生き残る権利が少ない」なんて、よく考えてみれば、滅茶苦茶ではありませんか。 常識的に考えれば、全く、逆でしょうが。
トリアージは、野戦病院で始まった手法だそうです。 戦場では、戦闘可能な者が多い方が、全員が生き残る確率が高くなるので、重傷者後回しに理由が無いわけではありませんが、災害では、全く情況が違います。 時間が経過すれば、外部から救援が来るのですから、優先順位をつけるよりも、救援が来るまでの間、全員をいかに生き延びさせるかの方が重要な目標になります。 どこの誰だ、戦場の手法を、そのまま災害に当てはめようとした、考え足らずの馬鹿は?
話を戻します。 5人を助けるために、無関係の1人を殺して、臓器を移植するという問題は、これまた、考えるまでも無く、殺人ですな。 サンデル教授得意の、身近な雰囲気がある設定ではあるものの、実際には起こりえない情況でして、例として適当かどうか、大いに疑わしいところ。
こうして見ると、≪帰結主義≫というのは、あまり現実的ではないようですな。 実際の社会では、「結果良ければ、すべて良し」というのは通用しないのであって、「経過がどうだったかが大事」というケースが多いわけです。 そして、私達はみな、哲学の問題の中にではなく、実際の社会に住んでいるのです。
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