2014/10/26

礼文に佇む

  北海道旅行記の、二日目です。 8月26日、火曜日ですな。 この日は、利尻島から、礼文島へ、フェリーで渡り、貸切タクシーで、礼文島を回り、夜は、礼文島のホテルに泊まるという予定でした。 しかし、礼文島は、前々日に、「50年に一度の豪雨」に見舞われ、利尻のホテルで見たテレビ・ニュースでは、土砂崩れで、道路寸断、集落孤立、礼文島で最も有名な景勝地、「桃岩」がある、元地(もとち)地区へ行けなくなっているとの事。 よりによって、私が、一生に一度のつもりで、やって来た時に、どうして、こういう事が起こるかなあ。 でも、島そのものに渡れなかった、西表島に比べれば、礼文島は、行けただけでも、幸運だったというべきか。



≪ホテルの朝≫
  沖縄旅行以来、26日ぶりの外泊で、眠りが浅く、夜中の3時、4時半、4時45分、5時、6時と、頻繁に目が覚めました。 6時過ぎから、起き出して、洗濯物に当てていた扇風機を消して、元の位置に戻しました。 一晩、風に吹かれていた洗濯物は、全て乾いていました。 そりゃ、そうか。 「電気、使いたい放題のホテルだと思って、贅沢な事をしてやがる」と思うでしょう。 私も、そう思います。 でも、洗濯室の乾燥機を使うのに比べたら、電気の使用量は、遥かに少ないと思います。 何より、私は、ツイン・ルームに、一人で泊まって、二人分の宿泊費を出しているわけですから、そのくらいの電力消費は許されるはず。

  髭剃り・洗面して、朝食を食べに、7階の食堂へ。 この時も、エレベーターは使わず、階段で行きました。 沖縄旅行では、食堂・レストランは、地下1階か、地上1・2階のいずれかでしたが、ここへ来て、初めて、高層階で食事をする事になりました。 前日の夕食の時には、すでに、窓の外が真っ暗で、何も感じなかったのですが、この朝、来てみると、高層階の食堂というのが、いかに明るいものか、初めて知りました。 ただ、いるだけでも、気持ちがいいです。 朝だから、尚更、爽快。

  バイキングですが、沖縄に比べると、品数は少な目でした。 ジャガイモがあった以外は、地元特産品に、特に拘っている様子もなく、ごく一般的な品揃え。 ベーコン、ハム、ソーセージ、スクランブル・エッグなど、洋食系朝食の定番料理をとり、それに冷奴、御飯、味噌汁を加え、ジュース一杯、冷水一杯で、食べました。 ジュースは、マシンではなく、ピッチャーに入った物を、手で注ぎました。 マシンか、手注ぎかは、沖縄、北海道に関係なく、ホテルにより、バラバラでしたねえ。

  食事中、「なーんで、こんなに、気分がいいんだろう?」と思っていたら、沖縄旅行の時と違って、こちらでは、子供の姿が見当たらない事に気づきました。 綺麗さっぱり、一人もいません。 興奮して、はしゃぎ回り、駆け回り、人にぶつかり、食堂中に埃を撒き散らす、狂った猿どもがいないと、こんなにも平和なものでしょうか。 静かな環境というものが、人間の精神の安寧にとって、いかに大切であるかを、痛感しました。 すでに、8月も終盤となっており、夏休みが終わったか、追い込みに入っているかのどちらかで、ガキどもは、旅行どころではないのでしょう。 いい気味だ。 さんざん、他人に迷惑をかけた罰として、夏休みの宿題で、死ぬほど苦しむが良い。 いっその事、死んでくれてもいいぞ。 他人のガキなんぞ、金輪際、何の価値もない。

明るく静かな食堂(上)/ 朝食(下)


  朝食を終えて、部屋に戻ったのが、6時50分。 フェリーの出港時間は、9:25で、ホテルの送迎バスは、8時45分に出ると、チェック・インの時に聞いていましたから、まだ、2時間近くあります。 で、前日、タクシーの運転手さんに貰ったパンフに、この日行く予定の、礼文島の地図や観光地も出ていたので、それを広げて、予習を始めました。 家でも、37年前のガイド・ブックやネットで、下調べはしていたのですが、現地で得られる最新情報というのは、また少し違いますし、土砂崩れで、元地地区の景勝地は、諦めざるを得ない公算が極めて高いので、他の所について、勉強し直したというわけです。

  地図を見ると、ほぼ円形の利尻島に対し、礼文島というのは、南北に細長い島なのですが、開けているのは東側で、南から北まで繋がっている道路は、東海岸だけにある様子。 元地地区というのは、西海岸の南の方にあるのですが、そこに行くには、東側から、山を越えなければならず、その道路が、土砂崩れで通行止めになっているわけです。 海岸線沿いに、南側から回る道はなくて、船便もなし。

  それを調べている、正にその時、テレビ・ニュースでは、もろに、礼文島の土砂崩れの様子を報じていて、とてもじゃないけど、数時間内に復旧するとは思えません。 こりゃあ、駄目だな。 元地地区ばかりか、礼文島自体の観光にしてからが、覚束ないのでは? 「それどころではないので・・・」とか言って、タクシー観光が中止になってしまったら、どうしよう・・・。 弥が上にも、不安が盛り上がります。 最悪、レンタ・サイクルを借りて、自力で回る事も考えていました。 午後になれば、礼文のホテルに入れますが、一日、ホテルの周辺だけうろついていても、しょうがないですけんのう。

  8時20分までに、荷物を纏め、最終チェックして、8時半に、ロビーへ下りました。 この時は、さすがに、エレベーターを使いましたよ。 旅行鞄を背負って、6階から1階まで、階段を下りたのでは、腰がもちません。 そういや、この北海道旅行では、旅行鞄を、背負っている事が多かったです。 私の鞄は、キャスター2個と、伸縮式の取っ手が付いていて、牽いて歩く事もできるのですが、長時間でなければ、肩ベルトを出して、背負っていた方が、何かと都合がいい事が、だんだん分かって来たんですな。 たとえば、フェリー・ターミナルや空港のトイレで、小用を足す時、鞄を、トイレの床に直かに置くのは、大いにためらわれる。 トイレの床に置いた物を、その後、膝の上に載せるなど、以ての外でして、潔癖症ならずとも、抵抗感がある事でしょう。 その点、背負っていれば、両手は空くし、盗まれる心配もありません。

  フロントで、チェック・アウトすると、送迎バスが出るまで、ロビーで待つようにとの指示。 このホテルのロビーには、売店があり、土産物がぎっしり並んでいました。 沖縄で、ミニ・リアル・シーサーを買ったので、北海道でも、同じくらいの大きさの置物を買うつもりでいたのですが、ここの店にも、ちょうどよいサイズの物があったものの、値札が付いていません。 下手に訊ねて、高かったら困るので、訊かずに、出て来ました。 まだ先は長いから、他でも買えるでしょう。

  木彫りのアイヌ人形や、木彫りの熊は、土産物として、今でも健在でした。 この二つ、37年前に、母が買って来て、長い間、我が家の床の間に置いてあったのですが、15年くらい前に、家中が、母の旅の土産物で埋め尽くされそうになっていたのを、私が批判したら、臍を曲げて、全部捨ててしまいました。 母としては、旅の実績を自慢する為の、証拠品として、それらの置物を買って来ていたのですが、その頃には、家を訪ねて来る客が、めっきり減って、意味がなくなっていたという理由もあります。 それにしても、木彫りの熊なんて、一抱えもあるサイズだったのに、一体、何ゴミに出したんだろう?

