2014/12/21

ケチは、一日にして成らず

  このブログを前から読んでいる方々は、私が、かなりのケチである事を知っていると思いますが、私も、生まれた時からケチだったわけではありません。 子供の頃は、そういう意識は全くありませんでした。 小遣いなんて、貰った端から使ってしまい、一ヵ月の内、無一文の日々が、3分の2以上あるのが普通でした。

  ちなみに、私が子供の頃、貰っていた小遣いは、月に600円でした。 今の物価なら、1500円くらいの価値ではないかと思うのですが、いずれにせよ、知れたもので、漫画の週刊誌を3冊くらい買えば、消えてしまう僅かな金額でした。 両親は共稼ぎで、母は公務員だったので、特別、貧乏というわけではなかったのですが、客観的に見て、世間では、中の下くらいの生活ではなかったかと思います。

  小学生の間は、ずっと、600円で、中学になったら、値上げしてもらえるかと思いきや、何と、ゼロになってしまいました。 月々の小遣いは廃止になり、正月に貰う、お年玉を基本に、足りない分は、必要な時にだけ渡す、という方式に変わったのです。 大きな抵抗をした記憶がないので、その方式でも、不満がなかったのでしょう。

  中学になると、駄菓子屋に行く事もなくなるわけで、30円、50円といった、小さい金額が、毎日のように出て行くパターンから、文庫本や雑誌、プラモデルといった、数百円から、千数百円くらいの額が、月に一度か二度、出て行くというパターンに変わりました。 一番、お金を喰っていたのは、プラモデルで、35分の1の戦車が、1500円くらいしていたと思います。 しかし、カタログを眺めて、何を買うか吟味し始めてから、実際に買い、塗装して、組み立て、本棚に飾って、達成感に浸り終わるまでに、そこそこ日数がかかるので、お金を蕩尽するという感じではなかったです。

  プラモデル作りは、高校2年の時まで続きますが、ある時、兵器物が嫌になり、ピタリとやめてしまいました。 最後に買った、ドイツのⅣ号戦車は、結局、組み立てないまま、捨てました。 最終状態で、35分1が5・6台、48分の1が30台くらいはあったと思いますが、全部、ゴミ袋に押し込んで捨ててしまい、今では、一台も残っていません。 その後、車のデザインに興味を抱くようになり、三台ばかり買って作りましたが、全く面白くなかったので、プラモデルとは、それっきりの縁になりました。

  これを言っては、モデラーの人達の趣味を全否定してしまう事になるのですが、所詮、模型は模型なのであって、本物とは違うのです。 それを実感する典型的な特徴として、「匂い」が挙げられます。 戦車でも車でも、本物は、鉄臭かったり、油臭かったりするのであって、プラモデルのような、プラスチックや接着剤の匂いなんかしません。 それに気づいた時は、ちょっしたショックを受けました。 で、「どうせ、まがい物なら、三次元でも、二次元でも変わらない」と思って、雑誌の世界に乗り換えたのです。

  話を戻します。 高校卒業後、私は、3年間、引きこもっていたので、お金は、ほとんど使いませんでした。 相変わらず、お年玉を貰っていて、たぶん、1万円くらいだったと思いますが、それをチビチビ使って、暮らしていたのです。 引きこもりの間に買っていたというと、ほぼ全て、小松左京さんと、筒井康隆さんの文庫本ですな。 当時、文庫本は、300円程度でしたし、3年間で、70冊くらいですから、お年玉3年分で、充分間に合っていたんですな。

  随分と、セコい生活のように見えると思いますが、私は、この時点では、まだ、ケチにはなっていません。 お金がなかったので、使えなかっただけです。 あれば、もっと使っていたと思います。 ただし、親に、お金をせびってまで、欲しい物もありませんでした。 高校生の頃に、モデラーをやめる経験をしていた事で、趣味の限界について、薄々感づいていたのかも知れません。 少なくとも、「お金がかかる趣味は、長期間、続けられない」という事を、身を以て知っていたのは、間違いありません。 

  3年間のひきこもりの後、当時、普及し始めだった、ワープロが欲しくなり、一大決心をして、働く事にしました。 実は、その前に、親に頼み込んで、安いワープロを買ってもらったのですが、それが、液晶パネルが一行しかない、およそ、実用性のかけらもない代物だったのです。 ちなみに、東芝の≪ルポ≫でした。 ノート・パソコンのような、大画面の液晶パネルを付けたモデルも出ていましたが、まだ、10万円以上して、とても、手が出なかったのです。 液晶パネル一行の、≪ルポ≫ですら、3万円もしたのだから、隔世の感あり。

