2014/10/12

さよなら、沖縄

  沖縄旅行記の十日目です。 7月31日(木)。 いよいよ、最終日です。 9泊10日も旅行したのは、生涯初めてですが、疲れも出ず、体調は良かったです。 長旅の記録で、それに次ぐのが、19年前に、バイクで九州へ行った時の、8泊9日ですが、その時は、全泊野宿でしたから、着の身着のまま、ホームレスも真っ青な衛生状態で、帰って来ました。 それに比べれば、毎晩ホテルに泊まって、毎晩シャワーを使い、毎日、洗った服を着ていた分、今回の方が、断然、楽でした。 人間、ただ、飯を喰って、睡眠を取っていれば、生きていられるというわけではないようですな。


≪ホテルの朝≫
  朝食は、7時からでしたが、起きたのは、6時55分。 もっと早く起きるつもりでいたのに、珍しく、寝過ごしました。 些か焦りつつ、髭剃りと洗面。 7時10分には、朝食バイキング会場である、地下一階の大広間に下りました。 出遅れが響いたというわけでもありませんが、すでに、人でごった返していました。 ここは、朝食券がなく、部屋のキーを見せて、名簿をチェックしてもらう方式。 「お食事中」の札を貰い、先に、席を確保しておいてから、料理を取りに行きます。

  相変わらず、トレイいっぱい、皿いっぱいに取ってしまうのですが、さすがに、バイキングも飽きて来たのか、何を食べても、特別おいしいとは感じません。 さりとて、まずい物もなし。 やきそばを取りましたが、ソース味でした。 本島では、ケチャップ味はないのかな? ドリンクは、パインとシークヮーサーのジュース。 ジュースで、食事を食べる快感も、だいぶ、鈍って来ました。

  部屋に戻って、歯を磨き、荷物の片付け。 洗濯物は乾いていました。 貸切タクシーの契約は、9時からですが、前日に運転手さんと打ち合わせていた通り、30分早く出発する事に決めていたので、8時20分には、部屋を出なければならず、ゆっくりしている時間がありませんでした。 外は、夜来、雨で、窓に吹っかける音がしていましたが、朝、窓から外を見ると、ポツポツ程度の降りになっていました。 台風が接近しているので、悪くなる事はあっても、回復はしないでしょう。

  最終チェックをしている内に、少し出遅れてしまい、8時25分頃に、部屋を出ました。 エレベーターの前に行くと、人だかりが出来ています。 しかも、全員、旅行トランクを持っており、とても、一回で乗れるとは思えません。 すぐさま、階段を探しに行きましたが、見つかりませんでした。 もう一度、エレベーターの前に戻ると、更に人数が増えていました。 どうも、この時間帯というのは、チェック・アウトのラッシュになっているようですな。 エレベーターの横に貼ってあった、館内マップを見直して、階段の位置を確認し、再び探しに行くと、防火扉の向こうが、階段になっていました。 重い旅行鞄を持って、四階から一階まで下りるのは、きつかったです。 フロントでチェック・アウトして、外へ。


≪タクシー話≫
  8時半ちょい前に、前日教えられていた、ホテルの横に行くと、タクシーは、もう来ていました。 本当に、30分前には、待っているんですなあ。 この日の最初の目的地、≪斎場御嶽≫へ向かいます。 本島南部の東岸にあるので、那覇からだと、東へ向かう事になります。 運転手さんの話では、この日の朝、那覇から離れる分にはいいが、那覇市街に向かう道は、大渋滞だとの事。 海で遊ぶ予定だったレジャー客が、台風接近で海に行けず、街なかや観光地に繰り出すからだとか。 なるほど、理屈に合っている。

  本島での貸切タクシーは、同じタクシー、同じ運転手さんですから、「さすがに、三日目ともなれば、話題も尽きたろう」と思っていたら、そこは、やはり、プロの技で、今までに乗せた、奇妙な客の話とか、芸能人の話とか、人生論とか、もう、いくらでも、話題が出て来るんですなあ。 ここで、纏めて書いてしまいますと、

  三角点を探す、老夫婦の話。 三角点に嵌まっているのは、夫の方で、すでに85歳。 二回も脳梗塞で倒れていて、体が不自由なので、奥さんが付き添い、観光そっちのけで、山の中の一等三角点を見つける為だけに、沖縄に来たとの事。 三角点は、森に埋もれている事が多く、そんな所へ、老夫婦だけで行かせられないので、運転手さんがついて行って、ハブが出る季節だというのに、藪の中を掻き分けて進んだのだとか。 趣味も、そこまで行くと、傍迷惑ですなあ。 

  某有名演出家が、この付近に建てた家の話。 風が強くて、地元の人間なら、まず建てない所に建ててしまったらしいのですが、「なんで、不動産屋が教えなかったかなあ」と、不思議がっていました。 その人に限らず、県外から来た人が、景色優先で、風の事を考えずに、家を建ててしまうケースは、多いようです。 沖縄の場合、土地が狭いので、人間が住むのに適当な場所は、すでに、住み尽くされていると考えた方がいいのかもしれませんな。

  他に、釣り好きの大物俳優の話とか、不器用な大物俳優の話などが出ましたが、そちらは、ちと、内容的に、ネット公開に支障があるので、出せません。 支障がある話と言えば、密会専用のホテルがあるとかいう話も出ましたな。 那覇空港から、どう見ても、観光目当てとは思えない、女の一人客を乗せる事があるらしいのですが、大抵、そういうホテルへ行くのだそうです。 誰かと、密会しているんでしょうねえ。

  私が退職した事は、すでに話してあったのですが、「もう、働く気はないんですか?」と訊かれたので、「今後、やる事がなくて、うんざりするようだったら、バイトでもしようかと思っています」と答えておきました。 「結婚はしないんですか?」とも訊かれ、「バツイチにも、いい子がいますよ。 大抵、そういうのは、男の方が原因で別れているから」と、アドバイスされました。 「いやあ、無職状態ですから・・・」と、ごまかしておきましたが。

  そこから、運転手さんの息子さんの話になりました。 東京へ出て、働いていたのが、勤め先がブラック企業で、体を壊してしまい、Uターンして来て、今は、地元で働いているのだとか。 私は、退職したばかりだったので、大いに共感し、「そうですよ。 そんな勤め先で、いくら頑張ったって、いいように使われるだけで、評価もされなければ、感謝もされないんですから、辞めてしまうのが一番です。 一度しかない、自分の人生なんだから、自分で決める事であって、他人がどう言おうが、気にする事はないです」と、自論をぶちまけました。

  他に、同じ場所で、次々に、店が潰れ、経営者が変わる現象について、考察が交わされ、「場所が悪い」という、大まかな結論に至りました。 運転手さん的に言うと、交差点に面した土地は、車が入り難いか、出難いかのどちらかになってしまうので、車で来る客に敬遠され、潰れ易いのだとか。 引退後の素人が始めて、うまく行かない業種として、居酒屋の例を、私が挙げました。 自分が、しょっちゅう、居酒屋へ行っていた人で、「このくらいなら、俺にもできる」と思って、始めるものの、場所が悪かったり、友人・知人が少なかったりして、客が途絶えてしまうパターン。 まあ、引退後のオッサンがやっている店なんて、若い女の子もいないわけですし、知り合いでもなければ、来ませんからねえ。 ・・・??? 沖縄旅行に来て、なんで、こんな話をしとるんだ、私ゃ?


