読書感想文・蔵出し⑫
これと言って、書く事がないので、例によって、映画か本の感想になるのですが、本の感想の方が、溜まって来ましたから、今回は、そちらにします。 もっとも、そんな事を言い出せば、映画の感想は、桁違いに多く溜まっているのですが、あまりにも多いので、今更慌てても仕方がないという、奇妙な開き直りを覚える、今日この頃なのです。
考えてみると、物語を伝える媒体として、映像作品の効率性は、小説の比ではありませんな。 読めば、2週間くらいかかる長編小説の内容を、ものの2時間前後で、ほぼ、表現できるのですから。 感想が溜まる速度が違ってくるわけだわ。
≪クリスマス・キャロル≫
新潮文庫
新潮社 2011年
チャールズ・ディケンズ 著
村岡花子 訳
有名な話。 チャールズ・ディケンズも、有名。 イギリスの近代小説を代表する作家です。 ≪クリスマス・キャロル≫の発表は、1843年ですから、日本はまだ、江戸時代ですな。 「carol」というのは、「祝いの歌」の事。 しかし、別に、歌がテーマというわけではないので、この題名に、深い意味はないです。 何度も映画化されているので、そちらで見ている人も多いと思います。 この文庫本、割と、大きな活字で、180ページくらいですから、長編というよりは、中編です。
使用人を一人だけ使って、小さな商会を経営する、極度にケチで、血も涙もなく、家族も友人もなく、周囲の者全てから嫌われている老人が、クリスマス・イブの深夜に現れた、かつての共同経営者の幽霊に、因業の報いについて諭された上に、その後、順次やって来た、三人のクリスマスの化身に連れられて、自分の、過去・現在・未来の様子を見せられ、衝撃を受ける話。
あまりにも有名なので、ネタバレを気にする必要はないかもしれませんが、小説も映画も知らない人は、この主人公が、最終的にどうなるかについて、興味が湧くと思うので、書かない事にします。 こういうラストよりも、真逆の結末に向かった方が、近代小説らしくなったと思うのですが、そもそも、この話、クリスマスに合わせて発表され、人々の心を、普段より、ちょっと豊かにするのが目的で書かれたものらしく、文学というより、小説の作法で書かれた、「おはなし」と捉えた方が、いいのかも知れません。
ディケンズは、作家キャリアの前半では、教訓話を多く書いているのですが、宗教的倫理観を拠り所にしているので、どうしても、キリスト教の価値観に引っ張られます。 そういうところが、同時代の他の作家に比べると、古臭く感じられ、重ねて、ディケンズが、この時代のイギリスを代表する作家になっているが故に、「英文学は、仏独露に比べて、落ちる」という評価になってしまうのです。
しかし、ディケンズは、宗教の影響を全く感じさせない作品も書いていて、そちらの方は、同時代の他の作家の作品と比べて、特別、優れているとは言いませんが、特別、劣るわけでもないです。 たまたま、ディケンズで、最も有名な作品が、≪クリスマス・キャロル≫なので、「英文学=ディケンズ=≪クリスマス・キャロル≫=宗教的=古臭い」という図式が出来てしまうんですな。
ただ、彼の作品の中で、≪クリスマス・キャロル≫が、最も歓迎されたという事実を見ると、イギリスの読書階層が、「人間性の奥底に分け入った、深い小説」よりも、「分かり易い、おはなし」を好んだのは、明らかで、その後の英文学も、分かり易い方向へ、どんどん流れて行きます。 悪く言えば、表層的な物語でして、何度も映画化されているのも、映像にし易い場面が多いからだと思われます。
この訳本の訳者は、NHKの朝ドラになった、≪花子とアン≫の主人公の、村岡花子さんです。 ≪赤毛のアン≫だけ、訳したわけじゃなかったんですな。 訳文は、大変、読み易いのですが、もともと、読み易く書かれたものですから、原文がいいのか、訳がいいのかは分かりません。 原文が悪いと、訳者が良くても、良い訳文にはなりませんし、訳者が悪いと、原文がどんなに良くても、やはり、悪い訳文にしかなりませんから、どちらも、良かったんでしょうな。
≪荒涼館≫
ちくま文庫 ≪荒涼館 1・2・3・4≫
筑摩書房 1989年
チャールズ・ディケンズ 著
青木雄造・小池滋 訳
450ページ前後の分厚い文庫が、4冊分にもなる、長編小説です。 ディケンズの作品としては、ほとんど知られていません。 私が、読む気になったのは、筒井康隆さんの≪耽読者の家≫に出て来たり、≪漂流≫で取り上げられたりしていたから。 筒井さんは、大江健三郎さんから薦められたとの事。 ちくま文庫での出版は、それよりずっと前の事ですが、その後、絶版になっていたのを、≪漂流≫で取り上げられてから、重版したようです。 そういう事情で、今現在、新品が買えます。 だけど、分厚い本が四冊ですから、安くはないですよ。 買う前に、図書館で、どんな内容か確認してみる事をお勧めします。
1840年代頃のイギリスで、伯母に育てられ、その後、施設で暮らしていたところを、ジャーンディスという貴族に、彼が後見人を務める少女エイダの話し相手として引き取られた娘エスタが、ジャーンディス家の者を長年苦しめている遺言訴訟や、自分の出生の秘密、別の貴族に嫁いでいた母親との関係、ロンドンで知り合った女友達との関係、自分に想いを寄せる医師との関係など、様々な事件に見舞われる話。
こういう梗概を書いてしまうと、エスタが主人公のようですが、確かに、そうではあるものの、話は、「エスタの物語」という名がついた、エスタによる一人称で書かれた章と、作者による三人称で書かれた章が、交互に出てくる形になっていて、エスタが知らない事も、作者目線で描かれます。 主な登場人物だけでも、10人以上出て来て、それぞれ、心理描写が施されていますから、群像劇でもあります。
筒井さんが、べた誉めしていますが、確かに、面白いです。 かなりの長編なのに、読んでいても、ほとんど、苦痛を感じません。 「エスタの物語」の章が、手記のような文体なので、そこへ入ると、抵抗なく、スイスイ先へ進むという事情もあるのですが、それを割り引いても、読み易い作品です。 これに似た感覚は、≪モンテ・クリスト伯≫でも、味わいました。 実は、最も似た雰囲気があるのは、ウィルキー・コリンズの、≪白衣の女≫なのですが、コリンズは、ディケンズに面倒を見てもらった人なので、影響を与えたのは、ディケンズの方という事になります。
