2014/09/14

さよなら、宮古島

  沖縄旅行記の六日目です。 ようやく、半分を過ぎたか。 これを書いている時点で、沖縄旅行は、すでに、一ヵ月半も昔の事になっており、細かい記憶は、どんどん薄れつつあります。 日記があるから、欠けた部分を補って、復元できるのです。 旅行中、苦労して書いておいて良かったと思う一方で、「どうせ、旅行記に書き直す事になるのなら、日記の方は、箇条書きでも良かったかな」とも思います。

  ちなみに、写真も、日記を補足する上で、とても役に立ちます。 日記というのは、乗り物の待ち時間や、就寝前など、暇が出来た時に、過去数時間の事を思い出しながら書くので、時刻は曖昧になりがちです。 その点、デジカメは、撮影時刻が記録されるから、写真さえ撮っておけば、何時何分に何をしていたという事が、容易につきとめられるわけですな。 旅行に出かける前には、カメラの時計を、正確に合わせておかねば。

  ちなみに、沖縄旅行に持って行ったのは、2012年の夏に買った、≪FUJI FINEPIX JX550≫です。 SDカードは、512MBのと、2GBの二枚で、先に、512MBの方を使ったのですが、途中で、満杯になってしまい、2GBのに入れ替えました。 最初から、2GBのを入れておけば、入れ替える必要はなかったのですが、リスク分散も念頭にあったので、そうした次第。 カメラの紛失とか、水没でオシャカとか、不慮の事故が起きた場合、撮影済みのメモリー・カードを別にしておけば、そちらだけは助かるという仕組みです。

  カメラは、常に、シャツの胸ポケットに入れ、すぐに出せるようにしていました。 その為に、≪JX550≫を買ったと言っても、過言ではない。 私は普段、もう一台、高倍率ズーム機の≪PENTAX X70≫というのも使っているのですが、そちらは、大き過ぎて、旅行にゃ、とても、持って行けません。 そういや、他の旅行客を見ていると、デジタル一眼に、望遠ズームをつけている、オッサン、ジーサン達を、非常によく見かけますが、撮影旅行に来ているのならともかく、観光が主目的であれば、あんなデカいカメラは、行動の制約になるだけです。

  家族で旅行に来ているのに、父親が写真趣味で、撮影スポットにへばりついてしまうので、なかなか、先へ進めず、他の家族が大迷惑、というのは、よく見る光景です。 集団行動している事について、配慮が足りず、自分の趣味を優先するというのは、精神年齢が、子供のままの証拠。 そんなに、芸術写真をものにしたかったら、一人で来なさいよ。 そも、芸術写真にしてからが、観光旅行のついでに撮れるような簡単な物ではないです。

  逆に、滅多に来れない遠出の旅行なのに、スマホで済ませるというのも、いかがなものかと。 たとえば、家族で来ていて、「記念写真は、お父さんがデジカメで撮ってくれるから、お母さんは、スマホで補足」というなら分かりますが、スマホだけっつーのはねー・・・。 スマホやケータイ・カメラの最大の問題点は、カメラ・モードに切り替えるのに、時間がかかる事でして、デジカメのように、電源ボタンで起動させれば、あとはシャッター・ボタンを押すだけ、というわけには行きません。

  景勝地の撮影スポットで、一番腹が立つのは、スマホのカメラ・モードを呼び出すのに手間取っている馬鹿で、たった一枚の写真を撮るのに、1分以上かかる場合もあり、順番を待っているこちらは、「束~頁むから、景勝地で、スマホ撮影すんの、やめてくれ~」と思うのです。 何が不様と言って、自分の所有物なのに、使い方が分からずに四苦八苦している奴ほど、惨めなものはない。 猿か? そもそも、おまいら、デジカメ、買えんのか? 今じゃ、5倍ズーム機が、8000円もせんぞ。


  はっ! 何を長々と、カメラ話なんぞ書いているのか! それでなくて、遅れに遅れている旅行記が、まるで進まないではないか!


