2010/09/19

田原町の思い出

  勤め先の別工場が岩手県にあるのですが、10月以降、そちらが増産なると同時に、私が勤めている工場が減産になるため、来年の3月末まで半年間、応援に行く事になりました。 まだ詳細な説明は受けていませんが、今の段階で分かっている事というと、10月4日から赴任で、前日の3日、日曜日が移動日になるらしいです。

  長いな、半年は。 しかも、雪が降る地域で、冬の間だけというのは、「皮肉か?」 と思うほど、厄介です。 東北は、景色が大変美しい所なのに、雪に立て籠められたのでは、出掛ける事も出来ません。 いや、それ以前の問題として、全く雪が降らない土地で育ち、雪への対応能力がまるで無い私が、果たして半年間 生きていられるものかどうか・・・。

  前回 他工場へ応援に行ったのは、1995年でして、愛知県の田原町でした。 現在は、市町村合併で、田原市になったようです。 今、最新の地図を調べてみましたが・・・、凄いね、渥美半島全部が田原市になってしまったんですな。 私が行った頃の田原町は、渥美半島の付け根から、真ん中辺りまでで、先端の方は、別の町村でした。 もう15年も経ってしまったんですねえ。 年月の流れ去るのは速いものです。 感慨頻り。

  他工場への応援には、大きく分けて二種類ありまして、一つは同じ会社の別工場への応援。 もう一つは、グループ内の、別の会社の工場への応援です。 田原の場合、後者に当たるので、行く前に、悪い病気を持っていないか、健康診断がありました。 血液検査もしたと思いますが、当時はエイズが取り沙汰されていた頃で、受け入れ側も感染症に警戒していたのでしょう。

  しかし、考えてみれば、人手が足りなくて働きに来て貰うのに、血液検査をするというのは、随分と失礼な話です。 独身寮で集団生活させる事になるので、浴場や洗濯機の共用で、感染症が広まってはまずいと考えたのでしょうが、感染症は、元からいる寮生が持ち込む事もあるわけで、こんな検査は、人間の尊厳を損なっているだけで、とんと無意味だと思います。

  今回は、同じ会社の別工場に過ぎませんから、健康診断は無し。 その点は、気分が悪くなくて、大変宜しい。 別会社の工場へ行くと、制服も違いますし、こちらの方が会社の格が下だと、それだけで小馬鹿にされたりして、何かと腹が立つ事が多いのです。 会社名の後ろに、「さん」 を付けて、「○○さん」 などと呼ばれ、個人の名前も覚えて貰えません。 人を何だと思ってるんじゃい? あの時は、差別について、実体験でいろいろと考えさせられました。

  一番 腹が立ったのは、「新入りの仕事だから」 と言われ、休憩所の灰皿の掃除をさせられそうになった事です。 なんで、煙草を吸わない私が、ニコ中のアホどもの為に、そんな事をせねばならんのか、理不尽にも程があると思い、「休憩所を使わなければいいんだろう」 と勝手に解釈して、自分の工程で休んでいました。 そういや、あの休憩所は、土足禁止で、絨毯の上を靴下足で歩くようになっていましたが、どういうつもりなのか、そんな事したら、あっさり、水虫をうつされてしまいますよ。 馬鹿でねーの?

  また、上司が変なオッサンで、私が、バイクを持って来て、観光地巡りをしていると言うと、「バイクで帰るのか? 危ないだろう。 事故でも起こされたら困るから、やめろ。 バイクだけ宅急便で送って、電車で帰れ」 などと、滅茶苦茶な事を言い出す始末。 常識が無いんだよ。 バイクを宅急便で送る奴が、どこの世界におるねん? 大体、バイクで来たんだから、バイクで帰れないという法はありますまい。 それに、愛知の田原から、静岡の沼津なんて、一般道でも4時間弱で着く距離で、ツーリング・ライダーには、物の数ではありません。 てめえがバイクの世界を知らないものだから、戯言みたいな事を平気で言いよる。 知らないなら、口を出すなっつーのよ。

  唯一 溜飲が下がったのは、私がそこで任された仕事が、新しく出来た工程だったので、自分の好きなように、仕事の手順や、作業棚の配置を決められた事です。 同じ工程の反対直に入った男も、私と同じ会社から行った応援者だったのですが、そいつが困った野郎で、私が朝出て来ると、毎日 棚の配置が変えてあるのです。 そんな配置で仕事ができるはずかないので、「変だ変だ」 と思っていたのですが、職制の情報によると、そいつは部品検査出身で工程作業の経験が無く、手順の組み立てなど、全然できない奴だったんですな。

