2014/12/28

荷造りの年

  例年なら、年末になっても、一年の振り返りなんかしないのですが、今年は、私にとって、確実に、エポックになった年なので、 特例として、ざっと纏めておこうと思います。 まーあ、あちこちへ、よく移動しましたわ。 その一方で、入院までしており、波乱に満ちた一年でした。


  まず、正月は、家にいたのですが、前年から、北海道応援が続いていて、たまたま、向こうで、会社の福利ポイントが、航空券を取るのに使えると分かり、予定変更して、年末年始に帰って来ていただけだったので、1月5日には、また、飛行機に乗って、苫小牧へ向かわねばなりませんでした。 仕事の為に、家を離れるというのは、実に嫌なものです。

  苫小牧は、未来的に良く整備された、大変住み易い街だと思うのですが、それとは別問題で、余すところ、たった二週間の応援期間の為に、また、北海道まで行くのが、何とも、億劫でした。 すでに、前年の内に、5月からの岩手異動を宣告されていたので、「悩ましい一年の幕開け」という思いが基本にあり、それが、ますます、私の気分を暗くさせていました。

  朝、家を出て、バス、東海道本線、新幹線、飛行機、また、バスと乗り継ぎ、午後3時半頃、苫小牧のイオン前に、到着。 早速、食料品の買い物をして、ずっしり重くなった旅行鞄を背負って、寮まで歩いたのですが、あの時、私の心を占領していた、「また、戻って来てしまったなあ。 なんで、ここにいるんだろう?」という、自分の意思と現実が引き裂かれているような感覚は、今でも、はっきり覚えています。

  寮に帰ると、部屋の中は、前年の暮れに出て行った時と寸分変わらぬままでした。 図書館の支所で借りた、フィリップ・K・ディックの、≪スキャナー・ダークリー≫も、置いて行った時のまま、ベッドのヘッド・ボードの物入れに入っていました。 留守にしていたのは、10日間ほどですが、自宅の自室でもないのに、自分の使用権が、何事もなく維持されていたのを確認して、妙にシュールな気分になりました。 これと同じ感覚は、その後、岩手で、もう一回、味わう事になります。

  たった二週間の為に、再度、北海道へ来るのが気が進まなかったのには、もう一つ、理由があります。 職場の方で、すでに、前年の内から、私の後釜になる人が来ていて、仕事も、ほとんどできるようになっていたので、私が、どうしてもいなければいけない理由が、なくなっていたのです。 閑に越した事はないと思うかも知れませんが、人のやった仕事を確認するだけというのは、却って、苦痛なものです。 また、運動量が減ると、寒いんだわ。 終わりの頃なんて、作業上着の下に、ジャンパーを着て、凌いでいましたから。

  たった二週間なので、土日は一回しかなくて、北海道応援、最後の思い出に、登別の水族館、≪マリン・パークニクス≫へ行きました。 苫小牧は、北海道一、雪が少ない街なのですが、登別へ行ったら、駅前からして、一面雪に覆われていて、「ちょっと離れただけで、こんなに違うものか!」と驚きました。 マリン・パークニクスは、駅から徒歩5分という、恐ろしく、交通の便のいい所にあって、内容も、ますまず、満足の行く水族館でした。 アザラシの立体水槽も見れたし。 惜しむらく、カメラの不調で、そのアザラシの写真だけが、ほぼ全滅だったのですが・・・。

  前年に、向こうのリサイクル店で買って、乗り回していた、シティー・サイクルは、持って帰るわけには行かないので、同じ店で、売って来ました。 買った時は、5000円、売った時は、1000円。 つまり、約2ヶ月間、4000円でレンタルしていた事になります。 そんなに悪い取り引きではなかったのではないかと、今では思っています。 ハンドルの取り付け部分のネジが緩み易いという問題点があって、私は、100円ショップで買った六角レンチで、時折り締め直しながら乗っていました。 あの自転車、今は、誰に乗られているのかなあ・・・。 ほんの一年前の事なのに、遥か昔のように感じられます。

