2015/03/29

読書感想文・蔵出し⑩

  前回、書きかけたので、忘れない内に、書いてしまいます。 北海道応援期間中に、向こうで読んだ本の感想です。 応援に行っていた期間は、2013年10月末から、2014年の一月半ばまででした。 暮れ・正月を挟んでいた事が、向こうで本を読む事になった理由に、少し関わって来ます。

  行く前の段階では、私は、「小松・筒井作品 文庫本蒐集計画」の遂行中で、読む本は、手元にいくらもあり、図書館には通っていませんでした。 それが、北海道応援が決まると、赴任先である苫小牧市の図書館について、予め調べ、借りる本のリストまで作って行きました。 そのわけは、まず、手元に読む本があるからと言って、本のように重い物を、北海道まで運んだり送ったりするのは、ナンセンスだと思ったからです。

  会社から支給される宅配便料金の限度額を超え、自腹を切って、プチ引越しかと思うような、大荷物を持ち込んでいる人もいましたが、私に言わせれば、たかだか、2ヵ月半の為に、そんなにお金をかけるのは、勿体ないの一語に尽きます。 私の荷物は、宅配便で送ったのが、120サイズのダンボール箱二つと、あと、キャスター付き旅行鞄を一つ、自分で持っていただけでした。 IHクッキング・ヒーターとか、ビデオ・デッキとか、大物があったので、本なんか入れるゆとりは、全くありませんでした。

  図書館を利用した、もう一つの理由は、応援途中の行き来は旅費が自腹になる関係で、暮れ・正月に沼津へ帰って来る気がなかったので、10日間くらいある年末年始休暇を過ごすのに、向こうで、読む本がなければ、きついだろうと思ったからです。 北海道の冬というと、雪に立て籠められるに違いないから、あちこち遊びに行く事などできないと、決め込んでいたのです。 雪で出かけられないというなら、図書館にも行けない事になりますが、まあ、図書館くらいなら、街なかだから、歩いてでも、何とかなるだろうと、自分に都合のいい予想を立てていたわけです。

  しかし、これらの予想は、いくつか、斑らに外れました。 年末年始休暇は、向こうに行ってから、旅費に会社の福利ポイントが利用できる事が分かり、飛行機のチケットを手に入れて、沼津に帰って過ごす事ができました。 雪の方ですが、苫小牧は、北海道一、雪が少ない地域で、雪のせいで出かけられないという事は、私がいた間中、一回もありませんでした。 一月になってからも、自転車に乗っていたくらいですから。 どこでも、土地の事情というのは、住んでみなければ、分からないものですな。

  苫小牧にも、ブック・オフがある事は、分かっていたので、文庫本蒐集計画も進めるつもりでいましたが、恐らく、未読の本は、ほとんど、手に入らないだろうと踏んでいました。 この予想だけは、的中します。 苫小牧の古本屋で買った本を挙げますと、

≪首都消失 下巻≫ (ハルキ文庫)
≪アメリカの壁≫ (ケイブンシャ文庫)
≪さよならジュピター 上巻≫ (ケイブンシャ文庫)
≪小松左京ショートショート全集①≫ (ケイブンシャ文庫)

≪将軍が目醒めた時≫ (新潮文庫)
≪馬の首風雲録≫ (文春文庫)
≪ネオ・ヌルの時代 PART2≫ (中公文庫)
≪霊長類 南へ≫ (講談社文庫)

  の、8冊で、この内、未読なのは、≪馬の首風雲録≫と、≪ネオ・ヌルの時代 PART2≫だけでした。 この2冊は、11月3日に、「ブックオフ・苫小牧柳町店」で、同時に買い、すぐに読みましたが、案の定、十日程で、読み終わってしまいました。 で、11月12日が、有給休暇で休みだったので、図書館まで行き、アルツィバーシェフの、≪サーニン≫から借り始めたという流れです。

  細かい事を書きますと、図書カードを作ってもらったのは、もっと前で、11月4日の事。 最初に、苫小牧図書館に行ったのは、更に、その前日の、11月3日だったのですが、カードを作るには、寮の住所が分からないと駄目だと言われ、次の日に出直したんですな。 出直すと言っても、まだ、自転車を手に入れていない頃だったので、寮から図書館まで、一時間も歩かねばならず、大変でした。 4日は月曜日でしたが、この日は「ハッピー・マンデー」という、会社のカレンダー上の休みだったのです。 たぶん、一般世間でも、何かの祭日だったのではないかと思います。