  で、沖縄旅行の六日目、7月27日(日)です。 この日は、宮古島から、沖縄本島へ移動する日。 と言っても、飛行機の時間は、午後1時25分ですから、午前中は、丸々空いている事になります。 ○△商事の日程表では、「出発まで、フリー。 各自空港へ」となっていて、この記述には、結構、考えさせられました。 街から遠く離れたリゾート・ホテルにいるわけで、「フリー」と言われても、徒歩では行ける所が限られています。

  空港への足は、ホテルの送迎バスがあるから、自腹を切らなくても済むのですが、厄介なのは、ホテルを出る時間でして、11時までにチェック・アウトしなければならないのに対し、バスの時間は、11時40分で、ホテルの狭いロビーで、40分も待たなければなりません。 どうも、このホテル、送迎バスでも、シャトル・バスでも、時間の調整が、うまく行きませんな。 所詮、隣のホテルのオマケだからでしょうか? 隣のホテルに泊まっていれば、全て、ピタピタとうまい具合に進むのだとしたら、腹立たしい事です。 まあ、その分、こちらのホテルの方が、宿泊代は、安いんでしょうけど。

  で、宮古島に到着した初日の夜に考えたのが、「すぐ隣に、≪ドイツ村≫があるのだから、27日の午前中にそこを見る事にして、26日の貸切タクシーでは、それ以外の所を回ってもらおう」という算段でした。 ところが、貸切タクシーの運転手さんは、私が何も言わなくても、ドイツ村には行きませんでした。 出発前に、私が、「史跡と景勝地が見たい」と言ったので、ドイツ村はそのどちらでもないわけで、自動的に避けてくれたという事が、考えられる一つの理由。 もう一つは、ホテルのすぐ隣にありますから、「わざわざ、タクシーで寄らなくても、歩いて行くだろう」と判断してくれたのでしょう。


≪ホテルの朝≫
  5時50分頃、目覚めました。 前の晩、8時には眠ってしまったので、断続的ながら、9時間以上眠った事になり、ホテルでの睡眠としては、充分と言えます。 なぜ、この夜、たっぷり眠れたか考えるに、たぶん、翌日が、フリー・タイムと移動日で、他人に気を使わずに動けると思って、緊張が解けたのでしょう。 緊張し過ぎても眠れないし、弛緩し過ぎても眠れないし、人間の精神状態というのは、厄介なものです。

ドイツ村博愛館から昇る朝日


  このホテルは、長期滞在者向けなので、宿泊中、ホテル側の掃除は入りません。 タオルやシーツなど、アメニティー類は、各階のエレベーターの前にある箱に、自分で入れに行き、替えが必要なら、フロントから貰ってくるというシステムです。 私の場合、たった二泊で、しかも、ツインの部屋を一人で使っていたので、タオル類は充分にあり、わざわざ替えを貰いに行くまでもありませんでした。

  使ったタオルは、浴室や洗面室に置きっ放しだと、不潔な感じがするので、この朝、洗面が済むなり、箱へ入れに行きました。 その後、着替えて、寝巻きも入れに行ったのですが、ここで、ちょっと考えました。 「寝巻きを入れたとなると、シーツも入れなければならないような気がするが、それでは、あまりにも、多くなり過ぎないか? 箱が満杯になってしまうぞ」と・・・。 しかし、悩み始めたのも束の間、「下らん! どうせ、今日でチェック・アウトするんだから、そのままにしておけばいいではないか」と思い直しました。

  どうも、こういう所に泊まると、手のかからない、模範的な客を演じようとして、余計な事ばかり思いつきます。 掃除係は、片付けるのが仕事なのだから、客の方は、過度にちらかしたり、汚したりしなければ、それで、充分なのです。 部屋を出る時に、トイレット・ペーパーの先を三角に折ってやる必要など、更になし。 感心・感謝されるどころか、「変な客」と、逆に馬鹿にされてしまいます。

  下らない話を、もう一つ。 クローゼットの扉が、金属製で、屏風式に開くのですが、片側が、ガタガタして、動きが悪い。 背伸びして、見てみたら、上側の突起が、レールから外れていました。 ここで、また、悩みます。 最初に部屋に入った時には、すんなり開閉していたのだから、外したのは、私という事になります。 という事は、このままにしておいたら、器物破損という事になり、後で、家に電話が来て、損害賠償請求されるのではありますまいか? それは、面倒臭い。

  で、あれやこれや弄って、構造を観察した末、突起がレールに入る位置を発見し、何とか、元に戻しました。 しかし、よく考えてみると、理不尽な話です。 私が、乱暴に扱って壊したというならともかく、普通に使っていたのに外れてしまったのですから、元から外れ易くなっていたに違いありません。 なんで、私が、こんな所で、クローゼットの修理をせねばならんのよ? しかも、更に腹が立つ事に、直った瞬間、少なからぬ達成感を覚えてしまったのです。 あああ、宮古島まで、何しに来ているのだね、私は・・・。

  朝食のために、隣のホテルへ。 この朝は、シャトル・バスに乗りました。 理由の第一は、汗を掻きたくなかったから。 ≪ドイツ村≫の観光は、そんなに時間がかかりそうではなかったので、時間のゆとりは充分にあり、シャトル・バスの始発時刻、7時55分まで待っても、問題なかったというのが、第二の理由。