物語全体の統一感という点では、少し、緩い感じがします。 シャーロット・ブロンテの、≪ジェーン・エア≫が、5年くらい早く、発表されているんですが、そちらと比べると、緩さは、歴然。 後期のディケンズは、ストーリー構成を計算し、伏線を張りながら、物語を書き進めるようになったと言われていますが、習い性というのは、そう簡単には、直らないものらしいですな。 ただし、伏線を張ったまま、後で回収せずに放り出したようなところは、見受けられません。
ディケンズは、社会経験が豊富で、様々な人間を観察して来たせいか、特徴的な性格の人物を描くのが、実に巧みです。 ジャーンディス氏にたかって暮らしている、スキムポール氏は、その代表格。 金銭感覚を持ち合わせず、払う気もないのに、物を買ってしまう人で、最初は、呆れつつも、「こういう人も、いるのかなあ」と思って、読んでいるんですが、後ろの方へ行くと、バケット警部が、スキムポール氏の本性を言い当てる場面が出て来て、「え! やっぱり、そうだったのか!」と驚かされる事になります。 巧いなあ、この語り口。 そういや、≪白衣の女≫にも、非常に変わった性格の人物が出て来ましたが、ありゃ、ディケンズの影響だったんですなあ、きっと。
ジャーンディス氏の後見を受けている、もう一人の人物で、リチャードと言う少年が出て来ますが、これも、特徴的ですわ。 根拠もなく楽観的な考え方をする癖があり、飽きっぽさから、職業選択で三度も失敗した挙句、先祖の遺産を当てにして、何十年も決着が付かない裁判に首を突っ込むわけですが、出て来て、喋り出すなり、「ああ、こいつは、ろくな目に遭わないわ」と、すぐに分かります。 いるいる、こういうガキ。 過剰な自信家で、「自分は、どんな事でもできる」と信じ込んでいたのが、いざ、社会に出ると、何一つ満足にできず、どんどん、楽な方向へ流れてしまう奴。
リチャードと、スキムポール氏は、出て来た時から、ろくでもねー未来が待っているに違いないと予想され、それだけでも、先を読みたくなる動機に不足はないのですが、裁判がどうなるか、中盤で起こる、弁護士殺人事件はどうなるかと、興味が途切れる事がありません。 とにかく、全67章の内、第63章までは、「これは、傑作に違いない」と思うこと、疑いなしです。
ところがねえ、第64章で、急転直下、変な話になってしまうのですよ。 ネタバレを避けたいので、詳しくは書きませんが、エスタの結婚相手の事で、何とも納得のしようがない、奇妙な展開が用意されているのです。 ちなみに、「荒涼館」というのは、ジャーンディス氏の、領地にある屋敷の名前なんですが、作品名になっている割には、荒涼館での場面が少なく、ロンドンの屋敷の方が、出番が多いくらいです。 そこも変だなと思いながら読んで行くと、第64章で、オチがあって、「あっ、この為に、この作品名にしたのか!」と、分かるわけです。
だけどねえ、このオチは、子供騙しも甚だしいですよ。 だって、結婚相手が誰であるかという事は、女性側・男性側に関係なく、大大大問題ですよ。 それを、こんな風に、オチにしてしまったのでは、噴飯も、ここに極まる。 こういう話にしたいのなら、エスタが、ジャーンディス氏から、手紙を受け取った後、報恩の意志と恋愛感情の間で、思い悩む心理が描かれなければ、おかしいでしょうに。 最も伏線が必要な所に、伏線を張っていないのです。 これは、救いようがない、手落ちだわ。 破綻と言ってもいい。
更に、難を挙げますと、エスタの性格に問題があると思います。 この人、そんなに人柄がいいわけではないですよ。 だって、本当に性格がいい人間は、こんな、「私は、世界一の幸せ者」みたいな、いやらしい手記を書かんでしょうに。 しかも、「欲がなく、礼儀正しく、思いやり深く、我慢強く、家政を切り盛りする才能がある」、自分が、そういう人間である事を、謙遜で表面を覆い隠しつつ、遠回しに、自慢しているのです。 何ともまあ、いやらしい女だね。 実際には、ジャーンディス氏の手紙に、何の抵抗もなく返事をしたところを見れば、財産や社会的地位に興味津々なのは、明々白々。
ガッピー君という、弁護士事務所の書記が出て来て、かなり早い段階で、エスタに求婚するのですが、エスタは、全く相手にせず、その場で断ります。 ガッピー君から、「考え直してくれたなら、いつでも言ってくれ」と言われていたのを、その後、疫病を患って、自分の容色が落ちてしまった後で、わざわざ、自分の方から、ガッピー君の所へ出かけて行って、求婚の申し出を、完全に白紙に戻させます。 この行動、「どうだ、私の顔は変わってしまったのだから、お前のような、色目当ての下司野郎は、求婚を取り下げる以外ないだろう」と、決め付けているとしか思えず、憎悪剥き出し。
憎悪と言うより、最初から、ガッピー君の事を嫌悪しているのですが、その理由が分かりません。 推測するに、根底に、差別意識があるんじゃないでしょうか。 この女、「自分は貴族社会の人間だ」と思っているものだから、弁護士の書記ごとき実務労働者が、求婚して来るなど、身分違いも甚だしいと思っているように見受けられます。
ちなみに、ガッピー君の方は、確かに、エスタの顔が変わってしまった事に驚き、求婚を取り下げるのですが、この場面、エスタの一人称で書かれているので、エスタの偏見が入っているわけで、全てを文面通りには受け取る事はできません。 この女の性格なら、自分に不都合な事は、書かずに済ませてしまうでしょうし、気に喰わない相手の欠陥を増幅して書く事も、平気でやると思います。
最後の方で、弁護士として独立の目処が立ったガッピー君は、母親と友人を連れて、もう一度、求婚しに来ますが、これを、ジャーンディス氏とエスタは、笑い者にして断り、足蹴同然に追い返します。 ここも、エスタの一人称なので、自分に都合のいい書き方をしていると思われ、ガッピー君や、その母親の人格を扱き下ろしているような描写は、一文字たりとも信用できません。
客観的に見て、ガッピー君のやった事は、別に無礼でも何でもない、結婚後の生活の事まで良く考えた、真っ当な求婚だったと思うのですが、その母親にまで、大恥をかかせる、ジャーンディス氏と、エスタというのは、一体、どういう人間なんですかね? これねえ、読者によって、見方が異なると思うのですよ。 過去に、求婚して、その場で断られた事がある人は、最初の、ガッピー君の求婚場面で、もう、エスタの事を、人格者とは思えなくなると思います。
