2015/03/01

≪風立ちぬ≫ 鑑賞

  宮崎駿さんの、長編アニメの最終監督作品で、原作・脚本も、兼ねています。 最終作という点を除いても、公開時、いろいろと物議を醸した作品で、正直のところ、私は見たくなかったんですが、テレビ放送したのを、つい、録画してしまい、しばらく、そのままにしておいたものの、レコーダーの録画残量の関係で、いつまでも見ないわけにもいかず、やむなく、見た次第。 私個人的に、これだけ、後ろ向きの姿勢で見た映画も珍しいです。

  飛行機に憧れていた少年が、近視のせいで、操縦士になれない事から、設計技師を目指す事にし、長じて、飛行機製造会社に入社して、戦闘機の開発に励む一方、関東大震災の時に助けた女性と、後年、高原の避暑地で再会し、互いに想いあうようになるが、彼女は、結核を患っていて・・・、という話。

  ゼロ戦の設計主任である、堀越二郎さんの伝記を軸にして、堀辰雄さんの小説≪風立ちぬ≫のエピソードをくっつけたもの。 ただし、ゼロ戦の開発までは、時代が進まず、その一つ前の、「九試単座戦闘機」の試験飛行が、クライマックスになっています。 この作品の何が変と言って、実在の人物の伝記なのに、全くの他人が書いた、全く無関係な内容の小説とくっつけてしまった事が、最も奇妙奇天烈です。 この発想自体が、非常識で、乱暴で、怖いの三語に尽きます。

  それに比べたら、小さな問題ですが、実在の人物の伝記なのに、その人物の業績で、最も有名な部分を避けているというのが、また、奇妙。 ゼロ戦は、最後に出て来ますが、戦後の回想シーンで、ちょこっと顔を出すだけです。 なぜ、ゼロ戦の開発まで、描かなかったのかを推測するに、「戦争を美化している」と批判されるのが、嫌だったからでしょう。 だけど、そう言われたくないのなら、そもそも、戦闘機の設計者の伝記アニメなんて、作らなければ良かったじゃないですか。

  変でしょう? 変ですよ。 絶対、変です。 堀越氏の奥さんが、どんな人だったかは知りませんが、子供が6人いたというから、結核で早死にしたわけではない事だけは、間違いないです。 ところが、この作品では、そうなってしまうんですよ。 だって、奥さんとのエピソードが、そっくり、小説≪風立ちぬ≫の方に入れ替えてあるんだもの、死なないわけがない。 おかしいでしょう? 堀越二郎氏も、その奥さんも、実在の人物なんですよ。 その伝記なのに、なんで、何の関係もない小説の筋立てが、割り込んで来るんですか?

  「伝記そのものではない。 伝記から、着想を得ただけだ」というのなら、それは、もはや、伝記ではないわけですから、当然の処置として、主人公の名前を変えるべきです。 なぜ、変えない? 変えられないのですよ。 「七試艦上戦闘機」や、「九試単座戦闘機」は、実在の飛行機で、設計主任が、堀越氏だからです。 それならば、それらの飛行機も、形や名前を変えて、完全なフィクションにすれば良かったのです。 そこまでやって、初めて、「堀越二郎氏の伝記から着想を得た」と言えるのではないですか?

  飛行機や戦闘機に興味がある人の中で、この映画を見て、こう感じた人もいると思います。

「堀越氏の伝記が、映画にできるのなら、他の戦闘機や、飛行機の開発者だって、世界中に、うじゃうじゃいるのだから、それらの伝記も映画化できるのではないか? なぜ、そういう映画がないのだろう?」 

  レオナルド・ディカプリオさんが主演した、≪アビエイター≫という、ハワード・ヒューズ氏の伝記映画ならありましたが、彼は、実業家で、飛行機開発以外にも、様々な事業に手を出していました。 自動車の開発では、≪タッカー≫という、プレストン・トマス・タッカー氏を取り上げた映画があり、そちらでは、かなり、技術的な方向へ踏み込んで描いていましたけど、タッカー氏も、技術者というよりは、実業家でした。