  仕事の方ですが、最終日の前日には、もう、後釜の人の仕事を確認する役から解放されて、見ているだけになり、楽は楽ですが、ますます寒くなって、足踏みして、体温を確保する有様でした。 最終日は、完全に、仕事場から離れて、掃除です。 箒でゴミを掃くだけなら、どうという事はないんですが、そこの職場は床にモップをかけなければならず、一日中、それをやらされたのには、参りました。 もっとも、他にやらせる事がないから、やらされただけで、やらなければならないというわけでもなかったので、午後は、テキトーにごまかしてましたけど。

  最終日という事で、夜勤でしたが、定時で帰らせてもらい、まだ暗い内に、寮に着きました。 朝食と洗濯を済ませ、眠らずに、荷造りを開始。 来た時には、ダンボール二箱に、生活用品を入れて、料金会社もちで送りましたが、帰りは、荷物が増えていたので、二箱の内一つを、苫小牧のスーパーで調達した、少し大きめのダンボールに変えました。 それまで、部屋中に散らばっていた荷物を、箱に収めて行く作業をしていると、「こんなにたくさんの物が、どうして、たった二箱に収まるんだろう?」という、不思議な気分にさせられます。 この感覚は、この年、この後、何度も体験する事になります。

  午前中には、荷物を宅配便で送り出し、残りは、自分で持って帰る旅行鞄だけになりました。 クッキング・ヒーターも送ってしまったので、寮の各階に設置されているミニ・キッチンで、うどんを煮て食べました。 雪平鍋一枚だけは、残してあったのです。 午後、眠ろうとしたものの、荷造りの興奮が続いていて眠れず、日記を書いて過ごし、夜になって、ようやく、眠りました。 この応援の時には、ビデオ・デッキと、地デジ・BSチューナーを持って行ったので、テレビの方で不自由する事はなかったのですが、それらも、すでに送り返しており、最後の夜と、翌朝は、寮の部屋に備え付けのテレビを、そのまま見て過ごしました。

  帰りは、旅行鞄だけ引っ張って、イオン前まで歩き、バスで、新千歳空港へ。 飛行機で羽田へ。 後は、京急で品川、新幹線で三島、東海道本線で沼津、バスで家、という、お定まりのパターンで帰りました。 2ヵ月半の応援でしたが、年末年始に一度帰って来ていたので、2010年に岩手応援から帰って来た時のような、猛烈な感動はなかったです。 戻ったのが、1月18日の土曜日の夕方で、荷物の片付けに、次の日曜だけでは足りないと思い、翌週の月火も有休で休んだのですが、その三日間に、具体的に、何をやっていたのか、思い出せません。 日記を見れば、分かるのですが、それとは別問題で、忘れてしまうという事は、特に感動がない日々だった証拠です。


  帰って来たはいいものの、すでに、5月からの岩手異動が決まっていたので、こちらの仕事に復帰しても、気分は暗いままです。 1月22日から、4月19日まで、約3ヵ月、こちらで働いていたわけですが、思い出になるような記憶は、ほとんどありません。 移動を宣告された人間と、残る人間の間で、対立の溝が静かに広がって行きましたが、喧嘩になるほどの事もなかったです。 出る方は、生活の激変に備えて、情報を集めたり、持って行く物の準備をしたりで忙しく、反目どころではなかった感があります。

  こういう局面で、一番腹が立つのは、残る人間が、出る人間に対する引け目を埋めようとして、「いいなあ。 俺も行きたかったなあ。 早く行った方が、絶対に、得だよ」などと言うケースでして、実際、そういう奴がいましたが、自分が出される立場になれば、そんな事は、それこそ、絶対に、考えないはずです。 激励しているどころか、逆に、苛立たせているのですが、なぜ、それが分からんかな? 若者なら、いざ知らず、もう、人生折り返した歳になっているのに、遠隔地へ異動させられて、いい事など、何もあるわけがないじゃありませんか。

  「俺も、その内、行くからよう」と言った人も多かったですが、そういう言い方の方が、まだ、マシだとは思うものの、それでも、甘い。 実際に宣告されなければ、異動のデメリットについて、本気で考えようとはしないものです。 第一陣に選ばれなかったのは、妻子持ちで、静岡や神奈川に自宅がある人がほとんどでしたが、実際に、岩手へ行く事になったら、どうするつもりなんでしょうね? 単身赴任だと、月に一度も帰って来れませんよ。 お金の問題もありますが、それ以上に、移動にかかる、時間の問題が大きいです。 新幹線で、片道5時間ですから、土日だけでは、正味1日しか、家にいられません。 それでは、疲れに帰るようなものです。

