読書感想文・蔵出し⑧
これと言って、理由はありませんが、他にネタがないので、読書感想文を蔵出しします。 今回の分を読んだのは、2013年の、4月から、5月にかけての間で、もう、だいぶ前の事になります。 ロシア文学に再嵌まりしていた頃で、「あと、何々を読めば、ドストエフスキーの長編を、全て読破できる」とか何とか、以前に書いた記憶があります。 「まさか、もう、感想を出してあるんじゃないだろうな?」と思って、調べてみたら、当時、このブログでは、映画評を出していて、その枕で、その時の読書状況を知らせていただけでした。 よしよし、それなら、問題なし。
≪ドクトル・ジバゴ≫
新潮文庫
新潮社 1989年
ボリス・パステルナーク 著
江川卓 訳
ロシア・ソ連の詩人、ボリス・パステルナークが書いた長編小説。 ソ連国内では、発禁処分になり、原稿が国外に持ち出されて、1957年にイタリアで刊行。 1959年にノーベル文学賞に選ばれたものの、ソ連の政府や作家同盟から猛烈な批判を受け、受賞辞退に追い込まれた事で、世界的に有名になったのだとか。
裕福な家庭に生まれ、上流社会で育って、医師になった男が、第一次世界大戦や、ロシア革命、その後の内戦など、身に迫る危機に振り回されつつも、妻子や、中学生の頃から思い続けてきた女性への愛情を見失わずに生きようともがく話。
非っ常に読み難い小説で、特に出だしから、大人になるまでは、「これが小説?」と首を傾げたくなるような、風変わりな語り口で話が進みます。 いや、進んでいる事が、はっきり分かれば、まだいいんですが、何が言いたいのか分からない場面が、ボテボテッと繋がっているので、読んでいて、拷問でも受けているような、不愉快さを感じるのです。
で、最後まで、その調子が続くなら、途中で放り出すところですが、そうではないから、また困る。 第一次世界大戦の辺りから、徐々に、普通の小説に近くなり、後ろの方へ行くに連れて、読み易くなるのです。 作者の本業は詩人なので、最初の方は、単に、小説の書き方に慣れていなかっただけなんでしょうな。
心理描写、情景描写、自然描写、いずれも、詩人の言葉で紡がれていて、美しいと言えば美しいのですが、小説に流用するには、些か、くど過ぎる感じがしないでもなし。 ただし、これも、後ろへ行くに連れて、常識的なボリュームに落ち着いて行きます。
ソ連政府に睨まれただけあって、確かに、政権批判は含まれています。 しかし、この程度の批判なら、≪静かなドン≫にも見られるのであって、どうして、逆鱗に触れたのか、ちと解せないところです。 もしかすると、≪静かなドン≫のグレゴーリイが、純朴なコサックで、時代に翻弄されただけだったのに対し、ジバゴは、知識人で、分厚い教養を武器に、論理的に政権を批判しようとした、そこが許されなかったのかもしれませんな。
ヒロインのラーラですが、絶世の美女という事になっているものの、所詮、文章でそう書いてあるだけなので、「子供の頃から、さんざん苦労して来た人なのに、そんなにいつまでも、美貌を維持できるものかねえ?」と思わないでもなし。 性格もべた誉めですが、これまた、文章でそう書いてあるだけで、実際の言動や行動を見る限りでは、ごくごく普通の人であるように感じられます。
ジバゴは、とてつもない悲劇の主人公のように語られていますが、これまた、客観的に見て行くと、そんなにひどい人生とも思えません。 特に、女性関係は、大変お盛んで、正妻、不倫相手、内縁の妻と、三人もいます。 しかも、彼女らとの間に出来た子供が、合計五人もいるのですから、「この上、何の不満があるのか?」と言いたいです。
パステルナークは、ノーベル文学賞を辞退した後、作家生命を奪われ、失意の内に他界してしまうのですが、果たして、それは、ソ連政府のせいなのか、それとも、ノーベル文学賞のせいのか、判じかねるところです。 どう考えても、大した小説とは思えず、ノーベル文学賞の選考委員達は、単に、ソ連を批判したいがために、あてつけで、この作品を選んだのは、疑いないと思われるからです。