  2010年に、岩手応援に行った時に、金ヶ崎図書館でも、カードを作ってもらいましたが、その時には、寮の住所ではなく、自宅の住所 を訊かれました。 もし、本を返さないまま、来なくなってしまった場合に、問い合わせる先を知りたかったらしいです。 苫小牧の方では、そこまでは考えていない様子で、割と、事務的に手続きが進みました。 苫小牧から離れる時には、また、手続きに来れば、記録を抹消すると言われましたが、図書館のデータから、個人情報が漏れたとしても、どうせ、大した事は書いていないので、知れているだろうと思い、そのまま、カードを持ち帰って来ました。

  借りる本のリストを作って行ったというのは、行く直前に、筒井康隆さんの、≪壊れ方指南≫という本の中に入っている、【耽読者の家】という短編を読み、知られざる名作に興味が湧いたので、作中に出て来る本を書き出し、苫小牧図書館のサイトで、検索をかけて、ある本を確かめておいたのです。 10作品くらいは、調べておいたのですが、実際に読めたのは、三作品だけでした。 観光もしなければならなかったので、時間を捻出できず、長編は、そんなに読めなかったのです。


  で、これから、感想を書くわけですが、なにせ、もう、一年以上、時間が経っているので、細かい事は、覚えていません。 あまり、いい加減な事も書くのも無責任ですから、沼津の図書館にあるものは、見直してみましたが、長編は、とても読み直せないので、パラパラめくって、大体のストーリーを思い出した程度。 冊数も、かなりある事ですし、テキトーに、ざーっと片付けますが、あしからず。



≪馬の首風雲録≫

文春文庫
文芸春秋 1980年(初版発行)
筒井康隆 著

  筒井康隆さんの、初期の長編。 1966年から、67年にかけて、≪SFマガジン≫に連載されたもの。 大昔ですなあ。 地球暦の24世紀、馬の首星雲にある、犬の顔をした知的生命体が住む惑星と、その隣の殖民惑星を舞台に、国家軍と共和国軍の戦争が、地球人の干渉を受けながら進行する中、「戦争婆さん」と呼ばれる商人の息子四人が、それぞれ、違った形で戦争に関わり、翻弄されていく様子を描いた話。

  いやあ、読んだのが、2013年の11月初旬ですから、1年4ヵ月も経っているわけで、さすがに、記憶が曖昧になっていますなあ。 幸い、この本は、買った物なので、今、手元にあるのですが、簡単に読み直せるほど、短くもなければ、中身が薄くもありません。 この本には、「あとがき」と「解説」があり、そこから、使えそうな所だけ抜き出せば、数段落の感想文くらい、容易にデッチあげられるのですが、それをやったら、評者として自ら首を絞める事になるので、やらない事にして、参考にする程度にしましょう。

  あとがきによると、戦争に関する、筒井さんの全ての思いを投入した作品であるとの事。 筒井さんは、昭和9年生まれで、終戦の年に、やっと、小学5年生。 疎開していたので、空襲も直截には経験していないのではないかと思います。 もちろん、戦場で戦った経験はなし。 なので、この作品を書くにあたり、過去の様々な文学作品や文芸作品をデフォルメして、コラージュしたのだとか。 なるほど、言われてみると、そんな感じです。

  よく言えば、いいとこどり。 悪く言えば、寄せ集め。 参考にした物には、映画も相当、含まれていると思われ、どこかで見たような場面が、基本ストーリーの中に、幾つも嵌め込まれているのが分かります。 読んでいる間中、「似たような世界観の作品を読んだ事があるな」と思っていたんですが、後で、≪虚航船団≫が、それだと気づきました。 ≪虚航船団≫の方が、ずっと後に書かれたのですがね。 そちらが、世界史のパロディーであるのに対し、こちらは、一般的な戦史のパロディーと見る事もできます。

  ただ、≪ベトナム観光公社≫や、≪通いの軍隊≫のような、戦争を茶化すようなパロディーではなく、物語の展開は、至って、真剣。 SFの枠を借りて、架空の戦記を書いたわけです。 90年代に、食い詰めたSF作家どもが飛びついて、日本社会に計り知れない害毒を垂れ流した、「仮想戦記物」とは違い、歴史そのものを創作しているので、現実に存在する、どの国を批判しているとか、どの民族をあてこすっているとか、そういう事は感じられません。

  戦争賛美をしているわけでもなく、戦争批判をしているわけでもなく、起こった事を、客観的に書き記す立ち位置を保っていますが、戦闘場面になると、作者自身が、興奮し、感動し、のめり込んでしまって、「泣きながら書いたのではないか?」と疑われる箇所が、ちらほらあります。 平均的な感性を持った読者なら、貰い泣きするところですが、私の場合、過去に、さんざん、戦記物を読んでいたので、そういう事はなかったです。

