読書感想文・蔵出し⑨
今回も、読書感想文です。 ≪未成年≫は、2013年6月に読んだもの。 その後、私は、「小松・筒井作品、文庫分収集計画」に着手し、図書館とは、しばらく、縁が切れます。 それ以外の三冊は、一年間以上、飛んで、2014年7月に、読んだ本です。 実は、その間にも、買い入れた、小松・筒井作品を、何冊も読んでいるんですが、感想文を書かなかったから、出せないという事情。 なにせ、文庫本蒐集計画に続いて、北海道応援、岩手異動と、厄介事が続き、バタバタしまくって、感想文を書く気分になれなかったのです。
≪未成年≫
ドストエーフスキイ全集 11
河出書房新社 1969年
ドストエススキー 著
米川正夫 訳
河出書房新社の≪ドストエフスキー全集 11巻≫に収められている、2段組600ページの長編。 順番的に言えば、≪悪霊≫の4年後、≪カラマーゾフの兄弟≫の5年前に書かれたもので、ドストエフスキー・後期五大長編の一つだそうです。
貴族の実父を持ちながら、母親が戸籍上、別の男の妻だったために、私生児として、施設に預けられて育った青年が、秘書として形式的に勤めていた、実父の友人の老公爵の家で、遺産相続に関わる秘密の手紙を手にしてしまい、老公爵の娘と、老公爵と結婚しようとしている自分の異腹の姉の間で、振り回される話。
いや、実際には、もっと複雑で、このあらすじは、一番外側の枠を説明したに過ぎないのですがね。 主人公の青年が、題名の未成年でして、中学(現代日本で言えば、高校も含む)は卒業したけれど、大学へはまだ行っていないという年齢。 彼の一人称で物語が語られるのですが、この作品の場合、語り手が、同時に、主人公でもあります。
ところが、巻末に添えられていた訳者による解説を読んだら、「主人公は、青年の実父」と書いてあって、仰天しました。 さすがに、それはないでしょう! これだけ、語り手が自分の事を中心に語っていれば、余人が主人公という見方は、穿ち過ぎているとしか思えません。 青年の実父は、確かに、作中で最も注目に値するキャラクターで、露出も多いですが、主人公と見るには、話の中心軸から、ずれ過ぎています。
で、主人公の青年ですが、正直な感想、「こいつ、アホちゃうか?」というような人物でして、やる事なす事、語る事、全て、奇矯というか、突拍子もないというか、人格に尋常さが感じられません。 他の人物からは、「まだ、子供だから」というような扱いをされているのですが、いやいやいや、もう、仕事をするような年齢になっているのに、こんなに落ち着きがない気質では、この先、一生、もう変わりゃしないでしょう。
≪白痴≫の主人公は、その実、馬鹿でも何でもなく、ただ、純粋な心を持っているだけの人物でしたが、この≪未成年≫の主人公には・・・、いや、彼にこそ、「馬鹿」という形容が、ぴったり当て嵌まります。 ≪白痴≫で、馬鹿を描き切れなかった作者が、≪未成年≫で、捲土重来を期したのではないかと思うくらいです。 どうして、そんなに、馬鹿に拘るのか、その点は理解し難いですが・・・。
軽薄で、口が軽く、相手が誰でも、秘密でも何でも、べらべら喋ってしまう。 生業がなく、借金があるくせに、賭博狂い。 その割に洒落者で、外見を着飾り、綺麗な女にはすぐに言い寄る。 更に、恐喝を業とする、ろくでもない友人がいる。 ・・・というだけでも、充分有害ですが、最も始末が悪い事には、生半可で皮相な教養があるため、他人に持論をぶつけて、やりこめるのが大好きという、もう、救いようのない、馬鹿さ加減。
この物語は、老公爵の遺産相続を巡る事件が解決してから、半年後に、過去を振り返って書かれたという形式になっており、主人公は頻りに、当時、自分の取った行動・言動を反省し、恥じ入っているのですが、なーに、こんな人間の性格が、半年ばっか経ったくらいで、直るわけがないのであって、書いている時にも、依然として、つける薬のない馬鹿だったに相違ありません。
主人公の実父ですが、この人も、相当には問題がある人物で、女癖が悪く、あちこちに私生児を作っている模様。 終わりの方になって、唐突に老公爵の娘に言い寄る場面など、何だか取って付けたようで、作者が、プロットをちゃんと考えていたのか、疑いたくなります。