  また、歳が行っている人達は、仕事の問題も大きいです。 異動先の職場では、元の職場での人間関係など、リセットされてしまうので、ペーペーからやり直しです。 つまり、新入社員や派遣社員、期間社員と、同じ扱いなのです。 与えられた仕事ができなきゃ、即、居場所が、なくなってしまいます。 どうするつもりなのよ? そういう事を考えれば、とてもじゃないが、出る事になった人間に向かって、気軽に、「俺も、その内行くから」なんて言えないでしょう? 暗い顔をして、「いやあ、大変な事になったなあ」とだけ言っておくのが、無難というものです。

  こちらで、最後に出勤したのが、4月19日だったのですが、実は、その日は、土曜日で、臨時出勤日でした。 岩手異動組は、私しか出ていなかったと思います。 なぜ、出たかというと、冷蔵庫を新品で買ったので、その代金の元を取る為というのが、建前。 本音としては、一日でも多く、こちらで出勤して、異動に対して不満がある事を、アピールしようと思ったのです。 何の効果も期待できない、虚しい抵抗ではありましたが・・・。

  この最後の日の、朝礼の時ですが、顔を揃えているのが、反対直の人間ばかりだったのには、改めて驚きました。 つまり、私が属していた直の人間は、ほとんどが、異動組で、反対直は、ほとんどが、残留組だったのです。 反対直の組長が人選をしたのは、明らかではありませんか。 自分に関係が深い人間だけ、残したのです。 しかしなあ、そういう、人の恨みを買うような事をやっていて、残りの人生を、晴れ晴れ暮らせると思うなよ。 結局、死ぬまで、「あの時、出した連中は、俺の事を恨んでいるだろうなあ」と思いながら、暮らす事になるのだぞ。 恨まないわけがないではないか。 お前の恣意的な選択で、それまでの生活を破壊されてしまったのだから。


  有休を一週間取り、そのまま、五月の連休に突入。 荷造りを進めましたが、この間の経緯は、このブログの、2014年5月・6月の記事に、詳しく書いてあるので、改めて書く事はしません。 実は、その後の事は、全て、詳しく書いた記事があるから、そちらを読んでもらった方がいいのですが、それでは、今年の纏めになりませんから、書き落とした事と、大体の流れだけ、記す事にします。

  荷造りが大体終わってから、暇が出来たので、自室の家具の修理などをしていました。 これから、10年間、岩手に住む予定なのに、自室に手を入れても仕方ないんですが、奇妙なもので、そういう状況に置かれると、今まで放置してきた問題点を、改良しようという気になるのです。 テレビの配置を変えた事で、コード類を通していた、机の穴が不要になり、それを塞いだり、前年の、小松左京・筒井康隆作品買い漁りで、どっと増えた文庫本を収める為に、机の上の本棚に、段を追加したりしていました。

  その後、5月2日の昼前に、引っ越し業者が来て、荷物を持って行きました。 その日の夜9時に、私自身が、バイクで出発。 620キロを、15時間半かけて走破し、3日の昼過ぎに、岩手の寮に辿り着きます。 寮は、2010年に、3ヵ月間応援に行った時、後半に住んだのと同じ場所。 奇しくも、同じ階でしたが、部屋は違っていて、最近リフォームしたらしく、綺麗な壁になっていました。 荷物が、まだ来ないので、一晩は、何もなしで過ごしました。 翌4日、荷物の到着が、予定時刻より、2時間以上遅れて、引っ越し業者と揉めたのですが、その詳しい経緯は、過去の記事を読んで下さい。 


  5月6日から始まった、岩手での仕事は、予想していた通り、ペーペーからやり直しで、20代の人間と同じ作業をあてがわれましたが、5月の間は、訓練期間だったので、フルに作業をする事はなく、割と気楽に過ごしました。 休みの日には、部屋を住み易くする為に、いろいろと、改良を施していました。 材料を買いに、近所のダイソーまで、何回往復したか分かりません。 5月いっぱいかけて、どうにか、理想的な状態にまで持って行く事ができました。