  昔の木彫りの熊は、みな、四つん這いで、口に鮭を咥えている姿でしたが、今では、何も咥えず、口を開けて、吠えている姿の物もあります。 母が買って来たのと、同じサイズのを見てみたら、値段が、1万円を超えていました。 とんでもねー・・・。 「よく、そんな値段の物を捨てられたものだ」と思うでしょうが、うちの母には、値段を見ずに物を買う、悪い癖があるので、たぶん、捨てた時も、いくらで買って来たか、分かっていなかったと思います。 ちなみに、木彫りの熊は、別に、アイヌの伝統工芸ではなく、明治以降に、北海道の特産品にする為に、和人の某が考案して、作り始めたものらしいです。 最近のは、インドネシアで作っているという話も、以前、テレビで見た事があります。

  その内、係員が呼びに来たので、外に出ると、送迎バスというのは、ハイエースでした。 運転手を除き、9人乗り。 でも、その時、乗ったのは、私と、二人連れが一組だけでした。 前日、ホテルから、ペシ岬まで歩いて行きましたが、ペシ岬は、港のすぐ横なので、ホテルから、フェリー・ターミナルまでだって、歩いて行けない事はありません。 でも、無料のバスがあるのに、わざわざ歩く理由もありません。 5分くらいで、到着しました。 やはり、車は速いな。 当たり前ですが。


≪鴛泊港フェリー・ターミナル≫
  鴛泊のターミナルは、出来たばかりの新品です。 1階の案内所で、船のクーポンを見せたら、すぐそこに見える、フェリー会社の受付へ行くように指示されました。 考えてみると、船会社は一つしかないから、最初から、そちらに行けば良かったわけですが、そうなると、なんで、わざわざ、案内所を設けてあるんでしょう? もしかしたら、これから、乗る客の案内ではなく、到着した人に、島内の案内をする所なんでしょうか? そうかもしれませんな。

  まあ、それはいいとして、フェリー会社の受付へ行って、クーポンを出したら、乗船券をくれました。 「鴛泊⇒香深(礼文島) 2等 大人1名 960円」と書いてあります。  フェリーしかないので、フェリーに乗るわけですが、勿の論、私は、旅行鞄を背負っているだけで、身一つです。 フェリーは、2012年の夏に、横須賀から房総半島へ渡った時に、バイクで乗りましたが、そちらは、2014年10月現在の料金で、身一つで乗ると、720円。 航海時間の差は、利尻⇒礼文間の方が、5分長いだけなので、960円は、ちと高いか。 ちなみに、750cc未満のバイク込みだと、東京湾の方が、1680円なのに対し、利尻⇒礼文間は、2140円となり、だいぶ、差が開きます。

  ターミナルの2階が、大きな待ち合い場になっています。 新しいだけあって、椅子も高級で、ちょっと、空港みたいな感じがします。 ここで、8時50分。 まだ、30分以上あったので、トイレへ小用へ。 戻って来たら、エレベーターから、大柄なリスが出て来るところでした。 町の職員らしき、法被を着た男性と二人で、1階から2階へ上がって来たのです。 どうやら、利尻富士町のマスコット・キャラクターらしいです。 名前は、「りっぷくん」。 分かり易く、名札をつけています。

  昨今、着ぐるみキャラクターは、みな一緒くたに、「ゆるキャラ」と呼ばれてしまいますが、りっぷくんは、架空の生き物ではなく、黄色い体に、青いオーバーオールを着ているものの、ほぼ、シマリスそのものでした。 これでいいんですよ。 無理に、妖精を創作する必要はないんです。 動物は、そのまま、着ぐるみにしたって、充分に可愛いんですから。 りっぷくんと、付き添いの人は、しばらく、所在なげにしていましたが、記念撮影に応じてくれるらしいと分かると、三々五々、客が寄り始めました。 その内、団体客が、バスで到着し、待ち合い場がいっぱいになるくらい、人が増えると、りっぷくん、文字通り、引っ張り凧で、もみくちゃに・・・。

  凄い光景だったなあ。 朝食のところでも書きましたが、ここでも、子供の客は一人も見ず、全員大人で、しかも、みんな、中高年、というか、ズバリ言うと、高齢者です。 中には、後期高齢者と思われるお爺さんもいましたが、そういう人達が、大柄なリスを捉まえて放さず、脇の下に抱き着くようにして、記念写真を撮っているんですぜ。 撫で牛と間違えて、御利益を期待しとるのではないか? リ、ス、だ、というに。 りっぷくんの中に入っている人、性別は不明ですが、年寄りに次々に抱き着かれて、抵抗感あるでしょうねえ。 これを、「キャラ・ハラ」と称して、社会問題化できぬものか・・・。 だけど、人気がなくて、無視されるよりは、ずっといいか。

鴛泊フェリー・ターミナル(上)/ りっぷくん(下)


  そうこうする内、フェリーが入港して来て、下船が始まりました。 フェリーの旅客用乗降口というのは、上甲板の方にありまして、この新しいフェリー・ターミナルは、乗降口の高さに合わせて、2階からブリッジが突き出しているわけです。 これが、前日、運転手さんが言っていた、「2階から、直截、乗れる」という意味だったんですな。 下船が始まる前に、出発客は、待ち合い場から、待機通路の方へ移り、入れ替わるように、到着客が、待ち合い場の中へを通って、階下へ下りて行くという格好。 ちなみに、りっぷくんは、今度は、到着客の方に捉まって、もみくちゃに・・・。 この人気は、リスならではでしょうな。 形が複雑で、下手に触ると、部品が取れそうな妖精だったら、こうは、なつかれますまい。


≪利尻・礼文間フェリー≫
  9時10分に、乗船開始。 出港15分前だから、この点も、飛行機と同じですな。 ただし、指定席ではないですし、予約しているわけでもないので、QRコードの読み取りなどはなく、船に乗り込む時に、係員に乗船券を渡し、パンチしてもらうだけです。 ここで、一気に、鉄道より素朴になりましたが、まあ、そんな事は、どうでもよい。 要は、乗れればいいんですよ。

  乗船券には、1等と2等があり、1等は、最上階の1等船室の他、上甲板にも、特別の部屋があります。 2等の貧乏人は、1等船室には、立ち入り禁止。 私もその内の一人です。 2等の船室は、まさかの、土禁。 カーペットが敷いてある床に、靴を脱いで上がり、横にもなれるという奴ですが、泊りならいざしらず、長くても、数時間で着く航路しかないのに、こういう場所は必要ありますまい。 まったく、どこへ行っても、感染症に鈍感な経営者が多くて困る。 幸い、その先に、屋外デッキがあり、椅子が並んでいたので、そこにいる事にしました。

  定刻通りに、9時25分に、出港。 私は、船首側にいると思っていたんですが、動き出して見ると、船尾の方でした。 フェリーは、前後が分かり難いのよ。 試しに、船首の方へも行ってみましたが、船首側には、屋外デッキがないのです。 そういえば、東京湾フェリーも、船首側には、屋外デッキがありませんでした。 これは、風や波しぶきの関係で、わざと、設けていないのかもしれませんな。 もっとも、大きな船ですから、沖縄で乗った高速船のように、波を蹴立てて、ぶっ飛ばすような事は、したくてもできないわけで、至って、静かな航海でした。

  波は静かだったものの、何と言っても、高緯度の道北で、しかも、空は曇りとなると、さすがに、寒い。 それを見越して、フェリー・ターミナルにいる間に、フリース・ジャケットを着ておいて、応じ合わせでした。 しかし、フリースは薄手なので、やがて、それを着ていても寒くなり、たまらず、屋内へ。 舷側の通路にいたら、今度は、暑くなり、また、屋外へ。 体温調節がうまく行かず、気持ちが悪くなって来ます。 この旅では、家から、酔い止めの飴を持って来なかったのですが、前日、新千歳⇒利尻間の飛行機で貰った飴二つを、ウエスト・バッグに入れてあったのを思い出し、それを舐めて、しのぎました。

  外の景色は、屋外デッキにいる間は、利尻島が見えていました。 利尻岳は、この日も、上半分、雲に覆われていました。 頂上を一度も拝めないまま、帰る事になる恐れが高まって来ます。 ペシ岬は、いつまでも見えていました。 なるほど、これだからこそ、ランド・マークたりえるんですな。 途中からは、舷側から、右前方に、礼文島が見えて来ました。 いや、利尻島からも礼文島は見えるわけで、見れば、最初から見えていたと思うんですがね。 気分的に、「見えて来た」という感じだったのです。 後ろの利尻島は、シルエットのように黒っぽいですが、前の礼文島は、山の緑色が、はっきり分かります。 しかし、これは、島の色の違いと言うより、光線の加減でしょうな。

フェリー(上)/ 礼文島の香深(下)


