濫読筒井作品⑪
うーん、楽だなあ。 10冊読んで、全て感想を書いてしまった後で、ブログに出し始めたから、この三週間は、感想文を書き込んであるテキストから、こちらに移植し、前書きと、後書きを書くだけで、10分もあれば、作業が済んでしまいます。 本でも、映画でも、感想文が一番、楽ですよ。 ブログの記事としては。 いや、あくまで、「もう、書いてあれば」の話ですがね。 これから書くのなら、それは、大変。 胃が痛くなります。
作家の方は、「感想文ごときで、何が胃痛だ! こっちは、作品を書いているんだぞ!」と思うでしょうが、まあまあ、冷静になろうじゃありませんか。 こちらは、無報酬で書いているんですよ。 原稿料や印税という、ご褒美がある方々とは、モチベーションの度合いが違います。 私の場合、アフィリエイトも入れてないし。 唯一の利益は、暇潰しになるという事だけ。 本来、暇潰しであるにも拘らず、苦痛を感じるのは、なぜでしょう? 本を読むだけなら、楽しいんですがねえ。
≪ビアンカ・オーバースタディ≫
星海社FICTIONS
星海社 2012年
筒井康隆 著
いとうのいぢ イラスト
筒井さんが、初めて書いた、ライト・ノベル。 しかし、まだ、ライト・ノベルというジャンルが認定されていなかった頃なら、SFジュブナイルという形で、何作も書いています。 ≪時をかける少女≫も、その一つ。 昔の事はさておき、あとがきによると、ライト・ノベルは、これ一作で終わりにするそうですが、その理由が、「もう、77歳で、根気がなくなっている」からとの事。 しかし、この後で、段違いに根気の要る、≪聖痕≫など書いているところを見ると、ラノベのストーカー的読者を遠ざける為の、もっともらしい言い訳である可能性が濃厚です。
一冊で一作品、180ページほどです。 紙が薄いのか、ページ数の割に、厚みのない本ですが、これ以上長くなると、ラノベの読者は、買ってくれないのかもしれませんな。 「長くするなら、二冊に分けて、シリーズ化しろ」とか、手前勝手な事を言い出すかも知れぬ。 書名ですが、「ビアンカ」というのは、主人公の女子高校生の名前。 イタリア語で、意味は、「白」の女性形。 男性形は、「ビアンコ」。 「オーバースタディ」は、「勉強し過ぎ・研究し過ぎ」。 「overstudy」は、動詞として使われる方が普通のようですが、この場合、名詞でしょう。
ちなみに、実際の発音は、「オーバースタディー」だと思います。 「over」を、「オーヴァー」にしなかったのは、いいとして、作者・編集者ともに、「スタディー」を、「スタディ」と書いた方が、カッコいいと思っているのは明らかです。 だけど、二人とも、口に出して読む時には、「スタディー」って、言っているんでしょう? ≪ダンシング・ヴァニティ≫の時にも指摘しましたが、『スタディ』と書いて、「スタディー」と読めと言うなら、んーじゃー、「スタディ」は、どう書くのよ? 区別がつけられんではないですか。 カッコ悪くても、洒落ていなくても、正確に表記しようと思ったら、『スタディー』と書くしかないんですよ。
全く、悪い風潮です。 英語には、長音・短音の区別がありませんが、日本語には、厳然と存在し、極めて重要な、「単語の弁別」に使用しているのですから、それを無視していたら、日本語の体系そのものが、ぐじゃぐじゃになってまいます。 道路の案内標識に添えてある、ローマ字表記にも、長音を短音で書いてある物がありますが、そんな標識に従っていたら、「小山」に行きたいのに、「大山」に着いてしまいかねません。 「どこやねん、ここ?」
割り切りに割り切って、「日本語なんざ、その内、滅びてしまうのだから、ぐじゃぐじゃになったって、構やしない」と考えれば、気にもならなくなりますが・・・、私はもう、後は死ぬだけだから、それでもいいですが、他の人達は、それでいいのかい? 長音と短音の区別がなくなったら、名前を正確に呼ばれなくなる人も出て来ますが、それでいいのかい? 「高坂さん」が、「小坂さん」になってしまってもいいんかい? 私ゃもう、知らんよ。 まあ、そんな事は、作品の中身とは、関係ないから、このくらいでやめておくとして・・・。
話は、生命科学とタイム・トラベルを題材にしたSFです。 未来人が、現代にやって来るという点で、≪時をかける少女≫と、基本的なアイデアは同じなんですが、主人公のキャラも、ストーリー展開も、まるで違っていて、指摘されなければ、両者の類似に気づかない人もいると思います。 ≪時をかける少女≫は、SFに恋愛を絡めてありますが、この作品は、SFにエロを絡めてあります。 いや、正確に言うと、エロのパロディーなんですがね。