  設計技師が、映画の主人公になり得ないのは、やっている仕事が地味で、映画の見せ場になるような活動をしていないからです。 そういや、家電製品の開発で、≪陽はまた昇る≫という日本映画がありましたが、あれも、見せ場には困っていましたねえ。 VHSデッキの発売日の様子をクライマックスに持って来て、辛うじて、格好をつけていましたが、もし、もう一本、同じような映画を作ってくれと言われたら、監督は、嫌~な顔をすると思います。

  もし、設計技師が主人公になりえるのなら、アメリカ映画界が作っていないわけがない。 第二次大戦期の戦闘機だけに限っても、F6F、F4U、P-47、P-51、P-38など、名機のオン・パレード。 当然の事ながら、それらの飛行機にも、設計者はいるわけで、彼らを主人公にして、映画が作れそうなものなのに、そんなな、見た事がありません。 アメリカの場合、戦争をしかけられた側ですから、「戦争美化」の引け目もないわけですが、作らないのは、なぜか? 答えは一つ、見せ場が思いつかないからですよ。 見せ場欲しさに、戦闘場面を入れるとなると、もはや、設計者の話ではなく、操縦者の話になってしまいます。

  この映画も、事情は同じでして、見せ場がないので、主人公の夢の世界を出したり、関東大震災を絡めたり、世界恐慌に見舞われる世相を描いたり、絵になるエピソードを盛り込むのに大わらわ。 さながら、借り物競争みたいな有様になっています。 そして、一番大きな借り物が、小説≪風立ちぬ≫というわけだ。 しかし、よくもまあ、こんな無茶苦茶な設定を思いつき、実行したものです。 誉めてません。 呆れています。 常識を疑うとしか、言いようがありません。

  宮崎駿さんが、変なものを作り始めたのは、これが最初ではなく、≪ハウルの動く城≫は、何が言いたいのか分かりませんでしたし、≪崖の上のポニョ≫は、珍作としか言えず、「そろそろ、引退した方がいいのでは?」と囁かれていた頃に、この、≪風立ちぬ≫で、思いっきり、「やっちまった」わけです。 「晩節を汚す」とは、正に、この事で、どうにもこうにも、フォローのしようがありません。 元は、雑誌に漫画として連載していたのを、プロデューサーの勧めで、最後の監督作品にする事になったらしいですが、プロデューサーもプロデューサーで、発想がおかしい事に気づかなかったんでしょうか?

  そういや、テレビ放送の話ですが、≪風立ちぬ≫の前の週に、≪ポニョ≫を放送していました。 二週連続、宮崎駿監督作品放送企画で、≪風立ちぬ≫への期待を盛り上げる為に引っ張り出して来たわけですが、なんだってまた、≪ポニョ≫にしたんだか、理解に苦しみます。 そもそも、この下ないくらい、出来が悪い上に、街が海に沈む話ですぜ。 東日本大震災から、まだ、5年も経っておらず、大津波の凄まじい映像が、人々の記憶に生々しいというのに、よくも、≪ポニョ≫を放送できたものです。 「そろそろ、ほとぼりが冷めたろう」とでも思ったんですかね? ほとほと、気が知れぬ。 ≪紅の豚≫にしておけば、まだ、≪風立ちぬ≫と馴染みが良かったものを・・・。


  話を、≪風立ちぬ≫に戻しますが、全体を見ると、駄目駄目なわけですが、部分を見るなら、また、話は違って来ます。 概ね、前半は、未来に希望を感じさせる雰囲気で、ワクワクさせ、自然に、観客を引き込んで行きます。 夢の世界の案内役になる、イタリア人技師、カプローニ氏は、この作品のベスト・キャラですな。 カプローニ氏が出て来ると、ほっとします。 軍用機よりも、旅客機の方に興味が強いという設定が、イメージを明るくしているのです。 ちなみに、この人も、「ジョバンニ・バチスタ・カプローニ」という、実在の人物。