≪斎場御嶽≫
  「斎場御嶽」は、「せーふぁうたき」と読みます。 沖縄で、最も有名な御嶽。 最も重要かどうかは、人によって違いますが、琉球王国にとっては、最も重要だった御嶽です。 日本の朝廷にとっての、伊勢神宮に当たるといえば、ほぼ、同じ相関になるでしょうか。 そういや、方角的にも、「京都→伊勢神宮」と、「首里→斎場御嶽」は、ほぼ同じ位置関係ですな。 偶然なのか、風水的な意味があるのか、よく分かりません。

  日本の朝廷から、伊勢神宮には、「斎宮」が派遣されていましたが、琉球王国では、王の親族の女性がなる神女、「聞得大君(きこえおおきみ)」が、斎場御嶽の管理権を持っていて、就任式も、ここで行なっており、その辺も似ています。 ただし、あくまで、似たところも多いというだけで、「母系制社会での宗教習慣は、自然に似たものになる」という程度の関連かもしれません。

  つい昨年まで、駐車場は、入り口のすぐ近くにあったそうなのですが、今は、別の場所にあり、500メートルくらい、歩かなければなりません。 観光客が増え過ぎて、タクシーやレンタカーが道を塞いでしまう程になったせいで、広い駐車場を新設したというわけですが、500メートルは、ちと遠いですな。 今でも、元駐車場は残っていますが、関係者オンリーになっている模様。

  入館料が200円かかり、そのチケットは、駐車場にある券売機で買います。 クーポンがなく、自腹でしたが、いくらケチでも、200円くらいなら、どうという事はないです。 「入場料」ではなく、「入館料」になっているのは、斎場御嶽に入るには、まず、入口にある、「緑の館・セーファ」という建物の中で、研修ビデオを見なければならないので、そこの入館料という名目で、お金を取っているからなんですな。

  研修ビデオは、3分くらいで、斎場御嶽に関する簡単な解説と、入域に当たっての注意事項が示されます。 「聖域なので、騒がないように」、「今でも、祈りの場所になっているので、祈っている人を写真に撮るような事はしないように」、「足下が悪いので、ヒールの付いた靴などは、履きかえるように」、「樹木や昆虫を守るために、順路から外れないように」といった内容。 ヒール付きの靴で来てしまった人には、サンダルを貸しているようです。 服装も、半ズボンや短いスカートなどは、歓迎していないようでした。

  元々は、男子禁制だったそうですが、今は、入れます。 しかし、それに関しては、今でも議論があり、本来の姿に戻すべきだという意見もあるとの事。 それは、至極もっともな話で、見て来た私が、こんな事を言うのもなんですが、男子禁制に戻し、全面的に撮影禁止にした上で、たとえ、女性であっても、祈るつもりがない、ただの観光客は、立ち入り禁止にした方がいいと思います。

  現在、斎場御嶽を管理しているのは、南城市のようですが、入館料200円では、儲かっているとは思えませんから、純然たる施設の維持費なんでしょう。 ならば、観光客をシャット・アウトしてしまっても、経済的な問題はないはず。 聖域は、禁忌があってこそ、その聖性が維持されるのであって、「見せれば、ありがたがられる」というわけではありません。 むしろ、見せない方が、神秘性は増します。 研修ビデオはやめて、もっと長い、詳しい解説をしたビデオを作り、それを見て帰ってもらえば、それでいいんじゃないでしょうか。

  運転手さんと一緒に、奥まで入りましたが、これといった、物があるわけではなく、熱帯林が大きな岩壁と絡み合っているような所でした。 石畳みの道が、雨上がりで濡れているので、スニーカーでも滑ります。 やむなく、石畳みの両脇に並べられていた、土嚢の上を歩きました。 まだ、早いというのに、もう、戻って来る人達と、何グループか、すれ違いました。 風体からして、観光客である事は間違いありませんが、この衆等、一体、何時に、ホテルを出て来たんでしょう?

  途中、そこそこ大きな、丸い池あり。 運転手さんの話では、戦時中、爆弾が落ちて出来た穴だとの事。 爆撃か、砲撃かは分かりませんが、これだけ、地面を抉るには、一体、何百キロの爆弾だったのか・・・。 ぞーっとします。 祈りの場は、何ヵ所かあって、切り立った崖の下に、コンクリート・ブロックくらいの大きさの立方体の石がいくつか並べてあり、それに向かって、祈るようです。 聞得大君が眠った場所というのがあり、運転手さんの話では、その寝顔から、吉凶を占ったのだとか。

  奥の方へ行くと、崖の上がせり出して、屋根のようになっている所があり、上から、鍾乳石のようなものが二本下がっていました。その真下に、甕が埋め込まれていて、滴った水が溜まるようになっています。 運転手さんの話では、その溜まり具合を見て、その年の天候を占ったとの事。 しかし、これは、占いというより、科学が入っていますな。 他にも、鍾乳石が垂れている所がありましたが、たぶん、太古の昔は、この辺り一帯、鍾乳洞だったんでしょう。 天井が崩れてしまい、部分的に、鍾乳石が残ったのだと思われます。

  一番奥には、断崖に巨大な岩が寄りかかって、三角形の隙間を作っている、「三庫理(さんぐーい)」という場所がありました。 海側に、森が切れた所があり、そこから、「久高島(くだかじま)」が見えます。 久高島は、琉球神話の創世神、「アマミキヨ」が降臨し、国作りを始めた、聖なる島だとの事。 つまりその、先に久高島があり、久高島が見える場所に、斎場御嶽が作られたという順序なのでしょう。

斎場御嶽の三庫理


  ここでも、運転手さんに、写真を撮ってもらいました。 私も撮りましたが、ドス曇りである上に、森の中で暗いので、私が撮った物は、みんなブレブレ。 それに対して、運転手さんに撮ってもらった写真は、全く、ブレていません。 なんなんだ、この違いは? 私は、普段、一人で行動するタイプなので、人様と一緒にいると、「早く撮らなければ、迷惑がかかる」と思って、焦る傾向があり、それが、ブレに繋がっているのかもしれません。 「写真の撮り方について、研究し直さなければならんな」と、つくづく痛感した次第。

  自分が碌な写真が撮れなかったから、僻みで言うわけではありませんが、斎場御嶽は、やはり、撮影禁止にした方がいいと思います。 森の中で写真を撮ると、明暗差が大き過ぎて、色が判別できないほど暗くなるか、空が真っ白に飛ぶかのいずれかになり、どうせ、いい写真になりません。 それならば、聖域としての神秘性を確保するために、撮影禁止にしてしまった方がいいと思うのです。 記念撮影なら、入り口の所に、「斎場御嶽」と刻まれたモニュメントが用意されているので、そこで充分でしょう。