筒井さんは、≪時をかける少女≫を、自分らしくない作品と考えていて、自分らしくない作品が代表作とされてしまっている事に、積年の不満があり、大林宣彦版の映画が大ヒットした時、密かに怒りが爆発して、わざわざ、≪シナリオ・時をかける少女≫という短編を書き、少女小説的恋愛SFの世界に惑溺している読者に、「この色ボケどもが! 目を覚ませ!」と、水をぶっかけたものの、ほとんど、効果がなく、開き直って、テレビ・ドラマ版に自ら出演して、何とか馴染もうとしたものの、やっぱり、自分の作品らしくない事が許せないまま、悶々としていたところ、2006年にアニメ化されて、またぞろ人気が盛り上がってしまったせいで、再度ブチ切れ、今度こそ、≪時をかける少女≫の息の根を止めるべく、芳山和子の対極とも言えるキャラ、ビアンカを創造したのではないかと思われます。 あー、いや、これは、私の想像なので、遠からずといえども、当たってはいないかも知れませんが。
実際に読んでみると、出だしは文句の付けようがない傑作。 章が変わるたびに、描写の繰り返しが出て来るのも、純文学風で洒落ています。 先輩の正体が分かる辺りまでは、ワクワクしながら、読めます。 ただ、妹のロッサが出て来ると、ビアンカの存在感が薄くなり、少し、水っぽくなります。 あとは、後ろの方へ行く従い、冗長な展開となり、筒井さんの長編によくある、緊迫感に欠けた最後の戦いに向かって行きます。 むしろ、未来なんぞ行かせずに、ビアンカが作った人間蛙の顔が、何人もの男達に似ている事にして、ビアンカを慕っていた男が愕然とするようなオチにすれば、うまく纏まったのに。
どうも、筒井さんは、長編になると、クライマックスで話を盛り上げるのが苦手なようです。 冒険小説の類なら、数え切れないほど読んでいると思うので、盛り上げ方を知らないなどという事はありえませんから、もしかしたら、わざと、月並みなクライマックスを避けているのかもしれません。 そのせいか、作品が映像化されると、勝手に、違うラストを付けられてしまう事が多いです。 映像作品は、小説ほど、自由ではありませんから、致し方ないところ。
ビアンカと、補色関係にあるキャラで、耀子というのが出て来るので、妹のロッサは要らないのではないかと思うのですが、≪時をかける少女≫の、芳山和子に妹がいるので、それに準えたか、さもなければ、「美少女キャラを、もっと出して下さい」と、編集者に頼まれたかのどちらかではないでしょうか。 アニメでは、意味もなく、美少女キャラばかり増やして、声優のファンを当てにする、悪い風潮がありますが、ラノベでも、似たような事情があるのかも知れません。 ちなみに、「ロッサ」というのは、イタリア語で、「赤」の女性形。 男性形は、「ロッソ」。
エロではなく、エロのパロディーだと考えられるのは、ビアンカ自身が、全然、性交渉に興味がないからです。 理系の研究馬鹿なんですな。 生物としてしか、男を見ていないので、恋愛感情など発生する余地は、全くありません。 この作品が、≪時をかける少女≫と正反対の価値観で書かれたのは、この点からも、確実です。 ビアンカから、恋愛を連想する男性読者というのは、まず、いないでしょう。 どんなに美女であっても、自分の事を、ヒトのオスとしてしか見ていないのでは、恋愛相手にならんわなあ。 もしかすると、ビアンカの性格のモデルは、動物学者だった、筒井さんのお父さんではありますまいか。
このキャラでは、少なくとも、男性のファンはつかないでしょうねえ。 女性で、同性愛の傾向がある人なら、あるいは、ビアンカのようなキャラに憧れる場合があるかも知れません。 もっとも、ビアンカは、女を見ても、ヒトのメスとしか思いませんから、同性愛に目覚める事も考えられないわけですが。 とことん、恋愛から遠ざけてあるわけですな。 これなら、続編を望む、ストーカー的ファンも発生しないかもしれません。
この本、結構売れたわけですが、イラストの力も大きかったと思います。 いとうのいぢさんというのは、≪涼宮ハルヒ・シリーズ≫のイラストを描いた人。 そもそも、筒井さんが、この企画に乗ったのは、≪涼宮ハルヒ・シリーズ≫を読んで、ラノベにも、レベルが高い作品があると知ったのがきっかけだったそうで、イラストレーターは、余人を以て代えられなかったわけですな。
この表紙絵に惹かれて、本を買った、思春期真っ只中の青少年諸君よ。 十中八九、オナペットにして楽しもうと試みただろうが、思いの外、興が乗らなかっただろう。 それには、理由があるのだよ。 上述したように、ビアンカのキャラが、性的興味の対象にされるのを撥ねつけているからなのだよ。 また、この、いとうのいぢさんの絵が、デフォルメがきついのよ。 頭と脚だけ、妙に存在感が強くて、上半身なんか、ひょろひょろ。 Hゲームの巨乳キャラを見慣れた目じゃ、「可愛い」から先には、一歩も進めまいて。 残念だったな。
≪聖痕≫
新潮社 2013年
筒井康隆 著
元は、2012年から2013年にかけて、朝日新聞に、連載されたもの。 あれ? ≪漂流≫の単行本は、朝日新聞出版から出ているのに、同じ、朝日新聞に発表されたにも拘らず、なぜ、こちらは、新潮社で、単行本になったのでしょう? 解せんな・・・。 まあ、いいか。 新潮から、単行本が出ていれば、いずれ、新潮文庫で出るでしょうから、基本的に、文庫しか買わない私にとっては、都合がいいです。
