2014/10/19

利尻一周

  ようやく、沖縄旅行記が終わったと思ったら、次は、北海道旅行記で、「もー、旅行記は、えーがな」とは、誰よりも、私本人が、そう思っているのですが、乗りかかった舟同様、書きかけた旅行記も、書き終えてしまわないと、甚だ気分が悪い。 「それにしても、少し、間を置いてはどうか?」とは、私も思ったのですが、間を置くと、旅行記の執筆から解放されるのが、それだけ遅れるわけで、ますます苦痛が増しそうなので、続けて書いてしまう事にします。 いや、北海道の方は、5泊6日でしたから、6回で終わります。 ・・・それでも、6週間か・・・、公開が終わるまでに、一ヵ月半もかかるな。 私は、引退無職の身ですから、何ヵ月かかろうが、構やしないんですが、読む方が大変ですねえ。

  「沖縄から帰って来たのが、7月31日、北海道に出かけたのが、8月25日で、その間、24日間、何をやっていたか、まるで思い出せない」と、前回、書きましたが、日記を調べてみたら、やはり、大した事はしていませんでした。 バイクで、富士・富士宮に、ブックオフ巡りに行ったのを除けば、近場を自転車でうろついていただけです。 ホーム・センターや、作業着店を回って、北海道へ被って行く帽子を探していました。

  沖縄へ被っていった帽子が、もう何年も前に買ったもので、相当くたびれており、所々、生地の織り目が寄ってしまって、みっともなさを感じるほどだったので、「北海道旅行は、ホテルや貸切タクシーを使う最後の旅になるのだから、新しい帽子を買うか」と、珍しく、色気を出したという次第。 予算は、千円くらいまでを覚悟していました。 ところが、探し始めたら、今や、地方に於いては、帽子屋という専門店は存在しない事がわかり、服飾店では、種類を置いていないため、否が応でも、ホーム・センターや、作業着店に頼らざるを得ませんでした。

  帽子というのは、ロゴが付いているかどうかで、値段が全然違うのですが、特定企業を応援する気が全くない私は、無地の方が都合がいいわけで、どんどん安くなり、最終的には、ワークマンで、597円のを買いました。 ちっ・・・せっかく、千円出すつもりでいたのに、面白くない。 特定企業のロゴではなく、英文の文字が刺繍された物があり、そういうのは、千円前後するのですが、英文を読んでみると、くっだらねー事が書いてあんだわ。 「馬が大好き」 たぶん、競馬ファン向けに作ったんでしょうな。 そんなの被れるか。 また、鷲鷹類が翼を広げたような絵が刺繍してある物も多いですが、なんで、そういう攻撃的な図柄にしたがるかなあ。 まるで、敵を探しているみたいではありませんか。 同じ猛禽でも、せめて、フクロウにしてくれれば、まだ、知的なものを。

  そうそう、沖縄旅行の、辺戸岬徒歩行で、底に穴を開けてしまったスニーカーも、買い換えました。 こちらは、東京靴流通センターで、千円のを買いました。 前のは、2足で1500円のでしたから、少し、グレード・アップした事になります。 ブランドに拘らないなら、スニーカーなんて、千円以下で充分です。 特に男の場合は、すぐに汚れるので、高いのを買っても、無意味。 汚い靴というだけで、目を背けられてしまうのであって、どこのブランドかなんて、誰も気にしてくれません。 また、今時の千円靴は、外見上、3000円以上の靴と区別がつかない上、履き心地もいいんだわ。

  それ以外に、沖縄旅行との、装備上の違いというと、服装が変わりました。 沖縄へは、半袖シャツで行きましたが、○△商事の担当者にメールで問い合わせたところ、「北海道は、8月末でも、もう寒い」と言うので、長袖で行く事にしました。 プラス、防寒用に、フリース・ジャケットを持参。 旅行鞄は同じ物なので、ジャケットが嵩張る分、着替えと下着類を減らし、着ていく物と合わせて、各2着とし、毎晩洗う事にしました。 タオルは持たず、おしぼりタオルだけ。 目覚まし時計も、置いていきました。

  そういや、もう一つ、買って行った物がありました。 除菌ティッシュです。 首里城で土禁を喰らった後、国際通りの市場で買った物が、まだありましたが、残り僅かだったので、予め、買い足しておいた次第。 100円ショップで、「厚手・20枚入り×2パック」というのを買いました。 これだけあれば、ホテルのトイレの、便座除菌にも使えるでしょう。 沖縄じゃ、そのつど、トイレット・ペーパーを敷いていたので、面倒臭かったんですわ。

  沖縄旅行から帰って来た時点では、まだ、北海道の方の日程が決まっていませんでした。 台風で中止になった、西表島ツアーの代金を払い戻してもらうよう、○△商事に連絡したところ、その分の金額を、北海道の方へ回すとの事で、再調整され、8月5日に、日程表が届きました。 5泊6日で、「利尻島→礼文島→稚内→札幌→函館」と泊まります。 札幌が2泊で、そこにフリー・タイムが1日入りますが、それ以外の日は、全て、貸切タクシーに乗ります。 北海道旅行の定番である、美瑛、富良野、摩周湖、阿寒湖、知床半島、旭山動物園など、道東の観光地を、敢えて無視し、利尻・礼文を入れているのは、○△商事の担当者が、自分が行きたい所を入れたのではないかと思います。 私は、目的地について、一言も、要望を口にしていませんから。


  今現在、北海道旅行から帰って来て、すでに、一ヵ月半が経過しているわけですが、その間、沖縄旅行記を書く為に、沖縄の日記ばかり読み返していたので、北海道の記憶の方が、奥に入ってしまい、どちらが先だったか、感覚的に混乱するという、奇妙な気分に襲われています。 うーむ、シュールだ。 また、北海道には、去年(2013年)の10月末から、今年の1月半ばまで、仕事の応援に行っていて、苫小牧に2ヵ月半住んでいたので、新千歳空港などは、その時の記憶と重なり合って、ごちゃごちゃになってしまっており、尚更、シュール感が高まります。 北海道応援、岩手異動、入院、退職、沖縄旅行、北海道旅行と、北から南を股にかけて、今年は、いろんな事が、立て続けに起こり過ぎました。

  シュールな気分に囚われつつ、北海道旅行記を始める事にしましょう。 なに、日記を頼りに書くので、記述内容そのものは、シュールになるような事はないと思います。 期間が、約半分だったという事もあり、北海道旅行は、沖縄旅行より、シンプル且つスマートな印象が残っています。 強行軍をやらなかった事も、大きいですかね。 いや、結構、厳しかった日もあったのですが・・・。

  そういや、沖縄旅行記の途中、≪宮古島周遊≫の回の枕で、一週間前に北海道旅行から帰って来た事を告げ、「この一週間で、先に北海道旅行記の方を、書き進めていました」と書いていますが、それは、嘘ではないものの、そちらは、あくまで、公開日記用に書いたので、ダイジェストもいいところ。 読み返してみたところ、特に、利尻・礼文・稚内の三日分は、それぞれ、10~13段落くらいしかない、お粗末な物でした。 沖縄旅行記の方は、各回平均して、90段落くらいはありますから、比較になりません。 結局、三回分は、全て、書き直す事にしました。 沖縄旅行記さえ書き終えれば、楽になると思っていた私が浅はかだった。 最低でも、あと三週間は、地獄が続くか・・・。 こんなに苦労して、いつか何か、リターンがあるのだろうか?



≪家から、羽田まで≫
  結局、また、そこから始めるわけだ。 沖縄旅行では、羽田発の飛行機の時間が、11:55でしたが、北海道旅行では、10:15と、1時間40分も早かったので、家を出たのも、6時45分と、出勤並みの時間になりました。 出勤並みの時間という事は、ラッシュに重なるという事でして、出かける前から、嫌な感じがしました。 混んでいる所へ大きな旅行鞄を持ち込んで、通勤客に白い目で見られるのも敵いませんし、満席で座れないとか、もっとひどい場合、乗れないなどというケースも考えられます。

  で、ゆとりを持って、バス・電車の便を予定しておいたのですが、恐れていた程には、混雑しておらず、むしろ、早目早目に着いてしまいました。 7:00のバスで、沼津駅へ。 7:23の東海道本線で、三島駅へ。 7:38の新幹線で、品川へ向かいました。 バスは予定通りでしたが、電車の方は、どちらも、予定より、一本早い便に乗れました。 そーんなに急いでも、羽田で待つ時間が長くなるだけなんですが、まあ、遅れて、飛行機に乗れなくなるよりは、遥かにマシですな。

  新幹線は、さすがに、その時間帯では混んでいて、私は座れましたが、小田原から先になると、立ち客が出ました。 いつも思うのですが、高い特急券を買っているのに、立ち乗りしなければならないというのは、割に合わない気がします。 他人事でも、見ているだけで、腹が立つから、不思議。 そういや、新幹線では、自由席車両でも、優先席というのを見かけませんが、立ち客が出た時に、優先席が空いていると、問題があるから、設けないんでしょうか? 特急料金を取っていながら、立ち乗りさせる事を、少しは悪いと思っているのかな? 

