2015/01/04

読書感想文・蔵出し⑦

  新年早々ですが、これといって、書きたい事もないので、溜まりっ放しになっていた、読書感想文を出します。 前回の、⑥をアップしたのが、2013年10月13日で、北海道応援に行く直前の事。 その時、紹介した本を、実際に読んで感想を書いたのが、2013年の1月頃。 今回、出すのは、その後という事になり、2013年の2月から、4月にかけて、読んだ本です。



≪四枚の羽根≫

地球人ライブラリー
小学館 1997年
A.E.W・メイスン 著
吉住俊昭 訳

  イギリスの作家、A.E.W.メイスンが、1902年に発表した冒険小説。 メイスンは、推理小説も書いているので、これもそうかと思って借りて来たんですが、読んでみたら、推理物的なところは全くなく、一般小説と冒険小説の中間みたいな話でした。

  結婚が迫っていた士官が、部隊からの出撃命令を知らなかった事にして、辞表を出すが、三人の同輩から、卑怯者の印である白い羽根を贈られた事で、婚約者からも白い羽根を渡されて婚約を取り消されてしまい、卑怯者でない事を証明する為、スーダンの戦場に戻って、勇敢な行為をしてみせる話。

  イギリスでは、不朽の名作として扱われているそうで、何度も映画化され、最近では、≪サハラに舞う羽根≫というタイトルで、2002年に映画化されています。 しかし、読んだ限りでは、そんなに凄い小説とは思えません。

  イギリスの文化では、「勇気が、あるかないか」が、非常に重要視されているようなのですが、現代日本では、そういう考え方が存在しないので、直截的には理解できないのです。 想像するだけなら、分からんでもないですが、自分の命を捨てる覚悟をしたり、他人の命を犠牲にしたりしてまで証明しなければならない≪勇気≫というものの価値に、疑問を抱くなというのは、無理な相談です。

  主人公は、勇気を示す為に、二つの事をします。 二つ目の方は、捕虜になっている同輩の救出で、これはまあいいとして、一つ目の方が問題です。 ゴードン将軍が遺した手紙を、敵地から取って来るというものですが、これが何の重要性もない手紙でして、単に、敵地に潜入するという肝試しをしたいだけの、あまりにも馬鹿馬鹿しい行為。

  しかも、この時に、イスラム教徒の追っ手を二人も刺しており、もし相手が死んだとしたら、勇気の証明などという、糞下らない目的のために、殺人を犯した事になります。 もう、この時点で、真面目に読む気が失せます。

  また、ヒロインが、判で押したような馬鹿女なんですわ。 てめーは、家を潰してしまうような能なしのくせに、婚約者を卑怯者扱いするなど、おこがましいにも程があります。 で、婚約者が去ってしまってから後悔するという、一貫性のなさ。 他にも、呆れるような事ばかりしているのですが、作者が、このヒロインを、素晴らしい女性のつもりで書いているのが、滑稽です。

  この本が、イギリスでウケているのは、「自分達は、名誉を重んじる国民だ」という自己陶酔に浸りたいイギリス人の願望を満たしているからでしょう。 文学的にも、読む価値なし。 ≪勇気≫の捉え方が不自然なので、人類普遍の価値観に沿っていると認められないからです。



≪リクガメの憂鬱≫
[博物学者と暮らしたカメの生活と意見]

草思社 2008年
バーリン・クリンケンボルグ 著
仁木めぐみ 訳

  図書館の英米文学の書架で、たまたま、書名が目にとまり、借りて来ました。 言わば、衝動借り。 そういう事も、たまにあります。

  18世紀のイギリスの、セルボーンという村の様子を、牧師に飼われていたギリシャ・リクガメの目線から描写した随筆体の自然誌。 ただし、そういう形式で書かれているというだけの事で、著者は、現代のアメリカ人です。

  18世紀というと、日本では、もろ江戸時代ですが、イギリスでも、まだ産業革命の前でして、この本では、田舎が舞台なので、尚の事、時代の古さが感じられます。 主人公のギリシャ・リクガメは、北アフリカのキリキアという所から運ばれて来たそうですが、その時代に、そういう船便があったというのは、さすが世界の海を制したイギリスと言うべきか。