  朝食は、また、バイキング専門レストランです。 ここへ来てから、四食すべて、バイキング。 後から考えると、一回くらい、他のレストランへ行っても良かったのですが、とにかく、面倒臭い事を避けたかったんですな。 まったく、食事というのは、菓子パン一個で済む時もあれば、数千円の予算を使い、コース料理を食べなければならない時もあり、一筋縄では行きません。

  コース料理は、贅沢で高級なものと見られていますが、温かい料理が冷めず、冷たいデザートが融けないというだけメリットしかなく、食べる順番に自由が利かないという点で、デメリットの方が多いと思います。 すなわち、客の意思より、店の意思が優先するわけですが、世の金持ち達が、大枚はたいて、自ら、そんな弱い立場に身を置きたがるのは、滑稽の窮みですな。

  何を食べたかは、四回とも、詳しくは覚えていません。 このレストランは、バイキング専門店だったので、普通の、ホテルの食堂で用意されるバイキングよりは、品数が豊富でした。 しかし、沖縄に関しては、どこも、そんなに大きな差はなかったように思えます。 好きなものしか取らないので、そもそも、まずい物に当たる確率は少ないのですが、その事を別にしても、沖縄料理には、外れがありませんでした。 素材の味に頼らず、調理でうまくする系統の料理だからでしょうな。


≪うえのドイツ文化村≫
  レストランを出て、すぐ隣の、ドイツ村へ。 正式名称は、≪うえのドイツ文化村≫で、「うえの」というのは、平成の大合併で、宮古島市が出来る前の、この地区の自治体の名前です。 ちなみに、合併前に存在していたのは、平良市、伊良部町、上野村、城辺町、下地町。 上野村だけ、村ですが、確かに、この辺には、大きな街がありません。 だからこそ、リゾート施設が出来たとも言えます。

  なぜ、宮古島に、ドイツ村があるかというと、1873年に、ドイツの商船が、近くで座礁し、それを上野村の村人が助けたのがきっかけで、ドイツとの交流が始まり、1996年に、この施設が作られたのだそうです。 長崎のハウステンボスほどではありませんが、一応、歴史的経緯があるわけで、商業主義オンリーで、テキトーにデッチ上げられたテーマ・パークよりは、正統な感じがします。

  このパターンをなぞるなら、石垣島は、≪唐人墓≫の近辺に、≪ふさき中国文化村≫を作る権利を留保する事になるわけですが、あちらの場合、歴史的事件の内容が悲惨なので、テーマ・パークにゃ向かないかもしれませんな。 そういや、私が住んでいる沼津市の戸田地区(旧戸田村)は、幕末に駿河湾で沈んだロシアのディアナ号乗組員を受け入れて、洋式帆船を建造したりしていますから、≪へだロシア文化村≫を作る権利があるわけだ。 しかし、戸田は、土地が狭いから、厳しいかな。 ディアナ号の乗組員を救助したのは、富士市の宮島村なので、富士市も、≪みやじまロシア文化村≫を作る権利があり、そちらに取られてしまうかも知れませんな。

  冗談はさておき、ドイツ村を見るに当たって、疑問に思うのは、やはり、「わざわざ、宮古島に来たのに、なぜ、ドイツ文化に親しまなければならないのか?」という事ですな。 宮古島の文化が、ドイツの影響で、変化し、ドイツ料理が定着しているとかいうなら、また、話は別ですが、それほど深い関わりではない様子。 その辺は、長崎や、横浜、神戸、函館といった、外国との交易港になっていた所と、大きく事情が異なる点です。

  前日の夕食の時に、近道をする為に、ドイツ村の敷地内を、すでに通っていたのですが、この時は、正式に訪ねたので、一度道路に出て、正門から入り直す事にしました。 書き忘れていましたが、この道路には、「ナンヨウスギ」の並木があります。 この木、見上げるような高さで、二等辺三角形の樹形を持つのですが、濃い緑色の葉がフサフサと、柔らかそうな見た目で、一種、現実離れした存在感があります。 てっきり、沖縄に昔からある木かと思ったんですが、タクシーの運転手さんに訊いたら、割と最近になって、植えられ始めたのだとか。 帰ってから調べたら、オーストラリア原産でした。

ナンヨウスギの樹形(左)/ フサフサの葉(右)


  ドイツ村は、入園だけなら、無料なので、門には誰もいません。 門の上には、

WILLKOMMEN !
うえのドイツ文化村
Ueno German Culture Village

  と、書いてあります。 なぜか、一番下は、英語。 ちなみに、ドイツ語では、ドイツの事を、「Deutschland(ドイチュラント)」と言います。 ついでながら、フランス語では、ドイツの事を、「Allemagne(ラルマン)」と言います。 頭が、キリキリして来ますな。 日本が、いつまで経っても、「ジャパン」とか、「ヤーパン」とか、「ハポン」とか言われるのも、致し方ないか。

  テーマ・パークに分類されていますが、遊園地的な施設は皆無で、「資料館がある、公園」とでも言った方が、正確にイメージできると思います。 園内は、そこそこの面積がありますが、「レジャー・シートを敷いて、お弁当を食べる」といった行為は、些か、ためらわれる程度の広さ。 すでに、9時15分くらいになっていましたが、園内には、誰もいませんでした。 凄い! 私の貸切だ!