  品川駅に着いたのが、8時25分くらい。 記念に切符を貰う為に、乗り換え改札は通らず、一旦、外に出ました。 品川駅は、改札の外に出ても、「自由通路」というのがあって、新幹線側から、京急側まで、屋内を通って行く事ができます。 この自由通路、幅が20メートルくらいはあると思うのですが、いつ見ても、人が、わらわらと歩いています。 この日は、通勤ラッシュの時間帯だったので、わらわらどころの話ではなく、水路に逆巻く土石流の如く、はたまた、大量発生したネズミの如く、人の奔流が押し寄せて、引きも切りません。 反射的に、酸欠を心配するほどの凄まじい光景でした。

  これだから、東京は・・・。 なに、品川は東京ではない? いやあ、同じようなものさ。 どうしてまた、こんな住み難い所に、固まって住んでるのか、つくづく気が知れぬ。 「都会にいれば、輝ける」と思っているんでしょうが、それは、考え足らずの思い違いというもので、大人口の中にいれば、一人一人は、むしろ、埋没するだけです。 人口千人の村と、一千万人の都会とでは、人一人の価値は、一万倍違うのでは? もちろん、村の方が、一万倍高いわけですが。 すげーな・・・、「一票の格差」どこじゃないよ。

  また、私が、ここの動線を知らないものだから、左端を歩いて行ったのが、大失敗。 「中央改札」に近づくと、山手線や京浜東北線から、どっと溢れ出て来た、人の波に遮られて、京急の切符売り場へ行けなくなってしまいました。 工事関係者の一団が、私と同じように、立ち往生していましたが、5分待っても、人波が途切れません。 その内、工事関係者の一人が、勇気を奮って、人波の中をすり抜けて行きました。 他の人もそれに倣ったので、私も続きました。 もし、その人達がいなかったら、あと何分待っていたか、分かりません。 これだから、東京は・・・、まあ、いいか。

  京急の券売機で、410円の切符を買い、ホームへ上がります。 何度も何度も書くように、羽田空港へは、「エアポート快特」に乗るのが、一番速いのですが、毎回、その事を忘れ、違う列車に乗ってしまいます。 沖縄旅行記に続けて、これを書いているので、読んでいる方々は、「アホちゃうか?」と思うでしょうが、私としては、沖縄旅行から帰って来た日から、この日まで、26日経っていたわけで、またしても、その事を忘れてしまったんですな。 この時乗ったのは、「エアポート急行」でした。 紛らわしい名前だ。 で、「急行」とは言うものの、単に、蒲田で乗り換えなくてもいいというだけで、れっきとした各駅停車なのです。 よう分からん名前やわー。 わて、分からんわー。 各駅停車なのに、なんで、「急行」やのん?

  こちらも、混んでいて、立ち乗りでしたが、京急の品川・羽田間は、ラッシュ時間であっても、ギュウギュウ詰めになるような事はないようです。 蒲田で、目の前の席に座っていた女性が下りたので、そこへ座りました。 隣の兄ちゃんが、居眠りしていて、肩に凭れかかって来るのが、気持ち悪い。 その内、目覚めたらしく、肩にかかる圧力がなくなりましたが、兄ちゃん、女性に凭れているつもりだったのが、気づいたら、オッサンだったわけで、さぞや、驚いた事でしょう。

  あのよー、たとえ、本当に眠っていたとしても、女性にしなだれかかっていたら、相手に、痴漢行為と見做され兼ねんぞ。 公共の場なんだから、ちったー、緊張しろよ。 寝ていいのは、新幹線のような、セパレート・シートだけだと思いな。 逆に、女性の方が眠り込んで、しなだれかかって来た場合、喜ぶ男が多そうですが、これまた、なりゆきによっては、痴漢扱いされる事になり兼ねないので、他に空いている席があったら、早々に移った方が、後難を避けられると思います。 とにかく、電車に乗ったら、「女は敵だ」と思った方が宜しい。 最悪、人生が破滅します。 どこの馬の骨とも分からん女と肩触れ合わす喜びより、人生を安寧に保つ事の方がずっと大切なのは、天秤にかけるまでもない事。

  9時10分頃、羽田空港に到着。 予約してある飛行機は、全日空なので、第2ターミナルの方へ上がりました。 第2ターミナルと言っても、広うござんす。 この時の航空券は、座席指定されていたのですが、座席番号だけで、搭乗ゲート番号が載っていませんでした。 一か八かで、向かって右側の「C・Dフロア」の方に上がりました。 チェック・イン・マシンに行ったら、「すでに、座席指定されているので、搭乗手続きは不要です」との表示。 保安検査場を通り、出て来た搭乗券を見ると、「55番ゲート」とあります。 一か八かの賭けは、八に出ました。 「C・Dフロア」は、右端の方であるのに対し、55番ゲートとは、左の端なのです。 まーた、歩くのか!

  羽田の待ち合い場は、広いんだわ。 動く歩道がありますが、それに乗ってしまうと、速度が遅いし、歩き難いし、床を普通に歩くより、却って、時間がかかります。 足が不自由な人でもない限り、お勧めではありませんな。 見ると、客よりも、専ら、航空会社の地上勤務員が利用しているようですが、ありゃあ、ゲート間を行き来するのに、歩いていたら、疲れてしまうからでしょうなあ。 もしや、本来は、業務用だったのか? それなら、大掛かりな動く歩道なんかより、キック・ボードか、セグウェイでも使った方がいいのでは?


≪羽田から、新千歳まで≫
  待ち合い場で、1時間ほど、日記を書いて過ごしました。 まだ、羽田も出ていない内から、日記とは、気が早いこってすが、時間がある時に書いておかないと、夜がきつくなるので、仕方ないのです。 アナウンスがあり、私が乗る便が満席なので、後の便にしてもいいという人は、申し出てくれれば、一万円払い戻すとの事。 「えっ! 一万円? 戻す戻す!」と、腰を浮かせかけましたが、後の便の時間が、11:50発だと聞いて、立つのをやめました。 羽田から新千歳まで、1時間半くらいかかるというのに、新千歳から、利尻へ向かう便が、13:10発なのですから、とても、間に合いません。 その後、また、アナウンスがあり、締め切ったと言ってましたから、応じた人がいたんですねえ。 1時間35分も遅くなって構わないというのは、一体、どういう用向きの客なんでしょう? 一万円か・・・、羨ましい・・・。

  満席のせいで、機内持ち込みできる荷物に、制限をかけるという放送もあり、心配していたのですが、乗ってみると、そちらは、問題ありませんでした。 予約していた航空会社は、全日空だったのですが、機体を融通しあうシステムとかで、実際に乗ったのは、エア・ドゥの飛行機でした。 エア・ドゥというのは、北海道を中心に路線を持っている、地方航空会社です。 もちろん、客室乗務員も、エア・ドゥの社員。

  機体は、≪B767-300≫で、沖縄旅行の時に、羽田から、石垣島まで乗ったのと、同形機でした。 2・3・2の、7席が、約42列で、約300席です。 沖縄から帰ってから調べたら、≪B767-300≫は、80年代にデビューしたとの事。 内装は、角ばっていて、エルゴ・デザインの名残りが感じられます。 80年代頃は、こういうのが、未来的なデザインと思われていたんですな。 私も昔、エルゴ・デザインに、未来を感じていた人間なので、この飛行機の内装には、奇妙な懐かしさを感じます。 あの頃は、まさか、こんなつまらない21世紀になるとは、想像もしませんでしたが・・・。

  機体は同じですが、エア・ドゥなので、シートのデザイン、シートの生地、ヘッド・レストのカバーなどが、全日空のそれとは、違っています。 そういうのは、オプションなんでしょうなあ。 そういえば、救命器具の使い方などを書いた、「安全のしおり」も、航空会社ごとに違うようです。 もろ、会社の名前が入っているものね。 安全ビデオの内容も違います。 ついでに、モニターの位置や数も違う。 共通なのは、天井のトランク・スペースだけ? オプションの自由度が利くのはいいですけど、乗客側からすると、そんな違いは、どうでもいいような気もします。

  10時20分頃、離陸。 私の席は、「25G」で、右の窓側でしたが、ちょうど主翼の上で、しかも、始終曇っていたので、下は、全く見えませんでした。 つまらんフライトだ。 ドリンク・サービスあり。 御当地航空会社だけあって、北海道産玉葱を使ったオニオン・スープなどがありましたが、無難なところで、コーヒーにしておきました。 カップに、企業キャラクターである、「ベア・ドゥ」という熊の顔がデザインされています。 裏側には、アイヌ模様の下に、「イランカラプテ」という文字。 アイヌ語で、「こんにちは」という意味だとの事。 ミルクが、液体ではなく、スティックに入った粉だったのは、指先を汚す心配がなくて、始末が良かったです。

  機内冊子を見ると、ベア・ドゥのぬいぐるみとか、「エア・ドゥ リカちゃん マスコット」などが、機内販売されている模様。 後者は、エア・ドゥの制服を着たリカちゃん人形の小さい奴で、ストラップになっています。 商品としての魅力はあると思いますが、どういう人が買うんでしょう? オタク系の男? CAに憧れる女の子? いやあ、しかし、女の子は、人形のストラップとか、つけないんじゃないですかねえ。 そもそも、スマホ時代になってから、ストラップ自体が、敬遠されているし。 ちなみに、どちらも、千円です。

  隣の席は、若い女性でした。 離陸するなり、文庫本を開きましたが、読み始めるなり、寝てしまい、飛行中、ずっと眠っていて、ドリンクを貰い損ねていました。 気の毒に。 だけど、眠っている客は、ドリンク・サービスの時に起こさないというのが、航空会社一般の方針のようですから、仕方ないですな。 「ドリンクなんて、別に要らない」という人ならいいのですが、私のように、それを楽しみに飛行機に乗っているような人間は、眠りこけて、飲み損ねたりした日には、飛行機の床も抜けよと地団駄踏むだけでは足りず、一生涯、悔やみ続ける事でしょう。

  飛行中、機長のアナウンスがあり、上空の気流が不安定なので、8000メートルと、低い所を飛んでいるとの事でした。 普通は、このサイズの飛行機だと、1万メートル以上を飛ぶので、随分、低いです。 外を見ると、ギリギリで、雲の上を飛んでいるという感じでした。 するってーとつまり、飛行高度というのは、その時の都合で、変えられるものという事になりますな。 飛行中の高度までは、空港の管制を受けないと思うのですが、他の飛行機との衝突の危険性とかないんでしょうか? 素朴な疑問、旅客機って、レーダーあるの? いや、レーダー見ながら、飛行してるようじゃ、危なっかしくて、話になりませんけど。

  まあ、いいか、無事に着いたんだから。 新千歳は、雨で、かなり揺れのある着陸でしたが、台風の中を、石垣空港に下りた時のような、接地後のバウンドなどはありませんでした。 あんな事が、しょっちゅうあったんじゃ、飛行機なんか、怖くて乗れやしません。 7ヵ月ぶりに目にする、懐かしの新千歳ですが、窓は水滴でいっぱい。 機内から外は、碌に見えませんでした。


≪新千歳空港≫
  11時50分くらいに、飛行機を下りて、空港ターミナルに入りました。 過去に二度も下りているので、迷うはずもなく、一階に下り、到着ロビーから、外へ出ました。 利尻行きは、13:10発ですから、まだ、1時間以上あります。 ターミナルの前に出て、バス乗り場を歩き、北海道応援の時に、支笏湖行きのバスに乗った、「1番乗り場」まで行ってみましたが、これといった感動はなし。 まあ、7ヵ月しか経っていないわけですから、まだ、ギンガリ記憶に残っているわけで、ハンカチ握って泣き崩れるほど懐かしいはずもありません。 むしろ、前に来た事がある所だと、新しい感動がない分、テンションが下がります。 7ヵ月くらいでは、変わった所もないわけだし。