  内容の大部分は、セルボーンで見られる動植物の観察に当てられています。 あまりにも、比重が大きい為に、随筆としては不自然になっており、動植物に特別強い興味がない人だと、嫌になってしまうかもしれません。

  どうして、こんなに、自然の描写ばかり多いのかというと、この本のネタ本が、≪セルボーンの博物誌≫という書簡集だから。 リクガメの飼い主である、ギルバート・ホワイト氏は、牧師であると同時に、博物学者で、その著作は、ダーウィンやファーブルにも影響を与えたのだそうです。

  主人公のリクガメも実在のカメで、1740年に、キリキアから、イギリスに連れて来られ、まずは、リングマーという土地の牧師である、ヘンリー・スヌーク氏に買われ、その家で暮らします。 1763年にスヌーク氏が他界した後は、その妻と暮らし、1780年に妻が亡くなると、スヌーク氏の甥の、ギルバート・ホワイト氏に引き取られ、セルボーンに移ります。 ホワイト氏は1793年に亡くなり、その翌年には、カメも死にます。

  このカメ、「ティモシー」と名付けられていたのですが、これは男の名前だそうで、生前はオスだと思われていたとの事。 ところが、有名な博物学者の飼い亀だったものですから、ロンドンの自然史博物館に甲羅が保存されており、後々調べたら、メスだと分かったというから、何やら、壮大な謎解きを感じさせます。

  この本を楽しむためには、まず、≪セルボーンの博物誌≫を読んで見た方がいいかもしれませんな。 沼津の図書館にもあるようですから、結構、有名な本なのでしょう。 私は、恥かしながら、今まで知りませんでしたが。



≪世界SF全集2 ウェルズ≫

早川書房 1970年
H.G.ウェルズ 著
宇野利泰 訳【タイム・マシン】【宇宙戦争】
多田雄二 訳【透明人間】

  19世紀末のイギリスのSF作家、H.G.ウェルズの代表作が収録されています。 ちなみに、全集の≪1≫は、ジュール・ベルヌ。 この二人、共に、SFの開祖とされていますが、活躍した年代から見ると、ベルヌの方が、30年近い先輩です。


【タイム・マシン】
  1895年、発表。 超有名な作品。 SFの定番設定になっている、時間旅行というアイデアの第一作ではないようですが、一般に広めたのは、やはり、この作品だったのだとか。 一つのカテゴリーを作り出したという点で、ウェルズ作品の中でも、一段、格が上ですな。

  タイム・マシンを発明した科学者が、80万年後の未来へ行くが、何者かによって、タイム・マシンを隠されてしまい、被捕食者と捕食者に二分化して、地上と地下で住み分けている人類社会を観察する事になる話。

  この作品が書かれたのは、社会主義思想がたけなわだった頃で、階級分化が、そのまま進行して、人類が二つの種に分かれてしまったという設定なのですが、読んでいる分には、政治的なメッセージ性は、ほとんど感じません。

  タイム・パラドックスの問題なども、一切出て来ず、単に、未来に冒険に行っただけという感じ。 SF設定の妙ではなく、冒険活劇の要素を見せ場にしているのは、ちと、期待外れでした。


【透明人間】
  1897年、発表。 これも、超有名な作品。 ですが、タイム・マシンほどではないですな。 アイデアに、発展性がないからでしょうか。 透明になる薬を発明した男が、自分で透明になり、できる事を片っ端からやり始めたせいで、騒動になり、社会に恐怖を巻き起こす話。

  これねえ、想像していた話と、まるで違っていて、びっくりしました。 主人公が、善人ではないんですよ。 透明になれば、悪戯でも犯罪でも、し放題と考えていて、最終的には、人類社会を破壊しようとまでします。 途中からは、完全に悪役で、彼を捕まえるのが、話の目的になります。