この実父に関しては、最後まで、どういう人間なのか、理解の限度を越えます。 なにやら、二重人格を仄めかすような事も、終りの方で書かれていますが、それならそうと、もっと、早い段階で知らせてくれなくては・・・。 いや、二重人格であったとしても、なぜ、この物語に、そういう人物が必要だったのか、説明はつかないのですが・・・。
女性は、主要なところで、5・6人出て来ますが、タチヤナという、主人公の伯母さんが、一番、性格がはっきりしています。 ドストエフスキーは、若い女性というと、みんな、聡明な美人にしてしまう傾向がありますが、彼女らは、判で押したようなキャラで、ちっとも面白くありません。 歳が行った女性に対する観察眼の方が、遥かに優れていたんでしょうねえ。
馬鹿が語り手なので、話も、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだり、目まぐるしく舞台が変わり、展開の先読みを許してくれません。 しかし、いろいろと、引っ掛かる所は多いものの、話自体は、≪白痴≫よりは、面白いです。 馬鹿を馬鹿として、完璧に描き切っている点が、明快で宜しい。 ≪悪霊≫よりは、幾分、劣るでしょうか。 スチェパン氏のように、好感が持てる人物が出ていないと、長編で読者の興味を引き続けるのは、難しいですな。
ドストエフスキーの小説は、ストーリーだけ知っても意味がなく、膨大な量のセリフに盛り込まれた、≪思想≫を読み解く事で、真の価値が味わえるのかもしれません。 ちなみに、ドストエフスキーの作品を映画化すると、セリフだらけになって、およそ、不自然な会話になります。 ある意味、小説という形でしか、表現できない内容と言えるかもしれませんな。
≪都市と星≫
ハヤカワ文庫 SF
早川書房 2009年
アーサー・C・クラーク 著
酒井昭伸 訳
≪2001年宇宙の旅≫の原案者、アーサー・C・クラークさんの初期の代表作。 遥か未来、宇宙に進出した地球人は、銀河帝国を作るほど繁栄した後、侵略者との戦争に負けて、地球に逃げ帰り、常に10万人だけが暮らす都市に籠って、10億年の時を過ごすが、ある時、外の世界を知りたい衝動に駆られた青年が、都市創成期に作られた通路から外へ出て、超能力者達の村を見つけ、更に、帝国時代に作られた宇宙船に乗って、銀河を巡り、地球人が宇宙から撤退した、真の理由を知る。 ・・・という話。
こう書いても、「壮大な話らしいな」という以外、何も伝わらないと思いますが、実際そうでして、私は、小松左京さんの、≪天変地異の黙示録≫という新書本の中にある、ユートピアについて論じた章の中で、この作品の存在を知ったんですが、そこでは、もっと詳しく紹介されていたものの、「とにかく、壮大な話らしい」という事しか受け取れませんでした。
実際に読んでみたところ、小松さんが高く評価しているだけあって、確かに面白いです。 テーマが深遠である一方で、クラークという人は、読み易く、分かり易い語り口を身上にしているため、読者の興味を小刻みに引っ張っていく技術に長けていて、どんどん、ページが進みます。 読み始めると、止まらなくなって、時間が経つのも忘れ、一気に最後まで読んでしまうという類の本なのです。
ただ、物語全体を見渡すと、そんなに出来のいい話とは言えません。 都市を脱出し、超能力者達の村まで行くだけでも、冒険物として、充分に面白いのに、そこから更に、宇宙船に乗って、銀河の中心まで行ってしまうというのは、舞台の広げ過ぎとしか思えません。 そういう事をやってしまうと、相対的に、前半の冒険が、取るに足らない事のように見えて、白けてしまうのです。 クラークさんの小説は、他のも、みんな、似たような欠点を持っていて、「アイデアは一流、ストーリーは二流」になってしまっています。
追求しているテーマも、大き過ぎ。 つまり、欲張り過ぎ。 人類が、「純粋な精神」を作出する件りなど、都市とも星とも、まるで関係ないと思うのですが、どうしてこう、余計な物を出すかなあ? 一つの物語を作りたいというより、その時、頭の中に思いついていたアイデアを、手当たり次第、全部盛り込んでしまったという感じがします。 いいのか、これで・・・。