  主人公の友人で、後に同じ会社に入る事になる、本庄氏との、学生生活や私生活の様子も、細かく描き込まれていて、つい、見入ってしまいます。 主人公より、本条氏の方が、キャラが立っていますな。 一癖ありそうな表情も、面白い。 この、「本庄季郎」という人も、実在の人物で、戦闘機よりも大型の、攻撃機(爆撃機)を開発していた人。 作中には、「九六式陸上攻撃機」が出て来ますが、「一式陸上攻撃機」の方が、いろいろな意味で有名です。

  ところで、主人公はもちろんですが、実在の人物については、製作に当たって、子孫の方の了解を得たんですかね? もし、私が子孫だったら、自分の父親や祖父の人格が、半分、創作された話の登場人物として使われるのには、大きな抵抗感を覚えます。 それは、つまり、実在した本人とは別人格になるわけで、中途半端に、名前を貸すだけになり、故人の冒涜になってしまうのではないかと恐れるからです。 もし、こういう事に許可を出せる資格がある者がいるとしたら、それは、本人だけなのかも知れません。

  関東大震災の場面は、大変な迫力です。 実写映画で、地震の場面というと、カメラやセットを揺らしたり、家を何軒か倒壊させるくらいが関の山ですが、アニメだと、どれだけ、表現の自由が利くか、その、お手本みたいな映像になっています。 町全体の家並みが、跳ね上がってから崩れ落ちたり、線路が波打つ様子は、実に、凄まじい。 もっとも、実写でも、CGを使えば、できるのですがね。

  ああ・・・、それで気づきましたが、日本のアニメが斜陽になったのは、やはり、CG技術の発達で、実写の表現力が、大幅に上がった事と関連しているんでしょうなあ。 二昔前くらいまでは、アニメでなければ描けない事が多かったから、アニメに人気があったのであって、実写CGで、何でも行けるとなれば、アニメの存在意義が翳るのも致し方ないところです。 結局、アニメは、実物を写しているに過ぎないわけですから。 もっとも、日本映画に限っては、CG技術は、未だに、驚くほど、低レベルですけど。

  ちょっと、気になったのは、大震災の場面で、列車から逃げる時に、「機関車が爆発する」と、人々が言っているのに対し、主人公が、いかにも、技術者然と落ち着き払って、「馬鹿なことを。 機関車は爆発なんかしない」と否定します。 しかし、この見解は、間違っています。 蒸気機関ですから、汽罐の爆発が起こっても、別段、不思議ではありません。 汽車が普通に使われていた時代には、汽罐の爆発事故は、日常的なもので、年に一人は、死者が出ていたというのを、エンジンの歴史を書いた本で読んだ事があります。 主人公は、何を根拠に、爆発しないといっているのか、いや、それ以前に、なぜ、この場面で、そんなセリフが必要なのかが、よく分かりません。

  この時、足を骨折するのが、ヒロインに同行していた、使用人の女性なのですが、主人公は、その女性を背負って、安全な所まで逃げます。 だけど、どうせ、創作場面なのですから、足を折るのは、ヒロイン当人にした方が、主人公との絆が出来て、後の再会の伏線として、より、効果的だったんじゃないですかね? 私はまた、この使用人の女性の方と、ロマンスが発生するのかと思ってしまいましたよ。 単に、神社の境内に独りで残すのが、お嬢様の方では都合が悪いから、使用人の方にしたんでしょうか? なんだか、よく分からん事が多いのう。