この事件の後、ノーベル文学賞が、政治的意図による選考を避けるようになったのは、一人の天才詩人の一生を台なしにしてしまったという、苦い経験の反省があったからでしょう。 その代わり、平和賞の方が、政治意図丸出しになって行くのですが・・・。
≪悪霊≫
新集 世界の文学 15・16
中央公論社 1969年
ドストエフスキー 著
池田健太郎 訳
ロシアの文豪、ドストエフスキーの長編小説。 新聞連載開始が1871年で、73年に単行本化。 60歳で他界したドストエフスキーの没年は81年ですから、50歳の時の作品という事になります。 円熟期に書かれたわけですが、その割には、ちょっと首を傾げたくなるようなところもあります。
ロシアの、とある田舎町で、土地の実力者である大地主、スタブローギン家に関わる人々が織り成す、政治結社絡みの事件をモチーフにした、ゴシップ群像劇。 ・・・と言ったら、いくら梗概と言っても、簡単過ぎて、何も伝えていないも同然でしょうか。
この小説は、ロシア史上の実際の事件、≪ネチャーエフ事件≫を題材にして発想されたらしいのですが、事件に関わる展開が出て来るのは、後ろ4分の1に入ってからで、それまでは、単なる貴族のゴシップ話が延々と続き、正直、何が言いたいのかよく分かりません。 新聞小説だったからでしょうかね。
主な登場人物は、スタブローギン家の主人である未亡人。 その息子、ニコライ。 その元家庭教師である食客のスチェパン氏。 その息子、ピョートル。 ニコライの隠し妻、マリヤ。 その恋敵、リーザ。 ピョートルが作る秘密結社の幹部である五人組。 県知事レムプケー。 その夫人、ユリア。 語り手の、G。 ・・・などなど、まーあ、たくさん出て来ます。
冒頭からしばらくは、スチェパン氏が主人公のように見えるのですが、ニコライが登場すると、そちらへ軸が移り、スチェパン氏は出たり引っ込んだりで、存在感が薄れてしまいます。 ネチャーエフ事件が話の中心とするなら、作中でネチャーエフに相当する、ピョートルが主人公という事になりますが、読んでいて、そういう気は全くしないのであって、むしろ、脇役以外の何者でもないキャラに見えます。
ネチャーエフ事件と言うのは、革命家のネチャーエフが作った秘密結社の中で、内紛が起こり、ネチャーエフが中心になって、メンバーの一人だった大学生を殺した事件。 割と単純な事件で、細々書いても、中編小説くらいが限界だと思うのですが、それを長編にしてしまったのだから、ほとんど関係のないようなエピソードばかり並ぶのも、無理からぬ事です。
これも、新聞小説だったのが理由だと思いますが、文章は、異様に読み易いです。 とても、≪罪と罰≫や≪カラマーゾフの兄弟≫と同じ作者の書いたものとは思えない平易さ。 しかし、だから、どんどんページが進むかと思うと、そんな事はなくて、前述した通り、何が言いたいのか分からないせいで、話に引き込まれるほど興味が盛り上がらず、四苦八苦させられます。
ドストエフスキーらしいところと言うと、ニコライとチーホン僧正の対話や、ラスト近くに出て来る、スチェパン氏の告白などが、そうでしょうか。 物語自体も、ラスト近くだけを見るなら、殺人、自殺、病死など、陰惨な事件が立て続けに起こり、構成の妙が感じられぬでもなし。 ただし、そういう技法を、ドストエフスキーらしいと評価すべきかどうかは、それまた、疑問を感じぬでもなし。
≪白痴・賭博者≫
ドストエーフスキイ全集 7・8
河出書房新社 1969年
ドストエフスキー 著
米川正夫 訳
河出書房新社の≪ドストエフスキー全集 7・8巻≫です。 7巻は、長編小説、【白痴】の上。 8巻は、【白痴】の下と、【白痴創作ノート】、そして、中編の【賭博者】が収められています。
【白痴】
書かれた時期は、1868年で、【罪と罰】の2年後です。 作者の当時の年齢は、47歳。 【悪霊】が、この後に続くという並びです。 中央公論社の、≪新集 世界の文学≫で読んだ【悪霊】は、上下二巻ぎっしりで、合計950ページくらいありましたから、それら比べると、【白痴】は、合計、650ページくらいで、だいぶ短いです。 それでも、10日くらい、かかりましたけど。