  まずは、園内運河の端の部分を利用した、ケヅメリクガメのケージに寄りました。 リクガメですから、もちろん、この部分には、水はありません。 前日の夕食の後、ここを通って、ケージがある事を知ったんですが、その時は、亀の姿がありませんでした。 「夜は、取り込むのかな?」と思っていたのですが、朝行っても、やはり、いません。 名前は、「のこちゃん」と書いてありましたが、どこに行ったんだろう? 推定年齢、35~45歳。 うーむ、さぞや立派な、ケヅメリクガメだと思われるのですが。

  次に、「シュレーダー首相 来島記念碑」へ。 2000年の沖縄サミットに参加した時、ここへ寄ったのだそうです。 沖縄サミットというと、ついこないだのような気がしますが、もう、14年も経つんですなあ。 ちなみに、シュレーダー氏は、2004年に他界しています。 当時のサミット参加者で、今でも現役で、トップの地位にあるのは、ロシアのプーチン氏だけ。

  メイン施設である、「博愛記念館」へ。 ドイツのマルクスブルグ城を模した建物で、遠くから見ると、ヨーロッパの城そのもの。 でも、近くに寄ると、石垣も石積みの壁も、セメントに鏝で模様をつけた、「似せ物」である事が分かります。 たぶん、建物の本体は、鉄筋コンクリートなのでしょう。 しかし、これは、無理もない事で、本当に石積みの城を作ったら、いくらかかるか、分かったもんじゃありません。

シュレーダー首相来島記念碑と博愛記念館(左)

博愛記念館の、鏝で作った石垣模様(右)


  それはいいとして、私にとって問題だったは、この博愛記念館が、有料だという事実です。 しかも、750円! 宮古そばが食べられる値段ではありませんか。 これは、払えんわ。 という事で、パス。 ドイツ村のサイトによると、中には、展望室や、マルクスブルグ城の「騎士の間」、「婦人の間」、「礼拝堂」、「台所」を再現した部屋、それに、「ドイツ商船救助物語」の展示などがあるそうです。 せめて、200円くらいなら、入ったんですがね。

  城の周りをぐるりと回った後、「キンダーハウス」へ。 この中には、グリム童話に関する資料や、ドイツの玩具の他に、目玉として、「ベルリンの壁」の本物が、二枚、展示してあるとの事。 ここも有料で、210円。 高くはないですし、玩具とベルリンの壁はともかく、グリム童話には、幾分、興味があります。 しかし、朝食後に、ぐいぐい歩いたせいで、腹が重くなり、体もだるくなって、資料を見て回る気力が出ず、結局、パスしました。 入口から覗くと、衝立の向こうに、ベルリンの壁の上の部分が飛び出していたので、外から写真だけ撮って来ました。

キンダーハウス(上)/ ベルリンの壁の上端(下)


  「ンナト浜」へ。 「ソナト」の間違いかと思ったんですが、ドイツ村のサイトでも、「ンナト」になっており、正しいようです。 アフリカ言語以外にも、「ン」で始まる単語が存在したのか。 小さな砂浜ですが、ここが、遭難者を救助した現場らしいです。 地元の子供達の遊び場になっていると事。 入園無料だから、そういう事が可能なわけですな。 この近所の子供達は、幸せだ。 もっとも、私が見た限りでは、ここまで、徒歩で遊びに来られる範囲内に、一般の住宅は見当たりませんでしたが・・・。 

  近くに、「ドイツ商船遭難の地碑」があります。 手すりが付いた、台座の上に、四角柱の石碑が載っていて、何だか、お墓みたいに見えます。 碑文の字を書いたのは、戦前・戦中の首相、近衛文麿。 しかし、碑が建てられたのは、1936年なので、1940年の「日独伊三国同盟」とは、直截の関係はない様子。

  「博愛橋」という、古色のある、ヨーロッパ風の橋がありました。 しかし、建設年を見たら、「平成5年」でした。 一見、アーチ橋のように見えますが、こんなに長くて平たいアーチで、強度がもつわけがないので、たぶん、本体は鉄骨橋なのでしょう。 そこを渡ると、「パレス館」という、ドイツ村の中で、最も、しっかりした造りの建物があります。 現在、休館中との事で、入れませんでした。 何に使われていたのかも不明。