  正味、約40分航海して、礼文島の、香深港に入りました。 前日、利尻の運転手さんが言っていた通り、こちらのターミナルは、工事中でした。 船に、陸側から、タラップが二本架けられて、それで乗降します。 タラップと言っても、階段ではなく、スロープでして、船体に対して、直角方向に架けられます。 スロープなら、潮の干満で、船の甲板の高さが変わっても、対応できるから、階段より、融通が利くのかも知れません。

  そのタラップを通って、下船したのは、10時10分くらいでした。 予定到着時刻より、5分、遅れ。 いや、船は着いてはいたんですが、下船に時間がかかったのです。 みんな、観光客で、大荷物を持っているのに、スロープは怖い・・・。 否が応でも、人の流れが滞るというわけ。 下りてしまえば、ターミナルには用がないので、そちらには入らず、そこで解散です。 ターミナルの横の駐車場の辺りに、迎えの人垣が出来ていて、その中に、貸切タクシーの運転手さんも、私の名前を書いた名札を掲げて、待っていました。 


≪貸切タクシー≫
  「香深」は、「かふか」と読みます。 フランツ・カフカと覚えておけば、絶対忘れません。 だけど、「かぶか」とも言うらしいです。 礼文島の玄関口にして、最大の街。 島の東海岸の、南の方にあります。 ちなみに、礼文島は、礼文町だけで、一島一自治体です。 人口、2700人。 利尻島の半分ですな。 こちらも、70年代には、ずっと多くて、7500人もいたのだとか。 3分の1になってしまったわけだ。 厳しいっすねえ。

  ちなみに、この夜泊まるホテルも、香深の街にあり、この日の貸切タクシーは、香深から出発して、香深へ戻って来る格好になります。 それどころか、最初、南へ行って、その後、昼食をとる為に、フェリー・ターミナルに戻ったので、香深から出て、香深に戻り、午後、また、香深を出て、夕方、香深に戻ったわけです。 礼文島に於いては、全ての道は、香深に続くわけだ。

  貸切タクシーの運転手さんは、かなりの年配で、60歳を、だいぶ越えているのではないかと思われました。 沖縄本島で乗せてもらった運転手さんと、同じような雰囲気だったので、同じくらいの年齢だったのではないかと思います。 実は、この礼文島の運転手さんが写った写真が一枚もなくて、2ヵ月経った現在、顔を思い出せないという、面目なくも情けない状態になっている有様。 思い出そうとすると、沖縄本島の運転手さんの顔になってしまうのです。 忘れないようにするには、自分の方から頼んで、写真を撮らせてもらうか、誰か、似た顔の有名人でも探して、その名前を記しておくか、どちらかしかありませんな。

  タクシー会社の所属で、車は、黒の日産セドリック。 すでに、生産中止になって久しい車種ですが、非常に、いい状態を保って、乗っていました。 車に詳しくない人が見たら、新車だと思うくらい。 クーポンを渡して、乗車。 乗るなり言われたのが、「元地地区へは、土砂崩れで行けない」という、例の話でした。 元地地区には、「桃岩」、「猫岩」、「地蔵岩」と、名前を聞いただけで、期待が膨らむような、奇岩があるのですが、災害では致し方ありません。 大変な時に、観光させてもらえるだけでも、ありがたいと思わなければ。

  港には、稚内から災害復旧の応援に来た警察官の一団がいて、作業を始める準備をしていました。 港のすぐ前の道路には、大きな水溜りが出来ていて、まだ、水も引いていないのです。 ほんとに、こんな状態で、観光しちゃって、いいんだろうか? まず最初に、「北のカナリア・パーク」に行く事になり、走り出して、香深より、南の方へ下って行きました。 運転手さんに、豪雨の様子を聞くと、ひどかったとの事。 利尻の運転手さんから、「礼文へ行ったら、『お見舞い申し上げます』と伝えて下さい」と言われていたので、その通り、伝えました。 別に、お二人が知り合いというわけではないと思いますが。

  この運転手さんは、解説型ではなく、会話型で、私の方から質問したりしないと、話が途切れる事が、間々ありました。 しかし、放送事故になるほどではなく、私の方が黙ると、気まずくなる寸前に、運転手さんの方が何か喋り出すというパターンが繰り返されました。 これも、長年の間に培われた、テクニックなのでしょう。 無駄な会話はしないが、必要なら、話題はいくらでもあるという感じ。

  礼文島は、雪はどのくらい降るか訊いたら、1メートルくらいだとの事。 でも、除雪して、積み上げるので、結局、2メートルくらいの壁になってしまい、車を運転していると、横が見えなくなるという事でした。 ただし、海沿いの道路だと、海に捨ててしまえるので、海が見えなくなるような事はないそうです。 


≪北のカナリア・パーク≫
  名前からして、もろですが、映画≪北のカナリア≫の、ロケ用に作られた、学校の校舎がある所です。 映画は、2012年ですから、まだ、出来て間もない観光地という事になります。 問題は、私が≪北のカナリア≫を部分的にしか見ていないという事ですが、ここでも、正直にその事を言い、後難を排しておきました。 礼文島の南端に近い、丘陵地帯の上にあります。 南側の道路から、丘陵へ登って行くのですが、漁村の中を通る道が、凄い急な傾斜で、後ろへずり落ちるんじゃないかと、ヒヤヒヤしました。 何とか、丘の途中まであがってきたと思ったら、そこで、まさかの通行止め。

  そこにいた、「いかにも、近所在住」という風体のおじいさんに、運転手さんが訊いたところ、どうやら、水害の復旧作業の関係で、急遽、通行止めにされた模様。 運転手さんが、私に、「少し歩いてもいいですか?」と訊くので、了解し、車から下りて、歩き始めました。 ちなみに、そこのおじいさん、運転手さんと話している間中、ズボンの前に手を突っ込んで、頻りに何かしている様子でしたが、私達が、そこを立ち去った途端、立小便を始めました。 なるほど、排尿器官を引っ張り出していたんですな。 「○○ポジ直しにしては、やけに、念入りだな」と思っていたので、納得納得。

  かなり歩きましたなあ。 5分以上、10分以下というところでしょうか。 やがて、「北のカナリア・パーク」の入り口が見えて来ましたが、道の向こう側から、観光バスが走って来るのも見えました。 運転手さんが、「おかしいな。 向こうからは、工事用の大型ダンプしか入れないはずだけど・・・」と言い、駐車場の係員に訊いたら、この日は、特別に、観光バスやタクシーでも、北側の道路から入れるようになったのだとの返事でした。 「そんな話は聞いてない」と、運転手さんは、むっとしていました。 そういう事が決まった場合、役所からタクシー会社に連絡が入るのが、普通なのだそうです。 歩かなくてもいいところを歩いた事になりますが、私は、腹が出て困っていたので、少し歩くくらいで、ちょうど良かったです。

  むしろ、問題だったのは、この「北のカナリア・パーク」そのものの方。 駐車場があり、その隣に、トイレがあるのですが、それ以外には、例の、映画用に建てられた校舎しかないのです。 「パーク」と言うには、あまりにも、シンプル過ぎるのでは? これから、整備するのかも知れませんが、撮影はとっくに終わっていますから、映画関連の施設が、今以上に増えるという事はないわけで、恐らく、校舎を含む、公園になるんじゃないかと思います。 テーマ・パーク的な意味の、「パーク」ではなかったわけだ。

  それだけなら、まだいいのですが、運転手さんに、「見て来て下さい」と言われて、一人で、校舎のある方へ下りていくと、段々、嫌な予感が盛り上がって来ました。 学校の校舎に入る時には、何を履くか? 上履きです。 だけど、観光客は、上履きは持っていません。 するってーと、つまり、土禁なわけですから、靴下で上がるか、備え付けのスリッパを履くかのどちらかになるわけです。 玄関を入ってみると、果たして、靴を脱いでいる客がいました。 これは勘弁して下さい。

  運転手さんが一緒でなかったのをいい事に、校舎内に入るのはやめ、外から覗くに留めました。 運転手さんが、「一番、奥の部屋に、吉永小百合さんの、等身大像が浮き出るパネルがある」と言っていましたが、それは、辛うじて、窓の外から、見る事ができました。 助かった。 これで、見なかったものを見たと、嘘をつかずに済みます。 校舎の裏の方へ回ると、大きな、水溜りが出来ていて、基礎まで浸かっていました。 礼文の土は、水捌けが良くないんですなあ。 丘の上ですから、南側には、眺望が大きく開けていて、利尻島が、間近に見えます。 ただし、上半分は雲の中。

