2011/05/15

クラゲ状態

 「死ぬのには、相応の理由が要るが、生き続けるのには理由が要らない」

  というのは、私が、約20秒前に思いついた格言ですが、見掛けだけでなく、中身にもそこそこ深いものがあり、真理の一端くらいは突いていると思います。 つまり、人間を始め、生物全般に、元から生きるように設計されているので、理由が無くても、放っておけば、生き続けているというわけですな。

  一方、死ぬ方は、寿命が尽きるにせよ、病死、事故死、自殺にせよ、理由もしくは、原因があります。 生物においては、生が常態で、死は異常事態なわけです。 いや、これは形容矛盾という奴で、死んでしまえば、すでに生物ではないから、生物の異常とは言えませんが・・・。

  昨今、私自身が、なぜ生きているのかという事を、ちょこちょこ考えるのですが、何度検討しても、「死ぬ理由や原因が無いから、ただ漫然と生きている」という結論に至り、暗~い気分になります。 自分で言うのもおこがましいですが、人間、こうなってしまったら、もうおしまいですな。 生きていても、ちっとも楽しくありません。

  もちろん、私とて、希望を抱いて生きていた時期はあるのであって、学生時代には愚かにも、「社会人なれば、ドラマに出て来るような刺激的で楽しい経験ができる」と思っていました。 社会人になって、「そんなのは、作り話に過ぎないか、少なくとも、自分の場合、そんな生き方とは縁が無い」と悟りましたが、若い頃はまだ、「その内、結婚でもすれば・・・」とか、「ライフワークになるような趣味を見つければ・・・」とか、希望は常に存在し、自分自身の未来に対して、暗い展望を持つ事はありませんでした。

  ターニング・ポイントになったのは、やはり、結婚を全面的に諦めてしまってからですかねえ。 人間、というか、やはり、生物全般に言える事ですが、生きる目的には二つあります。 一つは、物を食べて、自分自身の体を維持する事。 もう一つは、生殖して、子孫に自分の遺伝子を伝える事。 生物の中には、生殖が終わると死んでしまう種が多い事を考えると、この二つは並列すべきものではなく、「生殖能力を持つまで、自分の体を維持するために、物を食べる」というふうに、統合できるかもしれません。

  生殖というのは、生物にとって、極めて重大な事なんですなあ。 それを諦めてしまったわけですから、そーりゃ、生きる希望も失おうってもんだわさ。

  ちょっと前まで、≪婚活≫という言葉が流行っていましたが、ある統計によると、男性で40歳を過ぎている場合、婚活しても、成功率は、1%だとか。 話になりませんな。 50%くらいなら、まだ取り組む価値もありますが、1パーなんて、やっている方がパーとしか思えません。 たとえば、手術の成功率が1%と言われて、大金払う患者がいますかね? 家族が出すと言っても、当人が断りますぜ。

  私が子供の頃までは、恋愛結婚の補完システムとして、見合い制度があって、大人になったら、ほとんど全ての人間が結婚していました。 独身のまま歳を取ってしまった人が、近所で変人扱い、いや、それどころか、狂人扱いされるくらいでしたから、どれだけ徹底して、結婚させていたかが分かろうというもの。

  一方、今では、石を投げれば、高齢の独身者に当たる時代です。 近所に住んでいる私の従兄弟世代の中だけでも、三人も独身者がいて、年齢的に、もう結婚は無理なわけですが、何も言われる事はありません。 それどころか、結婚した連中が、みんな家と親を捨てて出て行ってしまうものだから、家に残っている独身の子供がいると、「お宅は、跡取りがいるから、いいですねえ」などと、羨ましがられる始末。

  跡取りと言っても、一生独身では、子孫ができないわけで、せいぜい30年ほど、家の寿命を延ばせるだけなのですが、それでも、まだマシらしく、子供が出て行って、年寄りだけになってしまった家では、家族の消滅が目前に迫っているわけで、「何かあった時に、一緒に住んでいる子供がいるだけでも、安心できる」と思うものらしいです。

  ちなみに、うちの近所を観察していると、老夫婦二人で暮らしていた世帯で、その内の一人が死に、残った方が、子供に引き取られずに、独り暮らしで家を守っている場合、親の面倒を見にちょくちょく実家に顔を出すのは、ほとんどが、娘です。 息子は、全く帰って来ません。 せいぜい、お盆に墓参りに来る程度。 冷たいですなあ、息子どもは。

  大方、「自分は親から独立して、一家を成しているのだから、実家に頻繁に顔を出すのは、親に頼り続けているみたいで、何だか、嫌だ。 それに、世間体も悪いだろう」とか何とか、それらしい葛藤に悩んだ結果、そんな態度を取ってるんでしょうが、馬鹿だねえ。 親の顔を見に来たって、どうしてそれがイコール、頼る事になるんだね。 そんな事言ってたら、親子なんて、何か理由が無ければ会えなくなってしまうではありませんか。 自分と自分の子供が、そういう関係になったら、嬉しいかね?

  世間体? わははははは! 笑止千万。 いいかい、あんたが、実家に顔を出そうが出すまいが、親戚や他人は、あんたを誉めたりしないんだよ。 どっちを選んでも、必ず貶す!(机ドン!)