  10時頃、タクシーに戻りました。 斎場御嶽にいる間、雨が降らなかったのは、ありがたかったです。 この後、「おきなわワールド」へ向かったのですが、途中、とある食品雑貨店の前を通ったところ、運転手さんが、店の前に並べてあった芋を目にとめ、「ちょっと、買って来ます」と、車を停めて、買いに行きました。 名前を忘れてしまいましたが、地元特産の芋で、寄生虫の関係で、県外には持ち出し禁止になっているとの事。 「なかなか、手に入らないんですよ」と言っていましたが、仕事中に、こういう事ができるのは、個人タクシーの強味でしょうなあ。 まあ、ほんの5分程度だったから、構やしないんですが。


≪おきなわワールド≫
  本島南部の民俗村型テーマパークです。 民俗村の他に、鍾乳洞、ハブ館があり、全て、今まで行った所と被っているのですが、運転手さんは、○△商事から送られて来た日程表の目的地を忠実に回っているだけなので、文句を言うべくもありません。 又、○△商事が悪いわけでもなくて、旅行中、五日間も貸切タクシーを使い、しかも、マリン・レジャーなどは外して、観光地だけ回るとなると、どうしても、内容が被る施設が出て来てしまうんですな。

  いや、実は、これは、私が悪いのであって、岩手で、○△商事の担当者に旅行計画の立案を頼んだ時に、「目的地について、これといった希望はありません」と言ってしまったのです。 その時は、岩手での退職手続きを済ませて、解放された直後だったので、旅行の事について、細部まで考えを致すゆとりがなかったんですな。 その直前まで、「福利ポイントの残りは、結局、放棄する事になるのでは・・・」と、諦めていたくらいで、些か自暴自棄な精神状態だったのです。

  本島に来てから、「史跡と、景勝地を中心に回ってください」と言えば、そうしてくれたのだと思いますが、石垣島の貸切タクシーで、メモ用紙に書き出して見せた目的地が、半分以上、却下を喰らったのが、プチ・トラウマになって、言い出せなかったんですな。 もし、宮古島の運転手さんのように、向こうから、希望目的地を訊いてくれれば、言ったかもしれませんが、そうは都合よく、事は進みませんでした。 本島は、大きい分、史跡も景勝地も、たくさんあるわけで、しかも、期間は三日もありますから、運転手さんに、目的地の選定から、コースの組み立てまで、一から全部やり直してもらうのは、気が引けたといとう事情もあります。

  「おきなわワールド」というと、ピンと来ない人も多いでしょうが、「玉泉洞」と言えば、「ああ、あの有名な、沖縄の鍾乳洞!」と、手を打つと思います。 沖縄の観光地が、全国的に知れ渡ったのは、海洋博の時ですが、その頃、玉泉洞の名前は、相当な有名株でしたから。 玉泉洞が、名前はそのままに、おきなわワールドの中に入っているという格好です。 以前は、「玉泉洞王国村」と言っていたらしいですが、39年前のガイド・ブックには、その名はないので、海洋博の後、その名前になり、更に改名して、今の名前になったのでしょう。

  運転手さんは、入口のちょっと中までついて来てくれて、観覧順序を説明してくれました。 琉球村での失敗に鑑み、聞き逃さないように気をつけました。 まず、玉泉洞に入り、地下を通って、園の一番奥まで進み、そこから、地上に出て、熱帯フルーツ園、民俗村、ハブ館を見るようにすればよいとの事。 ここの場合、最初に玉泉洞に入れば、自然と、そういうコースにになるのだと分かったのは、見終わった後の事です。

  玉泉洞は、意外と歴史が浅くて、1967年に発見されたとの事。 当然、命名されたのも、それ以降です。 全長5キロある内、公開されているのは、890メートルらしいですが、写真データを見ると、中にいたのは、30分程度なので、順路の長さは、もっと短いのだと思います。 私の場合、つい数日前に、石垣島鍾乳洞を見てしまっていたので、どうしても、二番煎じ的印象にならざるを得ず、正確な評価ができない事を断った上での感想になりますが、どちらかといえば、石垣島鍾乳洞の方が、変化に富んでいたでしょうか。 ただし、玉泉洞には、百枚皿がありました。 他に、「槍天井」も、なかなかのものでした。

  ちなみに、39年前のガイド・ブックには、玉泉洞の中にあるとして、骸骨が何百と転がっている、「風葬跡」の写真が出ています。 しかし、私が行った時には、洞内に、そういう場所は見当たりませんでした。 人によっては、観光どころではない、強烈な恐怖を感じそうなので、順路から外してあるのかもしれません。 私的には、見たかったんですがね。 その代わり、というわけでもありませんが、「古酒(クースー)」の貯蔵庫になっている支洞がありました。

  写真は相変わらず、暗さで、ブレてしまって、碌な物が撮れませんでしたが、それは、玉泉洞のせいではなく、洞穴なら、どこでも同じです。 そうそう、写真と言えば、玉泉洞に入る前に、写真屋に捉まりました。 琉装の女性と二人で、記念写真を撮るという奴。 断る暇もなく、あれよあれよという間に、撮られてしまい、洞から出た所で、千円で売っていましたが、もちろん、スルー。

  この商売、はっきり言って、迷惑なんですが、それでも、沖縄の観光地の写真屋は、一人客が相手でも、普通に声をかけるから、ずっと、良心的です。 伊豆半島の同業者は、一人客と見るや、にべもなく無視したり、露骨に、「邪魔だから、早く行っちゃって」と言わんばかりの態度を取ります。 だから、近くでも、伊豆半島の観光地には、行きたくねーのよ。 あんな観光ズレした所へ、ありがたがって押しかけて来る、首都圏のやつらの気が知れぬ。

玉泉洞(上)/ パイナップル(下)


  玉泉洞を出ると、熱帯フルーツ園があります。 大きな温室があるのですが、出入口の扉が開放されていました。 夏場の沖縄では、温室がなくても、大抵の植物は大丈夫なのでしょう。 バニラ、マンゴー、パパイア、パイナップルなどが、木に成っている状態で見れます。 パイナップルは、結局、畑を見る事ができなかったのですが、ここで、成っている姿を見れたのは、幸いでした。 葉の上に実が成り、実の上に、また葉が生えているのは、何となく、奇妙。

  フルーツ園の先には、「フルーツ王国 売店・パーラー」という建物があり、ここで、運転手さんに勧められていた、「さとうきびジュース」を飲みました。 450円・・・・、きっつー! 目の前で、サトウキビを機械に入れて、搾ってくれます。 ところが、ここで、宮古島のグァバ・ジュースの悪夢が再来しました。 プラスチックのカップに入れてくれるのですが、氷が異様に多いのです。 勘弁しとくんなまし。 巷のスーパーじゃ、450円あれば、炭酸飲料の1.5リットル・ペットボトルが、3本も買えるのですよ。 いくら、観光地の特産品だからと言って、300ccも入らないカップに、氷をごそっと入れた日には、ジュースの正味量は、どうなってしまうのよ?