  大体、10分くらいいて、駐車場に引き揚げました。 運転手さんは、トイレの前で待っていましたが、別に、校舎内の展示品について、話が出る事もなく、助かりました。 そこのトイレ、やけに立派な建物だと思ったら、バイオ・トイレだとの事。 高山とかに設置される、汚物が出ないか、少ないか、とにかく、そういう技術が使われているトイレなのだそうです。 せっかくなので、小用を済ませて来ました。 二人して、車へ戻ります。

  山側は、概ね、草地。 部分的に灌木の林があります。 所々に、墓あり。 運転手さんの話では、昔、この辺では、「野焼き」をしていたのだとの事。 私は、「山焼き」と勘違いしていたのですが、話を聞いている内に、「野焼き」というのは、野っ原でやる、火葬の事を言うのだと分かり、冷や汗を掻きました。 焼いている途中、腕や脚が飛び出して来ると、棒で押して、火の中に戻したのだそうです。 中学の時、理科の先生に聞いた話と通じる所がありました。 火葬というのは、直かに目にしない方が良さそうですな。 夢に出て来そうです。

北のカナリア・パーク(上)/ 礼文の知床(下)



≪知床≫
  車に乗り、海岸線の道路へ戻ります。 更に、南へ向かって、車が入れる限界の所で、停まりました。 この辺りを、「知床」と言うとの事。 あの、道東の、世界遺産の半島と同じ文字で、同じ読み方をします。 アイヌ語の地名は、地形的特徴からつけられたものが多いので、似たような地形だと、同じ名前がつく事があります。 もっとも、「シレトコ」は、「地の果て」という、漠然とした意味らしいので、ここの場合、知床半島と、具体的な地形が似ているわけではないのですが・・・。

  歩けば、もっと先まで行けるという話でしたが、運転手さんの口ぶりから、勧めているようにも見えなかったので、やめておきました。 海が、すぐ目の前に広がっていて、地上から見ても、岸近くと沖合いの色の違いが分かります。 運転手さんに、「静岡の方は、海は、どんな感じですか?」と訊かれたので、「いや、私が住んでいる所の海は、駿河湾なので、ここのように、ドーンと広い感じはありません。 それに、こういう、海の色のグラデーションはないです」と、答えました。 駿河湾は、いきなり深くなるのが特徴で、浅瀬がないから、色の変化もないのでしょう。 そこには、ほんの3分くらいいただけで、タクシーに乗り、香深の方へ引き返しました。

  アイヌ語地名の話が出た流れで、利尻島と礼文島の名前の由来も、説明されました。 「リシリ」は、前回書いたように、「高い島」ですが、「レブン」は、「沖の」という意味で、元は、「レブンシリ」と言ったのだそうです。 「沖の島」ですな。 ここで、私が、「『利尻島』という言い方は、『高い島島』と言っている事になりますね」と言ったら、運転手さん、一瞬間を置いてから、「そう言われてみれば、そうだ」と答えました。

  その時は、私、気の利いた指摘をしたつもりでいたのですが、今考えてみると、生まれた時から、礼文で暮らし、半世紀以上、毎日毎日、利尻島を眺めて来た運転手さんが、その事に、今まで気づかなかったというのも、妙な話です。 恐らく、地元では、そんな指摘は、子供が口にする事で、大の大人が話題にするような事ではないから、どう答えていいか困っただけだったのかもしれません。


≪香深にて≫
  香深に戻りました。 運転手さんが、山の中へ車を進めます。 例の、土砂崩れで通れなくなっている、元地地区へ通じる道を、途中まで、行ってくれたのです。 ところが、少しも行かない内に、通行止めに、行く手を阻まれました。 工事車両が忙しげに行き来して、戦場のようになっています。 「ここから、もう駄目か・・・」と言って、引き換えした次第。 運転手さんも、全国的に有名な、「桃岩」へ案内できないのを、口惜しいと思っていたんでしょう。 いやいや、もう、充分です。

  すぐ近くに、新しいトンネルが、建設中でした。 土砂崩れを起こした方の道は、老朽化して、前々から、危ないと言われていたのだそうで、豪雨が来る前から、新しいトンネルを作り始めていたんですな。 工事の進捗が、何割くらいまで行っていたのか分かりませんが、まだ、完成まで、何ヵ月もかかるのなら、古い方の復旧と、新しい方の建設を、両方、同時に進めなければならないわけで、自治体は、資金的に厳しいでしょうな。

  次に、香深の街を見下ろす高台へ、車で登りました。 運転手さんが通ったという小学校の付近から、港を見下ろします。 観光地ではありませんが、地元の人しか知らない穴場的景勝地という奴ですな。 そこそこの高さがあり、毎日、ここへ通う小学生は大変でしょう。 運転手さんが子供の頃は、下校の時は、道を歩かず、斜面を滑り降りて、ほんの数分で、家まで帰っていたのだとか。 ワイルドですなあ。

  運転手さんに言われて、港を見ると、災害の視察に来た道知事が乗っている巡視船が、帰って行くところでした。 復旧応援の警察官達は、フェリーで来たようですが、知事ともなると、巡視船を出すわけだ。 別に、知事が来たからといって、復旧が進むわけではないのですが、災害の時には、一応、現地に駆けつけておかないと、後々、選挙に響くんでしょうか。 昔は、そんな事はなかったと思いますが、アメリカ大統領のハリケーン被災地視察辺りから、そんな風潮が広まり始めたような気がします。


≪礼文町郷土資料館≫
  その後、街へ下りて、「礼文町郷土資料館」へ。 ここは、来る前に、ネットで調べていたんですが、「マッコウクジラの歯牙製、女性像・動物像」というのが、展示の目玉なのです。 礼文島では、桃岩と同じくらい、期待していたので、見逃すわけには行きません。 運転手さんに、「こういう所、興味ありますか?」と訊かれ、「あります!」と、即答したのは、当然の事。 入館料300円は自腹ですが、何のそれしき。

  二階建てで、結構、複雑な形をした展示室でした。 1階は、大型の土器を並べ、パネルで、時代区分の説明をしていました。 北海道では、弥生時代が存在せず、縄文時代の後に、続縄文時代、擦文時代、オホーツク文化時代と続き、アイヌ文化時代に繋がって行くのだとか。 北海道は広いので、地域によっても、差があるとの事。

  2階は、それぞれの時代の出土物を、ケース内に並べ、もっと詳しく説明しています。 その、2階の入り口の所に、目当ての、「マッコウクジラの歯牙製、女性像・動物像」がありました。 オホーツク文化時代のものらしいのですが、女性像は、二つあり、大きい方は、高さ、13センチで、何となく、弥勒菩薩の半跏思惟像に似ています。 小さい方は、辛うじて、人の形と分かる程度の、シンプルなもの。 動物像は、一つで、小さい方の女性像と同じくらいの大きさです。 熊だとの事。 土産物の木彫りの熊ほど、リアルではありませんが、素朴な造形が、却って、異文化の奥の深さを感じさせます。 うーむ、ネットで事前に調べたものを、現地で生で見ると、感動がありますなあ。 来て良かった。

  2階には、他に、明治期以降の文物も展示してありますが、そちらは、素通りしてしまいました。 そういうのは、他でも見られますから。 いや、実は私、他でも、見ないんですがね。 礼文島に限らず、日本全国、どこの郷土資料館でもそうですが、明治から昭和20年までの歴史や民具を展示してあるコーナーには、一様に、重苦しい雰囲気が漂っています。 この時代、暗いのですよ。 文化的には、ヨーロッパの稚拙なパクリで、見るに値しないし、一方で、庶民の生活は、恐ろしく貧しくて、思わず、眉間に皺がよります。 ずっしり重そうな桶など見ると、それを持ち上げる事を想像しただけで、腰が痛くなって来ます。 NHKの朝ドラは、その時代を舞台にした話が多いですが、熱心に見ている連中の気が知りません。 あんな時代に戻りたいのかね? 三日で、寝込むで。

