2015/02/01

年賀状

  今回は、年賀状の話です。 もう、2月だというのに、こういう話題もどうかと思うのですが、途中まで書きかけた文章があり、来年まで寝かせておくと、その存在を忘れてしまいそうなので、出してしまう事にします。 逆に考えると、2月になってから、年賀状の話を書くブログというのは、かーなり珍しいと思うので、希少価値がある記事になるかも知れません。

  ところで、今年の干支が、何か、覚えていますか? ヘビですよ、ヘビ。 嘘です。 それは、去年。 今年は、ウマです。 いや、それも嘘です。 去年がウマで、ヘビは、一昨年です。 今年は、ヤギです。 また騙された。 ヤギ年なんて、ありませんよ。 「あれ? そうだったっけ?」と、あなたが今思い浮かべたのは、ヤギ座。 今年の干支は、ヒツジです。 これは、本当。

  そういや、干支の動物を略称で並べると、「ねー・うし・とら・うー・たつ・みー・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」ですが、鳴き声で並べると、どうなりますかね? 「チュー・モー・ガオ・○○・××・△△・ヒン・メー・キー・コケ・ワン・ブー」ですか。 タツとヘビが伏字になるのは仕方ないとして、ウサギって、鳴かんの? ネズミが鳴くんだから、ウサギも鳴きそうな気がするんですがね。 前歯が、似たようなもんだし。 擬態語を混ぜていいと言うなら、ウサギを、「ピョン」、ヘビを、「ニョロ」で代用して、「チュー・モー・ガオ・ピョン・××・ニョロ・ヒン・メー・キー・コケ・ワン・ブー」まで詰められますが、結局、タツは、どうにもならないわけだ。

  「龍」という字は、元々は、ワニの事を指していたらしく、そう言われてみると、口の辺りが、ワニにそっくり。 ワニの胴体を、ぎゅーっと引き伸ばして、ヘビ状にし、頭に鹿の角をくっつけて、口の周りに髭を生やせば、ほぼ、龍になります。 世界的に、「龍 = ドラゴン」という認識が定着していますが、龍の元が、ワニだと思うと、ドラゴンとは、顔が全く違うのが分かります。 ドラゴンには、翼も生えているし。 共通点は、胴が長い事だけで、かなり無茶な同一視ですな。 むしろ、中国とヨーロッパの空想獣で、同一視が可能なのは、「麒麟 = グリフィン」でしょう。 名前も、たぶん、同根。

  さて、というわけで、龍の元が、ワニである事が判明したわけですが、鳴き声は、結局、分かりません。 どこまで、音を立てない奴なのだ。 ワニって、鳴かないですよねえ。 息を吐く音はするような気がしますが、そんなの、他の動物も、みんな、出しますから、特徴的な発声にはなりません。 外見や動きにも、これといったオリジナリティーがなくて、擬態語も無理。 つまらん奴め。 ちなみに、私は、そのつまらん、タツ年生まれです。


  それはさておき、つい先日、母が、年賀状の、クジの当選番号を見忘れたというので、ネットで調べて、教えてやりました。 私の母は、結局、インターネットを使いこなせずに終わったわけですが、ネットで調べれば分かる事というのが、どんな事なのかは区別がつくようで、時折、そういう事を頼んで来ます。 だったら、パソコン・セットが居間にあった間に、慣れればよかったのに。 キー・ボードが、まるで打てなかったんですな。 女学校時代に、和文タイプ・ライターを習っていたらしいのですが、あんな化け物みたいな機械が使えて、キー・ボードが打てないというのは、解せない話です。

  なまじ、マウスなんて物があるから、「是が非でも、キーボードを打てるようになろう」という、モチベーションが湧き起こらないのかも知れません。 うちの母だけを笑ってばかりもいられないのであって、キー・ボード打てない人、年齢に関係なく、相当いると思うんですよ。 ツイッターなんて、明らかに、長文を打つのが苦手な人が飛びついたメディアだよねえ。 ケータイやスマホで打ち込んでいるから、長文なんて、土台無理なんですよ。