  SF設定の妙や、哲学性はまるでなく、これも、捕り物活劇の要素で、読ませようとしています。 ウェルズの作劇法が、こういう性質の物だったんでしょうねえ。


【宇宙戦争】
  1898年、発表。 これまた、超有名な作品。 タコに似た火星人が、地球人の体から、血液を搾り取って、食物にするために、地球に攻めて来て、手始めにイギリスに降り立ち、三本足の巨大ロボットを操り、イギリス軍と戦う話。

  有名なところで、二回、映画化されていますが、スピルバーグさん監督、トム・クルーズさん主演の、2005年の作品は、見ている人が多いはず。 その前の、1953年の映画も、ド迫力の特撮で、見応えがあります。

  映画が面白いのは、原作が面白いからで、戦争スペクタクルの要素を全て注ぎ込んで書かれているのですが、これぞ、ウェルズの本領発揮とばかりに、凄まじい戦闘の様子が、緻密且つ、抜群のテンポで描かれています。 なんだろね、この凄さは。 現代日本のSF作家崩れどもが書いている、しょーもない仮想戦記物など、比較対象にもなりません。

  火星人が、地球人の事など、野生動物としか見做していないという、冷め切った設定が、戦闘の苛烈さを盛り上げているのですが、地球側も、一方的に負けっ放しというわけではなく、多少は反撃が成功する場面が挿入されていて、そういうところは、読者の興味を繋ぎとめる、巧みな技術と言えます。

  ただ、戦記物としての面白さが抜きん出ているあまり、SFとしては、それほど、凄いアイデアは使われていません。 哲学性も、低調。 哲学性とスペクタクルを両立させるのは、そもそも無理、という見方もできますが。



≪静かなドン≫

新集 世界の文学 31・32・33
中央公論社 1970年
ミハイル・ショーロホフ 著
水野忠夫 訳

  帝政ロシア時代末期に生まれ、ソ連を代表する作家となった、ミハイル・ショーロホフの代表作。 1925年から、1940年にかけて、発表されたもの。 中央公論社の、≪新集 世界の文学≫の内、31、32、33巻を占めていて、一冊当たり、約600ページの二段組み。 計1800ページもある大長編小説です。

  ロシア西南部、黒海に注ぐドン川の下流域にある、ドン・コサックの村、タタールスキー部落で生まれ育った青年が、帝政ロシアの兵役に取られた直後、第一次世界大戦が勃発し、ドイツやオーストラリアと戦うが、やがて、ロシア革命が起きてしまい、以後、赤軍に加わって、白軍と戦う事になったり、コサック反乱軍に身を投じたり、相次ぐ戦争に、人生を翻弄される話。

  コサックというのは、帝政ロシアの武人階級ですが、貴族のような支配階級ではなく、普段は、自分の土地を持って、半農半牧で暮らしているのが、戦争になると徴兵されて、精鋭の騎兵部隊として戦う人々の事。 ただし、徴兵されるのは、青壮年の男だけです。

  ロシア革命の結果、コサックが、まずい立場に置かれる事になったのは、彼らが皇帝に最も忠実な部隊と見做されていた点もさる事ながら、馬と武器、そして戦闘技能という、当時、前線で充分に通用した能力を持っていて、ソビエト政権にとって、敵にも味方にもなる、警戒すべき勢力だったという事が、最大の理由です。

  また、赤軍と白軍の戦いが、ゼロサム関係の熾烈なものだったため、一度、白軍側についたコサック兵が投降して来ても、赤軍が赦さず、銃殺してしまう事件が相次ぎ、コサックは、戦う以外に生き残る道がなかったという事情もあったようです。

  主人公のグレゴーリイは、戦闘に長けていて、指揮官としての資質も高かったため、将校になり、コサック反乱軍に於いては、師団の指揮まで任されるのですが、なまじ、手柄が大きかったせいで、赤軍から危険人物と見做されて、戦争から身を引く事ができなくなって行きます。

  この話がうまく作られていると最も強く思うのは、グレゴーリイを、欠点のない人間にしていない事です。 いきなり、隣家の嫁と不倫関係になったり、駆け落ちしたり、その一方で、ぬけぬけと、他の娘と結婚したり、その妻に冷たかったりと、女性関係の乱れがかなり激しい。 このキャラ設定のお陰で、読者は、グレゴーリイに、過度にシンクロしないで、適当な距離を保ったまま、物語の進行につきあう事ができます。

