2015/05/24

物作りの周辺

  5月18日、月曜日の事ですが、久しぶりに、木工工作をしました。 一昨年の8月から、ベッドの足の方のすぐ横に、カラー・ボックスを置いて、買い集めた文庫本の本棚にしていたのですが、いつのまにか、前面を覆っている蓋の隙間から埃が入って、中の段に溜まっているのを発見して、吃驚! しかし、考えてみれば、布団がすぐ横に隣接しているわけですから、埃が入っても、なんら不思議はありません。 今まで、気づかなかった事の方に、吃驚すべきなのか。

  で、自室にあったベニヤ板と木片を使って、蓋の横に、「埃避け」を増設したという次第。 余り物を、手持ちの木工用ボンドでくっつけただけなので、一円の出費もなかったのは、幸いでした。 埃避けとして、「これで、完璧」とは、到底、思えませんが、「ないよりは、ずっとマシ」といったところ。

  カラー・ボックスが、本の重さで歪み、ビヤ樽形に横腹が膨らんでいたので、蓋と埃避けの板の間に隙間が出来てしまいました。 それを埋める為に、茶封筒を切って、裏から糊で貼るという、しょぼい方法も取りましたが、どうせ、私しか見ないから、問題ありません。 なぜ、茶封筒なのかというと、ベニヤ板に色が近いからです。 そういう色の工作用紙も、店に行けば売っていますが、どうせ、ほとんど見えませんし、封筒で用が足りるなら、新たに物を買って来るのは、馬鹿な話。




  引退してから、こっち、生活し易くする為に、あれやこれや、物を作る事が、ほとんど、なくなってしまいました。 いつまで生きるか分からないと思うと、お金や手間をかけてまで、そういう事をしようという気にならないんですな。 人が生きる為に必要なのは、まず、未来への希望なのだという事がよく分ります。

  ハムスターにティッシュを与えると、小屋の中に持って行き、細かく千切って、ふかふかの寝床を上手に作りますが、それと同じで、人間も、「こうすれば、便利になる」と思うと、身の周りで、いろいろな物を作ろうとします。 ところが、当人は、結構、頭を捻り、工夫を重ねて作ったつもりでも、他人から見ると、ゴミ同然という事が多いようです。

  岩手異動の時、私が入院している間に、寮の部屋に入った掃除係に、洗面・髭剃り用具の整理箱を、いとも簡単に壊されてしまったのは、未だに忘れられません。 結構、工夫して作ったんですがねえ。 去年の今頃は、寮の生活を快適にする為に、休みのたびに、工作に明け暮れていたものですが、さんざん苦労し、少なからぬ資金を投入して作ったにも拘らず、完成後、十日もしない内に、退職となり、引き揚げ前に、全部壊して来たのは、痛々しい事でした。

  そういえば、岩手異動の前に、新品の蕎麦殻枕を買ったのですが、向こうへ持って行く時には、料金会社もちで、引越し業者が運んでくれたから良かったものの、引き揚げて来る時には、自腹の宅配便でしたから、嵩張る枕を送り返す事ができず、泣く泣く捨てて来たのも、大変な痛恨事でした。 サイズこそ、50×35センチですが、ふくよかで、柔らかくて、惚れ惚れするような、いい枕だったんですがねえ。 値段が、351円だったのが、せめてもの慰め。

  家に帰って来てから、自室で使っていた枕が、くたびれて来たので、351円のを買い直そうと思ったら、二ヵ月そこそこしか経っていないのに、もう、商品が姿を消してました。 品切れではなく、値札も撤去してあって、扱わなくなってしまっていたのです。 きっと、円安の影響に違いありません。 以降、安い蕎麦柄枕を探して、11ヵ月も、あちこちの店を彷徨する事になります。 結局、先日、5月3日に買いましたけど、同じ店なのに、値段は、645円もしました。 「新品を捨てて来た、バチが当たったのだ」と、思いましたね。


  話を戻しますが、何かを作るというのは、頭を使うし、手先も使うし、総合的な能力を必要とするので、健康には悪くないと思います。 ただ、あまり、そんな事にばかり嵌まってしまうと、ガラクタを増やす事になります。 自分の部屋の中に収まっていればいいのですが、家族との共用空間にまで溢れ出すと、迷惑になり、家庭内不和の元になりかねません。