そういう経験がない人は、逆に、ガッピー君の方を、無様な道化だと思うでしょう。 だけどねえ、真剣に検討もせずに、その場で断ると言うのは、「お前と結婚なんぞ、想像するだに、虫唾が走る」と言っているのと同じなんですぜ。 まあ、自分がやられてみれば、分かります。 逆に言うと、その経験がない読者は、何度読んでも、この小説の問題点が、理解できないという事になります。 エスタの事を、当人が書いている通りに、一点の瑕もない善人だと思ってしまうわけです。
そういや、エスタの母親が、結構、重大な役回りを担っているのですが、この人が、どんなにひどい目に遭っても、読んでいる方は、何とも思いません。 あの娘にして、この母ありですな。 ディケンズも、自分で書いていて、感情移入のしようがなかったのか、終わりの方では、テキトーに片付けてしまっています。 ちなみに、この作品で、末路が可哀想だと思うのは、掃除少年のジョーだけですな。
問題は、これが、実話ではなく、作家による創作だという点です。 ディケンズは、どういうつもりで、主人公を、こんな性格にしたんでしょう? ディケンズの前期の小説は、主人公より、脇役の方が性格がよく描けているそうですが、この点でも、習い性が、後期まで抜けなかったんでしょうか。 穿って見れば、エスタの心理描写を、わざわざ、一人称の手記にして、他と区別している点から考えて、「こういう女って、どう思うよ?」と、読者に問いかけているのかも知れません。 だけど、それなら、ハッピー・エンドにはしないでしょう。
つまりその、一口で言うと、「変な話」という読後感になってしまうのですよ。 大江さんや、筒井さんが、エスタの人格はともかく、エスタの結婚相手のオチの所で、引っかからなかったのは、不可思議千万。 常識的に考えれば、こういう話は、釈然としませんわなあ。 だからこそ、ディケンズの代表作として挙げられないのではないでしょうか? 発想を逆転させて、この作品を、最大限、楽しむには、第63章で読むのをやめ、続きを自分で考えるというのが、案外、いい方法なのかも知れません。
≪オリヴァー・ツイスト≫
ちくま文庫 ≪オリヴァー・ツイスト 上・下≫
筑摩書房 1990年
チャールズ・ディケンズ 著
小池滋 訳
だから、「オリヴァー」なんて書かなくても、「オリバー」でいいというのよ。 どうせ、日本語人には、「オリバー」としか、発音できないし、「オリバー」としか聞こえないんだから。 カタカナ語で、「ヴ」と書いていれば、英文を覚える時に、復元しやすいと思っているのだとしたら、それも間違いでして、英単語を覚える時には、全く別の脳細胞で覚え直しています。 そもそも、カタカナ語では、書く方は、「バ行」と「ヴァ行」を気にしても、読む方には、気にしないから、書き分けてあっても、区別して覚えません。 文字数が増えるだけ、無駄です。
それでも、どーしても、是が非でも、「バ行」と「v」を区別したいというのなら、「vァ・vィ・vゥ・vェ・vォ」とでも、書けばいいのです。 「ヴ」などという、理屈的に発音のしようがない文字を使うよりは、一億倍マシです。 前にも書きましたが、母音は、元々、有声音だから、その上更に、有声音化記号の、「゜」を追加したって、何の意味もないのよ。 大体、母音文字を、子音用に使うという発想が、ガサツ極まりないです。 言語学も音声学も、てんで、知らない証拠。 一体、どこの馬鹿が、「ヴ」なんて、書き始めたんだか。 ほんとに、馬鹿だ。
それはさておき、「オリバー・ツイスト」という言葉は、何かの学問の専門用語、もしくは、ダンスの種類のように聞こえますが、その実、単なる、人の名前です。 しかも、子供の名前で、最も育った時でも、12歳。 救貧院で生まれて、その直後、母親が死んでしまったので、名前は、施設側でつけたのですが、その時、苗字まで、一緒につけたんですな。 まあ、確かに、苗字がないと、いろいろと困りますが。
地方の町の救貧院で生まれ、9歳まで育てられた少年が、葬儀屋に雇われるが、ろくでなしの先輩から、死んだ母親を侮辱された事で、激情して家出し、徒歩で、ロンドンまで辿り着くものの、いきなり、犯罪組織に誘い込まれてしまい、仲間のスリと間違えられて、逮捕されたり、強盗に忍び込まされた家で、銃で撃たれたり、さんざんな目に遭いながらも、その後、善良な人達と出会った事で、悪党の世界から救い出され、自分の出自も知る事になる話。
とまあ、オリバーを軸にしてみれば、そういう話になるんですが、オリバーが主人公なのは、物語の前半だけでして、後半は、それ以外の登場人物達の、群像劇のようになります。 善玉・悪玉、それぞれ、7・8人が出て来ますが、どちらかと言えば、悪玉の方の人格描写に、多くの紙数が当てられています。 作者は、社会の暗部の方に、より興味が強かったんでしょうな。 特に、スリ・泥棒の親玉である、狡猾なフェイギン老人と、粗暴な強盗、サイクスは、キャラが立っています。
善玉の方は、ほとんどが、上流階級の人間で、爵位が出て来ないので、貴族ではないのかもしれませんが、とにかく、財産があり、いい暮らしをしている人達です。 この人達が、根っからの善人なのか、喰うに困らないから、人を助けるゆとりがあるだけなのかは、分かりません。 ディケンズが活躍した時代というのは、産業が発展し、身分社会が崩れて行く、「貴族の時代」から、「金持ちの時代」への移行期だったわけですが、いずれにせよ、社会の中心にいるのは、上流階級なのであって、この作品が、善玉を全員、そちら側の人間で埋めているのは、今の感覚で見ると、些か、偏っているように見えます。
「氏より育ち」を完全に否定している点も、この作品の大きな特徴で、善良な人間は、善良な親から生まれ、悪党は、悪党の親から生まれる。 少なくとも、片親が、ろくでなしであるという事になっています。 そして、大まかに言って、貧乏人は悪党で、金持ちは善人という、構図になっているんですな。 ディケンズの作品は、近代小説に分類されているわけですが、どうも、こういうところが、古臭く感じられます。
ピカレスク(悪漢小説)の流れを汲んでいると言われれば、なるほどと思うのですが、この作品が発表された、1837~39年という時代は、まだ、そんな時期だったんですかねえ。 いやいや、スタンダールの、≪赤と黒≫は、1830年発表ですが、それと比べても、遥かに旧態依然という感じがします。 風刺小説の趣きも強く、ディケンズという人が、人間個人よりも、社会全体の方に興味を持っていたのは、疑いないところ。