  そいつは仕事が間に合わなくて、しょっちゅう 職制を呼んで助けて貰わなければならないのに、一方の私は涼しい顔でやっているので、「同じ工程なのに、なんで こんなに差があるんだ?」 と、反対直の職制が、わざわざ私の作業を見に来たくらいです。 偉そうなのが二人来ましたが、腕を組んで、憮然として見ている様は、小気味良かったです。 そんな事情で、私としては、一時 優越感に浸ったわけですが、今 思い返してみると、何とも程度の低い満悦だったことよ。


  仕事の方は、ろくな事がありませんでしたが、独身寮は、新しくて、住み心地が良かったです。 昔は、独身寮といったら、相部屋も珍しくなかったのですが、1995年くらいになると、意識も変わって来ていて、もう個室が当然になっていました。 エアコンは全室完備。 後は、テレビと電気ポットが備え付け。 ビデオが無かったのはきつかったです。 一週間ごとに昼勤と夜勤が入れ替わるので、録画できないと、連続の番組を見れないんですな。 近くのホームセンターで、18000円で売っていましたが、出張旅費が2ヵ月で9万円しか出なのに、そんな高い買い物はできませんから、断念しました。

  しかし、当時 熱心なアニメ・ファンだった私に、ビデオ無しの生活は辛過ぎました。 「このままでは、鬱病になりかねん!」 と、悶々としていたところ、寮のゴミ捨て場で、ソニーのVHSビデオが捨ててあるのを発見。 物は試しと拾って来て、テープだけ買って来て入れてみましたが、うんともすんともいいません。 そりゃそうだわなあ。 使えるものなら、捨てたりせんでしょう。 考えが甘かったか。

  ところが、ソニーのビデオをゴミ捨て場に戻しに行くと、今度は、松下電機のビデオが捨ててあります。 家で使っていたのも松下でしたから、「こっちなら、直せるかも」 と思い、部屋に持ち帰ってバラしてみると、思った通り、以前、家のビデオで経験したのと同じ部品が壊れています。 早速、ホームセンターへ行って、瞬間接着剤を買って来て、くっつけたら、果たして、動くようになりました。 いやあ、あの時は、嬉しかったです。 何でも、やってみるもんですねえ。

  ところが、その場で録画はできますが、説明書が無いし、家のとは機種が違うため、予約録画のやり方が分かりません。 悪戦苦闘する事、一週間。 腕時計の設定方法の知識まで引っ張り出して、様々な方法を試し、漸く、予約録画の方法を突き止めました。 いやあ。あの時も嬉しかったです。 あまりにも嬉しくて、思わず、両親の元へ、ビデオ修理の顛末を書いた葉書を出してしまいましたよ。 アニメも録画しました。 ≪ウェディング・ピーチ≫でしたけど。

  その頃、うちではまだ、ケーブル・テレビを入れてなかったので、地方局しか見れなかったのですが、田原では、テレビ東京の番組を見る事ができました。 その頃からアニメが多い局でしたから、ここを先途と、あれこれ見倒しました。 まあ、≪ウェディング・ピーチ≫はいい方で、他にろくな作品は無かったですがね。 他の局では、≪ガンダムW≫をやっていた頃ですな。 ≪エヴァンゲリオン≫は、まだ放送前。 私が、エヴァを見るのは、沼津に帰って、地方局の深夜で放送されてからです。


  寮の生活は質素なものでした。 広さは6畳間に押入れが付いたもの。 トイレ・洗面所・風呂は、共同です。 布団は貸し出しでしたが、狭いベランダに干したのは、2ヵ月で一回か二回で、シーツは一度も洗いませんでした。 洗濯機が有料で、一回100円取られるので、余計な事にお金を使いたくなかったのです。 部屋を広く使うために、敷きっ放しにはせず、毎朝 畳んで、押入れに入れていました。

  衣類の洗濯は、週に二回はしていたと思います。 あまり溜めると、干す場所が無いのです。 最初は、洗濯紐を持って行ったんですが、一度に多くを干せずに不便なので、家から洗濯ハンガーを送ってもらいました。 ベランダがあったものの、吊るすフックが無かったので、いつも部屋干しでしたが、不思議と、匂いはつきませんでした。 洗濯機ですが、こちらが起きている時は、反対直の人間が眠っているので、時間帯を選ぶのに気を使いました。