  変わったのは、空港の方ではなく、私の方です。 この7ヵ月の間に、どれだけ多くの事件に見舞われた事でしょう。 移動だけでも、北海道→沼津→岩手→沼津→沖縄→沼津→北海道と、遠大な距離を行ったり来たりしていて、目が眩む程です。 その上、7ヵ月前に来た時には、会社員だったのが、この時は、無職になっています。 ちなみに、2ヵ月に及んだ有休消化が終わって、正式に退職したのが、8月25日、つまり、この日でした。 本当は、旅行なんぞに出かけている場合ではなく、市役所に各種手続きに行かねばならんのですが、○△商事の担当者が、私の退職日を知ってか知らずか、この日を出発日にしてしまったのだから、しょうがない。

  ターミナルの中に戻り、2階の出発ロビーへ。 利尻行きの搭乗手続きをする為に、チェック・イン・マシンに向かいましたが、この航空券も、座席指定されていたので、手続きは必要ないという表示が出ました。 保安検査場を通る前に、2階、3階にある、土産物店・飲食店街を見て回りました。 北海道応援の時にも、横を通ってはいたのですが、中まで入ってみると、規模が大きくて、びっくりしました。 よくもまあ、空港の中に、こんなに店を集めたものです。

  展望デッキへ。 横に長く、そこそこ広いものの、完全な屋外で、屋根はありません。 外は雨がパラついていて、長居は出来ませんでした。 私が乗って来たのとは違いますが、エア・ドゥの飛行機で、外のデザインに、ベア・ドゥを描いた機体が停まっていました。 やはり、外装の特殊デザインは、乗客の為ではなく、外から見る者の為に施されるものと思われます。

  たぶん、3階だったと思いますが、日本航空のスチュワーデス(女性CA)の、歴代制服や、今までに使われて来た機体の模型を展示したコーナーがありました。 ちなみに、私は、制服には、何の興味もありません。 いや、厳密に言うと、何の興味もないというわけではないか。 「結構、汗を掻く仕事のように思えるが、この制服、毎日洗ってるのかね?」と思う程度の興味はあります。 どうなんですかね? 週に一度とか言われたら、ちと引きますな。 月に一度なんて聞いた日には、飛んで逃げます。 清涼飲料水のCMなどを見ていると、若い女性の汗に色気を感じる男というのが、少なからず存在するように推測されますが、私に言わせれば、そんなのは、老廃物以外の何物でもないです。 きったねーなー。

  その反対側に行ったら、様々な飛行機の模型が展示されていました。 小さいのは、市販のプラ・モデルのようです。 軍用機まである。 爆撃機、戦闘機、旅客機と、スケールを揃えて並べてあると、大きさが比較できて、興味深いです。 面白い事に、日本のプラ・モデル・メーカーが無視している、第二次大戦中のソ連戦闘機も入っていました。 兵器系のプラ・モデルというと、「時代遅れのオタクの、手慰み」といった、しょーもないイメージがありますが、こういう所に展示されていると、それなりの価値を感じるから不思議です。

  保安検査場を通り、待ち合い場で、家から持って来た、おにぎりを食べました。 これは、私が自分で握ったもの。 何も入っていない塩むすびですが、こと、おにぎりに関しては、私は、自分が作った物が、一番おいしいと感じます。 何か入れるから、まずくなってしまうのですよ。 塩だけで充分です。 飲み物は、沖縄旅行の時と同じく、CCレモンの500ccペットボトルに、水を入れたもの。 長旅中の水分補給は、水が一番でして、喉が渇くたびに、炭酸飲料を飲んでいたのでは、歯がもちません。


≪新千歳から、利尻島まで≫
  12時55分から、搭乗開始。 日記を書いている内に、ゲートが開いて、慌てました。 ここのところ、こういうパターンが多い。 飛行機は、≪B737-500≫。 内装が似ているので、「もしかしたら、沖縄旅行で、宮古から那覇まで乗ったのと同じ機体では?」と思っていたのですが、家に戻ってから、調べたら、果たして、その通りでした。 乗る前には気づきませんでしたが、利尻空港で下りた後、飛行機を見たら、やけに短い胴体で、「こんな寸胴な物体が、よく飛ぶな」と思う程でした。

  CAは二人で、宮古・那覇間と同様、ドリンクの代わりに、飴をくれるのですが、こちらでは、CAが配って歩くのではなく、搭乗する時に、ドアのすぐ内側に置いてある籠から、自分で取るようになっていました。 なるほど、この方が、CAの手間は少ないです。 私の席は、「5F」で、 左右3席ずつの、右側の窓側。 主翼よりは少し前で、すぐ横に、エンジンの前端が見えます。 隣は、空席。 運がいいなあ。 やっぱり、隣は、空席に限ります。

  13:10の予定なのに、13:08には、離陸しました。 飛行機に、遅れは、勿論ありますが、フライングもありなんですねえ。 「飛行機なんだから、フライングは当たり前」などという、自分で思いつく分にはいいが、人に言われた日には笑うに笑えぬギャグを言っているわけでは決してなく、考えてみると、全席指定なのですから、売れている席が全部埋まったら、早く出ても、問題はないわけですな。

  新千歳から利尻島への飛行も、やはり雲が多くて、眼下の景色は堪能できませんでした。 時折、雲の切れ目から見ると、山、また、山。 山の中に、ちょっと平らな所があるかと思うと、みな畑になっていました。 人間の開発欲というのは、つくづく、恐ろしいものです。 ドリンク・サービスは、基本的にないのですが、希望者にだけ、アップル・ジュースを、手注ぎで配っていたので、手を挙げて、一杯貰いました。 私も、図々しくなったものだて。

  北海道の北端に近づいてから、左旋回して行きましたが、真っ直ぐに利尻島へ向かわず、北にある、礼文島の方へ大きく寄ってから、左側へ機体をぐっと傾け、左旋回を続けました。 左側の窓に、海面が間近に迫り、波の形まで、はっきり見えます。 利尻と礼文の間を通り、「の」の字を、逆向きになぞるような形で、再び、機首を北へ向け、利尻空港の滑走路に、南側から入って、着陸しました。 この大きな左旋回は、上空から、利尻富士や海の色を見せる為のサービスかと思っていたんですが、よく考えてみると、そんな業務外の事を、機長がするとも思えず、未だに、理由が分かりません。

  そもそも、利尻と礼文の間を通ろうとするから、こんな回り方をしなければならないわけで、早目に海上に出て、南側から利尻空港に接近すれば、真っ直ぐ下りられたと思うのですがね。 やっぱり、サービスだったんだろうか? 私の席からだと、利尻富士は見えませんでしたが、海の色には、グラデーションが、見て取れました。 沖縄のそれとは、色の濃さが違いますが、黒と紺の境界が、はっきり分かります。 もっとも、とっくに、着陸態勢に入っていて、カメラは使用禁止だったので、撮影は不可でしたけど・・・。 やっぱり、サービスではなかったのか?

  着陸した時点では、速度が、かなりあって、怖いくらいでしたが、窓からエンジンを見ていると、外殻の一部が開いて、後ろに下がり、「逆噴射だな」と思った途端に、ぐぐぐーっと、制動がかかって、強引に押さえ込むような感じで、減速しました。 うーむ、毎回毎回、着陸のたびに、感じが違うのは、機体の違いなのか、気象条件の違いなのか。 むしろ、エンジンなんか、見えない方が、緊張しなくて済むような気がします。

エンジン(上)/ 空港から見た利尻岳(下)



≪利尻空港≫
  着陸したのは、2時ちょっと前くらいで、2時5分には、飛行機から下りていましたから、本来の到着予定時刻である、2時20分より、だいぶ早く着いた事になります。 出発がフライングした上に、飛行時間も、予定より短かったわけだ。 「飛行機とは、大抵、遅れるものである」と思っていた、それまでのイメージが、一気に引っ繰り返りました。

  利尻空港は、滑走路一本の、シンプルな空港でした。 ターミナルは、2階建てで、まだ新しく見えます。 2階と言っても、ボーディング・ブリッジはなくて、乗降は、タラップでした。 滑走路を歩いて、ターミナルまで行きましたが、風が強くて、帽子を押さえていなければなりませんでした。 異様に寸胴な飛行機の背景に、利尻富士が見えるのですが、上の方は、雲に隠れています。 富士は、どこでも、雲が付き物なのか。 利尻富士は、私が想像していたよりも、ずっと大きな山である事が、現物を目の前にして、はっきり認識されました。 ただ、形が似ているという理由だけで、「○○富士」と呼ばれる山は多いですが、この利尻岳は、その雄大さに於いて、本家の富士に引けを取りません。

  ターミナルの中に入ると、各ホテルからの迎えが、人垣を作っていました。 その人数から見て、利尻島が、小さな島ではない事が分かります。 その隅に、貸切タクシーの運転手さんが、私の名前を書いた名札を掲げて待っていました。 60歳くらいの方。 すぐに、案内されて、外へ出てしまったので、ターミナルを観察する暇がありませんでした。 翌朝、島を出る時には、フェリーで礼文へ渡るので、このターミナルに来る事は、もうありません。 恐らく、二度と行けないでしょう。 一期一会ですなあ。


≪貸切タクシー≫
  空港ターミナル横の駐車場に行くと、シルバーのタクシーが停まっていました。 日産のクルーです。 フロント・ドアの横に、「富士」と書いてあり、見慣れた文字なので、何とも思わずに、乗っていましたが、帰って来てから、写真を見直していたら、「はっ!」と気づきました。 この「富士」というのは、「富士フィルム」や、「フジテレビ」など、日本全国で一般的に使われている、富士山の意味の富士ではなく、「利尻富士」の事だったのです。 日程表に書き込まれていた、タクシー会社の名前を確認したら、「富士ハイヤー」。 これは、もう、絶対に、それ以外に考えられません。 すぐに気づかなかった、私が抜けている。

  運転手さんが名刺をくれました。 そういや、沖縄でも、本島の運転手さんが名刺をくれましたっけ。 車内に出ている名札を見ると、生年月日が書いてあって、私の見立てと、ほぼ同じ年齢でした。 私としては、年上の方が話し易いので、ありがたいです。 日程表や、クーポンの記載では、午後2時20分から、4時まで、1時間40分の契約でしたが、乗って最初に言われたのが、「3時間ちょっとかかると思います」との話。 「え? どーなってんすか?」と思ったものの、前払いしてあるので、追加料金を取られる心配はないわけだし、夕食前にホテルに送ってもらえさえすれば、否やはないわけで、「はい、分かりました。 宜しくお願いします」とだけ、答えておきました。