  日曜大工が趣味という人が、家族から、白い目で見られているのは、大変、よくある話。 ガレージを作り、毎週のようにホーム・センターに通って、欲しい工具を、要不要に関わらず、片っ端から買い集め、暇さえあれば、ギコギコ・トンカンやっているわけですが、 その騒音も迷惑ながら、作った物が、家の中にどんどん増えて行く事実が、家族に、ホラー並みの恐怖を齎します。 かくして、日曜大工禁止令が出されたり、「一つ作るなら、一つ捨てること」といった、ルールの取り決めを迫られたりします。

  やっている当人は、「これがあれば、生活が便利になるんだ」と信じ込んでいるから、大変、始末が悪い。 物があれば、必ず、便利になるというわけではなく、物がない事によって、空間が確保され、便利さが保たれる場合も多くあるのですが、当人は、とにかく、何か作りたくて仕方ないものだから、そういう、自分の欲求を阻害するような考え方は、認めようとしません。

  また、そういう人に限って、「自分は、アイデア・マンだ」と、自負しているところがあり、「自分が思いつくのが、一番優れたアイデアなのだから、その通りに作れば、他の人間も喜ぶに決まっている」と確信しています。 家族から、「こういう物を作って欲しい」と頼まれた場合でも、勝手に、自分の思いついた工夫を加え、依頼者の要望を満たしていないガラクタにしてしまい、「こっちの方が、絶対、便利だよ。 とにかく、一度、使ってから、文句を言え!」とか、逆ギレを起こします。

  それでいて、「ドアの建て付けが悪くなったから、直して欲しい」とか、「玄関の錠が壊れたから、取り換えて欲しい」とか、専門的な技術が必要な事を頼まれると、うまくやれるか自信がない上に、自分の創造性を発揮できないものだから、ああだこうだと屁理屈を並べて断ります。 肝腎な時には、糞の役にも立ちゃしない。 網戸の張り替えなんか頼もうものなら、「そんなのは、誰でもできるんだから、説明書を見て、おまえがやれ」と抜かす始末。 とことん、使えねー。

  つまりねえ、趣味で日曜大工をやっている人を、実用面で、当てにしちゃいけないんですね。 むしろ、何もやらせないようにする、たゆまぬ努力が必要です。 ガラクタが増えるのもさる事ながら、中には、金銭感覚がおかしくなっていて、やたら、高価な材料を使ったり、十年に一度も出番がないような、特殊な工具を揃えたりして、出来合いの製品を買うよりも、遥かに高くついてしまうケースも起こります。 日曜大工は、出来合いより、安く上がるから、意味があるのですが、それでは、本末転倒です。 何につけ、「拘り」のあるオヤジには、要注意。 ブランド物に入れあげて、破産する馬鹿女と、同類なのです。



  私の父は、器用なタイプで、日曜大工に、結構、のめりこんだ方です。 鋸や金槌だけでなく、鑿や鉋も使っていましたから、そこそこ、上級の素人だったわけですな。 「釘の頭が出ていると、錆びて来るから」と言って、奥まで打ち込んで、窪みに木片を埋め、鉋で仕上げていたくらいですから、私なんかは、とても、真似ができません。

  私が高校一年の時に、熱帯魚に嵌まり、60センチ水槽を買ったのですが、その台を、父が作ってくれました。 ちょうど、家を建て直したばかりで、古い家の廃材が残っており、それを利用して作ったせいもあって、えらい丈夫な台になりました。 その後、熱帯魚をやめてしまってからは、私がテレビ台に改造して、今に至りますが、元が頑丈なので、何を乗せても、ビクともしません。

  そういう父を見て育ったにも拘らず、私は、まったく、頑丈な物に興味がなく、むしろ、逆に、「最低必要強度」の事ばかり考えて、物を作るタイプになりました。 一番、得意なのが、厚紙細工なのですから、その傾向が知れようというもの。 私は、基本的に、厚紙で、もつものなら、全て、厚紙で作り、木材を使わなければ、もたない場合以外、木材を使いません。

