2014/08/17

石垣島を歩く

  沖縄旅行記の続きです。 今回も、性懲りも無く、項目ごとにコメントを書く方式に拘るつもりですが、結局、長引いて、紀行文方式と変わりなくなってしまうような予感がします。 それと言うのも、○△商事から連絡があり、次に行く北海道旅行の日程が決まったのですが、予想していたよりも、ずっと遅く、8月25日からという事になったので、それまでの間、これといって、する事が無くなってしまったんですな。 しかも、ここのところの猛暑で、おちおち外にも出かけられないと来たもんだ。 勢い、家の自室に籠って、扇風機の風に当たりつつ、氷水を舐めながら、沖縄旅行記をしたためる時間が増えるという次第なのです。


≪ホテルの朝≫
  野宿ツーリングでは、何時に起きようが、私の勝手だったのですが、今回の旅行は、貸切タクシーや、船会社の送迎バスなど、朝出かける時間が決まっていたので、寝過ごしてはまずいと思い、目覚まし時計を持って行きました。 岩手で入院中、病室に時計がなかったため、世話をしに駆けつけた母に頼んで、100円ショップで買って来たもらった物です。 岩手から家に戻ったら用無しとなり、箱に入れて、しまっておいたのですが、今回、旅行に行くのに、小ささ・軽さ的にちょうどいいので、再登板させたという次第。

  リゾート・ホテルの部屋には、壁掛け時計が無いので、結構、重宝しました。 しかし、この最初のホテルでは、備え付けで、大きめの目覚まし時計が置いてあったので、そちらを使いました。 なぜか、文字盤カバーの透明プラスチックが白く曇っていて、異様に見難い時計でしたが・・・。 束子かなんかで、こすったんですかね? なぜ、時計を束子で? よく分からん。

  起きたのは、6時。 朝食は、7時からと書いてあったので、混まない内に食べてしまおうと、髭剃り・洗面を済ませ、6時55分に、下へ下りて行ったのですが、一階のロビー横にある朝食用食堂は、すでに人で、ごった返していました。 家族連ればかりだから、数組だけでも鬱陶しいのに、十数組どかっと来られたのでは、正に芋を洗うが如し。

  しかも、バイキングなので、立って歩き回っている人間が多くて、およそ、落ち着きません。 家族連れで、一番厄介なのは、トレイを持って走り回っているガキどもでして、選びたい放題、食べ放題のバイキングに興奮して、前も横も見ずに、猪突猛進。 正に、狂った猿。 危険極まりないので、最大限の注意が必要です。 バイキング会場には、「クソガキ警報」を、常時発令しておくべきですな。

  次に厄介なのが、動きの鈍い父親どもで、こいつら、「一家の長」として、妻子の前で、威厳を見せつけようと、わざと、ゆったり構えた動作をします。 御飯や味噌汁の所など、次がつかえているのに、のったらのったら・・・、茶碗に一杯飯をよそうのに、何十秒かかっとんねん? 今まで、一度もやった事がないのか? しかも、わざわざ、ガキを呼びよせて、ガキの分までよそってやったりします。 割り込みと、何の変わりもありません。

  その上、夏場の事とて、判で押したように、半ズボンにサンダル履きで、脛毛が剥き出し。 これから、食事をしようというのに、そんな物を見せられた日には、吐き気を催さずにはいられますまい。 半袖は、まあいいとして、要警戒なのは、ノー・スリーブでして、男の場合、腋毛が落ちる事がある。 料理の中に、他人の腋毛を見つけた時の衝撃たるや、≪シックス・センス≫のラスト・シーンに匹敵するものがありますな。 「あ、が、・・・」 いくら、リゾート・ホテルったって、少しは、他人の迷惑を考えて、服を選べよ。 

  イメージとは裏腹に、割とマナーがいいのは、母親達でして、常に他人の目を気にしながら行動しているせいか、それほど、邪魔にはなりません。 ただ、朝っぱらから、ぷんぷんと香水臭いのは、閉口します。 というか、閉鼻したいところですが、あいにく、そういう筋肉はなし。 これも、バイキング会場で、吐き気を誘引する原因の一つです。 なんで、そんなに、香水に拘る? よっぽど、体臭が臭いのか? 他に理由が考えられません。 ああ、結婚しなくて良かった。 こんな悪臭源どもに飯を食わせるために働くなんて、地獄の責め苦だよ。

  同じ大人の女でも、孫と一緒に来ている婆さんどもは、更に強力な有害分子となります。 もう、色気のかけらも残っていないので、他人の視線なんか、微塵も気にしておらず、傍若無人にして、縦横無尽。 嫁の前で、孫から点数を稼ごうとでもいうのか、大声で孫の名前を呼び、余計な世話を焼き、後ろにいる他人に肘打ちを喰らわせ、並んでいる列を無視して、反対方向から割り込んでくる、筋金入りの図々しさ。 人間とは、かくも醜いものか・・・。 ああ、結婚しなくて良かった。 こんな化け物どもに飯を食わせるために働くなんて、地獄の責め苦だよ。

  またまた、脱線気味ですが、バイキングの料理自体は、おしいかったです。 極力、琉球料理っぽいものを選んで食べましたが、「これは、外れ」というものはありませんでした。 沖縄へ行くと、ゴーヤが入った料理を、無性に食べたくなるのは、なぜでしょう。 ジュースが飲み放題というのも良し。 シークヮーサー・ジュースも飲みましたが、爽やかな酸味がありました。 もっとも、バイキングだと、ついつい取り過ぎて、食べるだけで満腹してしまい、飲む方は、何杯も入らなくなってしまうのですがね。

  ちなみに、こういう、大衆食堂よりも雑然としたバイキングであっても、食後の片付けは、係の人がやってくれます。 私のように、会社の食堂のセルフ方式しか知らない人間は、つい、自分で片付けたくなってしまうのですが、汚れた食器を出す場所は、存在しないんですな。 そういや、このホテルでは、朝食券は、入り口の所に置かれた籠に入れるだけでしたが、もし、券を持っていない人間が入ろうとしたら、どうやって、見分けるんでしょう? 密かに、監視している係員がいるんでしょうか?