  1階の出口近くに、トドの剥製が、オス・メス2頭、置いてありました。 トドの剥製、北海道の博物館・資料館では、あちこちで見ますが、礼文島では、冬になると、生きた本物が、やって来るらしいです。 桃岩の写真が、パネルになっていたので、行けなかった代わりに、撮影して来ました。 写真を写真に撮るのは、何となく、抵抗がありますが、まあ、事情が事情だから、仕方ありません。 本当に、桃の形をしているんですねえ。 見たかったなあ。

女性像・動物像(上)/ 桃岩の写真の写真(下)



≪しょうゆラーメン≫
  郷土資料館を出たのが、11時45分くらいで、この後、昼食という事になるのですが、「どうします?」と訊かれたので、勇気を出して、「実は私、会社の福利ポイントで、この旅行に来ているので、なるべく、自腹を切りたくないのです。 ウニとかは食べられませんから、ラーメンとか、千円以下で収まる店へ連れて行ってください」と言いました。 すると、「ああ、ラーメンなら、大丈夫です」との返事。

  言っておいて良かった。 礼文は、ウニの産地らしく、何も言わなかったら、どんな店へ行ってしまったか分かりません。 北海道が、全道的に、ラーメンのメッカだった事は、幸運でした。 地元の人達は、ラーメンに誇りを持っているわけで、こちらが、「ラーメンが食べたい」と言っている分には、気分を害する心配がないからです。 そして、ラーメン屋なら、まず間違いなく、千円以下の品があります。

  運転手さんの話では、フェリー・ターミナルの2階に、店があるとの事。 ターミナルは、工事中だと書きましたが、それは、搭乗口の事で、ターミナル自体は、機能しているようです。 「満席という事もあるから」と言って、運転手さんが、予め電話で確認してから、向かいました。 香深の街は小さいので、郷土資料館から、ターミナルまでは、ほんのちょっとです。 港の駐車場に車を停め、私一人で、ターミナルの2階へ上がりました。 タクシー会社の事務所も、ターミナルのすぐ近くにあるとかで、運転手さんは、そちらへ、昼食を食べに戻って行きました。

  で、その店ですが、行ってみると、なんと、寿司屋でした。 思わず、胸がざわつきましたが、席に座って、メニューを見ると、ラーメンもある事が分かり、ほっと、一安心。 一番安かった、700円の、しょうゆラーメンを注文。 7分くらいで来ました。 寿司を握っているカウンターとは、別の所から、運ばれて来ましたっけ。 そりゃそうか。 7ヵ月前の北海道応援の時には、店でラーメンを食べる機会がなかったので、これが、初の北海道ラーメンという事になりましたが、なるほど、確かに、おいしかったです。 スープが、あっさりしているところが、実にありがたい。 私は、ギトギトしたスープが苦手なのです。

  伝票はなくて、レジの所で、「何ラーメンを食べましたか?」と訊かれました。 食べたのは、一番安い品でしたから、ごまかす理由もないわけで、正直に答えましたが、スープまで全部平らげてしまった場合、証拠が残りませんから、中には、高いのを食べたのに、一番安い品の料金で済ませようとする輩もいるかもしれませんな。 そういう事を考えると、最初に、券売機で食券を買う方式は、間違いが起こる心配がなくて、優れています。


≪東海岸≫
  食後は、東海岸を北上します。 香深井(かぶかい)という集落あり。 ここには、そこそこ広い平地があり、住宅地になっていました。 「揺り籠から、墓場まで」対応できる、一通りの施設が整っているのだそうです。 保育園や、介護施設などの事でしょうな。 ただし、出産はできないそうで、礼文島の妊婦さんは、子供を産む時には、稚内の病院へ行くのだそうです。 大変ですなあ。 まあ、産気づいてからではなく、予定日が近づいたら、ゆとりをもって、入院するのだとは思いますが。

  他に、この辺りで、運転手さんから聞いた話というと、礼文島には、警察官が3人しか駐在していないとの事。 3人では、交通違反の取り締まりなど、できないので、交通ルールは、かなり、緩く捉えられているらしいです。 夏場の観光シーズンだけ、稚内から、交通機動隊が来て、取り締まりをするので、その期間は、緊張するのだとか。 ちなみに、信号機は、島内に、二ヵ所のみで、香深に一つ、北の船泊(ふなどまり)の街に一つ。 この二つは、後に、実際に、見せてもらいました。 信号機が見所になるのは、離島ならではの醍醐味。

  自動車教習所は、島内になくて、免許を取る時には、札幌や旭川へ、合宿しに行くのだとか。 陸運局は、旭川になるとの事。 そういや、撮って来た写真を見ると、車のナンバーが、「旭川」です。  意外な事に、道北地方では、最も近い大都市というと、旭川になるのだそうです。 旭川って、道東じゃなかったんだ。 そういや、「道央」という言葉もありますな。 うっ・・・、これは、私の知識の方の問題ですな。 北海道の地域分けの仕方が、頭に入っていないのです。 運転手さんの話では、旭川は、大きな街だとの事。 結局、私は、行けずじまいでしたが。

  利尻で見た、オオセグロカモメが、礼文にも、たくさんいました。 「こちらのカモメは、大きいですねえ」と言うと、運転手さんが、「あれは、メタボです」と言います。 漁師が捨てた魚を食べたり、自分達でウニを獲って食べたりして、太る一方。 そのせいで、飛び立つのが遅くて、道路で車に轢かれる事があるとの事。 また、奇妙な習性があり、道路の山側にいても、車が近づくと、必ず、海側へ逃げようとするので、車の前に飛び出す格好になって、轢かれてしまうのだそうです。 本能的に、空間が開けている方へ向かおうとするんでしょうか?

  近くに、「うにむき体験センター」があると言われましたが、「いやあ、海産物は苦手なので・・・」と言って、パスしました。 沖縄・北海道を通して、「○○体験」というのは、一つもやりませんでした。 やれば、話の種くらいにはなるでしょうが、大抵、有料ですし、この歳になると、何か体験して、今後の人生の肥やしにしようという目的意識も湧いて来ないのです。 歳を取ると、何につけ、受身の姿勢にならざるを得ないのですよ。 まして、福利ポイントの消化の為に来た旅行で、体験なんて、面倒臭い事、ようしませんわ。

  その後、豪雨による土砂崩れで、二人亡くなった家の前も通りました。 海岸線の道路沿いの、山側です。 別に通ってくれと頼んだわけではないんですが、この辺り、他に道がないらしいのです。 家と土砂がぐじゃぐじゃに混じり合って、凄まじい光景でした。 その付近、家が疎らにしかないだけに、「崩れた所が、ちょっと横だったら、何の被害もなかったのに・・・」と思わずにはいられませんでした。

  島の北部は、昔、山火事があって、樹木が全部焼けてしまい、その後、植林はしているものの、潮風が厳しくて、谷間以外は、みんな枯れてしまうのだそうです。 遠くから見ると、若草山的な草原のようですが、実際には、人の胸くらいの背丈がある草が、同じ高さで生えているのであって、とても、入れたもんじゃないのだとか。 チシマザサという笹が多いそうですが、この笹、場所によって、成長の度合いが異なり、周囲の草と同じ高さまでしか伸びないのだそうです。 潮風を受けるのを避けるためなんでしょうな。 不思議な話で、植物には、脳がないのに、どうやって、そういう判断をしているんでしょう?