  「パソコンなんて、要らないよ」と主張する人の、8割くらいは、「キー・ボードなんて、打てないよ」という人と、重なっていると思います。 恥ずかしいから、言わないだけ。 今日日の大学生が、レポートを、コピペだけで作ろうとするのは、文章が作れないだけでなく、キー・ボードが打てないのが理由かも知れませんぜ。 マウスしか使えないんじゃ、コピペ以外に、文章をデッチ上げる手段がないものねえ。 「いくらなんでも、今時の学生が、そんな事はないだろう」と決め付ける前に、調べて見た方がいいと思います。 私に言わせれば、今時の学生だからこそ、キー・ボードが打てない可能性が高いと思うのですがね。

  特に、日本では、かな入力と、ローマ字入力が混在していたせいで、ますます、キー・ボードから、初心者を遠ざけてしまったという、痛い事情があります。 一時期、「ローマ字入力の方が、速く打てる」という主張を、全身全霊をかけて、初心者に説いて回る人というのがいましたが、今では、キー・ボードを打つ人自体が少数派になってしまったので、そういう主義者達も、暖簾に腕押し的な余生を送っている事でしょう。 ローマ字打ちのせいで、キー・ボード派が減ったとは言いませんが、ローマ字打ちのお陰で、キー・ボード派が増えたとも言えませんな。 だって、全体的に増えてないんだもの。

  そういや、もう一昔も前ですが、「ケータイ小説」というのが流行り、ケータイで小説を読むだけでなく、ケータイで書いた小説というのがありましたが、考えてみれば、あれの作者達も、たぶん、キー・ボードを打てなかったんでしょうなあ。 気の毒に・・・。 一人くらい、文壇に残っているのかね? 残っていたとしても、調べようがないか。 もはや、文壇自体が、ズタズタに分断されて、同人誌レベルに堕ちていますからして。

  いまや、キー・ボードをバシバシ打てるのは、ワープロ時代に、かな打ちで鍛えられた、オッサン・ジーサンだけではありますまいか。 もしかしたら、「パソコンでは、かな打ちできない」なんて、思い込んでいる人、いないでしょうね? できますよ。 だから、キー・ボードのキーに、ひらがながふってあるんですよ。 設定を変えるだけです。 簡単簡単、ものの一分で変更できます。

  ウインドウズの人なら、一番下のツール・バーに、工具箱のアイコンがあるでしょう? それを、左クリックして、「プロパティ」を選べば、「Microsoft IMEのプロパティ」という窓が出ますから、「全般」を選んで、「ローマ字入力/かな入力」の所を、「かな入力」に変えてやればいいのです。 ワープロ時代は、かな入力していたけど、パソコンに切り換えてから、ローマ字入力を覚え直したという人で、「パソコンにしてから、何となく、キー・ボードを打つのが面倒になってしまった」という人は、試してみるといいと思います。


  おや? なんだか、遥か彼方まで、脱線扱きまくっておりますな。 もはや、ここまで離れてしまうと、何がテーマだったのか、思い出すのも億劫だ。 えーとー、えーとー、そーだそうだ、年賀状の話だった。 でねー、ネットで、年賀状の当選番号を調べたわけですけど、あれって、1等、2等、3等の三種類しかないんですな。 1等と2等は、それぞれ、番号が一つで、3等は、二つ。 全部で、四つしかないわけだ。 昔は、もっと、いろいろとあったような気がするんですがね。 私の記憶違いでしょうか?

  1等の賞品が、「一万円」というのは、如何なものと・・・。 いやまー、お金が一番便利だと言えば、そーなんすけどね。 2等は、「ふるさと小包」。 なにそれ? 想像もつきません。 1万円以下の価値である事は確かですが、他の情報が少な過ぎます。 3等は、「年賀切手シート」。 これが、一番無難です。 当たる確率も高いし。 ところが、今年、我が家に来た年賀状は、全滅でした。 切手シートなどという、つまらない物にまで見放されたか。

  私の、他人のガキ嫌いが高じたせいで、座敷童子が逃げたのかな? あー、これこれ、逃げんでもいいよ。 喧しいのが嫌なのであって、あんた方みたいに、静かにしている分には、何百人いたって、気にならんから。 ・・・なんて事を書いてしまって、ある夜、ふと気になって、床の間を覗くと、座敷童子がぎっしり詰まっていたら、嫌だな・・・。