  朝食にしては、明らかに食べ過ぎた腹で、食堂を後にしました。 ロビーの隅に、観光地のパンフを集めたコーナーがあり、そこで、雑誌風の、数十ページある、石垣島のガイド・パンフを見つけました。 フロントで訊くと、自由に持って行って良いとの事だったので、部屋に持ち帰りました。 西表ツアーが中止になってしまったので、今日、どうやって過ごすか、決めなくてはなりません。 前の晩、眠る前と、この日、朝起きてから、漠然と考えていたのは、

「石垣島から出られないのだから、石垣島観光をするしかない。 しかし、貸切タクシーでの島内観光が、明後日に予約されているから、今日、全てを回ってしまっては、無駄になる。 極力、金を使わずに過ごすには、歩いて行ける範囲内にある、市街地の観光地を、今日回ってしまい、明後日は、島の北部へ行ってもらう事にしよう」

  といった方針。 それに従い、パンフに載っていた石垣市街の地図を見て、大体の目的地を決めました。 ところで、西表島へ渡る船が出るかどうか、この日の朝になったら分かると言われていましたが、船会社からは、何の連絡もありませんでした。 恐らく、台風で離島ツアーが中止になる事など、日常茶飯事で、断り慣れているから、アフター・サービスなどは、一切やっていないのでしょう。 恨み言を言わせて貰えば、そちらは断り慣れていても、こちらは、一生に一度の沖縄旅行なのであって、断られ慣れてはいないのですがね・・・。

  午前9時頃に出発。 旅行鞄は部屋に置いて行きます。 ナップ・ザックに、湯冷ましの水を入れた500ccのペットボトル、折り畳み傘、チケット類を入れた封筒、観光パンフなどを入れました。 雨に降られるとまずいと思い、貴重品であるチケット類の封筒は、更に、レジ袋に入れて、防水しました。 部屋の中に展開した荷物を、旅行鞄に戻すのが面倒臭くて、フロントにキーを預ける時、この日の部屋掃除をパスしておきました。 ツインに一人で泊まっているから、タオルなどは、二日分、もつのです。


≪石垣市街へ≫
  歩いて、石垣市街を目指します。 前日、バスで来た時に、大体の距離は把握していたので、徒歩でも、充分に行ける事は分かっています。 どうせ、丸一日ある事だし、慌てる事はありません。 台風が、まだ近くにいるせいで、時々、雨が、さーっと降って来るのですが、そういう時には、シャッターが下りている店の軒先などに入って、やり過ごしました。 こちらの雨は、降り出しても、すぐにやむようです。

  思ったより時間がかかって、ホテルから、市街地の西の外れまで、45分くらいかかりました。 やはり、徒歩は遅い。 自転車があればなあ・・・。 実は、ホテルに、レンタル自転車があったのですが、利用料が、一日1080円と、そこそこ高かった事と、雨がいつ降るか分からない天気で、借り物の自転車を使う事に抵抗があって、借りなかったのです。

  市街地に入ると、最初にぶつかったのが、≪具志堅用高記念館≫。 具志堅さんは、石垣島の出身だったんですな。 郷土の英雄ですから、記念館があっても、ちっとも不思議ではありませんが、肝心の私が、ボクシングに興味がないので、400円も払って入る気にならず、建物の写真だけ撮って、パス。

  次に、≪八重山平和祈念館≫。 ここは、入館料100円で、頗る私好みの施設だったのですが、私は、こういう所の展示には、どっぷり嵌まってしまう傾向があり、一度入ったが最後、一時間くらい出て来なくなる可能性が高い。 まだ、市街観光を始めたばかりなのに、そんなに時間は割けないと思い、帰りに寄る事にして、先に進みました。


≪御嶽≫
  路上観察的興味が湧いて、大通りから、路地に入ったら、たまたま、神社がありました。 沖縄では、「神社」とは言わず、「御嶽」と書いて、「うたき」と読みます。 石垣島を含む八重山諸島では、同じ字面で、「おん」と読むようです。 日本の神社とは、本質が違っていて、記紀神話とは全く関係なく、土地の神を祀った所です。 拝殿は、前後の入口に扉がなく、開放されています。 ここの御嶽には、本殿がありましたが、本殿がなくて、ただの空き地なっているケースも多いです。 場所に、神がいるという考え方ですな。

  ちなみに、日本各地の神社も、ヤマト人に征服されて、記紀神話の影響を蒙る以前は、沖縄の御嶽と同様に、土地神を祀っていて、本殿や拝殿の形式にも、様々なタイプがあったようです。 今、神社というと、必ず、記紀神話の神が祀られている事になっていますが、それは、明治政府が押し付けて回ったもので、本来の御神体とは、まるで関係ないです。 古くからあり、境内が広い神社は、大抵、土地神を祀っていたと思って良いと思います。 もっとも、そういう事を云々する以前に、信じていないのなら、神社に参ったりしない方がいいと思いますが。

御嶽と鳥居。


  御嶽に話を戻します。 ここには、鳥居がありました。 後々、あちこち見て回ったところ、鳥居がある御嶽が多かったですが、鳥居は、明治以降に、日本から持ち込まれた風習のようです。 見るからに、不似合いで、違和感を覚えずにはいられませんが、征服者の手から御嶽を守るために、鳥居だけつけて、神社に擬装したと考えると、納得し易いです。 日本の画一化された神社と比べると、神秘的な雰囲気は、遥かに濃厚ですが、私は、よそ者に過ぎないので、祈るのは、やめておきました。 場所に限らず、神の種類に限らず、「障らぬ神に祟りなし」の原則は生きていると思うので。

  ちなみに、多神教に於いては、神は、他の神と対立関係にある事が多く、一人の人間が、複数の神に祈るのは、危険極まりないです。 日本人は、神社はもちろん、寺でも教会でも、片っ端から、祈りまくりますが、神を畏れぬにも程がある。 自殺行為に等しい。 なぜ、そんな事ができるのかといえば、まず、無知であるから。 次に、神も仏も信じていないからでしょう。 どうせ、何の力もないと思っているから、祟りも罰も怖くないわけだ。

  そういや、モスクでは祈ろうとしないようですな。 周囲にいるイスラム教徒に誤解を与えるのが怖いからかもしれませんが、よく知らない神に祈って、祟りがあるのを畏れているのだとしたら、少なくとも、アラーの存在は、信じているわけだ。 たぶん、ユダヤ教のシナゴーグでも、祈らないと思うので、ヤハウェの神の存在も信じているわけか。 それなのに、本来同じ神である、キリスト教の神には、祈ると・・・。 境目になっているのは、やはり、割とよく知っている神か、よく知らない神かの違いですかね。 しかし、知っている神は信じておらず、知らない神は信じるとは、これいかに?