  パレス館の前から海に突き出た、突堤あり。 その中程の場所から、西の方を見ると、海の中に、「ハート岩」があります。 ここの、ハートも、池間島のと同じで、海食された穴の部分が、ハート形に見えるというもの。 しかし、私が行った時には、下3分の1が海中に没していて、ハート形として見るには、大変な困難を感じました。 周囲の岩場には、打ち上げられた珊瑚の破片が、ごろごろしています。

  これで、ドイツ村の観光はおしまい。 東の方には、「シースカイ博愛」という名の、「半潜水式水中観光船」の乗り場があるらしいのですが、乗船料2000円で、とてもじゃないが、払えないので、最初から、見に行きませんでした。 パレス館から、そのまま、西側の門を出て、道なりに歩いて行ったら、私が泊まっているホテルの敷地に出ました。 なんだ、こんな近道があったのか! 最初から知っていれば、隣のホテルまで、5分くらいで歩けたものを・・・。 もう二度と通らないという時に知って、どうする?


≪宮古空港へ≫
  ホテルの部屋に戻ったのが、10時15分。 送迎バスは、11時40分の前が、10時35分で、急げば、それに間に合いそうです。 別に、早く、空港に着いても、飛行機の時間は変わらないのですが、私は、こういう状況を、「絶好のチャンス」と思い込んでしまう癖があり、バタバタと、荷物を纏め、フロントへ行って、チェック・アウトしました。 10時30分頃、送迎バスがやって来ました。 一昨日、空港から乗って来たのと同じ、マイクロ・バスです。 10人くらい乗って、出発。 約20分で、宮古空港に到着しました。

  もし、11時までホテルで粘って、ギリギリにチェック・アウトしていたら、ホテルのロビーで40分待つ事になったわけで、それを避けられたのはいいのですが、一本早いバスに乗った結果、予定より、1時間も早く、空港に着いてしまい、飛行機の時間まで、2時間半も待つ事になりました。 ホテルの狭いロビーよりは、広い空港の方が、環境は良いわけですが、それにしても、2時間半は長い。

  まず、三日ぶりに、家に電話。 さすがに、公衆電話がない空港はありません。 家の方は、別に心配していなかった様子でした。 そりゃそうです。 子供じゃないんですから。 次に、3階の「送迎デッキ」に上がりました。 屋上というわけではありませんが、屋外で、自然公園に置いてあるような、ごっつい木製の、椅子と一体になった机が、四つばかり、置いてあります。 その内の一つに陣取って、日記を書きました。 屋外だから、かなりの暑さですが、日陰にいれば、汗がダラダラ流れてくるというような事はありません。 沖縄の夏は、日差しこそ強けれ、気温は、30℃を超える事はなく、猛暑酷暑の本州より、むしろ、涼しいのだそうです。

  この送迎デッキ、滑走路側だけでなく、表側にも回る事ができましたが、飛行機を見るには、充分であるものの、遥か遠くまで眺望が利くという高さではありません。 それでも、ちょっと高い所から見ると、宮古島が、いかに平坦な島であるかが、よく分かりました。 ほんと、山がないんですよ。 暑さより、飛行機のエンジン音のうるささの方に、ダメージを受けつつ、それでも、送迎デッキの机で、1時間くらい、日記を書いていました。

宮古空港の送迎デッキ(上)/ 平坦な宮古島(下)


  この沖縄旅行でも、その後行った、北海道旅行でも、私以外に、紙のノートに日記を書いている人間を、一人も見かけませんでした。 ノート・パソコンを開いている人はいましたが、画面を見ているだけで、キーを叩いていてはいません。 スマホ組は、ほとんど、ゲームですな。 昨今は、スマホでもケータイでも、文字を打ち込んでいる光景を見かけなくなりました。 ケータイ・メールも、所詮、ブームに過ぎなかったのか。 紙でも、電子機器でも構わないのですが、せっかく、旅行に来ていて、飛行機の待ち時間という、ちょうどよい暇があるのに、なぜ、日記を書かぬ? 書いておかなければ、みんな忘れてしまうのですぞ。 たった一行の記録が、どれだけ貴重か分かるのは、10年後、20年後です。