人物造形だけでなく、話も結構いい加減でして、オリバーの出自が明らかになって行く過程は、ありえない偶然が重なっており、もはや、小説というより、お伽話に近いです。 ただ、話の流れが良いので、その不自然さに気づかないまま、最後まで読んでしまう読者もいるかもしれません。 物語の語り方は、大変、巧いのです。
「善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある」というテーマを、この作品ほど、極端に描いている小説も珍しい。 ≪クリスマス・キャロル≫も、そうですが、ディケンズの考えでは、人間には、基準なる正しい生き方があり、それを人々に教える為に、小説を書いていたのではないかと思われる節があります。 唯一の救いは、≪クリスマス・キャロル≫と違って、キリスト教的な宗教臭が、ほとんどしないところでしょうか。 もし、これで、「全ては、信仰心のおかげ」なんて書き方がしてあったら、もはや、近代小説とは言えません。
随分、ケチばかりつけましたが、あまり深く考えずに、一時、物語の世界に浸ってみたいというのであれば、十二分に、面白い小説だと思います。 文庫本二冊で、合計、760ページくらいですが、会話が多いので、割と、スイスイ進みます。 前半は、オリバーが、どこまでひどい目に遭うのか心配で、ハラハラしますが、後半になると、そういう心配は遠のいて、クライマックスへ向う、話の盛り上がりで、一気に読み通してしまいます。
ああ、そうだ。 スイスイ進むとは言いましたが、ちょっと、創作形容が多過ぎる点が、抵抗になりますかねえ。 どうも、英米文学では、創作形容が多ければ多いほど、作者の創造力が高いと見做される傾向があるようですが、そういう独特な習慣が、世界レベルで見た時に、英米文学の評価を落とす方向に働いてしまっているのではないかと思います。 問題は、その事に、英語人が気づいていない点だよな。 創作形容を、「気が利いている」と思ってるんですぜ。 ≪面白南極料理人≫じゃないんだから。
以上、三冊です。 いつもの蔵出しより少ないですが、≪荒涼館≫と、≪オリヴァー・ツイスト≫は、一作分が長いですし、ちょうど、ディケンズの作品だけで纏まるので、ここまでにしておきました。 この後、≪大いなる遺産≫を読むつもりでいたんですが、たまたま、図書館の本が貸し出し中で、読む事ができず、他の作者の本を読んでいたら、それっきり、ディケンズから離れてしまったという次第。
読んだ順序としては、今年の1月29日に、≪荒涼館1・2≫を読み、その後、≪クリスマス・キャロル≫を挟んで、≪荒涼館3・4≫を読み、最後の、≪オリヴァー・ツイスト≫を読み終えたのが、2月23日でした。 長編が二作入っているから、結構、かかっています。 ≪クリスマス・キャロル≫は、一晩で、読めますけど。
ディケンズの小説は、読み易いんですが、読み易いだけでは、読む気にならないのであって、近代小説なら、もうちょっと、中身が欲しいところです。 それは、ディケンズだけでなく、英米文学全体に言える事。 だけど、英米文学は、文学としては、トップ・クラスとは言えないものの、その分かり易さ故に、映像作品の原作には適しており、映画化されている数で、他国文学を圧倒しているのは、否定のしようがない事実です。
そうそう、映画で思い出しました。 その後、2月28日に、1968年のイギリス映画、≪オリバー!≫を見て、感想を書いたので、オマケに、それも出しておきます。 見たのは録画ですから、放送したのは、もっと前かも知れません。 内容が、部分的に、小説の感想と重複していますが、これは、元々、別のブログに出すつもりだったから。 今更、書き直すのも面倒臭いので、御容赦ください。
≪オリバー!≫ 1968年 イギリス
≪ディケンズ≫の、最初の長編小説、≪オリバー・ツイスト≫が、原作です。 先に、劇場用ミュージカルになっていたのを、映画化したようです。 地方の町の救貧院で生まれ、9歳まで育てられた少年が、葬儀屋に雇われるが、ろくでなしの先輩から、死んだ母親を侮辱された事で、激情して家出し、ロンドンまで辿り着くものの、いきなり、犯罪組織に誘い込まれてしまい、仲間のスリと間違えられて、逮捕されたり、強盗に鍵開け係として利用されたり、さんざんな目に遭いながらも、善良な人達と出会った事で、悪党の世界から救い出され、自分の出自も知る事になる話。
BSプレミアムで見たんですが、たまたま、その直前に、原作の方を読んだばかりだったので、両者の違いが良く分かりました。 映画の方は、2時間26分もあり、インター・ミッションが入るほど長いにも拘らず、ミュージカル場面に時間を喰われているせいで、原作のエピソードを、3分の2くらいしか取り上げられず、後半は、登場人物を減らし、ストーリーを単純化して、大幅に端折っています。 一応、筋が通るようにはしてありますが、原作のファンが見たら、顔を顰められても仕方がないほど、大きな変更ですな。
主人公の名前が題名になっているのに、後半になると、主人公の存在感が薄くなってしまう点は、原作と同じ。 いや、原作では、ほとんど、出番がなくなってしまいますから、一応、クライマックスまで顔を出している、映画の方が、まだ、マシというべきでしょうか。 つまりそのー、映画化したから悪くなったという以前に、原作の方も、あまり、出来のいい小説ではないのです。 たまたま、助けてくれた人が、親の知り合いだったなんて、偶然の度が過ぎています。 初期のディケンズは、近代文学と言うより、「お話」や、「物語」のつもりで、小説を書いていたんですな。
原作の方では、スリ・泥棒の親玉、フェイギンは、狡猾で強欲な、妖怪じみた悪党という設定ですが、映画では、「こんな稼業をしていて、いいんだろうか?」と、思い悩むキャラに変更されています。 これは、原作が書かれた頃(1837~1839年)と、1968年で、ユダヤ人に対する意識が変わった事が、最大の理由です。 原作では、差別意識が剥き出しで、「フェイギン」という名前ではなく、「ユダヤ人」という呼び方で通されているくらいで、とても、そのままでは、映画にできなかったんでしょう。
しかし、善人と悪人の対立が、原作のテーマですから、悪の側の代表格フェイギンに、中途半端に反省させてしまったのでは、テーマが引き立たなくなってしまいます。 テーマを変えてしまうくらいなら、原作など求めず、オリジナルの映画にしてしまった方が良かったんじゃないでしょうか。
わざわざ、ミュージカルにした意味も、よく分かりません。 ウキウキ楽しい話でもなければ、美しい悲劇でもなく、言わば、勧善懲悪物で、およそ、ミュージカルに向く話ではないのですがね。 オリバー役は、マーク・レスターですが、ただ出てるだけ。 演技と言えるような、高等な事はしてません。