  そういった山の、道路に面した急斜面に、長方形の柵が、斜面に直角になるような角度で、何列、何段も、打ち込んであります。 材質は不明。 木材にタールを塗ったような色ですが、遠くて、はっきり分かりません。 金属製のもありました。 運転手さんに訊くと、雪崩避けの柵だとの事。 土砂崩れだと、柵ごと流れてしまうから、意味はないわけですが、雪が相手なら、この柵で、充分な効果があるのだそうです。 これが設置されてから、雪崩がなくなり、冬場の道路の寸断もなくなったというから、大した発明です。

雪崩防止柵(上)/ 礼文空港(下)



≪礼文空港≫
  島の北端に近づいて来ました。 道路から、高台の上に上がり、「礼文空港」を、車の中から見学。 以前は、稚内との間を、19人乗りの小型機が飛んでいたらしいのですが、天候不良で欠航になる事が多く、乗客が減ってしまい、定期便は、2003年に廃止されたとの事。 飛行機が欠航になった場合、フェリーに換えるしかないわけですが、フェリーの港は、香深だけなので、遥か南まで戻らなければならず、不便だったらしいです。 ただし、まだ、空港自体は、使える状態にあるようで、あくまで、「休止中」。 私が見た時にも、綺麗に整備されていました。


≪金田ノ岬≫
  北東端の、「金田ノ岬」へ。 近くに、「金田さん」が住んでいたから、この名前になったとの事。 岬自体は、海岸近くにありますが、運転手さんが、高台へ行ってくれて、そちらの方が、断然、眺めが良かったです。 前述したように、周囲に高い木がないので、見晴らしが、非常に宜しい。 360度、見回せる上に、距離的にも、船泊湾の向こう、島の北西端に当たる、スコトン岬やトド島まで、ゆうゆう見えます。 見晴らしが良過ぎて、島が小さく感じられるという、珍しいケースですな。 実際には、南端から北端まで、車で50分くらいかかる大きさがあるのですが。


≪久種湖≫
  その後、西へ向かい、礼文島唯一の湖である、「久種(くしゅ)湖」の横を通りました。 利尻島には、沼しかなかったけれど、礼文には、湖があるわけだ。 結構、大きな湖で、周囲を低い山に囲まれています。 湖畔の一角に、キャンプ場があり、ロッジも並んでいました。 と、思ったら、すぐ近くに、住宅地があったりして、どうも、イメージが一定しません。

  ちなみに、山の事にも触れると、礼文島の最高峰は、「礼文岳」で、標高490メートル。 運転手さんの話では、割と簡単に登れるとの事。 何時間くらいかかるか、聞いたものの、忘れてしまいました。 1時間だか、2時間だか、そのくらいだったと思います。 礼文島は、内陸、及び、西部に、ハイキング・コースが何本か作られていて、それを歩きに来る人も多いのだそうです。 ただし、この時は、豪雨の影響で、そのコースの中にも、閉鎖されているところがあった模様。


≪澄海岬≫
  内陸を走り、西海岸の、「澄海(すかい)岬」へ。 漁村の端にある駐車場に車を停め、岩山の上へ歩きます。 運転手さんが、途中まで案内してくれました。 道端に、さりげなく、花が咲いていて、その説明が始まります。 礼文島も、利尻島と同様、高山植物が平地から咲いている島で、それ目当ての訪問者か多いのだそうです。 「極端な事を言えば、車椅子に乗っている人でも、普通に平地で見られますから」と言っていました。 なるほど、それは確かに、価値がありそうですな。

  この澄海岬、運転手さんの一押しのポイントだそうで、確かに、素晴らしい眺めでした。 断崖に囲まれた入り江の風情が、何とも言えぬ。 何がどうなれば、こんな複雑にしてダイナミックに地形が生まれるのか? 説明板には、「火成岩が海食を受けた」と書いてありましたが、海食で、こんな高い断崖ができるとしたら、大規模な隆起もあったのでしょうなあ。

  一方、ここから南の西海岸は、火成岩ではなく、もっと古い時代の堆積岩で出来ているらしいのですが、それが隆起し、やはり、断崖が連続しているとの事。 ここでは、その北端を見る事ができます。 だけど、ちょこっと、窺えるという程度でした。 例の元地地区へ行ければ、南側から、もっとよく見れたと思うのですが、残念な事でした。

  ところで、誰でも気になる、「澄海(すかい)岬」という名前ですが・・・。 一見、アイヌ語風であるものの、調べてみると、大間違い。 なんと、「空のように青く澄んだ入り江」という事で、英語の「sky」に、当て字をしたらしいです。 ナニソレ珍地名ですな。 改名前は、「稲穂岬」。 そちらは、アイヌ語の、「イナウ」が元で、「神に捧げる幣(ぬさ)」の事だとか。 確かに、神に近づけそうな雰囲気の場所です。

澄海岬の入り江(上)/ 磯舟(下)



≪磯舟≫
  タクシーに戻る途中、港に引き上げられていた、舟を見ました。 昆布漁に使う、「磯舟(いそぶね)」という舟ですが、舷が浅く、反り返った刀のように薄っぺらい形をしています。 この舷から、先に鉤が付いた長い棒を海に下ろし、昆布を引っかけて、獲るわけですな。 利尻や、稚内でも見ました。 しかし、沿岸とはいえ、こんな笹舟みたいな浅い舟で、よく、海へ出ますねえ。 波を食らって、引っ繰り返ったら、イチコロではないの? ちなみに、デザイン的には、和船というより、刳り舟っぽいです。


≪ゴロタ岬≫
  タクシーに乗り、西海岸を北上し、「ゴロタ浜」へ向かいます。 岩がゴロゴロしているから、この名になったとの事。 海沿いの集落に下りて、砂浜のすぐ上の道を、行ける所まで、北に進み、断崖絶壁の「ゴロタ岬」を、遠くから望見します。 凄い断崖。 「茅打ちバンタ」以上では? 山ではないですが、雰囲気的に、「魔の山」という観あり。 ここの道が、未舗装路で、大きな水溜りがあり、せっかく、ピカピカに磨き上げられていたセドリックの横腹を、泥撥ねで汚してしまいました。 私に、景色を見せる為だけに、そんな事になってしまって、何だか、非常に申し訳ない事をしたような気分になりました。 そのくらい、綺麗な車だったのです。

  その後、崖の上の道に戻り、ちょっと走ったのですが、前述した、ハイキング・コースと交差する地点で、運転手さんから、「時間が余っているから、ゴロタ岬の上まで、歩いて登ってみたら?」と、提案されました。 そこから、片道20分くらいで行けると事。 貸切タクシー利用の極意を会得しつつあった私は、「これは、つまり、元地地区に行かなかった分、時間が余ってしまうので、運転手さんとしては、ここで、ちょっと、時間を潰して欲しいのだな」と、敏感に察知し、登って来る事にしました。 もう何度も書いていますが、貸切タクシーの運転手さんというのは、常に、時間の計算をしながら、走っているのです。

  ハイキング・コース用に作られた尾根道を、登って行きます。 左右は、膝くらいの高さの、草薮になっています。 そんなに大勢が通っているわけではないようで、草に覆われて、足元が見えない所もありましたが、それより何より、心臓に爆弾を抱えている身には、登りがつらい。 健康な人なら、なんでもない傾斜なんですがね。 約20分で、何とか、登りきりました。 頂上に立つと、ここも、360度、ぐるりと見回せます。 南は、礼文岳を含む、山並み。 東は、船泊湾と、金田ノ岬。 北は、海岸線の湾曲がスコトン岬へ続き、その先に、トド島が見えます。

  木がないので、崖の上の丘陵地に草地が広がっている格好で、なんだか、ブリテン島北部みたいな景観です。 ヒースの丘ではなく、チシマザサや高山植物の丘ですが、遠目に見れば、似たようなもの。 それにしても、ダイナミックな地形ですなあ。 北欧のフィヨルドなんかより、遥かに、特徴が際立っています。 私的には、この時、ゴロタ岬の上から見た景色が、この旅のトップでした。 ヒーヒー言って、登った甲斐があったというもの。

ゴロタ岬遠景(上)/ ゴロタ岬の上から見たスコトン岬(下)


  ゴロタ岬の上にいたのが、5分くらいで、また20分かけて、タクシーへ戻りました。 往復、45分稼いだ事になります。 運転手さんは、タバコを吸って、待っていました。 下りの途中、軽装の男性とすれ違いましたが、その人が乗って来たバイクが、タクシーの横に停めてありました。 荷物を満載した、かなり弄ってある、ヤマハのTW200で、見覚えがあると思ったら、朝、利尻島で、フェリーに乗るのを待っていたバイクでした。

  タクシーに乗り、ハイキング・コースの一部になっている丘陵地の道を、北へ向かいます。 ハイキング・コースといっても、所々、舗装された道も含んでいる様子。 高齢者の集団を追い抜きましたが、少し先に、観光バスが待っていました。 ツアーに、ハイキング・コースをちょっと歩く予定が入っていたんでしょうな。 そこは、海が見えるわけでもなく、断崖も見えず、景観を楽しむには、中途半端な所でしたが。