  その中間の材料として、ダンボールがありますが、ダンボールは、綺麗に切れないですし、曲げると、不様になるので、あまり、使いません。 少なくとも、家の自室では、カラー・ボックスの蓋に、一ヵ所使ってあるだけです。 岩手異動の時には、木材が加工し難い場所だった関係で、ダンボールの出番が多かったですが、上述した通り、それらは、全て、自分で壊して、捨てて来てしまいました。

  そういや、岩手で、スーパーで貰って来たダンボール箱を改造して、ゴミ箱を作ったのですが、自分で言うもおこがましいものの、あれは、芸術品に近かったです。 中に入れるレジ袋を引っ掛ける為に、棒を貼り付け、下を掃除しやすいように、足を付けたのですが、それらの部品も、全て、ダンボールで三角柱を作って、用意しました。 四角柱だと、潰れ易いですが、三角柱なら、変形しないのです。 「2×2×2.8センチ + 糊代1センチ」で、三角柱を作れるわけですが、あまり何度も使ったので、数字を覚えてしまいました。

  あれを壊してしまったのだから、勿体ない事をしたものです。 向こうで、ゴミ箱を買わずに、ダンボールで済ませていたのは、「いつ、会社辞めても、いいように」という気持ちがあったからなんでしょうなあ。 ダンボールなら、すぐに潰して捨てられるけど、プラスチックのゴミ箱を買ってしまったら、処分するにしても、普通のゴミには出せませんから。 で、その予感は的中したわけです。 また、いつか、ダンボール細工に取り組む日が来るでしょうか? 少なくとも、この家に暮らしている限りは、ダンボールの出番はないですが。


  話を戻しますが、木材を使う場合でも、やはり、強度は最低を狙います。 最低強度に技術的な興味があるのではなく、安普請にすればするほど、文字通り、安く上がるからです。 たとえば、私の部屋のテレビ台の上には、テレビの上に屋根を掛けるような格好で、脚の長い台が載せてあるのですが、触ると揺れるくらい、へにゃへにゃです。 自分以外使わず、自分では、重い物を絶対に載せないので、それで充分なのでして、驚くべき事に、もう、30年近く、もっています。 その間、一度も、壊れた事がないのだから、自分でも、信じられないくらい。

  そんな強度でも、本数冊や、飲み物の入ったマグ・カップなど、大体、1キロ以下の物であれば、問題なく置く事ができます。 これがあるとないとじゃ、大違いでして、テレビの上の空間を利用するのに、絶大な貢献をしています。 元はといえば、他の物を壊して出た廃材を組み合わせた、テキトーな工作なんですがね。 物は、使いようなんですなあ。 そうかよ、もう、30年かよ・・・。


  私は、そういうタイプですが、兄はまた、全然違っていて、自分で物を作ったりしません。 使う物は、全て、買って来るのです。 別に、不器用というわけではないのですが、子供の頃から、見た目に拘るタイプで、手作りの物なんて、体裁が悪くて、使う気にならなかったようです。 今は、家を出て、配偶者と、アパートに住んでいますが、たぶん、訪ねて行っても、兄が手作りした物など、一つも見つけられないと思います。 親子・兄弟なのに、こういう違いが出るのは、興味深いこってすな。



  私は工場に勤めていたわけですが、工場という所では、作業を楽にしたり、作業時間を短縮する為に、作業員が自ら、作業場を改造するのが普通です。 使っている当人が、問題点を一番よく分かっているというわけだ。 生産する品が、モデル・チェンジすると、部品を置いている棚や、作業台の改造が行なわれ、その時にも、いろんな物を作らなければなりません。 工場で使う材料は、ジョイントで繋ぐ、イレクター・パイプや、「ダンプラ」と呼ばれる、プラスチック製のダンボールのような板です。 それを切り、ガムテープや、接着剤で貼り付けて、箱を作ったりするわけです。