子供の頃から癲癇症で、スイスで治療を受けていた、ムイシュキン公爵が、20代半ばになって、ロシアに帰って来るが、着いたその日に、ナスターシャという素性の悪い美女に対する求婚者達の争いに巻き込まれ、遠い親戚に当たるエバンチン家の末娘と、ナスターシャのどちらを取るか、他の求婚者達との折り合いをどうつけるかなど、次々に押し寄せる難題に、翻弄される話。
主人公は、「馬鹿に見えるほど、純真にして、無類の善人」という設定になっているのですが、周囲の人間が、そう言っているだけで、客観的に見る限りでは、そんな愚かさは、微塵も感じられません。 「白痴」という日本語の語感は、完全に的外れで、「馬鹿」くらいが、妥当な意訳だと思いますが、実際の主人公は、その、馬鹿にすら見えないのです。
善人という点も、素直には認められません。 周囲の要求を、みんな受け入れてしまうものの、それで身上潰すほど、極端ではなく、現実に存在する善人貧乏人士と比べても、「この程度では、とりわけて、善人とは言えないのではないか?」と思ってしまいます。
これらの点、物語の基本を成す条件設定すら満たしていないわけで、作者が、主人公のキャラを決めきれないまま、書き始め、書き進め、書き終えてしまった疑いがあります。 これは、映画でも、よくある事ですが、主人公を善人の設定にしたせいで、思い切った行動を取らせられなくなり、周囲の雰囲気に流されるだけの、およそ主人公らしからぬキャラになってしまった典型例ですな。
主人公以外のキャラも、女はみんな、ヒステリー、男は男で、ろくでなしばかりという感じで、愛すべき人物はもちろんの事、共感できるような人さえ出て来ません。 とりわけ、主人公を巡って、ライバル関係になる、ナスターシャとアグラーヤの性格が、はっきり描き分けられていないのは、重大な欠点と言えるでしょう。 どちらも、鼻持ちならぬ高慢痴気で、身勝手で、ただ、金切り声を張り上げているだけで、何の魅力も見出せません。
随分と貶していますが、正直のところ、読んでいて、全く面白さを感じなかったので、貶す以外に、批評の進めようがないんですな。 登場人物のキャラだけでなく、ストーリーも、いいところがありません。 【悪霊】よりも短いにも拘らず、話に纏まりがない点では、上を行っており、先の展開に対する期待が、まるで膨らみません。 第一日目の出来事の記述が、あまりにも長くて、時間の配分が悪いのも、バランス的に、どうかと思います。
恋愛物にしてしまったのが、最大の失敗か。 いや、恋愛物といっても、物語の大枠がそうなっているだけで、実は、誰一人、恋愛などしていないのですが、形式だけであっても、恋愛物の体裁を整えるために、ページを使い過ぎており、本来のテーマである、主人公の善性の方を、描き足りていないのです。 名作扱いされているのが、不思議なくらい。
【賭博者】
書かれたのは、1866年。 【罪と罰】と同じ年ですな。 作者は、45歳。 二段組みで、150ページ程度の中編ですが、中編というカテゴリーを認めない場合、短かめの長編です。 スイスのある町で、カジノに入り浸って、身上潰したロシアの将軍と、その周囲の人々の、醜く惨めな人間模様を、将軍に雇われている家庭教師の目から描いた話。
ドストエフスキー自身が、賭博に嵌まって、しょっちゅう、すってんてんになっていたそうなので、その体験を小説化したものなのでしょう。 将軍は、話が始まる前に、すでに破産しているので、主人公の家庭教師と、途中でロシアから乗り込んでくる将軍の伯母が、主な博徒となります。 大勝ち場面が三回、大負け場面が二回出て来ます。
この伯母さんが、凄い性格で、当初、死が近いと思われ、遺産を期待されていたのが、現金にも回復し、死ぬどころか、自分からスイスに出張って来て、将軍一行を、ビシバシと叱り飛ばし、一躍、物語の中心人物に躍り出ます。 胸がすくような登場の仕方というのは、この事を言うのですな。
しかし、やはり、賭博の陥穽は避けて通れず、ささやかな興味から、カジノを覗きに行ったのが運の尽き、ルーレットに取りつかれて、見るも無残に敗退して行きます。 元の性格が強烈だっただけに、この萎れぶりは、凄まじい落差を引き起こし、この作品の最大の見せ場になっています。