≪宮古から、那覇へ≫
  航空会社は、全日空です。 12時頃、搭乗手続きして、保安検査場を通り、待合場に入りました。 昼食は抜き。 売店を見ていたら、≪ミニ・リアル・シーサー≫という、ペアのシーサーが、270円で売っていて、安かったので、買いました。 実は、どうしても、シーサーが欲しいというわけではなかったのですが、この後、本島へ行ってから、路線バスに乗る予定なので、一万円札を崩しておきたかったのです。 ≪ミニ・リアル・シーサー≫自体は、ネットでも手に入るくらいですから、恐らく、本島でも売っていたでしょう。

  背丈は、3.5センチくらい。 色は、なるべく、赤瓦のイメージに近いのをと思って、オレンジにしました。 そこそこ、ユーモラスな顔をしています。 屋根に載せるシーサーというのは、元々、瓦職人が、余った材料を使い、手作りする物なので、芸術家が作る、真に迫った唐獅子風よりは、少しユーモラスな顔の方が、より、リアルなわけですな。 そういう理由で、商品名が、≪ミニ・リアル・シーサー≫になっているのではないかと思われます。

  普通、出発時刻の15分前には、搭乗ゲートが開くのですが、この時は、10分前を過ぎ、1時27分頃になって、ようやく、一般客の搭乗が始まりました。 他人と競わない主義の私としては珍しく、2番目くらいで、ゲートを通りました。 機体は、≪B737-500≫。 初めて、乗ります。 左右3席ずつの6席が、22列で、計132席。 私の席は、「16F」で、主翼のすぐ後ろの、右の窓側でした。 この時も、隣の席は空席。 運がいいですが、あまり、こんな事ばかり続くと、「誰かの陰謀に嵌まっているのでは?」と思えて来ます。

  CAは、三人くらいいましたかね。 一人は、教育中のように見えました。 機内にモニターはなく、緊急時の注意は、CAの実演。 ドリンクは希望者だけ。 飴が配られたので、一つ貰いました。 マスカット味で、袋に、「ANA」と記してありました。 持って帰りたいところですが、食べ物だと、記念品にするわけにも行かないので、結局、なめてしまいました。

  この機体、天井の方に、空間が大きく取ってあって、≪B777≫や、≪B767≫より小さい機体なのに、圧迫感は少なかったです。 内装のデザインが角っぽいだけでなく、飛び方も硬くて、主翼が、ほとんど撓まずに、しっかりと空気を捉えて、上昇していきます。 飛行時間、50分。 外は、雲と海だけで、島は全く見えませんでした。 というか、宮古島から、本島までの飛行コース上には、そもそも、島がないんですな。  あっという間に、本島上空へ。 やはり、本島は大きくて、田畑がたくさん見えます。 着陸前は、だいぶ揺れました。 低空の気流が、乱れていたんでしょうな。 それでも、主翼は、撓みませんでしたが。

≪B737-500≫の主翼



≪那覇空港から、本島北部へ≫
  那覇空港は、大きな空港でした。 羽田よりは小さく、新千歳よりは大きいといったランクでしょうか。 他の便に乗り換える客が、かなりいて、人の流れについていく手が通用しませんでしたが、天井に付いている、「到着」の案内標識を辿っていけば、何とか、外には出られるものです。 こういう時、荷物を機内持ち込みしていると、外へ出る事だけ考えればいいので、気楽です。

那覇空港の、「めんそーれ」


  ターミナルの建物を出て、すぐ前が、路線バスの停留所になっていました。 二ヵ所しかなく、そこに、いろいろな方面行きのバスが停まります。 石垣島のバス・ターミナルと似たような方式。 しかし、こちらの方が、行き先のバリエーションは多そうです。 空港を出ただけで、那覇が、半端でない都会である事が、雰囲気で分かり、恐怖感が盛り上がってきました。 単に、そこを通過するだけの者にとって、都会ほど始末に負えない所はありません。

  来る前に、ネットで調べたところでは、午後3時のバスに乗る予定だったんですが、停留所の時刻表を見たら、2時30分のがありました。 まだ、2時22分なので、充分に間に合います。 ネットで調べた時にも、同じ時刻表だったはずですが、飛行機の到着予定時刻が、2時15分だから、2時30分のバスでは、間に合わないと判断して、その次の便をメモったのかも知れません。

  で、そのバス停で、待っていたんですが、2時30分になっても、バスが来ません。 これだよ! バスは、渋滞加減によって、遅れがあるから怖いのです。 必ず、そこに来るという確信があれば、動ぜずに待つんですが、初めての街であり、確信どころか、自分の判断など、小指の爪の先ほども信用できない有様。 先に、他に行く便が来たので、≪ローカル路線バス乗り継ぎの旅≫を参考に、運転手さんに訊いてみたところ、場所はそのバス停で、間違いないとの返事でした。

