2010/07/25

犬に生を学ぶ

  犬を飼っています。 犬を見ていると、つくづく思うのは、彼が極めてシンプルな生活をしているという事です。 彼の欲望は、基本的に二つしかないようです。 食べる事と、散歩に行く事。 それ以外の時間は寝ているわけですが、眠る事は、欲望とはちょっと違っていて、眠りたいから眠るというより、食事と散歩ができず、他にやる事が無いから、仕方なく眠っているように見受けられます。 ちなみに、うちの犬は、鼾を掻いて眠っていても、ちょっと物音がすると、パン!と弾かれたように起き上がります。 犬に深い眠りは無いようですな。

  食べるのは、腹が減っている時には、もちろん食べますが、チーズとか、さつま芋とか、ゆで卵の黄身とか、好きな食べ物は、腹がいっぱいでも、尚食べようとします。 逆に、固形飼料など、好きでない物は、かなり腹が減っても、食べようとしません。 贅沢な奴ですが、今時、どこの犬も、そんなものでしょう。 話によると、かなり舌の奢った犬でも、2週間くらい固形飼料しか与えないでいると、根負けするらしいですが、うちの犬の場合、もはや、そんな荒療治を試せる年齢を過ぎてしまいました。

  散歩は、飼い主を引きずり倒すほどの勢いで飛び出して行きます。 うちの犬は雄なので、散歩の目的は、専ら、近所の雌犬が残した匂いを嗅いで回る事です。 リアルに描写しますと、雌犬のしった小便に鼻をこすりつけ、あまつさえ、舌でぺろぺろ舐めるのです。 んー、品性下劣! 変態か、こいつは! だけど、いいんです。 犬だから。

  犬が若い頃には、近所の山に一緒に登ったりしましたが、「犬もたまには、山に登ってみたいだろう」と考えたのは私の自己満足に過ぎず、犬の方は、別に山に登りたいとか、遠くへ行ってみたいといった欲望を持ってはいないようです。 そんな事より、食べ物と、雌犬の小便が大事なのです。 山へ連れて行っても、特段喜ばないのは、そこに、雌犬の痕跡がほとんど存在しないからでしょう。

  ちなみに、犬を山へ連れて行く時には、長い引き紐をつけておいた方がいいです。 下りになると、犬は人間の遅さにつきあい切れず、ひょいひょい先に行ってしまいます。 散歩用の短い紐だと、犬に引っ張られて姿勢を崩し、滑落する危険性があります。 そういう事故で、大怪我をして、ヘリ搬送などされると、「馬鹿な奴だな。 犬なんか連れて行くからだ」と、家族親類友人知人から、さんざんに言われてしまいます。

  たぶん、どこの犬も、山に行きたいという欲望は無いんじゃないでしょうか。 高い山に登っても、彼らは近視だそうですから、眺望を楽しむ事はできません。 桜が満開の時に、わざわざ名所へ犬を連れて行く人もいますが、あれも無意味だと思います。 およそ、うちの犬は、花なんかに何の興味も示しません。 色が見えていないという説もあり、そうだとしたら、満開の桜も、一面の曇り空も、区別がつかないという事になります。 目の前に色の鮮やかな花を持って行っても、一瞥をくれるだけで、とんと興味無し。 また、匂いの方も、人間の嗅覚で感じる、「いい匂い」より、「臭さ」の方を、彼らは好むようです。

  車で海へ連れて行くと喜びましたが、別に海が好きだったわけではなく、全力疾走できる砂浜が目当てだったんじゃないかと思います。 うちは、専ら散歩に連れて行くのが、父と母なんですが、二人とも、後期高齢者なので、走る事はできません。 犬は常に低速で歩く事を強いられるわけで、ストレスが溜まっています。 休日に私が散歩に連れ出すと、家から1ブロックの直線は、脱兎の如く駆けて行くのですが、あれは、普段抑えている全力疾走の欲望が解放されるのでしょう。 もっとも、ダッシュが利くのは1ブロックだけで、もう歳なので、すぐにへばってはしまいますけど。

  海に連れて行くと、波打ち際まで行きますが、波と戯れるような事は無く、海水を舐めに行くのが目的でした。 人でも犬でも、海水を飲んで健康に良いわけがないので、慌てて紐を引っ張るのですが、手遅れで、後になってから、ゲーゲー吐き戻していました。 飲めないと分かっても、次に行くと全く同じ事をするので、「自然の本能も、学習能力も無いのか?」と呆れたものです。

  なぜ、過去形で書いているかというと、今は、海に連れて行かなくなってしまったからです。 去年の秋、母の車を売ってしまったので、犬を乗せて、砂だらけにしてもいい車が無くなってしまったんですな。 ちなみに、父の車は、犬立ち入り禁止です。 毎年、施餓鬼会の時に、親戚を乗せるので、犬に砂だらけにされるのは困るというわけ。

  そういうわけで、海へ行かなくなってから、10ヶ月くらいたちましたが、別に自分から車の所へ行きたがるような事も無く、1ブロックのダッシュと、近所の散歩で満足しているようです。 砂浜よりも、近所の雌犬の小便の方が魅力が大きいのでしょう。 分かるような、分からんような・・・。


  さて、ここからが本題ですが、同じ動物で、同じ哺乳類なのに、犬に比べて人間は、どうしてこんなに、あれやこれやと、多くの欲望に振り回されて暮らしているんでしょう? 改めて考えると、この差の大きさには、驚嘆せざるを得ません。 生体的には、犬と同じように、≪食≫と≪性≫、たった二つの欲望だけ満たしていれば、充分生きて行けると思うのですが、何なんでしょう、この煩悩の数の膨大さは?

