Justice L2
≪ハーバード 白熱教室≫、マイケル・サンデル教授の講義、≪Justice(正義)≫の、第二回は、【サバイバルのための殺人】です。
まず、前回触れた、≪帰結主義≫の中で、最も大きな影響力を持っている、≪功利主義≫について、ざっと説明し、「正しい行いとは、効用を最大化する事だ」、「苦痛よりも快楽、受難よりも幸福」、「最大多数の最大幸福」といった言葉で表される、ジェレミー・ベンサムの思想を紹介します。 でも、そういう前置きはどうでもよくて、今回の眼目も、学生達に向けて出された質問です。 今回の問いの題材は、架空の設定ではなく、生々しい実話。 以下、引用します。
≪≪≪≪≪
19世紀(1884年)、ミニョネット号というイギリスの船が、南大西洋の、喜望峰から2000キロ離れた所で沈没した。 乗組員は四人。 船長のダドリー、航海士のスティーブンス、船員のブルックス、この三人は人格的に申し分ない人達だった。 もう一人、給仕として乗り組んでいた、パーカーという17歳の少年がいたが、彼は孤児で身寄りが無く、それが初めての長い航海だった。
船が沈没し、四人は救命ボートへ避難した。 食料は、蕪の缶詰が二つだけで、真水は無かった。 最初の三日間、何も食べずに耐えた。 四日目に蕪の缶詰を一つ開けて食べた。 翌日、海亀を捕まえた。 それから数日間は、もう一つの缶詰と海亀を食べて持ちこたえた。 それ以降の八日間、水も食料も無かった。 給仕パーカーは、ボートの底に横たわっていた。 他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなっており、死が近いように見えた。
19日目に、船長ダドリーは、みなでくじ引きを行い、「残りの者を助けるために、誰が死ぬかを決めよう」と提案した。 しかし、船員ブルックスが拒否したため、くじ引きは行なわれなかった。
20日目、船長ダドリーは、船員ブルックスに見ないように言い、航海士スティーブンスに、「パーカーを殺そう」と合図した。 船長ダドリーは祈りを捧げ、給仕パーカーに、「お前の最後の時が来た」と告げ、ペンナイフで頚動脈を刺して殺した。 船員ブルックスは、給仕パーカーが死んでしまうと、その死体を食べる事には加わった。
四日間、彼らは、給仕パーカーの体と血液で生き長らえた。 三人の生存者は、遭難から24日目に、ドイツの船に救助されて、イギリスに連れ戻されると、逮捕され、裁判にかけられた。 船員ブルックスは国側の証人になった。 船長ダドリーと航海士スティーブンスは裁判にかけられた。 彼らは事実については争わず、「必要に迫られての行為だった」と主張した。 「三人が生き残れるのなら、一人の犠牲は仕方がない」と論じた。 検察官はその議論に惑わされず、「殺人は殺人である」といい、事件は裁判にかけられた。
≫≫≫≫≫
サンデル教授は、そう事件の経緯を説明した後、学生達に向かって、「自分が陪審員だと想像して欲しい。 議論を単純にするために、法律的な問題は横において、君達は、彼らが道徳的に許されるか否かのみを判断する責任を負っていると仮定する」と、問いかけます。 この、裁判仕立ての質問の仕方がまずかったようで、学生達は、最初少し混乱します。 「法律的には無罪でも、道徳的には非難される場合がある」といった、わざわざ断るまでもない基本的な事を改めて口にしたり、「長い間、食べずにいたのだから、精神的に影響を受けていたと思われ、その点を弁護に使えるかもしれない」といった、道徳議論とは無関係な意見が飛び出したりします。
ハーバードといえば、アメリカの大学の名門中の名門で、入学基準も国内で最も厳しいそうですが、そんな優秀な頭脳を持った学生達でも、議論の方向性、つまり、サンデル教授が何について話をしているのか、自分達にどんな意見を求めているのかを、すぐには呑み込めないようでした。 いつまでたっても、テーマと関係が無い頓珍漢な意見が出続ける、日本人の≪議論もどき≫ほどひどくはないですが、この後も、本道から逸れる意見が、ちょこちょこ出て来ては、サンデル教授に、やんわりと立ち退けられる場面が見られます。
まず、「道徳的に、許されるか許されないか」について問うと、大多数の学生は、「許されない」と答えます。 割合は、8対2です。 この数字も面白いですな。 日本の学生だったら、もっと均衡するんじゃないでしょうか。 もし、「どちらなのか判断できない」という選択肢を追加したら、全体の半数は、それを選ぶと思います。 アメリカ人には、子供の頃から、道徳上の罪について、白黒はっきりさせるよう教育されているのかもしれません。 映画を見ているだけでは分からない、アメリカ社会の特徴ですな。