  最後に、最も違和感が強かったのは、キス・シーンです。 後半に、何度も出て来ます。 戦前の話とは思えないくらい、こんなに必要ないんじゃないかと思うくらい、頻繁に交わされる。 ところがねえ、このヒロイン、結核なんですよ。 初キッスの時点で、すでに、二人とも、それを承知しています。 不自然なほどの頻度から考えて、つまり、「主人公は、結核がうつる事なんか、全く気にしていないのだ。 それくらい、彼女を愛しているのだ」という事を表現したいが為に、わざと入れていると思われるのです。

  だけどねー・・・、結核は、この頃には、治癒率が低い、代表的な、「死病」だったんですよ。 一方は、すでに発病しているわけですから、キスなんか繰り返してたら、感染するのは、まず間違いないところ。 いいんですかね、こういうシーンを入れてしまって? 「当時は、ほとんどの人間が保菌者で、キスしようがすまいが、結核菌は持っていたのだ」という事情も知っていますが、それはそれとして、観客に、感染症に対する誤解を与えてしまいそうで、怖いのです。

  愛情表現にも、超えてはならない一線があると思うのですよ。 いくら、愛情が強くても、エボラ出血熱の患者を抱き締めたり、エイズ患者と、コンドームなしで性交渉するのが、無謀であるのと同じでして、結核患者とキスは、やはり、まずいでしょう。 愛情の美しさよりも、無神経な粗雑さを感じてしまうのです。 病気の美化自体が、どうも、現代風価値観に合いません。 病気で死ぬのは、美しくも、何ともないですよ。 悲惨なだけです。

  キス・シーン以前の問題ですが、高原での二人の接近が、早過ぎませんかね? それより前に、大震災の時に会っているわけですが、上述したように、その時、主人公が背負って助けたのは、使用人の方で、お嬢様の存在は、オマケに過ぎませんでした。 高原で再会して、ほんのちょっと会話して、紙飛行機で遊んだだけで、すぐ、求婚して、OKというのは、あまりにも、急転直下です。

  なんで、そんなに大急ぎになるかというと、言わずと知れた事、二つの話を足しているからです。 小説≪風立ちぬ≫は、過去に何度も映像化されており、単独でも、90分くらい埋めるボリュームがあります。 それだけの分量のエピソードを、堀越氏の伝記に埋め込もうというのですから、125分あっても、まだ、時間が足りぬ。 で、互いの想いが深まる過程に皺寄せが行き、駆け足になってしまったわけです。 だけど、恋愛結婚が稀だった時代である上に、真面目な性格の人物同士ですよ。 そんなに急激に接近するのは、不自然でしょう? 理屈だけで、そう言っているのではなく、見ていて、そう感じてしまうのです。


  主人公の妻という、一人の人間の命の大切さを強調する一方で、主人公の仕事は、戦闘機を作る事でして、その戦闘機で殺される事になる人間の命には、何の頓着も感じていないらしいのは、身勝手さを感じずにはいられません。 普通、伝記の映画化では、主人公の、仕事と私生活の両面を描く事で、物語に奥行きを与えようとするわけですが、この作品では、両者の間に、矛盾が発生していて、観客の方は、主人公に対し、素直に共感していいのかどうか、ためらいが生まれてしまいます。 どだい、戦闘機の設計者と、悲恋を組み合わせるのは、無理があるのです。

  そういや、2001年に、≪パール・ハーバー≫というアメリカ映画がありました。 戦闘機乗りが、真珠湾攻撃で仲間を殺されて、日本に復讐する為に、爆撃機乗りに転向して、ドゥーリトル爆撃隊に加わるという話。 それだけなら、まだ良かったんですが、≪タイタニック≫の大ヒットの後だったものだから、二匹目の泥鰌を狙おうと、恋愛を強引に絡めたせいで、目を背けたくなるような、最低最悪の大失敗作になっていました。 それと同じような、強引な組み合わせの無理無理感に、この作品も覆われているのです。

  この作品、海外では、「主人公が、戦争協力者である事に対して、批判が感じられない」と言われて、ほぼ、無視されてしまったのですが、その、そっけない指摘は、全面的に正しいです。 ゼロ戦に殺された側の人間から見れば、「結核の女房が死んだくらいが、ナンボのもんじゃい! てめーの作った戦闘機で、どれだけの人間が殺されたと思ってるんだ!」という反発しか感じられないでしょう。