私は、連載開始当初、新聞紙上でも、読んでいたんですが、予想していたより、遥かに中身がありそうなので、「こりゃあ、ぶつ切りに読んでいると、忘れてしまうぞ。 単行本になってから、じっくり読んだ方がいいわ」と思い直し、新聞の方はスルーして、毎日、挿絵だけ見ていました。 ちなみに、挿絵は、息子さんの、筒井伸輔さんが描いていました。 なぜ、それだけ見ていたかといえば、「たぶん、単行本になったら、全部は載るまい」と思ったから。 その予想は的中しました。 表紙、裏表紙、扉絵の三枚だけ。 何だか、勿体ないのう。 それぞれ、作品として、世に出したのなら、話は別ですが。
一冊一作品、260ページ弱の長編。 子供の頃、類い稀な美少年だったせいで、変質者に生殖器を切れ取られてしまった男が、性欲はもちろん、怒りの感情まで失うが、長じて、料理の世界に興味を抱き、食品会社に勤めた後、自分のレストランを開店して、自分の理解者達と共に、美しさ故に多難にならざるを得ない人生を、乗り越えて行く話。
これも、話の出だしは、素晴らしいもので、いきなり、衝撃的な展開になり、読者の度肝を抜きます。 短編ならともかく、冒頭から、性器を切り取られてしまう長編小説なんて、ちょっと考えられませんな。 なぜというに、最初から、そんな刺激的な事を書いてしまったら、普通は、先が続かないからです。 ところが、筒井さんは、それをやってしまうんですな。 話の作り方に自信があるからというより、先に、この出だしを思いついてしまったので、「使わぬ手はない」と考えたように思えます。 「後は、どうにかなるだろう」と・・・。
ハード・ボイルド系の作家なら、後半に、もっと刺激的な場面を用意し、話を盛り上げようとするでしょうが、そうはしないのです。 割と、地味~に、淡々と、主人公の人生が描かれて行きます。 物語として、竜頭蛇尾になるのは、致し方ないところですが、特殊な身体条件を背負わされた人間が、どういう人生を歩むかについて、真面目に想像し、細部まで描き込まれているので、読者の興味は、自然に、そちらの方に移り、「ああ、この小説は、犯罪小説のような展開を期待する作品ではないのだな」と、納得させられてしまいます。
この作品、ところどころに、纏まった文語文が使われたり、地の文でも、枕詞や、すでに使われなくなった、古い形容が用いられて、話題になりました。 連載の時には、回ごとに、単行本では、2ページごとに、そういう言葉の解説が入ります。 筒井さんが、こういう試みを行なったのは、「忘れ去られた言葉を、復活させたかったから」のようですが、あまり、効果はないかも知れませんなあ。
古文を原文で読んだ事がある人は、経験があると思いますが、文語体でも、しばらく読んでいると、慣れて来て、解説を読まなくても、意味が取れるようになって来ます。 この本でも、同じ作用が働き、真ん中を過ぎる頃には、解説を無視して、読み進むようになります。 で、読み終わると、一語も頭に残っていないという、情けなさ。
もう一つの目的である、「異化効果」に関しては、十二分に成功しています。 確かに、この作品の文章は、他とは異なっていますよ。 異化効果というのは、面白いですな。 何でもいいんですよ。 たとえば、頭の悪そうな人物のセリフだけ、全部、平仮名で書くとか、逆に、頭が悪いふりをしている人物のセリフを、馬鹿みたいな喋り方だけど、漢字満載で書くとか。 ちょっと、読み手が気にかかる書き方をすれば、それだけで、異化効果が発生し、印象に残る作品として、記憶されます。 もっとも、そういうのが流行ると、「なんだ、また、異化効果か・・・」と、すぐに飽きられてしまいますけど。
この作品も、実験小説の一類なわけですが、≪ダンシング・ヴァニティ≫同様、読者が作者の実験台にされているような、嫌な感じは全くありません。 実験というより、すでに、どれだけの効果が出るか、予想がついた状態で発表している、「実証小説」なんですな。 模倣が利かないので、「実用小説」には、なり得ませんが。 また、一人の数奇な運命に立ち向かった人物の生き様を描いた小説として、普通に読む事もできます。
≪漂流 本から本へ≫
朝日新聞出版 2011年
筒井康隆 著
2009年4月から、2010年7月まで、朝日新聞の日曜版に掲載されたシリーズを、単行本化したもの。 朝日新聞の日曜版には、新刊の書籍を紹介するページがありまして、毎週、その最初のページに、一番大きな場所を占めて、載っていました。 私は、連載時に、ほぼ、全て、読んでいると思います。 一年三ヵ月も続いていたとは、知らなんだ。 つい、こないだのような気がしますが、終わってから、もう、4年半も経つんですねえ。