  こと、日本人に関して、法廷での宣誓は、良心などという、あやふやなものにではなく、知らない神に誓わせるのが、効果的かも知れませんな。 祟りが怖くて、嘘の証言ができんじゃろうて。 念の為、繰り返しますが、神も仏も、一切信じていないなら、この種の問題について考えを巡らすのは、不毛にして、無意味です。 神社や寺、御嶽、教会、モスクに近付くのも、やめた方が無難。 そういう人が恐れるべきは、神仏ではなく、信者である人間の方ですな。


≪桃林寺≫
  ようやく、観光地らしい観光地に到着しました。 沖縄では珍しい、お寺です。 薩摩藩の侵略・占領後に、押し付けで造られたもの。 臨済宗妙心寺派。 山号は、「南海山」で、それっぽいですが、よく考えてみると、石垣島民は、特段、自分達が南の海にいるとは思っていないわけで、北方から見た命名なのは明らか。 一度、津波で流されたのを、元の場所に再建した物のようです。 そのせいか、桃林寺自体は、文化財指定されておらず、隣にある、≪権現堂≫の方だけ、重要文化財になっています。

桃林寺の山門。


  このお寺、仁王像がある事で有名ですが、平屋程度の山門の両翼に、こじんまりと収まっており、そんなに大きなものではありません。 格子の幅が狭いので、写真が非常に撮り難い・・・。 この仁王像も、津波で流されたらしいですが、幸い、発見されて、元の場所に戻されたのだとか。 そういう事情で、仁王像は、県指定の文化財になっています。

  正直な感想、寺の建物は、瓦が赤い以外、日本のものと大差無く、感動は薄いです。 瓦の葺き方も、琉球風ではなく、漆喰で固めない日本風。 周りを囲んでいる石垣の方が、ずっと趣きがあります。 隣の権現堂も、薩摩藩の圧力で、同時期に建てられた物ですが、熊野権現を祀ってあるそうで、どうやら、神仏習合を、まるごと押し付けた模様。 建物の配置は、拝殿が本殿と完全に独立している、御嶽風です。

  評価できるのは、拝観無料だという点。 もし、有料だったら、たとえ100円でも、ちと、ためらうかなという程度のボリュームです。 街なかに、さりげなくあるので、レンタカーで行ったりすると、通り過ぎてしまうのでは? いや、今時のレンタカーは、カーナビ装備だから、心配無用か。 ただ、駐車場は無いみたいです。


≪宮良殿内≫
  「めーらどぅぬず」とか、「みやらどぅんち」とか、「めーらどぅぬじぃ」とか、「めーらやらどぅぬじぃ」と読むらしいのですが、どーしてまた、石垣島の、石垣市街の、この場所に、一軒しか存在しないのに、読み方が一定しないのか、解せない話です。 読み方が一定してしないのではなく、平仮名での書き方が一定していないのかもしれません。 英単語をカタカナで書き表す時、実際の発音を忠実に表現できずに、人によって、書き方が異なるケースが、まま発生しますが、それと同じ事が、石垣語と日本語の間にも起こるのでは? 私自身は、駿東方言っほく、「みゃーらどんち」と読んでいましたが、勿論、そんな読み方は、よそ者の独り決めに過ぎず、何の正当性もありません。

  琉球王国時代、八重山の行政官が、本島・首里の貴族の屋敷を模して建てさせたものだそうです。 本島の貴族屋敷は、みな、戦災で焼けてしまったので、今や、沖縄県内でも貴重な建築になっているとの事。 重要文化財。 宮良家自体は、そんなに高級な家柄ではなかったようで、分不相応として、取り壊しを命じられたものの、無視して、押し通したのだとか。 無視したお陰で、大変な観光資源が残ったわけで、結果オーライの典型例ですな。 石垣島の人は、身近過ぎて、却って、ピンと来ないかもしれませんが、よそ者の目から見ると、こういう建築物が、当時のままの姿で残っているのといないのとでは、その土地の歴史に対する畏敬の念の度合いが、まるで違って来ます。

  場所は、市街地の、少し北の方にあります。 面している通りは、露地というほど狭くはありませんが、歩道が無い程度の広さです。 庭木が鬱蒼と茂っているので、近くまで行ったら、緑を目安に接近すれば、大体、当りだと思います。 塀の正面が布積みの石垣になっているのは、さすがに支配階級の屋敷らしい。 入り口は、思いの外、小さくて、琉球風の瓦を乗せた門があります。 門を入ると、敷地が、道路より低くなっていて、屋敷が石垣塀の中に埋没しているような印象を受けます。 これは、台風対策かも知れませんな。

  門の内側に、大きなヒンプンがあります。 「ヒンプン」とは、「屏風」の中国読みと説明されていますが、普通話では、「ピンフォン」なので、たぶん、福建語の発音ではありますまいか。 屏風と言っても、家の中で使う屏風ではなく、石を積み上げた塀でして、門の外から、家の中が直截見えないように、目隠し、兼、魔除けの目的で建てるのだとか。 ここのヒンプンは、塗り壁になっていて、上に瓦が載っていました。 ヒンプンの中央に、木の扉をつけた門が設けられていましたが、こういう門内門は、ここでしか見れませんでした。

  ヒンプンを向かって左側から回り込むと、主屋の正面に出ます。 そこの縁側に、係の人がいて、観覧料、200円を払ったところ、建物と庭の簡単な解説をして、絵葉書を一枚くれました。 ありがたい事に、室内は立ち入り禁止。 私は、土禁が大嫌いなので、その方が都合がいいんですよ。 そーんなに、奥の奥まで見たいとは思いません。 病院と同じく、やたらと、靴を脱がせたがる観光施設がありますが、不衛生極まりない。 スリッパなんか用意してくれても、殺菌まではしていないわけで、誰が履いたか分かりゃしないんだから、結局、同じだっつーの。 全国津々浦々、みんな、土足OKか、屋内立ち入り禁止にしてしまえばよいのです。

宮良殿内の建物。


  建物は、平屋で、床面積が広いタイプ。 同じ琉球建築でも、庶民の家と違って、部屋数が多く、奥が見通せません。 東側の縁側に、ガラスが入った、木製の陳列ケースがあり、その中に、文具や遊び道具、食器、生活用品などが並んでいます。 薄い円筒形の駒があったので、「えっ! 平安時代の双六?」と驚いたのですが、よく見たら、中国象棋の駒でした。 後で調べたところ、琉球文化圏には、中国象棋と良く似たルールを持つ、「チュンジー」というゲームがあるそうで、その駒だったのかも知れません。

宮良殿内の庭。


  宮良殿内は、建物よりも、庭の方が、特徴が際立っています。 築山というよりは、奥に行くにしたがって高くなる傾斜地に、石灰岩の奇岩を使った石組みを配して、枯山水を作っています。 石橋を渡り、石組みの間を通って、傾斜を登り、戻って来れるようになっているのですが、決して広くはない場所に、回遊式庭園を造り込んでいるレイアウトは、実に巧みです。 説明文には、「日本の庭園様式の伝播」と書かれていましたが、奇岩を使う点は、むしろ、中国庭園に近く、蘇鉄を多用している点は、沖縄独特のもので、様々な様式を取り入れて、昇華させているように見えます。 山水画の理想郷を、具現化していると言ってもよいでしょう。