  ちなみに、ゼロ戦は、太平洋戦争末期に、特攻機の中心機種になったわけですが、ほとんどが、アメリカ艦隊に到達する前に撃墜されたものの、辿り着いて、体当たりに成功すると、沈没すれば、もちろん、大量の死者を出し、沈没しなかったとしても、甲板上にいたアメリカ兵が、少なくても、数十人、多いと、百人以上、死んだらしいです。 戦闘中は、対空戦闘要員として、甲板上に出ている兵隊が、たくさんいるので、そこへ、爆弾を積んだ飛行機が突っ込むと、そのくらい死者が出てしまうんですな。

  日本では、神風特攻隊というと、必ず、突っ込んだ方の悲劇だけが強調されますが、突っ込まれた方は、少なくとも、操縦士の数十倍の人数が死んでいるのです。 もちろん、その一人一人にも、人生があったわけです。 ゼロ戦の操縦士は、設計者を恨みはしないでしょうが、特攻を受けて、死んだ者や、その遺族は、この映画を見て、主人公の悲恋に、同情は、決して、しないでしょうよ。 話にならんわ。 常識的に考えれば、「怒る」と思います。

  そこでまた、堂々巡りして出て来る問題が、この話が、堀越二郎氏の伝記そのものではなく、大幅に創作が加わっているという点なのです。 明らかに、堀越氏の事績に対して、誤解を増幅するだけだと思うのですが、本当に、子孫の人達は、この映画の製作に、了解を与えたんですかね? そこが、理解し難い。 もっとも、実際の堀越氏自身は、戦闘機の開発に携わった事に、別段、罪の意識を感じていたわけではないようですが。

  その点は、戦前に教育を受けた世代や、その世代を観察して育った世代の日本人なら、説明されずとも、感覚的に分かると思います。 「大日本帝国」に於いて、「帝国臣民」は、「帝国の遂行する聖戦」に協力するのは、当たり前であり、拒絶する人間の方が異常、特例中の特例だったからです。 堀越氏も、他の日本人と同じように、仕事として、戦闘機を開発していたのであって、他の日本人以上に、戦争の犠牲に対して、責任を感じる必要はないと考えていたと思います。 むしろ、生前は一貫して、「名戦闘機の設計者」として、尊敬を受けていたのであって、「悪い事をした」なんて、全く思っていなかったんじゃないでしょうか。

  だけど、それは、日本国内でしか通用しない、ガラパゴス論理です。 ゼロ戦がなくても、堀越氏が戦闘機の開発に携わらなくても、日本が戦争を始め、続行したのは、疑いありませんが、だからといって、戦争推進に積極的に協力していいという事にはなりません。 何もしないという選択肢もあるからです。 してしまった事に、責任が発生するのは、致し方ありませんな。

  映画が公開された時、宮崎駿さんが、主人公の仕事について質問され、「やらないよりは、やった方が良かった」と言っていました。 それは、戦争協力を指していたわけではなく、もっと、一般化して、人生について、「やりたい事をやらないで終わるよりは、やった方が良かった」という意味だったと思うのですが、たとえ、そういう意味であっても、さあ、どんなものでしょうか。

  もし、そういう一般化が許されるのであれば、チンギス・ハンや、コルテス、ピサロ、イギリスやフランスの植民地主義者達、豊臣秀吉、ナポレオン、ヒトラー、最も、主人公に近いところでは、大日本帝国のキチガイ軍人ども、更には、オウム真理教など、自分の夢や理想の為に、大量殺人を実行した連中についても、「やりたい事をやらないで終わるよりは、やった方が良かった」という理屈が適用できる事になるのではないですかね? 一般化というのは、怖いものですな。 他人の夢の実現の為に、殺される方は、たまったもんじゃありません。