  しかし、来ないのです。 私の後ろで待っていた、欧米系の青年は、何も言わずに待っていますが、日本のバスが、結構いい加減である事を知っている私は、不安メーターの針が、レッド・ゾーンにヒクヒク達し、いても立ってもいられず、そこを離れて、空港ターミナルの中に引き返しました。 新千歳では、空港ターミナルの中に、バス会社の案内所があったので、那覇空港にもあるのではないかと考えたのです。 さんざん、歩き回った末、それらしきカウンターを見つけたものの、 それは、観光バスの案内所で、「路線バスなんか知らんわ」的オーラが漂っています。

  そこで訊くにしても、一度、バス停の様子を見てみようと思い、建物の中から、外を覗いたら・・・、あらやだ! バスが来ているじゃありませんか! 「120番路線 名護行き」、 間違いありません! なんと、9分も遅れて、到着したのです。 もし、この時、バス停を確認していなければ、一本、乗り逃すところでした。 大慌てで、外に出て、バスに乗り込みます。 先程まで、私の後ろで待っていた、欧米系の青年は、すでに中にいて、落ち着いて座っていました。 信じよ、されば救われる・・・、か。

  2時39分に出発。 私は、一番後ろの席に陣取りました。 座席は、常に八割方、埋まっていました。 観光客が半分、地元客が半分。 那覇空港から、本島北部の、「幸喜(こうき)」というバス停まで、約2時間10分、窓から差し込む、強い日差しに照りつけられながら、のど飴を舐め舐め、乗り切りました。 のど飴は、八重山での船旅用に、家から持って来たものですが、まだ余っていたので、バスの酔い止めにしたもの。

  とにかく、那覇は大きい。 高層ビルが林立しており、これは、文句なしの大都会です。 しかも、本州の大都市と違って、「今、将に、成長中」という躍動感があります。 植物に詳しくない人でも、枯れ木と、生きた木を見分けるのが容易なように、生きている都市と、死んだ都市の区別も、一目で分かるものなんですな。 ≪那覇市役所≫のデザインたるや、まるで、SFです。 また、どこまで走っても、街が途切れません。 那覇から、国道58号線を、北東へ上って行ったんですが、浦添、宜野湾を通過し、普天間基地が山側に見えてくるまで、市街地が、ずーーーっと続いていました。 どんだけ、人口が集中しているのか・・・。

那覇市役所


  一旦、基地が見え始めると、今度は、ずーーーっと、基地です。 こんな広大な敷地を、一体、何に使っているのか・・・。 恩納村の辺りから、基地が見えなくなり、今度は、右が山、左が海で、ずーーーっと、リゾート地。 リゾート・ホテルが、一定間隔で、駅のように点在しています。 極端な言い方をすると、私は、那覇空港から幸喜まで、「市街地」、「基地」、「リゾート地」だけを見ていた事になります。

米軍基地


  余談ながら、 一番後ろの席に座ったお陰で、側面窓に比べて、汚れが少ない、後ろの窓から、外の景色を撮影する事ができました。 たとえ、側面窓が綺麗だったとしても、横を撮ったのでは、街路樹が流れて、ろくな写真にならないので、バスに乗っている時に、外の写真を撮りたかったら、最前席か、最後席に限ります。

  幸喜に到着したのは、4時52分でした。 もう夕方です。 バス代、1760円。 これは、事前に調べておいた通りの金額でした。 今のバスの運賃箱は、インテリジェントで、投入した金額が、モニターに表示されます。 逆に考えると、この機械がなかった頃の、バスの運転手さんは、お客がいくら入れたか、一瞬で見て取られなければならなかったわけで、超能力的判断力を必要とされたという事になりますな。

  ちなみに、お札は、硬貨とは別の投入口に入れるのですが、そこが、両替機能と兼用になっていて、機械がどうやって、両替と支払いを区別しているのか、理解できませんでした。 整理券を読み取って、運賃より、投入したお札の金額多かったら、自動的に両替するとか? 整理券は、運転手さんが確認しているんじゃないの? さっばり、分かりません。 こういう事は、一度や二度乗ったくらいでは、分からず、バスで通学・通勤している人だけが、見抜けるのかも知れません。


≪幸喜のホテル≫
  この日から、三泊する事になるホテルは、パンフによると、「バス停から、徒歩1分」との事でしたが、実際には、競歩でも、3分はかかる距離でした。 まあ、大した違いではないか。 道路を挟んで、ホテルが向かい合っており、私が泊まるのは、山側の方。 向かいの海側のホテルの一階に、コンビニが入っていて、リゾート・ホテルとしては、買い物の便がよさそうです。 夜、口寂しいので、まず、このコンビニに入り、「ブルボン・プチ 黒ココア」を買いました。 飲み物ではなく、ビスケットです。 80円。