  2010年の応援の時には、北上と金ヶ崎だけしか行かなかったんですが、この時は、水沢へ初めて行き、「いい街だなあ」と思いました。 歴史的遺構が多いし、趣きのある川が流れているし、何より、街の規模が、私の生活感覚に、ちょうどいい大きさだったのです。 折り畳み自転車で、1回、バイクでは、5回くらい、行きましたっけ。 岩手異動で、いい思い出になっているのは、水沢の事だけです。

  6月になると、ライン・タクトが上がり、私は、一人で一工程やる事になったのですが、初日の一時間目から、地獄と化します。 とてもじゃないが、私の体力でできる仕事量ではなかったのです。 昼前あたりから、心臓が痛くなったのですが、「その内、慣れるかもしれない」と思って、我慢して続けていたら、残業に入った後、一時間ほどで、限界に達し、動けなくなりました。 その後、救急車が呼ばれ、病院に運ばれて、そのまま、検査入院する事になります。

  会社から、つきそって来てくれたのが、よく気がつく人で、入院中、大変、お世話になりました。 医師が家に電話したので、母も、沼津から駆けつけましたが、十年ぶりくらいに、一人で新幹線に乗り、生まれて初めて、ビジネス・ホテルに泊まった経験は、刺激的だったようで、今でも、その時の話を、よくします。

  6月の最初の週は、夜勤だったので、初日は6月2日ですが、実際に倒れたのは、6月3日の明け方でした。 それから、9日間入院して、「突然死の恐れがある」という、恐ろしい注意を受けて、退院したのが、6月11日、水曜日の昼頃でした。 母は、前の週の土曜には、もう帰ってしまっていたので、私一人で退院しました。 病院からバスで、水沢駅へ行き、そこから、東北本線で、寮の最寄の六原駅へ。 駅から、寮までは歩きです。 入院中から、退職について、考えてはいたものの、確実に腹が決まったのは、この時です。

  病院から、六原駅までは、バスも電車も、初めての行程だったので、そちらに気を取られていたのですが、六原駅まで来てしまえば、寮までは、勝手知った道でしたから、退職について決意する、心のゆとりが出来たのでしょう。 つい、一時間ほど前に聞かされた、「突然死の恐れ」という言葉が、決定打になりました。 そんな事を考えながら、歩いていたので、駅前で、ポツポツ降っていた雨とか、雲の間から射す日の光のやわらかさとか、周囲の雰囲気とかを、よく覚えています。 前回書いた、1989年2月、専門学校をやめて、就職しようと決意した、あの土曜日の午後と同じように、この時が、私の人生の、ターニング・ポイントになったのです。

  ちなみに、9日ぶりに、寮の部屋に戻ると、パッと見は、倒れる前に、部屋を後にした時と、ほとんど変わっていませんでした。 北海道応援で、年末年始、家に帰り、10日ぶりに、寮に戻った時と同じ、あの感覚ですな。 人はいなくても、部屋は変わらず、存在し続けるわけだ。 しかし、北海道の時には、留守にする準備をした上で、留守にしたのですが、岩手の場合、想定外の入院でしたから、留守中に、ちと、困った事も起きていました。

  この寮では、部屋ごとに、二週間に一回、水周りだけ掃除する業者が入るのですが、私が留守の間に入った、彼らの手によって、せっかく作った、洗面道具入れが壊されていました。 ユニット・バスのトイレのタンクの上に設置してあったのですが、上に持ち上げれば、簡単に取り外せるのに、前に引っ張ったらしく、差し込み部分がもぎ取れて、直しもせず、そのままになっていました。 苦労して、いろいろ工夫しても、他人から見れば、所詮、ゴミと大差ないわけだ。

  他に、部屋の中の様子で変わっていた事というと、倒れた日の出勤前に、水に浸けておいた、炊飯器の中の米が、腐っていました。 蓋を開けるなり、形容し難い異臭が立ち上り、すぐさま、水を切って、捨てました。 冷蔵庫の中の食品は、概ね、無事。 バナナが、変色すらしていなかったのには、驚きました。 卵は、さすがに、怖くて、全部、捨てましたけど。