筒井さんの、幼少期から、割と最近までの読書遍歴を、書物ごとに、紹介したもの。 当然の事ながら、作品の批評も含まれていますが、基本的に、筒井さんが影響を受けた、「面白かった本」しか取り上げていないので、批判のようなものは、ほんのちょっとしか出て来ません。 漫画から、小説、戯曲、学術書まで、古今東西の書物が、全て対象になっているので、批判までし始めたら、キリがなくなるに決まっており、最初から、念頭になかったのでしょう。
著者名と、書名が、各回のタイトルになっているのですが、内容の比重としては、その本を読んでいた頃の、筒井さん自身の生活の思い出話が多くて、読書歴を通して見た、自伝としても読めます。 本格的な批評となると、かなり、構えて書かなければなりませんが、こういう形式なら、気軽に筆を進められたでしょうな。 そのせいか、小難しいところは、ほとんどなくて、大変、読み易い文章になっています。
帯の宣伝文句に、「筒井康隆のつくり方」とあります。 つまり、「この本を読み、この本に出て来る本を読めば、筒井さんの頭に、どんな知識・教養・情報が詰まっているかが分かる」という意味でしょう。 そこまでなら、まあ、問題ないんですが、もう一歩進んで、「これらの本を読めば、筒井作品のような、面白い小説が書ける」と取る読者がいるとしたら、それは、間違いも間違い、大間違いです。 甘過ぎるわ。 その程度で、書けるようになるわけねーだろ。
同じ本を読んだだけで、その作家に近づけるわけがないという、常識的道理もさる事ながら、それ以前に、ここに出ているのは、今までに、筒井さんが読んだ本の、百分の一にも達しないと思います。 いや、千分の一かも知れぬ。 いやいや、万分の一という可能性も捨てきれぬ。 上述したように、つまらんと思った本の事は、ほんのちょっとしか触れていないわけですが、駄目な例として、そういう本からも、受ける影響はあるのであって、量的にも、質的にも、無視できるようなものではありません。
この本に収められている文章は、小説家志望の人に向けて書かれたわけではなく、純粋に、面白い本を探している人に向けて、筒井さんが、読書人の大先輩として、「この本は、いいよ」と薦めているものなんですな。 ≪壊れ方指南≫の中に、【耽読者の家】という短編がありますが、そちらと並んで、面白い古典作品の参考書として読むべき本なのです。
ちなみに、この本で紹介されている本は、各回のタイトルだけだと、66冊ですが、それらを含めて、各文中に出て来る、筒井さんが、「面白かった」と書いている本を、リストを作って、数えてみたところ、150冊くらいになりました。 内、私が読んだ事があるのは、たったの20冊弱。 話にならねー・・・。 逆に考えると、残りの130冊分は、楽しみが残っているという事ですな。 引退して、時間はたっぷりある事だし、ぼちぼち、読んで行く事にします。 なに? リストを見せろ? 誰が見せるものか。 リストを作るだけで、一時間もかかったのに。 自分で、この本を買うか借りるかして、調べなさいな。
とはいうものの・・・、人から薦められた本というのは、読んでみると、あまり面白くない事が多いのも、体験的に分かっています。 本の好き嫌いというのは、人それぞれの感覚の違いが、端的に出てしまうんですな。 この連載が行なわれていた頃、紹介された本が、本屋で急に売れ出したり、本屋が急に売り出したりしたらしいですが、買ってしまってから、「しまった。 大して面白くないではないか」とか、「こんなに難しい本だったとは・・・」と、臍を咬む思いをした人も多かった事でしょう。 だから、「まず、図書館を当たれ」というのよ。
以上、今回も、3冊です。 ところで、これらの感想を書き終えた後、私が、どんな暮らしをしているかといいますと、やはり、本を読んでいます。 寒くて、優雅にポタリングというわけにも行かないので、自動的に、読書ばかりになってしまうんですよ。 昨日、ディケンズの、≪荒涼館≫を読み終えて、今日から、≪オリバー・ツイスト≫に入るところ。 それらの感想は、いずれ、出します。
他にやっている事と言うと、犬の世話とか、映画・ドラマ観賞とか、その感想書きとか、太らないように、自転車で運動とか、そんな事だけです。 奇妙なもので、それだけの事しかしていないのに、倦怠に悩まされる事はなく、むしろ、時間が足りないように感じられます。 引退しても、「やる事がなくて困る」という事がないのは、ひきこもり時代に取った杵柄。
10年早く引退して良かったと思うのは、まだ、目が普通に見えて、読書をためらわずに済む事です。 これねえ、いるんですよ。 読書が趣味の人で、「引退したら、好きな本を、好きなだけ読んで暮らそう」と、楽しみにしていたのが、いざ、定年過ぎた頃には、衰えた目が長時間の読書に耐えられなくなっていて、長編小説など、とても読めずに、しょぼくれてしまう人というのが。
楽しみというのは、先に取っておけば、熟成されて、より楽しくなると決まっているわけでもないわけだ。 恋愛は、その代表例ですが、反射神経や、素早い判断力を必要とされるスポーツなんかも、その類です。 高齢者のバイク事故とか、超軽量飛行機の墜落事故とか、若い頃なら、起こさなかったミスで、命を落とす人は、結構、多いです。 そういう人達も、「いつか、時間にゆとりが出来たら・・・」と思って、楽しみにしていたんでしょうけどねえ。