  「こんなの、使い物にならん!」と、早々に見限ったものの、ひきこもりの身で、親に、「もっと高いのを買ってくれ」とは言えません。 で、自分で働かざるを得なくなったという流れです。 「そんな安直な動機で、ひきこもりから、脱却できるのか?」と思うかもしれませんが、私の場合、できたのです。 それだけ、熱烈に、ワープロが欲しかったのだとも言えます。 必要は、独立の母ですな。

  と言っても、何の伝もないので、新聞の折り込み広告に入っていた求人のチラシを見て、植木屋の見習いになる事にしました。 個人でやっているところだから、いろいろと面倒を見てもらえるだろうと、それなりに打算していたのです。 電話したら、割と簡単に雇ってもらえました。 打算は的中し、確かに、面倒は見てもらえたのですが、仕事があまりにもきつくて、参ってしまいました。 植木屋にもいろいろあって、金持ちの屋敷に専属で入って、呑気に手入れだけしているところもあれば、一般家庭を対象に、半日単位で、ガシャガシャと仕事をして回る、猛烈に忙しいところもあり、私が勤めたのは、後者だったのです。

  休みは、雨の日だけで、雨が降らなければ、連続一ヵ月働き続ける事もあります。 日当制なので、働けばそれだけ、収入になったのですが、体の方がもちません。 植木屋というと、木の枝を切っている姿を想像すると思いますが、それは、一般的なイメージに過ぎず、仕事の半分以上は、穴掘りです。 穴掘りの厳しさは、植木屋の見習いと、兵隊くらいしか知らないのではありますまいか。

  枝を切る方は、神経を使います。 形を整えればいいわけですが、木は一本一本、違う形をしているので、それを一定の型に持って行くのは、至難の業です。 間違えて切ってしまえば、もう、やり直しは利きません。 また、木の切り方というのは、種類によって違い、場所によって違い、季節によっても違うので、それらの組み合わせを、全て頭に入れなければ、本来、手入れなどできないのですが、親方も先輩も、それを、言葉で教えてはくれないのです。

  「見て覚えろ」というわけですが、見習いとは言うものの、何かしら、作業はさせられるわけで、人の仕事を見ている暇など、一秒もありません。 「職人の技は、盗む物だ」とか、利いた風な言葉を口にする人がいますが、自分でやってみれば、そんなカッコいい世界ではない事が分かります。 本に出ている事でもないし、すぐに、途方に暮れますよ。 教えなければ、仕事ができないのだから、まず、教えればいいのに、頑なに、教えないのです。 どういうつもりなんだか、理解に苦しみます。

  後に、ドナルド・キーンさんの本を読んだら、「日本の職人の世界では、3ヵ月で覚えられる事を、10年かけて習う。 彼らが、見習いに仕事を教えないのは、自分の仕事を取られるのを避ける為だ」と書いてあって、そのものズバリではないものの、だいぶ、真理をついていると思いました。 付け加えるならば、自分達が、見て覚えたので、教え方を知らないのだ、という理由も大きいと思います。 そんな合理性のない事をしているから、後継者がいなくなってしまうのですがね。

  私は、自分が経験しているので、「後継者がいない」と嘆いている職人を見ても、何の同情心も湧きません。 自業自得だと思います。 消えるべくして、消えて行くのです。 昨今、庭を造る家が激減していますから、植木屋も、いずれ、消滅するでしょうが、何の感傷も覚えません。 仕事を教えないくせに、「お前は、勉強が足りない」などと、無茶苦茶な事を言って、劣等感ばかり背負い込ませる職種など、絶滅大歓迎だと思います。

  仕事とは別に、鋏を毎晩研がなければならないのが、辛くてねえ。 家の中の流しでは、汚れてしまうので、外の流しで研ぐのですが、寒くなってくると、これがきつくて、参りました。 ゴムの手袋も毎日洗うのですが、あれも、きつかった。 親方はいいんですよ、手袋なんかは、奥さんが洗ってくれるから。 こっちは、家族全員、働いているから、私の手袋は、私が洗うしかありません。 指を一本一本引っ繰り返さなければならないので、手袋だけで、20分はかかるのです。 毎晩ですよ。 今思い出しても、ぞーっとします。 あんな生活は、二度としたくないです。

