2010/09/12

2010・夏の読書2

読書感想文は、六日出勤で土曜にここの記事を書く時間が無い時に取っておこうと、常々思っているのですが、さすがに読んだ本が溜まり過ぎたので、出してしまいます。 ・・・いや、実を言いますと、最近、自転車の事ばかり考えているせいで、記事のテーマがとんと思い浮かばんのですわ。 依然として、人間社会に対する興味が薄れたままで、新聞やニュースを見ても、何の感想も湧いて来ないという、根本的且つ深刻な問題もあるのですが、面倒臭いし、胃も痛いから、そちらへの対処は後回しにしましょう。 永久に後回しになるかもしれませんが・・・。




≪バカの壁≫
  知らない人でも知っているくらい有名になったベスト・セラー本。 騒がれていた頃、本屋でざっと立ち読みした事があったんですが、すっかり内容を忘れてしまいました。 このほど、図書館にあるのを偶然発見し、今更ながら借りて来て、じっくり読んでみた次第。 この本、新潮新書なんですが、沼津の図書館の新書コーナーには、岩波と中公しか置いてないので、最初から諦めてしまって、探しもしなかったのです。 ところが、≪アホの壁≫のついでに、館内検索してみたら、ヒットして、びっくり! 一般書扱いで、≪社会評論≫のコーナーに三冊もあったのです。 もっと早く、調べてみればよかった。 ちなみに、≪アホの壁≫は、まだ無い模様。

  どえらい反響を巻き起こしたので、どんなに凄い事が書いてあるかと思ってしまいますが、実際の内容は割とシンプルです。 200ページ程度の新書で、そんなに凄い内容を盛り込めたら、その方が不思議というもの。 ちなみに、この本は、養老孟司さんが口頭で喋った話を、編集者が文章に起こしたものでして、基本的に、口語体のまま文字になっているので、普通の新書よりも、更に読み易くなっています。 活字離れした今時の人々が飛びついたくらいですから、読み難いはずがないとも言えます。

  否でも人の注意を引く、≪バカの壁≫という書名が、この本の売れ行きに多大な貢献をしたのは確実です。 しかし、これは正しく、話題性を狙ってつけた書名であって、この本全体のテーマではありません。 全部で八章ある内の、第一章だけが、この書名に相応しい内容を持っています。 しかし、それでさえ、さほど密接な関係ではなく、他の章に至っては、限りなく羊頭狗肉に近くなります。

  ≪バカの壁≫とは、つまり、「立場が違ったり、興味の対象が異なる人間には、どんなに説明しても、こちらの考え方や感じ方を伝えるのは、不可能だ」という意味。 よく言われる、「話せば分かる」を否定しているわけですな。 この考え方は、すでに実社会に出ている人なら誰でも、経験上、よく分かると思います。

  第二章以下は、人間の脳が、数式的に情報を処理している事。 個性を重視する教育が、大きな間違いを犯している事。 人間は刻一刻と変化するが、情報は変わらない事。 脳を物体として見ると、馬鹿と利口の区別はつかない事。 今時の教師に対する批判。 一元論的考え方に対する批判。 といったような評論が並んでいます。 それぞれ、面白いですが、後半に向かうに連れ、年寄りの繰り言というか、「昔は良かった」的な物言いが増えて来て、だんだん、真面目に読む気が無くなって来ます。

  かなり峻烈な一神教批判が、何度か展開されますが、「一神教は一元論だから、他者と争ってばかりいる」という見方は、随分と単純に過ぎていて、一神教が登場する前から人類が互いに争って来たのは、否定のしようがない事実ではないでしょうか。 具体例を挙げますと、日本の戦国時代は多神教の社会でしたが、宗教とは無関係に全国規模で殺しあっていました。 その点は、どう説明するんでしょう。 もっとも、養老さんほどの古強者になると、この種の疑問をぶつけられても、何かしら、それらしい回答を、すぐに思いつくような気もしますが。

  書名は無視して、人間の脳に関する、社会的、生理学的アプローチをした評論集だと思えば、かなり面白い本だと思います。 目から鱗的な発想が多く含まれており、人によっては、これ一冊読んで、人生観が変わる事もあるかもしれません。 ただ、年寄りの繰り言の匂いがする部分は、それ以上のものではないと思うので、全てを鵜呑みにしないよう、気をつけるべきでしょう。 心酔し過ぎて、養老さんを盲目的に崇拝したりする前に、類似のテーマを扱った、他の著者の本を読んでみる事をお薦めします。