作家の方は、「感想文ごときで、何が胃痛だ! こっちは、作品を書いているんだぞ!」と思うでしょうが、まあまあ、冷静になろうじゃありませんか。 こちらは、無報酬で書いているんですよ。 原稿料や印税という、ご褒美がある方々とは、モチベーションの度合いが違います。 私の場合、アフィリエイトも入れてないし。 唯一の利益は、暇潰しになるという事だけ。 本来、暇潰しであるにも拘らず、苦痛を感じるのは、なぜでしょう? 本を読むだけなら、楽しいんですがねえ。
≪ビアンカ・オーバースタディ≫
星海社FICTIONS
星海社 2012年
筒井康隆 著
いとうのいぢ イラスト
筒井さんが、初めて書いた、ライト・ノベル。 しかし、まだ、ライト・ノベルというジャンルが認定されていなかった頃なら、SFジュブナイルという形で、何作も書いています。 ≪時をかける少女≫も、その一つ。 昔の事はさておき、あとがきによると、ライト・ノベルは、これ一作で終わりにするそうですが、その理由が、「もう、77歳で、根気がなくなっている」からとの事。 しかし、この後で、段違いに根気の要る、≪聖痕≫など書いているところを見ると、ラノベのストーカー的読者を遠ざける為の、もっともらしい言い訳である可能性が濃厚です。
一冊で一作品、180ページほどです。 紙が薄いのか、ページ数の割に、厚みのない本ですが、これ以上長くなると、ラノベの読者は、買ってくれないのかもしれませんな。 「長くするなら、二冊に分けて、シリーズ化しろ」とか、手前勝手な事を言い出すかも知れぬ。 書名ですが、「ビアンカ」というのは、主人公の女子高校生の名前。 イタリア語で、意味は、「白」の女性形。 男性形は、「ビアンコ」。 「オーバースタディ」は、「勉強し過ぎ・研究し過ぎ」。 「overstudy」は、動詞として使われる方が普通のようですが、この場合、名詞でしょう。
ちなみに、実際の発音は、「オーバースタディー」だと思います。 「over」を、「オーヴァー」にしなかったのは、いいとして、作者・編集者ともに、「スタディー」を、「スタディ」と書いた方が、カッコいいと思っているのは明らかです。 だけど、二人とも、口に出して読む時には、「スタディー」って、言っているんでしょう? ≪ダンシング・ヴァニティ≫の時にも指摘しましたが、『スタディ』と書いて、「スタディー」と読めと言うなら、んーじゃー、「スタディ」は、どう書くのよ? 区別がつけられんではないですか。 カッコ悪くても、洒落ていなくても、正確に表記しようと思ったら、『スタディー』と書くしかないんですよ。
全く、悪い風潮です。 英語には、長音・短音の区別がありませんが、日本語には、厳然と存在し、極めて重要な、「単語の弁別」に使用しているのですから、それを無視していたら、日本語の体系そのものが、ぐじゃぐじゃになってまいます。 道路の案内標識に添えてある、ローマ字表記にも、長音を短音で書いてある物がありますが、そんな標識に従っていたら、「小山」に行きたいのに、「大山」に着いてしまいかねません。 「どこやねん、ここ?」
割り切りに割り切って、「日本語なんざ、その内、滅びてしまうのだから、ぐじゃぐじゃになったって、構やしない」と考えれば、気にもならなくなりますが・・・、私はもう、後は死ぬだけだから、それでもいいですが、他の人達は、それでいいのかい? 長音と短音の区別がなくなったら、名前を正確に呼ばれなくなる人も出て来ますが、それでいいのかい? 「高坂さん」が、「小坂さん」になってしまってもいいんかい? 私ゃもう、知らんよ。 まあ、そんな事は、作品の中身とは、関係ないから、このくらいでやめておくとして・・・。
話は、生命科学とタイム・トラベルを題材にしたSFです。 未来人が、現代にやって来るという点で、≪時をかける少女≫と、基本的なアイデアは同じなんですが、主人公のキャラも、ストーリー展開も、まるで違っていて、指摘されなければ、両者の類似に気づかない人もいると思います。 ≪時をかける少女≫は、SFに恋愛を絡めてありますが、この作品は、SFにエロを絡めてあります。 いや、正確に言うと、エロのパロディーなんですがね。
筒井さんは、≪時をかける少女≫を、自分らしくない作品と考えていて、自分らしくない作品が代表作とされてしまっている事に、積年の不満があり、大林宣彦版の映画が大ヒットした時、密かに怒りが爆発して、わざわざ、≪シナリオ・時をかける少女≫という短編を書き、少女小説的恋愛SFの世界に惑溺している読者に、「この色ボケどもが! 目を覚ませ!」と、水をぶっかけたものの、ほとんど、効果がなく、開き直って、テレビ・ドラマ版に自ら出演して、何とか馴染もうとしたものの、やっぱり、自分の作品らしくない事が許せないまま、悶々としていたところ、2006年にアニメ化されて、またぞろ人気が盛り上がってしまったせいで、再度ブチ切れ、今度こそ、≪時をかける少女≫の息の根を止めるべく、芳山和子の対極とも言えるキャラ、ビアンカを創造したのではないかと思われます。 あー、いや、これは、私の想像なので、遠からずといえども、当たってはいないかも知れませんが。