次に、「殺される当人の同意を得ていたら、許されると思うか」が問われます。 ちょっと、不自然な仮定のように思えますが、この場合、プレッシャーをかけて迫る実質的な強制ではなく、あくまで、自発的な同意である事が前提になります。 この問いには、「許される」と答える学生が多かったです。 続けて、「もし、船長が提案したくじ引きが行なわれていて、給仕パーカーがそれに当たっていたとしたら、彼を殺す事は許されるか」と問うと、「許される」と答える学生の数は、更に増えます。
ここで、「そもそも、カニバリズムは、許されない」という意見が出ます。 カニバリズムとは、人間が人間を食べる行為の事です。 ただ、この意見は、重大な問題ではありますが、議論のテーマからは外れているせいか、賛同者が出て来ません。 教授が、「すでに死んでいたとしても、食べる事は許されないか」と問うと、「許されない」という答え。 「(この情況で)殺す事が許されるか許されないか」がテーマなのですから、もう完全な逸脱ですな。 食人不可を言い出したら、「遭難者は、餓死して当然」という事になってしまい、この議論そのものが成り立ちません。 大体、「なぜ、カニバリズムは許されないのか」について語り始めたら、この議論よりも遥かに大きな問題になってしまいます。
最後に、「くじ引きなどによる公正な手続きや、殺される当人の同意があったとしても、尚、この行為は許されない」と思う者の意見が訊かれます。
ある学生は、船長ダドリーが、日記に、救助された時の様子を、「24日目に、私達が≪朝食≫を食べていると、ふいに船が現れた」と書いている点を指摘して、「良心の呵責が感じられず、許されない」と言います。 しかし、これも、テーマからズレていますな。 船長ダドリーが、どういうつもりで、≪朝食≫という表現を用いたかは分からないのであって、単に、昼食や夕食と区別するためだけに、そう書いた可能性もあり、それだけでは、良心の呵責が無いとは判断できません。
別の学生は、「殺人は殺人であり、どんな情況であっても、例外を作るのは許されない」と言います。 教授が、「生き残った三人には、故郷に養っている家族がいた。 一方、給仕パーカーは、身寄りが無い孤児だった。 三人が死ねば、彼らの家族も路頭に迷う事になったが、それでも許されないか」と訊いても、「殺人は殺人です」と答え、「もし、これが3人ではなく、30人、300人、戦争中で3000人の命がかかっていたとしたらどうか」と訊いても、やはり、「殺人は殺人です」と答えます。 頑なですな。 あまり頑ななので、頼もしささえ感じますが、しかし、この「殺人は殺人」という言葉、事件当時の検察官の使った言葉でして、どうも、それに影響されているだけのような気もします。
この講義、どこを切っても、実に知的で面白いんですが、学生達の意見が思い思いに広がってしまい、サンデル教授が進めたい方向になかなか纏まってくれないという弱みがあります。 この回で、最終的に教授が導きたかったのは、
1. どこから、基本的権利は来ているのか?
2. 公正な手続きは、どんな帰結も正当化するか?
3. 同意の道徳的な働きは何か?
という三つの質問の提起だったらしいのですが、学生との議論だけ聞いている分には、話はそんな方向には進まなかったのであって、最後に教授一人が強引に引っ張って纏めたようにしか見えません。 しかし、もともと、難しい方法で講義を進めているのですから、あまり厳しい事は言うべきではないのかも知れません。 あくまで、講義が目的なのであって、学生の意見を聞くのは、その手段の一つに過ぎませんから。
で、この、≪ミニョネット号事件≫に対する私の意見ですが、もし、私が陪審員だったら、答えは出せません。 こういう極限状況においては、その場にいたものにしか判断できない事柄があるのであって、陸で何の苦労もせず、たらふく飲み食いしていた人間に、彼らを裁く資格はないと思うからです。 当時のイギリスの法廷でも、陪審員達は、「違法性があるかどうか、判断できない」と評決したそうです。 妥当ですな。 ちなみに、当時の裁判は、その後、高等法院に持ち込まれて、有罪、死刑とされたものの、世論の反対が強く、女王の特赦で、禁固6ヶ月に減刑されたそうです。 まあ、さんざん苦労した上に、国に帰って死刑にされたんじゃ適いませんわな。
しかし、陪審員としては判断不能ですが、もし、給仕パーカーの立場だったとしたら、船長と航海士を許しはしません。 冗談じゃねーす。 それでなくても苦しい思いをさせられているのに、その上、殺されてたまるもんですか。 その情況で犠牲にならなければならない理由など、ロボロフスキー・ハムスターの小指の爪の先ほどもありゃしません。 他の三人は、故郷に家族がいる? 馬鹿おっしゃい! 家族が困るといっても、餓死するわけでも殺されるわけでもありますまいに。 なんで、そんな見ず知らずの連中の生活を安んじてやるために、自分が殺されなければならんのよ?