  話を戻しますが、給料は、そこそこ貰っていました。 20万円以下というのは、梅雨時で、仕事が少ない月だけだったと思います。 車の免許を取るのが就職の条件だったので、初めの頃の給料は、教習所の費用と、中古車の購入代金で消えましたが、4月から働き始めて、10月には、念願のワープロを買う事ができました。 あの時だけは、嬉しかったなあ。 パナソニックの、9インチ・モノクロCRTがついた、据え置き型で、13万円くらいしました。 それは、その後、パソコンに切り換えるまで、15年、使う事になります。

  ワープロの為に就職し、就職の条件として、車を買ったので、車そのものに夢中になるという事はありませんでした。 前述したように、高校時代から、ひきこもり時代にかけて、車のデザインに興味を持ったものの、自分で所有したいという欲望は、あまりなかったのです。 ちなみに、4年落ちのを買った中古車は、初代のダイハツ・ミラで、一番安いグレードでした。 550ccのマニュアル車。 色は、アイボリーに近い白。 その後、6年間持っていましたが、車にかけた、お金というと、ステレオを付けたのと、使いもしないのに、スタッドレス・タイヤを買っただけで、合計、5万円も行かなかったと思います。

  植木屋は、1年3ヵ月で、耐えられなくなって、やめてしまい、その後、派遣会社に登録して、コピー機工場で、半年働きますが、この時も、給料は、毎月20万を超えていました。 バブル時代に差しかかった頃です。 このコピー機工場の仕事は、植木屋より、ずっと良かったです。 体も楽でしたが、何より、教えられた事だけやっていればいいので、気が楽で、毎日、ウキウキしていました。 ところが、いい事は、得てして、長く続きません。 その年の暮れに、「生産量が減った」という理由で、派遣会社ごと、切られてしまいます。

  「ああ、派遣社員というのは、こういうものなのか」と思い、たまたま、その時、胆石の手術で入院したのを口実にして、その派遣会社も辞めてしまいました。 いつまでもいるところではないと思ったのです。 コピー機会社の正社員と比べて、派遣社員が、いかに立場が弱いかを、身を以て体験できたのは、いい勉強になったと、今ならば言えますが、当時は、惨めな気分でしたよ。 何の落ち度もないのに、職場から追い出されてしまったのですからね。

  その頃には、「人生は、お金がなければ、何もできないのだ」という事を痛感していたので、コピー機工場で働きながら、夜、ファミレスで、バイトもしていました。 ファミレスのバイトは、コピー機工場より、もっと楽で、女の子もたくさんおり、雰囲気が明るくて、楽しかったです。 実は、コピー機工場も、9割くらいは、若い女性社員だったんですが、地味な性格の人ばかりで、逆に不気味でした。 職場の雰囲気が性格を作ってしまうんですな。

  で、胆石の手術をして退院したあと、派遣会社は辞めて、アルバイト一本で、3ヵ月暮らし、4月になる直前、ふと思い立って、東京の専門学校へ行こうと決意しました。 私は、まだ、人生を諦めていなかったのです。 努力次第で、輝かしい未来が手に入るのではないかと、夢想していたのです。 その時、植木屋と、派遣社員で稼いだ金が、140万円ありました。 専門学校は、2年制で、1年の授業料が、70万円だったので、使いきってしまう事になりますが、若気の至りで、「未来を買うなら、惜しくはない」と思っていたんですな。

  で、夜、沼津でバイトを続けながら、昼間、東京へ通うという、殺人的日課で、暮らし始めました。 東京に住むとなると、お金が、すぐに足りなくなるから、そうせざるを得なかったのです。 「フレックス・パル」という、新幹線の定期を買った月もありましたが、それは高いので、ほとんどを普通列車の定期で通いました。 片道、3時間、往復、6時間。 それに、バイトと、授業。 よくもまあ、あんな生活を続けていたものです。 

  ところが、年が明けた頃、その専門学校が、駄目な所だと分かりまして・・・。 「就職先がないらしい」という噂が広まり、あちこち聞いてみると、それが本当らしいと思われたので、教師を捉まえて、膝詰めで問い質したら、「就職先はあります」と言われたものの、どうにも、頼りにならない感じが、濃厚に漂っています。 他の生徒は、高校出立てで、世間知らずでしたが、私は、一度、社会に出ているので、その種の胡散臭さには、嗅ぎ覚えがあったのです。 別に、そこが、悪意で運営していたと言うつもりはありませんが、実際問題として、就職ができないのでは、専門学校に通う意味がありません。