  私が貰った、唯一の年賀状も、あえなく、ハズレ。 ちょうど、一年前、北海道応援の時に世話になった、向こうの会社の上司から来たもの。 ほんの、2ヵ月半、働いただけですし、別に、親しく話をしていたわけでもないですから、年賀状なんて、くれなくても、ちっとも構わないんですが、この世には、律儀な人もいるんですな。 元旦に来て、すぐに、返事を書き始めたのですが、裏が無地の年賀状がなくて、寒いのに、コンビニまで、自転車で買いに行きました。

  52円。 「インク・ジェット用と、手書き用がありますが、どちらにしますか?」と訊かれ、インク・ジェット・プリンターで刷るつもりでいたのに、つい、「手書き用で」と答えてしまいました。 手書き用でも、刷れる事が分かっているので、使った経験がある方を選んでしまったわけです。 一度、インク・ジェット用も試してみたいものですが、年に一枚では、賭けになってしまいますから、私の性格的に、できそうにありません。

  プリンターが不調で、全色は出ないので、写真でごまかす手が使えず、文章オンリーで埋めました。 内容は、岩手に異動した事、入院して、退職した事、北海道に旅行に行って、苫小牧を鉄道で通過した事など。 働き続けている側からすると、仕事を辞めた人間の話は、結構、面白いのではないでしょうか。 どちらが優越感に浸れるかは、別問題として・・・。 両方で浸っていれば、どちらも幸せで、そいつあ春から縁起がいいかも。

  プリントして、また自転車に乗り、ポストに投函へ。 二度目は、サンダル履きで出たので、寒いったらありません。 サンダルは、夏の履物だと、つくづく、再認識しました。 それでも、年賀状一枚、拵えたおかげで、2015年の元日に何をやったか、思い出が一つ、出来ました。 私自身が、会社とは無関係になった事だし、たぶん、来年は来ないでしょう。 その方が、正直、ありがたいです。


  私は、自分から出す年賀状を、とっくにやめているのですが、両親は続けていて、母が、「手書きは、かっこ悪い」と言うので、もう、10年以上、私が宛名をプリントしています。 私の感覚では、手書きの方が価値があると思うのですが、年寄りは、考え方がまるで逆なんですな。 古い言い方で言うと、「体裁ぶる」のです。 愚かしいことよ。 で、私自身とは、直截交渉のない、親戚や両親の友人達の宛名を、私が印刷させられているわけです。

  そういう事情を踏まえての話ですが、1月5日になって、年賀状が、二通来ました。 届いた日にちから考えて、こちらが出したのに対する、反応として、出されたものです。 その内の一通が、「名前の字と、住所の番地番号が間違えている」という指摘付きでした。 宛名印刷担当者としては、絶句せざるを得ませんな。

  名前の字を間違えたのは、私の入力ミスですが、番地番号の方は、向こうが去年引っ越して、知らせて来た新しい住所の内、「11」というのが、漢数字で書かれていた為に、母が、「二」と読み間違えて、名簿を訂正し、私はその通りに打ち込んだもので、私のせいではありません。 その相手は、しょっちゅう引っ越してばかりいる私の従妹でして、そのつど、住所を打ち直さねばならず、前々から、面倒な奴だと思っていたのですが、今回、間違いを指摘された事で、さすがに、カチンと来ました。

  「今日になって、修正指摘の年賀状が来たという事は、こいつは、今年、二通送って来たのか?」と、母に問い質したところ、なんと、元日には来ておらず、今日来たのが、一通きりだとの事。 つまり、返信だったのです。 向こうは、元旦に届くように出す年賀状の相手に、うちを入れていなくて、毎年、うちから行った年賀状の返事として、よこしていたんですな。

  これにはたまげた。 相手にたまげたのではなく、そんな相手に、何年も年賀状を出し続けていた、母に呆れたのです。 何たる、愚かさか。 向こうが、元旦に届くように出していないという事は、つまり、やめたがっているのであって、こちらの意思だけで、無理やり続けたって、迷惑なだけです。 それが分からんか? これだから、年寄りは・・・。