  ところで、この宮良殿内を見ている時、私と前後して、まだ若い女性が、一人で歩いてやって来て、観覧して行きました。 昨今、一人で、観光地を巡っている若者を、よく見かけるようになりましたが、そういう人達は、十中八九、ブロガーで、ブログに旅行記を書こうという算段なんでしょうなあ。 一見、侘しい趣味のように見えるかもしれませんが、目的地が、史跡や動物園・水族館などであれば、複数人で行くより、一人で回った方が、ずっと気分良く見学できます。 同じ物を見ても、興味の程度は人によって違うので、一人は興味津々なのに、一人は早く帰りたくてイライラしているといった、気まずい状況が発生するのを回避できるからです。


≪石敢當≫
  「いしがんとう」と読むそうです。 街なか、至る所で、塀や石垣に、この石板が埋め込まれているのを目にしました。 元は、独立した石に、「石敢當」と刻んで、石碑のように立てていたもので、そういう本格的なものも、ちょこちょこと見ました。 用途は、魔除け。 魔物が直進しかできない性質を利用して、T字路の突き当たりに、これを置き、魔物をぶつけて、粉砕してしまうのだそうです。 なぜ、直進しかできないのかは、分かりません。 曲がった事が嫌いなんでしょうか? 魔物というと、むしろ、曲がった事しかしないようなイメージがありますが。 こんな屁理屈は、余計ですな。

石板状の石敢當。


  琉球文化圏全域にありますが、元は、中国から来たもので、東南アジアの華人圏でも見られるとの事。 日本にも、鹿児島県などに入っているらしいです。 誰でも、魔物には来て欲しくないもの。 石敢當は、設置場所の条件が分かり易いので、流行らせれば、全国的にパーッと広がるかもしれませんな。 効果があるかどうかは、怪力乱心を信じるかどうかで、評価が変わって来ると思いますけど。


≪八重山島蔵元跡≫
  「蔵元」というのは、琉球王国が、八重山、宮古島、久米島に置いた、代官所のようなもの。 税を徴収して、収める蔵があったから、そう呼ばれたのだとか。 ここは、八重山島蔵元があった所ですが、今は、やけに綺麗な石垣の塀しかありません。 これは、あまりにも綺麗過ぎるので、近年に復元したか、もしくは、復元でも何でもなく、遺跡っぽい雰囲気を出すために、新造したかのどちらかだと思います。


≪道路元標≫
  蔵元跡前の歩道に立っている、コンクリート製の物体。 「道路の起点・終点の基準になる位置を定めた標石」だそうで、それだけなら、さして珍しくないのですが、ここのは、米軍統治時代、しかも、琉球政府が出来る前の、「八重山群島政府」時代の、1951年11月に立てられたものなのだそうです。 オベリスク形をしていて、いかにも、アメリカ人が好きそうなデザインです。 ただし、これは復元したもので、本物はすでに無く、名前と日付を刻んだ銅版だけ、八重山博物館に保管されて入るのだそうです。 


≪石垣市立 八重山博物館≫
  入館料200円。 抵抗無く払える金額で、真にありがたい。 これだから、公営施設は好きです。 石垣市街に入った辺りから、腹が重くなっていたのですが、ここへ来て、急降下の気配を感じ、たまたま、ここのトイレが、和式で、使い易かったので、15分ほど粘り、全部、出させてもらいました。 和式トイレは、膝に負担がかかりますが、靴底以外に接触部分がないから、衛生的で宜しいです。

  また、脱線するようですが、昨今、公衆トイレに、洋式が増えて、私のように、潔癖症の人間は、ほとほと、困り果てている次第。 何のためらいもなく、便座に座れる人というのは、他人の病気がうつるのが、怖くないんですかね? 気が知れません。 そういう連中が、感染症を広めるんだよ。 除菌剤が備え付けられていればいいですが、ない場合は、便座にトイレット・ペーパーを敷かねばならず、面倒臭いったらありゃしない。

  中には、座り心地を重視してか、内側に傾斜がついている便座があり、ズボンとパンツを下げて、腰を下ろそうとした瞬間、敷いたばかりのトイレット・ペーパーが、便器の中に落ちて行くのを見る、あの無力感と言ったら、筆舌に尽くしがたいものあり。 切羽詰っている時には、敷き直す暇もなく、中腰で出す事になりますが、「とても、そんな器用な事はできない」と思いきや、やってみると、案外、できるもので、「それなら、最初から、中腰でやればいいか」と思ったりもするわけですが、まあ、そんな事は、ここで、じっくり検討するのも、場違いと言うもの。

  で、腹が軽くなったので、意気揚々と、博物館内の見学です。 博物館と言うと、範囲が広くなってしまいますが、ここは、民俗資料館でして、石器、土器、祭祀用具、民族衣装、民具などを展示してあります。

石垣市立、八重山博物館。


  撮影禁止ではないようだったので、中の写真も撮ったのですが、ネット公開できるかどうかまで確認して来なかったため、そちらは出しません。 特徴的な展示物というと、

☆ 旗頭(はたがしら)
  豊年祭の時に使う、幟り旗の竿の上に立てる飾りですが、華やかな配色でありながら、日本の水引や松飾りに通じるデザインが感じられる、不思議な物体でした。 「八重山 旗頭」で検索すれば、たぶん、引っ掛かると思います。

☆ 獅子舞の獅子
  獅子頭は、色が黒っぽくて、顔に迫力があります。 胴体の覆いは、芭蕉や苧麻の毛を着けて、獅子の体毛を表現していおり、日本の獅子舞よりも、ケモノっぽいです。

☆ 漁師が使う刳り舟
  漁師というか、「海人(うみんちゅ)」ですな。 刳り舟というか、いわゆる、「サバニ」ですな。 室内に入るくらいなので、そんなに大きなものではありません。 今でも使われていますが、そちらはエンジン・スクリュー付き。 ここに展示してあったのは、昔のもので、帆柱と帆が付いていました。 中国式の縦帆でした。 ちなみに、縦帆の方が、横帆よりも、風の流れを阻害しないので、効率がいいです。

☆ 八重山風俗図絵
  八重山の風俗習慣を、絵で記録したもの。 蔵元所属の絵師がいたとの事。 こういうのが、貴重です。 いくら細かく書いても、文章では伝わらないものがあるのであって、祭りの行列の様子など、百ページ書いても、一枚の絵に及びません。 公文書でありながら、ユーモラスなタッチの絵で、見ていて、飽きませんでした。