主人公は、将軍の義理の娘に気に入られようとして、賭博をするのですが、どんなに勝っても、思い通りに事は進まず、逆に、距離が広がってしまうのは、「所詮、あぶく銭の効力など、こんなもの」という皮肉ですな。 最も大きな問題は、賭博に夢中になると、頭に血が上って、何が目的で始めたのかさえ忘れてしまうという、深刻な中毒性なのですが・・・。
賭博の場面は、そこそこ面白いですが、テーマがテーマだけに、ハッピー・エンドにはなりようがなく、後味は、良くありません。 もっとも、ドストエフスキーの作品で後味が良いものというのは、まだ読んだ事がありませんけど・・・。
あと、細かい事ですが、「フローリン」、「フリードリッヒ・ドル」、「ルーブリ」と、通貨の単位が何種類も出て来るせいか、どのくらいの価値のお金が動いているのか掴み難いところが、ちと、もどかしい感あり。
以上、3冊、4作品です。 前回の、≪読書感想文・蔵出し⑦≫から、写真の代わりに、本のデータを添えるように改めたのですが、今回、そのデータを調べていて、沼津市立図書館のオンライン・データ・ベースに、一杯喰わされました。 上下巻セットなのに、上巻よりも、下巻の方が、発行年が早くなっている事に気付いたのです。 そーんなこたーありえねーだろー! どーんなに個性的な出版社だってよー!
上下巻のどちらの年数が間違っているのか分からないので、アマゾンで調べてみたら、どちらとも違っていて、ますます、顔色が青くなりました。 こうなると、どれを信用していのか、判定のしようがなくなります。 そこで、図書館まで、自転車で走って、本の奥付けを確認して来ましたよ。 春一番が吹き荒れ、向かい風で、漕いでも漕いでも進まんというのに。 いやまあ、帰りは、その分、楽だったんですがね。
結局、間違っていたのは、沼津市立図書館のデータでした。 蔵書データって、共通データ・ベースがあるんじゃなくて、図書館ごとに、打ち込んでるんですかね? もしかしたら、ISBNが付く前に発行された本に限り、それぞれの図書館で、データ入力したのかも知れませんな。 それにしても、一体どこから、全然違う数字が割り込んで来たのだろう? 具体的に言うと、≪悪霊≫の上巻が1974年、下巻が1972年になっていたのですが、正しくは、どちらも、1969年でした。 考えられない間違え方でしょう? わけ分からん。
≪ドクトル・ジバゴ≫
新潮文庫
新潮社 1989年
ボリス・パステルナーク 著
江川卓 訳
ロシア・ソ連の詩人、ボリス・パステルナークが書いた長編小説。 ソ連国内では、発禁処分になり、原稿が国外に持ち出されて、1957年にイタリアで刊行。 1959年にノーベル文学賞に選ばれたものの、ソ連の政府や作家同盟から猛烈な批判を受け、受賞辞退に追い込まれた事で、世界的に有名になったのだとか。
裕福な家庭に生まれ、上流社会で育って、医師になった男が、第一次世界大戦や、ロシア革命、その後の内戦など、身に迫る危機に振り回されつつも、妻子や、中学生の頃から思い続けてきた女性への愛情を見失わずに生きようともがく話。
非っ常に読み難い小説で、特に出だしから、大人になるまでは、「これが小説?」と首を傾げたくなるような、風変わりな語り口で話が進みます。 いや、進んでいる事が、はっきり分かれば、まだいいんですが、何が言いたいのか分からない場面が、ボテボテッと繋がっているので、読んでいて、拷問でも受けているような、不愉快さを感じるのです。
で、最後まで、その調子が続くなら、途中で放り出すところですが、そうではないから、また困る。 第一次世界大戦の辺りから、徐々に、普通の小説に近くなり、後ろの方へ行くに連れて、読み易くなるのです。 作者の本業は詩人なので、最初の方は、単に、小説の書き方に慣れていなかっただけなんでしょうな。
心理描写、情景描写、自然描写、いずれも、詩人の言葉で紡がれていて、美しいと言えば美しいのですが、小説に流用するには、些か、くど過ぎる感じがしないでもなし。 ただし、これも、後ろへ行くに連れて、常識的なボリュームに落ち着いて行きます。