  明治以降の日本文学は、ほとんどが、スカですが、唯一、読むに値するカテゴリーがあり、それが、「敗戦文学」です。 実際に、戦場に行っていた人達が、帰って来て、自身の体験を記したもの。 小説とは限らず、日記が多いですが、とにかく、外れがないくらい、凄まじいです。 なにせ、大人と子供くらい力の差がある戦争だったので、負け方も極端で、生きながら地獄を見た兵隊が、うじゃうじゃいて、それを、そのまま書いたものだから、戦場を知らないない人間が読むと、鬼気迫る内容に、戦慄を禁じ得ません。

  そういうのを読んでいると、創作は、やはり、創作の限界を超えられないと感じるのです。 逆に言えば、創作の限界が、最もよく表れてしまうのが、戦記物という事になるでしょうか。 実体験があるかどうかで、内容の濃さが、極端に変わってしまうカテゴリーなんですな。 ≪馬の首風雲録≫は、悪い小説とは言いませんが、戦争について、誤解を深めてしまう読者もいると思うので、あまり、薦めません。 まず、「敗戦文学」を、いくつか読んでからにした方がいいと思います。



≪ネオ・ヌルの時代 PART2≫

中公文庫
中央公論社 1985年
筒井康隆 編

  筒井さんが作った、SF同人誌、≪NULL≫を、10年後に復刊した、≪新 NULL≫で募集した短編やショートショート作品に、筒井さんが寸評を加えたもの。 ≪新 NULL≫は、1975年前後に出版されていたらしいですが、詳しい事は分かりません。 いずれにせよ、今となっては、大昔の事です。 ≪PART2≫の収録作は、一編だけ短編で、あとは全部、ショートショートです。

  ≪PART2≫に関してのみ言えば、よくもまあ、これだけ、駄作ばかり集まったものだと、感心してしまうような陣容でした。 駄作と言うのも、おこがましく、スカ・ゴミと言っても、言い過ぎには程遠い。 私でも、もそっと、マシなものが書けそうな気がしますが、私だったら、このレベルの作品が出来上がったとしても、他人には見せません。 まして、プロの目に曝すなど、連続500回、首を括っても追いつかぬほど、恥ずかしい。

  ≪ショートショートの広場≫収録作と比べると、あまりにも、ひどい。 普通のコンテストなら、編集者による一次選考で落とされるレベルですな。 そんな事は、筒井さんも、劇痛でのた打ち回るほど分かっていたはずですが、同人誌である建前上、落とせなかったのでしょう。 「作品よりも、寸評の方が面白い」と言われたそうですが、そんなのは当たり前でして、そもそも、応募作の方は、小説どころか、文章の書き方も知らないような連中が書いているのですから、筒井さんの寸評に敵う道理がありません。

  ≪PART2≫で、まともな作品と言えるのは、夢枕獏さんの、≪魔性≫だけです。 他が、スカばかりなので、突然、これが出て来ると、びっくりします。 灰とダイヤモンドというか、掃き溜めに鶴というか、そんな存在。 だけど、夢枕獏さんも、≪新 NULL≫のレベルが、どの程度か分っていたら、応募しなかったんじゃないでしょうか。

  その余の方々は、その後、どうなったのか知りませんが、もし、穴を掘って、隠れているのだとしたら、この本が、この世から一掃されてしまうまで、ずっと隠れていた方がいいと思います。 自分で買い集めて、焼き捨てるというのも、有効な処置法ですな。 みんなで手分けしてやれば、死ぬまでには、恥の証拠を、全て、湮滅できるんじゃないでしょうか。



≪サーニン≫

ロシア文学全集 29 ≪アルツィバーシェフ サーニンほか≫
日本ブック・クラブ 1971年
ミハイル・アルツィバーシェフ・他 著
昇曙夢・他 訳

  【サーニン】は、筒井さんの短編、【耽読者の家】に出て来た作品。 この本には、他の作者の作品も入っていましたが、そちらは、読みませんでした。 いや、全部、読む気で借りたんですが、【サーニン】が、思ったほど、面白くなかったので、他を読む気がなくなってしまったのです。 ロシア文学は、ある程度、長さがないと、良さが発揮できない傾向がありますな。