実際に読んでみると、出だしは文句の付けようがない傑作。 章が変わるたびに、描写の繰り返しが出て来るのも、純文学風で洒落ています。 先輩の正体が分かる辺りまでは、ワクワクしながら、読めます。 ただ、妹のロッサが出て来ると、ビアンカの存在感が薄くなり、少し、水っぽくなります。 あとは、後ろの方へ行く従い、冗長な展開となり、筒井さんの長編によくある、緊迫感に欠けた最後の戦いに向かって行きます。 むしろ、未来なんぞ行かせずに、ビアンカが作った人間蛙の顔が、何人もの男達に似ている事にして、ビアンカを慕っていた男が愕然とするようなオチにすれば、うまく纏まったのに。
どうも、筒井さんは、長編になると、クライマックスで話を盛り上げるのが苦手なようです。 冒険小説の類なら、数え切れないほど読んでいると思うので、盛り上げ方を知らないなどという事はありえませんから、もしかしたら、わざと、月並みなクライマックスを避けているのかもしれません。 そのせいか、作品が映像化されると、勝手に、違うラストを付けられてしまう事が多いです。 映像作品は、小説ほど、自由ではありませんから、致し方ないところ。
ビアンカと、補色関係にあるキャラで、耀子というのが出て来るので、妹のロッサは要らないのではないかと思うのですが、≪時をかける少女≫の、芳山和子に妹がいるので、それに準えたか、さもなければ、「美少女キャラを、もっと出して下さい」と、編集者に頼まれたかのどちらかではないでしょうか。 アニメでは、意味もなく、美少女キャラばかり増やして、声優のファンを当てにする、悪い風潮がありますが、ラノベでも、似たような事情があるのかも知れません。 ちなみに、「ロッサ」というのは、イタリア語で、「赤」の女性形。 男性形は、「ロッソ」。
エロではなく、エロのパロディーだと考えられるのは、ビアンカ自身が、全然、性交渉に興味がないからです。 理系の研究馬鹿なんですな。 生物としてしか、男を見ていないので、恋愛感情など発生する余地は、全くありません。 この作品が、≪時をかける少女≫と正反対の価値観で書かれたのは、この点からも、確実です。 ビアンカから、恋愛を連想する男性読者というのは、まず、いないでしょう。 どんなに美女であっても、自分の事を、ヒトのオスとしてしか見ていないのでは、恋愛相手にならんわなあ。 もしかすると、ビアンカの性格のモデルは、動物学者だった、筒井さんのお父さんではありますまいか。
このキャラでは、少なくとも、男性のファンはつかないでしょうねえ。 女性で、同性愛の傾向がある人なら、あるいは、ビアンカのようなキャラに憧れる場合があるかも知れません。 もっとも、ビアンカは、女を見ても、ヒトのメスとしか思いませんから、同性愛に目覚める事も考えられないわけですが。 とことん、恋愛から遠ざけてあるわけですな。 これなら、続編を望む、ストーカー的ファンも発生しないかもしれません。
この本、結構売れたわけですが、イラストの力も大きかったと思います。 いとうのいぢさんというのは、≪涼宮ハルヒ・シリーズ≫のイラストを描いた人。 そもそも、筒井さんが、この企画に乗ったのは、≪涼宮ハルヒ・シリーズ≫を読んで、ラノベにも、レベルが高い作品があると知ったのがきっかけだったそうで、イラストレーターは、余人を以て代えられなかったわけですな。
この表紙絵に惹かれて、本を買った、思春期真っ只中の青少年諸君よ。 十中八九、オナペットにして楽しもうと試みただろうが、思いの外、興が乗らなかっただろう。 それには、理由があるのだよ。 上述したように、ビアンカのキャラが、性的興味の対象にされるのを撥ねつけているからなのだよ。 また、この、いとうのいぢさんの絵が、デフォルメがきついのよ。 頭と脚だけ、妙に存在感が強くて、上半身なんか、ひょろひょろ。 Hゲームの巨乳キャラを見慣れた目じゃ、「可愛い」から先には、一歩も進めまいて。 残念だったな。
≪聖痕≫
新潮社 2013年
筒井康隆 著
元は、2012年から2013年にかけて、朝日新聞に、連載されたもの。 あれ? ≪漂流≫の単行本は、朝日新聞出版から出ているのに、同じ、朝日新聞に発表されたにも拘らず、なぜ、こちらは、新潮社で、単行本になったのでしょう? 解せんな・・・。 まあ、いいか。 新潮から、単行本が出ていれば、いずれ、新潮文庫で出るでしょうから、基本的に、文庫しか買わない私にとっては、都合がいいです。