考えてみると、物語を伝える媒体として、映像作品の効率性は、小説の比ではありませんな。 読めば、2週間くらいかかる長編小説の内容を、ものの2時間前後で、ほぼ、表現できるのですから。 感想が溜まる速度が違ってくるわけだわ。
≪クリスマス・キャロル≫
新潮文庫
新潮社 2011年
チャールズ・ディケンズ 著
村岡花子 訳
有名な話。 チャールズ・ディケンズも、有名。 イギリスの近代小説を代表する作家です。 ≪クリスマス・キャロル≫の発表は、1843年ですから、日本はまだ、江戸時代ですな。 「carol」というのは、「祝いの歌」の事。 しかし、別に、歌がテーマというわけではないので、この題名に、深い意味はないです。 何度も映画化されているので、そちらで見ている人も多いと思います。 この文庫本、割と、大きな活字で、180ページくらいですから、長編というよりは、中編です。
使用人を一人だけ使って、小さな商会を経営する、極度にケチで、血も涙もなく、家族も友人もなく、周囲の者全てから嫌われている老人が、クリスマス・イブの深夜に現れた、かつての共同経営者の幽霊に、因業の報いについて諭された上に、その後、順次やって来た、三人のクリスマスの化身に連れられて、自分の、過去・現在・未来の様子を見せられ、衝撃を受ける話。
あまりにも有名なので、ネタバレを気にする必要はないかもしれませんが、小説も映画も知らない人は、この主人公が、最終的にどうなるかについて、興味が湧くと思うので、書かない事にします。 こういうラストよりも、真逆の結末に向かった方が、近代小説らしくなったと思うのですが、そもそも、この話、クリスマスに合わせて発表され、人々の心を、普段より、ちょっと豊かにするのが目的で書かれたものらしく、文学というより、小説の作法で書かれた、「おはなし」と捉えた方が、いいのかも知れません。
ディケンズは、作家キャリアの前半では、教訓話を多く書いているのですが、宗教的倫理観を拠り所にしているので、どうしても、キリスト教の価値観に引っ張られます。 そういうところが、同時代の他の作家に比べると、古臭く感じられ、重ねて、ディケンズが、この時代のイギリスを代表する作家になっているが故に、「英文学は、仏独露に比べて、落ちる」という評価になってしまうのです。
しかし、ディケンズは、宗教の影響を全く感じさせない作品も書いていて、そちらの方は、同時代の他の作家の作品と比べて、特別、優れているとは言いませんが、特別、劣るわけでもないです。 たまたま、ディケンズで、最も有名な作品が、≪クリスマス・キャロル≫なので、「英文学=ディケンズ=≪クリスマス・キャロル≫=宗教的=古臭い」という図式が出来てしまうんですな。
ただ、彼の作品の中で、≪クリスマス・キャロル≫が、最も歓迎されたという事実を見ると、イギリスの読書階層が、「人間性の奥底に分け入った、深い小説」よりも、「分かり易い、おはなし」を好んだのは、明らかで、その後の英文学も、分かり易い方向へ、どんどん流れて行きます。 悪く言えば、表層的な物語でして、何度も映画化されているのも、映像にし易い場面が多いからだと思われます。
この訳本の訳者は、NHKの朝ドラになった、≪花子とアン≫の主人公の、村岡花子さんです。 ≪赤毛のアン≫だけ、訳したわけじゃなかったんですな。 訳文は、大変、読み易いのですが、もともと、読み易く書かれたものですから、原文がいいのか、訳がいいのかは分かりません。 原文が悪いと、訳者が良くても、良い訳文にはなりませんし、訳者が悪いと、原文がどんなに良くても、やはり、悪い訳文にしかなりませんから、どちらも、良かったんでしょうな。
≪荒涼館≫
ちくま文庫 ≪荒涼館 1・2・3・4≫
筑摩書房 1989年
チャールズ・ディケンズ 著
青木雄造・小池滋 訳
450ページ前後の分厚い文庫が、4冊分にもなる、長編小説です。 ディケンズの作品としては、ほとんど知られていません。 私が、読む気になったのは、筒井康隆さんの≪耽読者の家≫に出て来たり、≪漂流≫で取り上げられたりしていたから。 筒井さんは、大江健三郎さんから薦められたとの事。 ちくま文庫での出版は、それよりずっと前の事ですが、その後、絶版になっていたのを、≪漂流≫で取り上げられてから、重版したようです。 そういう事情で、今現在、新品が買えます。 だけど、分厚い本が四冊ですから、安くはないですよ。 買う前に、図書館で、どんな内容か確認してみる事をお勧めします。
1840年代頃のイギリスで、伯母に育てられ、その後、施設で暮らしていたところを、ジャーンディスという貴族に、彼が後見人を務める少女エイダの話し相手として引き取られた娘エスタが、ジャーンディス家の者を長年苦しめている遺言訴訟や、自分の出生の秘密、別の貴族に嫁いでいた母親との関係、ロンドンで知り合った女友達との関係、自分に想いを寄せる医師との関係など、様々な事件に見舞われる話。
こういう梗概を書いてしまうと、エスタが主人公のようですが、確かに、そうではあるものの、話は、「エスタの物語」という名がついた、エスタによる一人称で書かれた章と、作者による三人称で書かれた章が、交互に出てくる形になっていて、エスタが知らない事も、作者目線で描かれます。 主な登場人物だけでも、10人以上出て来て、それぞれ、心理描写が施されていますから、群像劇でもあります。
筒井さんが、べた誉めしていますが、確かに、面白いです。 かなりの長編なのに、読んでいても、ほとんど、苦痛を感じません。 「エスタの物語」の章が、手記のような文体なので、そこへ入ると、抵抗なく、スイスイ先へ進むという事情もあるのですが、それを割り引いても、読み易い作品です。 これに似た感覚は、≪モンテ・クリスト伯≫でも、味わいました。 実は、最も似た雰囲気があるのは、ウィルキー・コリンズの、≪白衣の女≫なのですが、コリンズは、ディケンズに面倒を見てもらった人なので、影響を与えたのは、ディケンズの方という事になります。
物語全体の統一感という点では、少し、緩い感じがします。 シャーロット・ブロンテの、≪ジェーン・エア≫が、5年くらい早く、発表されているんですが、そちらと比べると、緩さは、歴然。 後期のディケンズは、ストーリー構成を計算し、伏線を張りながら、物語を書き進めるようになったと言われていますが、習い性というのは、そう簡単には、直らないものらしいですな。 ただし、伏線を張ったまま、後で回収せずに放り出したようなところは、見受けられません。