  年齢と話し易さについて、ちょっと書きましたが、いざ走り出すと、この運転手さんに限っては、そんな心配は無用であった事が、判明しました。 会話ではなく、解説で、ほぼ、全ての時間が埋められたからです。 これはこれで、プロの技としか言いようがありません。 もう、どこを走っている時は、何を話すという事が、頭にぎっしり詰まっていて、立て板に水、次から次に、言葉が出て来るのです。 こちらは、相槌だけ打ちまくる事になります。 質問すれば、答えてくれますが、それをやると話の腰を折ってしまう事が分かった後は、極力、控えました。


≪利尻岳≫
  利尻島は、海底火山が噴火して、海の上に火山噴出物が積層し、山になり、島になったもの。 つまり、「利尻岳=利尻島」という事になります。 この辺りでは、富士山以上に有名で、地元の人達は、みな、高い誇りを感じている様子。 残念ながら、私が利尻島にいる間は、上半分、雲に覆われ続けていて、その全容を拝む事ができませんでした。 しかし、裾野の稜線を見るだけでも、この山が、大変美しい姿を持っている事は分かります。

  利尻岳には、側火山が幾つかあり、「ポン山」と呼ばれているとの事。 側火山というのは、富士山で言えば、宝永山のようなもので、主火山の中腹や裾野から噴火して、その噴出物で出来た山の事です。 利尻岳の場合、北側にあるのが、上に何も付かない、「ポン山」、南側には、「鬼脇ポン山」、「仙法師ポン山」、「オタトマリ・ポン山」などがあるようです。 利尻岳には登山コースがあるらしいですが、運転手さんの話では、8時間くらいかかるそうで、明日の朝までしかいない私には、無縁の話でした。 運転手さんは、いかにも、待ち遠しそうに、「あと、三千年待てば、死火山になります」と、何度も繰り返していました。 真実にして、ジョークになっている、珍しいケースですな。


≪神社と鳥居≫
  さて、最初に寄ったのが、空港近くの神社で、森に埋もれたような所でした。 確か、車から下りずに、窓から見たのだと思います。 説明を聞くのに手いっぱいで、写真を撮る暇がなかったのですが、大きな鳥居と、小さな古い型の狛犬があったのは覚えています。 写真がないので、神社の名称は分かりません。 場所的には、本泊(もとどまり)の港に行く前ですから、空港と本泊の間だと思います。

  私が、北海道で、唯一、土地勘がある苫小牧では、大きな神社を一つも見なかったので、遥か北方にある利尻島の、しかも、森の中に、こんな大きな鳥居が立っているのには、意外な感じがしました。 運転手さんの話しぶりから察するに、すでに、江戸時代には、この土地まで日本人が来て、住んでいた証拠として、この神社を見せたかったようでした。

  しかし、どんなに遡れようと、それ以前に、アイヌ人が住んでいた事は、地名からも明らかで、日本人が後から来た事は否定のしようがありません。 神は、人間にくっついて来るものですから、日本人が住みついた所、どこに神社があっても、不思議はないわけで、古い神社があるからといって、住む権利や資格があるという事にはなりますまい。 もっとも、こういう事は、私が勝手に察した事で、運転手さんは、そんな突っ込んだ主張をするつもりではなかったのかも知れません。

  沖縄でもそうでしたが、この種の話題は、どうしても、敏感にならざるを得ませんな。 罪を負う側の立場なら、尚の事です。 正直な感想、一番最初に、神社には、来たくなかったです。 しかし、案内慣れし尽くしている感のある、この運転手さんが、利尻島一周コースの、いの一番に、ここへ連れて来るという事は、私とは逆に、古い神社を見て、日本人が江戸時代から住んでいた事を知り、罪悪感が薄まって、ほっとする観光客がいるのかもしれません。 所詮、錯覚による気休めに過ぎないのですが。


≪高山植物≫
  走り始めて直ぐに、「お客さんは、植物に興味があるんですか?」と訊かれて、虚を衝かれました。 なんで、いきなり、そんな質問が出るのかと思ったら、利尻島は、緯度が高いために、高山植物が、平地で見られる事が特色で、花好きの人が、よく訪れるのだそうです。 というわけで、それ以降、草と言わず、木と言わず、花が咲いている植物に遭遇するたびに、高山植物の名前が、次から次に飛び出し、写真を撮るのに、大わらわとなりました。 コンパクト・デジカメでは、接写機能は知れており、捨てるつもりで撮り捲りましたが、帰って来てから見てみたら、存外、まともに撮れていて、逆に驚きました。

  北の果てだから、不毛の地かと思いきや、全く逆でして、夏場の花の種類は、静岡県より遥かに多いように見えました。 運転手さんが、片っ端から説明してくれても、こちらの植物知識が圧倒的に足りず、ほとんど記憶できなかったのは、大変、申し訳ない事でした。 つまりその、高山植物に興味がないくせに、利尻までやって来る観光客は、珍しいという事なんでしょうな。


≪リイシリ運上屋跡≫
  本泊の集落の山側にあります。 「リイシリ」というのは、利尻の事で、ここで、説明してしまいますと、アイヌ語で、「高い島」の事。 「リイ」が「高い」で、「シリ」が「島」なんですな。 即ち、「利尻島」と言うと、「高い島島」と言っている事になりますが、私が、この事に気づいたのは、翌日、礼文島に行って、そちらの運転手さんから、「シリ」の意味を説明された時でした。 「運上屋」というのは、松前藩が、海産物などの交易所として、和人の商人に、「場所」という区域を請け負わせ、その運上金を納めさせていた所。 開設は、1765年だそうですから、江戸時代の半ば頃です。

  その跡に、モニュメント風の石碑と、説明板が立っています。 昔の船の碇が、三つばかり、赤錆びた状態で置いてありますが、雰囲気的には、転がしてあるという感じ。 小奇麗なデザインのモニュメントと、錆びた碇が、何ともアンバランスで、殺伐とした印象を受けます。 碇は、他で陳列するか、せめて、何かに立てかけた方が、いいんじゃないですかね。

  説明板によると、ここの運上屋は、1807年に、帝政ロシアの軍艦に襲撃されているとの事。 いわゆる、「文化露寇(フボストフ事件)」の時の一場面のようです。 文化露寇というのは、日本に通商を求めてやって来た、ロシアの外交官レザノフが、徳川幕府の対応が定まらなかった事から、長崎で半年間も待たされた挙句、従来通りの、「鎖国してるから、駄目」という回答をつきつけられて、追い返され、それに腹を立てて、部下のフボストフに、カラフトやエトロフの日本側拠点を襲撃させたという事件。 軍艦を動かしているものの、戦争というほどの規模ではなく、紛争と言えば言えますが、どちらかというと、「襲撃事件」くらいが、ぴったり来ます。

  どうも、ロシア側が強過ぎて、戦いにならなかったようです。 もし、本気で上陸して来たら、日本側は、どこまで撤退したか分からないくらいですが、そもそも、フボストフは、本国の命令を受けておらず、本格的に侵略する気はなくて、腹癒せ程度の動機で襲撃しただけだったので、ロシア側が撤退したら、それっきりになったようです。 ただし、この事件の後、幕府は、東北諸藩に命じて、北方防備の兵を出させます。 その件については、また後で、ちょっと、利尻島と関係して来ます。


≪オオセグロカモメ≫
  タクシーは、本泊の港に入り、突堤の付け根の所で停まりました。 ここは、漁港です。 突堤の先に、カモメの一団あり。 沼津でよく見る、ウミネコよりも、ずっと大きいです。 運転手さんによると、オオセグロカモメだとの事。 「近寄って行ってみな。 飛び立つところが撮れるかも知れんよ」と言うので、カメラを構えたまま、一歩一歩近づいて行くと、果たして、バサバサと飛び立ち、確かに、写真は撮れました。 後ろ姿ばかりだったので、そんなに、迫力がある写真にはなりませんでしたが。 すまんな、カモメの衆、よそ者の遊びに、つき合わせてしまって。

オオセグロカモメ



≪北のカナリア≫
  海沿いの所々に、家が建っていますが、空き家になっている物が多く、それは、壁の板が外れて穴が開いたり、屋根が崩れたりしていて、すぐに分かります。 まだ、放棄されたばかりで、外見からは分からない家であっても、運転手さんは、どの家が空き家になったか、ほとんど、頭に入っているようでした。 この環境では、人口減少は、致し方ないですなあ。 昆布という海の恵みがあっても、これから人生を始める世代に、「ここで一生暮らせ」とは言い難いでしょう。 街にうんざりして、戻って来る分には、悪くないと思いますが。 この付近、車があれば、島内最大の街、「鴛泊」まで、20分もかからないと思います。

廃屋(上)/≪北のカナリア≫に出た家(下)


  海岸線に沿って、南へ下って行きます。 この辺り、吉永小百合さんが主演した、2012年の映画、≪北のカナリア≫の、ロケ地になったのだそうです。 「見ましたか?」と訊かれたので、「最初のところだけ見ましたが、全部は見ませんでした」と、正直に答えました。 こういう場合、テキトーに話を合わせて、嘘をつくと、後がきつくなります。 まあ、見てなきゃ見てないで、それなりの説明をしてくれるから、問題ないのです。 地元の人が、出演したそうで、主人公を送り出した家の前を通りました。

  主人公は、離島に赴任した学校の教師なので、撮影には学校が必要なわけですが、当初、利尻島に実際にある学校を使う予定だったのが、現地で見てみたら、近代的過ぎて、映画のイメージに合わない。 そこで、解体した家屋の廃材を礼文島に運び、南端の高台に、古い木造の校舎を、わざわざ建てたのだそうです。 そちらは、この翌日に見に行く事になります。 ≪北のカナリア≫の撮影は、この付近一帯の大事件だったらしく、利尻・礼文ばかりか、稚内でも、その影響を見る事ができました。 今度、テレビで放送したら、是非、見てみなければなりますまい。