私は、連載開始当初、新聞紙上でも、読んでいたんですが、予想していたより、遥かに中身がありそうなので、「こりゃあ、ぶつ切りに読んでいると、忘れてしまうぞ。 単行本になってから、じっくり読んだ方がいいわ」と思い直し、新聞の方はスルーして、毎日、挿絵だけ見ていました。 ちなみに、挿絵は、息子さんの、筒井伸輔さんが描いていました。 なぜ、それだけ見ていたかといえば、「たぶん、単行本になったら、全部は載るまい」と思ったから。 その予想は的中しました。 表紙、裏表紙、扉絵の三枚だけ。 何だか、勿体ないのう。 それぞれ、作品として、世に出したのなら、話は別ですが。
一冊一作品、260ページ弱の長編。 子供の頃、類い稀な美少年だったせいで、変質者に生殖器を切れ取られてしまった男が、性欲はもちろん、怒りの感情まで失うが、長じて、料理の世界に興味を抱き、食品会社に勤めた後、自分のレストランを開店して、自分の理解者達と共に、美しさ故に多難にならざるを得ない人生を、乗り越えて行く話。
これも、話の出だしは、素晴らしいもので、いきなり、衝撃的な展開になり、読者の度肝を抜きます。 短編ならともかく、冒頭から、性器を切り取られてしまう長編小説なんて、ちょっと考えられませんな。 なぜというに、最初から、そんな刺激的な事を書いてしまったら、普通は、先が続かないからです。 ところが、筒井さんは、それをやってしまうんですな。 話の作り方に自信があるからというより、先に、この出だしを思いついてしまったので、「使わぬ手はない」と考えたように思えます。 「後は、どうにかなるだろう」と・・・。
ハード・ボイルド系の作家なら、後半に、もっと刺激的な場面を用意し、話を盛り上げようとするでしょうが、そうはしないのです。 割と、地味~に、淡々と、主人公の人生が描かれて行きます。 物語として、竜頭蛇尾になるのは、致し方ないところですが、特殊な身体条件を背負わされた人間が、どういう人生を歩むかについて、真面目に想像し、細部まで描き込まれているので、読者の興味は、自然に、そちらの方に移り、「ああ、この小説は、犯罪小説のような展開を期待する作品ではないのだな」と、納得させられてしまいます。
この作品、ところどころに、纏まった文語文が使われたり、地の文でも、枕詞や、すでに使われなくなった、古い形容が用いられて、話題になりました。 連載の時には、回ごとに、単行本では、2ページごとに、そういう言葉の解説が入ります。 筒井さんが、こういう試みを行なったのは、「忘れ去られた言葉を、復活させたかったから」のようですが、あまり、効果はないかも知れませんなあ。
古文を原文で読んだ事がある人は、経験があると思いますが、文語体でも、しばらく読んでいると、慣れて来て、解説を読まなくても、意味が取れるようになって来ます。 この本でも、同じ作用が働き、真ん中を過ぎる頃には、解説を無視して、読み進むようになります。 で、読み終わると、一語も頭に残っていないという、情けなさ。
もう一つの目的である、「異化効果」に関しては、十二分に成功しています。 確かに、この作品の文章は、他とは異なっていますよ。 異化効果というのは、面白いですな。 何でもいいんですよ。 たとえば、頭の悪そうな人物のセリフだけ、全部、平仮名で書くとか、逆に、頭が悪いふりをしている人物のセリフを、馬鹿みたいな喋り方だけど、漢字満載で書くとか。 ちょっと、読み手が気にかかる書き方をすれば、それだけで、異化効果が発生し、印象に残る作品として、記憶されます。 もっとも、そういうのが流行ると、「なんだ、また、異化効果か・・・」と、すぐに飽きられてしまいますけど。
この作品も、実験小説の一類なわけですが、≪ダンシング・ヴァニティ≫同様、読者が作者の実験台にされているような、嫌な感じは全くありません。 実験というより、すでに、どれだけの効果が出るか、予想がついた状態で発表している、「実証小説」なんですな。 模倣が利かないので、「実用小説」には、なり得ませんが。 また、一人の数奇な運命に立ち向かった人物の生き様を描いた小説として、普通に読む事もできます。
≪漂流 本から本へ≫
朝日新聞出版 2011年
筒井康隆 著
2009年4月から、2010年7月まで、朝日新聞の日曜版に掲載されたシリーズを、単行本化したもの。 朝日新聞の日曜版には、新刊の書籍を紹介するページがありまして、毎週、その最初のページに、一番大きな場所を占めて、載っていました。 私は、連載時に、ほぼ、全て、読んでいると思います。 一年三ヵ月も続いていたとは、知らなんだ。 つい、こないだのような気がしますが、終わってから、もう、4年半も経つんですねえ。
筒井さんの、幼少期から、割と最近までの読書遍歴を、書物ごとに、紹介したもの。 当然の事ながら、作品の批評も含まれていますが、基本的に、筒井さんが影響を受けた、「面白かった本」しか取り上げていないので、批判のようなものは、ほんのちょっとしか出て来ません。 漫画から、小説、戯曲、学術書まで、古今東西の書物が、全て対象になっているので、批判までし始めたら、キリがなくなるに決まっており、最初から、念頭になかったのでしょう。