ディケンズは、社会経験が豊富で、様々な人間を観察して来たせいか、特徴的な性格の人物を描くのが、実に巧みです。 ジャーンディス氏にたかって暮らしている、スキムポール氏は、その代表格。 金銭感覚を持ち合わせず、払う気もないのに、物を買ってしまう人で、最初は、呆れつつも、「こういう人も、いるのかなあ」と思って、読んでいるんですが、後ろの方へ行くと、バケット警部が、スキムポール氏の本性を言い当てる場面が出て来て、「え! やっぱり、そうだったのか!」と驚かされる事になります。 巧いなあ、この語り口。 そういや、≪白衣の女≫にも、非常に変わった性格の人物が出て来ましたが、ありゃ、ディケンズの影響だったんですなあ、きっと。
ジャーンディス氏の後見を受けている、もう一人の人物で、リチャードと言う少年が出て来ますが、これも、特徴的ですわ。 根拠もなく楽観的な考え方をする癖があり、飽きっぽさから、職業選択で三度も失敗した挙句、先祖の遺産を当てにして、何十年も決着が付かない裁判に首を突っ込むわけですが、出て来て、喋り出すなり、「ああ、こいつは、ろくな目に遭わないわ」と、すぐに分かります。 いるいる、こういうガキ。 過剰な自信家で、「自分は、どんな事でもできる」と信じ込んでいたのが、いざ、社会に出ると、何一つ満足にできず、どんどん、楽な方向へ流れてしまう奴。
リチャードと、スキムポール氏は、出て来た時から、ろくでもねー未来が待っているに違いないと予想され、それだけでも、先を読みたくなる動機に不足はないのですが、裁判がどうなるか、中盤で起こる、弁護士殺人事件はどうなるかと、興味が途切れる事がありません。 とにかく、全67章の内、第63章までは、「これは、傑作に違いない」と思うこと、疑いなしです。
ところがねえ、第64章で、急転直下、変な話になってしまうのですよ。 ネタバレを避けたいので、詳しくは書きませんが、エスタの結婚相手の事で、何とも納得のしようがない、奇妙な展開が用意されているのです。 ちなみに、「荒涼館」というのは、ジャーンディス氏の、領地にある屋敷の名前なんですが、作品名になっている割には、荒涼館での場面が少なく、ロンドンの屋敷の方が、出番が多いくらいです。 そこも変だなと思いながら読んで行くと、第64章で、オチがあって、「あっ、この為に、この作品名にしたのか!」と、分かるわけです。
だけどねえ、このオチは、子供騙しも甚だしいですよ。 だって、結婚相手が誰であるかという事は、女性側・男性側に関係なく、大大大問題ですよ。 それを、こんな風に、オチにしてしまったのでは、噴飯も、ここに極まる。 こういう話にしたいのなら、エスタが、ジャーンディス氏から、手紙を受け取った後、報恩の意志と恋愛感情の間で、思い悩む心理が描かれなければ、おかしいでしょうに。 最も伏線が必要な所に、伏線を張っていないのです。 これは、救いようがない、手落ちだわ。 破綻と言ってもいい。
更に、難を挙げますと、エスタの性格に問題があると思います。 この人、そんなに人柄がいいわけではないですよ。 だって、本当に性格がいい人間は、こんな、「私は、世界一の幸せ者」みたいな、いやらしい手記を書かんでしょうに。 しかも、「欲がなく、礼儀正しく、思いやり深く、我慢強く、家政を切り盛りする才能がある」、自分が、そういう人間である事を、謙遜で表面を覆い隠しつつ、遠回しに、自慢しているのです。 何ともまあ、いやらしい女だね。 実際には、ジャーンディス氏の手紙に、何の抵抗もなく返事をしたところを見れば、財産や社会的地位に興味津々なのは、明々白々。
ガッピー君という、弁護士事務所の書記が出て来て、かなり早い段階で、エスタに求婚するのですが、エスタは、全く相手にせず、その場で断ります。 ガッピー君から、「考え直してくれたなら、いつでも言ってくれ」と言われていたのを、その後、疫病を患って、自分の容色が落ちてしまった後で、わざわざ、自分の方から、ガッピー君の所へ出かけて行って、求婚の申し出を、完全に白紙に戻させます。 この行動、「どうだ、私の顔は変わってしまったのだから、お前のような、色目当ての下司野郎は、求婚を取り下げる以外ないだろう」と、決め付けているとしか思えず、憎悪剥き出し。
憎悪と言うより、最初から、ガッピー君の事を嫌悪しているのですが、その理由が分かりません。 推測するに、根底に、差別意識があるんじゃないでしょうか。 この女、「自分は貴族社会の人間だ」と思っているものだから、弁護士の書記ごとき実務労働者が、求婚して来るなど、身分違いも甚だしいと思っているように見受けられます。
ちなみに、ガッピー君の方は、確かに、エスタの顔が変わってしまった事に驚き、求婚を取り下げるのですが、この場面、エスタの一人称で書かれているので、エスタの偏見が入っているわけで、全てを文面通りには受け取る事はできません。 この女の性格なら、自分に不都合な事は、書かずに済ませてしまうでしょうし、気に喰わない相手の欠陥を増幅して書く事も、平気でやると思います。
最後の方で、弁護士として独立の目処が立ったガッピー君は、母親と友人を連れて、もう一度、求婚しに来ますが、これを、ジャーンディス氏とエスタは、笑い者にして断り、足蹴同然に追い返します。 ここも、エスタの一人称なので、自分に都合のいい書き方をしていると思われ、ガッピー君や、その母親の人格を扱き下ろしているような描写は、一文字たりとも信用できません。
客観的に見て、ガッピー君のやった事は、別に無礼でも何でもない、結婚後の生活の事まで良く考えた、真っ当な求婚だったと思うのですが、その母親にまで、大恥をかかせる、ジャーンディス氏と、エスタというのは、一体、どういう人間なんですかね? これねえ、読者によって、見方が異なると思うのですよ。 過去に、求婚して、その場で断られた事がある人は、最初の、ガッピー君の求婚場面で、もう、エスタの事を、人格者とは思えなくなると思います。
そういう経験がない人は、逆に、ガッピー君の方を、無様な道化だと思うでしょう。 だけどねえ、真剣に検討もせずに、その場で断ると言うのは、「お前と結婚なんぞ、想像するだに、虫唾が走る」と言っているのと同じなんですぜ。 まあ、自分がやられてみれば、分かります。 逆に言うと、その経験がない読者は、何度読んでも、この小説の問題点が、理解できないという事になります。 エスタの事を、当人が書いている通りに、一点の瑕もない善人だと思ってしまうわけです。