≪昆布拾い・昆布干し≫
  利尻と言えば、利尻昆布。 一番の特産品だとの事。 この時期、昆布は、海岸に打ち上げられたものを拾うのだそうです。 岩場で、将に、昆布を拾っているおばあさんを発見。 運転手さんが、上から見下ろす格好で声をかけましたが、返事はあったものの、振り仰ぐ事はなく、仕事の手は休めませんでした。 この日は、波は静かでしたが、そこそこ風はあり、「やはり、厳しい環境だな」と思いました。 もっとも、もし厳しいだけだったら、最初から誰も住み着かないのであって、それを上回る、豊かな収穫があったわけですが。

昆布拾い(上)/ 昆布干し(下)


  昆布は、収穫した後、干して干物にするわけですが、その為の昆布干し場が、あちこちにありました。 ×の字に組んだ丸材の上に、竹竿を横に架け、洗濯物のように吊るしてある所もありましたが、主流は、地面に藁や石を敷いて、その上に並べる方式でした。 「藁」と書きましたが、「葦」のようなものだったかもしれません。 利尻島は、田畑がなかったので、稲藁にしても麦藁にしても、手に入り難いだろうと思いまして。 とにかく、何か、植物の茎のようなものです。 それを敷いた上に、昆布を並べれば、下側も風通しがよくなるという寸法。 しかし、それだと、手間がかかるので、今は、石を敷くやり方に変わって来たのだそうです。


≪会津藩士の墓≫
  空港や本泊は、「利尻富士町」でしたが、この辺りで、境界を越えて、「利尻町」に入ります。 昔はもっと、細分化されていたそうですが、今は、二つの自治体で、島を二分する形になっているとの事。 島の西端に当たる、「沓形(くつがた)」という所に、利尻町の役場があり、市街地を形成しています。 その北の郊外に、「会津藩士の墓」と、「顕彰碑」があります。 文化露寇の後、北方防備を強化する為、幕府が東北諸藩に命じて、藩兵を駐屯させるのですが、会津藩の藩士に、遭難や病気で、死亡する者が多く出て、利尻島では、数箇所に、会津藩士の墓があるとの事。

  運転手さんの話では、墓石も、会津から、わざわざ運んだのだそうです。 しかし、素朴な疑問として、会津から利尻へ、墓石を運ぶより、利尻から会津へ、遺骸や遺骨を運んだ方が、故人は喜ぶのではありますまいか。 もっとも、そこは、配慮怠りなく、分骨してあるのかもしれませんが。 思うに、会津藩にしてみれば、「犠牲者を出してまで、幕府の施策に貢献したのだぞ」という、証拠を残したかったのではないかと思います。 19世紀初頭の話ですから、まだ、幕末ではありませんが、この頃から、会津藩は、「将軍家への御奉公」に、熱心だったわけですな。

  この頃は、東北諸藩の藩士であっても、道北や道東の極寒地では、ただ生活する事さえ困難だったらしく、まして、武器の性能や量で、圧倒的に勝るロシアを相手に、防備なんぞ、できるわけがないのですが、幕府も、呆れた丸投げをやったものです。 そういや、苫小牧では、東北どころか、八王子の同心が入植していましたが、そちらも、寒さでやられて、壊滅状態に陥ったとの事でした。 事前調査もせんと、人を連れて現地に乗り込みさえすれば、どうにかなると思っているところが、いかにも、日本人らしい。

  ところで、会津藩の犠牲者について、運転手さんの話では、「文化露寇の時に、ロシア軍と戦って死んだ」といった説明を受けたような気がするのですが、どうも、歴史的経緯の順序が入れ替わってしまっている様子。 運転手さんだけが思い違いをしているのかと思いきや、私の母が37年前に買った、北海道旅行のガイド・ブックにも、同じような記述があります。 そちらは、もっと踏み込んだ間違いを犯していて、会津藩士らが戦って、ロシア軍を撃退したと書いてあります。

  推測するに、そのガイド・ブックが発行されたのは、冷戦時代の真っ最中で、とりわけ、日本では、ソ連嫌いの限りを尽くしていましたから、ソ連・ロシアを悪者にする分には、間違った記述でも、指摘する人がなく、そのまま通ってしまったのかもしれません。 もしくは、ソ連崩壊後に、ロシア側の資料が手に入るようになって、事件の真相が明らかになった、という事も考えられます。 いずれにせよ、史実とのズレが大き過ぎて、驚いてしまうような間違いです。 文化露寇と、東北諸藩の駐屯が、時間的に、ごっちゃになってしまっているのですから。

  運転手さんが、この件について、最初に勉強したのが、その頃だったとすれば、間違った知識を頭に入れてしまった事は考えられます。 ただ、運転手さんの話の内、文化露寇の発端になった、レザノフが長崎で半年間待たされ、追い返された件りは、至って、正確でして、その後が、どこでどうズレたのか、どうにも、腑に落ちないのです。 もう一つの可能性としては、事件の経緯が複雑で、説明しても、理解できない観光客が多いので、分かり易く、ダイジェストして、話しているというもの。 案外、そんなところなのかもしれませんが、国際的誤解の種になってしまう事を考えると、かなり怖いです。


≪利尻昆布の土産≫
  たぶん、沓形の辺りだったと思うのですが、運転手さんが、海沿いに建つ、とある土産物屋の前に、車を停めました。 利尻昆布を中心に、海産物を扱っている店です。 そこまでが、どういう話の展開だったか、忘れてしまいましたが、あれよあれよという間に、「ここで、利尻昆布が買えますよ」という話になり、下ろされてしまったんですな。 さすが、プロだ。 買わせ所に、実にさりげなく、いざなってくれる・・・。

  沖縄旅行記から、続けて読んでいる方々は、すでにお分かりでしょうが、貸切タクシーには、運転手さんの、「馴染みの店」があり、何も言わなければ、必ず、そういう所へ、寄る事になります。 観光バスなどでは、もっと露骨に、最初から、立ち寄る土産物屋が、日程表に書き込まれていたりしますが、タクシーの場合、それが、さりげなく、行なわれるわけですな。 普通、貸切タクシーを頼むような客は、金持ちなので、土産くらい、金に糸目はつけないのでしょうが、私は、福利ポイントの消化だから乗っているのであって、土産をポンポン買えるような、太っ腹な性格ではないのです。 弱るんだなあ、こういうのは。

  また、大きな店なら、見るだけ見て、買わずに出るという技も使えるのですが、この時に寄った店は、そういう事をやると、大いに不自然に感じられる程度の大きさだったのです。 こうなったら、買わないわけには行きません。 初日から、土産物で旅行鞄が膨らむのも困るのですが、利尻昆布の場合、干物で、ペッタンコですから、その点は、融通が利きそうです。 値段を見ると、500円くらいからある様子。 割と安かったので、安心しました。 テキトーに、500円のを取って、「これを下さい」と言ったら、店員の妙齢女性が、「これは、○○用だけど、△△用でなくてもいいの?」と言って、他の商品を見せてくれました。 昆布の使い方など、まるで知らない私は、とりあえず、勧められた方を買う事にしましたが、そちらは、620円でした。 ・・・どんどん、傷口が広がる。


≪時雨音羽・詩碑≫
  沓形港には、フェリー岸壁があり、夏場だけ、礼文へ通うフェリーが出ているらしいです。 昔は、北海道の本土と結ぶ船便もあったらしいですが、今は、そちら方面の便は、鴛泊港に一本化されているとの事。 沓形港の南側に、「沓形岬公園」があり、そこで、車を下りて、運転手さんに記念撮影してもらいました。 帰って来てから、その写真を見ると、案の定、利尻岳が背景になっています。 沓形岬がどうこうではなく、利尻岳が綺麗に見える所が、撮影スポットになっているものと思われます。

  この公園の中に、利尻町出身の作詞家、「時雨音羽(しぐれおとわ)」の詩碑がありました。 「どんと、どんと、どんと、波乗り越えて・・・」という歌詞が石に刻まれています。 「出港の歌」という歌らしいですが、聞いた事があるような、自信がないような、微妙な感じ。 すると、運転手さんが、「スキーの歌」の作詞もしていると教えてくれて、ポンと手を叩きました。 そりゃ、知ってますよ。 なんだ、最初から、そっちの方を碑にしてくれれば、話は早かったのに。

  この詩碑の横に、ボタンを押すと、音楽が流れるパネルがありましたが、そちらは、壊れていました。 歌詞だけでは、曲と一致しないケースが多いので、こういう機械の設置自体は、良い考えだと思います。 しかし、雨曝しの屋外だと、やはり、電子機器には厳しいでしょうなあ。 上から押すボタンではなく、パネルの下にセンサーをつけて、「この下に触れて下さい」という方式にすれば、かなり違うと思いますが。


≪人面岩・寝熊の岩・北のいつくしま弁天宮≫
  海岸線を南下していくと、道路の、海側の岩場に、「人面岩」がありました。 岩場の上に、小型の物置くらいの大きさの岩塊があり、上の方に、縄が巻いてあります。 最初、タクシーから一人で下りて、見ていたんですが、どこが人面なのか分かりません。 その内、少し先に車を停めて、下りて来た運転手さんに教えられて、ようやく分かりました。 岩の上の縄を鉢巻に見立てれば、アイヌの族長の顔のように見える角度があるのです。 岩全体では、頭のように見えます。

  運転手さんに、指差されて、見てみると、すぐ近くの、海の中にも、人面がありました。 こちらは、顔だけで、真上に向いています。 イースター島のモアイ像を、仰向けにして、海に沈め、顔だけ出したような感じ。 人面岩より、こちらの方が、人面っぽいような感じがしました。

  更に、南側に、「寝熊の岩」がありました。 これは、熊が腹這いになって、沖の方へ向いている、その背中を、後ろから見ている形です。 熊の耳に当たる突起が、岩から二つ出ていて、それがあるがゆえに、熊に見え、また、熊にしか見えません。 この寝熊の岩は、利尻島の観光スポットの中で、最も、私のツボに嵌まり、大笑いしました。 あの二つの突起が欠けてしまったら、利尻島は、重要な観光資源を失う事になりますな。

寝熊の岩


  その、更に南側に、「北のいつくしま弁天宮」があります。 海に突き出した岩場の上に、小さな赤い鳥居と、小さな赤い社があるだけ。 厳島神社は、あの、安芸の宮島の厳島神社から、分けてきたわけですが、利尻・礼文・稚内では、とりわけて、よく見られました。 それにつけても、不思議に思えるのは、入植した日本人が、土地神に当たる、「カムイ」を祀ろうとした形跡が、一切ない事です。 全て、元いた土地から持って来た神を祀っているんですな。 つくづく、神は、土地ではなく、人につくわけだ。