  いや、いいんです。 もう、最終日だから。 贅沢したと思って、諦めます。 味の方ですが、運転手さんが、一押ししていただけあって、おいしかったです。 最初に泊まったホテルの夕食で、サトウキビ・アイスというのも食べましたが、サトウキビの味は、独特のコクがあって、スイーツやドリンクには、とてもよく合います。 若干、青臭さがありましたが、それを取り除けば、缶入りやペットボトルにしても、売れると思います。 もちろん、リーズナブルな値段にすればという条件付きですが。

  熱帯フルーツ園の、すぐ隣に、昔の「高倉」が二つ、移築されています。 よく、弥生時代や古墳時代の遺跡に復元されている、高床式倉庫の琉球版ですが、外観は、全く違った印象で、柱の上に、屋根だけが載っているように見えます。 キノコみたいな形。 私は、琉球村でも、高倉を見ていて、「一体、どこに穀物をしまうのだろう?」と首を傾げておったのですが、ここへ来て、よくよく見たら、梯子が、屋根の下に架かっています。 真下まで行って、見上げたら、屋根の下に入り口があるじゃありませんか! つまり、屋根だと思っていた部分が、倉庫本体だったんですな。 屋根裏部屋だけ使っているという感じ。 たぶん、台風対策で、この形状でなければ、風をやり過ごせなかったのでしょう。

高倉(上)/ 王国歴史博物館(下)


  「王国村」という名がついた民俗村は、ほぼ、素通りしました。 さすがに、三ヵ所目となると、じっくり見るという気分になれません。 ただ、「王国歴史博物館」という建物だけは、中まで入って、見て来ました。 ここは、出色! 私の、お勧めです。 常設展示で、「沖縄と世界のシーサー」展をやっているのですが、世界中の獅子像の展示をやっていて、実に興味深い。 日本の狛犬も並んでいます。 博物館としての規模は小さいですが、比較文化の視点で企画された、一級の展示内容でした。

  建物は、古民家風の建物を二つ繋いだものでしたが、中は、靴で入れるように工夫されていたのが、何より、ありがたい。 オマケに、外の掲示板では、「沖縄の魔除け」を、写真と解説文で紹介していて、石敢當、ヒンプン、ユーナチモーモー、アジケー、ヒジャイナー、ゲーンと並んでいました。 これも、私好みの企画でして、こういう、精神性の本質に迫るような事が知りたいんですよ。  この博物館、センスが研ぎ澄まされておるのう。

  おきなわワールドでは、「スーパーエイサー」という、集団舞踊のアトラクションが、呼び物らしいのですが、時間がうまく合わず、やむなく、パスしました。 「エイサーは、前の日に、アメリカン・ビレッジの沖縄料理店で、テレビでやっているのを見たから、よしとするか」などと、自分を納得させましたが、今考えてみると、多少、出るのが遅くなっても、生で見て来た方が良かったかも知れません。

  この後、「南都酒造所」と、「おみやげ専門店街」を通過。 土産物店は、大きな建物の中に、ぎっしり詰まっていました。 よくこれだけ、土産物の品目があるものですなあ。 もちろん、私は何も買いません。 建物の外に出ると、玉泉洞の入口前まで戻って来ました。 ここの広場の隅に、復元された「進貢船」がありました。 名前は、「南都丸」。 全長31メートル、幅8メートル、110トン。 忠実に復元したとの事で、外洋船だけあって、巨大です。 進貢船は、目が可愛いですな。 ゆるキャラにしたら、可愛がられるのでは? しかし、この南都丸、復元後、22年を経て、老朽化したので、廃船になってしまうのだそうです。 勿体ない。

進貢船 「南都丸」


  最後に、「ハブ博物公園」。 ちと、紛らわしい名前ですが、公園と言っても、ほぼ、一つの建物と、その中庭のような部分を指しています。 ショーが中心だった、琉球村のハブ・センターとは違い、こちらは、本格的な博物館。 ハブの分類、分布、生態解説などのパネル展示の他、生きている各種ハブや、アナコンダ、パイソン、ウミヘビ、マングース、アルダブラゾウガメ、セマルハコガメ、オリイコウモリなど、相当な種類の動物が飼育されています。

  パネル展示の圧巻は、ハブに咬まれた傷痕の写真。 これは、血が凍る思いぞする・・・。 毒で壊死した部分を、全部取り除かなければならないので、肉がごっそり抉られてしまうんですな。 うぬぬぬ・・・、交通事故の死亡写真より、遥かに恐ろしい。 この写真に比べれば、ホラー映画なんて、大した怖さじゃありませんな。

  ウミヘビは、初めて見ましたが、尻尾の方が、ウナギのように縦に平らになっていて、尾鰭の代わりになっていたのには、「ほーっ」と思いました。 それでも、蛇は蛇で、ウナギやウツボのような、鰓はなく、呼吸をする時には、海面に上がるわけです。 面白い! 最初に、海に入ろうと思った奴は、まさか、自分の子孫が、尻尾まで変形させて、海中生活に適応するとは思わなかったでしょうなあ。

  セマルハコガメは、中国南部の他に、西表島と石垣島に棲息し、国内の野生個体は、天然記念物になっていて、捕獲も飼育も禁止されています。 ここでは、子亀が、5匹ほどいましたが、輸入個体なのか、特別な許可を得て飼っている国内個体なのか、分かりませんでした。 本物を見たのは初めてで、時間があれば、じっくり見たかったのですが、もう、12時が近づいていたので、そういうわけにも行きませんでした。

ハブ(上)/ セマルハコガメ(下)


  おきなわワールドの中にいたのは、1時間半くらいでした。 玉泉洞がプラスされていた分、他のテーマパークより長くかかったわけです。 タクシーに戻ったら、運転手さんから、「もっと、ゆっくりして来ても良かったのに」と言われましたが、後で考えると、その通りで、昼食の時間を律儀に守ろうなどと考えなければ、あと、30分くらい、ここにいた方が、ちょうど良かったのです。 だから、「スーパーエイサーを見てくれば良かったかなあ」と、今頃、地団駄踏んでいるわけでして。


≪ゴーヤ・チャンプルー≫
  昼食ですが、この日も、「土産話にしたいから、地元ならではの料理が食べたい」と言ったら、「ゴーヤ・チャンプルー」を勧められました。 いよいよ、大御所が出て来たか。 記念すべき、最終日の昼食に相応しいメニューです。 今や、ゴーヤ・チャンプルーは、日本全国で食べられている料理で、私も家で、母が作る物を何回も食べていますが、前日に、フー・チャンプルーを食べた経験から、「本場の炒め物は、味のレベルが、全然違うようだぞ」と思っていたので、弥が上にも、期待が盛り上がりました。

  ところが、店が見つかりません。 次の目的地は、「ひめゆりの塔」なので、そちら方面に向かいながら、探すのですが、なかなか、ないのです。 その内、幟旗が立った店を見つけ、駐車場まで入りましたが、どうも、飲食店のようではなく、食べ物も出す、温泉施設のようです。 温泉ですから、見るからに、土禁・・・。 運転手さんは、「ここでも良ければ・・・」という感じでしたが、よくないよくない! この期に及んで、土禁は、勘弁してください! とはいえ、土禁が嫌だから、やめてくれとも言えないので、「いや~、ここは、温泉に入らなければ、食べられないんじゃないですかね~」とか何とか、テキトーな事を言って、ごまかし、諦めてもらいました。 危ない危ない・・・。