☆ 紅型(びんがた)
  紅型というのは、染物の種類の事ですが、それは晴れ着でして、他に、普段着の服も展示されていました。 和服に比べて、胴の幅がゆったりしていて、袖が短いです。 見るからに、暑い土地用という感じ。 しかし、前で重ねる点は同じで、腹の方は、暑かったでしょうな。 帯は、性別問わず、腰の上辺りで、ゆったり締めるようです。 そりゃそうか。 和服の女物の帯なんかしていた日には、冬でも暑くて、泡を吹いてしまいますな。

  念の為に書いておきますが・・・、「かりゆし」というのは、アロハ・シャツを原型にして、1970年頃に考案されたもので、沖縄の伝統衣装ではありません。 沖縄旅行に来ても、マリン・レジャーやゴルフばかりやっていて、歴史に全く興味が無い人がいるようですが、その辺の所、とてつもない誤解をしている可能性あり。 他人事とはいえ、冷や汗の出る勘違いだわな・・・。 

☆ 厨子甕(ずしがめ)
  琉球文化圏には、土葬や風葬をした後、何年後かに、遺骨を洗い、「厨司甕」という陶製の容器に納める習慣があったのですが、展示室の一隅に、その厨子甕が、たくさん並んでいました。 高さ、60~70センチくらいはあったでしょうか。 なんで、こんなに大きいかといえば、火葬後の骨と違い、ほぼ元の大きさのまま残りますから、脚や腕の骨などを、損なわずに入れるとなると、このくらいのサイズにならざるを得ないのではないかと思います。 ただし、実際に、どんな風に納めるのか見たわけではないので、詳しい事は分かりません。

☆ 琉球人形
  琉球人形というと、私は真っ先に、1975年の≪沖縄海洋博覧会≫の時に母が買って来た、花笠を被った踊り手の人形を連想するのですが、その後、土産物としての需要は、だいぶ減ったらしく、今回の旅行では、博物館や資料館以外では、見かけませんでした。 今でも、私の部屋にありますが、現代風の顔立ちで、民芸品扱いするのはもったいないくらい、可愛らしい人形です。 この博物館では、その琉球人形を、20体くらい使って、嫁入り行列を再現してありました。 花嫁(アイナー)の黒い服が、渋い。

☆ 宮良殿内の骨組み
  宮良殿内の建物を、骨組みだけ、1メートル四方くらいのサイズで、模型にしたもの。 現物を見た時より、大きく感じられます。 もしかしたら、現物の方が、大きさが目立たないように、工夫して建てられているのかも知れません。

  と、まあ、こんなところですが、よくある、地方自治体の民俗資料館と比べると、内容は、かなり濃いです。 石垣島を中心とする八重山諸島は、琉球王国の支配下に入る前は、独立した一つの文化圏だったわけですが、ここの展示を見た限りでは、本島との文化的な差異は、あまり感じられませんでした。 琉球王国の影響力が、非常に大きなものだった事が窺えます。 ただし、それはあくまで、よそ者の目で見た場合の話でして、地元の人は、違いがはっきり分かるのだと思います。


≪メイン・ストリート≫
  石垣島の歴史上の人物というと、「オヤケアカハチ」が、断トツで有名で、琉球・沖縄の歴史を読むと、必ず、「オヤケアカハチの乱」という歴史的事件が出て来ます。 1500年、第二尚氏王朝の初期に、農民を率いて、反旗を翻したオヤケアカハチが、王府の軍勢に敗れたというもの。 一度聞いたら忘れない名前というのは、この人の事を言うのでしょう。 私は、30年くらい前に、≪NHK市民大学 沖縄の歴史と文化≫という番組を見ていて、この名前を聞いたのですが、それ以来、一度も忘れた事がありません。

  そのオヤケアカハチが住んでいたのが、市街地の東の方の「大浜」という所で、そこに碑と像があるとの事。 せっかく石垣島に来たのだから、見たいのは山々。 しかし、いかんせん、徒歩では遠くて、片道、一時間くらいかかりそうです。 すでに、11時半を過ぎていたので、ここから、往復2時間、オヤケアカハチの碑と像のためだけに費やすのは、ちと勿体無い。 やむなく、泣く泣く諦める事にしました。 「まあ、碑と像は、後世に作ったものだから、史跡と呼ぶほどのものではなかろう」と、自分に言い訳をして・・・。

  で、博物館を出た後、南西に向かい、国道360号線に出ると、その向こうは、もう、石垣港です。 北西へ、しばらく歩くと。 「730記念碑」という交差点に出ました。 たぶん、この辺が、石垣市街で、最も栄えている所なんじゃないでしょうか。 人通りの多さや、軒を連ねる商店の雰囲気で分かります。 「730記念碑」というのは、米軍占領以来、右側通行だったのを、左側通行に変えたのが、1978年の7月30日だった事から、それを記念して置かれた石碑の事。

  国道360号線は、この交差点で北東へ曲がってしまうのですが、私は、北西へ直進し、石垣市役所の前まで行きました。 ちなみに、この市役所のすぐそばに、竹富町役場があります。 竹富町は、八重山諸島の中で、石垣市と与那国町を除く、ほとんどの島が入っている自治体なのですが、交通の便の関係で、竹富島にではなく、石垣島に役場があります。 町役場に勤めている人も、石垣市に住んでいるため、石垣市民であるという、「ナニソレ?」な状況になっているとの事。 もっとも、この日はまだ、その事を知らず、この翌日に、小浜島と竹富島のツアーに行って、ガイドさんから聞いたのですが。

  港の前から、730交差点を挟んで、この辺りまで、飲食店や、土産物屋が立ち並んでいて、おそらく、石垣市のメイン・ストリートに当たるんじゃないかと思うのですが、何せ、徒歩なので、市街を隈なく回ったわけではなく、私の知らない繁華街が、他にもあるのかもしれません。 石垣市街地は、相当には大きな街でして、「離島」のイメージからは、とんと掛け離れています。 さすがに、都会とまでは言いませんが、堂々たる地方都市ですな。 街が大きい事の、良し悪しは、別として。


≪市街北郊へ≫
  石垣市役所で、北東に曲がり、市街地の北へ。 ≪石垣島鍾乳洞≫へ向かうためです。 私は、今回の沖縄旅行に来る前に、母が海洋博の時に買った、≪ブルー・ガイドブックス 沖縄≫を読み、持って来てもいたのですが、その中に出ている石垣市街地の地図に、鍾乳洞があったのを記憶していて、この朝、ホテルのロビーで手に入れた観光パンフにも出ていたので、そこへ行ってみようと決めていたのです。