ソ連政府に睨まれただけあって、確かに、政権批判は含まれています。 しかし、この程度の批判なら、≪静かなドン≫にも見られるのであって、どうして、逆鱗に触れたのか、ちと解せないところです。 もしかすると、≪静かなドン≫のグレゴーリイが、純朴なコサックで、時代に翻弄されただけだったのに対し、ジバゴは、知識人で、分厚い教養を武器に、論理的に政権を批判しようとした、そこが許されなかったのかもしれませんな。
ヒロインのラーラですが、絶世の美女という事になっているものの、所詮、文章でそう書いてあるだけなので、「子供の頃から、さんざん苦労して来た人なのに、そんなにいつまでも、美貌を維持できるものかねえ?」と思わないでもなし。 性格もべた誉めですが、これまた、文章でそう書いてあるだけで、実際の言動や行動を見る限りでは、ごくごく普通の人であるように感じられます。
ジバゴは、とてつもない悲劇の主人公のように語られていますが、これまた、客観的に見て行くと、そんなにひどい人生とも思えません。 特に、女性関係は、大変お盛んで、正妻、不倫相手、内縁の妻と、三人もいます。 しかも、彼女らとの間に出来た子供が、合計五人もいるのですから、「この上、何の不満があるのか?」と言いたいです。
パステルナークは、ノーベル文学賞を辞退した後、作家生命を奪われ、失意の内に他界してしまうのですが、果たして、それは、ソ連政府のせいなのか、それとも、ノーベル文学賞のせいのか、判じかねるところです。 どう考えても、大した小説とは思えず、ノーベル文学賞の選考委員達は、単に、ソ連を批判したいがために、あてつけで、この作品を選んだのは、疑いないと思われるからです。
この事件の後、ノーベル文学賞が、政治的意図による選考を避けるようになったのは、一人の天才詩人の一生を台なしにしてしまったという、苦い経験の反省があったからでしょう。 その代わり、平和賞の方が、政治意図丸出しになって行くのですが・・・。
≪悪霊≫
新集 世界の文学 15・16
中央公論社 1969年
ドストエフスキー 著
池田健太郎 訳
ロシアの文豪、ドストエフスキーの長編小説。 新聞連載開始が1871年で、73年に単行本化。 60歳で他界したドストエフスキーの没年は81年ですから、50歳の時の作品という事になります。 円熟期に書かれたわけですが、その割には、ちょっと首を傾げたくなるようなところもあります。
ロシアの、とある田舎町で、土地の実力者である大地主、スタブローギン家に関わる人々が織り成す、政治結社絡みの事件をモチーフにした、ゴシップ群像劇。 ・・・と言ったら、いくら梗概と言っても、簡単過ぎて、何も伝えていないも同然でしょうか。
この小説は、ロシア史上の実際の事件、≪ネチャーエフ事件≫を題材にして発想されたらしいのですが、事件に関わる展開が出て来るのは、後ろ4分の1に入ってからで、それまでは、単なる貴族のゴシップ話が延々と続き、正直、何が言いたいのかよく分かりません。 新聞小説だったからでしょうかね。
主な登場人物は、スタブローギン家の主人である未亡人。 その息子、ニコライ。 その元家庭教師である食客のスチェパン氏。 その息子、ピョートル。 ニコライの隠し妻、マリヤ。 その恋敵、リーザ。 ピョートルが作る秘密結社の幹部である五人組。 県知事レムプケー。 その夫人、ユリア。 語り手の、G。 ・・・などなど、まーあ、たくさん出て来ます。
冒頭からしばらくは、スチェパン氏が主人公のように見えるのですが、ニコライが登場すると、そちらへ軸が移り、スチェパン氏は出たり引っ込んだりで、存在感が薄れてしまいます。 ネチャーエフ事件が話の中心とするなら、作中でネチャーエフに相当する、ピョートルが主人公という事になりますが、読んでいて、そういう気は全くしないのであって、むしろ、脇役以外の何者でもないキャラに見えます。
ネチャーエフ事件と言うのは、革命家のネチャーエフが作った秘密結社の中で、内紛が起こり、ネチャーエフが中心になって、メンバーの一人だった大学生を殺した事件。 割と単純な事件で、細々書いても、中編小説くらいが限界だと思うのですが、それを長編にしてしまったのだから、ほとんど関係のないようなエピソードばかり並ぶのも、無理からぬ事です。