  結局、ひめゆりの塔の真ん前まで来てしまい、そこにあった食堂で食べる事になりました。 運転手さんの話では、「ひめゆり平和記念資料館」に入る場合、先に食事を済ませておいた方が、いいらしいのです。 見た後だと、大抵のお客が、食欲をなくすのだとか。 なるほど、そういうものですか。

  ここは、食券式ではなく、店員さんが席まで来て、注文を訊く方式でした。 ゴーヤ・チャンプルー定食、700円を注文。 やはり、炒め物は時間がかかるようで、10分くらい待ちました。 その間に、メニューに書かれた、沖縄そばに関する説明を読んでいました。 「そばと言っても、蕎麦ではなく、きしめんのようなものです」と書いてありましたが、きしめんよりは、ラーメンに近いです。 きしめんに似ているのは、平たい形だけですな。 しかし、こういう事を、わざわざ書いてあるという事は、蕎麦と思って注文して、後で、文句を言う客がいるのかもしれませんな。 食べてみれば、蕎麦より、うまいんですが。

  ゴーヤ・チャンプルーが来ました。 ゴーヤが入った炒め物です。 肉や豆腐も入っています。 ここでも、皿に山盛り。 食べてみると、ゴーヤが柔らかくて、フッカフカ。 家で食べるのと同じゴーヤとは、とても思えません。 これが、本場の味というものか。 これを食べたら、日本の家庭で作っている炒め物は、食べられませんな。 そもそも、和食には炒め物の伝統なんてなくて、見様見真似で作っているのだから、うまいわけがないと言えば言える。 定食だったので、御飯、味噌汁、おしんこが付きましたが、ゴーヤ・チャンプルーだけでも、ボリュームがあるから、充分、一食になると思います。 またまた、満腹になってしまいました。

ゴーヤ・チャンプルー



≪ひめゆりの塔≫
  有名な、ひめゆりの塔ですが、本島南部の、更に南部の、伊原という所にあります。 この付近一帯には、「ガマ」という、自然洞窟がたくさんあり、その中の一つ、地上に向けて空いた竪穴の横に、小さな、昔の墓石程度の大きさの石碑が立っています。 ガマの後ろ側にある、慰霊碑(納骨堂)の方が大きくて目立つので、そちらを、ひめゆりの塔だと勘違いする人もいるようです。 ひめゆりの塔の建立は、1946年4月7日。 慰霊碑の方は、ずっと新しそうですが、建立年は、ネットで調べても、つきとめられませんでした。

ひめゆりの塔と慰霊碑


  このガマは、「第三外科壕」という名前で呼ばれていて、沖縄戦の末期には、中が病院になっていたわけですが、覗き込むだに、不気味な穴で、こんな所に籠っていた人間の気持ちがどんなものだったかを想像すると、肌に粟立つものがあります。 資料館の外にあるのは、これらだけで、それだけ見たのでは、何も分かりませんが、この、現物のガマを見ておくのとおかないのとでは、資料館の中の展示内容について、感覚的に理解できる程度が、だいぶ、変わって来ます。

ガマ 「第三外科壕」



≪ひめゆり平和祈念資料館≫
  1989年に、開館。 平屋で、六つの展示室と、ホール、ロビーなどを備えた、大きな資料館です。 「ひめゆり学徒隊」というのは、「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒の内、動員されて、看護師として従軍した222名の生徒達の事で、元は、首里近くの南風原の沖縄陸軍病院に勤務していたのが、米軍に押されて、南へ退却する日本軍について、伊原へ追い込まれ、最終的に、123名が死亡したとの事。 外の第三外科壕では、米軍のガス弾攻撃で、47名が死んでいるらしいです。

ひめゆり平和祈念資料館


  この資料館を訪れる人は、どういう所か、大体知っていて来るわけですが、それでも、見る前と後では、気分が全く変わってしまうようです。 最初の展示室では、学校生活の紹介から始まるので、昔の学用品や写真などを見て、割と気軽に会話を交わしていたのが、先に進むに連れて、口数が減り、資料映像と証言ビデオを見せる部屋では、誰も喋らなくなります。

  日本軍にせよ、アメリカ軍にせよ、誰かを批判するという内容ではなくて、戦争の残忍さを客観的に伝えていますが、そういう意図なのか、日本人やアメリカ人に、逆恨みされないように、注意深く、本音を言うのを避けているのか、そこまでは、読み取れません。 沖縄県民は、戦時中、日本人から明らさまな差別を受けていた上、米軍統治時代にも、日本復帰後も、基地問題などで、理不尽な扱いを受け続けていて、この資料館が作られた時点でも、さまざまな意識が入り混じっていたと思われます。 少なくとも、日本人は、襟を正さずには、入れる所ではありません。

  一つだけ、悲劇を引き起こした分岐点として、強調されている事がありました。 日本軍の司令官が出した、「解散命令」のタイミングです。 首里の方から、この南部のどん詰まりまで、非戦闘員である学生を連れまわした挙句、米軍に囲まれて、もう、どこにも逃げる場がない状態になってから、突然、解散命令を出し、弾丸・砲弾が飛び交う戦場に放り出した点だけは、確実に批難しています。 実際、犠牲者のほとんどは、この解散命令の後に死んでいるのです。

  以下は、資料館の展示内容とは関係のない、私の意見ですが、

  島なのですから、退却して行けば、追い込まれるのは分かっていたわけで、これは、あまりにも、無責任。 最初から、使い捨てにするつもりだったと言われても、仕方ありますまい。 この司令官、「最後の一兵まで戦え」と言って、腹を切って死ぬのですが、沖縄戦では、民間人だけでも、10万人近くが死んでいるのであって、一人が腹を切って、責任の天秤が吊り合うわけがありません。 ガイド・ブックによると、この司令官、辞世の歌を残し、慰霊碑まで立っているらしいです。 「死者に鞭打つような真似はするな」とはいうものの、複雑な気分ですなあ。 もしも、あの世があったなら、自分の命令のせいで、死んで行った人達に、どの面下げて、会っているんでしょう。

  そもそも、沖縄全体を捨石にするつもりだった、日本軍上層部の考え方に、重大な問題があるわけですが、だからといって、「現地司令官も犠牲者だ」という論理は、どうかと思います。 現地司令官には、現地司令官だけが負う、「降伏を決める責任」があります。 それは、所属する軍に対してではなく、自分の命令を受ける立場にある部下や民間人に対して負う責任です。 軍の上層部が、「最後の一兵まで戦え」という命令を出しても、現地司令官は、それを拒否する責任があるわけです。 援軍が来ないと分かっている状況で、もう勝ち目がないと判断された時は、人命を優先する為に、降伏すべきなのです。 誰が、その判断を批判できるというのですか。 批判どころか、生き残った人間からは、確実に感謝されます。

  その上で、「自分は降伏の責任を取って死ぬ」というなら、格好もつこうというもの。 しかし、「俺も死ぬから、お前らも、死ぬまで戦え」ではねえ・・・。 軍人としては、本分を尽くしたのかも知れませんが、人間としては、指導者失格でしょう。 昨今、硫黄島やビアク島などで、玉砕を許さず、最後の一兵まで戦わせようとした司令官を、軍人の鑑として持ち上げる傾向がありますが、別に彼らは、人命を大切にして、玉砕を許さなかったわけではなく、単に、「本土上陸までの時間を稼ぐ」という軍の方針に従っただけです。 玉砕だろうが、最後の一兵までだろうが、部下を全員死なせるつもりだった事に変わりはありません。