  市街地と言っても、北の外れで、少し離れているんですが、歩いて行ける距離と判断しました。 少なくとも、オヤケアカハチの碑と像よりは、かなり近い。 で、北へ北へと歩を進めます。 途中、雨に降られ、集合住宅の軒下で雨宿りしましたが、朝の雨と同様に、5分くらいで上がりました。 地元の人達も、同じように、雨宿りしては、上がるのを待って先に進むという行動を取っていました。 この日は、台風がまだ近くにいて、特に雨が多かったようなのですが、普段でもたぶん、降る回数が少ないだけで、同じように雨宿りしながら進むのが、習慣になっているのではありますまいか。


≪長田大翁主霊≫
  市街地の北の方、さりげない一角に、さりげなく、お墓らしきものがあり、琉球式というよりは、日本式に近いものだったので、ちょっと気になって、写真を撮っておいたのですが、家に戻ってから、写真を大きくして見直したら、なんと、「長田大主(なーたふーじぃ)」の墓でした。 この人、石垣島の歴史的人物としては、オヤケアカハチの次くらいに有名。 アカハチの乱の時に、琉球王国側について、戦った人です。 妹さんの一人が、アカハチに嫁いでいたというから、複雑な人物相関ですな。

  それにしても、この墓の形、あまりにも、地元っぽくありません。 「・・・霊」と刻んであるという事は、墓ではなく、単なる慰霊塔で、割と時代が浅いものなのかも知れませんな。 背面に、建てた日付があった可能性が高いですが、そもそも、写真を撮った時には、そんな大物関係とは思っていなかったのですから、見て来るわけもなく、今となっては、後悔のしようもありません。 つくづく、遠くに旅行に行く時には、綿密な下調べを怠るべきではありませんなあ。


≪琉球墓≫
  石垣市街は、北の方に行くと、住宅街になりますが、徐々に傾斜が強まり、やがて、住宅地が途切れると、サトウキビ畑が広がる、農地に出ます。 一面、すべて傾斜地ですが、勾配が緩やかなので、徒歩ならば、息が上がる程ではありません。 ここら辺に来ると、道路の脇や、畑の中に、お墓が、たくさん見られるようになりました。 ちょっと、びっくりするくらい、数が多いです。

  単独であるのもあれば、墓地と思しき場所に、十・二十と集まっている所もありました。 みな、沖縄式の大きな墓で、日本のものと比べると、敷地面積だけで、5倍以上ある上、納骨室は、人が入れるくらいの大きさがあり、墓というより、家、・・・いや、家とまでは言いませんが、小屋くらいの規模は、充分にあります。 古いものは、屋根が緩やかに膨らむ曲線を描いていて、「亀甲墓」と言うらしいですが、そういうのは僅かで、大部分は、直線だけで構成された、新しいものでした。 日付を見ると、「平成○○年」などとあり、最新のものでも、このサイズが普通なのだという事が分かります。

  納骨室の上に、四角柱の石塔が立っているものがあり、後で知ったところでは、これは、「やまと墓」と呼ばれる形式で、薩摩の支配時代以降に作られるようになったものらしいです。 しかし、納骨室の大きさは、他と変わらないので、日本式の墓という感じは、全くしません。 石塔がない墓の方が多数派ですから、無理に石塔を立てなければならない理由はないわけですが、どうして、このタイプが、ある程度シェアを持つに至ったのかは、不思議な事です。 石塔には、「○○家之墓」と刻まれるので、遠くから見た時、分かり易いというだけの事か、はたまた、もっと、複雑な背景があるのか・・・。

  実は、各タイプのお墓の写真も撮って来たのですが、観光名所ではなく、普通の家のお墓なので、公開はまずいと思われ、出さない事にします。 その家の人が見れば、「うちの墓ではないか」と、すぐに分かってしまうので。 もし、逆の立場で、私の家の墓を、よそから来た人が、日本式の墓の例として、無断でネットに公開していたら、やはり、気持ちのいいものではありませんからのう。


  この後、あろう事か、ロストしました。 とっくに見えていいはずなのに、どこまで登っても、鍾乳洞の看板一枚出て来ないのです。 見通しのいい、畑の中の道を歩いているのに、どうして迷うかなあ? で、やむなく、ナップ・ザックから、観光パンフを取り出し、地図を見直して見たら、通りを一本間違えていました。 市役所前から、真っ直ぐ北へ行けばいいと思っていたのが、そもそもの見間違えでして、もう一本西側が、鍾乳洞へ行く道だったのです。

  それを知って、げんなり。 畑の中の道の事とて、交差道路が少なく、登って来た道を、一旦戻らなければなりません。 すでに、時刻は12時半で、ホテルを出てから、3時間半、ほとんど歩き詰め。 しかも、坂を登ってきた後ですから、このロスは厳しかったです。 空は、ずっと曇っていたので、暑さがそれほどではなかった点は、不幸中の幸い。

  数百メートル引き返し、交差道路を数百メートル、西進し、ようやく、大きな交差点に出て、本来登って来るべきだった道に入りました。 そこからは、ちょっと登っただけで、鍾乳洞の看板が見えて、一安心。 ところが、すぐ隣に、≪八重山鍾乳洞 動植物園≫という看板があり、どうやら、類似施設が近くにある模様。 しかし、動植物園が付随しているとなると、写真の枚数が増えるのは、必至。 まだ、長い旅行の二日目なのであって、メモリーの残量が気になった私は、その看板は見なかった事にして、予定通り、≪石垣島鍾乳洞≫の方へ向かう道に入りました。


≪石垣島鍾乳洞≫
  大通りから、鍾乳洞までの道が、地味に長くて、徒歩にはきつかったです。 横をタクシーや、レンタカーに乗った観光客がどんどん抜いていくのが、妙に腹立たしい。 本来なら、この日、私は、西表ツアーに行っていて、ここへは、翌々日に、貸切タクシーで来る予定だったんですがね。 恨むぞ、ツアーをあっさり中止にした船会社よ。

  ようやく到着。 入場料、1080円。 さりげなく、高い・・・。 しかし、鍾乳洞は、洞内の通路を整備するのに、莫大な初期費用がかかりますし、照明代も相当にはかかるので、このくらいでも、高過ぎるというわけではありません。 それに、せっかくここまで歩いて来たのに、入場料を理由に入らないほど、高いわけでもありません。 というわけで、入る事にしました。 入口の建物が、竜宮城風になっています。 妙に、周囲の景色に馴染んでおるなあ。


  石垣島鍾乳洞は、説明板によると、

1 全長3200m(全国7位)。
2 観光洞、660m。
3 日本最南端の観光鍾乳洞。
4 鍾乳石の数は50万本あり、色彩は極めてカラフルである。 石筍の数は日本一。
5 鍾乳洞の中で化石を見ることができる。
6 洞内は、蜂の巣状の迷路になり、各広場は特徴的である。
☆平成6年11月22日オープン。

  との事。 なに? 平成6年、オープンですと? つーことは、1995年ですな。 では、どうして、母が1975年に買ったガイドブックに載っているんでしょう? もちろん、鍾乳洞そのものは、遥か昔からあったのだと思いますが、75年の時点では、存在は知られていたけれど、観光用に公開はされていなかったという事なんでしょうか? それとも、95年に、リニューアル・オープンしたという意味なんでしょうか?