  もう一通の方は、近所に住んでいる親戚ですが、その家からも、もう何年も、元旦に年賀状が来る事はなく、こちらが出した返事として来ているだけだとの事。 なんで、そんな家に、いつまでも、年賀状を出し続けているのか、まったく気が知れません。 「不義理になるから」と考えているのかも知れませんが、先に不義理をしたのは、向こうなのであって、そんな相手に、こちらが、義理を感じる必要はありますまい。 むしろ、不義理を承知で出さないようにした相手に対し、いつまでも、年賀状を送り続けていたのでは、迷惑行為になってしまうではないですか。 まるで、年賀状ストーカーです。

  恐らく、母の本音としては、歳を取るに連れ、どんどん、つきあいが狭くなって行くので、極力、年賀状をやり取りする相手を減らしたくないのでしょう。 何を思い違いをしているのやら。 自分達が、あと何年も生きられない年齢である事について、真面目に考えた事がなく、親戚や友人とのつきあいが、永久に続くと思っているのです。 うちの両親の口から、いわゆる、「終活」について、話が出た事は一度もありませんが、「自分は、数年以内に、死ぬはずがない」と信じて疑わないのですから、出るはずもなし。

  とりあえず、「次からは出さないようにする」という事で、母と話が纏まりましたが、今年の暮れになったら、すっかり忘れて、また印刷しろと言うに決まっています。 私が管理しているリストの方に、注意書きを入れておいて、そうなったら、もう一度説得して、やめさせるしかありますまい。


  そもそも、年賀状などという、習慣がよくありません。 こんなの、昔は、なかったんですよ。 1949年に、お年玉クジが付くようになってから、一般化したのであって、成人式同様、「作られた伝統」なのです。 バレンタインデーに、菓子屋に踊らされるのと同様、郵便局に、よーく踊らされているのですよ。 他に誰が、得をするんですか? 切手シート貰って、幸福を感じる人は、年賀状を買うのに使ったお金で、直截買えば、もっとたくさん、買えますよ。 まったく、馬鹿馬鹿しい。 成人式の女の晴れ着と同じくらい馬鹿馬鹿しいと言えば、どれだけ、途轍もなく馬鹿馬鹿しいか、程が知れようというもの。

  うちの両親なんて、人づきあいが苦手なので、親戚とも友人とも、会うなんて事は、滅多にありません。 親戚はともかく、会わない友人は、すでに友人ではなく、昔の知り合いに過ぎないのですが、とにかく、会わないのです。 「会わないから、年賀状だけでも」と言うのですが、それは、建前に過ぎず、どうも、「生きているか、死んだか、探りを入れたい」というのが、本音らしい。

  地方新聞の死亡欄ばかり、熱心に読む年寄りというのがいますが、あれは、自分の知り合いが、先に死なないか、待ち侘びているんですな。 友人知人よりも、一日でも長生きすれば、それが、自分の勝利だと思っているのです。 しょーもな。 どんだけ、次元の低い勝負なんだよ。 そんな事でしか価値を測れない人生なんて、そもそも価値がありますまい。

  そういや、クラス会や同窓会に出席したがる人間の心理も、同じですな。 昔の級友が、自分より惨めな人生を送っている事を、確かめる為に、やしやし、出かけて行くのよ。 もー、やらしーったら、ありゃしない。 「行かないと、悪口を言われるから」? 最初から、一度も行かなければ、思い出されもしないから、大丈夫ですよ。 第一、来ない人間の悪口を言うようなクズどもに、人並みに評価されても、何の価値もないじゃありませんか。

  卒業後、クラス会なんて、ずっとやっていなかったのに、30歳くらいになったら、突然、企画され、出欠を訊ねる手紙が来たという場合、大概、幹事が言い出しっぺです。 なぜ、言い出したかというと、自分が勤め先で出世して、「長」が付く身分になったもんだから、それを自慢する為に、昔の級友を掻き集める必要があったわけですな。 とことん、くだらねー奴。 で、クラス会の席で、自分より出世している奴がいないと、「これからは、毎年やろうぜ」と言って、年に一回、優越感に浸ろうとするわけです。 こういう馬鹿を封じ込める手としては、とりあえず、断っておき、翌年からは、そいつだけ外して、集まるのがいいでしょう。


  また、脱線しておりますな。 年賀状というと、私には、嫌~な思い出があります。 ファミレスで、アルバイトしていた頃の事ですが、電話の連絡網を作るという話から、従業員の住所を書いた名簿が作られ、全員に配られました。 今のように、個人情報が重要視されていなかった時代の事です。 正月が近づいていたので、「住所が分かった以上、世話になっている社員の人には、年賀状を出した方がいいかなあ」と思い、何通か出しました。 ところが、新年明けて、店に出たら、その内の一人が、ゲラゲラ笑いながら、私をからかうのです。