  忘れもしない、2月の中頃の、土曜日の午後の事です。 2年目の授業料を払うべきか否か考えていた時、「はっ!」と気づいたのです。 「学校なんかに通っている場合ではない!」という事に。 すでに、23歳になっていて、就職の機会は、どんどん遠退いています。 このままでは、人生を棒に振ってしまうかもしれない。 頼りにならない専門学校なんかを当てにしているより、職安に行くべきなのではないか? バイトは、まだ続けていましたが、そちらで様子を聞くと、好景気で、あちこちで、正社員を募集しているという情報が入って来ていました。 ほんの数分の内に、考え方が変わり、学校はやめて、自力で職を探す事に決めました。

  ちなみに、派遣社員時代から、専門学校時代の1年半の間は、忙し過ぎて、趣味どころではなかったので、通学定期代以外、お金が出て行く事はなく、貯金は、70万円のまま、そっくり、残っていました。 この期間に買ったもので、記憶に残っているというと、カシオの、ソーラーの腕時計くらいですかね。 3000円くらいので、すぐに壊れましたけど。

  で、専門学校は、すっぱり、やめてしまい、バイト先で得た情報を頼りに、地元の自動車工場に勤める事にしました。 一応、職安を通して、面接に行きましたが、試験などはなくて、高校卒業資格さえあれば、誰でも採用するという状況でした。 時は、バブルの真っ最中だったのです。 その日の内に、健康診断が行なわれ、「○日から来て下さい」と言われました。 1989年、つまり、昭和64年にして、平成元年ですが、その年の、3月1日付で就職。 その後、半年間の準社員期間を経て、正社員になり、合計、25年と5ヵ月、勤める事になります。

  今にして思うと、あの、1989年2月の、土曜の午後の決断がなければ、その後の私の人生は、全く変わったものになっていたでしょう。 そもそも、人生が成立したかどうかも怪しいです。 バブルの時代の大波に乗って、比較的大きな会社に潜り込めたから、これまで、生きて来られたのであって、もし、あのまま、専門学校に通っていたら、就職できず、フリーターで、死ぬまで働き続けなければならなくなっていたかもしれません。 あの、土曜の午後は、私の人生の、ターニング・ポイントだったのです。

  いとも容易に就職したものの、たまたま、その会社が、東証一部上場企業だったので、給料とボーナスは、中途採用とは思えないくらい、多かったです。 もっとも、ずっと、ヒラでしたから、会社の中では、少ない方だったのですが。 工場というのは、当人に、その気があって、ライン終了後の残業を嫌がらなければ、一応、誰にでも、出世の機会が回って来るのですが、私がヒラで通した理由は、人を使うのに向かない性格である事を自分で知っていた事と、仕事より私生活の方を重視したかったからです。

  上司から、「上に上がる気はないのか?」と訊かれた事が、二回ありましたが、間髪入れず、「全くないです」と答えました。 むしろ、そんな事になっては、困るのです。 気楽に過ごせると思うから、工場に勤めたのであって、部下を持って、責任を負わされたりした日には、胃に穴が開いてしまいます。 給料さえ、貰っていれば、それで充分だったのです。 私が就職した頃は、「私生活重視」という考え方の人間が少なくて、職場で異端視されていましたが、今の若者は、むしろ、私のような勤め方に、一つの理想モデルを見出すんじゃないでしょうか。 20年以上遅れて、世の中の方が、私に追いついて来た感があります。

  労組の職場委員という役があり、若い社員を中心に、回り持ちで、1年間受け持つのですが、これが、見るからに、面倒臭そうな仕事で、職場で30人ほどを相手に、カンパ金を集金したり、冊子を配ったり、職場討議を開催したり、休日に大会に参加したり、メーデーに出たりと、半端でない迷惑さ。 「そんなものになったら、1年間、ドブに捨ててしまう」と恐れていたのですが、中途採用だったせいか、私のところには回って来ず、25年間、一度もやらずに、逃げ切る事ができました。 今思い出しても、幸運だったとしか言えません。