  更に進むと、スズキのハスラー(軽自動車)が、色違いで5台ばかり、行く手を塞いでいました。 道幅が狭いので、かわる事はできません。 一人、青年がやって来て、「すいません。 一方通行だと、知らなかったもので・・・。 すぐに、引き返しますから」と言い、車を方向転換させて、戻って行きました。 それだけなら、どうという事はないんですが、その一団、車の窓から、ビデオ・カメラがついた棒を突き出し、後ろから続く、ハスラーを撮影しています。 後ろの車の窓からは、また別の青年が上半身を乗り出して、両手を振っています。

  運転手さんと私で、この一団の素性を推測するに、「CMの撮影にしては、装備が軽過ぎる」、「すぐ後ろをタクシーが走っているのに、平気で撮影をしているのだから、CMやカタログの撮影という事はありえない」、「ユー・チューブなどに、動画をアップするのが目的ではないか?」といった線に落ち着きました。 最近は、個人が勝手に、企業の製品のCM動画を作って、ネットに流すのが流行っているそうなので、それだったのかもしれません。 もっとも、それにしては、新車を色違いで、5台も用意しているのは、本格的過ぎですが。


≪スコトン岬≫
  礼文島の北西の端、「スコトン岬」へ。 「スコトン」とは、アイヌ語で、「夏の村」という意味で、アイヌ時代は、夏場しか住まない所だったようです。 岬自体は、低い所なので、何と言う事もない景色です。 ゴロタ岬の上から見た時の方が、凄かった。 トド島が、間近に見えますが、冬でなければ、トドは来ないとの事。 ちなみに、運転手さんに後で聞いたところでは、冬場、礼文島に観光に来る人は、ほとんどいないそうです。 つまり、ここで、トドを見られるのは、地元の人だけなわけだ。

  ここには、「日本最北限の民宿」、「日本最北限の売店」、「日本最北限のトイレ」があります。 民宿は、岩場の間に埋もれるように建っていて、「よく、建築許可が出たな」と、首を捻りたくなるような場所にありました。 売店は、海産物が中心。 トイレでは、小用を足して来ました。 いや、記念にというわけではなく、ちょうど、催していたからですけど。

最北限の民宿(上)/最北限の売店(中)/最北限のトイレ(下)


  ところで、このスコトン岬で、警察官の一団を見ました。 10人くらい、もっと多かったかな。 朝、香深港にいた人達と同じかどうかは知りませんが、礼文島には3人しかいないわけですから、いずれにせよ、災害復旧の応援で、礼文に来たのでしょう。 岬を見たり、アイス・クリームを食べたりしていました。 良心的に解釈すると、行けと言われて、来てはみたものの、街の方は、すでに片付けが進んでいて、出番が少なく、時間が余ったので、こちらの方まで足を伸ばしたのかも知れません。


≪動物≫
  この後、船泊(ふなどまり)の街を通り、先に触れた、礼文島に二つしかない信号機の一つを見ました。 その後、また、久種湖の横を通って、行きとは違う道で、東海岸に向かいました。 この道、礼文では珍しく、内陸を通っていて、閉鎖された牧場の跡に、土地所有者のペットの馬が、一頭だけ飼われているのを見ました。 恐らく、礼文で、唯一の馬ではないかと思われます。 地面に打ち込んだ杭に、ロープで繋がれていて、半径内の草を食べ尽くすと、別の杭に移され、また、その半径の草を食べるという仕組みになっているとの事。 喰い放題はいいけれど、仲間の馬は勿論、普段は人もいない、だだっ広い盆地に、一頭だけというのは、寂しいでしょうなあ。

  ところで、礼文島には、熊はいないとの事。 狐は、犬にやられて、絶滅してしまったと言っていました。 もっとも、狐も、元からいたのではなく、毛皮をとる為に、人間が持ち込んだのが最初だと、聞いたような気がします。 それと、どういう関係だったか、忘れてしまいましたが、礼文島では、基本的に犬の飼育は、禁止されているとの事。 ただし、今では、飼っている人もいるのだとか。 どうも、私が覚えている範囲内では、話の辻褄が合いませんな。 どこか、肝心な所が、記憶から落ちてしまっているようです。

  そういや、狐は絶滅させてしまったのに、西海岸の方に、稲荷神社がありましたよ。 稲荷明神も、使いの狐がいなくなってしまったら、何かと不便でしょうな。 こういうところが、日本人の宗教観の、奇妙な一面でして、植民地へ神社を持ち込むのには熱心なくせに、信仰心そのものは、呆れるほど、希薄なのです。 狐が稲荷の使いだなんて、今や、誰も信じていないのではないですか? そして、神も信じていないわけだ。 もし、神を信じているのなら、その使いを殺す事など、祟りが怖くて、できるはずがありませんから。


≪庭≫
  やがて、内陸の道から、東海岸の道路に出ました。 午後一に通って来た道を、逆方向へ戻ります。 運転手さんに訊いたところ、利尻島同様、礼文島も、人が住んでいるのは、沿岸部だけで、内陸部には、集落はないとの事。 強いて言えば、「揺り籠から、墓場まで」の、香深井が、最も内陸まで、住宅地が入り込んでいる所だそうです。

  「礼文島では、家に、庭は造らないんですか?」と訊いたら、運転手さんは、何の話なのか、ピンと来ないような反応を見せました。 ちょっと考えてから、「潮風で、植物がやられてしまうから、板で囲いをして、その中で、野菜を作ったりしてますよ」との返事。 そう言われてから、道路沿いの家々を見ると、確かに、敷地の中に、板で囲った一角があります。 おおお・・・、そういう事は、聞かなければ、気づかないものですなあ。 つまりその、礼文島では、「庭」などというものは、問題以前に存在しないのであって、一番近いのが、家庭菜園なのでしょう。 そういえば、家の周りに、塀もなかったです。 雪が積もる土地では、塀なんか、邪魔なだけなのかも。


≪日食観測記念碑≫
  海岸線の道路の、海側にあります。 行きにも、通っているはずですが、帰りに、ちょっと停車して、説明してくれました。 1948年に、礼文島で、非常に珍しい金環日食が観測される事が分かり、世界中から、1500人くらい研究者が集まったらしいのです。 ところが、戦後間もない頃で、そんなに大勢を運べる船がない。 そこで、アメリカの軍艦が使われ、上陸用舟艇で人を運んだのだそうです。 金環食になる観測帯が、幅1キロしかなく、時間も、たった1秒で、礼文に来なければ、見られなかったのだとか。 もちろん、今は、モニュメントがあるだけです。


≪見内神社≫
    道路脇の海側にあります。 ここも、行きに通っているはずですが、説明されたのは、帰りでした。 最初、入り口が見えなかったので、ぎょっとしましたが、運転手さんが笑って言うには、入り口は、海側にあるとの事。 なんだ、言われてみれば、どうって事はありません。 私は、本殿の背面を見ていたんですな。 その昔、アイヌ人の夫婦がいて、和人との戦に出て帰らない夫を待ち侘びて、妻が石になってしまったとの事。 その祟りが怖くて、神社を造り、石を「見ない」ように隠したから、見内(みない)神社なのだとか。 「何だかなー」という由来ですが、アイヌ人との関わりがあるだけ、他の神社よりは、土着性があると考えるべきか。


  以上で、礼文島に於ける、貸切タクシーでの観光は終了しました。 香深に戻り、街の中のホテルに着いたのが、3時50分でした。 予定では、4時までの契約でしたが、この程度は、誤差の内です。 日記を書かなければならないので、早めにホテルに着いてくれた方が、私としては、ありがたい。 ホテルは、「三井観光ホテル」という所。 経営者が、三井さんという人で、三井グループとは関係ないと、運転手さんが言っていました。

  ホテルの玄関前で下ろしてもらい、篤く礼を言って、別れました。 この時も、「楽しかったです」と言ったのですが、どうも、この言葉には、抵抗を感じて仕方がない。 「楽しい」というと、何だか、きゃぴきゃぴ騒ぐ雰囲気があり、私のように、いい歳をしたオッサンには、合わないような気がするのです。 それを言われる側からすると、嘘っぽく聞こえるのではないかと、それが心配。 これは一つ、他の形容を考えなければなりますまい。


≪ホテルの夜≫
  ホテルは、海のすぐそばでした。 チェック・インして、説明を受けます。 食事は、朝夕共に、2階の食堂で、夕食はメニューが決まっており、朝食はバイキング。 これらは、利尻のホテルと同じですな。 温泉大浴場があるらしいですが、私は行きません。 これも同じ。 1階の扉に、華やかな絵を描いたエレベーターで、5階に上がります。 エレベーターを下りたら、すぐそこが、部屋でした。