  この司令官達、一体、どういう未来を思い描いていたんでしょうねえ。 自分が部下もろとも犠牲になれば、日本が勝つとでも思っていたんでしょうか? 本土上陸を遅らせられれば、戦況が変わるとでも思っていたんでしょうか? 結果的には、戦争が長引いて、死者が増えただけだったんですが。 一体、何の為に、部下の兵隊や、沖縄の民間人を犠牲にしたんでしょう? どんな理由があったにせよ、全く吊り合わない程に、犠牲が大き過ぎました。 もし、「軍人としての意地」などという、軍人以外には何の価値もない理由であれば、尚の事。 そういう事は、自分の命だけを引き換えにして、やるべきです。

  こういう事を書いていると、どんどん、気分が悪くなって来ます。 これは、あくまで旅行記ですから、 これ以上は控えておきましょう。 いや、ひめゆり平和祈念資料館に関しては、見に行って良かったと思いますがね。 特に、第四展示室にあった、「証言本」は、時間があれば、全部読みたかったです。 本になってないかなあ。 図書館で探してみようか。 そうそう、資料館内は、撮影禁止だったので、写真はありません。


≪琉球ガラス村≫
  最後の目的地になったのが、ここ。 「琉球ガラス」という、主に、戦後になって発展した工芸の、製造販売を行なっている所。 工房があり、見学や体験もできます。 売っているのは、量産品の土産物だけでなく、ガラス作家が作った、芸術作品も含みます。 そういう作品は、村内の、「琉球ガラス美術館」にありますが、そこでも、やはり、販売はしています。

  でねー、ここなんですが、私的には、失敗でした。 琉球ガラス自体は、非常に美しかったんですが、私の方が、ガラス工芸に興味がなく、知識も決定的に欠けていたので、楽しみようがなかったという次第。 最低限、「何か買いたい」という人でなければ、行っても、成果がないと思います。 ざっと見た限りでは、高い品でも、安い品でも、ガラスの美しさは、変わりがないようでした。 しかし、こういう、大雑把な感想を抱く事自体が、ガラスが分かっていない証拠だという気もします。

  着いたのが、午後1時25分で、運転手さんが言うには、那覇空港までの時間から逆算して、2時10分までは見ていて良いとの事。 しかし、上記のような事情で、20分程度で見終わってしまいました。 もう一回見直しても、まだ、20分も余っている。 その内、雨が降り出し、居場所もなくなる有様。 タクシーへ行ってみたら、運転手さんは、昼寝の最中で、起こすのもためらわれる始末。 弱り目に祟り目とは、このこった。

  「しまったー。 こんな事になるのなら、おきなわワールドで、スーパーエイサーを見て来るんだったー」と思いましたが、後の祭りです。 そもそも、自分がガラスに興味がない事は分かっていたわけですから、事前に運転手さんに言って、「平和の礎」の方にでも変更してもらえば良かったのです。 沖縄旅行には、恐らく、もう二度と来れないのに、勿体ない事をしました。

  美術館の中をうろうろして、何とか時間を潰し、ようやく、2時10分になったので、タクシーへ。 その頃には、雨がやんでいました。 西側の海岸線を通って、那覇空港へ向かいます。 運転手さんが言うには、「この三日間の日程は、無理のない計画で、とても楽に回れた。 沖縄の観光地について、よく知っている人が立てたのだろう」との事。 なるほど、そうでしたか。 ○△商事の担当者は、沖縄に何度も来ているのかもしれませんな。 私的には、他に行きたい所もあったのですが、最初に、そう言わなかったのは、私が悪いのであって、○△商事の担当者の責任ではありません。

  そういえば、糸満漁港の横を通りましたが、漁港とは思えぬ、巨大な規模で、びっくりしました。 39年前のガイド・ブックに、「現在、糸満港の大規模な整備工事が進められているので、やがては、糸満の水産業も、かつての勢いを取り戻すかもしれない」という件りがあるのですが、本当にそうなった模様。 運転手さんは、「糸満は、高校野球で名を馳せた」と言っていましたが、私の方が、野球の知識に疎くて、生相槌しか打てませんでした。


≪那覇空港≫
  2時30分頃、那覇空港に着きました。 日程表上の契約は、3時までなので、運転手さんは、「ちょっと早いけれど」と言っていましたが、いやいや、朝が、30分早く出発してもらったわけですから、契約時間的には、これで、ぴったりなわけです。 「いろいろと、面白い話を聞かせていただいて、ありがとうございました」と、篤くお礼を言って、別れました。

  三日間も一緒にいたにも拘らず、話題が豊富で、10秒たりとも会話が途切れる事がなかったのは、さすがプロと、感服仕りました。 「今度来た時には、太平洋岸の方を、ゆっくり案内しますよ」と言ってくれましたが、残念ながら、資金的に、私が沖縄へ来れる事は、もうないでしょう。 これからは、引退した無職の人間として、貯金の取り崩し生活が始まるのです。 不治の病に侵されて、余命幾許もなくなったら、来れると思いますが。

  那覇空港に来たのは、四日ぶりです。 来た時には、バスの乗り場と時間が気になって、観察どころではありませんでしたが、今度は、飛行機の時間まで間があるので、ゆっくり見て回れました。 やはり、大きな空港です。 タクシーが着けられたのは、国内線ターミナルの3階で、そこが、チェック・イン・フロアになっています。 四日前に到着した時には、1階の到着フロアから、外に出て、バスに乗りました。 建物の構造が、分からないのですが、1階と3階の前に、車が停まる道路があるんですな。 どうやって、地上まで下りるのだろう? そもそも、どうやって、3階の前まで上がって来たのかも、覚えていないし。

那覇空港


  出発フロアは、2階でして、これから飛行機に乗る人間は、まず、3階で、チケットを買ったり、チェック・インしたり、荷物を預けたりした後、2階に下りて、保安検査場を通り、待ち合い場に入る順序になります。 出発便の電光掲示板を見ると、恐れていた通り、台風の影響で、16:40発の便が遅れて、17:05発になるとの事。 やっぱりかー。 待ち合い場に行く前に、展望台を見てみようと思って、4階に上がりましたが、展望台は、100円の有料でした。 屋外なのに? もちろん、パス。 公衆電話を見つけ、家に電話。 遅れると伝えました。

  3階の、チェック・イン・マシンで、搭乗手続きをしたところ、もっと早い便に、変更できるかのような案内が出たので、「空席待ち」を選んだら、「このチケットでは、変更できません」という表示が出ました。 だったら、最初から言うなよ。 期待してしまったではないか。 ふざけた機械だ。

  2階の売店で、「紅芋タルト」の、一番小さい箱を、630円で買いました。 さすがに、家族への土産が、沖縄そばだけというのも少ないと思って、菓子を買い足した次第。 小さい箱なので、何とか、旅行鞄に押し込めました。 よしよし。 それでなくても、遅延するというのに、荷物の数が増えたら、預けなければならなくなり、羽田に着いてから、空港を出るのが遅れてしまいますからのう。