  給料は、手取りで、初任給が、23万円。 最も少なかった時は、18万円くらい。 最も多かった時は、40万円くらい。 25年間を平均すると、30万円より、ちょっと少ない程度になるのではないかと思います。 ボーナスは、大体、50万円くらい。 フリーターで暮らしている人から見ると、思わず、涎が出るような金額かも知れませんが、私は、生涯、ヒラだったので、これでも、少ない方です。 会社にいる間、ボーナス支給額が、全社平均を上回った事が一度もありませんでしたから。

  「それだけ貰っていて、なんで、ケチになったのか?」と思うでしょうが、それにも、ターニング・ポイントがありました。 就職して、1年経った頃、親元にいつまでもいるのが嫌になり、最初は、会社の寮に入ろうと思ったのですが、そちらは、二人部屋だというので、耐えられそうにないと思って、断念。 で、家を出て、アパート住まいを始めたのです。 家賃の安さだけで選んだので、ひどい所に入ってしまい、ゴキブリやネズミと格闘して、うんざりした事もありますが、それより何より、独り暮らしが、想像していたような楽しいものではない事に気づき、3ヵ月で、家に戻ってしまいました。

  独立計画自体は、失敗だったわけですが、この時、3ヵ月間、一人で生活したお陰で、家計についての考察が深まりました。 一日に、食費がいくら必要で、一ヵ月の家賃・光熱費がいくら必要か、そういう事を計算する機会に恵まれたわけですな。 若い頃は、健康に大した注意を払っていないもので、「食い物なんて、格好だけ、腹に入ればいい」と思っていて、最初は、食費を、月5千円で上げようと目論んでいましたが、いくら、24年前と言っても、その金額では、御飯と、食パンと、袋ラーメンばかりになってしまいます。 で、その生活は、崩壊したわけですが、一度でも、そういう、「最低必要限度」の計算をした事があると、お金の価値に関する考え方が、まるで、違って来るのです。

  人間というのは、着たきり雀でも、ホームレスでも、生きられますが、食べる物がなくなったら、すぐに死んでしまいます。 衣食住の内、図抜けて大切なのは、「食」なわけだ。 で、その、「食」の基本になる、最低限必要な費用を基準にして、いろいろな物の価格を見てみると、あらゆるものが、高く見えて来るのです。 今の物価で、大体、一食当たり、200円くらいあれば、御飯に、レトルト・カレーをかけ、キャベツのサラダと、冷凍食品のミニ・ハンバーグを一つ二つ付けて食べても、収まると思います。 袋ラーメンならば、ウインナー2本に、キャベツやもやしを入れ、卵も付けられる。 200円というのは、そのくらいの価値なのです。

  一食200円なら、一日三食で、600円。 十日で6000円。 一ヵ月で、18000円ですわな。 つまり、2万円あれば、食費に関しては、一ヵ月、暮らせるわけだ。 平均的な地方都市で暮らすとして、家賃5万円のアパートを借りた場合、食費2万円、光熱費2万円、その他、雑費1万円と見ると、月に10万円あれば、そこそこ文化的な生活が成り立ちます。 一年で、120万円。 十年で、1200万円。 親元を離れ、独立して生活する期間が、80年と仮定すると、9600万円あれば、一生分、賄える事になります。 大体、1億円と考えれば、ゆとりも出る。

  これねえ、人によって、二派に分かれると思うのですよ。 一生の間に、一度でも、こういう計算をした事がある人と、ない人です。 自他共に認める、よく言えば、倹約家、悪く言えば、ケチ、気取って言えば、吝嗇家という人達は、必ず、この計算をした経験があると思うのです。 でなきゃあ、お金があるのに、使わないなんて、逆に、不合理な態度に見えるでしょう?

  基本から計算すると、200円というのが、どのくらいの価値なのか分かるから、軽々に使えなくなってしまうんですな。 どんな商品の値段を見ても、「これを買わなければ、何食分、食べられるか?」という、計算をしてしまうのです。 「何食分、食べられるか?」という事は、すなわち、新たな収入がない状態で、「あと、何日間、生きられるか?」という事です。

  現在、学生で、まだ、社会に出ていない人達は、「1億円」などと聞くと、「一生、縁がない」とか、「宝くじでも当たればね」とか、考えてしまうと思いますが、そんな事はないのであって、あなたの親も、1億円くらいは、すでに稼いでいます。 大体でいいですから、給料とボーナスの額を教えてもらって、一年間の手取り収入を計算し、1億を、それで割ってみなさい。 驚くような年数にはならないから。  みんな、そのくらいは稼いでいるのです。 ただし、稼ぐ一方で、今までの生活で使ってもいるから、残っている金額は、遥かに少ないというわけです。