  よく、日本人の宗教観として、美化して語られる、「自然への畏怖・畏敬」といった意識があるのなら、土地神を蔑ろにするなど、罰当たりもいいところだと思いますが、その辺の理屈を、どう按配しているのか、聞き取り調査してみたら、面白いと思います。 恐らく、本州以内の神道に関する意識同様、人によってバラバラで、系統立った宗教観の態を成さないとは思いますが。


≪麗峰湧水≫
  タクシーに乗り、また、少し南下すると、道路の山側に、「麗峰湧水」という、湧き水が飲める所がありました。 溶岩を積み上げて、胸くらいの高さの小山を作り、その中から突き出してるパイプから、湧き水が、常に流れ落ちています。 用意がいい事に、運転手さんが、紙コップを出して来て、水を飲ませてくれました。 私は、利き水はできませんが、素朴な感想を述べますと、まあ、何の癖もない、おいしい水でした。

  びっくりしたのは、その後でして、運転手さんが、自分の飲み残した水を、その溶岩の小山にかけると、一瞬で石の中に浸み込んで、一滴も下に流れませんでした。 これには、たまげた。 私もかけてみましたが、やはり、全部、吸い込んでしまいました。 まるで、科学手品を見ているかのようです。 運転手さんの話では、溶岩というのは、スポンジのように隙間だらけなので、水の吸い込みが、すこぶる良いのだそうです。 で、利尻島は、島全体が、同じ性質の溶岩で出来ているので、大雨が降っても、すぐに、地面に浸み込んでしまい、水害になる事がないのだとか。 それどころか、川があっても、普段は水がないと言います。 大雨の時だけ、川の流れが見られ、やむと、涸れ沢になってしまうんですと。

  私が行った日の前日に、この付近を「50年に一度」の記録的豪雨が襲い、北隣の礼文島では、土砂崩れによる道路の寸断、集落の孤立など、大きな被害が出たのですが、同じくらい雨が降っても、利尻島は、みんな吸ってしまうので、被害ゼロだったとの事。 実際、道路のどこを見ても、水が溢れたような形跡は、一切ありませんでした。 隣合っている島でも、成り立ちの違いで、全然違うんですねえ。 もっとも、いい事ばかりではなく、保水力がないせいで、農業には向かない土地であるわけですが。


≪利尻博物館≫
  島の南端にある街が、「仙法師(せんぽうし)」。 元は、アイヌ語だそうで、説明してくれたのですが、忘れてしまいました。 当て字にしては、うまく当てたものです。 利尻町は、ここまででです。 街の中に、「利尻博物館」があり、そこへちょっと、寄りました。 「入りませんけどね」と言いながら、建物の前まで行き、前庭に、屋根だけかけて展示してある、昔の漁船を指して、ニシン漁に使った舟だと、説明してくれました。 30人くらい乗れる大きさ。 他の船と連携して、漁をしたのだそうです。

  なんで、博物館に入らなかったかというと、この日は、月曜日で、役所がやっている施設は、みんな、休みだったんですな。 その事には、帰って来てから、気付きました。 この後、「仙法師岬公園」で、写真を撮ってもらっていますが、やはり、背景は、利尻岳でした。


≪オタトマリ沼≫
  利尻富士町に入ると、島の東岸を走る事になります。 「南浜湿原」の前を通過。 一瞬だけ、「メヌショロ沼」の水面が見えました。 停まらなかったという事は、特に見るべきほどの物はないのでしょう。 運転手さんは、間断なく、説明を続けているのですが、情報量が多過ぎて、こちらが、記憶できません。 この時点で、3時50分。 空港を出てから、1時間半ですから、約半分ですな。 「え! まだ、半分なの!」と思った方は、一度休んで、またの機会に、続きを読んで下さい。 このまま、読み続けると、疲労で死ぬかも知れません。

  「メヌショロ沼」の東側に、「オタトマリ沼」があります。 すぐ横を道路が通っていて、よく見えましたが、結構、大きな沼でした。 運転手さんは、「オマールで出来た沼」と言っていました。 火山噴火で出来る地形の一種で、平地でボーンと噴火し、円形に穴が開いた場所の事を言います。 大抵は、水が溜まって、湖沼になります。 以前、伊豆半島の山奥で見た事があったので、「ふむふむ、なるほど、オマールですか」と、頷いていたのですが、何か、言葉に違和感を覚えていました。 覚えて正解、帰って来てから、調べてみたら、「オマール」ではなく、「マール」だったんですな。 運転手さんも、私も、間違えたまま、会話していたわけだ。 「オマール」は、エビだんがな。

  海側の脇道へ逸れて、小高い所に登ると、そこが、「沼浦展望台」という所。 標高、42.7メートル。 ここからだと、オタトマリ沼と、利尻岳が、同時に見えます。 やはり、撮影スポットに、利尻岳は欠かせないわけだ。 ちなみに、利尻岳の標高は、1721メートルです。 富士山と違って、海の中に、独立峰として、ドンとあるので、標高の数値以上に、大きく、高く、感じられます。 もっとも、この日は、上の方が、雲で見えなかったんですが。

  北海道で最も有名な菓子、「白い恋人」の説明板がありました。 広告の看板ではなく、説明板です。 白い恋人のパッケージ・デザインを見ると、中央のハート形の中に、雪山の絵が描かれていますが、あの山は、実は、利尻岳だけだったという、衝撃的な話。 説明板を読む前に、運転手さんが説明してくれたのですが、思わず、「えーっ! そうだったんですかーっ!」と叫んでしまいました。 白い恋人は、7ヶ月前、北海道応援から帰る時に、新千歳空港で買って、家へのお土産にしたのですが、全っ然、気づきませんでした。

  運転手さんは笑って、「ふふふ、アルプスか、エベレストの山だと思ってたでしょ」。 正に、その通り。 「だけど、よく見ると、絵の右下に、「Mt.RISHIRI」と書いてあるんですよ」と、説明板の絵を指しました。 ほんとだ!  全っ然、気づかなかった! 冬は、真っ白になるんですねえ。 この絵は、この、沼浦展望台付近から見た景色だと言われているそうです。

沼浦展望台



≪鬼脇≫
  島の南東部にある街。 昔は、鬼脇村という自治体の中心だった所。 鬼脇村が、鴛泊村と合併して、東利尻村となり、町制施行で、東利尻町になり、改名して、現在は、利尻富士町です。 この鬼脇の街、運転手さんの話では、道路を広げる為に、区画整理して、家を立ち退かせたら、人口が減ってしまったとの事。 そういう事もあるんですねえ。 ちなみに、利尻島の全人口は、現在、5600人くらい。 70年代には、15000人くらいいたそうなので、だいぶ、減った事になります。 しかし、島の大きさと、地理的位置を考えると、5600人は、少ないという感じはしません。 15000人の頃が多かったと考えるべきでしょう。 逆に考えると、今後もまだ、減り続ける可能性が高いという事になります。

  この鬼脇、巨大な白い鳥居がある、「北見神社」を始め、寺がいくつもあったりして、昔は、住人が多かったんだろうと思わせます。 鬼脇村だった頃の役場の建物が、「利尻島郷土資料館」になって、残されていますが、赤い屋根、白い壁の、洋風木造建築で、大変、お洒落。 そこだけ、プリンス・エドワード島になってますな。 門の石柱には、今でも、「鬼脇村役場」の表札が入っています。 中には入りませんでした。

利尻島郷土資料館(元、鬼脇村役場)


  かつて、日本の缶詰会社が、ロシアと合弁で作った工場があったそうなのですが、その電源を確保する為に、水力発電用に作った溜め池があるとの事で、ちょっと、山の方へ入って、見て来ました。 コンクリートで囲った、一見、養殖場みたいな施設でした。 湧き水の勢いが凄かったです。 利尻島は、水はいくらでもあるんですな。 ただ、溜めるのが難しいだけで。

  鬼脇を後にして、北の方へ上がって行きます。 道路脇の草地に、皮がついたままの木が、ぶつ切りになって転がっており、運転手さんの話では、昔は、そういった木を、犬橇を使って、山から運び出していたのだそうです。 馬だと、傾斜地に入れないので、犬を使っていたのだとか。 相当には、太い木で、「犬も大変だったろうなあ」と思いました。

  「石崎灯台」というのを、走りながら、見ました。 高い事で有名な灯台で、北海道で2番目、全国で7番目だそうです。 ちなみに、北海道で1番高いのは、稚内の「ノサップ岬灯台」。 そこも、この二日後に見に行く事になります。 高い灯台は、みんな、そうなのか分かりませんが、色が、白と赤の縞模様になっていました。 製紙会社の煙突が、そんなデザインですがね。

  この後、「番屋」の前とか、「利尻名水ファクトリィ」という工場の前を通りましたが、これらも、走りながらだったので、正確な場所が分かりません。 写真の撮影時刻から推測すると、鬼脇と鴛泊の境界辺りだったと思われます。 知らない内に、東海岸を、随分、上の方まで、上がって来ていたんですな。

  「番屋」は、たぶん、漁業関係だと思いますが、説明を忘れてしまいました。 「利尻名水ファクトリィ」は、「リシリア」という地元ブランドのミネラル・ウォーターを作っている所で、ここの水は、運転手さんが、一押ししていました。 「飲んでいたら、毛が生えて来た」と言ってましたっけ。 その後、「昆布より効く」と付け加えたので、ジョークだったのかも知れませんが。


≪ラナルド・マクドナルド上陸記念碑≫
  道路の海側に、さりげなく、あります。 ラナルド・マクドナルドさんというのは、江戸時代後期に、遭難者を装って、利尻島に上陸した、アメリカの捕鯨船の乗組員です。 アメリカ先住民とヨーロッパ系のハーフで、黄色人種の国という事で、日本に興味を抱き、「是非、行ってみたい」と決心して、不屈の精神で、それを実行したとの事。 捕鯨船の船長が、理解がある人で、下船証明書をくれ、ボートも用意してくれて、それで上陸したのですが、遭難者を装ったのは、捕まった時、密入国者よりは、扱いがいいだろうと思ったかららしいです。 うーむ、強かな計算だ。