  ツインで、標準サイズのユニット・バス。 タオルとシャンプーが見当たらず、一瞬、青くなりましたが、ベッドの上に浴衣と一緒に、ビニール袋が置いてあって、その中に入っていました。 タオルは、お持ち帰り可能と思われる、薄っぺらい物。 シャンプーは、ボトルではなく、小分けパックでした。 こんなのも、あるんだなあ。 

  部屋の方の設備は、二人掛けのソファと、その前にテーブル。 鏡台と一体になった机があり、その端に、テレビ。 1ドアの小型冷蔵庫。 椅子が二脚。 妙に椅子が多いな。 二人掛けソファは、いかにも、新婚旅行客向けという感じ。 部屋の窓からは、目の前に、利尻岳が、どーんと見えました。 もっとも、相変わらず、上半分は雲に隠れています。

  荷物を展開し、各所の除菌を済ませてから、ソファに腰を下ろして、日記を書きました。 書く事が、膨大な量、溜まっていて、もーう、大変。 外は、風の音と、カモメの鳴き声で、結構には、賑やかです。 明かりを取る為、レースのカーテンを開けておいたら、寒くなってしまいました。 レース一枚で、こんなに違うものか。

  6時頃、日記を切り上げ、1階へ下りました。 ロビーは、そんなに広くありませんが、売店は奥があって、凄い品数でした。 利尻のホテルのそれを、遥かに上回っています。 これだけ、種類があると、在庫管理を、どうやっているのか、想像もつきません。 その時は、見ただけで、出ました。 ロビーの正面玄関とは反対側に、海側の出入り口があり、そこから外に出て、1ブロックぐるりと回り、正面側に戻って、玄関の写真を撮ります。 ホテルの隣に、食品雑貨店があったので、そこで、夜用のビスケットと、翌日の船旅用に、ハッカ味の飴を、各108円で買いました。

  ホテルに戻って、ロビーの隅に公衆電話を見つけ、家に電話。 礼文では、土砂崩れで、行けなかった所があったと伝えました。 もう一度、売店に入ります。 歩いている間に考えたのですが、翌日は、札幌泊まりなので、道北で過ごすのは、このホテルが最後です。 木彫りの熊を買うなら、札幌より、こちらの方が相応しいでしょう。 この判断は、偶然ながら吉と出て、翌日、札幌のホテルへ行ったら、もろ、街なかのビジネス・ホテルでして、土産物の売店はありませんでした。

  沖縄で買った、ミニ・リアル・シーサーと、並べて置けるサイズのがありましたが、色を塗った物が、1244円、塗らない物が、1200円。 値段に大差はないので、塗ってある方にしました。 270円のシーサーと比べて、ずっと高いのは、小さいとはいえ、手彫りだからでしょう。 これも、インドネシアで、作っておるのかのう? 日本で、これだけの彫刻をしたら、1244円では、とても、人件費と折り合いますまい。

  一度、部屋に戻り、土産物をしまって、7時頃に、夕食へ行きました。 2階の「北航路」という名の食堂。 部屋番号を言って、名簿のチェックをしてもらい、席に案内されると、あら、ビックリ! ここでも、すでに、料理が並んでいるじゃありませんか。 食堂が開くのは6時ですから、またまた、1時間放置された料理を食べる事になりました。 「前の晩で、懲りんか?」と思うでしょうが、無理言いないな。 違う島の、違うホテルだっせ。 まさか、二夜連続で、同じ目に遭うとは思わないじゃないですか。

  料理は、ここでも、和風旅館風の和食。 カニあり。 二回目なので、少しは上手に掘り出せるようになりましたが、どうしても、喰い散らかす感じになってしまいますなあ。 うまい事は、うまいんですがね。 他には、刺身、もずく、ウニ、ご飯、味噌汁、魚のホイル焼き、その場で火を点ける鍋で、ホタテ、エビ、カキ、玉葱、ブロッコリ、しめじの煮物。 暖かい物は、みな、おいしいです。 もずくは、量が多くて、閉口しました。 しかも、オクラが入っているんですよ。 こんな、ぬるぬる尽くしの物を、どうやったら、うまく食べられるんでしょう? デザートは、茶碗蒸しと、メロン。 もちろん、美味。 終り良ければ、全て良しといったところ。

夕食


  斜め前方の席に、老夫婦と、すでに成人していると思われる娘の、三人連れが座っていました。 父親が、旅の話だったか、料理の話だったか、ぼそぼそした口調で、御高説を垂れ始め、あまりに理屈っぽいので、母親と娘が、ブチ切れて、「なんで、こんな所で、そんな話をするの!」と、怒っていました。 親父さん、酒が入って、何か喋りたくて仕方なかったんでしょうな。 それは分かるが、傍から見ても、みっともない情景でした。

  このホテルだったか、利尻のホテルだったか、忘れてしまったのですが、カニの追加を注文しようとしていた客がいましたなあ。 係員から、「できない事はないですが、2時間くらいかかります」と、遠回しながら、はっきりと、拒否されていました。 一般のレストランとは方式が違い、ホテルの厨房では、予約された料理しか作っていないのです。 どちらのホテルも、カニは、20センチくらいの皿に一皿でしたから、カニ好きには物足りなかったかも知れませんが、追加注文して、断られてしまうと、これまた、みっともない情景になりますなあ。

  部屋に戻ったのが、7時半。 洗濯、風呂と、定常作業をこなし、日記の続きを書いて、9時頃、ベッドに横になったら、テレビを点けたまま、眠ってしまいました。


≪二日目、まとめ≫
  元地地区へ行けなかった件については、何度も書いたから、繰り返さないとして、礼文島には、それ以外にも、素晴らしい景観のスポットがいくらもあり、十二分に堪能させてもらいました。 今こうして、帰って来てから、思い返すと、この礼文島が、今回の旅の、圧巻だったのだと思います。 他の所も良かったのですが、礼文のあのダイナミックな景色は、他では、ちょっと見れませんからのう。 北海道旅行の定番目的地を外し、利尻・礼文を入れてくれた、○△商事の担当者には、感謝しなければなりません。

  郷土資料館で、「女性像・動物像」を、生で見れたのも、嬉しかったです。 旅行に行く前、ネットで調べている時、どこかのサイトで、「礼文のヴィーナス」という形容を目にしたような記憶があるのですが、今、調べ直しても、見つかりません。 私が勝手に作り出してしまった言葉だったんでしょうか。 そんなこたないと思うんですが・・・。

  前回の利尻島と比べると、島の暮らしぶりについて、随分と細かく書いていると思うでしょうが、これは、礼文島の方が、貸切タクシーに乗っていた時間が長かったので、そういう日常的な話まで出たというだけの理由です。 利尻では、観光地の説明だけで、3時間、埋まっていましたからのう。 私の方から質問できる、時間的ゆとりがあれば、そういう細かい事を訊くわけです。 地元の人が、当然以前で常識だと思っている事でも、よそ者には、大変面白いという事が、よくあります。

  この日も、利尻岳は、上半分、雲に隠れていたわけですが、運転手さんに、「もしかしたら、利尻岳というのは、利尻島で見るより、礼文島から見た方が、距離的にちょうどいいのでは?」と、水を向けると、それは当然だという感じで、「そうだそうだ」と、頷いていました。 だからねー、利尻島民に限らず、この一帯に住む人々にとって、利尻岳は、特別な存在なんですよ。

  あと、礼文島の運転手さんは、香深の周辺では、会う人みんなと、挨拶していましたな。 人口が少ないから、顔見知りが多いんでしょう。 夏場は、観光客で、人口が膨れ上がるわけですが、観光客の相手をする店の方も、夏場だけ、島外からバイトを雇う所が多いとの事。 「観光シーズンが終わると、人が減り、軽くなって、島が浮き上がるんです」と言っていました。 私は、てっきり、ジョークだと思って、笑っていましたが、この翌朝、港の近くで、「花の浮島 礼文島」という看板を見ており、もしかしたら、そのキャッチ・コピーと、何か、関係がある話だったのかも知れません。 今となっては、確かめようもありませんが。