  私は、趣味など、どーでもいー事に関しては、優柔不断なのですが、人生に関わる事となると、自分でも驚くくらい、決断が早いです。 そして、決断すると、選べるかも知れない他の道を、すぐに、切り捨ててしまいます。 この退職の時にも、課長に遺留され、「ライン以外の仕事をする気はないか」と言われましたが、もう、岩手での生活にうんざりしていましたし、岩手異動を追い出し部屋代わりにして、表立たずにリストラを進めようとする、姑息な会社にも見切りをつけていたので、真面目に検討しませんでした。

  一つの事を決める時に、理由は一つとは限らず、いろいろな事情が複合的に絡み合うものですが、「岩手での生活が辛い」、「仕事はできない」、「いつ死ぬか分からない」、「実家の両親は、年老いている」、と、積極的な理由が4つもあり、更に、「すでに、年金受給まで喰い繋げる蓄えがある」という、消極的な理由まであると、退職しない方が理不尽です。 しがみついていたって、何の得もありません。

  で、退職を決めるや否や、すぐに、撤退計画を立案し、実行に移しました。 これが、私が今までの人生で行なった、荷造りの中で、最も複雑で、最も大規模なものになりました。 岩手へ赴任して来た時には、料金会社持ちで、引っ越し業者が運んでくれたわけですが、帰りは、宅配業者を自腹で頼まなければならず、更に、リサイクル店まで関わって来たからです。 その経緯も、過去記事に、詳しく書いてあります。

  過去の記事とダブるのを承知で、ざっと書きますと、退院した翌日の、6月12日、木曜日に、会社に顔を出して、退職の意思を告げたところ、「少し考えてからにしては?」と言われ、翌13日は有休を貰い、金土日と、三日間休んで、よく考える事になりました。 しかし、私としては、もう、辞める気満々でして、改めて考えるまでもないので、すぐに、撤退計画に着手する事にし、その手始めに、土曜日には、折り畳み自転車を梱包しました。 冷蔵庫が入っていたダンボール箱を改造したのですが、退院直後で、体力が落ちきっていたので、ヒーヒー言いながら、作業しました。 箱を大きくするついでに、分解したワゴン台車と、同じく分解した、高さ90センチのカラー・ボックスも収めて、その日の内に、ヤマト便で、送り出してしまいました。

  あと、大物というと、冷蔵庫、扇風機、パソコン・デスク、二段ハンガーがありましたが、これらは、水沢のオフ・ハウスに頼んで、出張買い取りしてもらいました。 冷蔵庫と二段ハンガーは、一ヵ月しか使わず、扇風機に至っては、未開封でしたから、あまり、感慨はなかったのですが、パソコン・デスクは、2002年に買ったもので、12年間も自宅の居間に置いてあったので、遠い異郷で、売って置いて行く事に、申し訳ない気持ちがありました。 しかし、すでに、母はインター・ネットを全くやらなくなっているので、持ち帰っても、使い道がなかったのです。 12年間ずっと、私が週に一度、掃除していたんですが、外見が綺麗だったせいか、元の値段が、1万円で、12年も経っているのに、1500円もついたのは、奇跡的でした。 すまんな、今まで、よく働いてくれた。 他の家で、意義のある余生を送ってくれ。

  これというのも、姑息なリストラをする会社が悪いわけですが、それは、繰り返しになるから言わないとして、大物荷物の中で、折り畳み自転車を送り返せたのは、幸いでした。 それは、今でも、使ってますから。 大物でも、箱に入っていさえすれば、運んでくれる、ヤマト便には、感謝しなければなりますまい。 しかも、日時指定ができないというだけで、料金は、宅急便よりも安いのです。 折り畳み自転車で味を占めた私は、それ以外の荷物も、全部、ヤマト便で送りました。 枕や、敷きパッドなど、向こうで捨てて来た物も多かったので、赴任して来た時の荷物よりも、送り返した荷物の方が、だいぶ、少なかったです。

  6月23日の朝食を食べた後、荷物を全て纏めて、送り出し、その後、私自身が、バイクで出発しました。 午前11時に、向こうを出て、家に着いたのは、翌24日の朝4時でした。 630キロ、17時間の激闘については、過去の記事を参照の事。 その日の夕方には、荷物が届きました。 とりあえず、テレビとレコーダーだけ使えるようにし、25日・26日と、二日間かけて、全ての荷物を片付けました。 ようやく、元の生活に戻った事になります。 私が、会社を辞めた点だけを除いて。