≪アジアの暦≫
  書名の通り、アジア各地の暦について詳述した本。 この場合の≪暦≫には、≪暦法≫と、現物としての、≪カレンダー≫の両方を含みます。 中国、韓国、朝鮮、ベトナム、イスラム諸国、インド、ネパール、タイ、ラオス、インドネシア、バリ島と、アジア全域をほぼカバーしていますが、日本は外されています。 恐らく、著者の他の本に、日本の暦について専門に書かれたものがあるのではないでしょうか。

  まず、太陰太陽暦と純粋太陰暦の二つに別れ、その内、太陰太陽暦が、中国式とインド式の二つに別れ、更に、それぞれの周辺国に類似バージョンが広がっているという図式で捉えれば、分かり易いでしょうか。 ちなみに、純粋太陰暦というのは、イスラム圏がほぼ全域、それです。

  現在の日本は、グレゴリオ式の太陽暦オンリーで動いているので、江戸時代まで使っていた太陰太陽暦の説明ですら、感覚的にピンと来ないと思います。 そこで、掻い摘んで説明しますと、

  太陽暦は、太陽の周りを地球が一周する時間を一年とし、それを12で割って、1ヶ月としています。 太陽暦に於ける月とは、単に年を割ったものに過ぎないので、実際の月の動きとは一致しません。 大体の目安にしているだけです。 江戸時代以前は、十五夜といえば、ほぼ満月と決まっていたわけですが、今、太陽暦の15日に夜空を見ても、月の形は、毎月バラバラです。

  太陰暦は、月の満ち欠けを見ながら一ヶ月を計り、それを12回繰り返したら、一年とします。 太陽暦とは逆に、月の動きには忠実ですが、年の方は、それを12回足しただけなので、実際の一年とは一致しません。 月が地球の周りを一周するのは、約29.5日なので、大の月を30日、小の月を29日にして、それぞれ交互に並べると、一年で354日にしかなりません。

  太陰太陽暦は、基本的には太陰暦なんですが、定期的に修正して、太陽暦と一致するようにしたものです。 太陰暦を続けていると、だんだんズレて来て、同じ日付でも、年により季節が変わってしまい、農作業その他の基準にする上で支障が出て来ます。 そこで、何年かに一度、≪閏月≫を入れて、太陽暦との差を修正するわけですな。

  イスラム圏の多くは、純粋な太陰暦を大昔から現在まで使い続けていますが、それは、多くの国が熱帯地方にあるため、季節が存在せず、太陽暦とのズレが出ても支障が無いからです。 同じイスラム圏でも、緯度が高くて季節がある所では、太陽暦との併用をしているらしいです。

  中国式の太陰太陽暦は、日本も同じ形式を使っていたので、馴染みが濃いですが、今でもよく耳にする、≪二十四節気≫というのは、太陽暦の方の分け方なのだそうです。 日付の基本になっている太陰暦とは別に、カレンダーに書き込まれていて、それを元にして、太陽暦の季節を知ったわけですな。 ただし、≪二十四節気≫は、中国の長安や洛陽の辺りの気候を基準にしているので、【雨水】や【啓蟄】など、他の地域では一致しない事象が多いのだそうです。 まあ、日本国内ですら、南と北とでは、虫が出て来る時期は違いますからねえ。

  ちなみに、現代の中国では、グレゴリオ式の太陽暦を採用していますが、太陰太陽暦も、≪農暦≫という名前で残っています。 しかし、農業に必要なのは、季節に連動する太陽暦の方でして、太陰太陽暦を、≪農暦≫と呼んでいるのは、些か転倒の感なきにしもあらず。 月の動きを見ても、季節は分からないので、たぶん、≪二十四節気≫の部分だけを指しているのだと思います。

  インドの太陰太陽暦では、1日から15日まで行くと、また1日に戻り、そのまま14日まで行くと、次は30日になるのだそうで、ちょっと驚かされます。 これは、月が満ちて行く半月と、欠けて行く半月を分けているからで、最後に30日になるのは、1ヶ月が終わった事を示すためなのだとか。 なるほど、そう言われてみれば、合理的です。

  グローバル化した現代では、どの地域でもグレゴリオ式太陽暦を併用していて、たぶんそちらの方が主流になりつつあるのだろうと勝手に思い込んでいたので、各地の伝統的な暦に、これほど多くのパターンがあると知って、新鮮な驚きを感じました。 図表などの資料を、そのまま載せているページも多いので、読み物としての纏まりには少々欠けますが、全く知らない世界を覗き見る事ができるという点で、一度目を通す価値はあると思います。