  また、他の登場人物も、欠点のない人間が、ほとんど出て来ません。 何かしら、問題がある。 その故に、名前が与えられている主要登場人物の、9割近くが死んでしまうにも拘らず、理不尽さに憤りを感じずに済むのです。

  しかし、こういった設定は、単なる作劇上の技術ではなく、むしろ、超がつくほどの写実なんですな。 確かに、欠点のない人間などいない。 罪のない人間もいない。 そちらの方が、現実に近いでしょう。 殺される理由がない人間もいない・・・、とまでは言いませんが。

  この作品を読んでいると、「もし、自分が、グレゴーリイの立場だったら、どうするか・・・」と考えずにいられないのですが、答えは見つかりません。 彼は、その時時で、自分にできる精いっぱいの事をしていただけで、時代の流れに敢えて逆らったわけでもないのに、どんどん悪い方へ追い込まれてしまうのです。

  大長編で、しかも、悲愴な話であるにも拘らず、語り方が巧みなために、一度読み始めると、ページをめくる手が、なかなか止まりません。 文体のなせる業でしょうか。 ドストエフスキーは勿論、トルストイと比べても遥かに読み易いですが、人間性の本質に迫っている点では、全く引けを取りません。 ロシア文学の血脈は、しっかり受け継がれていたんですねえ。



  以上、4冊です。 ところで、前回までは、本の表紙の写真を出していましたが、今回から、やめました。 最近、知ったのですが、「本の表紙も、著作物なので、写真に撮って、ネット公開するのは、法律上、厳密に言えば、まずい」との事。 「そんなの、やってる奴は、無数にいるぞ」と思うでしょうが、著作権を持っている側からすると、出版物の宣伝になるから、訴えないだけなのだとか。 

  しかし・・・、本や映像作品のようなものでなくても、家電や生活雑貨など、一般の製品の本体やパッケージにも、必ず、デザインした人はいるわけで、著作権か商標権が存在すると思うのですが、それらを写真に撮って、ネットに出すのは、問題ないんですかね? そちらも、宣伝になるから、目こぼししているんですか?

  たとえば、車関係のサイトで、車の写真をネットにアップして、アフィリエイトで利益を得ている人は、結構いると思いますが、そういうのは、デザイナーやメーカーが持っていると思われる、著作権・商標権を侵害している事にならないんでしょうか? 自分の車なら、金を出して買っているから、問題ない? でも、他人の車が写り込んでしまう事だってあるでしょうに。

  風景写真のつもりで、画面の中に他人の顔を写してしまった場合、肖像権の侵害になると思いますが、そこまで言い出すと、どえらい事になりそうですな。 本当に、「厳密に」言い始めると、純然たる自然風景や野生の動植物、あと、自分の肉体だけが、OKで、それ以外の物が写った写真をネットに公開するのは、全て、まずいという事になりかねません。 この世は、どこもかしこも、他人が関わった物だらけだからです。

  以前、どこかの写真ブログで、お祭りで踊っている人の写真を撮って、アップしてあった記事に、撮られた人のコメントが寄せられていたのを見た事があります。 ブログの主とは、見ず知らずの他人ですが、人伝に、「どこそこのブログに、あなたの写真が出ている」と聞いて、見に来たらしいのです。 別に、文句を言っているわけではなく、普通に、写真の感想を書いてあっただけでしたが、ブログの主のレスを読むと、うろたえているのが、ありあり分かりました。 まさか、撮られた本人が見に来るとは、思っていなかったのでしょう。

  ネットでなくても、新聞や雑誌などは、大勢の一般人が写っている写真を、普通に載せていますが、あれも、一人一人に、肖像権使用の許可を取っているとは、全く思えないので、「厳密に」言い出せば、どえらい事になると思います。 街なかでロケをしているテレビなんて、どうなっちゃうんでしょう? 面白いから、誰か、訴えないかな。 どんな裁判になるか、見てみたいです。 権利と言うのは、自分を守ってくれるだけでなく、首をも絞める、両刃の剣なんですな。