  前にも似たような事を書いたような記憶がありますが、今回、またぞろ蒸し返したのは、居間のパソコンと自室のプリンターという、二つの電気製品を一挙に失ったショックが、未だに尾を引いているからです。 機械に頼って生活していると、それが壊れた時、喪失感に襲われるだけでなく、自分の生活様式に対する疑問まで浮上して来てしまうのです。 「一体どうして、こんなに多くの機械に囲まれて、生きているのだろうか?」と。

  それらの機械は、その時々に沸き起こった欲望を満たすために買われたわけですが、「一体どうして、こんなにたくさんの機械を必要とするほど、多くの欲望が湧いてくるのだろうか?」と思うと、シンプル極まりない生活をしている犬を前に、腕組みして首を傾げざるを得ません。 所詮、同じ動物なのに、なんで、こんなに違うんでしょう?

  「欲望に限りが無いから、人間は進歩して来た」というのは分かっていますが、それは人類全体の話。 個人に限るのであれば、何も、系統発生を繰り返す必要はありますまい。 様々な欲望を実現させながら生きようが、必要最低限の事だけ、こなしながら生きようが、10年は10年、30年は30年、過ぎてしまえば、満足感に大差は無いと思うのです。 それが証拠に、社会人になってからこっち、私は、買いたい物は大抵買って、暮らして来ましたが、だからといって、今までの人生が素晴らしかったとは、全く感じられないのです。

  物欲に限らず、遊びや学習などの体験であっても、それが人間性を豊かにするとは、到底思えません。 たとえば、私の母は旅行好きだったので、今までに、日本国中、大抵の観光地、景勝地には行っています。 一方、父は筋金入りの出不精で、クラス会でも無い限り、地元から出る事すらありません。 こと、旅行の見聞に関する限りでは、父より母の方が、圧倒的に経験値が高いはずですが、では、母が父より人間として優れているかというと、そんな事は微塵も感じられません。 私自身は、バイクで日本の海岸線を回った事がありますが、単なる記憶であって、自慢になるどころか、話の種にすらできないのが実際のところです。 最低でも数ヶ月は住んでみなければ、その地について何かを語るのは、資格外というものでしょう。

  欲望は、放っておいても、次から次へ湧いてくるものですが、果たして、それを一つ一つ、律儀に実現してやる必要があるのかどうか。 やらなければやらないで、全く問題無いのではありますまいか。 犬のように単純に、仕事して、飯喰って、風呂入って、寝てれば、それだけで充分なんじゃないでしょうか。

  幸福とは、「欲望をどれだけ実現できたか」より、「どれだけ満足感を得られたか」の方が重要だと思います。 達成感と満足感は一致する事もあるけれど、同じものではありません。 何かを達成したからといって、必ず満足するとは限らない一方、何もしなくても、気の持ちよう次第では、満足する事は出来ます。 たとえば、「ああ、今日は一日中寝ていたけど、こういう休日の過ごし方は、贅沢だなあ」と思ったりする、あれですな。

  食べ物についても、同じような事を、よく考えます。 日曜の夜など、「カップ・ラーメンが食べたい。 今、食べておかなければ、後悔するような気がする」と思って、腹も減っていないのに、無理やり食べたりしますが、むしろ、後悔するのは、食べた場合である事の方が多いです。 体重は増えるわ、腹は突き出るわで、いい事無し。 しかも、間食で腹が膨れてしまうので、肝腎の朝昼晩の食事が、おいしく感じられなくなります。

  欲望というのは、何でもかんでも実現すればいいというわけではないんですな。 コレクションなどでも、子供の頃、お金が無くて買えなかった物を、大人になってから豪勢に買い込んだりしますが、子供の頃に想像していたほど、嬉しさを感じられなくて、スッポ抜けたような虚しさに沈む事がよくあります。 私なんか、大人になってからの欲望実現の結果は、そんなのばっかりです。 幸福と呼ぶには、あまりにも、満足感が足りなさ過ぎる。 こんなんじゃなかったはずなのに。

  どうせ、満足できないと分かっているのなら、何もしなくても同じでしょう。 エコ的に考えても、人間は、一生懸命何かするよりも、何もしない方が有益です。 少なくとも、昼寝して過ごしている人間は、地球環境に害を及ぼしません。 本当は、死んでしまえば、最も無害なんですが、そうも行きませんから、穏当な妥協点として、寝て過ごすのは、お勧めだと思います。

  特に、もう40歳過ぎて、人生を折り返した人は、「まだまだ、これから! 第二の青春だ!」などと、脂ぎった情熱を無理やり掻き立てようとせず、消え入るように暮らすのが、一番なんじゃないでしょうか。 老いの道楽なんざ、傍から見りゃあ、滑稽か醜悪かのどちらかに決まってますぜ。 ちったあ、犬を見倣いましょうや。