  私は、そういうのは、割と得意なわけですが、熱心にやっていたのは、入社してから、3年くらいで、それ以降は、必要最小限の事しか やらなくなりました。 その場その場で工夫が必要になる物作りの場合、当人のセンスや、技術知識が、非常に重要になるのですが、何人も人がいると、何の知識もないし、センスもないという奴が、少なからずいるわけで、一生懸命作っても、次の日に出て行ったら、壊されて、およそ、使い難い代物に換えられていたなんて事が、よく起こったからです。 そんな連中に振り回されるのが、馬鹿馬鹿しくなり、自分からアイデアを出すのを、やめたんですな。

  どんなに、物作りのセンスがない人間でも、自尊心だけは一人前あるわけで、ああしろこうしろと、口だけは、出そうとします。 で、しょうがないから、そういうやつらに任せておくと、自重で潰れてしまうような、使えない物を作ったり、小改造で済むのに、わざわざ、新しい物を一から作ったり、もう、滅茶苦茶な事になってしまいます。

  実業団スポーツで、選手として入社し、加齢で引退したり、部が廃止されたりした後、現場に回されて来た人達に、そういうタイプが多かったです。 子供の頃から、スポーツ優先でやって来て、プラモデル一つ作った事がないというのですから、構造や強度の知識など、全くないのです。 ところが、「自分は、選手だった人間だから、普通のやつらより、優れている」という、鼻持ちならない意識を持っている上に、競争心だけは、人一倍強いので、上に上がりたがる。 で、そういう人間が陣頭指揮して、何かを作る事になると、とんでもないガラクタが出来てしまうんですわ。

  技術音痴には、もう一派、「泥ベタの文系」という連中がいますが、これも、子供の頃から、学生時代を通して、文学や哲学など、形而上の世界に、どっぷり浸かって生きて来たせいで、「技術なんか、自分にゃ関係ない」と思っていて、折り鶴一つ、折れません。 「うちの主人は、家じゃ何にもしません」という奥さん。 しないんじゃないですよ。 できないんですよ。 やり方を知らないし、それ以前に、興味がないから、覚える事もできない。 あんた、そういう出来損ないと結婚したんだよ。

  だけど、文系は、物作りの現場には、ほとんど、いません。 自分が何もできない事が分かっているから、恥を掻くのが怖くて、そういう職に就こうとしないんでしょうな。 たとえ、何かの間違いで紛れ込んでいたりしても、借りて来た猫のようにおとなしくしていて、体育会系のように、他人に指図しようなどと考えないから、有害度は、割と低いです。

  興味深い事に、技術音痴に共通しているのは、コスト意識が欠如している事で、「会社の金だから、いくら使っても構わない」と思っているらしいのが、アリアリ分かります。 一本、数千円するようなパイプを、計り間違えて切り、全部、ゴミにしてしまっても、自分の金で買った物ではないから、何とも思いません。 よく、高校の部活で、「予算を使い切らないと、翌年度から、同額もらえなくなる」と言って、必要もないのに、物を買ったりしますが、この連中のコスト意識とは、それと同レベルで停まっているのです。

  私が、「日本の物作りの魂」とかいう物言いを聞くと、苦笑してしまうのは、そういう連中を、さんざん、この目で見て来たからです。 みんな、ごく普通の日本人でしたが、一体、どこを叩けば、「物作りの魂」なんて出て来るのか・・・。 そんなやつらでも、一応、工場勤めだから、ネジをどちらに回せば締まるかくらいは知っていたわけで、一般平均よりは、技術知識があったと考えるべきでしょうか。

  だけど、岩手工場では、基準孔を先に締める事を知らない奴がいましたよ。 もう、50代半ばくらいで、外見だけは、ベテラン風の人物でした。 たまげた事に、「長孔の方から先に締めるように」と、私に指導しましたっけ。 まあ、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて、言い返す気にもならず、「はい、そうします」で、その場は済ませておきましたが・・・。 どえらい、「物作りの魂」も、あったもんだ。



  長くなったので、このくらいにしておきます。 取り留めがなくなってしまったので、これといって、結論もないですが、強いて挙げるなら、

・ 周囲から迷惑がられる物は、作るべきではない。
・ 能力的に作れない物は、作るべきではない。
・ 捨てる時の事を考えて作るべし。
・ 必ず、コスト意識を持って作るべし。

  そんな所が、教訓として、汲み取れるところでしょうか。 これらは、私生活でも、仕事でも、有効だと思います。