登場する「都市」は、小松さんが指摘しているように、ユートピアの究極の姿としては、興味深いのですが、それと、作品全体の完成度とは、また、別の話でして、「自ら作った殻を、打ち破っていくのが、人類だ」といった、青臭い結論では、現実に、人類文明の限界が見えつつある現代では、説得力があるメッセージにはなり得ないでしょう。 一度、殻を打ち破ったって、どうせ、また、殻を作るのなら、同じ事の繰り返しではありませんか。
≪幼年期の終り≫
ハヤカワ・SF・シリーズ
早川書房 1964年
アーサー・C・クラーク 著
福島正実 訳
これも、アーサー・C・クラークさんの初期の長編。 ≪都市と星≫が、1956年であるのに対し、こちらは、1953年で、少し早いですが、≪都市と星≫の原型になった≪銀河帝国の崩壊≫は、1953年に発表されていて、同じ年です。 しかし、≪幼年期の終り≫にも、原型になった≪守護天使≫という短編があり、それは、1946年に書かれたとの事。 大昔ですなあ。 話の内容は、未来なんですが。
米ソによる、宇宙進出競争が始まろうとしていた時、突如現れた、圧倒的な科学力を持つ宇宙人に征服された人類が、百数十年に及んだ支配の後、それが、支配ではなく、人類の進化を見守るための、保護だった事を知る話。 ・・・ちょっと、違うか? でも、まあ、そんなところです。 些か、ネタバレ気味ですが、今や、日本では、SFの地位は、地底に堕ちた感があり、目くじら立てて怒る人もいないでしょう。
SFファンの間では、「クラーク作品のベスト」との評価を得ているとの事。 しかし、そのSFファンというのが、どの国のファンの事なのかと、首を傾げてしまうのは、私がキリスト教徒ではなく、この作品に出て来る、「悪魔の姿」という設定が、ピンと来ないからでしょう。 その点で、未来SFでありながら、世界中の誰にでも通用する作品にはなっていません。
人類の進化がテーマなわけですが、進化と言っても、ダーウィンの進化論的な進化ではなく、人類のある世代に、突如として起こる、「変化」に過ぎず、なぜ、そんな変化が起きたかについて、説明が足りないので、御都合主義的な臭いが漂わずにはいられません。 作品の中で、最も重要な部分が、御都合主義というのは、相当まずいでしょう。 百数十年ではなく、10万年くらい、期間を取ってくれれば、まだ、説得力があるんですがねえ。
この作品が書かれた頃の、イギリスのSFは、深遠なテーマを扱ったものが多く、評価も高いのですが、なまじ、深遠なばかりに、「人類の進化」などという、今となっては、戯言としか思えない事が、真顔で語られていると、「先が読めとらんのう・・・」と、SFの巨匠達の蒙昧さを嘆かざるざるを得ないのです。
≪夏への扉≫
ハヤカワ文庫 SF
早川書房 2010年
ロバート・A・ハインライン 著
福島正実 訳
これは、アメリカのSF作家、ロバート・A・ハインラインさんの、1957年の長編。 共同経営者と自分の婚約者に騙されて、会社を乗っ取られたロボット技術者が、冷凍睡眠で、未来へ送られたり、ある学者が密かに発明したタイム・マシンで過去に戻ったりして、最終的に幸福な人生を実現しようとする話。
「夏への扉」という題名は、主人公が飼っている猫が、冬の間、家の中にあるドアのどれかが、夏に通じていると信じて、それらを片っ端から開けたがるから、という設定からつけられたものですが、実のところ、この作品に於いて、猫は、大して重要な役割を担っておらず、主人公の窮地を一度救うだけで、後は、飾り的小道具に使われているだけです。 いかにも、アメリカ人的に、「洒落た題名をつけてみました」という程度の事。
テーマはなし。 「冷凍睡眠」、「タイム・マシン」、「ロボット」という、SFの三種の神器を使って、二匹の蛇が、絡み合いながら、互いの尻尾を飲み込んでいくような、くるくるっと纏まった話を作っただけです。 ストーリー構成に敏感な人は、すぐに気づくと思うのですが、この話、復讐譚として始まるのに、そちら線は、途中で消えてしまい、後半の主人公は、単に、時間上の辻褄を合わせるためだけに、行動します。 ストーリーを完結させる為だけに、ストーリーが進行するのです。 誰も乗っていない駕籠を担いで、えっほえっほ運んでいる感じ。