  長崎に送られ、そこで、牢屋住まいをしながら、格子越しに、日本人のオランダ通詞達に、英語を教えたのですが、その時の生徒達が、後にペリー艦隊が来航した時に、通訳の任に当たる事になるという流れです。 歴史の教科書に出て来ないので、全く、知りませんでした。 「ラナルドは、ロナルドの聞き違いではないの?」と思ったんですが、綴りは、「Ranald」で、「Ronald」とは、また、違う名前なんですな。 世の中、知らない事が多いのう。

  ちなみに、ラナルドさんは、日本滞在10ヵ月の後、長崎に入港したアメリカの船で、無事に帰国したそうです。 良かった良かった、それだけが心配でした。 その後、世界を股にかけて、活躍したらしいですが、やはり、行動力や決断力があると、そういう人生になるんですねえ。

  ちなみに、石碑自体は、もちろん、後世に作ったものです。 もし、これから行く事があったら、石碑を見るよりも、どんな所に上陸したのか、周囲の様子を、よく観察する事をお勧めします。 かく言う私は、タクシーの中から見るに留まったせいで、そのゆとりがありませんでした。 石碑を撮った、もろ逆光の写真が一枚あるだけです。


≪サケの養殖場≫
  たぶん、この辺だったと思うのですが、あまり、自信がありません。 ちょこっと寄っただけで、タクシーからは、下りませんでした。 サケの養殖は、卵を孵し、稚魚まで育てて、川へ放流するわけですが、サケには、海へ出て成長した後、故郷の川に戻る性質があります。 もし、この養殖場から、全ての稚魚を放流すると、みんな、ここへ帰って来てしまい、甚だ窮屈な事になります。 で、稚魚まで育てたら、利尻島各地の港へ分配し、そこで放すのだそうです。 稚魚は、いきなり海水につけると、まずいらしいのですが、うまくした事に、利尻島では、雪融け水が地下水になって、海岸線のあちこちから、淡水が湧き出しており、そういう所で放すから、大丈夫なのだとか。


≪姫沼≫
  利尻島の貸切タクシーで、最後に寄った観光地です。 景勝地と言うべきか。 もう、島をぐるっと一周して、北の端まで、もう少し、という所まで来ています。 「姫沼(ひめぬま)」は、利尻島で一番大きな沼。 利尻島では、湖沼は全て、「沼」ですが、これは、浅いからだとの事。 確か、水深5メートル以下が、「沼」だったかな。

  ここには、観光客が、たくさん来ていました。 島内最大の街である、鴛泊から近いから、そちらから、直に来ているのでしょう。 島を一周回って辿り着いたのは、私くらいのものだったのでは? ここでも、撮影スポットの背景は、利尻岳です。 沼の周囲は、深い森で、湖面には、ほとんど波がなく、静かで神秘的な雰囲気が漂っていました。 湖の中に、島があるのですが、それは、葦が固まって出来た、「浮島」で、風に流されて、あちこちに動くとの事。 おおお、浮島を見たのは、ここが初めてです。 本当に、そういうものがあるんですねえ。

姫沼


  畔に生えていた木で、トドマツとエゾマツの違いを教えてもらいました。 トドマツは、幹が白っぽく、葉が丸いです。 一方、エゾマツは、幹が黒くて、葉が尖っています。 いい事、教えてもらいました。 私は、若い頃に、短期間ですが、植木屋の見習いをしていた事があるので、木には、幾分、興味があるのです。 高山植物は、まるで駄目ですけど。

  姫沼の畔、ちょっと高い所に、山小屋風の建物があり、運転手さんに案内されて入ったら、写真を売っている店でした。 しまった、また、いざなわれてしまった。 プロの写真家らしい青年が、営んでいる様子。 運転手さんは、写真集を勧めてくれましたが、そちらは、千円以上したので、私は、利尻岳が写っている、単品の写真を買いました。 120円。 もし、利尻周辺にいる間に、山の雲が晴れなかったら、これが唯一、山頂が写った写真という事になるわけです。 私が撮った物ではないから、ネットで公開する事はできませんが、記念にはなるでしょう。


≪鴛泊≫
  「おしどまり」と読みます。 ○△商事から送られて来た日程表では、「鷲泊」になっていました。 つまり、○△商事の担当者は、利尻には、来た事がないわけですな。 一度来れば、「鴛泊」という、特徴的な名前を忘れるわけがありませんから。 すでに何度も書いているように、利尻島最大の街です。 稚内、礼文と結ぶ、フェリーの港がありますし、利尻空港も、すぐそばです。 ところで、「トマリ」というのは、アイヌ語で、「港」の事ですから、「鴛泊港」と言うと、「オシ港港」と言っている事になりますな。 ちなみに「オ・シ」は「岬の付け根」という意味だそうです。 別に、オシドリがいるわけではない様子。

  フェリー・ターミナルの前を通りました。 今年、出来たばかりで、二階から、直截、乗船できるようになっているとの事。 運転手さんの話では、同じ設備を、現在、礼文島・香深港のフェリー・ターミナルで、工事中。 稚内港では、まだ、そこまで行っていないのだそうです。 この情報は、翌日と翌々日に、私が自分の目で確かめる事になります。

  鴛泊のランド・マークは、「ペシ岬」という、港の横から海へ突き出した、大きな岩山です。 この岩山、遠くから見ると、鯨に見えるらしいのですが、運転手さんが、「実は、鯨ではなく、キング・コングだったのです」と言った場所から見ると、確かに、キング・コングの頭を斜め後ろから見た形にそっくりで、大笑いしました。 肩から頭頂部へかけてのラインが、ゴリラっぽいんですな。

ペシ岬のキングコング


  ホテルの前に着いたのは、5時10分くらいでした。 空港で、タクシーに乗ったのは、2時10分くらいでしたから、ほぼピッタリ、3時間、走ってもらった事になります。 最初に、「3時間ちょっと、かかる」と言われていましたが、予定より早かったのは、月曜日で、博物館が休みだった関係で、普段なら寄る所を、寄らなかったせいかもしれません。

  篤くお礼を言い、「楽しかったです」と言い添えたら、「また、来週、お願いします」と言われました。 もちろん、ジョーク。 静岡県から、ここまで、二週連続では、来れませんわ。 というか、たぶん、もう二度と来れませんわ。 資金的に。


≪ホテル≫
  ホテルは、「北国ホテル」という所で、鴛泊の街の中でも、ひときわ大きな建物でした。 初めて来た観光客でも、大きな建物を目印に歩いていけば、迷わず辿り着くというくらい、ドデンと目立ちます。  沖縄本島の北端に、「北国小学校」というのがありましたが、そちらは、「きたくに」。 こちらは、「きたぐに」です。

  フロントに行ったら、無人。 ベルを鳴らせとあるので、鳴らしたら、奥から人が出て来ました。 こう書くと、何だか、鄙びた旅館みたいに感じられるかも知れませんが、いやいや、そんな事はないのであって、立派な観光ホテルでした。 リゾート・ホテル・・・、ではないですな。 もちろん、ビジネス・ホテルでもなく、やはり、観光ホテルとしか言いようがありません。

  チェック・インすると、係の人が、旅行鞄を、先に部屋まで運んで行ってくれました。 このサービスがあったのは、沖縄・北海道を通して、このホテルだけでした。 他の係員に、ロビーの一角にある喫茶コーナーで、説明を受けました。 食事は、朝夕共に、7階のレストランでとり、夕食は、メニューが決まっていて、朝食は、バイキングだとの事。 大浴場の場所も説明されましたが、私は行きません。 翌朝の、フェリーの時間を訊かれ、日程表が、先に運ばれて行った旅行鞄の中に入っていて、答えられなかったのですが、向こうが言うには、大体、出発時間は決まっているとの話。 その時間までに、チェック・アウトしてくれれば、フェリー・ターミナルまで、送迎バスを出すとの事でした。

  その後、6階の部屋に上がりました。 まだ新しくて、綺麗な部屋でした。 その上、適度に広い。 ツインで、ベッドが二つ、椅子二脚の応接セットとは別に、書き物机まで置いてあるのに、狭くて通れないような所がありません。 やはり、このくらいでなければなあ。 部屋の一角の床の上に、ヒーターらしき箱がありましたが、エアコン機能があるかどうかまでは、調べませんでした。  室温は、暑くも寒くもなくて、使う事はないと思ったからです。 扇風機が置いてあったところを見ると、冷房はできないのかもしれません。 そもそも、道北では、冷房自体が、不要なのかも。

  冷蔵庫は1ドア。 湯沸しポットあり。 テレビは、地デジのみでした。 ユニット・バスは、平均よりは、広い方。 今回は、除菌ティッシュを持って来たので、先に、トイレの便座を除菌してしまいました。 これで、いつでも気軽に座れるというもの。 そういえば、トイレの蓋の上に、「除菌済み」と書いた紙が巻いてあったホテルがありましたが、ここだったのか、翌日の礼文のホテルだったのか、忘れてしまいました。 まあ、そういう断り書きがあろうとあるまいと、私は、自分で除菌し直すから、同じなわけですが、ホテル側に、「他人が座った便座は、不浄な状態になっている」という認識があるだけでも、評価に値します。 アメニティーの一つとして、除菌アルコールも、常備して欲しいものです。 いずれ、そうなって行くとは思いますが。

  窓からの景色は、いまいち。 鴛泊の街なかの、海からちょっと離れた所にあるので、どちらを見ても、家並みが手前に広がっているのです。 海側を向いている、私の部屋からでは、利尻岳は見えず、ペシ岬と、遠くに、礼文島の島影が見えました。 窓が、少ししか開かなくて、写真を撮るのに、苦労しました。 ホテルの窓サッシには、驚くほど、様々なタイプがありますが、ベランダがない場合、風が通るくらいしか開かない場合が多いです。 物を落としたとか、人が落ちたとか、そういう、事件・事故を防止する為でしょう。 それでも、開くだけ、マシなのかな? オフィス・ビルなんて、普通、嵌め殺しですけんのう。


≪ペシ岬≫
  荷物をテキトーに展開した後、ナップ・ザックに貴重品だけ入れて、ペシ岬へ出かけました。 5時50分くらいで、もう、だいぶ、日が陰っていました。 西にある沖縄では、日暮れが遅かったけれど、東にある北海道では、逆に、早くなるわけですな。 鴛泊のメイン・ストリートらしき通りに出て、港の方へ歩いて行きます。 途中、先ほどまで乗っていた、タクシーとすれ違いましたが、他のお客を乗せて、運転手さん、笑いながら、喋っていました。 貸切観光の仕事でなくても、常に喋り続けている様子。 それにしても、さっきの今なので、「もしかしたら、利尻島のタクシーというのは、そんなに台数がないのかもしれないな」と思いました。 サンプル、少な過ぎかもしれませんが。