  食事は、昼だけは会社の食堂で定食を食べ、寮では、朝はバター・ロール、夜は、カップ麺とバター・ロールという、超粗食に耐えていました。 なぜ、そんなに貧しい食事だったかというと、お金をケチったからです。 応援に出されたのが不服で、せめて出張費を丸ごと残して、元を取ろうとしたため、食費に皺寄せが行ったというわけ。 アホですな。 栄養失調寸前になるまで痩せましたよ。 バター・ロールでさえケチって、近くのスーパーで賞期限切れを半額で買っていたので、それが中って、腹痛で苦しんだ事もありました。 ほんとにアホですな。 ケチにつける薬は無いか。

  飲み物は、電気ポットで沸かした、お湯だけ。 生水は飲みませんでした。 田原町は、高い山が無いため、水源も無く、南アルプスから引いているとか聞きましたが、水路や水道管を長く通った水というのは、やばいんですな。 たぶん、地元の人も生水は飲んでないんじゃないでしょうか。 ケチな私は、もちろん、清涼飲料水など買いません。

  風呂は、大浴場。 でも、赤の他人と裸の付き合いというのは、何となく嫌なので、浴場の一角にあった、シャワー・ルームばかり使っていました。 とにかく、一番恐れたのが、水虫をうつされる事です。 私に言わせれば、好き好んで温泉なんかに行く奴の気が知れませんな。 「いやあ、実は俺、水虫でよー」 などと、寛いだ場で気さくに告白する奴など、たまにいますが、「知らなきゃ、それで済むものを、黙ってろ、この馬鹿野郎!」 と、怒鳴りつけたくなりますな。 幸い、そういう目には遭いませんでしたけど。


  最初に行く時には、バスで移動したんですが、翌週には、同僚の車に乗せて貰って家に戻り、バイクを持って行きました。 まだ、免許を取って、一年目の時です。 バイクは、私にとっては二台目のもので、≪セロー225W≫、白地に青と紫のラインが入った、オフロード系モデルです。 駐輪場に置くと盗まれそうなので、寮の裏手に人目につかない場所を探して、ハンドル・ロック、ヘルメット・ホルダーを利用したチェーン・ロック、ブレーキ・ディスクの南京錠、更に、新たに購入したスネーク・ロックと、四重のロックを施し、とどめにカバーまでかけて、厳重に保管していました。

  自由に使える足があるというのは便利なもので、田原町を始め、渥美半島の観光地・景勝地は、ほとんど回りました。 職場は嫌だったけど、土地柄は、いい所でしたねえ。 沼津に比べると、観光地の整備が進んでいて、「金がある所は違うなあ」 と、感服しました。 城跡が残っていたのは羨ましい。 渡辺崋山ゆかりの地で、関連史跡がたくさんありましたが、軒並み見に行ったと思います。

  隣の豊橋にも行きました。 大きな街で、見切れない内に、応援期間が終わってしまいました。 地図で見所を調べて、一つ一つ潰して行くのですが、欲張って、日が暮れるまで駆けずり回って、寮に戻るのが夜になる事もありました。 薄暗くなりかけた頃に探しに行った、≪国分尼寺跡≫なんか、忘れられない記憶ですねえ。 ≪跡≫なので、何も無い原っぱで、近くにある平屋の家に点いた灯りが、物寂しさを盛り上げていました。 ちなみに、私が田原に行ったのは、11月と12月、えらい寒い季節でした。 当時は、まだ、写真趣味を始める前で、もちろん、カメラは持って行かず、写真が一枚も無いのですが、バイクで回った先の記憶は、割と鮮明に残っています。 一生、忘れないでしょうなあ。


  帰りは、期間終了の一週間前に、バイクで帰って来て、母の車を借りて田原へ戻り、ビデオやカラー・ボックスなど、ゴミ捨て場から拾って、溜まった荷物を持って帰って来ました。 他にも、家から送って貰った、小型テーブルや、座椅子など、大物があって、バイクでは持ち帰りようがなかったのです。 確か、昼勤で終わって、寮に帰って休憩し、夜中に車に荷物を運んで、夜通し走って帰って来たのだと思います。 浜松あたりで眠くなって、どこかの店の駐車場に勝手に停めて、仮眠しました。 家に着いたら、ちょうど、朝飯の時間でした。 最後に寮の部屋を出る時には、目に焼き付けておこうと思って、5分くらい、じーっと眺めていましたよ。

  そうですか、もう、15年も経ちましたか。 今では、遠い記憶になってしまいました。