この作品、日本では、「ハインライン作品のベスト」という事になっているのに対し、日本以外では、さほど高い評価を受けていないそうですが、何となく、分かるような気がします。 日本人は、こういう、タイム・トラベルで人生が変わって行くパターンの話が好きなんですな。 映画の≪バック・トゥ・ザ・フューチャー≫や≪時をかける少女≫は代表格ですが、テレビ・ドラマでも、過去のある時点に戻って、人生をやり直すなんてアイデアの話が、ほとんど同じ趣向なのに、飽きられもせず、繰り返し繰り返し、作られています。
私も日本人なので、そういうのを面白いと感じる気持ちは分かるのですが、SF設定を使っただけの話と、テーマを持つ、本物のSFの区別はつけた方がいいと思います。 ベストに選ぶような話ではありますまい。
以上、4冊、4作品です。 ≪未成年≫の記憶は、随分、遠くなってしまいましたが、SF三作は、退職後、沼津に帰ってから、暇に飽かせて読んだので、思い出すと、妙に、充実した気分になります。 やっぱり、心のゆとりは、大切なんですなあ。
う・・・、つまらない事を思い出してしまった。 ≪未成年≫から、SF三作までの一年ちょいの間に、小松・筒井作品以外にも、読んだ本がありました。 北海道応援に行っていた間、苫小牧の図書館で、カードを作ってもらい、何冊か借りて、読んでいたのです。 北海道応援は、仕事の方が、さほど苦しくなかったので、私生活にもゆとりがあり、読書も結構、捗ったのですよ。 古本屋で買った本も含めると、
≪馬の首風雲録≫ 筒井康隆
≪ネオ・ヌルの時代 PART2≫
≪従妹ベット≫ バルザック
≪サーニン≫ アルツィバーシェフ
≪ボバリー夫人≫ フローベール
≪シャベール大佐≫ バルザック
≪三銃士 下巻≫ 大デュマ
≪仮面の男 抄訳≫ 大デュマ
≪スキャナー・ダークリー≫ フィリップ・K・ディック
ヒイイッ! 思った以上に多いではないか! これらを無視すべきか否か・・・。 読んだ後の印象を覚えているので、感想文が書けないではないですが、こんなにあるんじゃ、ちっと、勘弁して欲しいっすねー。 とりあえず、今回は見送るとして、どうするかは、いずれ考えます。 やっぱ、感想文は、読んだ後、すぐに書かなければ、駄目なんですねえ。 といっても、応援先だと、パソコンがなくて、日記も手書きしていたくらいですから、感想文まで書く気にならなかったんですよ。
≪未成年≫
ドストエーフスキイ全集 11
河出書房新社 1969年
ドストエススキー 著
米川正夫 訳
河出書房新社の≪ドストエフスキー全集 11巻≫に収められている、2段組600ページの長編。 順番的に言えば、≪悪霊≫の4年後、≪カラマーゾフの兄弟≫の5年前に書かれたもので、ドストエフスキー・後期五大長編の一つだそうです。
貴族の実父を持ちながら、母親が戸籍上、別の男の妻だったために、私生児として、施設に預けられて育った青年が、秘書として形式的に勤めていた、実父の友人の老公爵の家で、遺産相続に関わる秘密の手紙を手にしてしまい、老公爵の娘と、老公爵と結婚しようとしている自分の異腹の姉の間で、振り回される話。
いや、実際には、もっと複雑で、このあらすじは、一番外側の枠を説明したに過ぎないのですがね。 主人公の青年が、題名の未成年でして、中学(現代日本で言えば、高校も含む)は卒業したけれど、大学へはまだ行っていないという年齢。 彼の一人称で物語が語られるのですが、この作品の場合、語り手が、同時に、主人公でもあります。
ところが、巻末に添えられていた訳者による解説を読んだら、「主人公は、青年の実父」と書いてあって、仰天しました。 さすがに、それはないでしょう! これだけ、語り手が自分の事を中心に語っていれば、余人が主人公という見方は、穿ち過ぎているとしか思えません。 青年の実父は、確かに、作中で最も注目に値するキャラクターで、露出も多いですが、主人公と見るには、話の中心軸から、ずれ過ぎています。
で、主人公の青年ですが、正直な感想、「こいつ、アホちゃうか?」というような人物でして、やる事なす事、語る事、全て、奇矯というか、突拍子もないというか、人格に尋常さが感じられません。 他の人物からは、「まだ、子供だから」というような扱いをされているのですが、いやいやいや、もう、仕事をするような年齢になっているのに、こんなに落ち着きがない気質では、この先、一生、もう変わりゃしないでしょう。