  それらはさておき、【サーニン】です。 都会から、生まれ故郷の町に帰って来た青年が、人生の意味について悩む、同年代の男女の中で、自分の率直な欲求の侭に生きる方針を貫き、友人の恋人と性交渉に及んだり、妹を陵辱して捨てた騎兵大尉を殴りつけたり、やりたい放題やって、直接間接に、自殺する者を続出させた挙句、自ら、町を後にする話。

  お、しまった、これでは、ネタバレになってしまうかな? いや、この本を読もうという人が、そんなにいるとは思えないから、大丈夫かな? まあ、いいか、「ストーリーなんて、小説の価値とは関係ない」と、カート・ボネガットさんも、言っていたし。 なに、そんな事、言ってなかったって? いや、そんなような事を言っていたのです。

  でねー、この小説、1907年の発表当時は、大変な問題作と見做されて、特に、主人公サーニンの、極端な行動優先主義が、「サーニン主義」と呼ばれて、一大流行を巻き起こしたというのです。 あれこれ、理屈を考えるより先に、やりたいと思った事をやってしまうという、陽明学みたいな考え方ですな。 その事で、作品の名が残ったと言っても良いらしいです。 だけど、当時は当時、今は今でして、その間、百年の変化は大きい。 今、読むと、そんなに騒ぐほど、極端な考え方とは思えないんですわ。

  いやいや、百年前であっても、こういう考え方の人は、結構いたと思うんですよ。 一般市民には、珍しかったかも知れませんが、犯罪者の中になら、いくらでもいたはずです。  サーニンが、犯罪者的考え方を持ちながら、犯罪には走らず、あくまで、一般市民として暮らしていたから、そこに、落差が感じられたんでしょうかね? よく、分かりません。 この作品に感動する人というのは、生きて行く上で、自分自身に対して、かなり厳しい戒めを課している人なんじゃないでしょうか。 だから、サーニンが、ぶっとんだ人間に見えるのでしょう。



≪従妹ベット≫

バルザック全集 19
東京創元社 1974年
オノレ・ド・バルザック 著
水野亮 訳

  19世紀のフランスを代表すると言われている文豪、バルザックが、1846年に、新聞連載の形で発表した作品。 小説群、≪人間喜劇≫の中の一編で、更に、≪従妹ベット≫と、≪従兄ポンス≫を合わせて、≪貧しき縁者≫という、セット名が与えられているそうですが、そういう事は一切知らなくても、この小説を読むのに、何の障碍もありません。

  どうも、バルザックという人は、壮大な構想に取り付かれていたらしく、自作を体系化して、登場人物達を密接にリンクさせ、時代そのものを描き取ろうと目論んでいたようなのですが、そういう大風呂敷を広げた人というのは、大抵、道半ばで死ぬものと相場が決まっており、この人も、その例に漏れません。

  それはさておき、≪従妹ベット≫です。 「ベット」というのは、主人公の名前、「リズベット」の略愛称。 婚期をとっくに過ぎた、醜くて貧しい女が、貴族の夫人になった従姉に、以前から嫉妬心を燃やしていたのが、その夫人の娘に、自分が養っていた若い芸術家の男を取られた事で、いよいよブチ切れて、復讐を誓い、とある妖艶な人妻を仲間にして、夫人の夫や、若い芸術家を誘惑させ、夫人の家庭を破壊しようとする話。

  実際には、もっと複雑で、登場人物も多いです。 その夫人の夫というのが、女癖が異様に悪い男でして、この家庭が壊れた理由は、ベットの策謀だけでなく、この夫の性格が大きな原因になっているのではないか?とは、誰もが感じる事だと思います。 夫がそういう人間ですから、夫人の方も、幸せなはずがないのであって、ベットが嫉妬するほど、良い暮らしをしていたわけではないのですが、そこは、ちょっと皮肉なところですな。

  二段組みで、425ページもあり、かなりの長さなんですが、飽きる事がありません。 つまり、面白いのです。 悪意を持った主人公が、密かに策を巡らすという、隠微な雰囲気が、妙に、人の心を魅惑するのです。 もしかしたら、私の性格が、ひねているから、こういう話を面白いと感じるのであって、素直な読者だと、顔を顰めるんでしょうか? 素直な性格になった事がないので、私には分かりません。

  ベットは、一応、主人公ですが、文体は三人称で、ベットの立場に偏って書かれているわけではないで、誰に感情移入して読むかによって、中心人物は変わって来ます。 感情移入と言っても、批判的に見る場合と、共感する場合があり、私は、ベットに共感して読みましたが、夫人に共感した人は、「ベットなんか、主人公じゃない」と思うでしょう。 こういう複雑な人物相関を持つ小説の読み方は、人それぞれになります。