これも、新聞小説だったのが理由だと思いますが、文章は、異様に読み易いです。 とても、≪罪と罰≫や≪カラマーゾフの兄弟≫と同じ作者の書いたものとは思えない平易さ。 しかし、だから、どんどんページが進むかと思うと、そんな事はなくて、前述した通り、何が言いたいのか分からないせいで、話に引き込まれるほど興味が盛り上がらず、四苦八苦させられます。
ドストエフスキーらしいところと言うと、ニコライとチーホン僧正の対話や、ラスト近くに出て来る、スチェパン氏の告白などが、そうでしょうか。 物語自体も、ラスト近くだけを見るなら、殺人、自殺、病死など、陰惨な事件が立て続けに起こり、構成の妙が感じられぬでもなし。 ただし、そういう技法を、ドストエフスキーらしいと評価すべきかどうかは、それまた、疑問を感じぬでもなし。
≪白痴・賭博者≫
ドストエーフスキイ全集 7・8
河出書房新社 1969年
ドストエフスキー 著
米川正夫 訳
河出書房新社の≪ドストエフスキー全集 7・8巻≫です。 7巻は、長編小説、【白痴】の上。 8巻は、【白痴】の下と、【白痴創作ノート】、そして、中編の【賭博者】が収められています。
【白痴】
書かれた時期は、1868年で、【罪と罰】の2年後です。 作者の当時の年齢は、47歳。 【悪霊】が、この後に続くという並びです。 中央公論社の、≪新集 世界の文学≫で読んだ【悪霊】は、上下二巻ぎっしりで、合計950ページくらいありましたから、それら比べると、【白痴】は、合計、650ページくらいで、だいぶ短いです。 それでも、10日くらい、かかりましたけど。
子供の頃から癲癇症で、スイスで治療を受けていた、ムイシュキン公爵が、20代半ばになって、ロシアに帰って来るが、着いたその日に、ナスターシャという素性の悪い美女に対する求婚者達の争いに巻き込まれ、遠い親戚に当たるエバンチン家の末娘と、ナスターシャのどちらを取るか、他の求婚者達との折り合いをどうつけるかなど、次々に押し寄せる難題に、翻弄される話。
主人公は、「馬鹿に見えるほど、純真にして、無類の善人」という設定になっているのですが、周囲の人間が、そう言っているだけで、客観的に見る限りでは、そんな愚かさは、微塵も感じられません。 「白痴」という日本語の語感は、完全に的外れで、「馬鹿」くらいが、妥当な意訳だと思いますが、実際の主人公は、その、馬鹿にすら見えないのです。
善人という点も、素直には認められません。 周囲の要求を、みんな受け入れてしまうものの、それで身上潰すほど、極端ではなく、現実に存在する善人貧乏人士と比べても、「この程度では、とりわけて、善人とは言えないのではないか?」と思ってしまいます。
これらの点、物語の基本を成す条件設定すら満たしていないわけで、作者が、主人公のキャラを決めきれないまま、書き始め、書き進め、書き終えてしまった疑いがあります。 これは、映画でも、よくある事ですが、主人公を善人の設定にしたせいで、思い切った行動を取らせられなくなり、周囲の雰囲気に流されるだけの、およそ主人公らしからぬキャラになってしまった典型例ですな。
主人公以外のキャラも、女はみんな、ヒステリー、男は男で、ろくでなしばかりという感じで、愛すべき人物はもちろんの事、共感できるような人さえ出て来ません。 とりわけ、主人公を巡って、ライバル関係になる、ナスターシャとアグラーヤの性格が、はっきり描き分けられていないのは、重大な欠点と言えるでしょう。 どちらも、鼻持ちならぬ高慢痴気で、身勝手で、ただ、金切り声を張り上げているだけで、何の魅力も見出せません。
随分と貶していますが、正直のところ、読んでいて、全く面白さを感じなかったので、貶す以外に、批評の進めようがないんですな。 登場人物のキャラだけでなく、ストーリーも、いいところがありません。 【悪霊】よりも短いにも拘らず、話に纏まりがない点では、上を行っており、先の展開に対する期待が、まるで膨らみません。 第一日目の出来事の記述が、あまりにも長くて、時間の配分が悪いのも、バランス的に、どうかと思います。