  そもそも、この映画の企画をOKした時点での、宮崎駿さんに、この種の、慎重な判断が必要とされる問題について、真っ当に考える能力があったかどうかが、疑わしいのです。 ≪ポニョ≫の、ぐじゃぐじゃぶりを思い出すにつけ、そう思わざるを得ません。 誰にでも、加齢と共に、思考能力の衰えはやって来るのであって、名監督、世界的クリエーターだからといって、例外ではありますまい。 黒澤明さんだって、晩年には、大した作品を作れなかったのですから。 ただし、黒澤監督は、晩節を汚すというほど、問題のある作品も、遺しませんでした。

  雑誌に、漫画を連載しているくらいなら、問題なかったのですよ。 読んでいる人間の数が、桁違いに少ないですし、読んでいる人間の種類も限られていますし、宮崎駿さんが、昔から兵器好きだったという事は、知る人ぞ知る事実でしたから。 だけど、それを、劇場用アニメにして、「監督最終作」と銘打って、大々的に公開してしまったら、そりゃ、顰蹙を買いますよ。 「ゼロ戦を前面に出さなければ、ごまかせる」といった、レベルの問題じゃないです。

  立場を逆転させてみれば、分かります。 もし、アメリカで、F6Fヘルキャットの設計主任の伝記を元にした映画が作られ、半分創作で、悲恋と絡めて、「美しい悲劇」として、仕上げてあったとします。 さて、グラマンの機銃掃射から、命からがら逃げまくった日本人が、その映画を見て、感動して、涙を流しますかね? ちなみに、私の父も、戦時中、動員先の工場へ向かう途中、そういう目に遭い、必死で、ガード下まで、駆け込んだらしいですが、たぶん、そんな映画を見たら、鼻で笑うと思いますよ。


  ところで、

「そこまで、ボロクソに貶すようなひどさか! 私は、見終わった後、感動で、胸が熱くなったぞ」

  と言う人もいると思います。 だけど、この作品に限っては、「感じ方は、人ぞれぞれだ」といった認め方をするつもりはありません。 そういう人達は、勘違いをしているのです。 あなた方の胸を熱くしたのは、アニメ≪風立ちぬ≫ではなくて、小説≪風立ちぬ≫の方の要素です。 ラスト・シーンを見た時の、自分の感情を分析してみれば、その感動の中に、堀越二郎氏の伝記部分が、まるで、関係していない事が分かるはずです。 小説≪風立ちぬ≫を読むか、単独で映画化された作品を見てみれば、主人公が、戦闘機の設計者でなくても、何の問題もなく成り立つ話である事が分ります。 というか、そっちの方が、本物だと言うのよ。

  勘違いした方々に、更に追い討ちをかけますと・・・。 戦前の日本には、「結核文学」というジャンルがありまして、なにせ、代表的な死病だったので、悲劇を盛り上げるには、大変、都合がよく、ちょっと、びっくり呆れるくらい、多くの作家が書いています。 他にも病気はありそうなものですが、喀血の場面が、ビジュアル上、群を抜いて衝撃的なものだから、悲劇の中の病気というと、ほぼ、結核に限定されてしまっていたんですな。 なんともはや、安直、極まりない。

  私の家にある日本文学全集には、そんな小説ばかり入っていましたが、読んでいるだけで、こっちまで、胸がぜいぜい苦しくなるわ、口の中の肉を噛んで、血が出ただけで、ギョッとするわで、くさくさ、嫌になりました。 なんだってまた、こんなに暗いのかねえ。 という事情で、私は、いつしか、結核文学と分かった時点で、感動停止する癖がついてしまいました。 映画好きの人なら、頷いてもらえると思いますが、同じ、ヒロインの死でも、≪ミリオン・ダラー・ベイビー≫などと比べたら、結核文学を原作にした映画が、いかに安直かが分かろうというものです。