  鍾乳洞も風穴も、鉱山跡も石切り場も、洞窟系はみんな同じですが、暗いので、写真は、みんなブレてしまい、ろくなものがとれません。 狭い所に、他の観光客もいますから、三脚を立てるわけにも行きませんし、フラッシュを使ったら、幽玄な雰囲気がぶち壊しになってしまうし、どうにも、処置なしといったところ。 と、言い訳をした上で、最もまともに撮れたのを、一枚だけ出しておきます。

板状になった鍾乳石。


  ろくな写真を撮って来なかったせいで、記憶があやふやに溶け合ってしまっているのですが、漠然とした印象では、「ここは、なかなか、レベルの高い鍾乳洞だな」というものでした。 鍾乳石の形が、奇々怪々で、「どういう条件が揃えば、こういう形になるんだ?」と、自然の神秘を感じさせるようなものが、多かったです。 もっとも、そんな事を言い出せば、人間の体だって、自然に出来たもので、複雑怪奇さは、鍾乳石より、数十段上だと言えないでもないですが。

  そういや、洞内で、係員、もしくは、業者と思われる人達が、記念写真を撮っていました。 昨今の観光地によくいる、観光客を捉まえて、写真を撮り、「気に入ったら、後で買ってください」という、アレです。 私にも声をかけて来ましたが、習慣的・反射的に、断ってしまいました。 断った後で、「あ! もしかしたら、高い入場料の中に、写真代が含まれていたのかもしれないぞ。 そりゃ、もったいない事をしたな」と、臍を噛んでいたら、すぐ先の広場で、700円で売っていて、「なんだ、やっぱり、別料金か。 断って良かったぜ」と、安堵の胸を撫で下ろしました。 たぶん、係員ではなく、業者なのでしょう。


≪西へ≫
  鍾乳洞を出たのが、1時半頃。 朝から歩き詰めで、汗を掻いたので、ここで、飲み物を買って、休憩しようと思っていたのですが、外にベンチがない上に、自販機に、500ccで120円という、私好みの炭酸飲料がありません。 やむなく、出発して、南へ下りました。 20分くらい下った所で、サトウキビ畑と牛小屋の間に、奇跡のように、ダイドーの自販機を発見。 夏場のツーリングの救世主である、「ミスティオ」があったので、それを買い、畑の脇で、黒毛の牛を見ながら、一気飲みしました。 こういう時、ふと、我に返って、「おりゃ、一体、こんな遠くまで来て、何やってんのかねえ・・・」と、つくづく思います。

  朝通った、ホテルから市街地に向かう道に出て、ホテル方向へ向かう内、また雨が降り出しました。 もう、郊外に出ているので、雨宿りする軒がありません。 慌てて、街路樹の下に駆け込みました。 ところが、今度は、なかなか、やまないのです。 それどころか、どんどん雨脚が強くなって来て、木の葉の重なりだけでは防ぎきれなくなり、頭の上から、雫がボタボタ垂れてくるようになりました。 足元も、俄かに出現した水溜りが、木の根元に立つ私の靴の下まで、じわじわと、勢力圏を広げて来ます。

  ナップ・ザックを下ろして、腹に抱え、紙類や電子機器が濡れないようにしていましたが、雨は、強くなるばかりで、もはや、応急対処では、間に合わない様相。 「こら、あかんわ」とて、ナップ・ザックから、折り畳み傘を出し、慌ててさしました。 後で乾かすのが面倒臭いので、ためらっていたんですが、どうせ使うなら、もっと早く出せばよかった。 中途半端に濡れて思う、判断の甘さの、惨めな結末である事よ。

  15分くらいで、雨はやみました。 歩き疲れて、脚が棒だというのに、服全体が湿気てしまって、気持ちが悪いったらありゃしません。 ホテル方向に向かって、また、歩き出しましたが、傘を半開きにして、手に持ったままなのが、どうにも鬱陶しい。 しかし、ホテルに帰ってからでは、部屋の中に干す場所などありませんから、歩いている間に乾かしてしまわなければならず、畳めないのです。

  途中、大きなホテルの隣に、芝生を敷き詰めた、広大な公園があり、そこで、海の方へ出てみました。 普段なら、綺麗な色なのだと思いますが、この日は台風の後なので、波打ち際から、数十メートル沖までが、ドス黒く濁り、その先の、エメラルド・グリーンの海域と、不気味なコントラストを作っていました。 この黒いのは、一体、何の色なのか・・・。

  やがて、泊まっているホテルの前まで戻って来ましたが、まだ、3時を少し過ぎたばかりだったので、そのまま素通りし、ホテルの西の方にも行ってみる事にしました。 少しでも多くの観光地を見てしまい、明後日の貸切タクシーで、近場を回らなくて済むようにしようという目論み。 脚が棒だというのに、我ながら、奇妙な欲ばかり出ます。 依然、傘は、半開きのままです。 こんな風にして、傘を乾かしながら歩いたのは、小学生の時以来ですな。 大人のやるこっちゃありません。 でも、幸いな事に、歩行者は、私の他に誰もいなかったので、「人の迷惑にならないなら、傘を乾かす実利の方を優先した方が、後々の始末が良かろう」と判断しました。 「旅の恥は掻き捨て」気分も、半分くらい。


≪冨崎観音堂(ふさきかんのんどう)≫
  ここが目当てではなかったのですが、途中にあったので、寄ってみました。 説明文を要約すると、「乾隆年間に、西表直香という人が、中国福州に行った時、以前、八重山で世話をした事がある中国人から、観音像二体を贈られた。 その間、石垣島で直香の無事を安じていた妻が、熱心に神仏に祈っているというので、桃林寺の住持が、観音像一体を与えた。 やがて、直香は、無事に帰り、合わせて三体の観音像を、自宅に安置し、篤く信仰した。 後に、託宣があったとして、観音堂を建てたが、二回、場所を移して、最終的に、ここに落ち着いた」というもの。

  ちなみに、琉球時代の史跡では、説明文の元号が、中国の王朝のものになっています。 これは、元の文献が、そうなっているからでしょう。 琉球は、明や清の朝貢国だったので、独自の元号は使わなかったんですな。 これは、朝鮮やベトナムでも同じ事。 支配者の称号も、中国の「皇帝」に対して、朝貢国では、「王」となります。 