  保安検査場を通って、待ち合い場へ。 この空港は、コの字型になっていて、私が乗るゲートは、その一方の端でしたから。 かなりの距離を歩く事になりました。 ちなみに、航空会社は、日本航空です。 トイレに行ってから、待ち合い場の椅子に座って、日記を書きました。 タクシーに乗っている間は、一文字も書けませんから、朝からの分が、そっくり溜まっていて、待ち時間が足りないほどでした。 書いている間に、出発時間は、更に遅れて、17:15になりました。 もう、どうとでもして下さいな。

  4時52分に、ようやく、搭乗ゲートが開きました。 日記ノートを片付けるのに、ちょっと手間取っていたら、ずらりと人が並んでしまい、えらい遅い搭乗になりました。 席は、左の窓側で、主翼のすぐ後ろ辺りです。 主翼が邪魔をして、首を後ろに捻じ曲げないと、下が見れません。 飛行機は、≪B777-300≫で、またまた、初めて乗る機体です。 北海道応援の時に、≪B777-200≫に、四回乗りましたが、それよりも大きいような感じがしました。 帰ってから調べてみたら、本当に大きくて、≪B777-200≫より、100人以上、多く乗れるとの事。

  大きな機体だと、大勢乗るので、搭乗にも時間がかかります。 この時の便は、満席に近く、さすがに、隣が空席というわけには行きませんでした。 しかも、小学校中学年くらいの小僧です。 嫌~な予感がしましたが、それは、その後、的中します。 自慢になりませんが、私は他人のガキに対する嫌な予感を、未だ嘗て、外した事がありません。 これは、オーラなどという曖昧な物ではなく、ガキ本人と、連れている大人の会話の調子などから、察知されるのです。


≪那覇から、羽田へ≫
  5時15分に離陸。 その時には、外は雨でした。 雲の上に上がると、下は、当然、雲で見えないわけで、全然面白くありません。 しばらくは、夕日が見えましたが、夕日から遠ざかる方角へ向かうので、すぐに暗くなりました。 この辺までは、まだ良かったのです。 やがて、本州に近づき、愛知県の海岸線が見えて来ました。 静岡県、神奈川県、この辺りも、まだ良かった。 ところが、東京湾上空まで来て、旋回が始まったら、隣のガキが、外の様子を見たがって、私の席まで、身を乗り出して来るようになりました。 信じられます? 私の顔の目の前まで、ガキが頭を突き出してくるんですぜ。

  この種のガキに、他人に対する遠慮など、期待するのも愚か。 そもそも、他人に迷惑をかけていると思っていないのだから、罪悪感のかけらも、発生しないのです。 また、私の真後ろの席に乗っている、ガキの叔母と思われる女が、「あー、○○が見える! ほらほら!」などと、何かを見つけるたびに騒ぐものだから、ガキが、そのつど、ギャーギャー騒ぎながら、私の方に身を乗り出してきて、全く落ち着きません。

  子供が傍若無人な態度を取っていたら、その近くには、必ず、それを許している、いや、唆している大人がいると見て、間違いないです。 親戚の叔母さん、近所のおばさんとかに、その種の手合いが多い。 こういう大人は、子供の歓心を引いて、「話の分かる、いい大人」を演じようとしており、自分が子供から慕われるためなら、他人にどんな迷惑がかかろうが、知ったこっちゃありません。 私は、「子供好きの大人」を、全く信用しませんが、この連中は、自分自身が、精神的に大人になりきれず、大人として、他人に相手にされないものだから、子供に媚を売って、味方につけようとしているのです。

  ガキの席の内側、通路側の席には、ガキの母親と思しき女が座っていましたが、自分の息子が、他人に大迷惑を及ぼしている事に、明らかに気づいているにも拘らず、何も言おうとしません。 どーしょもない! 子供が傍若無人な態度を取っていたら、その近くには、必ず、それに見て見ぬふりをしている親がいます。 自分の子供が、まずい事をやっていると分かっていても、子供を叱って、子供に恨まれるのが怖かったり、周囲の知り合いに、「怖い人、厳しい人」と思われるのが嫌で、何も言えないのです。 私は、「子供と仲良しの親」を、全く信用しませんが、それは、この連中が、子供との関係を優先するあまり、社会人としての最低限の義務を果たしていないからです。

  どうせ、こんな親の子供は、長じて、犯罪者になるのが落ちです。 理の当然ではありませんか。 他人に迷惑をかけても、誰にも咎められないのですから、やりたい事は、何だってやるようになります。 他人に迷惑をかける事と、犯罪は、全く同じ方向性の行為でして、その間には、法律に触れるか否かの境界しかありません。 法律を全て頭に入れでもしない限り、自然のままに振舞っているだけで、犯罪の領域に踏み込んでしまう恐れが、常に付き纏います。 成長過程で、さんざん、好き放題にやらせておいて、「犯罪者にはなるな」と言ったって、そりゃ、無理な相談ですぜ。 一体、おまいらは、「人間を育てている」のか、それとも、単に、「子供を飼っている」だけのか、どっちなんだ?

  このガキ、結局、着陸するまで、20分くらい、騒ぎまくっていました。 他人の大人の権利を発動して、怒鳴りつけてやろうかと、何回か思いましたが、それをやれば、せっかくの沖縄旅行の記憶が、真っ黒に塗り潰されてしまうので、何とか堪えました。 そのガキの将来の為には、怒鳴りつけてやった方が、確実にプラスになったと思いますが、なんで、私が、赤の他人の出来損ないのガキの為に、嫌な役回りを引き受けなきゃならんのよ? 馬鹿馬鹿しい! 奇妙な事に、客室乗務員というのは、狂ったように騒いでいる子供には、ニコニコ笑って、何も言わないくせに、それに対して怒り出した大人は、不穏人物と見做すのです。 まったく、子供に甘い社会であることよ。


≪羽田から、家まで≫
  羽田に着いたのは、8時頃でした。 大型機なので、乗客が下りるのにも時間がかかります。 国内線に、こんな大型機は、却って、不便なのではないかと思います。 ジャンボ機が、引退せざるを得なかったのは、単に、燃費だけの問題ではありますまい。 客からすれば、さっと乗れて、さっと下りられるのと、どちらにも、だらだら時間がかかるのとでは、飛行機に対する印象に、大きな差が出ます。 気軽さが売りの国内線なら、尚の事です。

  飛行機から出ると、小走りに、京急乗り場へ下りました。 羽田到着も、三回目ともなると、具体的な道順は覚えていなくても、迷う心配はありません。 天井に下がっている、案内標示を見て進めば、自然に外に出られます。 空港が怖く感じられるのは、ほんとに最初だけですな。 京急の券売機で、410円の切符を買って、地下のホームに下り、ちょうど出るところだった普通列車に飛び乗りました。 「各駅停車は遅いから、エアポート快特を待った方がいい」と、行きで懲りていたのに、また、普通に乗ってしまったのは、10日も経って、その事を忘れてしまっていたのと、一刻も早く帰ろうと焦っていたのが、二大理由。