  家並みの切れ目から、ペシ岬が見えるのですが、夕日に照らされて、黄金色に輝いていました。 15分ほどで、ペシ岬の麓に到着。 登り口は、タクシーで前を通った時に、運転手さんから聞いていました。 ちょっと高くなった所に、写真館があり、その前を通るようにして、階段で登って行きます。 まあ、そんなに入り組んだ所ではないので、行けば、何となく分かります。 ところで、「ペシ岬」と書いていますが、前にも書いたように、ここの場合、「岬=山」でして、私は、その山に登ろうとしているわけです。

夕日に照るペシ岬


  途中、平らになった広場があり、そこにも、「会津藩士の墓」がありました。 説明板を読むと、大体、沓形で聞いた運転手さんの話通りでしたが、「墓石は、新潟地方の石をもって刻み、海路、新潟より、この地に運んで・・・」と書いてあります。 え! 会津の石じゃないの? しかし、「新潟地方」の四文字は、上からシールを貼って修正した跡があります。 もしかしたら、運転手さんが、最初に聞いた頃には、「会津の石」と言われていたのが、後に詳しく調べたら、新潟産と分かり、直したのかも知れませんな。 考えてみれば、会津は内陸ですから、海まで墓石を運び出すのは、きつそうです。

  ペシ岬の標高は、93メートル。 散歩気分でも来れる山ですが、もう、日暮れ間近ですから、観光客は二組しかいませんでした。 途中ですれ違った二人は、中国語で会話していました。 苫小牧の、≪ノーザン・ホース・パーク≫や、登別の、≪マリン・パークニクス≫でも、客の大半が中国人で、北海道が大人気である事は知っていましたが、利尻まで来る、通好みもいるわけですな。 そういや、沖縄でも、中国人観光客は、大量にいましたが、聞いていると、ほとんどが、広東語でした。 北海道では、普通話と広東語が、半々くらいです。 この時、すれ違った二人は、普通話でした。

  頂上までは、そこそこ、きつい傾斜になります。 足元は、石がゴロゴロしています。 ただし、擬木の手すりが付いているので、転ぶ心配はありません。 頂上に着くと、日本人の若い女性が二人、石の上に腰を据えて、夕日が沈んで行く様子を見ていました。 若いといっても、学生みたいな年齢で、風情は全くなし。 「礼文島、めっちゃ綺麗!」とか言って、盛り上がっていました。 もっとも、気温が低い上に、風もあって、かなり寒く、盛り上がると言っても、地味にならざるを得ないようでしたが。 礼文島を見てみると、背後に落ちる夕日の光が、島の手前側に回り込んで、淡く輝いており、幻想的な雰囲気が漂っています。

  女性二人が、動きそうになかったので、この場で感傷に浸るのは諦め、写真だけ撮って行く事にしました。 北側に、灯台があり、頂上からだと、見下ろす形になります。 灯台を下に見るというのは、珍しいケースですな。 南側には、鴛泊港が見下ろせます。 漁港と、フェリー埠頭が隣り合っている格好。 高さ的にちょうどいいのか、建物や船の細部まではっきり見えて、まるで、ミニチュアのようです。 一通り、写真は撮ったので、寒い所に長居は無用とて、帰る事にしました。 初日から、風邪は引けません。

  下りでは、誰にも会いませんでした。 街に戻っても、人通りは、ほとんどありません。 すでに、6時半を過ぎており、夕闇がどんどん、濃くなりつつある時間でしたから、無理もない。 「ベスト電器」を発見。 街の電器屋さんを、少し大きくしたくらいの規模でした。 しかし、家電量販店チェーンの一店舗なのか、それとも、同名の個人経営店なのかは、分かりませんでした。 コンビニあり。 北海道でよく見られる、「セイコー・マート」でした。 その隣に、ホーム・センターもあります。 そういえば、運転手さんは、パチンコ屋もあると言っていました。 今日日、これだけ揃えば、都会と、ほとんど変わらない生活ができますな。 ネットや、ケータイ・スマホは、もちろん使えるわけですから。 


≪ホテルの夜≫
  ホテルに戻り、フロントの横にあった公衆電話で、家に電話。 無事に着いた事と、こちらは、天気がいいという事を伝えました。 なにせ、前日まで、「50年に一度の豪雨」というニュースをやっていた後なので。 母は、37年前に北海道旅行に来ていますが、利尻島には来ていませんから、こちらの観光地には、全く興味がない模様。 自分が行った事がある所だけ、ああだこうだと知ったかぶって、旅の経験を自慢をしたがる人なのです。

  夕食の前に、一旦、部屋に戻ります。 このホテル、非常に快適に過ごせたのですが、唯一の難点は、エレベーターが、なかなか来ない事でした。 上がる客と、下りる客が、重ねて、ボタンを押すと、上に行くべきか下に行くべきか、混乱するようで、せめぎ合いが起こるのです。 こんな機械も、珍しい。 いや、エレベーターのせいと言うより、食堂を、最上階に置いているのが、問題なのかも知れません。 上行きと下行きで、人間の流れが、かち合ってしまうんですな。 エレベーターが、2基あれば、こういう問題は起きないと思います。

  部屋に戻って、荷物を置き、食堂へ。 エレベターは、またもや、混乱していたので、階段で上がりました。 すぐ上の階だし、その方が早いです。 食堂では、部屋番号と名前を言って、名簿をチェックしてもらう仕組み。 席に案内されると、すでに、料理が並べてありました。 げっ! ちょっと待ってくださいな。 食堂が開いた時間は、6時で、この時、すでに、7時ですぜ。 するってーと、この料理は、1時間も出しっ放しだったわけですか? うーむ、まあ、致し方ないか。 ホテルではあるものの、典型的な、和風旅館型の夕食メニューで、品数が多いので、客が来てから並べるのでは、人出が足りなくなってしまいますからのう。

  それは分かっているものの、もし、食堂の締め切りである、10時半ギリギリに来たとしたら、4時間半も放置された料理を食べる事になります。 そういうケースも、あるでしょうなあ、きっと。 1時間で済んだ私は、運が良かったと思うべきなのか。 品目は、いちいち書きません。 北海道ですから、メインは、海産物です。 困った事に、私は、海産物が苦手なんですよ。 ウニも出ましたが、「磯臭いばかりで、どこがうまいのか、全く分からん」という人間に出しても、ドブに捨てるようなものですな。

  恐れていた、カニも出ました。 私は、カニの身は嫌いではありませんが、我が家では、買ってまでは食べないので、身の抜き方を知らないのです。 カニ鋏と、カニ匙があったので、切ったり掘ったり、悪戦苦闘し、一通り食べたものの、皿の上は、バラバラ殺人の解体現場の如き、惨憺たる有様になりました。 まあ、済んだ事は、いいとして・・・。

  炊き込みご飯と、野菜の煮物が、その場で火を焚く方式で、食べ始める前に、係の人が火を点けて行ってくれたのですが、他の物を食べ終わっても、まだ消えません。 火が消えるまで待った、あの、間の抜けた時間の事が忘れられませんな。 そういう時、一人だと、全く、格好がつきません。 だけど、その二品は、温かい料理だったので、ホクホクして、おいしかったです。

  最後に、このホテルの特製だという、「コンブラン」という、モンブランが、運ばれて来ました。 名前からも分かる通り、昆布が入っており、その味がします。 だけど、まあ、大雑把に見ると、モンブランでして、普通に、おしいかったです。 そういえば、箸置きが変わっていて、昆布を巻いたものでした。 食べられると書いてあったので、部屋に持ち帰り、旅行鞄に入れておきましたが、食べる機会がなく、結局、家で捨ててしまいました。

  何とか、夕食をクリアし、また、階段で、部屋に戻りました。 服を脱いで、洗濯。 持って来た石鹸を出すのが面倒で、備え付けの ボディー・ソープで洗ったら、意外に泡立ちがよくて、驚きました。 こうと知っていたら、沖縄でも、そうしたものを。 続いて、風呂。 といっても、シャワーだけですけど。 その後で、洗濯物を干しましたが、沖縄より、室温が低いので、乾かない恐れを感じ、扇風機を移動させて、その風を当てておきました。 これは、効果があるでしょう。

  その後、日記を書いて、11時頃、眠りました。


≪一日目、まとめ≫
  長い・・・。 今、ざっと数えてみたら、140段落、超えてますな。 公開日記に書いたのは、10段落くらいだったので、同じ日の記録を書き直して、こんなに長くなるとは、思ってもいませんでした。 帽子を買うところから始めて、バス、電車、新幹線、飛行機と乗り継いだ経緯を書き、その後に、メインの利尻島観光が続いたのですから、長引くのも、無理はないか。 本来、二回に分けるべき分量ですが、そうすると、まーた、終わるのが先に延びるからなあ。

  利尻島は、海岸線を、きっちり回って、3時間で、ほぼ一周してしまうくらいですから、決して、大きい島ではないのですが、ここに書き並べたように、見るものは、実に、たくさんあります。 ただ、もし、レンタカーなどで、自力で回るとしたら、私が行った所の、3分の2も行けないんじゃないでしょうか。 地元の人でなければ、知らないような所が、いくらもあったからです。 その点、貸切タクシーは、比べるものがないほど、強力です。 何せ、地元の運転手さんが、マン・ツー・マンでガイドしてくれるのですから。

  利尻岳が、雲に隠れて、上半分見えなかったのは、甚だ、残念。 もし、見えていたら、全島、どこから見ても、絶景だった事でしょう。 他に景色が良かったというと、姫沼と、ペシ岬ですな。 歴史的遺構は、後から作った石碑のようなものが多いので、見て面白いというものではありません。 しかし、事前に予習して行けば、相応の感動はあると思います。 あと、寝熊の岩と、ペシ岬のキングコングは、是非、見ておくべきです。

  ちなみに、海岸線以外の場所には、集落はないようでした。 道路も同様で、内陸の方には、登山道しかなさそうです。 利尻岳の登山は、結構、ハードらしいと、礼文島に行ってから、そちらの運転手さんに聞かされました。 利尻岳の話題は、礼文でも、稚内でも出ました。 この近辺では、特別な存在なのです。 それは、実際に来て、見てみると、よく分かります。