≪白痴≫の主人公は、その実、馬鹿でも何でもなく、ただ、純粋な心を持っているだけの人物でしたが、この≪未成年≫の主人公には・・・、いや、彼にこそ、「馬鹿」という形容が、ぴったり当て嵌まります。 ≪白痴≫で、馬鹿を描き切れなかった作者が、≪未成年≫で、捲土重来を期したのではないかと思うくらいです。 どうして、そんなに、馬鹿に拘るのか、その点は理解し難いですが・・・。
軽薄で、口が軽く、相手が誰でも、秘密でも何でも、べらべら喋ってしまう。 生業がなく、借金があるくせに、賭博狂い。 その割に洒落者で、外見を着飾り、綺麗な女にはすぐに言い寄る。 更に、恐喝を業とする、ろくでもない友人がいる。 ・・・というだけでも、充分有害ですが、最も始末が悪い事には、生半可で皮相な教養があるため、他人に持論をぶつけて、やりこめるのが大好きという、もう、救いようのない、馬鹿さ加減。
この物語は、老公爵の遺産相続を巡る事件が解決してから、半年後に、過去を振り返って書かれたという形式になっており、主人公は頻りに、当時、自分の取った行動・言動を反省し、恥じ入っているのですが、なーに、こんな人間の性格が、半年ばっか経ったくらいで、直るわけがないのであって、書いている時にも、依然として、つける薬のない馬鹿だったに相違ありません。
主人公の実父ですが、この人も、相当には問題がある人物で、女癖が悪く、あちこちに私生児を作っている模様。 終わりの方になって、唐突に老公爵の娘に言い寄る場面など、何だか取って付けたようで、作者が、プロットをちゃんと考えていたのか、疑いたくなります。
この実父に関しては、最後まで、どういう人間なのか、理解の限度を越えます。 なにやら、二重人格を仄めかすような事も、終りの方で書かれていますが、それならそうと、もっと、早い段階で知らせてくれなくては・・・。 いや、二重人格であったとしても、なぜ、この物語に、そういう人物が必要だったのか、説明はつかないのですが・・・。
女性は、主要なところで、5・6人出て来ますが、タチヤナという、主人公の伯母さんが、一番、性格がはっきりしています。 ドストエフスキーは、若い女性というと、みんな、聡明な美人にしてしまう傾向がありますが、彼女らは、判で押したようなキャラで、ちっとも面白くありません。 歳が行った女性に対する観察眼の方が、遥かに優れていたんでしょうねえ。
馬鹿が語り手なので、話も、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだり、目まぐるしく舞台が変わり、展開の先読みを許してくれません。 しかし、いろいろと、引っ掛かる所は多いものの、話自体は、≪白痴≫よりは、面白いです。 馬鹿を馬鹿として、完璧に描き切っている点が、明快で宜しい。 ≪悪霊≫よりは、幾分、劣るでしょうか。 スチェパン氏のように、好感が持てる人物が出ていないと、長編で読者の興味を引き続けるのは、難しいですな。
ドストエフスキーの小説は、ストーリーだけ知っても意味がなく、膨大な量のセリフに盛り込まれた、≪思想≫を読み解く事で、真の価値が味わえるのかもしれません。 ちなみに、ドストエフスキーの作品を映画化すると、セリフだらけになって、およそ、不自然な会話になります。 ある意味、小説という形でしか、表現できない内容と言えるかもしれませんな。
≪都市と星≫
ハヤカワ文庫 SF
早川書房 2009年
アーサー・C・クラーク 著
酒井昭伸 訳
≪2001年宇宙の旅≫の原案者、アーサー・C・クラークさんの初期の代表作。 遥か未来、宇宙に進出した地球人は、銀河帝国を作るほど繁栄した後、侵略者との戦争に負けて、地球に逃げ帰り、常に10万人だけが暮らす都市に籠って、10億年の時を過ごすが、ある時、外の世界を知りたい衝動に駆られた青年が、都市創成期に作られた通路から外へ出て、超能力者達の村を見つけ、更に、帝国時代に作られた宇宙船に乗って、銀河を巡り、地球人が宇宙から撤退した、真の理由を知る。 ・・・という話。