そもそも、家族なんて、職務と全然関係ないではありませんか。 ちなみに私は、扶養手当とか、育児手当とか、役所や企業が行なっている、そんな制度にも、根本的・全面的に反対です。 職場へはみな、仕事をしに来ているのであって、家でどんな生活をしていようが、知ったこっちゃありません。 そんな事は、互いに干渉されたくもないし、特殊な条件にある人間だけを、他の人間が助けてやる義務も無いと思います。 なんで私が、見ず知らずのおっさんの、輪を掛けて見ず知らずの家族の分まで働かなきゃならんのよ。 理不尽にも程がある! 責任者はどこか!
他方、もし、船長の立場だったとしたら、とりあえず、給仕パーカーが死ぬのを待ちます。 死ぬ寸前でも、死んだ直後でも、食料としてのパーカーに、さほどの違いはありません。 死んだ後なら、障碍になるのはカニバリズムの問題だけで、法律的には、罪に問われる事はないと思われるからです。 もし、航海士や船員の立場だったら、船長に、「後々、厄介な問題になりかねないから、パーカーを食べるにしても、死ぬのを待とう」と進言します。
つまり、もし、私だったら、船長と航海士が取った行為は、選ばなかったという事になりますな。 ただ、だからといって、私は彼らの行為を裁く事はできません。 それは、陪審員の立場の所で述べた理由によります。
この事件の場合、たまたま、三人が助かったから、裁判の対象になったわけですが、もし全員死んだ後でボートだけ発見され、最後の一人によって記録されていた事件の顛末が世に知れたとしたら、彼らが行なった殺人行為を非難する者がいたかどうか、大いに疑わしいです。 現在でも、こういう難波漂流事件は起こりますが、生き残った人間を罪に問う事はほとんど無いのではないでしょうか。
まず、前回触れた、≪帰結主義≫の中で、最も大きな影響力を持っている、≪功利主義≫について、ざっと説明し、「正しい行いとは、効用を最大化する事だ」、「苦痛よりも快楽、受難よりも幸福」、「最大多数の最大幸福」といった言葉で表される、ジェレミー・ベンサムの思想を紹介します。 でも、そういう前置きはどうでもよくて、今回の眼目も、学生達に向けて出された質問です。 今回の問いの題材は、架空の設定ではなく、生々しい実話。 以下、引用します。
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19世紀(1884年)、ミニョネット号というイギリスの船が、南大西洋の、喜望峰から2000キロ離れた所で沈没した。 乗組員は四人。 船長のダドリー、航海士のスティーブンス、船員のブルックス、この三人は人格的に申し分ない人達だった。 もう一人、給仕として乗り組んでいた、パーカーという17歳の少年がいたが、彼は孤児で身寄りが無く、それが初めての長い航海だった。
船が沈没し、四人は救命ボートへ避難した。 食料は、蕪の缶詰が二つだけで、真水は無かった。 最初の三日間、何も食べずに耐えた。 四日目に蕪の缶詰を一つ開けて食べた。 翌日、海亀を捕まえた。 それから数日間は、もう一つの缶詰と海亀を食べて持ちこたえた。 それ以降の八日間、水も食料も無かった。 給仕パーカーは、ボートの底に横たわっていた。 他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなっており、死が近いように見えた。
19日目に、船長ダドリーは、みなでくじ引きを行い、「残りの者を助けるために、誰が死ぬかを決めよう」と提案した。 しかし、船員ブルックスが拒否したため、くじ引きは行なわれなかった。
20日目、船長ダドリーは、船員ブルックスに見ないように言い、航海士スティーブンスに、「パーカーを殺そう」と合図した。 船長ダドリーは祈りを捧げ、給仕パーカーに、「お前の最後の時が来た」と告げ、ペンナイフで頚動脈を刺して殺した。 船員ブルックスは、給仕パーカーが死んでしまうと、その死体を食べる事には加わった。
四日間、彼らは、給仕パーカーの体と血液で生き長らえた。 三人の生存者は、遭難から24日目に、ドイツの船に救助されて、イギリスに連れ戻されると、逮捕され、裁判にかけられた。 船員ブルックスは国側の証人になった。 船長ダドリーと航海士スティーブンスは裁判にかけられた。 彼らは事実については争わず、「必要に迫られての行為だった」と主張した。 「三人が生き残れるのなら、一人の犠牲は仕方がない」と論じた。 検察官はその議論に惑わされず、「殺人は殺人である」といい、事件は裁判にかけられた。