「あいつは、家を出たっきり、よりつきもしない。 何をやってるか分かったもんじゃない」
「あいつは、年柄年中、親元に入り浸っている。 たぶん、金でも借りに来てるんだろう」

  そんな事ばかっり言っているもんだって。 どうせ、馬鹿にされるのなら、親戚や他人の目なんて、気にするだけ馬鹿馬鹿しいというものではありませんか。

  親子の距離に比べたら、叔父甥、叔母姪の間ですら、果てしなく遠いものです。 況や、他人に於いてをや。 あなたが親を大事にしていれば、その姿を見て育つあなたの子供も、あなたを大切にしてくれます。 「親子というのは、そういうものだ」と、刷り込まれるからです。 親と距離を取っていい事があるとすれば、それは、親が、DV親父とか、暴力団員とか、ろくでなしとか、甲斐性無しとか、ひょーろくだまとか、多重債務者とか、アル中とか、骨董蒐集家とか、片付けられない女とか、そういう人の場合でしょう。

  でねー、実家にちょくちょくやって来る娘ですが、親の最期の面倒を見た人間というのは、立場が強いもので、ほとんどの場合、親の死後、実家の家屋敷を貰い受けます。 もっとも、その娘も結婚して、別の家に住んでいるので、実家に移り住むわけには行かず、最初の内こそ、週に一度、風だけ通しに来たりしていますが、やがて疲れてしまって、土地ごと売ってしまったり、家だけ壊して、月極め駐車場にしたりして、最終的に処分する事になります。 売れば、土地だけでも、2、3千万円にはなるでしょうから、親を看取った見返りとしては、充分ですな。

  それに引き替え、返す返すも、愚かな息子達よ。 薄っぺらい体面のために、親からは恨まれ、姉妹からは憎まれ、他人からは馬鹿にされ、自分の子供からは捨てられて、ゴミのように死んでいくわけだ。 自分は、木の股から生まれて来て、空気を食べて育ったと思ってるんとちゃうんか? 惨めな末路も、自業自得だな。


  いつの間にか、どえりゃあ脱線していますが・・・、あーれ? 一体、何をテーマに書き始めたんだっけ? 昨夜のおかずを思い出せない、あの感覚・・・。 そうそう、私が、生きる理由を見失った事でしたな。 ・・・ちっ、嫌な事を思い出してしまった。 こうやって、自分と立場が異なる人間をボロクソに貶して溜飲を下げているのが、そもそも、やるべき事を無くして、余ったエネルギーのやり場に困っている証拠と言えぬでもなし。

  私の場合、震災で幾分よたっているものの、一応正社員で勤めているので、喰うに困る事はありません。 というか、倹約すれば、今すぐ職を失っても、何とか年金受給まで食い繋げる程度の蓄えがあるので、働かなければならない理由さえ失っているのです。 震災後、会社が休みになり、一ヵ月半もブラブラしていましたし、再開後も、毎日、半日出勤で、給料も激減しているわけですが、独身者なので、痛くも痒くもありません。 家族を養っていれば、頑張って稼ごうという気力も湧いて来ますが、あっても無くてもいいお金を、預金通帳に付け足すために、毎日会社に行くと思うと、億劫で面倒で・・・。


  また、趣味の方が、行き詰ってしまって、二進も三進も身動き取れなくなっているのです。 スポーツ自転車を買う計画は、置き場所が無いのが最大の障害となって、断念に追い込まれました。 前から持っていた折り畳み自転車のシート・ポストを長くして、サドル・ポジションを出して乗れるようにしたので、折自を処分する理由が無くなり、折自置き場が空かないので、スポ自も買えないという、逆玉突き状態に陥ったんですな。

  いや、無理をすれば、階段を担いで上がれるくらい軽いスポ自を買って、自室に置くという手もあるにはあるんですが、「そこまでやるか・・・」と、思い留まらせる理由が、またあるんですよ。 自転車というのは、乗らなければ意味が無いわけですが、乗ったら、せっせと漕がなければならないわけで、遠出したり、山道を登ったりしている自分の姿を、想像するだけで、かったるい。 楽しいんだか、苦しいんだか、判別つきかねるのです。 苦しいのでは、もう、その時点で、趣味とは言えますまいて。

  「苦しければ苦しいほど、達成感があるでしょ」? あー、いらんいらん! そんな感覚、登山に凝っていた頃に、覚え飽きました。 サルがラッキョの皮を剥き終って、「やったな、俺・・・」と感慨に耽っているのと選ぶところなし。 わて、サルだっか?

  よしんば、全力で打ち込める趣味があったとしても、趣味は所詮、趣味に過ぎないわけで、自己満足の域を一歩も出ません。 何らかの形で他人から評価されると、有頂天になって、「もっと極めてやろう」などと張り切るものですが、そもそも、私の場合、他人の意見というのが、いかにいい加減なものであるかを見切ってしまっているので、誉められても、全然嬉しくないのです。 誉める奴というのは、上から目線でなければ、的外れに決まっており、どっちにしても、不愉快千万。 「悪意が無いなら、余計な事を言わないでくれ」とさえ思います。


  つまり、人生という奴は、飯が喰えて、趣味に興じているだけでは、駄目なんですよ。 そんな事では、生き甲斐を感じられないのです。 自分で自分をごまかせない。

  自分を含めて、人間の行為全てに、価値を感じられなくなったのは痛いです。 そればかりか、マイナスの価値すら感じる。 何かやれば、すべて、悪い方向へ進むと思うと、何もできません。 これは、気の持ちようの問題ではなく、実際に人間の活動が、地球環境を着々と破滅へ追いやっているわけですから、自分の気分を明るくするためだけに、ほいほい妥協点を探すわけにも行かないのです。


  うーむ、あれこれ書き綴ってみましたが、解決策の片鱗も見つけられませんのう。 これから先、どれだけ生きるのか分かりませんが、死がこの体を片付けてくれるまで、目標無しに漂い続けるのは、厳しいです。 クラゲの気持ちが、何となく分かる今日この頃。 クラゲが喋れたら、「お前と一緒にするなよ」と言うでしょうけど。