  これだけで終わってしまえば、今年の記憶は、大変、陰鬱で、惨めなものになったと思うのですが、その後、余っていた会社の福利ポイントを使いきる為に、沖縄と北海道へ旅行に行ったおかげで、印象がガラリと変わります。 その経緯については、過去の記事で、うんざりするほど、細かく書いてあるので、繰り返しません。

  7月に、沖縄へ、9泊10日、 8月に、北海道へ、5泊6日。 すべて、ホテル泊だった上、貸切タクシーに、10回も乗りましたから、私の人生始まって以来の、大豪遊でした。 会社の福利サービスを引き受けている、○△商事の担当者に計画を任せたのが幸いし、自分では思いつかないような所へ行けたのが良かったです。 余っていたポイントは、75万円分で、もし、自分で計画していたら、ツーリングくらいしか思いつきませんから、岩手から帰った直後から、ずーっと旅行して歩いていたとしても、退職日までに、使い切れなかった事でしょう。

  二回の旅行で、合計、8ヵ所のホテルに泊まりましたが、という事は、つまり、合計8回、ホテルを引き払ったわけで、そのつど、荷造りをした事になります。 応援が終わる時と同じで、部屋中に展開していた荷物を、もう使わない物から順に、旅行鞄に入れて行って、最終的に、初めて、その部屋に入った時と同じ状態になると、胸が、きゅっと締め付けられるような、不思議な気分を味わいます。 こういう気持ちになるのは、私だけなんでしょうか。 もう、そのホテルに来る事は二度とない。 もし、来たとしても、同じ部屋に泊まる事は、まず、ありえない、そう思うと、峻烈に、一期一会の儚さを感じてしまうのです。


  旅行から帰った後は、どこへ行くわけでもなく、退職当初、予定していた、アルバイトをする気もなくなって、完全な、貯金取り崩し生活に入りました。 その後、一番、手こずったのが、このブログにアップしていた、沖縄・北海道旅行記の執筆です。 全部で17週間、4ヵ月も書き続けていたわけですが、週に三日くらいは、それに取られていましたから、今思い出しても、げんなりします。 何年か、何十年かして、振り返った時、今年一番の思い出になるのは、退職の嫌な記憶でも、旅行の楽しい記憶でもなく、旅行記に悪戦苦闘した記憶かもしれません。

  旅行記を書き終えた後は、これといって、する事もなく、喰っちゃ寝、喰っちゃ寝、暮らしています。 幸か不幸か、若い頃に、ひきこもっていた経験があるので、毎日毎日、無為に過ごしていても、普通の引退者のように、自己嫌悪に陥るような事がありません。 強いて、やっている事を挙げれば、自転車で運動に行く事と、週に一度、このブログの記事を書く事。 あと、4年前に立ち上げて、しばらく、熱中したものの、その後、ネタ切れを起こし、ずっと放置してあった、自転車ブログを再生すべく、また、記事をアップし始めた事ですかね。 閲覧者は、地を這うくらい、少ないですけど。


  強引に纏めますと、とにかく、今年は、よく荷造りした年でした。 旅行に出る前のも足すと、13回もやった事になります。 もっとも、「これから、出かける」という時の荷造りと、「これで、引き揚げる」という時の荷造りは、気分的に、全然違っているから、同列には語れないのですがね。 感傷的になるのは、後者の方です。 最後に荷造りしたのは、8月31日、北海道旅行の最終日の朝、函館、湯の川温泉の、和風ホテルでしたが、あれから、もう、4ヵ月も経つんですねえ。

  引退者になった以上、私が、荷造りする事は、もう、ないんじゃないかと思います。 するとしても、考えられるのは、野宿ツーリングくらいですが、それも、来年の春になってみて、バイクで出かける気になるかどうか、まだ分かりません。 それに、野宿ツーリングの荷物というのは、普段使っているのとは、違う物がほとんどなので、今年経験した荷造りとは、だいぶ、趣きが異なります。 次に、大掛かりな荷造りをするとしたら、親が死んで、兄が、家を処分すると言い出した時、引っ越す為に、荷物を纏める事になるかもしれません。 しかし、それはまだ、何年か先になるでしょう。