≪万民の法≫
  20世紀後半に活躍したアメリカの哲学者、ジョン・ロールズ氏が、1999年に出した本。 哲学といっても、カントの流れを汲む政治哲学でして、近代政治思想の末端に位置するような人です。 日本では、政治哲学を専門にしている人達しか名前を知らないんじゃないでしょうか。 「アメリカに、哲学者なんていたの?」と、根本的な所から縁が無い人間が絶対多数だと思いますが、私もその一人でした。 NHK教育テレビでやっていた、≪ハーバード白熱教室≫で、マイケル・サンデル教授が、毎回のように、「カントが」「ロールズが」と繰り返したので、初めて存在を知った次第。

  カントと並べられるほどの学者なら、著作を読んでみる価値があるだろうと思ったのですが、沼津の図書館には、この≪万民の法≫と、≪公正としての正義 再説≫の二冊しかありませんでした。 どちらも、氏が晩年になってから発表したものです。 できる事なら、氏が名を上げる事になった、1971年の≪正義論≫から読みたかったのですが、図書館に無いばかりか、とっくに絶版になっていて、ネットで古本すら見つけられない有様。 「ううむ、仕方が無い」と唸りつつ、読めるものから読む事にしました。

  で、この≪万民の法≫ですが、非常に分かり難い本で、喰い付くのに、えらい苦労をしました。 ロールズ氏特有の耳慣れない用語がたくさん出て来て、文章の意味がなかなか取れないのです。 何度か読み直さないと、理解できないかもしれませんな。 ただし、ページ数は割と少ないので、一週間もあれば、一通り目を通す事はできます。

  内容はというと、国際政治の様態分析と、理想的な世界政体について述べたものです。 過去から現在にかけて存在した国々の社会には、≪リベラルな民衆社会≫、≪良識ある階層社会≫、≪無法社会≫、≪重荷に苦しむ社会≫などの諸形態があり、その内、≪リベラルな民衆社会≫と、≪良識ある階層社会≫が互いに相手の存在を認め合って、≪無法社会≫には制裁を加え、≪重荷に苦しむ社会≫には援助を与えれば、世界全体が、理想的な状態になるというもの。

  ≪リベラルな民衆社会≫には、アメリカや西欧諸国、インドなどが想定され、≪良識ある階層社会≫には、穏健派のイスラム諸国が想定されているようなのですが、具体的な国名ははっきり示されていません。 ≪リベラル≫という言葉が使われているからには、同じアメリカ合衆国でも、共和党政権はリベラルなど糞喰らえと思っているわけですから、アメリカは政権が変わるごとに、≪リベラルな民衆社会≫になったり、ならなかったりする事になりますが、そういう意味ではなくて、氏が≪リベラルな民衆社会≫という名称で指し示しているのは、漠然と、≪民主主義社会≫の事らしいのです。

  しかし、この社会形態の分類方法、相当には大雑把でして、実際の国際政治の分析では、全く用なさないでしょう。 ≪無法社会≫の特徴として、「自国の利益のために、平気で外国を侵略するような国」というのが挙げられていますが、常識的に考えると、現在それに最も該当するのはアメリカという事になってしまって、氏の理論全体が崩れてしまいかねません。 自国政府を批判するために、皮肉のつもりで書いているのかとも思えますが、論文全体の雰囲気を見るに、そういう趣旨でもないようなのです。

  「≪リベラルな民衆社会≫同士は、決して戦争をしない」という言い方が何度も出て来ますが、この観察も大いに曲者で、氏は自分の理論に当て嵌まる時だけ、その国を、≪リベラルな民衆社会≫と呼び、当て嵌まらない時には、「その時、その国は、≪リベラルな民衆社会≫ではなかったのだ」と言っているだけのようにも取れます。 灰色の猫を、白猫と比べる時は、「黒い猫」と言い、黒猫と比べる時は、「白い猫」と言っているようなもので、基準がはっきりしておらず、理論全体の説得力を弱くしてしまっています。

  思うに、このロールズ氏、専門は政治哲学の論理の方で、実際の国際社会の観察や分析は、まるっきり門外漢だったのではありますまいか。 論理ならば、思い切った単純化が許されますが、現実となると、情況を単純化し過ぎるのは危険極まりないです。 たとえば、サダム・フセイン政権のイラクと、戦前の日本を同一視して、日本で成功した復興計画が、イラクでも同じように成功すると思い込んでいた例などは、単純化が悪い結果を齎した典型ですが、そういった間違いも犯し易いわけです。