  蒲田で乗り換えて、品川に着いたのが、8時40分くらい。 ここで、日程表を調べてみたら、○△商事の当初の計画にあった、モノレールで浜松町を経由して品川に来た場合に乗る予定だった、「21:04発 こだま807号」に間に合う事が分かりました。 相当には、牽強付会ですが、飛行機の遅れを、取り戻したと言えないでもなし。 「元はと言えば、この時間になる予定だったんだから、まあ、いいじゃないか」という、気分の問題ですな。 この事で、何となく、得をしたような気になれて、飛行機の中での不愉快な思いを、幾分、中和できました。

  品川駅では、京急のホームと、JRのホームが横に繋がっていて、外に出なくても、「乗り換え改札」を通れば、新幹線のホームへ、直行できます。 その場合、自動改札機には、京急の切符と、JRの切符を重ねて入れます。 その事は、北海道応援の時に始めて知り、お約束のように、間違えて、エラーを出し、駅員さんに助けてもらいました。 なので、この時は、「同じ失敗を、二度は繰り返さんぞ」と、自信満々で望んだのですが、私が、京急の切符、JRの乗車券、特急券の三枚を重ねて入れたら、またもや、エラーが出ました。 顔面蒼白・・・。 で、まーた、駅員さんに助けてもらいました。 重ねて入れられる切符は、二枚までなのだそうです。 つまり、ここでは、京急の切符と、JRの乗車券だけ入れれば良かったんですな。 すいませんねえ。 性懲りもなく、不慣れで・・・。

  新幹線のホームに行くには、新幹線用の改札があり、ここでは、乗車券と特急券を重ねて入れます。 9時過ぎだというのに、新幹線のホームは、退勤客と思われる、サラリーマン風の人々で、行列が出来ていました。 いつ見ても思うんですが、新幹線で通勤というのは、よく言えば、豪勢、悪く言えば、贅沢ですな。 通勤費が会社から出ているんでしょうが、会社も大変だわ。 たった一人の人間を通勤させるために、毎月、何万円払っているのやら。 何万じゃ利かんか。 十何万か、何十万か? 私が社長だったら、地方に社屋を構えて、自腹で通勤できる人だけ雇います。 仕事内容と直截関係ない事に、賃金を払うなんて、馬鹿馬鹿しいではありませんか。 会社員の代わりなんて、どこででも調達できるんですから。 事実上のリストラを喰らったばかりの私が言うのだから、間違いないです。

  先に来た、のぞみを、二本見送り、こだまに乗りました。 いつものように、小田原で、ちょっと長い停車があり、後続の、ひかりやのぞみを先に行かせます。 この新幹線の中で、最後の日記を書きました。 家に着いたら、即、パソコンに切り替えるので、紙ノートの日記は、いつも尻切れトンボになります。 9時51分に、三島に到着。 三島に着いた時に、階段の近くで下りられるように、品川駅で、乗る車両を調節するのですが、北海道応援の時から、毎回、勘違いして、階段から、最も遠い所に下りてしまいます。 この時も、そうで、長いホームの、3分の2くらいの距離を、旅行鞄を牽いて歩かねばならない羽目になりました。 懲りんのう。 まあ、大した事ではないから、本格的に対策を取ろうとしないのだという理由もあるのですが。

  東海道本線のホームへ出て、22:00発の普通列車で、沼津へ。 沼津駅の外に出たのが、10時10分頃。 もう、バスはありません。 ケチな私が、タクシーに乗るわけもなく、旅行鞄の肩ベルトを出し、それを背負って、家まで歩きました。 40分くらいかかります。 辺戸岬まで、4時間歩いたのに比べれば、大した時間ではありませんが、荷物が重かったので、腰を潰さないように、気を使いました。 夜道の怖さは、都会も地方も変わりませんが、幸い、男なので、襲われる心配は、かなり低いです。 それでも、なるべく、大通りを選んで歩きましたけど。

  家に着いたのが、10時50分くらい。 母が、居間で、まだ起きていました。 別に私を待っていたわけではなく、最近、めっきり老け込んで、夜は台所で寝かせている犬が、小便をするたびに吠えるので、その世話をする為に、毎晩、居間で寝起きしていたとの事。 私が旅行から戻って、母が一番喜んだのは、犬の世話を、私にバトン・タッチできる事でした。 土産の、紅芋タルトと、沖縄そばを母に渡し、風呂に入り、夕飯を食べて、自室に上がり、抜いてあった電気製品のプラグを挿して、復帰させ、録画してあったテレビ番組を、ちょっと見て、夜中の1時頃、眠りました。



≪十日目、まとめ≫
  こうして、書き出してみると、最終日も、いろんな事をやっていたんですねえ。 単に、細かく書き過ぎているだけ、という見方も、できんではないですが。

  一番印象が強かったのは、ひめゆり平和祈念資料館で、あそこは、沖縄へ行ったら、必ず見るべきでしょう。 特に、日本人は。 自分の出身都道府県の慰霊碑を見ても、感じられない事が、ひめゆり平和祈念資料館では、感じられると思います。 一体、誰の責任で、ああいう残酷極まりない結果を招いたか、考えるきっかけを得るだけでも、随分と、良識度が上がる事でしょう。

  おきなわワールドは、それまでに行った所と、被りまくっていましたが、王国歴史博物館の、「沖縄と世界のシーサー」の展示が見られただけでも、行った甲斐がありました。 ハブ博物公園も、勉強になったし。 斎場御嶽は、よそ者が行くような所ではない、という印象でした。 琉球ガラス村に関しては、この上、付け加える感想はなし。 ゴーヤ・チャンプルーは、うまかったなあ。

  帰りの飛行機には、参りましたが、あれから、二ヶ月以上経過して、嫌な記憶は、だいぶ薄れて来ました。 綺麗さっぱり、消えてなくなるわけではありませんがね。 大人だって、トラウマは出来るのですよ。 PTSDと言っても良い。 他人の子供に、嫌な思いをさせられたくなかったら、距離を取るのが、有効且つ唯一の対策ですな。


  人生最長の旅行も、ようやく、終わったか。 いや、旅行が終わった時の感慨より、今こうして、10週間に渡った旅行記を書き終えた感動の方が大きいというのが、本音です。 帰って来た時は、「10日なんて、あっという間だったなあ」という感じでした。 もし、詳細過ぎる日記を書かなければ、もっと、早く感じられたのではないかと思います。 人間、気楽に過ごしていると、時間が経つのが早いですから。

  7月31日に帰って来て、次の北海道旅行に出発したのが、8月25日ですから、その間、24日間、何もせずに、遊んでいたわけですが、一体、どんな過ごし方をしていたのか、全く覚えていません。 日記を読めば、書いてあるのですが、恐らく、24日分の日記を全部合わせても、旅行中の一日分の文章量に及ばないでしょう。 旅行先での日々、いかに内容の詰まった時間を過ごしていたかが、分かろうと言うものです。

  次は、一回分かけて、沖縄旅行の総括を書こうと思っていたのですが、その後の北海道旅行記がつかえているので、そちらの方を先に出すとして、旅行の総括は、その後に、纏めて一回で書こうと思います。