  そんな計算は、一度もした事がないという人達、なかんずく、アルバイトから職歴を始めて、「稼いだ金は、全部使うのが、当たり前」と思っている人達は、是非一度、試してみる事をお勧めします。 時間も手間も、大して、かかりません。 電卓一つあれば、30分くらいで、自分の人生の将来を垣間見る、様々な計算ができると思います。

  あまり若い内に、この計算をしてしまうと、一番お金を喰う、人付き合いができなくなり、友人ゼロで、結婚もできないというコースに入ってしまい兼ねませんが、30年前なら、そんな生き方は、話にならなかったものの、今なら、生涯独身者は、それほど珍しくないので、歳を取ってから、お金がなくて、お先真っ暗になってしまうよりは、ずっとマシという考え方もあります。 若い内から蓄えに励む事が、人生運営の安全策であるのは、間違いありません。

  というか、私は不思議でならないのですが、別段、高給取りでもないのに、金離れのいい人間と、結婚する人の気が知れません。 お金を気前よく使ってしまう人は、当然の事ながら、蓄えが少ないか、何もないか、借金しているかの、いずれかであって、そんな人間と結婚したら、最終的に、ツケを回されるのは、自分なわけですが、そういう危険性について、事前に検討しないんですかね?

  離婚する夫婦の何割かは、お金が原因だと思うのですが、相手が、金遣いが荒いか否かくらい、交際期間中に見ていれば、馬鹿でも分かりそうなものです。 男だったら、車をしょっちゅう買い替えているとか、女だったら、ブランド品を山ほど持っているとか、そんな奴は、要注意どころか、接近禁止ですぜ。 自分の稼ぎを、全部喰い尽くされた挙句、離婚した後まで、慰謝料を毟られるのがオチです。 地獄だね。 別に、極端なケースではなく、日常的に、よく聞く話でして、誰でも、親戚や友人に、一人は、そんな目に遭っている人がいるのではないでしょうか。

  「でも、ケチと結婚するのもねえ・・・」という気持ちも、よく分かります。 お金の問題で、他人に振り回されたくなかったら、結婚しないのが、一番、安全ですな。 昨今、離婚して、シングル・マザーになり、喰えなくなって、売春しているという、アホな女性が多いようですが、後々、子供に顔向けできないような仕事をする前に、なんで、実家を頼らないのか、不思議でなりません。 「親の反対を押し切って、結婚したから」という経緯のある人でも、大丈夫。 大抵の場合、孫付きで帰れば、渋々ながら赦され、内心では、歓迎されます。

  そもそも、最初から、結婚せずに、交際だけして、子供を産んで、実家で育てれば、一番、効率的なのでは? 親に孫の世話を頼めば、仕事にも出られますし、一石二鳥ではありませんか。 配偶者の親と暮らすのは、地獄だけど、自分の親となら、何の抵抗もありますまい。 「子供には、父親が必要だ」なんてのは、まことしやかなだけの、嘘うそ大嘘でして、子供に必要な存在があるとすれば、父親ではなく、「大人の男」なのであって、それは、祖父でも、一向に構わないのです。

  平安時代の貴族が、大体、そんな婚姻形態を取っていましたが、今後、そういうのが増えて来るのではないでしょうか。 「そんなの、何代も続けられないだろう」と思うかもしれませんが、それが、続くんですよ。 嫁入りも、婿入りもないので、性別に関係なく、成長しても、実家に残るわけで、たとえば、娘を軸にして考えると、自分の父親が死んでも、兄か弟がいれば、家から、男手がなくなるという事がありません。 その家を継ぐのは、娘が生む子供で、息子達は、よその家の女との間に子供が出来ても、女の家の方で育てるので、実家を離れる必要がないのです。 この方式が優れているのは、一つの家に住むのが、血縁者だけになるという点でして、嫁姑の血で血を洗う争いなどとは無縁です。


  なんか、取り止めがない上に、最後には、大幅に脱線してしまいましたが、つまりその、私が、ケチになったのには、理由があったという事を、書きたかったのです。 私の人生自体が、成功したとは言い難いので、あまり、人には勧めませんが、多少の参考にはなるんじゃないでしょうか。