  訳者あとがきの中に出て来るのですが、この論文に対して、「ロールズは、≪正義論≫の頃から、主張を後退させて、国際社会の現状を追認するだけになってしまった」という批判があったそうです。 訳者は、それを否定しているのですが、私の印象では、ズバリ図星をついた批判としか思えません。

  この本、≪万民の法≫の他に、もう一つ、≪公共的理性の観念・再考≫という論文も収められています。 そちらは、ごく短いものですが、≪万民の法≫以上に印象が薄く、読み終わった途端に、何が書いてあったのか、忘れてしまいました。 内容があれば、分かり難くても印象には残るので、大した事は書いてなかったのでしょう。




≪クルマから見る日本社会≫
  1997年に出版された、自動車関連の視点から見た、日本社会批判の本。 著者は、1931年生まれの自動車ジャーナリストで、計算すると、出版当時は、66歳くらいです。 車好きは車好きでも、かなり歳が行った人の書いた物なので、それを頭に入れた上で、注意しながら読む必要があります。

  とにかく、最初から最後まで、峻烈な批判の連続でして、日本の自動車会社、運転者、法律、監督官庁、自動車雑誌などを、貶して貶して貶しまくります。 基本的には、すべて正論でして、1997年の時点に限って言えば、この批判に反論するのは、屁理屈を以てするしかなかったでしょう。 ただ、すでに、13年も経っているので、この本の批判が、現在でもすべて通用するという事はありません。

  特に手厳しいのは、役所の一貫しない自動車行政に対してで、もう、ボロクソです。 どんどん、エスカレートして、車から離れて、一般論で官庁をこき下ろし始めるに至って、読んでいる側はついていけなくなり、「普段からこんなに怒ってばかりいるとは、不幸な人だなあ」と、憐憫の情さえ湧いて来ます。 過ぎたるは猶及ばざるが如し。

  自動車雑誌に対する批判も凄まじく、わざわざそのために一章を設けています。 ただし、その章に限るなら、その批判の内容には、私も異論がありません。 私自身、面白くなくなったために、自動車雑誌を読むのをやめてしまった人間ですから。 今でも、かなりの種類が出版されているようですが、一体、誰が読んでいるのか、大変不思議です。

  自動車雑誌に試乗記事を書くジャーナリストというのは、「七誉め、三貶し」を、批評の目安にしているのだそうです。 七分誉めて、三分貶しておけば、メーカーには恨まれないし、読者からも、「メーカーの言いなりに誉めるばかりではない批評家」として、評価されるからだとか。 なるほど、そう言われてみれば、そんな記事が多かったような気がします。

  当時、問題になった、≪カー・オブ・ザ・イヤー≫の、メーカーによる審査員接待攻勢についても詳しく書かれていて、その辺りは、野次馬興味的に面白いです。 まったく、人間というのは、汚らしくも醜い生き物ですな。

  読めば、そこそこ面白いですが、なにせ、出版から時間が経っているので、現在では情況が変わってしまっている指摘が多く、車に詳しくない人が読むと、混乱する恐れがあります。 やはり、新書は、情報よりも、知識を主体にした本の方が、価値の減衰が起こり難いようですな。


  と、今回は、この四冊まで。 うーむ、いつにも増して、統一性に欠けるラインナップですな。 一応、正確に読んだ順に並べているんですがねえ。 ほら、だから、人間社会に対する興味が失せているもんだから、これといって、興味あるジャンルが無くなってしまっているんですよ。 困ったもんだ。

  ジョン・ロールズ氏に関しては、≪万民の法≫の後に、≪公正としての正義 再説≫を借りて来たんですが、あまりにも理解しにくく、途中まで進んだら、胃が痛くなって来たので、読むのをやめてしまいました。 中途放棄したので、感想は書きません。 たぶん、もう読み直す事も無いでしょう。

  ちょこっとだけ触れますと、ロールズ氏の最初の著作、≪正義論≫への他の学者の批判に対し、氏が反論と自説の修正点を述べたものでしたが、読み物としての纏まりに著しく欠け、どうにも喰い付けなかったのです。 哲学者の皆さんに申し述べたいのですが、一般人に自説を広めたいと思うのなら、読んで面白い形に纏めなければ、話になりませんぜ。 それでなくても分かり難いんだから。