著者名と、書名が、各回のタイトルになっているのですが、内容の比重としては、その本を読んでいた頃の、筒井さん自身の生活の思い出話が多くて、読書歴を通して見た、自伝としても読めます。 本格的な批評となると、かなり、構えて書かなければなりませんが、こういう形式なら、気軽に筆を進められたでしょうな。 そのせいか、小難しいところは、ほとんどなくて、大変、読み易い文章になっています。
帯の宣伝文句に、「筒井康隆のつくり方」とあります。 つまり、「この本を読み、この本に出て来る本を読めば、筒井さんの頭に、どんな知識・教養・情報が詰まっているかが分かる」という意味でしょう。 そこまでなら、まあ、問題ないんですが、もう一歩進んで、「これらの本を読めば、筒井作品のような、面白い小説が書ける」と取る読者がいるとしたら、それは、間違いも間違い、大間違いです。 甘過ぎるわ。 その程度で、書けるようになるわけねーだろ。
同じ本を読んだだけで、その作家に近づけるわけがないという、常識的道理もさる事ながら、それ以前に、ここに出ているのは、今までに、筒井さんが読んだ本の、百分の一にも達しないと思います。 いや、千分の一かも知れぬ。 いやいや、万分の一という可能性も捨てきれぬ。 上述したように、つまらんと思った本の事は、ほんのちょっとしか触れていないわけですが、駄目な例として、そういう本からも、受ける影響はあるのであって、量的にも、質的にも、無視できるようなものではありません。
この本に収められている文章は、小説家志望の人に向けて書かれたわけではなく、純粋に、面白い本を探している人に向けて、筒井さんが、読書人の大先輩として、「この本は、いいよ」と薦めているものなんですな。 ≪壊れ方指南≫の中に、【耽読者の家】という短編がありますが、そちらと並んで、面白い古典作品の参考書として読むべき本なのです。
ちなみに、この本で紹介されている本は、各回のタイトルだけだと、66冊ですが、それらを含めて、各文中に出て来る、筒井さんが、「面白かった」と書いている本を、リストを作って、数えてみたところ、150冊くらいになりました。 内、私が読んだ事があるのは、たったの20冊弱。 話にならねー・・・。 逆に考えると、残りの130冊分は、楽しみが残っているという事ですな。 引退して、時間はたっぷりある事だし、ぼちぼち、読んで行く事にします。 なに? リストを見せろ? 誰が見せるものか。 リストを作るだけで、一時間もかかったのに。 自分で、この本を買うか借りるかして、調べなさいな。
とはいうものの・・・、人から薦められた本というのは、読んでみると、あまり面白くない事が多いのも、体験的に分かっています。 本の好き嫌いというのは、人それぞれの感覚の違いが、端的に出てしまうんですな。 この連載が行なわれていた頃、紹介された本が、本屋で急に売れ出したり、本屋が急に売り出したりしたらしいですが、買ってしまってから、「しまった。 大して面白くないではないか」とか、「こんなに難しい本だったとは・・・」と、臍を咬む思いをした人も多かった事でしょう。 だから、「まず、図書館を当たれ」というのよ。
以上、今回も、3冊です。 ところで、これらの感想を書き終えた後、私が、どんな暮らしをしているかといいますと、やはり、本を読んでいます。 寒くて、優雅にポタリングというわけにも行かないので、自動的に、読書ばかりになってしまうんですよ。 昨日、ディケンズの、≪荒涼館≫を読み終えて、今日から、≪オリバー・ツイスト≫に入るところ。 それらの感想は、いずれ、出します。
他にやっている事と言うと、犬の世話とか、映画・ドラマ観賞とか、その感想書きとか、太らないように、自転車で運動とか、そんな事だけです。 奇妙なもので、それだけの事しかしていないのに、倦怠に悩まされる事はなく、むしろ、時間が足りないように感じられます。 引退しても、「やる事がなくて困る」という事がないのは、ひきこもり時代に取った杵柄。
10年早く引退して良かったと思うのは、まだ、目が普通に見えて、読書をためらわずに済む事です。 これねえ、いるんですよ。 読書が趣味の人で、「引退したら、好きな本を、好きなだけ読んで暮らそう」と、楽しみにしていたのが、いざ、定年過ぎた頃には、衰えた目が長時間の読書に耐えられなくなっていて、長編小説など、とても読めずに、しょぼくれてしまう人というのが。
楽しみというのは、先に取っておけば、熟成されて、より楽しくなると決まっているわけでもないわけだ。 恋愛は、その代表例ですが、反射神経や、素早い判断力を必要とされるスポーツなんかも、その類です。 高齢者のバイク事故とか、超軽量飛行機の墜落事故とか、若い頃なら、起こさなかったミスで、命を落とす人は、結構、多いです。 そういう人達も、「いつか、時間にゆとりが出来たら・・・」と思って、楽しみにしていたんでしょうけどねえ。
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