恋愛物にしてしまったのが、最大の失敗か。 いや、恋愛物といっても、物語の大枠がそうなっているだけで、実は、誰一人、恋愛などしていないのですが、形式だけであっても、恋愛物の体裁を整えるために、ページを使い過ぎており、本来のテーマである、主人公の善性の方を、描き足りていないのです。 名作扱いされているのが、不思議なくらい。
【賭博者】
書かれたのは、1866年。 【罪と罰】と同じ年ですな。 作者は、45歳。 二段組みで、150ページ程度の中編ですが、中編というカテゴリーを認めない場合、短かめの長編です。 スイスのある町で、カジノに入り浸って、身上潰したロシアの将軍と、その周囲の人々の、醜く惨めな人間模様を、将軍に雇われている家庭教師の目から描いた話。
ドストエフスキー自身が、賭博に嵌まって、しょっちゅう、すってんてんになっていたそうなので、その体験を小説化したものなのでしょう。 将軍は、話が始まる前に、すでに破産しているので、主人公の家庭教師と、途中でロシアから乗り込んでくる将軍の伯母が、主な博徒となります。 大勝ち場面が三回、大負け場面が二回出て来ます。
この伯母さんが、凄い性格で、当初、死が近いと思われ、遺産を期待されていたのが、現金にも回復し、死ぬどころか、自分からスイスに出張って来て、将軍一行を、ビシバシと叱り飛ばし、一躍、物語の中心人物に躍り出ます。 胸がすくような登場の仕方というのは、この事を言うのですな。
しかし、やはり、賭博の陥穽は避けて通れず、ささやかな興味から、カジノを覗きに行ったのが運の尽き、ルーレットに取りつかれて、見るも無残に敗退して行きます。 元の性格が強烈だっただけに、この萎れぶりは、凄まじい落差を引き起こし、この作品の最大の見せ場になっています。
主人公は、将軍の義理の娘に気に入られようとして、賭博をするのですが、どんなに勝っても、思い通りに事は進まず、逆に、距離が広がってしまうのは、「所詮、あぶく銭の効力など、こんなもの」という皮肉ですな。 最も大きな問題は、賭博に夢中になると、頭に血が上って、何が目的で始めたのかさえ忘れてしまうという、深刻な中毒性なのですが・・・。
賭博の場面は、そこそこ面白いですが、テーマがテーマだけに、ハッピー・エンドにはなりようがなく、後味は、良くありません。 もっとも、ドストエフスキーの作品で後味が良いものというのは、まだ読んだ事がありませんけど・・・。
あと、細かい事ですが、「フローリン」、「フリードリッヒ・ドル」、「ルーブリ」と、通貨の単位が何種類も出て来るせいか、どのくらいの価値のお金が動いているのか掴み難いところが、ちと、もどかしい感あり。
以上、3冊、4作品です。 前回の、≪読書感想文・蔵出し⑦≫から、写真の代わりに、本のデータを添えるように改めたのですが、今回、そのデータを調べていて、沼津市立図書館のオンライン・データ・ベースに、一杯喰わされました。 上下巻セットなのに、上巻よりも、下巻の方が、発行年が早くなっている事に気付いたのです。 そーんなこたーありえねーだろー! どーんなに個性的な出版社だってよー!
上下巻のどちらの年数が間違っているのか分からないので、アマゾンで調べてみたら、どちらとも違っていて、ますます、顔色が青くなりました。 こうなると、どれを信用していのか、判定のしようがなくなります。 そこで、図書館まで、自転車で走って、本の奥付けを確認して来ましたよ。 春一番が吹き荒れ、向かい風で、漕いでも漕いでも進まんというのに。 いやまあ、帰りは、その分、楽だったんですがね。
結局、間違っていたのは、沼津市立図書館のデータでした。 蔵書データって、共通データ・ベースがあるんじゃなくて、図書館ごとに、打ち込んでるんですかね? もしかしたら、ISBNが付く前に発行された本に限り、それぞれの図書館で、データ入力したのかも知れませんな。 それにしても、一体どこから、全然違う数字が割り込んで来たのだろう? 具体的に言うと、≪悪霊≫の上巻が1974年、下巻が1972年になっていたのですが、正しくは、どちらも、1969年でした。 考えられない間違え方でしょう? わけ分からん。
<< Home