  で、私が泊まるホテルですが、宮古島で泊まった、マンションにしか見えないホテルよりは、リゾート・ホテルっぽいものの、何となく、外観が貧相です。 「やっぱ、予算の制約があるのかのう・・・」と、思いながら、見上げましたっけ。 でも、入ってみると、思ったよりも、ずっと、ホテルらしいホテルでした。 大変、失礼しました。

  そこそこ広いロビー。 ロビーの面積の割には、大きい売店。 フロントには、係が3人。 やはり、このくらい、いてくれなくてはねえ。 部屋のキーに、夕食券・朝食券、それと、売店の一割引券を貰いました。 一割引券は、レストランのドリンクにも使えると説明されましたが、私は酒を飲まないので、用なしです。 朝食券と夕食券は、一日分ずつ、外出から帰って来た時に渡すとの事。 なぜなのかは、分かりません。 紛失する人がいるんでしょうか?

  ロビー隅のエレベーター脇に、大型水槽があり、ケヅメリクガメが飼われていました。 宮古島のドイツ村で、「のこちゃん」に会い損ねた後だったので、「はっ!」としました。 しかし、こちらのは、ずっと若くて、水槽に入る程度に小さく、せいぜい、5・6歳といったところ。 名前は、「のんちゃん」。 うーむ、イメージがダブるな。 まさか、親子じゃあるまいな。

  6階の部屋へ。 6階ともなると、エレベーターが必要不可欠ですが、ここのエレベーターは、冷房が入っておらず、乗る度に、ムンムンしました。 部屋は、ツイン。 ユニット・バスは、狭い方でした。 特に、洗面シンクが小さくて、顔を洗うと、足元に水が落ちて来るくらい。 これでは、洗濯など、とてもできません。 しかし、その代わりというわけでもないでしょうが、キッチンがついており、そちらのシンクは大きかったので、そこで、洗濯できました。

  最もありがたかったのは、部屋の壁に、二ヵ所、フックが付いていた事です。 これがあれば、洗濯紐が張れるのです。 そういや、折り畳み式の、物干し台もありました。 高さ、50センチくらい。 たぶん、海で泳いだ客が、水着を干す為のものでしょう。 私は、トランクスや、お絞りタオルを干していましたが。 決して、広い部屋ではないものの、こういう設備が整っているのは、リゾート・ホテル運営の経験値が高い証拠ではないでしょうか。 部屋の豪華さなどは、10分もすれば慣れて、飽きてしまうのであって、後は、短時日とはいえ、「住む」わけですから、より住み易くする方が、客の受けはいいと思います。

  食事は、朝も夕も、バイキング・オンリー。 あー、気楽で、いーわー。 初日の夕食は、7時から開場のところ、6時55分くらいに行ったら、一番乗りできました。 バイキング・オンリーだけあって、出す方も、バイキング慣れしているのか、品数は多かったです。 宮古島のバイキング専門レストランに、優るとも劣らない。 取り過ぎて、食べ過ぎ、せっかく、デザートにアイスがあったのに、食べられませんでした。 このホテルでは、6回、バイキングを食べた事になりますが、全て同じパターンで、アイスに辿り着く前に満腹し、無念の涙を飲みました。 それだけ、料理がうまかったわけです。

  部屋に戻ると、ちょうど、夕日が沈むところでした。 もう、8時近いですが、西に来ているので、このくらいが、日没時間なのです。 窓から、海と、海に突き出した、小さな半島が見えて、そこへ、日が落ちて行きます。 目の前のホテルが邪魔かと思いきや、そこの灯りが、結構綺麗で、絵になる夜景を作り出していました。 もしかしたら、そのホテルから見えるであろう、海だけの景色より、こちらの方が、美しかったかも知れません。

ホテルの窓からの夕景(上)/ 向かいのホテル(下)


  国道58号線は、夜中になっても、交通量が多くて、車の音が絶えず、眠りは浅かったです。


≪六日目、まとめ≫
  ドイツ村を除けば、ほとんど移動だったので、気は楽でした。 飛行機も含めて、公共交通機関というのは、乗り方さえ分かってしまえば、向こう任せで運んでもらえるわけで、車やバイクを自分で運転するのに比べたら、遥かに呑気な旅になります。 ただ、頭を使わないせいか、あまり、面白くはないですな。  

  旅も後半に入りました。 行く前は、「沖縄旅行は、本島がメイン」と、漠然と思っていたのですが、先に、八重山・宮古を見てしまうと、そちらの方が、より沖縄的純度が高いような気がして、「本島の方は、あまり、期待できないかもなあ」などと、考えていました。 結局は、それも、思い違いに終わるわけですが。