  確かに、面白いとは思うものの、この作品が、「バルザックの最高傑作」と言われると、「え、その程度の人なの?」とも、思ってしまいます。 バルザックから影響を受けたという、トルストイの作品と比べると、題材が下世話な上、作り話っぽくて、まだまだ、前世代の尾を引きずっている感じがします。 ほぼ同時代の人、スタンダールの≪赤と黒≫(1830年)と比べても、16年後に出た小説とは思えないくらい、古臭いです。

  スタンダールと言えば、なんでも、バルザックは、≪パルムの僧院≫(1839年)を絶賛していたそうですが、それは、穿ってみれば、納得できる話でして、≪パルムの僧院≫に比べれば、≪従妹ベット≫の方が、上だと思います。 すなわち、≪パルムの僧院≫を誉めるという事は、「自分の作品は、もっと上だ」と言っている事になるわけだ。 ≪赤と黒≫について、バルザックが、どう思っていたのかは分かりませんが、ほとんど、心理描写だけで成り立つ小説というのが、理解できなかった可能性はありますな。 ≪従妹ベット≫を読むと、物語を作るのが巧い人が、巧いが故に、型に嵌まってしまい、新しい表現を開拓できなかった、そんな感じがするのです。

  あと、人によっては、別段、気にならない事かも知れませんが、私には引っかかる点があります。 終りの方で、妖艶な人妻を殺す為に、ブラジル由来という、ある感染症が使われるのですが、その病名が、はっきり書いてないのです。 恐らく、架空の感染症を創作したものと思われます。 なぜ、架空にしたかというと、まず、毒婦に天罰が下った事を印象付ける為に、想像を絶するくらい、惨たらしい病状が欲しかった。 次に、医者に治されては困るので、現実に存在する病気では、都合が悪かったのでしょう。 だけど、これは、正に、御都合主義としか言いようがないものでして、作品全体を胡散臭いものにしてしまいます。

  地球上に、まだまだ、未知の領域が多く残っていた当時なら、通用したのだと思いますが、今から見ると、非科学的としか思えません。 そういや、コナン・ドイルは、バルザックの小説が嫌いだったそうですが、≪シャロック・ホームズ≫シリーズには、よく、架空の病気を出していますな。 それが、あのシリーズの、数少ない欠点の一つになってしまっているのですが。 半世紀近く後なのに、まだ、通用していたというのが驚き。 19世紀というのは、進歩がゆっくりしていたんでしょう、きっと。



  「テキトーに、ざーっと片付ける」とか何とか、大きな口を叩いておきながら、随分、長くなってしまったので、二回に分けます。 面目次第もない。 なにせ、引退者の身で、毎日毎日、弩閑ぶっ託っているので、一旦、書き始めると、知らず知らず、長くなってしまうのです。 これは、一種の病気ですな。 しかし、こんなに、長々と文章を書き連ねても、私が死んでしまえば、みんな、ネットの海に沈んで、消えて行くんだろうなあ。 無駄なエネルギーである事よ。

  次回こそは、テキトーにやっつけますから、期待していて下さい。 読んでから時間が経っていると、印象が磨耗して、感想の中身まで薄くなる事が、今回の経験で、何となく掴めましたから、たぶん、大丈夫です。 なにせ、内容を全く覚えていない本もあるくらいですから、絶対の自信があります。


  ところで、書籍情報の発行年についてですが、≪馬の首風雲録≫と、≪ネオ・ヌルの時代 PART2≫は、手元にある本を見たから、正確です。 ≪従妹ベット≫は、同じ本が、沼津の図書館にあり、それを確認したから、これも正確。 問題は、≪サーニン≫で、沼津では蔵書がなくて、苫小牧図書館のオンライン・データに拠ったので、そちらが間違っていたら、それまでです。

  なぜ、疑うのかというと、≪従妹ベット≫の方が、沼津図書館の現物では、1974年になっているのに、苫小牧のデータの方では、1979年になっているからです。 打ち込み間違いなのか、苫小牧にある本が重版されたもので、そちらの発行年を打ったのかは、不明。 ちなみに、アマゾンでは、1974年になっていました。 前回も書きましたが、データが食い違っている場合、どれを信用していいのか分からないのが、いっちばん、困る。 こればっかりは、多数決で多い方を取る、というわけにも行きません。

  考えてみると、本が出版された年なんて、作品そのものとは無関係ですから、省いてしまってもいいんですが、今まで添えて来たのに、ここへ来てやめるのも、何となく、自分に対して妥協しているような、嫌な感じがするのです。 どうも、歳を取ると、変なところに、拘りが出来て、いけません。