こう書いても、「壮大な話らしいな」という以外、何も伝わらないと思いますが、実際そうでして、私は、小松左京さんの、≪天変地異の黙示録≫という新書本の中にある、ユートピアについて論じた章の中で、この作品の存在を知ったんですが、そこでは、もっと詳しく紹介されていたものの、「とにかく、壮大な話らしい」という事しか受け取れませんでした。
実際に読んでみたところ、小松さんが高く評価しているだけあって、確かに面白いです。 テーマが深遠である一方で、クラークという人は、読み易く、分かり易い語り口を身上にしているため、読者の興味を小刻みに引っ張っていく技術に長けていて、どんどん、ページが進みます。 読み始めると、止まらなくなって、時間が経つのも忘れ、一気に最後まで読んでしまうという類の本なのです。
ただ、物語全体を見渡すと、そんなに出来のいい話とは言えません。 都市を脱出し、超能力者達の村まで行くだけでも、冒険物として、充分に面白いのに、そこから更に、宇宙船に乗って、銀河の中心まで行ってしまうというのは、舞台の広げ過ぎとしか思えません。 そういう事をやってしまうと、相対的に、前半の冒険が、取るに足らない事のように見えて、白けてしまうのです。 クラークさんの小説は、他のも、みんな、似たような欠点を持っていて、「アイデアは一流、ストーリーは二流」になってしまっています。
追求しているテーマも、大き過ぎ。 つまり、欲張り過ぎ。 人類が、「純粋な精神」を作出する件りなど、都市とも星とも、まるで関係ないと思うのですが、どうしてこう、余計な物を出すかなあ? 一つの物語を作りたいというより、その時、頭の中に思いついていたアイデアを、手当たり次第、全部盛り込んでしまったという感じがします。 いいのか、これで・・・。
登場する「都市」は、小松さんが指摘しているように、ユートピアの究極の姿としては、興味深いのですが、それと、作品全体の完成度とは、また、別の話でして、「自ら作った殻を、打ち破っていくのが、人類だ」といった、青臭い結論では、現実に、人類文明の限界が見えつつある現代では、説得力があるメッセージにはなり得ないでしょう。 一度、殻を打ち破ったって、どうせ、また、殻を作るのなら、同じ事の繰り返しではありませんか。
≪幼年期の終り≫
ハヤカワ・SF・シリーズ
早川書房 1964年
アーサー・C・クラーク 著
福島正実 訳
これも、アーサー・C・クラークさんの初期の長編。 ≪都市と星≫が、1956年であるのに対し、こちらは、1953年で、少し早いですが、≪都市と星≫の原型になった≪銀河帝国の崩壊≫は、1953年に発表されていて、同じ年です。 しかし、≪幼年期の終り≫にも、原型になった≪守護天使≫という短編があり、それは、1946年に書かれたとの事。 大昔ですなあ。 話の内容は、未来なんですが。
米ソによる、宇宙進出競争が始まろうとしていた時、突如現れた、圧倒的な科学力を持つ宇宙人に征服された人類が、百数十年に及んだ支配の後、それが、支配ではなく、人類の進化を見守るための、保護だった事を知る話。 ・・・ちょっと、違うか? でも、まあ、そんなところです。 些か、ネタバレ気味ですが、今や、日本では、SFの地位は、地底に堕ちた感があり、目くじら立てて怒る人もいないでしょう。
SFファンの間では、「クラーク作品のベスト」との評価を得ているとの事。 しかし、そのSFファンというのが、どの国のファンの事なのかと、首を傾げてしまうのは、私がキリスト教徒ではなく、この作品に出て来る、「悪魔の姿」という設定が、ピンと来ないからでしょう。 その点で、未来SFでありながら、世界中の誰にでも通用する作品にはなっていません。
人類の進化がテーマなわけですが、進化と言っても、ダーウィンの進化論的な進化ではなく、人類のある世代に、突如として起こる、「変化」に過ぎず、なぜ、そんな変化が起きたかについて、説明が足りないので、御都合主義的な臭いが漂わずにはいられません。 作品の中で、最も重要な部分が、御都合主義というのは、相当まずいでしょう。 百数十年ではなく、10万年くらい、期間を取ってくれれば、まだ、説得力があるんですがねえ。