  見に行ってみると、石畳みと石段がある参道の両側に、石燈篭が並び、どうにも、日本の神社臭いです。 この辺りは、明治以降に作ったんでしょう。 本堂がある所まで上がると、日本風の拝殿と、琉球式の本殿がありました。 観音堂なのですから、拝殿は要らないと思うのですが、どうも、こちらでは、伝統信仰、日本神道、仏教の混ざり具合の配分が、日本とは違っているようですな。


≪唐人墓≫
  ここが、西へ来た主な目的地。 説明文を要約すると、「1852年に、『苦力』として、アメリカの商船で、カリフォルニアに送られようとしていた、福建省人、約400人が、理不尽な待遇に耐えかねて、反乱を起こし、船長らを殺して、船を乗っ取ったが、台湾へ向かう途中、座礁して、石垣島に上陸した。 八重山の蔵元では、仮小屋を作って収容していたが、そこへ、米英の軍船が攻撃を仕掛け、多数の死傷者が出た。 犠牲者の墓が、この付近一帯に、多数、点在していたが、1971年に、合祀慰霊するために、この墓を建てた」というもの。

唐人墓。 裏側に、納骨室があります。


  天気が悪かったので、写真では色が分かり難いですが、原色乱舞で、ど派手です。 墓というより、モニュメントと呼ぶに相応しいのでは? 観光資源としては、間違いなく、強烈なインパクトがあります。 この写真を見たら、事情はともあれ、見に来たくなりますわな。 点在していたという、元の墓は、石積みで、煉瓦に名前や出身地を刻んだ墓碑銘が添えられていたそうです。 本当に、犠牲者の身になって考えるのなら、遺骨は、福建の出身地に返した方がいいと思いますが、この墓を建てるのに協力したのが、台湾政府だったとか、いろいろと複雑な事情がありそうなので、これ以上のコメントはやめておきます。


≪観音崎灯台≫
  1953年に、米軍によって建てられたもの。 そう言われてみると、形が変わっています。 特に、ライトの部分が、どうなっているのか、よく分かりません。 現役の灯台のようですが、どんな具合に点灯するのか、見てみたかったです。 もちろん、無人。 というか、今時、人がいる灯台の方が、珍しいですけど。 よく見ると、普通の灯台より、複雑なデザインです。

観音崎灯台。



≪観音崎≫
  今日の最終目的地。 石垣島の西南端の岬です。 「冨崎(ふさき)」とも言うそうで、向かって右の方には、「フサキビーチ」という浜もあります。 元は、冨崎と言っていたのが、観音堂が出来た事で、観音崎になったらしいです。 海の向こう、左の方に見える平べったい島は、竹富島です。 すぐそこなんですねえ。 ここも、天気が良い日なら、綺麗な海の色が見られたと思うんですが・・・。 つくづく、台風が恨めしいです。 岬の一帯には、岩や林の中を通る細い道があって、それぞれ、眺めのいい場所に出ます。

観音崎のあずまや。



≪ホテルへ≫
  この後、まっすぐ、ホテルへ戻りました。 4時着。 まずまず、よく活動した一日でした。 傘も乾いたし。 昼食は抜きましたが、仕事を辞めて以来、腹が出て、困っていたので、一食抜くくらいで、ちょうど良かったです。 部屋に戻って、まずは、服を脱ぎ、洗濯。 シャツ類とパンツ、靴下は、前日同様ですが、ズボンも、街路樹の下で雨宿りした時、裾が濡れてしまったので、そこだけ洗いました。 その事が、この翌日に尾を引くのですが、それはまた、後に記します。 

  続いて、風呂。 岩手の寮のユニットバスは、体育座りしかできないサイズでしたが、このホテルのバスタブは、足を伸ばせるくらい、ゆとりがありました。 「あ~、生き返るなあ・・・」と寛いだ、と言いたいところですが、実は私、大人になって以来、シャワー派を通していまして、家でも普段、湯船には浸かりません。 習慣というのは恐ろしいもので、すぐに、手持ち無沙汰になって、湯を抜いてしまいました。 ちなみに、このホテルには、海が見える展望大浴場もあったのですが、私は一度も行きませんでした。 どうせ、箍の外れたクソガキどもが、狂ったように、はしゃぎ回っているに決まっているからです。

  夕食は、前日同様、外のレストランです。 この日は、風が強いせいで、屋外のグリルで焼くバーベキューが選べず、和琉会席と和洋会席のどちらかの選択になりました。 同じ物ばかり頼むのも曲がないので、和洋会席にしたのですが、運ばれて来た料理を見ると、和洋と言いつつ、地元食材が多く使われていました。 調理法が、琉球式でなければ、琉球料理とは言わないのかも知れませんな。

  メニューの写真に、ステーキが載っていて、ナイフ・フォークの使い方など、惨めなくらい、うろ覚えだった私は、内心ドキドキしていましたが、運ばれて来てみると、箸で食べられるように、切り分けられていました。 客のほとんどが、箸文化圏の人間ですし、レストラン側にしても、ナイフ・フォークを使わせると、洗い物が増えるわけで、割り箸だけで食べられる形にした方が、メリットがあるのでしょう。

  そういや、焼き方を聞かれた時、「一番、よく焼いたので、お願いします」と答えてしまいましたが、「ウェルダン」という言葉が、咄嗟に出て来なかった自分に、ショックを受けました。 私ゃ、若い頃、ファミレスで、ステーキ焼いてたんですがねえ・・・。 継続は力、不継続は無力ですな。


≪二日目 まとめ≫
  これが、7月23日、旅行の第二日の行動、全てです。 中止になった西表ツアーの代わりに、急遽でっち上げた石垣市街地観光計画を実行したわけですが、まあまあ、行きたい所は、網羅できたと思います。 一番良かったのは、≪宮良殿内≫ですかね。 次が、≪鍾乳洞≫。 ≪博物館≫も良かったですが、もっと時間をかけて、じっくり見たかったです。 年齢的・経済的に、もう二度と行けないと思いますけど・・・。 そうそう、≪平和祈念館≫には、結局、行けませんでした。 鍾乳洞の後、ホテル方向へ、ショート・カットしてしまったので、市街地に戻れなかったんですな。 あそこも、見たかったなあ。

  それにしても、長い記事になってしまったものです。 たった一日分の記述が、どうして、こんなに長大化するかな? こんなに多くの事を、一日の間に考えているのだから、脳細胞がいくらあっても足りないわけだ。 実は、もっと長かったのですが、脱線した部分を、5分の1くらい削って、この長さにしたのです。 努力だけは、認めてください。 次からは、なんとか、短くします。