「なーにぃ、年賀状なんて、よこしてー」

  大笑いですよ。 最初は、何がおかしいのか、全く分らなかったのですが、様子を観察するに、どうも、その人にとって、年賀状というのは、笑ってしまうような古臭い習慣で、そんなもの出す奴の気が知れなかったようなのです。 ちなみに、1988年です。 もちろん、その人からは、返事は来ませんでした。

  それ以来ですかね。 自分の方から出さなくなったのは。 笑い者にされたのでは敵わないから、というわけではありません。 笑い者にされたのは、嫌な記憶ですが、その人の考え方は、間違いではないと、判断したからです。 出さなくていいのなら、出さない方が、ずっと楽ではありませんか。 何が一番、楽だと言って、年賀状をやり取りする相手を確保する為に、つきあいたくもない奴と、つきあう必要がないのが、素晴らしく、気楽です。 また、昔の知人が死ぬのを心待ちにするような、低劣な人間にならなくて済むのもありがたい。

  歳を取って、引退して、つきあいが減れば、みんな、気がつくと思いますが、人づきあいなんて、いくら熱心にやったって、何の果実も得られない事は、明々白々です。 「つきあいだから」と言って費やされる、お金が、時間が、どれだけ多い事か。 うちの父なんて、親戚や友人知人の子供の結婚式に、何十回出席したか分かりませんが、合計200万円は楽に超えると思われる祝儀のリターンは、兄の結婚式だけで、まったく、元が取れませんでした。 馬鹿臭い。 何の為に稼いでいたのか分からん。

  私も、会社にいた時、結婚する同僚に、祝儀を渡したり、中途退職する後輩に、餞別を包んだり、家族を亡くした先輩に、香典を出したりしていました。 25年間で、合計、10万円くらいは飛んだと思いますが、私は、在職中に、結婚もしませんでしたし、親も死ななかった上に、退職した時には、知り合いがいない岩手でしたから、餞別も貰えず、リターンはゼロでした。 かつての同僚達に会う事は、もうないわけで、ただの払い損です。

  みんな貧しかった昔なら、いざ知らず、今では、ギリギリのところで助けてくれる他人なんて、いないのですよ。 生活に困ったら、役所へ行って、生活保護を申請するのが、唯一、真っ当な解決法です。 親戚の家に転がり込んだりしたら、害虫扱いですぜ。 友人の家なら、ウイルス扱いです。 そういう時代なんですよ。 つきあいなんて、もはや、何の利益も生みません。 「他人を助けてやれば、いつか、自分も助けてもらえる」という発想が、すでに、下司だ。 「他人を助けるな」とは言いませんが、それは、自分の生活を維持する事に、ゆとりがある人の特権だと思った方がいいでしょう。


  先ず、隗より始めよ。 不要なつきあいを断ち切るには、まず、年賀状からやめるべきですな。 とりあえず、年賀状が元日に来ない相手には、次の年から、出す必要はありません。 というか、出してはいけません。 向こうが、やめたがっているからです。 次に、一年に一回も会わない相手に対しては、こちらから打ち切る為に、正月になって、向こうから年賀状が来た後で、返事として、出すようにします。 何年か、それを続けていれば、その内、向こうから来なくなります。 来なくなったら、こちらも出さないようにして、おしまいにします。 この原則に従って、相手を減らしていけば、いずれ、ゼロになるはずです。

  年賀状だけのつきあいなんて、全部、切ってしまっても、何の不都合もありません。 「葬式に来てもらえなくなる」? 馬鹿おっしゃい! 死んだ後に、葬式に誰が来たかなんて、あんたにゃ、分からないんですよ。 そういう事は、死が、どういう事なのか、一度、じっくり、真面目に考えてから、言いなさい。 自分の葬式の参列者の心配など、この世で最も、栓がない事です。

  大人になってからも、仲が良い親友がいるという人は、素直に、幸福な人だと思いますが、そういう相手とは、しょっちゅう、顔を合わせているわけですから、それこそ、年賀状などは不要でしょう。