そういや、エスタの母親が、結構、重大な役回りを担っているのですが、この人が、どんなにひどい目に遭っても、読んでいる方は、何とも思いません。 あの娘にして、この母ありですな。 ディケンズも、自分で書いていて、感情移入のしようがなかったのか、終わりの方では、テキトーに片付けてしまっています。 ちなみに、この作品で、末路が可哀想だと思うのは、掃除少年のジョーだけですな。
問題は、これが、実話ではなく、作家による創作だという点です。 ディケンズは、どういうつもりで、主人公を、こんな性格にしたんでしょう? ディケンズの前期の小説は、主人公より、脇役の方が性格がよく描けているそうですが、この点でも、習い性が、後期まで抜けなかったんでしょうか。 穿って見れば、エスタの心理描写を、わざわざ、一人称の手記にして、他と区別している点から考えて、「こういう女って、どう思うよ?」と、読者に問いかけているのかも知れません。 だけど、それなら、ハッピー・エンドにはしないでしょう。
つまりその、一口で言うと、「変な話」という読後感になってしまうのですよ。 大江さんや、筒井さんが、エスタの人格はともかく、エスタの結婚相手のオチの所で、引っかからなかったのは、不可思議千万。 常識的に考えれば、こういう話は、釈然としませんわなあ。 だからこそ、ディケンズの代表作として挙げられないのではないでしょうか? 発想を逆転させて、この作品を、最大限、楽しむには、第63章で読むのをやめ、続きを自分で考えるというのが、案外、いい方法なのかも知れません。
≪オリヴァー・ツイスト≫
ちくま文庫 ≪オリヴァー・ツイスト 上・下≫
筑摩書房 1990年
チャールズ・ディケンズ 著
小池滋 訳
だから、「オリヴァー」なんて書かなくても、「オリバー」でいいというのよ。 どうせ、日本語人には、「オリバー」としか、発音できないし、「オリバー」としか聞こえないんだから。 カタカナ語で、「ヴ」と書いていれば、英文を覚える時に、復元しやすいと思っているのだとしたら、それも間違いでして、英単語を覚える時には、全く別の脳細胞で覚え直しています。 そもそも、カタカナ語では、書く方は、「バ行」と「ヴァ行」を気にしても、読む方には、気にしないから、書き分けてあっても、区別して覚えません。 文字数が増えるだけ、無駄です。
それでも、どーしても、是が非でも、「バ行」と「v」を区別したいというのなら、「vァ・vィ・vゥ・vェ・vォ」とでも、書けばいいのです。 「ヴ」などという、理屈的に発音のしようがない文字を使うよりは、一億倍マシです。 前にも書きましたが、母音は、元々、有声音だから、その上更に、有声音化記号の、「゜」を追加したって、何の意味もないのよ。 大体、母音文字を、子音用に使うという発想が、ガサツ極まりないです。 言語学も音声学も、てんで、知らない証拠。 一体、どこの馬鹿が、「ヴ」なんて、書き始めたんだか。 ほんとに、馬鹿だ。
それはさておき、「オリバー・ツイスト」という言葉は、何かの学問の専門用語、もしくは、ダンスの種類のように聞こえますが、その実、単なる、人の名前です。 しかも、子供の名前で、最も育った時でも、12歳。 救貧院で生まれて、その直後、母親が死んでしまったので、名前は、施設側でつけたのですが、その時、苗字まで、一緒につけたんですな。 まあ、確かに、苗字がないと、いろいろと困りますが。
地方の町の救貧院で生まれ、9歳まで育てられた少年が、葬儀屋に雇われるが、ろくでなしの先輩から、死んだ母親を侮辱された事で、激情して家出し、徒歩で、ロンドンまで辿り着くものの、いきなり、犯罪組織に誘い込まれてしまい、仲間のスリと間違えられて、逮捕されたり、強盗に忍び込まされた家で、銃で撃たれたり、さんざんな目に遭いながらも、その後、善良な人達と出会った事で、悪党の世界から救い出され、自分の出自も知る事になる話。
とまあ、オリバーを軸にしてみれば、そういう話になるんですが、オリバーが主人公なのは、物語の前半だけでして、後半は、それ以外の登場人物達の、群像劇のようになります。 善玉・悪玉、それぞれ、7・8人が出て来ますが、どちらかと言えば、悪玉の方の人格描写に、多くの紙数が当てられています。 作者は、社会の暗部の方に、より興味が強かったんでしょうな。 特に、スリ・泥棒の親玉である、狡猾なフェイギン老人と、粗暴な強盗、サイクスは、キャラが立っています。
善玉の方は、ほとんどが、上流階級の人間で、爵位が出て来ないので、貴族ではないのかもしれませんが、とにかく、財産があり、いい暮らしをしている人達です。 この人達が、根っからの善人なのか、喰うに困らないから、人を助けるゆとりがあるだけなのかは、分かりません。 ディケンズが活躍した時代というのは、産業が発展し、身分社会が崩れて行く、「貴族の時代」から、「金持ちの時代」への移行期だったわけですが、いずれにせよ、社会の中心にいるのは、上流階級なのであって、この作品が、善玉を全員、そちら側の人間で埋めているのは、今の感覚で見ると、些か、偏っているように見えます。
「氏より育ち」を完全に否定している点も、この作品の大きな特徴で、善良な人間は、善良な親から生まれ、悪党は、悪党の親から生まれる。 少なくとも、片親が、ろくでなしであるという事になっています。 そして、大まかに言って、貧乏人は悪党で、金持ちは善人という、構図になっているんですな。 ディケンズの作品は、近代小説に分類されているわけですが、どうも、こういうところが、古臭く感じられます。
ピカレスク(悪漢小説)の流れを汲んでいると言われれば、なるほどと思うのですが、この作品が発表された、1837~39年という時代は、まだ、そんな時期だったんですかねえ。 いやいや、スタンダールの、≪赤と黒≫は、1830年発表ですが、それと比べても、遥かに旧態依然という感じがします。 風刺小説の趣きも強く、ディケンズという人が、人間個人よりも、社会全体の方に興味を持っていたのは、疑いないところ。
人物造形だけでなく、話も結構いい加減でして、オリバーの出自が明らかになって行く過程は、ありえない偶然が重なっており、もはや、小説というより、お伽話に近いです。 ただ、話の流れが良いので、その不自然さに気づかないまま、最後まで読んでしまう読者もいるかもしれません。 物語の語り方は、大変、巧いのです。