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サンデル教授は、そう事件の経緯を説明した後、学生達に向かって、「自分が陪審員だと想像して欲しい。 議論を単純にするために、法律的な問題は横において、君達は、彼らが道徳的に許されるか否かのみを判断する責任を負っていると仮定する」と、問いかけます。 この、裁判仕立ての質問の仕方がまずかったようで、学生達は、最初少し混乱します。 「法律的には無罪でも、道徳的には非難される場合がある」といった、わざわざ断るまでもない基本的な事を改めて口にしたり、「長い間、食べずにいたのだから、精神的に影響を受けていたと思われ、その点を弁護に使えるかもしれない」といった、道徳議論とは無関係な意見が飛び出したりします。
ハーバードといえば、アメリカの大学の名門中の名門で、入学基準も国内で最も厳しいそうですが、そんな優秀な頭脳を持った学生達でも、議論の方向性、つまり、サンデル教授が何について話をしているのか、自分達にどんな意見を求めているのかを、すぐには呑み込めないようでした。 いつまでたっても、テーマと関係が無い頓珍漢な意見が出続ける、日本人の≪議論もどき≫ほどひどくはないですが、この後も、本道から逸れる意見が、ちょこちょこ出て来ては、サンデル教授に、やんわりと立ち退けられる場面が見られます。
まず、「道徳的に、許されるか許されないか」について問うと、大多数の学生は、「許されない」と答えます。 割合は、8対2です。 この数字も面白いですな。 日本の学生だったら、もっと均衡するんじゃないでしょうか。 もし、「どちらなのか判断できない」という選択肢を追加したら、全体の半数は、それを選ぶと思います。 アメリカ人には、子供の頃から、道徳上の罪について、白黒はっきりさせるよう教育されているのかもしれません。 映画を見ているだけでは分からない、アメリカ社会の特徴ですな。
次に、「殺される当人の同意を得ていたら、許されると思うか」が問われます。 ちょっと、不自然な仮定のように思えますが、この場合、プレッシャーをかけて迫る実質的な強制ではなく、あくまで、自発的な同意である事が前提になります。 この問いには、「許される」と答える学生が多かったです。 続けて、「もし、船長が提案したくじ引きが行なわれていて、給仕パーカーがそれに当たっていたとしたら、彼を殺す事は許されるか」と問うと、「許される」と答える学生の数は、更に増えます。
ここで、「そもそも、カニバリズムは、許されない」という意見が出ます。 カニバリズムとは、人間が人間を食べる行為の事です。 ただ、この意見は、重大な問題ではありますが、議論のテーマからは外れているせいか、賛同者が出て来ません。 教授が、「すでに死んでいたとしても、食べる事は許されないか」と問うと、「許されない」という答え。 「(この情況で)殺す事が許されるか許されないか」がテーマなのですから、もう完全な逸脱ですな。 食人不可を言い出したら、「遭難者は、餓死して当然」という事になってしまい、この議論そのものが成り立ちません。 大体、「なぜ、カニバリズムは許されないのか」について語り始めたら、この議論よりも遥かに大きな問題になってしまいます。
最後に、「くじ引きなどによる公正な手続きや、殺される当人の同意があったとしても、尚、この行為は許されない」と思う者の意見が訊かれます。
ある学生は、船長ダドリーが、日記に、救助された時の様子を、「24日目に、私達が≪朝食≫を食べていると、ふいに船が現れた」と書いている点を指摘して、「良心の呵責が感じられず、許されない」と言います。 しかし、これも、テーマからズレていますな。 船長ダドリーが、どういうつもりで、≪朝食≫という表現を用いたかは分からないのであって、単に、昼食や夕食と区別するためだけに、そう書いた可能性もあり、それだけでは、良心の呵責が無いとは判断できません。
別の学生は、「殺人は殺人であり、どんな情況であっても、例外を作るのは許されない」と言います。 教授が、「生き残った三人には、故郷に養っている家族がいた。 一方、給仕パーカーは、身寄りが無い孤児だった。 三人が死ねば、彼らの家族も路頭に迷う事になったが、それでも許されないか」と訊いても、「殺人は殺人です」と答え、「もし、これが3人ではなく、30人、300人、戦争中で3000人の命がかかっていたとしたらどうか」と訊いても、やはり、「殺人は殺人です」と答えます。 頑なですな。 あまり頑ななので、頼もしささえ感じますが、しかし、この「殺人は殺人」という言葉、事件当時の検察官の使った言葉でして、どうも、それに影響されているだけのような気もします。
この講義、どこを切っても、実に知的で面白いんですが、学生達の意見が思い思いに広がってしまい、サンデル教授が進めたい方向になかなか纏まってくれないという弱みがあります。 この回で、最終的に教授が導きたかったのは、
1. どこから、基本的権利は来ているのか?