この作品が書かれた頃の、イギリスのSFは、深遠なテーマを扱ったものが多く、評価も高いのですが、なまじ、深遠なばかりに、「人類の進化」などという、今となっては、戯言としか思えない事が、真顔で語られていると、「先が読めとらんのう・・・」と、SFの巨匠達の蒙昧さを嘆かざるざるを得ないのです。
≪夏への扉≫
ハヤカワ文庫 SF
早川書房 2010年
ロバート・A・ハインライン 著
福島正実 訳
これは、アメリカのSF作家、ロバート・A・ハインラインさんの、1957年の長編。 共同経営者と自分の婚約者に騙されて、会社を乗っ取られたロボット技術者が、冷凍睡眠で、未来へ送られたり、ある学者が密かに発明したタイム・マシンで過去に戻ったりして、最終的に幸福な人生を実現しようとする話。
「夏への扉」という題名は、主人公が飼っている猫が、冬の間、家の中にあるドアのどれかが、夏に通じていると信じて、それらを片っ端から開けたがるから、という設定からつけられたものですが、実のところ、この作品に於いて、猫は、大して重要な役割を担っておらず、主人公の窮地を一度救うだけで、後は、飾り的小道具に使われているだけです。 いかにも、アメリカ人的に、「洒落た題名をつけてみました」という程度の事。
テーマはなし。 「冷凍睡眠」、「タイム・マシン」、「ロボット」という、SFの三種の神器を使って、二匹の蛇が、絡み合いながら、互いの尻尾を飲み込んでいくような、くるくるっと纏まった話を作っただけです。 ストーリー構成に敏感な人は、すぐに気づくと思うのですが、この話、復讐譚として始まるのに、そちら線は、途中で消えてしまい、後半の主人公は、単に、時間上の辻褄を合わせるためだけに、行動します。 ストーリーを完結させる為だけに、ストーリーが進行するのです。 誰も乗っていない駕籠を担いで、えっほえっほ運んでいる感じ。
この作品、日本では、「ハインライン作品のベスト」という事になっているのに対し、日本以外では、さほど高い評価を受けていないそうですが、何となく、分かるような気がします。 日本人は、こういう、タイム・トラベルで人生が変わって行くパターンの話が好きなんですな。 映画の≪バック・トゥ・ザ・フューチャー≫や≪時をかける少女≫は代表格ですが、テレビ・ドラマでも、過去のある時点に戻って、人生をやり直すなんてアイデアの話が、ほとんど同じ趣向なのに、飽きられもせず、繰り返し繰り返し、作られています。
私も日本人なので、そういうのを面白いと感じる気持ちは分かるのですが、SF設定を使っただけの話と、テーマを持つ、本物のSFの区別はつけた方がいいと思います。 ベストに選ぶような話ではありますまい。
以上、4冊、4作品です。 ≪未成年≫の記憶は、随分、遠くなってしまいましたが、SF三作は、退職後、沼津に帰ってから、暇に飽かせて読んだので、思い出すと、妙に、充実した気分になります。 やっぱり、心のゆとりは、大切なんですなあ。
う・・・、つまらない事を思い出してしまった。 ≪未成年≫から、SF三作までの一年ちょいの間に、小松・筒井作品以外にも、読んだ本がありました。 北海道応援に行っていた間、苫小牧の図書館で、カードを作ってもらい、何冊か借りて、読んでいたのです。 北海道応援は、仕事の方が、さほど苦しくなかったので、私生活にもゆとりがあり、読書も結構、捗ったのですよ。 古本屋で買った本も含めると、
≪馬の首風雲録≫ 筒井康隆
≪ネオ・ヌルの時代 PART2≫
≪従妹ベット≫ バルザック
≪サーニン≫ アルツィバーシェフ
≪ボバリー夫人≫ フローベール
≪シャベール大佐≫ バルザック
≪三銃士 下巻≫ 大デュマ
≪仮面の男 抄訳≫ 大デュマ
≪スキャナー・ダークリー≫ フィリップ・K・ディック
ヒイイッ! 思った以上に多いではないか! これらを無視すべきか否か・・・。 読んだ後の印象を覚えているので、感想文が書けないではないですが、こんなにあるんじゃ、ちっと、勘弁して欲しいっすねー。 とりあえず、今回は見送るとして、どうするかは、いずれ考えます。 やっぱ、感想文は、読んだ後、すぐに書かなければ、駄目なんですねえ。 といっても、応援先だと、パソコンがなくて、日記も手書きしていたくらいですから、感想文まで書く気にならなかったんですよ。
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