「善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある」というテーマを、この作品ほど、極端に描いている小説も珍しい。 ≪クリスマス・キャロル≫も、そうですが、ディケンズの考えでは、人間には、基準なる正しい生き方があり、それを人々に教える為に、小説を書いていたのではないかと思われる節があります。 唯一の救いは、≪クリスマス・キャロル≫と違って、キリスト教的な宗教臭が、ほとんどしないところでしょうか。 もし、これで、「全ては、信仰心のおかげ」なんて書き方がしてあったら、もはや、近代小説とは言えません。
随分、ケチばかりつけましたが、あまり深く考えずに、一時、物語の世界に浸ってみたいというのであれば、十二分に、面白い小説だと思います。 文庫本二冊で、合計、760ページくらいですが、会話が多いので、割と、スイスイ進みます。 前半は、オリバーが、どこまでひどい目に遭うのか心配で、ハラハラしますが、後半になると、そういう心配は遠のいて、クライマックスへ向う、話の盛り上がりで、一気に読み通してしまいます。
ああ、そうだ。 スイスイ進むとは言いましたが、ちょっと、創作形容が多過ぎる点が、抵抗になりますかねえ。 どうも、英米文学では、創作形容が多ければ多いほど、作者の創造力が高いと見做される傾向があるようですが、そういう独特な習慣が、世界レベルで見た時に、英米文学の評価を落とす方向に働いてしまっているのではないかと思います。 問題は、その事に、英語人が気づいていない点だよな。 創作形容を、「気が利いている」と思ってるんですぜ。 ≪面白南極料理人≫じゃないんだから。
以上、三冊です。 いつもの蔵出しより少ないですが、≪荒涼館≫と、≪オリヴァー・ツイスト≫は、一作分が長いですし、ちょうど、ディケンズの作品だけで纏まるので、ここまでにしておきました。 この後、≪大いなる遺産≫を読むつもりでいたんですが、たまたま、図書館の本が貸し出し中で、読む事ができず、他の作者の本を読んでいたら、それっきり、ディケンズから離れてしまったという次第。
読んだ順序としては、今年の1月29日に、≪荒涼館1・2≫を読み、その後、≪クリスマス・キャロル≫を挟んで、≪荒涼館3・4≫を読み、最後の、≪オリヴァー・ツイスト≫を読み終えたのが、2月23日でした。 長編が二作入っているから、結構、かかっています。 ≪クリスマス・キャロル≫は、一晩で、読めますけど。
ディケンズの小説は、読み易いんですが、読み易いだけでは、読む気にならないのであって、近代小説なら、もうちょっと、中身が欲しいところです。 それは、ディケンズだけでなく、英米文学全体に言える事。 だけど、英米文学は、文学としては、トップ・クラスとは言えないものの、その分かり易さ故に、映像作品の原作には適しており、映画化されている数で、他国文学を圧倒しているのは、否定のしようがない事実です。
そうそう、映画で思い出しました。 その後、2月28日に、1968年のイギリス映画、≪オリバー!≫を見て、感想を書いたので、オマケに、それも出しておきます。 見たのは録画ですから、放送したのは、もっと前かも知れません。 内容が、部分的に、小説の感想と重複していますが、これは、元々、別のブログに出すつもりだったから。 今更、書き直すのも面倒臭いので、御容赦ください。
≪オリバー!≫ 1968年 イギリス
≪ディケンズ≫の、最初の長編小説、≪オリバー・ツイスト≫が、原作です。 先に、劇場用ミュージカルになっていたのを、映画化したようです。 地方の町の救貧院で生まれ、9歳まで育てられた少年が、葬儀屋に雇われるが、ろくでなしの先輩から、死んだ母親を侮辱された事で、激情して家出し、ロンドンまで辿り着くものの、いきなり、犯罪組織に誘い込まれてしまい、仲間のスリと間違えられて、逮捕されたり、強盗に鍵開け係として利用されたり、さんざんな目に遭いながらも、善良な人達と出会った事で、悪党の世界から救い出され、自分の出自も知る事になる話。
BSプレミアムで見たんですが、たまたま、その直前に、原作の方を読んだばかりだったので、両者の違いが良く分かりました。 映画の方は、2時間26分もあり、インター・ミッションが入るほど長いにも拘らず、ミュージカル場面に時間を喰われているせいで、原作のエピソードを、3分の2くらいしか取り上げられず、後半は、登場人物を減らし、ストーリーを単純化して、大幅に端折っています。 一応、筋が通るようにはしてありますが、原作のファンが見たら、顔を顰められても仕方がないほど、大きな変更ですな。
主人公の名前が題名になっているのに、後半になると、主人公の存在感が薄くなってしまう点は、原作と同じ。 いや、原作では、ほとんど、出番がなくなってしまいますから、一応、クライマックスまで顔を出している、映画の方が、まだ、マシというべきでしょうか。 つまりそのー、映画化したから悪くなったという以前に、原作の方も、あまり、出来のいい小説ではないのです。 たまたま、助けてくれた人が、親の知り合いだったなんて、偶然の度が過ぎています。 初期のディケンズは、近代文学と言うより、「お話」や、「物語」のつもりで、小説を書いていたんですな。
原作の方では、スリ・泥棒の親玉、フェイギンは、狡猾で強欲な、妖怪じみた悪党という設定ですが、映画では、「こんな稼業をしていて、いいんだろうか?」と、思い悩むキャラに変更されています。 これは、原作が書かれた頃(1837~1839年)と、1968年で、ユダヤ人に対する意識が変わった事が、最大の理由です。 原作では、差別意識が剥き出しで、「フェイギン」という名前ではなく、「ユダヤ人」という呼び方で通されているくらいで、とても、そのままでは、映画にできなかったんでしょう。
しかし、善人と悪人の対立が、原作のテーマですから、悪の側の代表格フェイギンに、中途半端に反省させてしまったのでは、テーマが引き立たなくなってしまいます。 テーマを変えてしまうくらいなら、原作など求めず、オリジナルの映画にしてしまった方が良かったんじゃないでしょうか。
わざわざ、ミュージカルにした意味も、よく分かりません。 ウキウキ楽しい話でもなければ、美しい悲劇でもなく、言わば、勧善懲悪物で、およそ、ミュージカルに向く話ではないのですがね。 オリバー役は、マーク・レスターですが、ただ出てるだけ。 演技と言えるような、高等な事はしてません。
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