2. 公正な手続きは、どんな帰結も正当化するか?
3. 同意の道徳的な働きは何か?
という三つの質問の提起だったらしいのですが、学生との議論だけ聞いている分には、話はそんな方向には進まなかったのであって、最後に教授一人が強引に引っ張って纏めたようにしか見えません。 しかし、もともと、難しい方法で講義を進めているのですから、あまり厳しい事は言うべきではないのかも知れません。 あくまで、講義が目的なのであって、学生の意見を聞くのは、その手段の一つに過ぎませんから。
で、この、≪ミニョネット号事件≫に対する私の意見ですが、もし、私が陪審員だったら、答えは出せません。 こういう極限状況においては、その場にいたものにしか判断できない事柄があるのであって、陸で何の苦労もせず、たらふく飲み食いしていた人間に、彼らを裁く資格はないと思うからです。 当時のイギリスの法廷でも、陪審員達は、「違法性があるかどうか、判断できない」と評決したそうです。 妥当ですな。 ちなみに、当時の裁判は、その後、高等法院に持ち込まれて、有罪、死刑とされたものの、世論の反対が強く、女王の特赦で、禁固6ヶ月に減刑されたそうです。 まあ、さんざん苦労した上に、国に帰って死刑にされたんじゃ適いませんわな。
しかし、陪審員としては判断不能ですが、もし、給仕パーカーの立場だったとしたら、船長と航海士を許しはしません。 冗談じゃねーす。 それでなくても苦しい思いをさせられているのに、その上、殺されてたまるもんですか。 その情況で犠牲にならなければならない理由など、ロボロフスキー・ハムスターの小指の爪の先ほどもありゃしません。 他の三人は、故郷に家族がいる? 馬鹿おっしゃい! 家族が困るといっても、餓死するわけでも殺されるわけでもありますまいに。 なんで、そんな見ず知らずの連中の生活を安んじてやるために、自分が殺されなければならんのよ?
そもそも、家族なんて、職務と全然関係ないではありませんか。 ちなみに私は、扶養手当とか、育児手当とか、役所や企業が行なっている、そんな制度にも、根本的・全面的に反対です。 職場へはみな、仕事をしに来ているのであって、家でどんな生活をしていようが、知ったこっちゃありません。 そんな事は、互いに干渉されたくもないし、特殊な条件にある人間だけを、他の人間が助けてやる義務も無いと思います。 なんで私が、見ず知らずのおっさんの、輪を掛けて見ず知らずの家族の分まで働かなきゃならんのよ。 理不尽にも程がある! 責任者はどこか!
他方、もし、船長の立場だったとしたら、とりあえず、給仕パーカーが死ぬのを待ちます。 死ぬ寸前でも、死んだ直後でも、食料としてのパーカーに、さほどの違いはありません。 死んだ後なら、障碍になるのはカニバリズムの問題だけで、法律的には、罪に問われる事はないと思われるからです。 もし、航海士や船員の立場だったら、船長に、「後々、厄介な問題になりかねないから、パーカーを食べるにしても、死ぬのを待とう」と進言します。
つまり、もし、私だったら、船長と航海士が取った行為は、選ばなかったという事になりますな。 ただ、だからといって、私は彼らの行為を裁く事はできません。 それは、陪審員の立場の所で述べた理由によります。
この事件の場合、たまたま、三人が助かったから、裁判の対象になったわけですが、もし全員死んだ後でボートだけ発見され、最後の一人によって記録されていた事件の顛末が世に知れたとしたら、彼らが行なった殺人行為を非難する者がいたかどうか、大いに疑わしいです。 現在でも、こういう難波漂流事件は起こりますが、生き残った人間を罪に問う事はほとんど無いのではないでしょうか。
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